平清盛

 それまで武士は「王家の犬」と呼ばれ、藤原摂関家をはじめとする貴族たちから蔑まれていた。平清盛の功績は、それまでの藤原氏を中心とした政治から武士中心の政治へと変化させたことであり、武力に経済力があれば貴族などひとたまりもないことを示していた。平清盛以後、天皇や貴族は形ばかりの存在となり、政治権力は武士へと移っていった。ただ皮肉なことに平清盛は、武士でありながら貴族化し、このことが武士たちの大きな反感を買うことになる。

平清盛

 平清盛は平忠盛の長男として伊勢で生まれた。12歳で従五位下左兵衛佐に叙任した。本来武官の任官は三等官から始まるのが一般的で、二等官に任じられるのは異例のことであった。そのため白河院と舞子の子との噂があった。

 平清盛は朝廷に仕える父忠盛への軽蔑から荒れた少年期を過ごた。元服後も家を飛び出して西海で海賊退治をしていたが、都に連れ戻されて鳥羽院の北面の武士になり朝廷や貴族たちの実態を知る。1137年忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛が肥後守に任ぜられ、平時子との間に宗盛が生まれた。

 順調だと思われたが、同年6月15日に清盛が訪れた祇園社で神人との小競り合いがあり、清盛が放った矢が宝殿に当たる「祇園闘乱事件」が起きた。これに対し祇園社の本社延暦寺は忠盛と清盛の配流を要求するが、鳥羽法皇は二人を保護し罰金刑という軽い罪でとどめた。

 武士が蔑まれる世の中であったが、清盛は「面白く生き、力をつける」ことを信条として、宋の文物など新奇なものに惹かれ、旧い権威や迷信を嫌った。
 父忠盛が急死すると平氏の棟梁となり鳥羽院に忠誠を誓う。保元の乱では後白河へ参陣し、勝利すると信西の命に従って崇徳院方に着いた叔父・忠正の一党を処罰した。

 また播磨守、大宰大弐とな理、実権を握った信西と組んで順調に出世したが、保元の乱で同じ功績をあげた源義朝は冷遇され、不満を募らせた源義朝は反信西派の誘いに乗って平治の乱を起こす。平氏と源氏の決着の時が迫った。平清盛は信西と組んで財力と兵力で支えが、信西に依頼されて熊野詣でにでた最中に義朝らが謀反を起こしたのである。信西を救うために都に急行するが間に合わず、源氏との決着をつけるため恭順を装って源氏方の油断を誘い、後白河院と二条帝を救出した。天皇を味方にすると謀反人追討の勅を得て直ちに行動し源氏軍を打ち破る。

 平治の乱後、源氏の残党の根絶を指示するが、池禅尼の懇願や常盤の姿に実母・舞子の姿を重ねてしまったことから頼朝や常盤の子(義経)の命を助けてしまう。
 二条帝の信頼を得て武士で初の公卿に上り、宋との交易を中心とした新しい国作りを目指すが、保守的な公卿たちの反対に遭い力を得ることを欲する。その野心に気付いた後白河院によって実権の無い太政大臣に据えられるが、在任中に一門の者達を次々に公卿に上らせ平家の権力を磐石なものとする。 

 保元の乱や平治の乱は、皇室や貴族内部の争いに武士が本格的に関わったことで、その後も武士が積極的に政治に介入するようになった。清盛は天皇皇居を警護することで二条天皇支持の姿勢を明確にさせ、正三位に昇進すると武士でありながら公家の身分を得ることになる。それまで貴族から見下されていた武士が、初めて貴族の仲間入りをしたのである。さらに関白である近衛基実に娘の盛子を嫁がせ摂関家と堅密な関係を結んだ。

 平治の乱で後白河上皇は近臣だった信西と藤原信頼を失い院政の影響力が薄れるとさらに平清盛の実力が高まることになる。1161年、清盛の妻の妹で後白河上皇に嫁いでいた平滋子が憲仁親王(のりひと)を産んだことで、後白河上皇との縁が近くなり朝廷での信頼を得た清盛は出世街道を歩むことになる。1165年に二条天皇が崩御すると後継者には六条天皇が即位したが、六条天皇は幼少で基実が摂政として政治を主導し、大納言に昇進した清盛は基実を補佐した。1167年には武士で初めて太政大臣に任ぜられ、翌年、憲仁親王を即位させて高倉天皇にすると、自分の娘である平徳子を高倉天皇と結婚をさせて言仁親王(ときひと)が誕生する、この言仁親王が3歳の時に第81代の安徳天皇として即位し清盛は天皇の外祖父(母方の祖父)となった。ちなみに太政大臣は実権のない名誉職だったので3ヶ月で辞任している。

 清盛は朝廷内に入り込み、自分の娘を天皇に嫁がせるて政権を掌握すると、平氏一門を朝廷の要職につかせた。これは従来の藤原氏と同じ方法であった。

 平氏のもとには全国から500ヶ所以上の荘園が集まり、平氏の知行国も全国の半数近い30数ヶ国にまで拡大して経済的な基盤が強化された。このような政治的・経済的な背景によって、武士(平氏)が朝廷にかわって初めて政治の実権を握ることになる。平氏政権は武士による政権であったが、平清盛が安徳天皇の外祖父となり、平家一門が次々と朝廷の要職に就き、貴族的な摂関家の性格をもつようになった。

宋との貿易

 ただ平清盛が藤原氏と違うのは、海外交易で日本の国富を増したことである。日本の外交政策は外国との窓の閉開のを繰り返すだけであったが、白村江の戦いで朝鮮半島の拠点を失ってからは朝鮮との扉は閉じたままであった。奈良時代に「遣唐使」という形で中国に遣唐使を派遣し、世界的先進国であった唐帝国からの文物の導入に努めた。科挙に合格して中国の官僚になった阿部仲麻呂や、密教の摂取に勤めた空海や、渡来僧の鑑真などが活躍した。

 しかし唐が「安史の乱」で混乱状態になると、朝廷は菅原道真の建議を受けて「遣唐使」を廃止した。その後はすでに受け入れていた外国文化を日本流にアレンジする日々であった。日本は四方を荒波に囲まれ、自分の都合に合わせて閉じたり開けたりすることが出来た。

 我が国と宋とは正式な外交を持っていなかったが、以前から民間の交易は盛んに行われていた。清盛は摂津国の大輪田泊(神戸港)を修築し、音戸の瀬戸(呉市)の海峡を開き、瀬戸内海の航路を整備して念願の貿易の拡大に努めた。 平清盛は海外との交流を、文化ではなく経済交流という形で開こうとしていた。

 宋に貿易船を送るとともに、都を京都から福原(神戸)に遷すことまで行った。清盛は日宋貿易という大きな経済的基盤を十分に活用した。日宋貿易によって巨方の富を得た凊盛は、世界遺産である安芸厳島神社を増設し、京都三十三間堂などを造営し、兵庫の港を修築するなど栄華を極めた。

 貿易の輸出品は金や水銀、硫黄などの鉱物、刀剣などの工芸品、あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭や陶磁器、香料や薬品、書籍などであった。特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大な利益はそのまま平氏の財源となった。

平家への反発

 このように平氏による政治的・経済的体制の独占は周囲の反発を招いた。平氏政権に反発する勢力には後白河法皇もいた。後白河法皇は自分の院政強化のために武士を雇ったはずなのに、その武士に政権を奪われたことを不満に思っていた。自分の院政の強化のために警備員として武士を使っていたのが、いつの間にかその武士に政権を奪われてしまったのである。

 平清盛は後白河上皇とは長い付き合いをしているが二人は互いに嫌っていた。そのため平清盛は後白河上皇と距離をおいていたが、後白河上皇と平滋子(清盛の義理の妹)との間に高倉天皇が生まれたことで事態は変わる。高倉天皇の存在によって平清盛は否が応でも政治的に後白河上皇に近づかなければならず両者は密接な関係を持つようになる。

 朝廷内では後白河上皇は院近臣を、平清盛は平家一門を朝廷の要職に就けようとしたが、この要職の座をめぐりる両者ではあったが、それでも表面上は良好な関係を築くことができた。それは高倉天皇の母である平滋子が巧みに後白河上皇と平清盛の仲介役となっていたからである。
平滋子の死と鹿ケ谷の陰謀
 平滋子はその美貌が後白河上皇の目に止まり、後白河上皇との間に高倉天皇を授かったが、その容姿だけではなく肝の据わった賢い女性だった。この平滋子の調整能力のおかげで、政治的上対立せざるを得なかった後白河上皇と平清盛の間の関係は上手く保たれていました。ところが1176年に平滋子が亡くなると後白河上皇と平清盛の間の調整役が失われ、両者は対立することになる。平滋子の死の翌年の鹿ケ谷の陰謀が決定的にした。

 1177年、後白河法皇の近臣たちが京都の鹿ヶ谷(左京区)に集まり、平氏打倒の計略をめぐらすが、事前に発覚して失敗に終わった。(鹿ヶ谷の陰謀)

 この計略の背後に後白河法皇がいたことを知った清盛は激怒して、軍勢を率いて後白河法皇を幽閉して院政を停止しさせ、近臣たちの官職をすべて解いた。この事件を当時の年号から治承三年の政変というが、その翌年に清盛の孫の安徳天皇が即位したのである。

 清盛は後白河法皇と反対勢力を封じ込め、平家と血のつながりのある天皇を立て、官職を一門で固めた。清盛にすれば後白河法皇は平氏政権を危うくしたので、法皇のかわりに平家と血のつながりのある天皇を立て、反対勢力を封じ込めて一門で官職を固めるのは当然の防衛手段といえた。しかしその専横政治と法皇を幽閉する横暴な手段は周囲の更なる反発を招いた。後の世のなかで足利尊氏や織田信長が同じように武士の身分でありながら皇室と対立しても、非難の声が清盛ほどなかったことを考えれば、まさに開拓者ゆえの辛さともいえた。

 さらに平氏政権には清盛自身が気づいていない重大な欠陥があり、それが後の平氏滅亡へとつながっていった。それは武士たちの不満であった。

 平安時代の初期に桓武天皇によって軍隊が廃止され、特に地方では無法状態になり治安は極端に悪化した。人々は自分や家族の生命、あるいは財産を守るために武装化するようになり、やがて武士という階級が誕生した。 そのような武士たちにとって、深刻な問題となったのが土地制度の大きな矛盾であった。公地公民制の原則が崩れ、墾田永年私財法によって新たに開墾した土地の私有が認められたが、その権利があったのは有力貴族や寺社など限られた勢力のみであった。

 実際に汗水たらして開墾したのは武士たちであった。耕した土地を一所懸命に守り抜くために武装して武士となった。しかし武士たちには土地の所有が認められず、仕方なく摂関家などに土地の名義を貸し、自らは「管理人」の立場をとるしかなかった。つまり武士は実質的には自分たちの土地であっても、正式な所有者にはなり得なかった。このような不安定な制度に対し「開墾した土地は、自らの手で所有したい」。これが武士たちの切実な願いであった。

 全国の武士は平清盛をはじめとする平氏政権の誕生によって、同じ武士の平氏ならば、自分たちの期待に応じてくれると信じていた。ところが平清盛の父である忠盛は、白河法皇や鳥羽法皇の護衛として長年仕え、皇室や貴族と接することの多かった平氏は「武士のための政治」がどのようなものかが理解していなかった。さらに清盛が、自分の娘を高倉天皇の嫁にして、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ、自らは天皇の外戚(母方の親戚のこと)として政治の実権を握るという、摂関家と同じ方法をとったことが失敗だった。

 平清盛の政策は朝廷と貴族側に偏り、武士団を軽視していた。この時代は「各地の荘園の実質的権力者である武士団は、法的には貴族の奴隷に過ぎない」と武士は軽視されてた。

 武士たちの不満は武士のリーダーである清盛がこの問題を解決せずに、自らが貴族社会の一員となったことにあった。平氏が摂関家の真似をしても、武士たちには全く変化がないことが平氏への不満となった。

 もともと藤原氏の摂関政治の頃は、武士たちの多くが「貴族たちには武士の気持ちなど分かるまい」とあきらめていた。しかし自分たちの代表である平氏が政治の実権を握ったことから、それだけ期待が大きかったが、それだけに裏切られた気持ちも強かった。平氏に対して「同じ武士なのに、俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになった。

 それまで政治を行っていた貴族たちは、武士の身分は低いものとしていた。しかも血を流す「ケガレた」仕事をしていた平氏が、自分たちの真似をしたことに激しく反発した。このように平氏の政治は武士からも貴族からも拒否された。

 政治の実権を握った平氏は、武士たちの共感を得ることができず、武力で世の中を支配しても民衆の理解を得られなかった。そのため「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われると、平氏の天下はたちまち崩れ去ってしまった。

 平氏にかわって政治の実権を握った源頼朝は「武士のための政治」を理解していた。平清盛は熱病に倒れ、平氏一門に「墓前に頼朝の首を供えよ」と命じて亡くなった。平清盛は悪虐、非道、非情の暴君とされ、良いイメージを持たれていない。しかしそれは平家物語に描かれた清盛の影響で、清盛の人物像は温厚で情け深い物だったともされている。

清盛の評価

  平家物語においても若い頃世話になり、苦境に陥っていた藤原顕時の息子である藤原行隆の援助を申し出るなど義理堅い一面も描かれている。
 清盛の良い点としては、人が不都合な振る舞いをしても冗談と思う器量の大きさがあり、相手への労りとしてにこやかに笑い役立たずと声を荒げることはなかった。
 冬の寒いときには身辺の従者に自分の衣の裾の方に寝かせ、従者が朝寝坊したら、そっと床から抜け出し寝かせてやった。また最下層の者でも、一人前の人物として扱った。
 このように清盛は方々に気を配る人物で、複雑な院政界を生き抜く処世術を持っていた。しかし権力を持つが故に、院・摂関家・寺社勢力と強引な手段で対立し後世の評判が悪くなっいる。
 また祈祷によって雨が降ったことを偶然と一蹴し、人柱を廃止するなど迷信に囚われない考えを持っていた。日宋貿易などの財政基盤の開拓し、公共事業の推進し優れた政治家でもあった。戦いにおいても優秀な指揮官であり、平治の乱では複数の部隊を連携させ、さらには御所や市街地の被害も最低限に抑えている。

源平合戦

 清盛の失敗は源頼朝と義経を殺さなかったことである。平治の乱で平家の下に置かれた源氏の残党は、源頼朝を中心に東国で蜂起した。平氏の政治に不満を持っていた全国の武士団はこの動きに同調した。

 頼朝を迎え撃つべき平氏は西国が大飢饉に見舞われ、さらに大黒柱の平清盛が病没するという大波乱が続いた。その間、源氏には天才的な名将・源義経(九郎判官)が登場し「一の谷」「屋島」で平家の拠点を覆滅し、関門海峡の「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅亡させた(1185年)。

 武 士として初めて太政大臣になり、孫を天皇に即位させ、福原遷都まで行った平清盛が没して、平家滅亡までわずか4年であった。「おごる平家は久しからず」、平清盛の一期の夢は波の谷間に沈んでいった。代わって頭角を顕わした源頼朝が、縑倉幕府を開くことになる