武士の誕生

 日本を最初に統一したのは天皇を中心としたヤマト朝廷であるが、やがて天皇を中心とした貴族社会になり貴族が権力を行使した。しかしこの貴族中心の朝廷は日本を統治する力は弱く、国司(下級貴族)を地方に派遣して地方統治を国司に任せた。中央政権の強い中国や朝鮮などの諸外国とは違い、日本の中央政権は弱く、地方を国司に任せ、その国司が身を守るために兵士を雇ったのである。

 やがて武士たちは朝廷から独立し、それでも自らの意思で朝廷に従う立場を選択した。「従う」を古語では「侍ふ(さぶらふ)」と言い、当時は朝廷に従う貴族の配下の者達を「侍(さぶらひ)」と呼んだが実質的には朝廷とは繋がりがなかった。逆に自らの家門を「侍」と呼称することで箔をつけ、朝廷のお墨付きで地域の治安維持を任じられた立場であるということを誇りとするようになった。

 やがて中央政権も武家政権に乗っ取られ、最初に武家政権を手にしたのは平氏であるが、その政治手法はそれまでの藤原氏の手法を踏襲したにすぎず、わずかな期間を置いて源頼朝を中心とする本格的な武家政治が始まった。

 なぜ平氏は滅びたのかを考える場合、なぜ武士が生まれたのかをさかのぼって知る必要がある。日本以外に外国には武士は存在しない。武士は日本特有の者で、外国では国を守るのは文官や武官であり、戦うのは武士ではなく、兵士である。日本の武士の誕生の歴史を振り返ってみたい。

 

武士の誕生前

 縄文時代には集団による戦いはなかった。それは奪い合う富がなかったからである。弥生時代になると富の蓄積により、富を奪い合う部族同士の争いが始まった。そのような争いの中で、一時的に中止符を打ったのが邪馬台国の卑弥呼であった。

 日本は日本海にかこまれ、それが防波堤になって敵国が侵入することはなかった。古墳時代から平安時代までの朝鮮半島は中国(隋や唐)からの侵略に備えなければならず、日本が朝鮮半島内で争うこともあったが、中国や朝鮮が日本を侵略できる状況にはなかった。

 むしろ中国の侵略に悩んだ朝鮮半島の国々(百済、新羅、高句麗)が勝手に日本と友好関係を結ぼうと歩み寄ってきた。日本は日本海があるため国防は桁外れに優れていた。古墳時代になると弥生時代から続いてきた部属同士の小競り合いも終わりに近づいた。それは強大な権力を持つヤマト朝廷が日本を統治したからである。

 しかし日本の内乱に終止符が打たれると、日本は次第に朝鮮半島に目を向けたヤマト政権は朝鮮半島の鉄資源と技術を得るため、まだ統一国家のなかった朝鮮半島の任那(みまな)に勢力を伸ばし、飛び地として半ば支配下に置いた。 

 

飛鳥時代

 日本が本格的に朝鮮半島に乗り出したのは、友好国である百済からの援軍要請があったからである。こうして百済・ヤマト連合軍対新羅・唐連合軍との戦争が始まるが、日本は白村江の戦いで大敗北を喫してしまう。

 国内の内乱が終わったばかりの日本軍は一枚岩で団結することはできず、地域ごと集落ごとに集まった兵士が自分勝手な戦いを取ったからで、これが新羅・唐連合軍に大敗を喫した要因の一つであった。日本では国内統治が進んだが、日本軍はまだ未熟な状態だった。日本軍の歴史を変えたのはこの白村江の戦いで、朝鮮半島では唐、高句麗、百済、新羅の4国で激しい争いが行われ、日本は朝鮮半島に強い影響力を持ちたかったが大敗北をきしてしまう。
 日本は唐からの報復におびえ、唐を恐れる日本は次第に専守防衛へと姿勢を変えてゆく。そこで登場したのが防人(さきもり)だった。朝鮮や中国から敵が攻めてきた場合、敵は船で日本海を渡ってくるので、一番船がつけやすい博多湾を中心に防御を固めていった。


奈良時代
 
日本は飛鳥時代から唐を仮想敵国として鉄壁の防衛軍を作り上げていた。この鉄壁の守備を作り上げたのが大宝律令に基づく公地公民制度であった。公地公民制により国は人民を統治することができ、軍事に割く人数も朝廷が決めることができた。

 当時の日本の人口は7百万人で、それ対して兵力は20万人であった。日本が唐に対して相当の恐怖心、警戒感を持っていたことがわかる。しかし唐が白村江の戦いの勢いに乗って日本に攻め込んでくることはなかった。このため日本軍の強さを図ることはできないが、この当時の日本はかなり強大な軍事力を持っていた。唐からの攻撃に備え日本は圧倒的な兵力を誇っていた。

 奈良時代になって唐は弱体化していったために仮想敵国として脅威ではなくなり、日本は次第に「唐はもう攻めてこない」と考え始め、膨大な維持費をかけて兵力を維持することを少しずつ止めてゆき、日本は外国から侵略されない平和な時代になったと思い込んだ。対外的な脅威がなくなった朝廷は、国内の領土拡大を図り、坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北遠征をおこなった。

 

蝦夷の戦法

 坂上田村麻呂らは蝦夷の人達と30年という長きにわたる争いを行った。蝦夷の戦法は弓矢による騎射で相手を弱め、弱ったところを騎馬により刀で斬撃するというものであった。馬を乗りこなし、弓と刀を巧みに使いながら攻めてくる蝦夷は朝廷軍にとって強敵だった。この巧みな戦法に加え、地の利を生かしたゲリラ戦を繰り広げた。

 本来蝦夷は統率力に欠いていたが、優れた統率力を持つアテルイを中心に団結した。田村麻呂は蝦夷懐柔策で智謀によりアテルイを追い詰めた。
 蝦夷が騎馬戦で用いたのが、蕨手刀(わらびてとう)という刀で、この蕨手刀が日本刀の起源とされている。蕨手刀は騎馬戦に特化した刀で、騎馬による斬撃の衝撃に耐えるため、柄(つか)と刀身は接着するのではなく一体化させ、柄の形は長方形ではなく手への衝撃が軽減されるように工夫されていた。この蕨手刀が日本の当時の有力者たちに伝わり、日本刀へと少しずつ進化していった。
 俘囚とは敗れた東北の蝦夷の人たちを本土に帰化させるため強制移住させられた人々のことである。この強制移住により、東北の蝦夷たちが日本にとって身近な存在となった。強制移住させられた俘囚は意外にも移住先で強制労働はさせられず、移住後も税が免除されるなど比較的自由な生活ができた。蝦夷の人々は昔から狩りで生計を立てていたが、強制移住後も変わらずに馬で山野を駆け巡り狩りをしていた。そのため移住により騎馬の仕方を忘れることはなかった。

 

平安時代の武士の誕生

 武士が登場する前には日本には戦う軍隊(兵士)がいた。兵士はあくまで朝廷(天皇)に忠誠をつくす公務員であった。律令制の国家では人や土地はすべて皇帝(天皇)の所有物であり、国軍はあっても武士(私兵)は存在しなかった。

 桓武天皇が遷都や蝦夷の征討で国家財源を使いはたし、滅多に起こらない戦争に備えて軍隊を持つことを不経済として軍隊を廃止した。しかし軍事力はある意味で警察力でもあった。
 軍隊を排したため、桓武天皇が平安を願って平安京(京都)と名付けたが、住民にとってその実態は「平安」とは名ばかりで治安は乱れに荒れた。庶民にとっては悲惨な状況になった。

 軍隊を廃止した替わりに、京都では検非違使が置かれ、朝廷周辺ではある程度の治安は保たれたが、それでも流血は避けられなかった。犯罪なら当時の警察力(検非違使)でもなんとか解決できたが、盗賊集団にはまったく無力であった。また嵯峨天皇が死刑を廃止したため治安はさらに悪化した。

 検非違使がいる京都でさえ治安は荒れていたが、警察力のない地方では治安の悪化はそれ以上だった。地方の行政官として派遣された国司(下級貴族)の関心ごとは、私腹を肥やすことばかりで、地方には警察力は存在しなかった。警察のいない世の中では、力の強い者が弱者を制することになる。強盗や殺人事件が頻発し、弱者は強者によって地獄のような日々を送ることになる。

 国司はもともと刀や弓矢を持つことを許されていなかった。しかし世の中が物騒になり、強盗に殺される者がいるので国司も武器を持たずにはいられず、また農民から租税を取るためにも強い手下がいたほうが便利だった。そこで国司たちは刀を持ち、兵士を従えることを許して欲しいと朝廷に願いでて許可されたのである。
 そのため国司が任務先の土地へ行くときには、郎等を連れて行くようになり、また各地の国司をつとめる貴族の中にも武装する者が出てきた。つまり兵士は兵として雇われている時のみ「兵士」であるが、軍事や武芸を専門とするが「武士」となり、武士の集団の中でも特に力の強いものは、弱い農民たちから頼りにされ、頭と仰がれるようになり、これが武士の棟梁の始まりである。

 また地主の中でも、たくさんの田畑を持ち、大勢の農民を使い、豪族と呼ばれる勢いの強い者があらわれた。豪族は下に幾人もの名主を従えていた。しかし、このように治安の乱れた世の中では、自分の身は自分で守らなければならない。豪族は泥棒の用心を常にしなければならず、また隣の豪族がいつ攻め込んできてもおかしくはなかった。

 自分の生命や財産を守るためには、自分自身が立ち上がって戦わなければならない。平安時代の中頃から律令制に基づく土地制度が崩壊するなかで、貴族の子孫や地方の豪族たちは、その勢力を維持するため、あるいは拡大するために武装するようになった。

 有力農民たちも外からの侵略に対抗するために武装し、自衛のために武装集団を作った。彼らは兵(つわもの)と呼ばれ、一族や郎党を率いて互いに争い、ときには国司を襲撃し、国家に対して公然と反逆するようになった。国司に雇われる者もいれば、上京して皇室や貴族に雇われる者もいた。これが武士団の起こりである。

 つまり平安時代に公地公民制の崩壊が進み、私有地が増加し、それに伴って土地の奪い合いが増え、これに対応するために人々は武力行使を始めた。このようにして日本国内では大小さまざまな争い事が勃発してゆくが、これは貴族による中央集権が弱かったからである。この時に活躍したのが武士である。

 たとえば中央集権の天皇の身辺を守るための護衛係として「滝口の武者」がいた。「滝口の武者」の由来は、天皇の御所の滝の近くに詰所があったからで、滝口の武者は天皇の警護だけでなく、邪気払いの呪術的儀式、さらには教養や見た目が重視された。
 このようにして武士が誕生したが、任期制の国司も問題を引き起こした。任期制の国司は一定の年数が過ぎると都へ戻らなければならない。しかしそれでは任期中に土地を開墾して巨利を得ても、任期が終われば開墾した土地を手放すことになる。そのため任期が終わっても、地方に居残って土着する者が現れ、やがて土着した中下流貴族たちが自ら武装し、あるいは武士を雇って勢力を高めた。このように中央政権に逆らえたのは、それだけ中央政権が弱かったからである。

 武士の棟梁には藤原秀郷のような藤原氏から出た者もいれば、橘遠安のように橘氏から出た者もいた。武士の中でも特に有名なのが、桓武平氏清和源氏の血統につながる者だった。しかし死と隣り合わせの武士は「ケガレ者」として貴族からは犬のような扱いを受けていた。

 

平氏源氏の誤解

 源氏、平氏はこれはもともと天皇家の血筋だったが、相続争いを防ぐため姓をもらって臣下に下った(臣籍降下)。その為、源氏や平氏の人々は、先祖を辿ると全て天皇家にたどりつく。

 源氏、平氏とも桓武平氏や清和源氏だけでなく、何十もの系列があり、先祖の天皇にちなんで○○源氏といった言い方で区別しているのである。たとえば清和源氏は清和天皇の子孫の源氏で、桓武平氏は桓武天皇の子孫の平氏である。
 源氏というと源頼朝が思い浮かぶだろうが、頼朝はいくつもある源氏のうちの清和源氏に属する。この清和源氏が武士として大いに栄えたので、源氏といえば清和源氏のことと思い込んでいる人が多いが、源氏は清和源氏も含め全部で21あり、平氏は全部で4つある。ただしこれらのほとんどが朝廷で圧倒的な地位を占めていた藤原氏に権力闘争で負け、多くは消えてゆくのである。
 現在まで残っている源氏・平氏は次のようになる。
 清和源氏:ご存知のとおり武士となって大いに栄えた
 村上源氏:村上天皇の子孫の源氏で、貴族として残った源氏の中では最大勢力である。代表的な人物は南北朝時代に活躍した北畠親房・顕家親子、明治維新で活躍した岩倉具視などがいる。
 宇多源氏:宇多天皇の子孫の源氏で貴族として残ったが、一部武士となり近江源氏の佐々木氏などがいる。
 花山源氏:花山天皇の子孫の源氏で1家だけが貴族として残った。代々神祇伯を世襲し神祇伯になった人物は、名前に「王」をつけることを許された。
 正親町源氏:正親町天皇の子孫の源氏で近世初期に成立した貴族である。
 桓武平氏高望流:桓武平氏のひ孫平高望の系統で、平氏と言えばこの系統である。これも武士として大いに栄え、平清盛が有名である。
 桓武平氏高棟流:桓武天皇の孫の平高望のおじの系統で貴族として残った。代表人物は平清盛の正妻の平時子、その兄弟で「平氏にあらざれば人にあらず」と言った平時忠などである。

 源氏も平氏も皇族の子孫で、天皇の子は親王、親王の子は王と言い、それ以後五代目か六代目になると、源氏や平氏などの姓を与えられて皇族を出る決まりがあった。これが平安時代になると一代目で姓をもらって皇族から離れるものが多くなり、源氏も平氏もその1つである。

 武士団は大豪族や任期を終えた国司と結びつき、強大な武士団を形成することになる。数多くの武士の棟梁がでてくるが、勢いが強くなったのは源氏と平氏だった。
 東国の武士団は弓矢だけでなく、広大な領地を駆け巡ることから騎馬術を身につけた。いっぽう西国の武士団は、船による戦闘術を身につけた。東国の広大な平地に比べ、西国では川や瀬尾内海を通じてすぐ海に出られる場所から、船を駆使しての戦闘を得意としていた。

 

平将門と藤原秀郷

 桓武平氏の一族は東国に土着し、平将門は下総国を根拠地とした。平将門は同族との争いを繰り返し、さらには国府を攻め落として反乱を起こした。同じ頃、伊予国(愛媛県)の国司・藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし国府や大宰府を攻め落とした。この戦いは「藤原純友の乱」と呼ばれ、同時期に起きたこの二つの反乱は、朝廷の軍事力低下をが明らかにした。
 武士の実力を知った朝廷は、武士を侍(さむらい)として奉仕させ、宮廷の警備にあたらせた。つまり武士たちをガードマンとして雇うようになった。「さむらい」という言葉は「さぶらふ」が語源で、身分の高い人のそばに仕えることを意味していた。また地方の国司も盗賊などを追捕するための追捕使や、内乱が起きた際に兵士を統率する押領使として武士を利用するようになった。平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は押領使として、藤原純友の乱を鎮圧した小野好古は追捕使として戦っている。
 朝廷や国司は治安の維持のために武士を利用するようになる。武士の役目は朝廷の求めに応じて反乱を鎮圧することで、まだ朝廷を脅かすまでには至っていない。承平・天慶の乱から約100年後、藤原道長や藤原頼通らが朝廷貴族の栄華の頂点を極めたことから、当時はまだ貴族の時代であった。武士の更なる成長は、藤原氏の栄華の時代の後にやってくる。

 例えば平将門は若い頃に藤原忠平に仕え、その縁で滝口の武士として雇われている。朝廷に仕える武士であった将門が、やがては朝廷に対して反乱を起こしたわけで、何とも皮肉な話である。「滝口の武士」と紛らわしい言葉に、11世紀の北面の武士13世紀の西面の武士があるが、その役割はほぼ同じである。


権力闘争

 宮廷では公家が和歌を詠んだり、夜這するだけでなく、薄暗い権力闘争が常に行なわれていた。天皇は飾り物で、貴族たちに都合良く祭り上げられ、天皇は政治の実権を持たなかった。いわゆる象徴天皇である。

 政権を独占したのは藤原一門で、彼らは娘を天皇家に輿入れすることで「外戚」として政治を独占した。そのような藤原一門に挑戦した者は、菅原道真(大宰府に左遷)や伴善男(応天門の変)が示すように罠に嵌められ失脚した。

 それでも天皇の中には覇気を持つ者がいて「院政」という新たな政治手法を思いついた。すなわち、天皇を早めに退位させ上皇・法皇になり、藤原氏の手のとどかない隠居所で政治を行なうことになった。また藤原一門といえども、女子に恵まれずに天皇家との縁戚関係を維持できない時期もあり、このようにして少しずつ藤原一門の勢力は衰えていった。しかしこの権力闘争はいわば宮廷という「象牙の塔」の話であって、日本全体にとってはさしたる問題ではなかった。

武士団の結成

 関東地方で納税や境遇に不満を持つ者による大規模な反乱が起きた。この大規模反乱の鎮圧に動員されたのが、俘囚の戦法を学んだ初代の武士たちである。反乱の鎮圧は成功すると、初代武士たちの活躍は目覚ましく、朝廷から勲功を貰う者もた。有名なのは平高望、藤原秀郷で、平家の祖と奥州藤原氏の祖となる。この活躍により、武士は社会的に強い影響力を持つようになり、受領も反乱を鎮圧してもらった恩があり、武力を持っている人物に強気な姿勢で接することはできなかった。

 平将門の乱から約90年後の1028年、将門の遠縁にあたる平忠常が強大な武力で上総国で反乱を起こした。乱は3年続いたが清和源氏の血を引く源頼信によって倒された。この戦いを平忠常の乱という。平忠常は平将門の乱よりも大規模で長期化したが、平将門の乱ほど有名ではない。それは平将門のカリスマ性にもよるが、平将門が新皇を宣言したことが大きい。

 

清和源氏

 清和源氏は藤原純友の乱を鎮圧した源経基を始祖とし、嫡男の源満仲は摂津国多田(兵庫県川西市)に土着していたが、969年に起きた安和の変(あんなのへん)で謀反を密告し、源高明を失脚させた功績によって摂関家に接近した。

 源満仲の子の源頼光は各地の国司を歴任し、その際に蓄えた財産を利用して藤原道長の側近として仕え、武家の棟梁としての地位を高めた。源頼光の弟が平忠常の乱を鎮圧した源頼信である。忠常の反乱によって平氏の勢力が衰えたが、源氏は源頼信の活躍によって東国で勢力を広げることになった。

 平安時代の後半から武士が少しずつ実力を蓄え、東国をはじめとして各地で勢力を広げていくが、これらは突然に起きたのではなく、様々な出来事が重なりあって自然と拡大していった。

 

前九年の役・後三年の役

 前九年の役・後三年の役は東北地方で起きた戦いであるが、前九年の役・後三年の役が重要なのは、戦いを通じて源氏と関東武士との主従関係が築かれ鎌倉に幕府が築かれる基礎となったこと。次に世界遺産となった平泉(岩手)で有名な奥州藤原氏の登場のきっかけとなったことである

 平安時代初期に坂上田村麻呂によって蝦夷が征服されて以来、東北地方は陸奥と呼ばれ、朝廷の支配下に置かれたが、この頃の東北地方は金や銀などの貴金属や、毛皮などの珍しい物産がとれ繁栄を極めていた。このような豊富な経済力に支えられ、東北地方では太平洋側を安倍氏、日本海側を清原氏が支配していた。

前九年の役

 1051年、安倍氏の棟梁・安倍頼時が反乱を起こした。朝廷では源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任じ、頼義の子である源義家とともに鎮圧を命じたが、朝廷側は苦戦した。

 源頼義は同じ陸奥の豪族・清原氏に協力を求め、清原氏がこれに応じると戦局は一変し、1062年に安倍氏と藤原経清が滅ぼされた。この安倍氏による一連の反乱を前九年の役と呼んでいる。

 安倍氏の領地は清原氏に与えられ、清原氏が事実上の東北地方(陸奥)の覇者となった。朝廷に味方した清原氏は、陸奥一体の支配権を与えられ、棟梁の清原武則が鎮守府将軍に任ぜられた。前九年の役は清原氏にとって最大の利益をもたらし、また滅ぼされた藤原経清の未亡人が、清原武則の子の清原武貞の妻として迎えられた。

 清原武貞には既に嫡子・清原真衡がいたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡を養子とし、また未亡人との間に清原家衡が生まれた。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらした。

後三年の役

 兄弟同士の不仲が清原氏の内紛を引き起こし、ついには兄弟同士で戦乱になった。1083年から1087年まで続いたこの戦いを、後三年の役という。この内紛に乗じて陸奥の支配を目指した源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して後三年の役に積極的にかかわった。

 戦いは1087年に藤原経清の遺児である清原清衡が勝利するが、清原氏の私闘に参加した源義家には朝廷から恩賞は与えられず、陸奥守の官職も1088年に辞めさせられた。

 途方に暮れた義家は、自腹を切って部下に恩賞を与えたが、皮肉にもこのことで義家は東国の武士たちの心をとらえ、源氏を棟梁と仰ぐ信頼関係が生まれた。前九年の役は11年、後三年の役は4年続いているのになぜ「九年」「三年」と名づけられているかについては様々な説が挙げられている。

 後三年の役の勝者となった清原清衡は源義家が東北を去った後に藤原氏に復姓し、豊富な資金力で、朝廷から陸奥の支配権を認めてもらった。

 藤原清衡は奥州の平泉を本拠地として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(もとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ひでひら)の三代、約100年にわたって奥州藤原氏が全盛を極める礎を築いた。

 

武士の時代

  最初は皇族や貴族の護衛をする役目でだったが、だんだん力をつけて貴族を押しのけて日本の支配階級になった。武士の棟梁が源氏や平氏で、平氏は平忠常の乱以来ふるわなかったが、伊勢平氏が次第に頭角を現し、平正盛(平清盛の祖父)は白河法皇の厚い信頼を受けて北面の武士として登用された。平正盛の子の平忠盛(平清盛の父)も瀬戸内海の海賊を討ったことで鳥羽法皇に信頼され、武士として初めて昇殿(朝廷の内部に入ること)を許された。平忠盛が西国を中心に多くの武士を従えて平氏繁栄の基礎をつくり、平忠盛の嫡男・平清盛が平氏の繁栄をつくった。

 保元・平治の乱で皇室や貴族内部の争いに平清盛が関わったことで、平氏が積極的に政治に介入することになった。しかし平清盛は摂関家の真似をしただけで武士たちの立場に変化はなかった。貴族たちも身分が低く血を流す「ケガレた仕事」と武士を見下していた。

 平治の乱で源氏の勢力は衰えたが、源平の戦いで平氏を滅亡させ、源頼朝が本格的な武家による鎌倉幕府を成し遂げた。しかし鎌倉幕府は朝廷の天皇の権威には従うが、朝廷の行政組織からは全く独立した政権であり、武士の利益を第一に優先した政権であった。鎌倉幕府は朝廷に取って代わったわけではなく、朝廷も同時に存在していたのであり、日本は二重政権状態となった。このような状態が当たり前に存在していたというのも、そもそも中央政府が有名無実で、朝廷と幕府の利害がそれほど対立しなかったからである。

 このように武士政権は平安時代から江戸時代まで存在した。