大奥

 大奥といえば女同士の華やかな陰で憎しみが渦巻く世界という印象があるが、実際にはそのとおりであった。正室・側室とか一夫多妻が当たり前で、政権が世襲で成り立っていた時代のですので、現在の価値観で評価はできないであろう。
 大奥は徳川家存続のために存在し、江戸城本丸の半分近くを占めていた。正室対側室、5代将軍・徳川綱吉を巡る女の戦いなどは壮絶だった。大奥の生活を綴った貴重な日記によると年収は2千万円で、一度着た着物は二度と着ない、庭では東海道の宿場を再現し、大奥の無駄遣いで幕府は潰れたともされており、さらには大奥を揺るがした大スキャンダルにも迫ってみる。
創成期の大奥 
 江戸城の大奥は初代将軍・家康の家族たちの生活の場として始まった。当初はその役割は明確に区切られてはおらず、男の役人たちの出入りも比較的自由だったという。それが2代将軍・秀忠のときに大奥法度が出され「大奥には男子を入れない」と決められ、男子禁制となった。大奥が大々的に整備されたのは3代将軍・家光の時代である。21歳で関白を務めた公家の娘・鷹司孝子を家光の正室に迎えたが、家光は孝子を冷遇し結婚直後から別居状態だった。その不仲の理由のが、家光の男色のせいであった。家光は女性よりも男性に興味があったのである。流行のファッションに身を包み、化粧を楽しんだり、度々城を抜け出してはお気に入りの小姓のもとに通っていたとも言われている。

 このままでは将軍の世継ぎができない、そう憂いたのが家光を幼少時代から世話してきた乳母の春日局で、大切な家光の血筋を絶やさないため、人を使い町中から美女を探し出しては家光に引き合わせるなど、あの手この手で女性に興味を持たせようとした。春日局の努力は実り、家光は33歳のとき初めての子を授かり、その後4代将軍となる家綱、5代将軍となる綱吉が生まれた。こうして春日局が家光の世継ぎをつくるために、側室を集め環境を整えたことが後の大奥の基礎となり、大奥は将軍の世継ぎを生み育てる場所として整備されていった。
大奥で働く女性
 大奥に勤める奥女中の仕事は主に将軍の家族の世話係だった。当時の日本のトップに仕えるわけだから女性としては最高の職場で採用条件も限られていた。御目見得以上の奥女中になれるのは、原則として将軍直属の家臣である旗本の娘だった。一方、御目見得以下の下働きの奥女中は旗本より格の低い御家人の娘が務めたが、商家や農家の娘でも旗本や御家人に一時的に仮親になってもらえば働くことができたため、何とかして勤めさせたいと願う親が多かった。というのも大奥奉公の経歴があれば良縁が期待できたのだ。
 大奥勤めの条件を満たすと次に採用試験へと進む。まずは目見(めみえ)という面接試験、三味線などの芸事の腕前や容姿など器量がチェックされた。次に宿見(やどみ)、受験者の家に人が派遣されて家や資産などを調査。そして親類書きと呼ばれる家族構成や肩書きなどを記した書類を提出、今でいう履歴書のようなもの。これらを全て通過すると引越となり、ようやく大奥に入ることが許された。
大奥で出世には
 大奥はピラミッド型の階級社会だった。最下位に位置するのが御末で、主に商家や農家出身の娘がなり掃除や水汲みといった力仕事を担当し出世とは無縁だった。御三之間は上級奥女中付の雑用係、旗本の娘が最初に配属される役職で大奥の出世レースはここから始まった。俗に大奥の出世は「ひき」「運」「女」と言われていた。「ひき」とはコネのことで、やはり親の役職が高い方が出世した。とはいっても上に空きのポストがなければ出世はできず「運」も必要であった。最終的には「女」いわゆる容姿や人格が決め手だったようだ。とりわけこの「女」が大事にされたのが御中臈。将軍や正室の身辺に数人ほどいた世話係で、将軍の側室は将軍付の御中臈から選ばれたため美人が揃っていた。そして将軍の寵愛を受け男子をもうけ、その子が将軍ともなれば将軍生母となるのだから、奥女中でも別格の出世となった。一方、役職として旗本の娘がつける最高のポストが御年寄。正室を支え大奥を統括する実質的な責任者で、キャリア組のトップとして老中に匹敵する権力を持った。将軍の生母になるか御年寄になるか、どちらのゴールも奥女中たちにとって憧れの立場だったのだ。
大奥 成熟期
 大奥が成熟期を迎えたのは5代将軍・綱吉の時代。この頃ある問題が表面化した。19歳になった綱吉は公家である鷹司家の娘・信子を正室に迎えた。将軍家は3代・家光以降、徳川家の権威を上げるため京の五摂家(近衛、九条、二条、一条、鷹司)もしくは宮家(親王家)から正室を迎えるのが慣習になっていた。綱吉と信子の夫婦仲は政略結婚だったため良好とはえず、二人の間に子どもはできなかった。その代わりに綱吉の寵愛を受けたのが側室・お伝の方だった。彼女は元々綱吉の生母・桂昌院付の女中だったが、利発なところを綱吉に気に入られ、父親が下級武士という低い身分だったにも関わらず側室に引き上げられた。そして綱吉の子・鶴姫と徳松を生み、次期将軍の母として御袋様と呼ばれるまでになっていった。そんなお伝の方の後ろ盾だった桂昌院もまた京の青果商の娘と低い身分でありながら3代将軍・家光の側室となった人物だった。桂昌院は将軍の生母として大奥で最も強い発言力を持ち、桂昌院派である側室・お伝の方の方が、正室・信子よりも勢力争いで優位に立っていた。青果商の娘と下級武士の娘という二人に、公家としての高いプライドを傷つけられた信子は反撃に転じた。
綱吉を巡る女の戦い
  5代将軍・綱吉を巡る正室・信子と側室・お伝の方の勢力争いは、綱吉の長男・徳松を生んだことで桂昌院派のお伝の方が優位に立っていた。信子は朝廷の知人に依頼し、お伝の方に対抗する側室として綱吉好みの女性を京から呼び寄せた。それが宮中でも評判の才色兼備の持ち主・常盤井だった。彼女は大奥に入り右衛門佐(えもんのすけ)と名を改めた。和歌など教養が高く、絶世の美女とも言われた右衛門佐は、すぐに綱吉からの寵愛を受けるようになった。そして正室ゆかりの公家出身者しかなれない上臈御年寄に任ぜられ大奥を取り仕切るようになると信子の思惑通り、お伝の方の勢力は弱まっていった。さらに1683年、お伝の方の子で次期将軍候補だった徳松が僅か5歳で亡くなったことで、大奥での勢力は信子率いる性質派が一層強くなった。公家出身の正室は将軍家の格を上げる役割、一方の側室は将軍の跡継ぎを生む存在とそれぞれの役割が分かれていたが、両者の対立はとりまく奥女中同士のものも含めてあった。
綱吉の御落胤の話の真贋
 大奥での勢力争いとは別に、綱吉が家臣の妻や娘にも手を出すという好色家であったため、正室の信子は悩まされていた。綱吉の逸話をまとめた「三王外記」などによると、綱吉が重用していた側近・柳沢吉保とその側室・染子の間にできた吉里は、実は綱吉が染子に手を出して生まれた御落胤で実子の跡継ぎを亡くしていた綱吉は、吉里を次期将軍にしようとしていた。しかしそれを知った正室の信子は、綱吉の実子かはっきりしない吉里に将軍を譲れば国が乱れると反対し、遂には部屋に綱吉を呼び出し、隠し持っていた懐刀で刺し殺し自身もその場で自害したと書かれている。この話は二人の死亡日が非常に近いこともあって出てきた話だが作り話である可能性が高い。
大奥の日記
 江戸の女性たちが憧れた大奥だが、そこで働くには一つの条件があった。それは「大奥のことは一切外部に洩らさない」ということであった。将軍の情報などが他藩に洩れることを防ぐため、奥女中になる際に誓約書を書かせた。そのため大奥に関する当時の資料は殆ど残っていない。そんな中、数少ない文献として見つかったのが将軍・綱吉の時代に公家・松尾相匡が書いた日記である。そこには大奥に勤めていた姉の暮らしが事細かに記されていた。相匡の姉・栄子は1654年、松尾家の長女として生まれた。成長すると備中松山藩主・水谷家に嫁ぐが跡継問題で家が断絶してしまい、41歳のとき実家に戻ってきた。そこに綱吉の正室の上臈御年寄だった右衛門佐から誘いがあり、大奥に入ることになった。相匡の日記には翌年、栄子が大奥に入ったときの手順が克明に書かれていた。
 奥女中たちが暮らしたのは長局向というエリアで、役職によって部屋の大きさが違った。そこでは彼女たちは本名ではなく役職に合った名前で呼ばれた。下級の奥女中には「夕顔」「桐壺」といった源氏物語にちなんだ名前を、中級クラスには「みよ」「しの」といった平仮名2文字、上級クラスには「滝山」「野村」といった代々伝わる漢字2文字が通例となっていた。栄子はまだ役職が決まっていなかったため仮の名だった。
五月二日、姉は右衛門佐に案内され御広敷で若年寄の秋元喬知と会う。そこで若年寄から上臈品に任ぜられ、初出仕の日が吉日である五月十一日に決められた。
御広敷で栄子に会った若年寄は、旗本や御家人を統括する幕府の重職。栄子を上臈御年寄の補佐役である上臈品に任命していることから、若年寄が大奥の人事に関与していたことが分かる。
五月四日、姉に「梅津」という名が与えられた。
五月十一日、姉の初出仕、綱吉公の正室からお言葉があり、御服一重を拝領した。
こうして公家の娘・栄子から上臈品となった梅津は右衛門佐の右腕となり、奥女中たちに京文化や礼儀作法などを教えることになった。梅津が大奥に入って11年目、長年の功績が評価され将軍・綱吉から報奨金が与えられた。その際、梅津の部屋までお金を持って来たのが老中となっていた秋元喬知だった。老中が奥女中の部屋まで来るのは異例のことで、その喜びを弟・相匡に伝えていた。
とても名誉なことと姉が喜んだと日記には記されている。そんな梅津に関して大奥での俸禄(給料)も分かってきた。基本給となるのが米で支払われる切米で、米1石が金1両に相当するため、梅津が貰った70石は今のお金で700万円以上になる。切米は5月と10月に支払われ、蔵前の米問屋で換金した。また「扶持」は下働きを雇うための米のことで、梅津には8人分の扶持が与えられていた。その他、暖房用の炭や炊事の煮炊きに使う薪、風呂を沸かすための湯之木、行灯用の油などが現物支給され、さらに五菜銀と呼ばれる味噌や塩などの購入費が銀で支払われ、これらに特別手当が加わると梅津などの大奥のトップクラスで2千万円近い年収があったという。さらに大名並みに上下2つの屋敷も拝領し、それを人に貸して家賃収入を得ることもできたため、梅津の収入は相当なものだったようだ。
・その後、梅津は綱吉の養女・松姫付の上臈となり、松姫が加賀・前田家に嫁いだ際に随行、加賀藩の江戸藩邸内で暮らしたがその待遇は別格で、梅津の部屋は建具や名前にちなんで梅模様で取り揃えられたという。梅津は大変な幸せな晩年を送り69歳で亡くなった。
正室の贅沢な生活とは
  大奥の1日は御台所と呼ばれた正室を中心に動いていた。その生活場所が正室専用の御殿向というエリア。正室の起床は明け六ツ半(午前7時頃)、その前に目覚めていても世話役の御中臈が「お目覚めになっておよろしゅうございます」と声を掛けるまで起き上がってはいけなかった。起きた後は寝室である御切形の間から身支度を整えるため御納戸へ移動し自らお歯黒を付けた。朝食は起床して1時間後の明け五ツ(午前8時頃)、御化粧の間で御中臈に髪を結ってもらいながら摂った。正室の場合、朝食でも10種類ほどのおかずが出たという。魚は奥女中にほぐしてもらい、正室が一口だけ食べると御中臈が「お代わり」と言い、また新しい魚が出された。食事が終わると御化粧タイム。特に気を遣ったのが口紅で、紙で作られた理想の型を唇に押し当て外周に沿って輪郭を塗っていき、その後型紙を外し塗りつぶした。昼四ツ(午前10時頃)になると将軍が大奥に挨拶に来る総触が行われるため、正室は大納戸で御召し替えをする。将軍と夜を共にすることが余り無かった正室にとって、このときが将軍と会える貴重な時間だった。
大奥に掛かった莫大な経費
正室が着た着物は特別な絹地で、刺繍には金糸が使われるなど豪華なものだった。1日5回御召し替えをし、1回着たものは二度と着なかったと言われている。そのため正室の衣装代だけでも年間約7千両(7億円)にのぼった。さらに大奥では3月3日の上巳の節句(雛祭り)など大々的に年中行事を行っていた。例えば3月下旬の楽しみだった五十三次では、大奥の庭に東海道の各宿場に見立てた模擬店をつくり、現地の名物を買えるようにしていたという。
こうした行事が毎月ありイベント代だけでも莫大で、奥女中たちの人件費なども合わせると大奥の年間経費は約20万両(200億円)にも及び、幕府の歳出の8分の1を占めた。当然、幕府財政は逼迫していった。そんな大奥の見直しに立ち上がったのが8代将軍・吉宗だった。ある日こんなお達しを出したという。奥女中のうちで器量の良い者50人を選んで連れてくるよう命じ、そして集まった者たちに暇を与えると解雇したという。
大奥 衰退期
吉宗が行った大奥の綱紀粛正も11代将軍・家斉のとき破たんした。将軍を50年務めた家斉は無類の好色家で、側室を40人も抱えていた。生まれた子どもの数も破格で男子25人、女子27人にもなったと言われている。それだけの側室と子どもを世話するため、奥女中の数は千人と大奥最大規模となった。当然経費もかさんだ。
大奥を揺るがした大スキャンダルとは・そして家斉が招いた享楽的な風潮は大奥内で広まり、前代未聞の事件が起こった。事件の舞台は谷中にあった将軍家の祈願所・延命院。奥女中たちにとって寺社は参詣という理由で堂々と外出ができる数少ない場所で、将軍の妻たちの安産祈願などを理由にしばしば訪れていたという。
・延命院住職・日潤は歌舞伎役者ばりの美貌の持ち主、説教も舞台のセリフさながらの語り口で女性たちを魅了していた。また徹夜で寺に篭もり、人には言えない悩みを僧侶が個別に聞いてくれるという「通夜」と呼ばれる特別行事も人気を呼んでいた。
・すると江戸の町でこんな噂が囁かれ始めた。延命院の日潤が大奥女中と密通していると。これが本当であれば幕府の一大事、寺社奉行が捜査に乗り出した。
・そして確かな証拠を掴んで延命院に踏み込み日潤を捕らえた。その取り調べによると、人目をごまかすためわざわざ壁の裏に隠し部屋を作り、大奥女中たち59人と関係を持ったことが判明した。
・これにより幕府は日潤を死罪にしたが、女中側は大奥を守るため数人を謹慎しただけの甘い処分だった。この延命院事件で大奥だけでなく幕府そのものの威信が失墜していったのだ。家斉の時代に大奥の規模が膨れ上がったことで幕府の財政を圧迫することになった。春日局らが徳川家を残すために整備した大奥が皮肉にも徳川家を衰退させ、江戸幕府が滅びる要因の一つになってしまった。そして1868年4月11日、江戸城が新政府軍に明け渡されたことで、大奥の歴史はその幕を閉じた。その際、大奥の最後を取り仕切っていたのは、13代将軍・家定の正室だった天璋院篤姫だった。一説では明け渡される際、大奥では綺麗に掃除されていたという。篤姫がみせた大奥・最後の女の意地だったのかもしれない。

絵島生島事件大奥スキャンダル
 江戸時代の政の中心だった江戸城本丸。その閉ざされた扉の奥には、将軍の夜の生活の場として独自の文化を築き、時に3000人の女性たちが暮らした大奥があった。華やかな女性たちであったが、その心の中は欲望や嫉妬が渦巻いていた。そんな大奥で起きた様々な事件。中でも史上最大のスキャンダルとされたのが絵島生島事件。大奥を取り仕切る御年寄・絵島が前代未聞の門限破り。さらには人気歌舞伎役者・生島新五郎との度重なる密通。絵島が男子禁制の大奥に生島を忍び込ませていたというのは本当だったのか、その真相を徹底調査。事件の発端は、大奥の女中たちの暮らしにあった。籠の鳥だった彼女たちの楽しみ、知られざるプライベートとは。処罰された人数は1500人。大事件となった裏には女たちの意地とプライドを懸けた内部抗争があった。それを陰で操っていた真の黒幕とは。深い闇に落ちていった絵島、その悲しい末路にも迫る。

絵島の生い立ち
絵島は1681年に甲府藩士の娘として生まれた。そのままいけば歴史に名を残すこともなかった絵島の人生であったが、甲府藩主だった徳川綱豊の叔父である5代将軍・綱吉の後を継ぎ、6代将軍・家宣になったことで大きく変わった。家宣に従い奥女中として大奥に入ることになった。奥女中は将軍とその妻である正室、そして将軍の子どもといった将軍家族の世話をするのが役目。大奥は食事担当、衣装担当など細かく役職が分けられたピラミッド型の厳しい序列社会だった。絵島は6代将軍・家宣亡き後、その側室で7代将軍・家継の生母である月光院に仕えて出世し、奥女中のトップである御年寄として大奥を取り仕切ることになった。
絵島事件とは
 1714年1月12日に事件は起きた。朝早く絵島は将軍の菩提寺である芝の増上寺に代参に行くことになった。代参とは正室や将軍生母の代わりに神社仏閣などに参拝することで重要な参拝の場合には10万石の大名と同じ規模の100人以上の行列になった。このとき絵島も月光院の代わりとして奥女中や自分の兄弟、江戸城内の男性役人である添番など130人ものお付きを引き連れていた。
 増上寺で亡き6代将軍・家宣の菩提を弔った絵島たち一行だったが、そのまま帰らず木挽町にあった芝居小屋・山村座に向かった。絵島は事前に芝居小屋の2階にある上等な桟敷席を貸し切り、当初から歌舞伎の初春興行を楽しむ予定でいた。本来、代参の後でこうした寄り道をするのは禁止されていたが、実際は黙認されていたという。
 その理由は大奥の厳しい生活にあった。大奥女中たちは容易には外出できなかった。一般の女中は奉公3年目で一時的に親元に帰る「宿下がり」が認められたが、御年寄などは一生奉公で実家に帰れず窮屈な生活を送っていた
そんな奥女中たちの楽しみといえば琴や生け花といった芸事だった。
 ときには大奥内で歌舞伎が上演されることもあったが、役者は遊興担当の奥女中たちが演じるという自分たちだけの狭い世界だった。自由な外出も許されないまさに籠の鳥。そんな暮らしの中で外に出られる数少ない機会だった代参は何よりの息抜き。そのためついでに買い物をしたり親類縁者に会ったり、芝居見物をするなどは大目に見られていた。絵島たちも芝居に興じ桟敷席で山村座から接待を受け大いに羽を伸ばしていた。何より奥女中たちを喜ばせたのが、人気役者・生島新五郎が加わったことだった。生島は二枚目の歌舞伎役者で、その美貌のみならず演技力も抜群。当代きっての大スターとして男女を問わず人気を博していた。そんな生島の接待に絵島をはじめとする女中たちの胸は躍り、酒が進むにつれ宴は芝居小屋中の注目を浴びるほど賑やかになっていった。大奥御年寄を取り込んで自分たちを取り立ててもらおうという接待もあったのではないか
 江戸城本丸、その広さは1万3千坪。政治を行う場所である表に、将軍が執務や生活をする中奥、そして女性たちが暮らす大奥から成っていた。大奥内は正室など将軍の家族が暮らす御殿向と、奥女中たちの居住エリアである長局向、そして大奥の実務などを行う男の役人が詰める御広敷向という構造になっていた。その大奥への出入口は基本的に3か所だけで警備は厳重だった。中奥と大奥を繋ぐ上御錠口は、将軍が大奥へ行くときにだけ使われる出入口。御広敷向と御殿向を繋ぐ御錠口は外側には添番と伊賀者が、内側は奥女中が番をする二重扉になっていて、午後6時に閉門する決まりだった。3つ目の御広敷向と長局向を繋ぐ七つ口が奥女中たちの出入口。すっかり帰りが遅くなってしまった絵島一行は、江戸城へと急いだ。
「女中たちを伴い木挽町の劇場に参り薄暮に及んで帰った」
薄暮れ時は日が暮れる少し前の午後5時頃、江戸城内に戻ってきた絵島たちは大急ぎで大奥の入口である七つ口へと向かったが扉はすでに閉じられていた。七つ口と言われる所以は閉門の時刻にあった。門が閉じられるのは夕七つ(午後4時頃)。つまり絵島たちは1時間も遅刻、門限破りを犯していた。ただし幕末に書かれた江戸城内の噂話をまとめた「三王外記」によると、絵島が仕えていた将軍生母・月光院の計らいで当初は問題にはされなかったという。しかし安堵したのも束の間、事件は蒸し返された。数日後、芝居見物の奥女中の大騒ぎが江戸中の噂となり、さらに絵島に連れられ山村座に同行した添番の男が幕閣のトップである老中・秋元喬知にそのときの遊興の様子を言いつけた。大奥の風紀の乱れを知った秋元は大奥への怒りをあらわにし、すぐさま目付や町奉行などに絵島の周辺の聞き込みと取り調べを行わせた。「絵島が門限を破ったのは初めてではなかった」「外出の際には芝居小屋に行き役者と慣れ親しみ、吉原遊郭にも繰り出し遊女を呼び酒宴を開くことがよくあった」「休みをもらった時には縁もゆかりもない家に泊まり、相手の身分にも構わず誰でも人を近づけた」さらに厳しい取り調べを受けていた生島が絵島との密通を自白しまった。
絵島は本当に大奥に生島を忍び込ませていたのか
絵島は大奥内でこんな噂まで囁かれてしまった。「生島を大奥内に忍び入れて頻繁に会っていた。2代将軍・秀忠の代に制定したは大奥法度によって奥女中たちの暮らしは統制されていた。大奥は原則として将軍以外は男子禁制。御広敷向には事務や警備を担当する約300人の男性役人が常時詰めていたが、もちろん彼らも奥女中のいる場所の行き来は出来なかった。・しかし将軍以外の男性が絶対に入れなかったわけではなかった。奥女中の身内で8歳以下の男の子は申し出れば入ることが許され、また老中も監視のため月に一度は大奥に入った。さらに老中に任命された留守居は3日に一度警備のため、長局などを見回り、力仕事や掃除を行う御下男も頻繁に出入りしていた。・山王外記によると絵島は生島を長持(衣装や調度品などを保管する箱)に入れて大奥に忍び込ませたというが、長持などの物の出し入れの規定「御奥方御條目」で10貫目(約38kg)以上は蓋を開けて改めるとあり、成人男性である生島が入っていれば点検されるはずだった。この事件について江戸城内で諜報活動を行う御庭番を務めていた川村帰元も実際にはありえないと証言している。長持の話は噂に尾ひれがついたものでは、実際にはなかった話。明治時代以降に歌舞伎の題材になり脚色されたものだった。
また絵島と生島が密通していたという話も生島が拷問されて自白しただけで、実際にはなかったものだと思われる
午後4時という大奥の門限に1時間も遅れてしまった絵島一行だったが、この程度の遅れが咎められることは普段ならなかったと思われる。しかし絵島は幕府の重要事項を扱う評定所の審理にかけられた。そして僅か1か月後、死罪というスピード判決が下った。その後、遠島(島流し)に減刑されたがそれでも重かった。遠島は誤って人を殺した者や人に命令されて殺人を犯した者、台八車で人を轢いて殺した者などが科せられるような刑罰だった。
大奥による陰謀説とは
6代将軍・家宣には公家の最高の家柄の一つである近衛家から迎えた正室・近衛熙子(のちの天英院)がいた。二人の仲は睦まじく、家宣が甲府藩主だったときに一男一女をもうけたが、ともに幼くして亡くし跡継ぎには恵まれなかった。44歳になった熙子は家宣が将軍に就任したことで大奥に入ることになり、将軍の正室として大奥トップに君臨した。しかし家宣が将軍になってから共に過ごす時間は減ってしまった。華やかな大奥の暮らしは、ただ孤独なだけの寂しいものとなった。そんな中、宝永6年(1709年)7月3日、側室の一人であるお喜世の方(月光院)が家宣との間に世継ぎとなる鍋松を生んだ。・そしてその2年後、家宣が亡くなった。落飾した熙子は天英院、側室・お喜世の方は月光院と号した。家宣の後を継いだのは月光院の生んだ鍋松だった。僅か4歳で息子が7代将軍・家継になると月光院は将軍生母として力を持った。大奥内は天英院派と月光院派に分かれ、奥女中たちが激しく対立するようになっていった。優位に立ったのは現将軍の生母である月光院派だった。それに伴い月光院派のトップである絵島も大きな力を持つようになった。この頃、絵島は月光院から御年寄のさらに上の特別職である大年寄になることを勧められたという。一方、天英院派の女中たちの嫉妬心は激しくなった。その強い妬みによって足をすくわれ、絵島と生島の密通というあらぬ噂を生んだというのだ。
表による陰謀説とは
絵島生島事件の真の黒幕と目されたのは、譜代大名であり6代将軍・家宣を補佐し幕府内で実権を握っていた老中・秋元喬知。しかし家宣が亡くなり、4歳の家継が将軍になると側用人の間部詮房に実権を奪われた。秋元がいきり立つ中、間部は男子禁制の大奥へ足しげく通っていた。実は家継が幼かったことから将軍の居住場所である中奥へは移らず、これまで通り月光院のもとで過ごしていた。そのため異例ながら間部は大奥への出入りを許されていた。そして江戸城内で月光院と間部の間にも密通の噂が立つほど蜜月の関係を築いていた。何とか実権を取り戻したいと秋元が目を付けたのが、大奥内での対立だった。月光院と対立する天英院側に付き、絵島を陥れることで間部の後ろ盾である月光院、ひいては間部自身の力を削ごうと暗躍。そして1年余りが経ったとき、江島が代参に行くという絶好の機会が訪れた。
絵島の悲しい末路とは
江戸城内の絡み合った表と大奥の派閥争いにより、大事件に仕立て上げられた絵島生島事件では多くの者たちが罰せられた。絵島に近い奥女中67人が大奥を追われ、絵島の兄は斬首、弟は追放という重い刑に処せられた。絵島の行動を制すべき立場にあるにも関わらず、ともに遊興に及んだという理由からだった。その他にも接待をした山村座の座元など処罰を受けた者たちは1500人に及んだ。絵島との密通を噂された生島新五郎は三宅島に流され(遠島)、山村座は取り潰しになった。
 事件の当事者である絵島は、月光院の嘆願により遠島から信州・高遠藩へのお預けと刑は軽くなったが、絵島を失ったことで月光院の求心力はすっかり衰えた。さらに虚弱だった将軍・家継が8歳で亡くなると生母の権威は薄れ、大奥は天英院派のものとなった。彼女の発言力は絶大で、次期将軍を選ぶ際にも「家宣様のご遺言である」との一言で紀州藩主である徳川吉宗が8代将軍に決まった。
 新将軍の登場によって間部詮房は失脚、全ては秋元の思い通りとなった。この絵島生島事件を受け吉宗は大奥法度を改定。風紀の乱れを正し、事件が再び起きないよう厳しく取り締まっていった。普段なら黙認されただろう小さな事件。しかしそこには権力という名の欲望が蠢き、1500人もの人たちが処罰されるという大事件になってしまった。ただ一人、絵島を陥れるために残りの人たちは巻き添えを食ったともいえるだろう。信州・高遠藩にお預けになった絵島が暮らした屋敷が復元されている(絵島囲い屋敷)。屋敷は忍び返しの付いた塀に囲まれ、嵌め殺しの格子戸が取り付けられていて、まるで牢獄のようだった。外出は一切禁止。食事は朝夕一汁一菜。着物も木綿という質素なものに限られた。大奥とは天と地の生活を27年、絵島は寛保元年(1741年)4月10日、波乱の生涯を終えた(享年61)。その間、江戸のことは一切語らなかったという。
晩年の絵島は、徳川吉宗によって一定の恩赦がなされる。高遠藩から江戸に戻ることは叶わなかったが、藩内では一定の自由が許され、城に勤める女中たちの指導にあたった。それでも華やかな大奥から地方に送られた27年間、彼女の心中はどうだったのか。こればかりは想像する以外にはないが、出世や誰かを蹴落とすような世界から離れ、心穏やかに暮らせたのではないかと思う。