前九年の役・後三年の役

 平安時代初期(800年頃)、桓武天皇は領土拡大のため東北地方に遠征軍を送った。征夷大将軍は坂上田村麻呂で、坂上田村麻呂は東北地方の征服に成功した。しかしそれは微妙な成功で、蝦夷たちの想定以上の強さや朝廷の財政難などにより蝦夷を完全降伏させるには至らず、朝廷と蝦夷による和平交渉によって表面上東北を征服しだけであった。
 朝廷と蝦夷の和平交渉は「蝦夷が東北征服を受け入れれば、朝廷は蝦夷の統治をそのまま蝦夷に任せる」という内容であった。朝廷は実より名を、蝦夷は名より実を取ったのである。当時の東北は、日本なのか蝦夷地なのよくわからない状況であった。このことは「役」という言葉に表れている。「役」は外国との戦いで「乱」は国内の内乱をいうので、当時の東北は「蝦夷地といえば蝦夷地だし、日本といえば日本」という微妙な状況にあった。少なくとも当時の朝廷は前九年の役・後三年の役の相手を「異国の敵」と捉えていた。


奥六郡を支配する安倍氏
 前九年の役の舞台は奥六郡(岩手県)であった。奥六郡より北は日本の統治が及ばない蝦夷が住む地域で、奥六郡は日本と蝦夷地の緩衝地帯で、まさに日本なのか蝦夷地なのかわからない蝦夷自治区であった。
 そのような事情の中で、陸奥国には鎮守府という軍隊組織が置かれ、鎮守府将軍には武勇に優れた人物が就任した。しかし1020年頃、当時の鎮守府将軍が奥六郡に対して略奪行為を繰り返し、陸奥国の国司は困ってしまった。奥六郡を荒らされると税収は減るし、蝦夷の反乱が高まるからである。

 朝廷も鎮守府将軍を置くことが東北の反乱を招くとして鎮守府将軍を任命しなかった。その後に奥六郡の統治を任されたのが、奥六郡の中でも強い力を持っていた安倍忠良で、前九年の役はその息子の安倍頼良の時代に起きた。

 息子の安倍頼良は奥六郡の統治を任されると、国の命令を全く無視するようになった。奥六郡の外側に柵を設け受領への納税も怠り、奥六郡以南の地域にまで支配地域を拡大した。当時の奥六郡はもはや安倍氏の独立国家と呼んでも過言ではなくなり、奥六郡周辺はただならぬ緊張感が漂うようになった。


陸奥守の藤原登任
 安倍頼良は奥六郡の南にも進出し、傍若無人な振る舞いを行い、陸奥守(多賀城)の藤原登任(なりとう)はそれを無視できなくなった。藤原登任は陸奥国の受領で、主な仕事は徴税だったので、納税の義務を果たさない安倍頼良へ武力闘争を行うようになる。朝廷からの追討命令があった訳ではないので、1051年に藤原登任の安倍頼良に対する出兵は何らかの個人的な事情が発端だったとされている。
 藤原登任軍と安倍頼良軍が鬼切部(宮城県鳴子町)で戦った。この鬼切部は奥六郡の南に位置していることから、安倍頼良が奥六郡を南下して支配地域を拡大していたことがわかる。
 藤原登任の軍勢は秋田の平重成(たいらのしげなり)の援軍を含め数千人で、安倍頼良軍の兵数は不明であり、どのような戦いだったのかは不明だが、鬼切部での戦は安倍頼良の圧倒的勝利に終わった。藤原登任軍は惨敗し膨大な死者を出し、藤原登任も命からがら逃げだした。鬼切部は奥六郡の南に位置しており、その地で圧倒的勝利を納めたのだから、安倍頼良の強さは相当なものだった。

源頼義の登場
 朝廷は藤原登任の大敗北を重く受け止め、陸奥守を藤原登任から源頼義(よりよし)に代え、さらに慣例を破って鎮守府将軍を兼任させ安倍氏制圧を命じた。関東地方では「平忠常の乱」が平定したばかりで、朝廷はこのような反乱に神経質になっていた。源頼義は源頼信の息子で、1028年の「平忠常の乱」の際には父・頼信と共に活躍し、その活躍から荒れた陸奥守に抜擢されたのである。
 源頼義の陸奥守就任を知った安倍頼良は、それまでの徹底抗戦の態度を突如として一変させ、源頼義に低頭平身で服従するようになった。安倍頼良は源頼義の武勇伝を知っていたので「源頼義とは戦わない方が得策」と判断したのである。こうして戦いはひとまず落ち着くことになった。
 1052年、朝廷は藤原彰子の病気快癒祈願のために恩赦を行い、安倍頼良の罪が許されることになった。恩赦とは国にとって災害や病気などの不吉なことが起きた場合、あるいは天皇即位などの際に罪人の罪を許すことで、この時は天皇の母・藤原彰子の病気祈願のための恩赦だった。

 安倍頼良は陸奥守に逆らったため罪人となっていたが、偶然にも恩赦を受け罪を許され、その後も源頼義に服従の姿勢を示した。安倍頼良は自分の名前が源頼義と同じ「よりよし」であることを配慮し、自らの名前を「頼時」と改めるほどであった。この安倍頼時の徹底した服従姿勢と朝廷の恩赦により、東北地方では戦闘は起こらず平和が訪れた。

 
前九年の役の前哨戦、阿久利川事件
 1052年に陸奥守に就任した源頼義は、1056年に任期を終えることになる。その間、安倍頼時は税を納め頼義に贈り物をするなど対立する様子は一切なかった。源頼義はこのまま平穏に任務を終え任期を終えることになった。しかし源頼義が陸奥守の任期が満了する直前に事件が起きた。
 源頼義の部下の藤原光貞と元貞が阿久利川で野営していると、突如として何者かに襲われたのである。この襲撃の犯人について、藤原光貞は源頼義に「犯人は安倍頼時の息子の安倍貞任(さだとう)で、安倍貞任が私の娘をくれないかと申し出たので、安倍氏のような卑しい一族に娘を渡すことはできないと追い返した。その仕返しに襲撃された」と述べた。この話を聞いた源頼義は激怒し、事実確認のないま安倍貞任に出頭を命じた。

 しかし安倍貞任の父・頼時は「貞任がそのようなことをするはずなない。たとえ息子の貞任がやったとしても、私と貞任は親子であり、息子を渡すことはできない。源頼義が攻めてくるなら、死を覚悟で徹底抗戦する」と返事をした。
 これまで安倍頼時は源頼義に服従してきたが、息子の命に及んだこの事件をきっかけに源頼義と徹底抗戦の構えをとった。命令に逆らう安倍頼時に対し、源頼義は兵を派遣し戦いが起きた。この事件は、戦争を起こしたい源頼義が強引に安倍頼時を挑発したとされている。
 奥六郡を4年間無事に治めてきた頼義が、なぜ陸奥を治め終える直前にこのような短絡的な行動を取ったのか。しかも事実確認のないまま兵を派遣したのか、この疑問について源頼頼義の陰謀説が強い。源頼義にすれば「東北地方へ勢力を拡大するはずだったのに、陸奥守になった途端に安倍頼時は従順になり戦が起こらなくなった」、このことに源頼義は不満だったのだろう。

 源頼義は平忠常の乱の後、関東地方一帯に強い影響力を持つようになった。そのような頼義が未開の東北地方支配を次の目標にしたとしても不思議ではなかった。いずれにしろ阿久利川事件により、東北地方は本格的な戦争状態に突入していった。


東北地方の地勢的魅力
 東北地方は蝦夷地との交易に関わる要所であり、意外にも金も良馬も多くあり旨味のある土地だった。源頼義が強引な手法を使って東北地方を支配したいと思うのは当然のことだった。同年、源頼義の家臣・藤原経清(つねきよ)が、身内の平永衡が源頼義に殺されたことから安倍頼時へと寝返った。

 藤原経清は安倍頼良の娘婿であり、最初から2人の関係は微妙だった。藤原経清は奥州藤原氏の祖となる人物で、また藤原経清は平将門の乱の際、将門を打ち取った藤原秀郷の子孫でもあった。源頼義は陸奥守の任期が終わるが、このような状態では源頼義以外に後任はなく、源頼義が再び陸奥守に任命された。
 源頼義と安倍頼時の戦いは一進一退の攻防が続き決定打がなかった。そこで源頼義は先手を打ち、翌1057年、安倍頼時の奥六郡の北に住む蝦夷を買収して南と北から奥六郡を挟み撃ちにしようとした。もちろんこの情報は安倍頼時も知っていた。
 安倍頼時は北方の蝦夷を説得するため、蝦夷たちの元へ向かうが、1057年7月、その途中で襲撃にあい戦死する。安倍頼時の死は安倍氏の力を削と思われたが、安倍一族の団結をより一層強固にした。息子の安倍貞任が後継者になり源頼義に対して徹底抗戦の構えを見せた。

 
源頼義の大敗
 安倍頼時が死に、その息子の安倍貞任が次の大将となり、同年9月に朝廷は安倍貞任に対して追討命令を出した。こうして再び戦争の大義名分を得た源頼義は貞任追討のための兵を整え、同年11月、源頼義は2000の兵を率いて奥六郡へと進軍した。しかし寒さと雪が行軍の邪魔をして、食料も十分でない状態での進軍であった。さらに地の利のある安倍貞任軍は巧みにその進軍を妨害し、源頼義軍に大打撃を与えた。貞任軍は4000人程度だったとされている。
 功を焦りすぎた源頼義は命からがらで逃げるのに精一杯だった。それほどの大敗北で、その再起には数年を要するほどのものだった。源頼義が手を出せない間、安倍貞任の東北支配はより一層強力なものとなり、もはや朝廷の命令など余裕で無視するようになった。
 源頼義の大敗から2年後、大敗で動けない源頼義軍を横目に藤原経清は奥六郡以南の地域に対して「国の徴収命令書を無視しろ。藤原経清の徴収命令書にだけ従うように」と命令し税金の徴収を始めた。まさにやりたい放題であった。
 藤原経清は源頼義から見れば裏切り者で、その傍若無人な振る舞いをされた源頼義は悔しがり藤原経清を強く憎んだ。藤原経清からすれば身内が源頼義に殺され上に身の危険を感じて逃走した経過があるので、裏切ったつもりは毛頭なかった。

 
源頼義の逆襲
 1057年の大敗により源頼義は窮地に追い込まれていた。武勇で知られた源頼義が惨敗したのだから勝てるわけがないと誰もが考えていたので、兵の補充が思うようにできなかった。このままでは父の源頼信が平忠常の乱で築き上げた関東地方での源氏の地位が失墜してしまうと危機感を覚えた源頼義は、1062年に再起し安倍貞任と一戦交えることになった。

 大敗により兵を補充できない源頼義は、出羽国の蝦夷の中心的な存在だった清原氏一族に貢物を送り続け援軍を要請した。執拗に説得を繰り返し、強い力を持つ清原氏の援軍は源頼義の最後の切り札で、清原氏は中立の立場を守っていたが、源頼義は味方につける必要があった。
 源頼義の必死の説得により、清原氏は源頼義の説得に応じ援軍を派遣することになる。強大な力を持つ清原氏を味方につけ、これまでの安倍氏の圧倒的有利の状況が一気に変わった。清原氏が安倍氏の味方についた1ヶ月後に安倍氏は滅亡したのである。それほどに清原氏の勢力は強かったのである。
 安倍貞任は激しい攻防戦の末、圧倒的な源頼義・清原氏連合軍に奥六郡の最北端まで追い込まれ、最後まで戦うが安倍貞任は戦死する。藤原経清は源頼義に捕らえられ処刑された。

 藤原経清は源頼義を裏切り、源頼義は藤原経清のことを強く憎んでいた。そのため処刑は藤原経清に長く苦痛を味わせるため、錆びた刃でゆっくりと首を切った。ちなみに清原・源連合軍の戦力は清原氏10000兵、源氏3000兵とされており、実質的に清原軍と言っても良かった。


源頼義のその後
 源頼義はその後、伊予国(愛媛県)の受領になる。伊予は気候が温暖で作物もよく育ち高収入が見込めれたので受領に人気があった。源頼義が伊予国の受領に選ばれたのは、源頼義の安倍氏討伐を朝廷が高く評価していたということになる。この当時、源頼義はすでに70歳近い高齢となっていた。朝廷にとっても安倍氏討伐は大きな成果で、源頼義の凱旋には多くの人が集まった。
 前九年の役の後、源頼義とその部下たちの間で強い主従関係が生まれた。それまでの軍隊は朝廷の追討令を受けて集まった他人同士で連帯感はなかった。前九年の役はこれまでに日本国内で起こっていた紛争とは違ったものであった。遠地への遠征、寒さと飢え、長期に渡る戦闘とその規模の大きさ、敵地を平定するための攻城戦などなど、多くの人が命をかけ協力しなければ成し得ないことだった。この戦いで源頼義は共に戦う人々と強い絆で結ばれ強い団結力を築くことになる
 伊予国受領に任命された源頼義は、すぐに任地へは赴かず、自分のために活躍してくれた部下たちにも勲功を与えて欲しいと活動している。結局、せっかく裕福な伊予国受領となったのに、国に赴いたのは受領となってから2年後で、しかもその間、朝廷への納税義務が果たせず部下の分を含め全て自費で支払った。源頼義がどれほど部下想いだったかがわかる。
 前九年の役は「陸奥話記」と呼ばれる軍記物が残されており、この軍記物には安倍氏と源頼義の主従関係にまつわる話が残されている。例えば、源頼義が大敗し命からがら逃げ切った時、「源頼義、戦死」という誤報を聞き、悲嘆に暮れる武士の様子が描かれている。さらに「主君亡き今、私が生きる理由はもはやない」と言わんばかりに死を覚悟で敵陣へ切り込み戦死してしまったという話も描かれている。武士といえば「忠義に厚く命を賭して戦う」というイメージがあるが、その原型が前九年の役の中で垣間見ることができる。
 前九年の役によって源頼義は関東地方の武士と強い主従関係で結ばれ、これが源氏が関東で力をつける大きな原動力となった。一方、東北地方は、安倍氏が清原氏に変わっただけで相変わらず蝦夷の統治に変わりはなかった。清原氏は前九年の役の最後の1ヶ月の間、ちょっとだけ参戦しただけなのに、出羽と陸奥という広大な地域を支配するまでになった。前九年の役で一番得をしたのが清原氏であった。しかし、前九年の役が終わってから約20年後、出羽と奥羽の支配権をめぐり清原氏の内部で対立関係が生まれた。要するに家族の内部対立が後三年の役へと繋がって行く。

後三年の役
 前九年の役から約20年後、東北地方は再び動乱の渦の中へと巻き込まれた。この時の戦いを「後三年の役」という。
 後三年の役は、その前に起きた前九年の役と密接に関わっていた。前九年の役が平定されるまでは、清原一族は出羽国の3郡、安倍一族は陸奥国の6郡(奥六郡)を支配していたが、前九年の役で安倍氏が滅ぶと、清原氏が出羽・陸奥の計9郡の広大な地域を支配するようになった。
  東北地方は砂金や良馬がたくさん生産できる豊かな地域で、しかも蝦夷地との交易の要所であった。そのような東北の統治者となった清原氏は強大な力を持つようになった。しかも清原氏は朝廷に逆らうことはせず、税も納め、朝廷とは良好な関係にあった。
 後三年の役の原因は前九年の役とはまるで違っていた。朝廷との関係が良好なのに、東北地方で再び戦いが始まったのである。後三年の役は「清原一族の相続争い」という私的な理由が原因だった。


清原一族の家督争い
 長く続いた安倍氏と源頼義の前九年の役は、清原氏が源頼義側に付いた途端に決着した。この時の清原援軍の総大将だったのが清原武貞(たけさだ)だった。前九年の役が終わり陸奥を支配領域に組み込んだ清原一族は、清原武貞の死後、次の棟梁を息子の清原真衡(さねひら)にした。
 清原真衡には異母兄弟の家衡(いえひら)と異父兄弟の清衡(きよひら)の2人の兄弟がいた。この兄弟関係は複雑で、家衡も清衡も前九年の役で清原氏と対立した安倍一族の女性が産んだ子であった。特に清衡はさらに複雑で、前九年の役により実父だった藤原経清が亡くなると、身拠りのない清衡は清原武貞の計らいで武貞の養子となっていた。そのため養子に成るまでの清衡の名は「藤原清衡」で、養子になった後に「清原清衡」と名乗るようになった
 清原武貞は前九年の役後、安倍氏が支配していた陸奥の奥六郡と呼ばれる一帯を新たな支配下に置いたが、新領土である奥六郡の安定統治のため、安倍一族の娘と血縁関係を結んだのである。さらに清原家は本拠地を出羽から陸奥へと移した。
 こうして安倍頼時の娘と清原武貞との間に生まれたのが清原家衡で、清衡を養子にしたのも奥六郡の安定統治のためだった。つまり嫡子の清原真衡、政略婚の末に生まれたのが清原家衡、政略婚の際に養子となったのが清原清衡である。この生い立ちの違う3人の兄弟が次第に対立し、この対立が後三年の役へと発展していくのである。

清原真衡の一族軽視
 清原真衡は子に恵まれず、養子として連れてきた成衡を自分の後継者にした。成衡は源義家の娘を妻に娶り、源氏とも血縁関係を結んだ。ちなみに源義家は前九年の役で活躍した源頼義の息子である。この婚姻も政略婚で、武勇で名高く皇室の血を引く源氏との関係強化を図ろうとしたのである。こうして清原真衡は着々と自らの立場を確立させてゆくが、清原真衡は後継者問題を抱えていた。
 清原真衡は嫡流のみを重視し、庶流となった清原一族たちを冷遇したことから、庶流の清原一族は清原真衡に強い不満を抱いていた。清原真衡以前の清原氏は清原一族が団結していたが、この不満が武力闘争に発展したのである。
 その日は清原成衡と源義家の娘との結婚式の日だった。吉彦秀武(きみこのひでたけ)は、清原氏に古くから仕えていて清原一族の女を嫁に持っていた。前九年の役でも一陣の指揮官として活躍した人物で、吉彦秀武はお祝いのため大量の金を抱えて真衡のところへ訪れたが、吉彦秀武は庭先で待たされたまま、清原真衡は碁に夢中で吉武秀武を完全に無視したのである。侮辱された吉彦秀武は、日頃からの様々な不満もあって「俺はもう帰る」と言うと、持ってきた金の袋を蹴っ飛ばして帰ってしまった。

 この吉彦秀武の振る舞いに真衡は激怒し「清原氏の棟梁に対してのその態度はなんだ、吉彦秀武は討伐する」と、吉彦秀武に対して派兵することになった。兵の規模は8000とされ、吉彦秀武は「自分だけでは太刀打ちできない」として、常日頃から真衡のやり方に不満を持っていた家衡・清衡に参戦を呼びかけた。
  家衡は「真衡が吉彦を攻める隙に、家衡と清衡で留守の真衡本拠地を攻める」ことを約束していた。

 

源義家の参戦
 家衡・清衡の襲撃を知った真衡は兵を引き返したため、この動きを知った家衡・清衡は直接対決を避けるため撤退した。その後,、再度体制を整えた清原真衡は再び吉彦秀武討伐へ向かった。するとまた真衡の留守の間を狙って家衡・清衡が本拠地めがけて襲撃を企みた。
 家衡・清衡に対し真衡側も対策をねり、源義家の兵の一部を留守の本拠地に配置していた。源義家がここで登場するが、それは義家の娘が清原真衡の息子の成衡と婚姻関係にあったからである。お互いに親戚同士だったので源義家が真衡を助けることになる。
 しかし源義家の兵だけでは家衡・清衡を抑えきれず、源義家本人も戦いに参戦し、源義家の登場により家衡・清衡は大敗した。その後、家衡・清衡は義家に降伏し、前九年の役を通じて源義家は東北地方でも強い影響力を持つようになった。


家衡対清衡
 家衡・清衡は真衡討伐に失敗したが、真衡は病により死去してしまう。家衡・清衡にとっては幸運であったが、その後の清原氏の後継者選定は源義家が仲介役となって行われた。源義家は清原氏と親戚関係になり、前九年の役により名声を上げ、強大な力を持つ清原氏の後継者選びにまで首を突っ込むほどになった。そこで源義家は清原氏の清原真衡の支配していた奥六郡を清衡と家衡にそれぞれ3郡ずつ分配させた。ちなみに養父を失った次期後継者候補の成衡は歴史の表舞台から姿を消した。養父の死により影響力を失ったからである。
 しかしこれに家衡は納得しなかった。家衡は「なぜ清原氏の血が流れていない養子の清衡と俺の領土が同じなんだ、普通全部自分のもの」と義家の決定に強い不満を持った。

 1086年、家衡は清衡の館を襲撃し、清衡の家族は全て殺され、清衡のみがかろうじて生き延びた。清衡はこれを源義家に報告し救けを懇願した。こうして義家は清衡へ加勢することになる。
 成衡が失墜した当時は、源義家には積極的に清衡と家衡の争いに介入する理由はなかった。それにも関わらず清衡に加担したのは、父の頼義が成し得なかった東北地方の支配権の獲得のためだった。

 父の頼義は、前九年の役で安倍氏を倒し、東北支配を目論んだが結局は全部清原氏にもっていかれ、失敗に終わった。義家はその復讐をしようとした。そもそも真衡が亡くなった後、その遺領を家衡と清衡に半分ずつ分配したのも互いに争いが起こるように仕向けたのである。


敗北する源義家
 家衡は源義家に対して沼柵に篭り防衛戦を展開する。一方の源義家は沼柵へと進軍するが、季節は冬、また想定以上に家衡が強かったため敗北したのである。体制を立て直すため一時撤退するが、前九年の役と同様、蝦夷の基地は非常に防御力が強く攻める側にも高度な攻城戦が求められた。東北地方は蝦夷地との緩衝地帯であり、戦闘に備えた基地が必要だった。当時の源義家はそこまでの準備をせずに出兵したため、敗北せざるを得なかったのである。
 1087年、清衡・源義家軍は家衡に対して復讐戦を行う。家衡はその地方で難攻不落と呼ばれていた金沢柵で清衡・源義家軍を待ち構えた。この時の伝説として、金沢柵へ向かう行軍中の義家の目の前で雁が飛び立っていった。義家は雁の飛び立つ様子が乱れているのに気づき「雁が列を乱して飛び立つのは雁の近くに人がいる証拠であり、伏兵が潜んでいる」と家衡の伏兵にいち早く気付いた。こうして不意打ちを受けることなく敵兵を殲滅させた。この逸話が本当かどうかは分からないが、義家は武勇だけでなく策略にも優れたことを物語っている。
 難攻不落の金沢柵の攻城戦初日の逸話を紹介する。鎌倉権五郎景政は敵兵からの矢を目に受け、矢が刺さったまま本陣へ戻り倒れてしまった。心配した同僚は、矢を抜いてやろうと思い鎌倉権五郎景政の顔を足で抑えながら矢を抜こうとした。すると顔を踏まれた鎌倉権五郎景政は激怒し「矢を受けて死ぬのは本望だが、生きながらに顔を踏まれるのは我慢できん」と叫び刀を抜いて同僚を威嚇した。この様子をみた周囲の人々は「景政に敵う者はいない」と感嘆したのである。この武勇伝の鎌倉権五郎景政は源頼朝の側近で、源頼朝の危機を救ったことで有名な梶原景時の先祖になる。
 源義家軍には鎌倉権五郎景政のような武者がいたが、難攻不落の金沢柵はいくら攻めても落ちる気配がなかった。家衡軍は強力だったので、清衡・源義家軍が選んだ戦法は兵糧攻めであった。義家は金沢柵を包囲し兵糧攻めを行い、秋から冬になると想定通り飢餓に苦しむ女子供が投降してきた。


殺戮される女子供
 源義家は投降した人々を助命しようとするが、吉彦秀武がこれに反対した。吉彦秀武はかつて金を真衡に渡そうとして無視され者で、この時、吉彦秀武は清原清衡軍に参戦していた。

 吉彦秀武は投降者を見せしめとして殺し、投降者を減らすことで金沢柵内での食料消費を早めようとしたのである。吉彦秀武は家衡軍の殲滅を考えていた。難攻不落の金沢柵を攻めあぐねていたので、結局、義家は吉彦秀武の案を採用し、投降した女子供を全て殺し、それをみた家衡軍は金沢柵の門を固く閉ざした。このようにして兵糧攻めに苦しむ家衡軍は敗走し、金沢柵内の人々は女子供老人城兵に関わらずすべて皆殺しになり、完膚なきまでに叩き潰され後三年の役は終了する。


奥州後三年記
 前九年の役は「陸奥話記」に書かれており、後三年の役は「奥州後三年記」という軍記物に残されている。「陸奥話記」は部下と上司の忠義に厚い様子が描かれており史料としてだけでなく文学的な面も評価されているが、「奥州後三年記」は残虐な場面が多く描かれているのであまり評判がよくない。兵糧攻めと女子供の皆殺しなどの残虐な一面が際立っているからである。


源義家の不遇
 後三年の役は源義家の勝利に終わった。しかも前九年の役のように清原氏のおかげで勝ったのではなく、源義家の単独による勝利だった。源義家は朝廷が東北支配を任せてくれると思っていたが、朝廷は「後三年の役での戦いは全て義家の私闘であり、恩賞を与える必要はない」と一蹴してきた。清原一族は朝廷に歯向かう様子もなく、納税もしており、朝廷が追討命令を出したわけではなかった。朝廷にすれば「源義家は、清原一族の家督争いに乱入しただけ」と捉えていたのだった。前九年の役とは状況が違っていたのである。
 源義家は敵兵の首を持って上京したが、この朝廷の報告を受けると首を道端に捨て、手ぶらで上京することになった。このことは「義家がこれ以上強い影響力を持つことを避けるため、朝廷はあえて私闘と認定した」との説がある。事実は分からないが、少なくとも平忠常の乱の平定による源氏の名声と関東地方への影響力は、前九年の役・後三年の役を通じてより一層高まり、朝廷がそれを意識せざるを得ない状況になっていたことは間違いない。


源義家と武士との主従関係
 朝廷は源義家に恩賞を与えないだけでなく、義家が戦っている間に払うべき陸奥国からの税の滞納分を求めてきた。義家は陸奥国の受領で、受領は納税の責任者であり、納税をしないと出世できないのが原則だった。朝廷にすれば「私闘にうつつを抜かし納税義務を怠った」としても仕方がなかった。1088年、義家は陸奥国の受領の役職を罷免させられ、義家は朝廷に多大な負債を抱え、それを返済するまでの間、官位はお預けとなった。義家は「朝廷から恩賞をもらえれば借金はなしになる」と思っていたが、その目論見は失敗に終わった。
 源義家が後三年の役で得たのは膨大な負債だけだった。その負債により受領からも罷免され、源義家の影響力は次第に弱まることになる。平忠常の乱から後三年の役を頂点に、それ以後、源氏は源平合戦までの間、冬の時代を迎えることになる。
 しかしそれ以上に「源氏と関東武士との信頼関係」が生まれることになった。源義家は多大な負債を抱え、受領を罷免されたが、部下に対して自費で恩賞を与えたのである。前九年の役においても、義家の父・頼義が同様のことをしており、生死を賭けた過酷な戦いと義家の自費による恩賞により、義家と関東武士たちの主従関係はより親密となった。後三年の役を通じて獲得したこの主従関係こそが、源頼朝が開いた鎌倉幕府の新たな仕組み「御恩と奉公」という政治システムが芽生えたのだった。
 源義家は八幡太郎義家ともいわれ「武家としての源氏」を創り上げた。後三年の役の後に数多くの源氏の血を持つ武士が登場するが、多くの武士が自分の武士としての血統の正当性を源義家に求めた。源氏が自分の話をする場合は、最初に源義家との関係から始めた。このように源義家の存在は、その後の源氏の武士たちの大きな心の支えとなった。


奥州藤原氏
 後三年の役は奥州藤原氏が登場するきっかけになった。義家と共に後三年の役の勝利者となった清原清衡であるが、この清原清衡が奥州藤原氏の祖となる。後三年の役の終了後、争いにより有力な清原氏一族は全て滅亡し、唯一生き残った清衡が棚ぼた式に清原氏の遺産を全て得ることになり、一気に奥羽の有力者になった。
 清原清衡は清原氏の養子で、元は「藤原氏」の姓を名乗っていた。その清原氏が滅びたので、清衡にとってもはや「清原」の姓を名乗る必要はなくなり、旧姓の「藤原」を名乗ることになった。ちなみに、同じ藤原でも摂関政治で有名な藤原家とは全く違う系列である。
 奥州藤原氏は良馬や金などを朝廷に献上することでその地位を認められ、独自の支配権を築き上げる。東北地方は裕福な地域で良馬もたくさん生産できるため、奥州藤原氏は圧倒的な強さを誇った。またその武力を用いて反乱を起こすこともなく、源頼朝による奥州藤原氏討伐までは比較的安定した時代になる。
 東北地方の勢力は大きく塗り替えられ、奥州藤原氏が幅を利かすようになり、また源氏は武士としての確固たる地位を確立し、鎌倉時代の武士政権の下地を整えた。