平清盛

 それまでの武士は「王家の犬」と呼ばれ、藤原摂関家をはじめとする貴族たちから蔑まれていた。平清盛の功績は、それまでの天皇・上皇・貴族(藤原氏摂関家)を中心とした政治を武士中心の政治へ変えたことである。武力と経済力があれば貴族などひとたまりもないことを知らしめ、平清盛以後、天皇や貴族は形ばかりの存在となり、政治権力は武士へと移っていった。ただ皮肉なことに、平清盛は武士でありながら貴族化し、このことが武士たちの大きな反感を買うことになる。

 

平清盛の生い立ち

 1118年2月10日、平清盛は伊勢・平氏の棟梁である平忠盛の嫡男として伊勢で生まれた。しかし清盛ほどの人物を生んだ母親は不明である。平氏系図に書かれていなければ、平清盛は生涯に渡って母については何も語っていない。

 このことから清盛の実父は平忠盛ではなく白河法皇で、白河法皇が晩年寵妃した祇園女御の妹が母親とされている。このことは平家物語にも書かれていて、祇園女御との子と噂は当時からあった。

 白河法皇といえば愛人・藤原璋子を自分の子(崇徳天皇)を妊娠させたまま孫の鳥羽天皇に結婚させたあの人物である。

 父・忠盛が武士で始めて昇殿を許され、武官の任官は本来ならば三等官から始まるのに清盛は二等官に任じられ、太政大臣に至るのは異例の出世であった。このことから白河法皇父親説は十分にありえる話であるが、本当のことは分からない。また清盛の異例の出世から嫉妬の対象となり、そのような噂を流す者もいたのかもしれない。

 平清盛は朝廷に仕える父・忠盛への軽蔑からか、荒れた少年期を過ごし、元服後も家を飛び出し西海で海賊退治をしていた。しかし都に連れ戻されて鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りし、鳥羽院の北面の武士になり、朝廷や貴族たちの実態を知ることになる。

 1137年、父・忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任ぜられ、平時子との間に宗盛が生まれた。万事順調だと思われたが、同年6月15日に清盛は祇園社を訪れた際、神人との小競り合いがあり、清盛が放った矢が宝殿に当たるという「祇園闘乱事件」が起きた。これに対し祇園社の本社延暦寺は忠盛と清盛の流罪を要求するが、鳥羽法皇は二人を保護し罰金刑という軽い罪にとどめた。

 その後、父を亡くし、正室の異母弟の平家盛が常陸介に任じられ頭角を現すが、家盛が急死したため清盛は39歳で平家一門の棟梁となる。

 

清盛の出世

 武士が蔑まれる世の中であったが、清盛は「面白く生き、力をつける」ことを信条として、宋の文物など新奇なものに惹かれ、旧い権威や迷信を嫌った。
 父忠盛が急死すると平氏の棟梁となり鳥羽院に忠誠を誓った。保元の乱では平家一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらした。勝利後、信西の命に従って崇徳院方に着いた叔父・忠正の一党を処罰した。

 実権を握った信西と組んで順調に出世したが、保元の乱で同じ功績をあげた源義朝は冷遇され、不満を募らせた源義朝は反信西派の誘いに乗って平治の乱を起こす。

 平氏と源氏の決着の時が迫った。平清盛は信西と組んで財力と兵力で支えるが、信西に依頼されて熊野詣でに出た最中に源義朝らが謀反を起こした。清盛は信西を救うために都に急行するが間に合わず、源氏との決着をつけるため恭順を装って源氏方の油断を誘い、後白河院と二条帝を救出した。天皇に味方にすると、謀反人・源義朝の追討の勅を得て直ちに行動し源氏軍を打ち破った。

 平治の乱にて源氏の残党を根絶するが、池禅尼の懇願や常盤の姿に頼朝や常盤の子(義経)の命を助けてしまった。
 二条帝の信頼を得て、清盛は武士として初めて公卿に上り、宋との交易を中心とした新しい国作りを目指すが、保守的な公卿たちの反対にあい、力を得ることを欲するようになる。その野心に気付いた後白河院によって実権のない太政大臣に据えられるが、在任中に平家一門の者たちを次々に公卿に上らせ平家の権力を磐石なものとした。

 

清盛の繁栄

 保元の乱や平治の乱で、皇室や貴族の内部抗争に武士が本格的に関わったことで、その後も武士が積極的に政治に介入するようになった。清盛は二条天皇支持を明確にし、武士でありながら公家の身分を得ることになる。それまで貴族から見下されていた武士が、初めて貴族の仲間入りをしたのである。さらに関白である近衛基実に娘の盛子を嫁がせ摂関家と堅密な関係を結んだ。

 平治の乱で後白河上皇は近臣だった信西と藤原信頼を失い、有力武士が滅亡したため清盛は武士として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築き、院政の影響力が薄れると平清盛の実力が高まることになる。

 1161年、清盛の妻の妹で後白河上皇に嫁いでいた平滋子が憲仁親王(のりひと)を産んだことで、後白河上皇との縁が近くなり、朝廷での信頼を得た清盛は出世街道を歩むことになる。娘の時子が二条天皇の乳母となり、清盛は天皇の乳父として後見役となる。また後白河上皇の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いた。

 清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護し、二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年6月には平時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。

 二条天皇により院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、1164年には後白河上皇のために蓮華王院を造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。

 二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、1165年に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、同年7月28日崩御した。二条天皇が崩御すると、後継者に六条天皇が即位したが、六条天皇は幼少で近衛基実が摂政として政治を主導し、大納言に昇進した清盛は近衛基実を補佐した。

 

清盛の最盛期

 1167年には清盛は太政大臣に任ぜられ、翌年、憲仁親王を即位させて高倉天皇にすると、自分の娘である平徳子を高倉天皇と結婚をさせ言仁親王(ときひと)が誕生する。この言仁親王が3歳の時に第81代の安徳天皇として即位し、清盛は天皇の外祖父(母方の祖父)となった。ちなみに太政大臣は実権のない名誉職だったので3ヶ月で辞任している。

 清盛は病気のため政界を一時引退し、後継者を嫡男の重盛に譲った。この引退は清盛が病に倒れたことによるが、病から回復すると福原(神戸)に雪見御所を造営して日宋貿易の拡大に力を入れた。

 清盛は朝廷内に入り込み、自分の娘を天皇に嫁がせるて政権を掌握すると、平氏一門を朝廷の要職につかせた。これは従来の藤原氏と同じ手法であった。

 平氏のもとには全国から500ヶ所以上の荘園が集まり、平氏の知行国も全国の半数近い30数ヶ国にまで拡大して経済的な基盤が強化された。このような政治的・経済的な背景によって、武士(平氏)が朝廷にかわって初めて政治の実権を握ることになる。平氏政権は武士による政権であったが、平清盛が安徳天皇の外祖父となり、平家一門が次々と朝廷の要職に就き、貴族的な摂関家の性格をもつようになった。

 後白河院政派は次第に勢力を盛り返したが、清盛は後白河上皇の行動に不安を覚え、院政復活を望まなかった。しかし摂政の近衛基実が急死したため後白河院政が復活した。

宋との貿易

 平清盛が藤原氏と違うのは、海外交易で日本の富を増したことである。当時、平清盛以外に日宋貿易が重要と考えていた人物は朝廷にはいなかった。平清盛の予想通り日宋貿易は日本に大きな影響を与えることになる。

 日宋貿易によって宋銭という宋の貨幣が大量輸入され、日本に貨幣経済が芽生えたのである。平清盛の発想は時代を一歩先を読んでいた。

 それまでの日本の外交は、外国との窓の閉開を繰り返すだけであったが、白村江の戦いで朝鮮半島の拠点を失ってからは朝鮮との扉は閉じたままであった。奈良時代に「遣唐使」という形で中国に遣唐使を派遣し、世界の先進国であった唐からの文物の導入に努め、科挙に合格して中国の官僚になった阿部仲麻呂や、密教の摂取に勤めた空海、渡来僧の鑑真などが活躍した。

 しかし唐が「安史の乱」で混乱状態に陥ると、朝廷は菅原道真の建議を受けて「遣唐使」を廃止した。その後、すでに受け入れていた外国文化を日本流に変え国風文化が栄えることになる。

 日本は四方を荒波に囲まれ、自分の都合に合わせて閉じたり開けたりすることが出来た。日本と宋とは正式な外交を持っていなかったが、以前から民間の交易は盛んに行われていた。当初、平清盛は太宰府で日宋貿易を行なっていたが、次第に平安京に近い瀬戸内海で日宋貿易を行うことになる。瀬戸内海は平忠盛の時代から平家が海賊退治を行なっていたので、清盛は瀬戸内海を知り尽くしていたのである。

 

日宋貿易と大輪田泊

 清盛が最初に注目したのが大輪田泊(おおわだのとまり)だった。大輪田泊は奈良時代に僧侶・行基によって作り上げた古い港である。行基は僧として全国各地を渡り歩き、各地で民のために公共事業を数多く行ない、その一環として整備したのが大輪田泊だった。

 清盛は摂津国の大輪田泊(神戸港)を修築し、音戸の瀬戸(呉市)の海峡を開き、瀬戸内海の航路を整備して念願の貿易の拡大に努めた。 平清盛は海外との交流を、文化ではなく経済という形で開こうとした。
 大輪田泊は太宰府と比べ平安京との距離が圧倒的に近いことから、朝廷は宋からの輸入品をより身近にすることができた。貴族や天皇・上皇らは中国の珍しい品々に喜び、平清盛は商いによって一層富を蓄えた。日宋貿易は平家一門の繁栄のために不可欠な存在になった。

 平清盛は宋に貿易船を送るとともに、都を京都から福原(神戸)に遷すことまで行い、福原(神戸)に雪見御所を造営して日宋貿易の拡大に力を入れた。清盛は日宋貿易という経済基盤を十分に活用し、世界遺産である安芸厳島神社を増設し、京都三十三間堂などを造営し、兵庫の港を修築するなどした。

 日本の輸出品は金や水銀、硫黄などの鉱物、刀剣などの工芸品、あるいは木材などで、輸入品は宋銭や陶磁器、香料や薬品、書籍などであった。

 特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大な利益はそのまま平氏の財源となった。

 平家一族は全国に多くの荘園を保有し、日本の半分近くの土地を治めるほどになった。そのため「平家にあらずんば人にあらず」といわしめたが、清盛の権力が増大するにしたがい後白河法皇との関係が悪化し、清盛の権力を不快に思っていた後白河法皇は平家の権力を削ぐことに躍起になった。

 

貨幣の歴史
  さて宋銭が日本に導入されるまでの貨幣の歴史について紹介する。奈良時代の708年、日本初の流通貨幣である和同開珎(わどうかいちん)が造られた。和同開珎は銅で造られた銅銭で、当時の日本は唐に習った国造りを目指しており、和同開珎の普及もその一環であった。朝廷は和同開珎を流通させようとするが、朝廷は経済原理にうとく鋳造技術が未熟だったため失敗に終わる。

 通貨の供給量が増えすぎでインフレがおき、また偽銭に朝廷が対応できなかったのである。900年代後半を最後に鋳造は終わり、その後、貨幣が造られることはなかった。
 ちなみに日本最古の貨幣は富本銭(ふほんせん)と言われているが、富本銭は流通通貨ではなく、儀式などに使われた限定的な通貨だった。和同開珎が流通通貨として日本初の通貨である。
  このようにして朝廷は貨幣経済を諦めたが、平清盛が推し進める日宋貿易で宋の貨幣が大量に流入した。平清盛は貨幣の利便性を理解しており、再び日本国内で貨幣が流通し始めることになる。宋銭が普及すれば日本国内での商いが円滑になり、宋との貿易も一層簡素化することになった。
 しかし平清盛の試みは失敗に終わる。税を米や絹などの物で納めさせていた朝廷が平清盛が深く関与する宋銭を用いることに強い不安を覚えたからである。平清盛の死後、朝廷では次第に宋銭は利用されなくなってしまう。

 しかし貨幣の利便性を実感した多くの人々は、私的な商いなどで宋銭を積極的に利用し、朝廷の意に反して宋銭は再び流通してゆく。貨幣が流通すると朝廷が納めさせていた絹などの物価に大きな影響を与えるようになり、貨幣の存在は無視できなくなった。すると朝廷も次第に貨幣の存在を認め、鎌倉時代になると宋銭の利用を公式に認めるようになる。

 鎌倉時代になって、平清盛の発想に時代が追いついたのである。「大量に銭を造る技術が日本にないのなら外国の通貨を利用すれば良い」という平清盛の発想は実に大胆であるが、平清盛死後、清盛の考えは現実のものになった。

 

厳島神社

 厳島神社という新しい神社を平清盛が初めて造ったのではない。古代より宮島そのものが神として信仰され、推古天皇の時代に土地の豪族が御笠浜に社殿を建てたのが厳島神社の始まりである。

 平清盛は宋と海外貿易で資金を集め、貿易港の門司や下関を輪田泊(神戸)に移そうとした。平家は瀬戸内海で中国と貿易を行なっていたので、その関係もあり海上交通の守り神として厳島神社を信仰したのである。

 宋の港の近くには普陀山という観音信仰の島があり、船乗りにとって普陀山は目印になり、帰って来たという安堵感、出発する意欲を象徴していた。清盛は同じように厳島に神社を建て、そこに観音を祀ったのである。
 神戸は商業的には重要でも、神社の造営は考えていなかった。神戸にある生田神社や長田神社は、明治天皇が訪れてから神社としての格が上がったが、平清盛の時代には厳島神社より格下の神社であった。また平清盛が厳島神社を建造したのは、清盛が安芸守だったことから厳島神社への信仰が深かったのである。
 海上に木造社殿を建て維持管理するのは、潤沢な資金が有れば可能であるが、それでも海上に木造社殿を建造することは困難な事だった。毎日波を被っては木造社殿が直ぐ駄目に成ってしまうからである。
 それでも厳島神社は波の穏やかな瀬戸内海の広島湾にあり、社殿の数km先は本州沿岸があり、陸と陸の間隔が狭いため波が発生しにくく、また社殿の背後には標高535mの弥山があり風を遮断して波の影響が少ない場所であった。平清盛が信仰を深めた厳島神社は海上木造社殿の維持管理が比較的容易であった。輪田泊の脇にも、清盛は厳島神社の分社を作っている。

 厳島神社の本尊は観音様で、明治時代の神仏分離令で打ち壊しを恐れた神社は観音様を裏のお寺に移したのである。

平家への反発

 清盛は福原(神戸)に雪見御所を造営して日宋貿易の拡大に力を入れ、日宋貿易で莫大な財貨を手にした。全国に多くの荘園を保有し、日本の半分近くの土地を治めるほどになった。そのため平時忠をして「平家にあらずんば人にあらず」といわしめたが、清盛の権力が増大するにしたがい後白河法皇との関係が悪化し、清盛の権力を不快に思っていた後白河法皇は平家の権力を削ぐことに躍起になった。このように平氏による政治・経済の独占体制は周囲の反発を招いた。

 平氏政権に反発する勢力の中心は後白河法皇であった。後白河法皇は自分の院政強化のために武士を雇ったはずなのに、その武士に政権を奪われたことを不満に思っていた。院政強化のために警備員として武士を使っていたのが、いつの間にかその警備員に政権を奪われてしまったのである。

 平清盛は後白河上皇とは長い付き合いであったが二人は互いに嫌っていた。そのため平清盛は後白河上皇と距離をおいたが、後白河上皇と平滋子(清盛の義理の妹)との間に高倉天皇が生まれたことで事態は変化する。高倉天皇の存在によって、平清盛は否が応でも政治的に後白河上皇に近づかなければならず、両者は密接な関係を持つようになる。

 

貴族の反平家感情
1 殿下乗合事件
 1170年7月、平清盛の孫・資盛(重盛の子・13歳)が乗った牛車が、摂政・近衛基房の行列と路上で出くわした。摂政・近衛基房は相手が清盛の孫とは知らず、資盛に下車の礼をとらなかった。また知っていても、近衛基房は公家の最高位の従一位で、資盛の父の平重盛は正二位大納言だったので、身分の低い資盛が下車するのが当然の事であった。近衛基房の従者達がこの無礼に激怒して、資盛を牛車から引き摺り下ろして辱めを加えた。
 父の平重盛は資盛の非礼を戒め、清盛の暴走を抑えようとした。しかし平清盛は怒りを納めず、兵を集めて報復の準備をした。平清盛の怒りを知った近衛基房は恐怖の余り邸に篭り参内もしなくなった。しかし3ヵ月後、高倉天皇の加冠の儀には摂政として参内しないわけにはゆかず、10月21日に参内すると、清盛は参内途中の近衛基房を60余人の武士に襲撃させ、馬から5人を引き落し、4人の髻を切った。平家一族の思い上がった一面が表面化したのである。このことを平清盛の子・平重盛は怒り、それに関わった武士を勘当し、平資盛をしばらくの間、伊勢国に流した。
2 徳子の入内
 清盛の子・徳子が後白河法皇の養子になり、翌年、高倉天皇に嫁いだ。平家は全盛を誇っていたが、所詮は成り上がり者で、元来皇后になるべき家柄ではなかった。そのため伝統を重んじる貴族たちの反感を深めた。
3 成親ではなく重盛、宗盛の昇進
 1177年、左大将・藤原師長が辞職すると、その空席を院の近臣の藤原成親らが争った。しかし左大将には平重盛がなり、さらに右大将には平宗盛がなった。藤原成親は妹が平重盛の妻になっていたが、平家と親しいだけに腹を立てた。


後白河上皇
 清盛は関白・近衛基実に娘の盛子を嫁がせ、二条天皇が崩御して幼少の六条天皇が即位すると、清盛は大納言に昇進して関白・近衛基実を補佐することになる。1167年、清盛は武士として初めて太政大臣になるが、病気のため政界を一時引退すると後継者を嫡男の重盛に譲った。
 朝廷内の権力者は後白河上皇と平清盛の二人であった。それまでの朝廷は上皇・天皇・貴族(藤原氏)・武士(平氏と源氏)とが離合集散することで権力闘争が繰り広げられきた。しかし保元・平治の乱やその後の政争を通じ、残された勢力は平氏と上皇のみとなり、平清盛と後白河上皇が対立するのは必然であった。

 朝廷内では人事をめぐり後白河上皇は院近臣を、平清盛は平家一門を朝廷の要職に就けようとして両者は対立した。しかし両者は突如として密接な関係を持つようになった。

 それは高倉天皇の母である平滋子が巧みに後白河上皇と平清盛の仲介役となったからである。当時の揉め事の主要因は財政と人事であったが、巨万の富を持つ平家と人事権を持つ後白河法皇との間を平滋子がたくみに調整したのである。
 平滋子はその美貌が後白河上皇の目に止まり、後白河上皇との間に高倉天皇を授かったが、その容姿だけではなく肝の据わった賢い女性だった。この平滋子の調整能力のおかげで、政治的に対立せざるを得なかった後白河上皇と平清盛の間の関係は上手く保たれた。

 ところが1176年に平滋子が亡くなると、後白河上皇と平清盛の間の調整役が失われ両者は対立することになる。平滋子の死の翌年に起きた「鹿ケ谷の陰謀」がそれを決定的にした。

 

白山事件
 1177年年4月、後白河上皇派の加賀国の目代・藤原師経が、加賀白山の湧泉寺で些細なことから寺僧と口論になり湧泉寺を焼き払ってしまった。白山勢力は本寺の比叡山に「湧泉寺の焼き打ち」を通報し、比叡山は目代の藤原師経と国司の藤原師高兄弟の処分を後白河上皇に求めてきた。藤原師経は備後国へ流罪となったが、この軽すぎる処分を不満として比叡山の僧侶が神與を奉じて強訴し、朝廷方の平重盛と激戦となる。結局、国司の藤原師高は尾張に配流となった。
 事態は収束に向かうかと思われたが、藤原師経の父である西光(さいこう)はこれに納得しなかった。西光は後白河上皇の重臣で平治の乱で殺された信西に仕えていた。西光は後白河上皇に息子の流罪を解くように懇願し、後白河上皇は西光の懇願を断ることができず周囲の反対を押し切って、比叡山の明雲を処罰することにした。明雲は捕らえられ伊豆への流罪が決まった。

 この事件だけではなく、後白河上皇はふとしたことから決定事項を簡単に翻すことが度々あり、その治世の間、多くの人を混乱させた。明雲の処罰を延暦寺側が納得せず、延暦寺の僧兵らが伊豆に連行中の明雲を奪い取り、後白河上皇に徹底的に抗議した。しかし後白河上皇は譲歩せず、激昂している延暦寺に対抗するため、後白河上皇は平清盛を頼りにしたが、清盛は後白河上皇の頼みを断った。
 神や仏の名を掲げる強訴は厄介であり、清盛は寺院を敵に回すことを嫌ったのである。しかし平清盛の力がなければ延暦寺に対抗することができないため、後白河上皇は執拗に延暦寺と戦うよう迫った。延暦寺とは戦いたくないが、後白河上皇の頼みを断る大義名分もない。そこで平清盛が導き出したのが鹿ケ谷の陰謀と呼ばれる事件だった。
 

鹿ケ谷の陰謀

 平家全盛の頃、鹿ヶ谷の俊寛(しゅんかん)の別荘で夜な夜な反平家勢力が「打倒、平家」のための密会を繰り返していた。東山の鹿ヶ谷は、うしろに三井寺があり、堅固な要塞となっていて、鹿ヶ谷の別荘では日頃から仲間たちが集って平家滅亡の謀をめぐらしていた。しかしこの鹿ヶ谷での陰謀が多田行綱の密告によって発覚した。
 摂津守・源頼盛の子である多田行綱は「平家の栄華を見るにつけ、
平家打倒などできるものではない。もし計画がもれれば自分の命を失うことになる。他人の口からもれる前に、自分から寝返って命を繋ごう」としたのである。多田行綱は夜にまぎれて平清盛が住む西八条の邸へ行き「申し上げることがあり参上しました」と告げると、平家滅亡計画を密告した。多田行綱は証人に引き出されることを恐れ、密告すると急いで外へ逃げた。
 この鹿ヶ谷には後白河法皇の近臣の藤原成親、法勝寺の俊寛、北面の武士らが参加していた。1177年6月1日、関係者は突然平家の軍にとらえられ、藤原成親は備前に流罪となった後に処刑され、西光、師高は斬首されるなど厳しい処罰を受けた。集会に参加したのは後白河法皇の側近で、後白河法皇も関与していたが、後白河法皇を罪に問うことはさすがの清盛はしなかった。しかし以前から悪化していた清盛と
後白河法皇の仲はこの事件をきっかけに決定的になった。

 後白河法皇の弱体化によって、高倉天皇・平清盛の一強へと塗り替えられていった。もはや競争相手のいない平清盛は、その後、福原京への遷都や清盛の孫である安徳天皇の即位など、まるで天皇や上皇に等しい権力を振りかざし、日本の政治を支配するようになった。
 また平家打倒を謀議していた後白河上皇とその近臣たちに対して、清盛は容赦ない処罰をくだそうとするが、嫡男の重盛はその制止に奔走した。首謀者の藤原成親は当然、処刑になるはずだったが、重盛の説得で流罪に減刑された。

 高名な僧・俊寛が陰謀の中心人物とされ、藤原成経、平康頼とともに鬼界ヶ島(鹿児島)に流罪となった。彼らは鬼界ヶ島で望郷の念にかられ、つらい流人生活を送り、都への帰還を神仏に祈る日々であったが、翌年、平徳子の安産を祈る恩赦で俊寛以外の二人は都に帰ることを許された。

 俊寛だけは許されずに島に残され一生を終えた。あるいは絶望から断食して死んだともされている。この俊寛の話は、能や浄瑠璃、歌舞伎などで演じられよく知られている。

 この計略の背後に後白河法皇がいたことを知った清盛は激怒して、軍勢を率いて後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、近臣たちの官職をすべて解いた。この事件を当時の年号から治承三年の政変というが、その翌年に清盛の孫の安徳天皇が即位した。

(下左:鹿ヶ谷、下左:鬼界ヶ島に流された俊寛

 白河法皇を幽閉

 平清盛の権力が増大するにしたがい後白河法皇との関係が悪化し、清盛の権力を不快に思っていた後白河法皇は平家の権力を削ぐことに躍起になった。
 1179年に清盛の娘・盛子が死去すると、後白河法皇は盛子の荘園を清盛に無断で没収し、さらに同年、嫡男の重盛が42歳で病死すると重盛の知行国である越前国を没収して法皇の力を取り戻そうとした。
 この白河法皇の行為に激怒した清盛は、福原から軍勢を率いて上洛し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、反平氏的とされた39名の院近臣を全て解任し、代わって親平氏的な公家を任官した。清盛は後白河法皇の処置を三男・宗盛に任せて福原へ引き上げたが、後を任された宗盛には政治的経験がなく、結局、清盛が表に出ることになる。
 後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、平清盛は後白河法皇を幽閉して院政を停止させると「政治に口を出さないこと」を約束させ、ここに後白河院政は完全に停止させられた。その翌年、清盛は高倉天皇を譲位させ、高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させた。

 しかしこの白河法皇を幽閉する強引な手法は周囲からの反発を買い、武士でありながら摂関家と同じ政治手法を取る清盛の対し武士たちは裏切られたと失望し、貴族の警備員にすぎない平家が出世することは、由緒ある貴族にとっては不愉快極まることで、そのため平家への不満が高まった。

 清盛は後白河法皇と反対勢力を封じ込め、平家と血のつながりのある天皇を立て、官職を平家一門で固めた。清盛にすれば後白河法皇は平氏政権を危うくしたので、法皇のかわりに平家と血のつながりのある天皇を立て、反対勢力を封じ込めて一門で官職を固めるのは当然の防衛手段といえた。

 平清盛は1180年に大輪田泊近くの福原への遷都を決行した。平清盛は興福寺などの強大な寺院勢力を嫌い、それらの勢力から離れるために遷都を決行したのである。この遷都には平安京に住む多くの人々から批判が殺到したが、平清盛はその強権により遷都を断行した。平清盛はこの遷都を良い機会に都と大輪田泊を隣接させ、日宋貿易をさらに強力に推し進め、平家一門、ひいては国自体を豊かにしようという壮大な計画を描いていた。平清盛も父同様、武士でありながら商いの才には長けていた。

 しかしその専横政治と、法皇を幽閉する横暴な手段は周囲の更なる反発を招いた。後の世に、足利尊氏や織田信長は同じように武士の身分でありながら皇室と対立したが、非難の声は清盛ほどではなかった。まさに開拓者ゆえの辛さといえた。さらに平氏政権には清盛自身が気づいていない重大な欠陥があり、それが後の平氏滅亡へとつながっていった。それは武士たちの不満であった。

 

武士たちの不満

 平安時代の初期に桓武天皇によって軍隊が廃止され、特に地方では無法状態になり治安は極端に悪化した。人々は自分や家族の生命、あるいは財産を守るために武装するようになり、やがて武士という階級が誕生した。 そのような武士たちにとって、深刻な問題となったのが土地制度の大きな矛盾であった。公地公民制の原則が崩れ、墾田永年私財法によって新たに開墾した土地の私有は認められたが、その権利があったのは有力貴族や寺社など限られていた。

 実際に汗水たらして開墾したのは武士たちであった。耕した土地を一所懸命に守り抜くために武装して武士となった。しかし武士たちには土地の所有が認められず、仕方なく摂関家などに土地の名義を貸し、自らは「管理人」の立場をとるしかなかった。つまり武士は実質的には自分たちの土地であっても、正式な所有者にはなり得なかった。このような不安定な制度に対し「開墾した土地は、自らの手で所有したい」。これが武士たちの切実な願いであった。

 全国の武士は平清盛をはじめとする平氏政権の誕生によって、同じ武士の平氏ならば、自分たちの期待に応じてくれると信じていた。ところが平清盛の父である忠盛は、白河法皇や鳥羽法皇の護衛として長年仕え、皇室や貴族と接することが多かったので「武士のための政治」がどのようなものか理解していなかった。さらに清盛が、自分の娘を高倉天皇の嫁にして、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ、自らは天皇の外戚(母方の父)として政治の実権を握るという、摂関家と同じ方法をとったことが失敗だった。

 平清盛の政策は朝廷と貴族側に偏り、武士団を軽視していた。この時代は「各地の荘園の実質的権力者である武士団は、貴族の奴隷に過ぎない」と武士は軽視されていた。

 武士たちの不満は武士のリーダーである清盛がこの問題を解決せずに、自らが貴族社会の一員となったことであった。平氏が摂関家の真似をしても、武士たちには全く変化がないことが不満となった。

 もともと藤原氏の摂関政治の頃は、武士たちの多くが「貴族たちには武士の気持ちなど分かるまい」とあきらめていた。しかし自分たちの代表である平氏が政治の実権を握ったことから、それだけ期待が大きかったが、それだけに裏切られた気持ちが強かった。平氏に対して「同じ武士なのに、俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになった。

 それまで政治を行っていた貴族たちは、武士の身分は低いものとしていた。しかも血を流す「ケガレた」仕事をしていた平氏が、自分たちの真似をしたことに激しく反発した。このように平氏は武士からも貴族からも拒否された。

 政治の実権を握った平氏は、武士たちの共感を得ることができず、武力で世の中を支配しても民衆の理解を得られなかった。そのため「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われると、平氏の天下はたちまち崩れ去ってしまった。平氏にかわって政治の実権を握った源頼朝は「武士のための政治」を理解していた。

 

清盛の評価

  平清盛は悪虐、非道、非情の暴君とされ、良いイメージを持たれていない。しかしそれは平家物語に描かれた影響で、清盛の人物像は温厚で情け深い者だったとされている。実際の清盛の人物像は温厚で情け深く、実際、源頼朝や源義経を殺さず、そのことが災いして平家が滅亡すことになった。

 若い頃の清盛について「人が不都合な振る舞いをしても冗談と思うことにし、にこやかに笑い相手への労わりを忘れなかった。とんでもない誤りをしても声を荒らげることはなかった。また冬の寒い時に、身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊したらそっと床から抜け出して存分に寝かせ、最下層の召使いでも一人前の人物として扱った」。そのため従者たちは心から喜んだとされている。
    平家物語でも、若い頃に世話になった藤原顕時の息子・葉室行隆が苦境に陥っていることを知ると援助を申し出るなどしている。
    不確かであるが、清盛の非道を示す有名な殿下乗合事件は、平家物語の虚構であり、実際に非道な報復を行ったのは重盛であり、清盛はむしろ基房に謝罪したとされる。
    平治の乱前後の清盛について、愚管抄では清盛は諸方に気を配る人物であり、複雑な院政期の政界を生き抜く処世術を持っていたと書かれている。清盛は政治上手で戦下手とされているが、「平治の乱」で複数の部隊を連携させた戦術で藤原信頼軍を撃破したように、洗練された戦法を得意とする優秀な武将でもあった。さらには御所や市街地の被害も最低限に抑えている。
    日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、厳島神社築造に見られる公共事業の推進、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治を打ち破り、日本初の武家政権を打ち立てるなど、優れた功績を残している。中途で失敗したとはいえ、福原に目をつけ、交易を通じて第二の都として発展させようとしたことなど先見性が高かったことが伺える。
    しかし大きな権力を持つようになると、それを維持するために院・摂関家・寺社勢力と対立していく過程で強引な手段に出るようになり悪評が増えていった。

 京都・奈良で大きな勢力を持つ仏教勢力の抑制に努め、皇位継承問題に干渉した興福寺と園城寺に総攻撃をかけ評判を落としたが、強大な武力をもつ宗教勢力が重大な政治問題に関わることを阻止した点は無視できない。皮肉なことにこの政策は敵である鎌倉幕府が「僧兵を擁しない禅宗や念仏宗を保護する」という穏健な形で受け継がれていった。
 また祈祷によって雨が降ったことを偶然と一蹴し、人柱を廃止するなど迷信に囚われない考えを持っていた。


以仁王
 平家への蜂起は後白河法皇の第3皇子・以仁王(もちひとおう)の令旨がきっかけになった。「これ以上、平家の好き勝手やらせてよいのか。平清盛の孫にあたる安徳天皇を天皇の座から引きずりおろし、新しい政権をつくり上げるべきである」。平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのがこの以仁王の挙兵だった。

 以仁王は各地の源氏に呼びかけ、平家に対して挙兵をうながした。以仁王は血筋も高貴で、頭も良く歌や笛も上手だった。非常に優秀だったので普通なら次期天皇になるはずだったが、平清盛に経済的基盤の所領を奪われ、清盛の孫である安徳天皇が3歳で即位すると、天皇になる望みを奪われてしまった。

 このため1180年、以仁王は平家を倒し、自らが天皇として即位するために清盛の側近の源頼政とともに挙兵したのである。平氏に反発する興福寺・園城寺もこの動きに同調した。
 しかし以仁王の挙兵は事前に計画がもれ、清盛は平時忠に300余騎を率いさせ追討軍を出し、以仁王は女装して邸を脱出して園城寺に逃れた。園城寺は天台宗の有力寺院であり多くの僧兵を抱え込んでいた。園城寺に逃げ込むというのは堅牢な城の中に逃げ込むのに等しいことだった。以仁王の挙兵当時は延暦寺・園城寺・興福寺の3大寺院は全て反平氏だった。以仁王は平氏軍の園城寺攻撃を事前に知ると、園城寺も危険になったため奈良の興福寺へ逃ることにする。
 園城寺で以仁王は源頼政の軍勢1000余騎と合流するが、奈良の興福寺へ向かう途中の宇治川で平家の軍勢2万8000騎に追いつかれ、両者は宇治川を挟んで対峙し、源頼政は宇治川に掛かる橋板を外して矢を放って平氏軍を襲うが、次第に平氏軍が優勢になり宇治平等院近くで二人は討たれてしまう(橋合戦)。
 このように以仁王の挙兵は失敗に終わるが、平家打倒の令旨(皇太子による命令)を全国に発したことから、この令旨が平家追討の発火点となった。令旨は全国の源氏に届けられ、源頼朝も叔父の源行家から令旨を受け取っている。
 以仁王とともに平家打倒に立ち上がった源頼政は、保元・平治の乱で清盛側に属し、乱後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まっていた。源頼政は平清盛の側近として、清盛から厚い信頼を得ていた。しかし平家の専横に不満が高まり、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。しかし計画が事前に露見して、準備不足のまま挙兵を余儀なくされたのである。
 

おごる平家は久しからず

 平清盛の最大の失敗は、源頼朝と義経を殺さなかったことである。平治の乱で平家の下に置かれた源氏の残党は、源頼朝を中心に東国で蜂起し、平氏に不満を持っていた全国の武士団はこの動きに同調した。

 1180年に以仁王が打倒平家のために挙兵し、平家は富士川の戦いで源氏に敗北し、この敗北により平安京を源氏に占拠される可能性が浮上した。清盛は熱病にうなされ、清盛は死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」との遺言を残した。

 武士として初めて太政大臣になり、孫を天皇に即位させ、福原遷都まで行った清盛は没したが、嫡男の重盛はすでに病死しており、次男の基盛も早世したため平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだ。

 平宗盛は全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄され平氏は次第に追いつめられていった。さらに折からの飢饉(養和の大飢饉)という悪条件が重なり、1183年の倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に成すすべなく都落ちすることになった。

 清盛が死去した日、源頼朝は密かに後白河院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は、一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」としていたため、これを拒否し、頼朝へ激しい憎悪を示した。

 しかし源氏の天才的な名将・源義経(九郎判官)が登場し、一の谷、屋島で平家の拠点を覆滅し、1185年、関門海峡の「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅亡させたのである。平清盛の死から平家滅亡までわずか4年であった。「おごる平家は久しからず」、平清盛の一期の夢は波の谷間に沈んでいった。

 平清盛の代わりに頭角を顕わした源頼朝が縑倉幕府を開くことになる