徳川家光

 徳川家光は江戸幕府の第3代将軍で、2代将軍・秀忠の次男(嫡男)である。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江(こう)である。江とはあのお市の方の3姉妹のお江のことで、乳母は春日局(福)である。乳兄弟には稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいる。

 江戸時代の15人の徳川将軍のうち、正室の子は家康・家光・慶喜の3人のみで、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみである。徳川家光は「生まれながらの将軍」としてその名に恥じぬ政治能力を発揮し、徳川幕府の幕藩体制の基礎を固めた。その反面、男色家の家光と正室・鷹司孝子との関係は良くなかった。
 一方、徳川家光の政策は見習うべき点が多く、江戸幕府が280年続くことになったのもこの徳川家光の功績が大きいと思われる。

誕生から将軍就任まで
 1604年7月17日、徳川家光は2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城西の丸で生まれた。秀忠には長男・長丸がいたがすでに早世していたため後継として扱われ、祖父・家康と同じ幼名の竹千代が与えられた。なお乳母の春日局(福)が家光の母で、家康が実父ではないかとの説がある。
 家光の誕生に伴い、明智光秀家臣の斎藤利三の娘である福(小早川・家家臣稲葉正・成室、後の春日局)が乳母となり、稲葉正勝・松平信綱・岡部永綱・水野光綱・永井直貞ら小姓が付けられる。
 1605年、徳川家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所となるが、幼少時の家光は病弱で吃音(どもり)があり容姿も美麗とは言えなかった。翌年、弟・国松(忠長)が誕生するが、徳川秀忠らは竹千代よりも国松に愛情を注ぎ、国松を世継ぎにとの空気が流れ始めた。寵愛を受けた国松と竹千代の間に世継ぎ争いが起きたが、竹千代家督継承を危惧したじた乳母の福が駿府のご隠居の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にして家光の世継が決定したとされている。
 家康が孫たちに会いに江戸城に行った際、家康は「竹千代どの、こちらへ来なさい」と竹千代をていねいな言葉でよび寄せ、国松には「おまえはそこにいろ」と一喝し、竹千代を優先的にあつかうことで将軍の座を約束した。
 1616年5月には、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が家光付けの年寄となり、60数名の少年が小姓として任命された。翌年には西の丸へ移り、朝廷の勅使を迎え、公式の場への出席が見られる。

3代将軍徳川家光

 大坂の陣にて豊臣家を滅亡させた初代の将軍・徳川家康が、1616年に死去すると、元服は1620年に延期され、名は幼名の竹千代から家光に改められた。「家光」の「家」は家康の「家」で、徳川将軍家ではこの「家」が嫡男の名として使われるようになった。
 1623年には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられ、将軍家世子として朝廷より右近衛大将に任じられた。同年には父・秀忠とともに上洛し、伏見城で将軍宣下を受け正二位内大臣となる。

 後水尾天皇や入内した妹・和子とも対面し、江戸へ戻ると秀忠は江戸城西の丸に隠居し家光は本丸へ移った。
 こうして家光は20歳で三代将軍に就任。祖父・家康が開いた幕府の体制をさらに高めようとし、大名たちを集めると「私は生まれながらの将軍である。祖父や父の仲間だった大名もすべて家来としてあつかう」と宣言した。
 徳川秀忠は政権移譲した後も、大御所として軍事指揮権等の政治的実権を掌握して、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治となった。そのため父・徳川秀忠の存命中はほとんど目立った政策は行われていなかったが、徳川秀忠が1632年に亡くなったあと本領を発揮していく。

 まず3代将軍徳川家光は、徳川直臣である旗本を再編し、幕府には老中・若年寄・奉行・大目付と言う役職を設け、将軍を最高権力者と言う位置づけを確立させた。平和な世の中の組織に作り替えました。重臣として大老の井伊直孝・土井利勝・酒井忠勝、老中としては松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛(春日局の義理の孫)、大目付として中根正盛などがいる。
 さらに熊本藩主・加藤忠広を改易(没収)するなど、譜代や外様を問わず、有力大名の改易と転封。1633年福岡藩における栗山大膳事件(黒田騒動)では自ら裁定を下し黒田忠之の藩側の主張を認めている。
 幕政における改革では老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。

武断政治
 家光の代までに取られた江戸幕府の一連の強権政策は「武断政治」と言われる。1641年には嫡男の竹千代(4代将軍・家綱)が生まれる。1634年に家光は30万の大軍を率いて3度目の上洛を行い、後水尾上皇による院政を認めて紫衣事件以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで国内政治の安定を図った。家光の時代は、戦争が続いた戦国時代が終わり、日本中がようやく平和になろうとしていた時期にあたります。
 ところが幕府の基盤が安定したと思われた1642年からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受ける。更に1644年には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られた1644年には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した。

武家諸法度の改定と参勤交代
 武家諸法度とは大名や武士が守るべき決まりを定めたもので、徳川家康によって江戸幕府を長く続けていくために作られたものである。大名や武士がしてはいけないことを書いた法律で、新しい城を築いてはいけない、勝手に結婚してはいけないなどが書かれている。家光はこの武家諸法度をさらに厳しくし新たな項目を加えた。それが「参勤交代」で大名が1年おきに自分の領地と江戸を行き来し、将軍のために働くというものであった。領地に帰るときは、妻や子を人質として江戸に残すことが決まりで、これによって大名にお金を使わせ幕府に逆らわないようにした。
 例えば加賀藩(金沢)の参勤交代の様子をえがいた絵が残されているが、およそ2000人もの大行列で金沢から江戸までおよそ480km、2週間の旅であった。武器や衣装、食事代などには莫大なお金がかかり、加賀藩では宿泊費だけでも現在の金額で2億円を使ったとされている。すべては大名たちの自己負担で、大名は大金を使い、謀反どころではなかった。これが家光の狙いで、参勤交代で大名をおさえつけ、家光は全国の支配を固めていった。

島原の乱とキリスト教の禁止
 島原の乱とは豊臣秀吉や徳川家康の時代に禁止されたキリスト教を信じる人たちが、天草四郎をリーダーとして起こした反乱のことである。当時、島原周囲の農民たちはキリスト教への弾圧と重税に苦しんでいた。この状況を何とかしようと3万人以上の農民たちが江戸幕府へ反乱を起こしたのである。幕府は12万もの兵をつぎこみこの反乱をおさめると共に、その原因となったキリスト教の取り締まりをより強化した。  家光自らが率先して全国規模でキリシタンへの弾圧政策を推進して迫害した。
 一例としては1624年4月27日に男5人女7人のキリシタンが火刑に処され、12月1日には子供を含む13人が水磔で処刑されている。また鋸竹鋸引き、木馬責め、切・支・丹の焼印押し、硫黄と灰を鼻に押しあて口を閉じさせる、穴吊りなど苦しみが長くなかなか死なない拷問が数多く採用された。寛永13年、城門の修理工事を視察した家光は城外にいた93人の乞食を発見し、彼らがキリシタンであることを知るとただちに捕らえ密室に追い込んで餓死させた。天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンも穴釣りの刑(地面に穴を掘って逆さ吊りにしておく刑)により処刑されている。

鎖国
 鎖国とは江戸幕府が定めた外国との貿易や交流を制限することで、まずキリスト教の取りしまりを厳しくし、キリスト教を広めるポルトガル人を追放しした。キリスト教を広めるおそれの少ない中国や朝鮮半島、オランダとの貿易は長崎につくられた「出島」という場所で続けられた。出島を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させ、出島の貿易の利益を幕府が独占した。 国をとざしたこのような一連の政策を鎖国といい、鎖国により幕府の支配力と財力は安定していった。
 家光は親政が始まった後、長崎奉行の竹中重義に改易と切腹を命じ、新しい長崎奉行を旗本2人から任命して、同時に1長崎奉行に東南アジア方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定(鎖国令)を発布した。1635年の第三次鎖国令では、日本人の東南アジア方面との往来が禁止され、宣教師の密航の手段であり国際紛争の火種となっていた朱印船貿易は終焉を迎えた。また、九州各地の中国人は長崎のみに集住させられ、ポルトガル人は長崎の出島に隔離された。
鎖国と国際関係
 鎖国政策は宣教師を工作員とした欧州各国の内政干渉と植民地化を予防し、日本の独立主権を保持することが目的であった。この鎖国政策は政策面から国の将来を考えて行なったとする肯定的な考えがある。また宣教師を通じた文化的侵略に対抗する意味では、それなりの効果はあったと考えられる。家光が単に外国嫌いだったとする説もあるが、政策については重臣の意向も色濃く反映されるため、家光の個人的志向にするのは問題がある。
政治体制
 秀忠の死後、前代からの年寄(老中)である土井利勝、酒井忠勝、酒井忠世が引き続き年寄となったが、家光はそれまで年寄一人ができたことも、年寄3人での合議がなければ将軍への披露を認めないことにした。そのため政務は渋滞を来たし、諸大名が幕府に進物を出すこともままならなくなった。1634年には制度を改め、年寄り3人の担当を月番制とし、六人衆(若年寄の前身)をその補佐として置いた。当初はこの制度は円滑に動いていたが、後に年寄達が案件を翌月に先送りするようになった。その後、六人衆から松平信綱や阿部忠秋らが老中となり、土井利勝や酒井忠勝は重要な事項のみ扱う大老となった。また、目付と大目付を設置し、年寄達を通さずに直接将軍が情報を掌握できるようにするなど、幕府の諸役職は家光の時期に定まっている。


性格
 武芸を好みたびたび御前試合(寛永御前試合や慶安御前試合など)や武芸上覧などを催している。特に剣術を好み、自身も柳生宗矩に師事し、柳生新陰流の免許を受けている。家康や秀忠同様に能を好んだが風流踊を主体とした催しをしたり、役者ではない諸大名や家臣に演じさせたりと、やや「屈折」した愛好の仕方であった。柳生宗矩にも、秘曲として名高い難曲「関寺小町」を舞わせている。玄人の中では当時の代表的な役者である北七大夫を父同様に贔屓した。

 

財政
 大軍を従えた上洛を3回おこない、京では天皇や諸公卿に献金し町衆に祝儀をばらまいた。上洛で100万両以上費やし、家光1代で500万両以上使ったが、次代の家綱に600万両残し、各方面に52万両を遺産分けをした。
    家光が死んだ頃には金銀の産出量が減りはじめ、家康以来の蓄財を浪費し、幕府財政窮乏の端緒を作ったと言われる。しかし、多額の貨幣が世間に流出したことによって物々交換経済から貨幣経済と移行する一助となった。将軍になって以降も、遠乗りや諸大名の邸への御成などで外出することを好んだ。

 

男色
 徳川家光と言えば数多くの小姓と男色関係にあった。無類の男色家で数々の美少年と浮名も流した。女性に興味がなかったのも当然と言えば当然であるが、家光はただの男色ではなかった。家光は身分が高いので当然小姓と呼ばれるお世話係がいるが、その中から自分好みの美少年を次々と相手にしていく。小姓としては出世の足掛かりになり、権力者には逆らえないため、家光の誘いを断れなかった者が多かった。家光は複数の美少年達と思うままに楽しんでいて、寵愛を受けた者の中には大名にまで上り詰める者もいた。特に酒井重澄と堀田正盛の2人は家光をめぐって激しく火花を散らし、結果的にはお互い大名になった。
 しかし酒井重澄は病気と称して引きこもり、妻と妾との間に四人の子をもうけたことを家光が知り領地を没収されている。堀田正盛はどんどんと出世していき、家光の小姓の中で寵愛を受けた者の中では別格に下総佐倉藩十万石の大名となるが、家光の死去に際して殉死している。
 この他には家光の寵愛を受けていたにも関わらず、他の小姓との関係がわかり、手討ちにされてしまった坂部五右衛門などがいる。家光は自分は気に入ったものと自由に恋愛をしたが、かなり嫉妬深く小姓の浮気は許さなかった。
結婚
 徳川家光は若い時分から女性に興味を持っていなかった。しかし将軍に就任すると結婚相手として黒田長政の娘とする噂があったが、五摂家と言われる公家の名家鷹司家から妻を迎えることになる。この結婚は政略結婚で、家光は将軍家が公家から妻を迎え入れることになる。この頃の幕府と朝廷との関係は険悪で、その関係性がそのまま夫婦仲に表れている。
 輿入れして間もなく、家光と孝子は別居し、すでに夫婦関係は最初から破綻していた。このため正室という立場でありながら、孝子は「御台所」と呼ばれることなく冷遇された。家光の死後の形見分けも殆ど行われておらず、また後に将軍となる家綱、綱吉との養子縁組も行われなかった。

 家光が孝子との実質的な夫婦生活を送らなかったのには、家光の男色関係などが絡み合っているが、根本にあったのはやはり二人の性格の問題だった。女嫌いで気の強い家光と誇り高い孝子では折り合いが付かなかった。またヨーロッパでは正妻の子供じゃないと世継ぎになれないが、日本の場合はヨーロッパと違って無理に仲良くする必要がなかった。第一家光自身が後継ぎを作る気がなく平気で男を引っ張り込んでいた。
 それでも孝子は家光と離縁することもなく、幕府と朝廷の関係改善に一役買うことにはなった。また孝子は晩年には4代将軍となる家綱から母親と同じ待遇を受けた。 

 しかし問題だったのは、正室・鷹司孝子との間に子がいなかったことだった。困った春日局は大奥に美女などを集めて、徳川家光の手がつくようにした。

 お福はなりふり構わず側室作戦を実行する。家光が一目惚れしたのは9歳の尼僧だった。強引に還俗させ、この人が「お万の方」となる。お福は気に入りそうな娘を次々と側室にした。「お玉の方」は京都の八百屋の娘です。いわゆる「玉の輿」である。浅草寺で見つけた「お楽の方」は、父親は農民出身で死罪になっていた。お福が庶民を選んだ理由は、町にいる女性の方が健康で元気な世継ぎを産めるのではということだった。

 努力の甲斐あって、家光は女性に目を向けるようになった。側室・お振の方が産んだのが、1637年に生まれた千代姫で、1641年には側室・お楽の方(宝樹院)が、4代将軍となる徳川家綱を産んだ。このことにより大奥は将軍の世継ぎを設けるために機能していった。特に「お万の方」は家光が女性に興味を持つきっかけになった女性で、側室の中では最も寵愛された。「お万の方」のおかげで徳川家の直系の血脈が途切れることがなかったとも言えるので、彼女の将軍家に対する貢献は大きい。その一方で幕臣からは「春日局の再来」と恐れられた。またお玉の方は「玉の輿」の語源にもなった俗説が存在する女性としても有名で、低い身分の出身ながら5代将軍将軍の生母「桂昌院」として権力を握った。
 この桂昌院と仲が悪かったのが「お夏の方」である。彼女はもともと鷹司孝子の女中だったが家光の手がつき、後に甲府藩主となる徳川綱重を出産した。この徳川綱重の子供が後の6代将軍にあたる徳川家宣です。このように、家光の側室からは、後の徳川将軍家を継承する人物が数多く産まれている。

 

姻戚
 後水尾天皇の中宮として同母妹の和子(東福門院)が皇室に嫁したため、和子の子で甥の高仁親王の立太子および即位を望んだが親王はわずか3歳で夭折してしまう。そこで姪の女一宮興子内親王が明正天皇として即位した。このことにより徳川家は天皇家の外戚となり宮中にも強い影響力を持つようになった。また、摂関家の九条道房、一条教輔に養女を嫁がせるなどして朝廷内における権力の基盤も固めた。なお二条康道、九条道房兄弟は家光の甥にあたる。

 

二世権現
    病弱で3歳時に大病した家光が家康の調薬によって快復した。以後も病に臥せるたびに家康の霊夢によって快復したとする話や、家光を粗略に扱う秀忠夫妻に激怒し、家光を駿府に引き取って家康の養子にしてから3代将軍に就けると叱責した話がある。これらに加え家康の命日と家光の生誕日が17日と一致していることなどが、父・秀忠よりも祖父・家康の恩を意識していたと考えられている。

 東照宮を造営すると、日光社参を生涯のうちに10回行っている。晩年、家光はたびたび家康の姿を夢に見て、狩野探幽にその肖像を何度も描かせている。これらは「(家光)霊夢(の画)像」と総称され、現在16点程確認されている。
    身につけていた守袋に「二世権現、二世将軍」や「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」等と書いた紙を入れており、これも家康とのつながりの意識の強さとその尊崇ぶりを示すものと見られている。


 
祖父・家康が心の支え
 栃木県の日光東照宮には家光の祖父・家康がまつられてる。当初は質素な建物であったが、家光がきらびやかにつくり変えた。幼いころ家光を将軍に推してくれた祖父への感謝の思いが表れている。家光がなやんでいるとき、家康がたびたび夢に現れ、見守ってくれたといわれている。
 徳川家光は生涯にわたって家康を尊敬し、家康の21回目の法要をきっかけに日光東照宮の大改修を行っている。その時の大改修によって、現在に伝わる華麗な社殿が出来上がった。日光東照宮の大規模改築に56万8,000両と銀100貫を投じた。そして数万のお供を従えるため巨大な費用がかかる参詣を3度行っている。
 遺言でも死後は徳川家康の側にいたいと言い、この場所に自分の墓をつくらせている。祖父・家康がつくり、家光が固めた江戸幕府は、およそ260年続き、今の東京へと受けつがれてい。
 1650年には病気となり諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月20日に江戸城内で死去した。享年48。家光の死に際して堀田正盛や阿部重次らが殉死している。遺骸は遺言により東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られた(日光東照宮)。