春日局

春日局(斎藤福)
 春日局(お福)は三代将軍徳川家光の乳母として有名である。春日局は天皇拝謁の際に賜った院号で、本名は斎藤福(お福)である。 春日局は江戸城大奥の礎を築いた人物で、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた。お福は徳川家に尽力した人生を送り、朝廷との交渉の前面に立ち、江戸時代における女性政治家として徳川政権の安定に努めた。

幼少から稲葉正成の妻まで
 父・斎藤利三は明智光秀の重臣で、斉藤道三は美濃守護代を代々務めた武家の名門である。斎藤利三は父・斎藤義龍の死後、稲葉一鉄に仕えていたが、頑固一鉄で知られる稲葉一鉄と喧嘩別れしてからは、親戚だった明智光秀に仕えるようになった。

 明智光秀は荻野氏の黒井城(赤井直政)を陥落させ、丹波平定して斎藤利三に10万石を与え丹波・黒井城主を命じている。その頃にお福は黒井城(興禅寺)で斎藤利三の三女として誕生した。母は稲葉良通の娘・安である。斎藤利三の母は明智光秀の妹で、斎藤利三の先妻は斎藤道三の妹とされている。黒井城にはお福が腰をかけたという「お福石」(興禅寺)などの誕生伝説が多く残されている。
 お福は姫として幼少期を丹波亀山城ですごすが、お福が4歳の時に明智光秀が本能寺の変を起こした。この本能寺の変で、明智光秀の筆頭家臣である父・斎藤利三はともに戦い織田信長を討つが、そのわずか数日後の「山崎の戦い」で豊臣秀吉に敗れ、斎藤利三のこもる亀山城も高山右近らに攻撃を受けた。

 お福は母とともに母の実家がある京へ逃げるが、途中で父・斎藤利三の処刑を目撃したとされている。ここから裏切り者の娘としての人生が始まる。
 お福は母方の実家である稲葉家に引取られ各地を転々とするが、豊臣勢の追っ手が迫っていたこともあり稲葉一鉄の世話で、お福は三条西公国(さんじょうにしきんくに)を頼った。三条西公国は太政大臣・左右大臣にもなれる家柄で斎藤福らを奉公人として匿った。ここで公家の素養である書道・歌道・香道など様々な教養を身につけた。

 しかし約3年後、豊臣秀吉にお福が三条西公国に居る事が知れてしまい、亡き父の妹が長宗我部元親に嫁いでいたことから、土佐の長宗我部元親を頼った。お福は土佐で武士の法律や武家の学問・知識・教養を身につけた。12歳になった斎藤福は三条西家を継いだ三条西実条を頼って再び京を訪れ、歌や文学・学問などの教養を更に身につけた。お福は何処へ行っても人に好かれる賢い娘だと評判だったとされている。その後、伯父の稲葉重通の養女となった。稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の稲葉正成の正妻が若くして亡くなった為、稲葉福を稲葉正成の後妻とした。稲葉福17歳、稲葉正成25歳だっと言われる。
 稲葉正成は関ヶ原の戦いにおいて、主君・小早川秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ徳川家康を勝利に導いた功労者であるが、小早川秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に死去し、小早川家は子がいなかった為、断絶・取り潰しとなり家臣は全員浪人となった。

 小早川家の旧臣は関が原で裏切った事を良く思われず仕官先がなく、稲葉正成も当然ながら浪人となり家族は流浪にさらされた。このとき稲葉正成が妾を持ち、度重なる夫の浮気により腹を立てたお福は妾を斬り殺し、稲葉正成に離縁状を叩きつけて京に出た。

 1603年には徳川家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、徳川家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の乳母を探すことになり、京都所司代・板倉勝重によって京都に在住する教養ある乳母募集がなされた。三条西実条の推薦を受け3人目の稲葉正利を産んだばかりのお福(26歳)が家光誕生および乳母募集の高札を見て応募した。

 当時の乳母は世の女性の憧れの的で、まして家康の孫・家光の乳母は超エリートの職業であった。乳母となるのに海北友松らの推薦がもあり、小早川家断絶に呵責を覚えてた家康の配慮ともされている。関ヶ原の戦いで自分に味方した元小早川家家老・稲葉正成の戦功と妻である稲葉福の公家や武家での教養に目を止めて、竹千代の乳母として採用したとだれている。もちろんお福が没落した名家の出で教養があったからである。またお福は天然痘によるアバタ顔であったため、天然痘に免疫があり乳母に最適だったとされている。

 

家康と明智光秀の繋がり

 本能寺の変で明智軍を本能寺まで先導した武将が斉藤利三で、その斉藤利三の娘の「福」が稲葉重通の養女となり、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の乳母となったのである。乳母というのは、その気になれば嬰児の命を奪うことができる。もし徳川家康と明智光秀とが敵対関係にあったなら、明智光秀の重臣の娘を引き取って孫の家光の乳母にすることは絶対にあり得ない話である。斉藤利三は本能寺の変の後、羽柴秀吉との山崎の戦いで先鋒として活躍し、その後、秀吉の執拗な捜索により近江堅田で捕縛され六条河原で斬首となっている。

 斉藤利三は処刑される前に、秀吉から謀反に加担した者の名前を執拗に追及されていたはずである。もし斉藤利三と家康とつるんでいて、家康の名前を白状していたら、秀吉は直ちに徳川家征伐に動いただろう。

 斉藤利三がこの時に口を割らなかったから、家康は安堵して利三の娘の福を孫の乳母にした可能性は高い。徳川幕府の2代将軍は秀忠で3代将軍は家光だが、明智光秀の名前の字を一字ずつ入れている。もし明智光秀が敵対していたのならば、秀や光という字を将軍の名前に入れることを忌み嫌うことであろう。家康と明智光秀とは繋がっていたと考えたほうが正しいのではないだろうか。
 徳川家康を祀った日光東照宮に「見ざる言わざる聞かざる」の彫刻がある。この彫刻は何のために作られたのだろうか。人生訓としては普通の人間には含蓄がなさすぎるのだが、謀略を繰り返してきた家康にとっては、子子孫孫の発展のために徳川家の秘密を一切外に洩らすなという強い思いがこの三匹の猿に込められているのかもしれない。


家光の乳母へ
 1604年に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(徳川家光)の乳母に任命された。このときの選考にあたり、お福の家柄及び公家の教養、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられた。稲葉正勝は1623年に老中に就任、翌年には相模国小田原藩主となっている。
 家康は女性を蔑視したかのように思われがちだが、女性であっても能力しだいによっては、外交官や教育係として採用した面もあり、子を産まぬ側室たちの中にも、重要な任務を帯びて活躍した女性は多い。
 家康の側室にお梶(英勝院)と呼ばれた女性は、元は太田家の出であり、甥の資宗を家光の学友とした関係もあり、ことのほか家光と縁が深かったと言われている。また秀吉によって改易させられた宇都宮国綱の妻は、入内した東福門院和子(秀忠の娘)の付け人として起用されている。
 お福自身も実の息子・稲葉正勝を家光側近に取り立てられており、名家ゆえに身に付けた教養を、没落したがゆえに葬り去られることを家康が残念に思っていたのだろう。また天下を狙うがゆえに、こうした人材を使って朝廷に働きかけようとしたのだろう。

 お江与の方の母は織田信長の姉・お市である。お江与の方は母の兄弟である織田信長を殺害した明智光秀を快く思っておらず、その明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘である齋藤福が竹千代の乳母になるのを嫌ったとされるが、お江与の父・浅井長政は織田信長の攻撃で自害し、お市の方は柴田勝家の正妻となり豊臣秀吉の攻撃で自害、姉の茶々は徳川家康の攻撃で大坂城で自害、もう1人の姉・初が嫁いだ京極家は関が原では当初西軍だったが裏切って東軍に加担していた。

 これらの事情をべると、織田信長が討たれたことに、そんなに恨みを持っていたとは考えにくい。むしろ裏切りにより翻弄される人生であった為、裏切り人に加担した者の娘と言う事でお福を嫌っていたとおもわれる。
 未来の将軍、竹千代(三代将軍・家光)の乳母となったお福は、竹千代を懸命に養育した。竹千代の生母・お江与も最初は可愛がったが、次男・国松(徳川忠長)が生まれると、国松を世継ぎにするために優遇する。そのためお福とお江与はそりが合わず、これが後年、家光と次男、忠長(国松)との確執につながったという話はあまりにも有名である。この時代、高貴な女性は我が子に自ら授乳し育児をする事はない。また実子でもお気に入りの子をひいきにするのは普通の事だった。お江与の方が国松(国千代、のちの徳川忠長)を次期将軍にと思い込んだのは、竹千代は生まれながら虚弱体質で体が弱かったからで、お福への対抗意識と言うものではない。
 当時、二代将軍・徳川秀忠とその正室・お江は跡取りに悩んでいた。というのも家光は幼少時から病弱な上、吃音(どもり)があり、内気な性格で天下を統べる将軍としてふさわしくないと思ったからである。それに比べ、弟の忠長は丈夫で積極的な性格で見た目にも良い子供だったため、「病弱な子に将軍をやらせるのもかわいそうだし、廃嫡して次男に将軍職を継がせたほうがよい」と考えたのである。
 忠長(国松)は才気にあふれ、秀忠、お江与夫婦をはじめ、徳川家家臣や有力諸大名たちからも、次なる3代将軍は忠長という声が江戸城内で聞こえるようになった。
 春日局(お福)はこれを黙って聞き流すわけにはいかなかった。危機感を強めたお福はお伊勢参りと見せかけて江戸城を抜け出し、駿府城(静岡)の家康に面会を求め「次期将軍は家光に」と直訴したのである。

 こうして春日局は、次期将軍は家光である事のお墨付きを家康からもらった。乳母に過ぎない身分の者が将軍世継ぎ問題で家康に直訴したとしても家康が会うとは考えにくいため、お福がかつて家康の愛妾の一人であったとの説がある。
 徳川家康は当初、竹千代を世継ぎにすることには乗り気ではなく、江戸城に赴いたところ予想以上に徳川秀忠夫妻が国松を寵愛しているのを見て、竹千代を世継ぎにするべきだと考えを改めたともいわれている。
 徳川家康が上座に座り竹千代と国松が部屋に呼ばれ、徳川家康は竹千代に「こちらに来なさい」と言って呼び寄せて隣に座らせた。そこへ呼ばれていない国松も一緒に側に寄ろうとたが「長幼の儀礼をわきまえないとは何事か。竹千代殿は兄、世継ぎとなる身、国松殿は弟、臣下となる身であろう。同列に並ぶことは許さぬ。ほんに竹千代殿はよい将軍になられるであろうのう」との一言で3代将軍になるのは竹千代(徳川家光)と決定したのである。徳川家康は長幼の序列を重んじ家光を次期将軍とし、忠長(国松)は家来扱いをして、鶴の一声で将軍職継承は家光に決定したのである。

 徳川家康が駿府城において享年75で死去すると、竹千代の守役として酒井忠利・内藤清次・青山忠俊の3人が竹千代付けの年寄に就任し、久世広之など約60名の少年が小姓として任命された。斎藤福の子である稲葉正勝もこの頃より竹千代に小姓として仕えた。
 家光はこれにより、春日局を生母以上に遇した。また将軍にはなれなかった徳川忠長は甲府・駿河55石を与えられたが、浅間神社で猿を斬ったり、辻斬りを行うなど奇行が目立つようになり徳川秀忠より甲府への蟄居を命じられ。後に謀反の疑いありとして領地召し上げの上切腹に追いやった。弟・忠長まだ28歳という若い年齢だった。
 当時、いかに春日局の権勢が大きかったかは、春日局が後水尾天皇に退位を迫らせようとした家康の使者となり京に乗り込んだことからもわかる。徳川家光の妹である和子が後水尾天皇に嫁いでいたが、徳川家光はお福を伊勢参拝のついでにと将軍の名代として京都に上洛させた。しかしお福は無位無官の身で、天皇の女御に面会できる身分ではなかったが徳川家光は将軍家の威光をもって強行し、お福を縁のある三条西実条の猶妹(仮の妹)と言う名目で宮中に入れた。これに対して後水尾天皇は斎藤福に「春日局」の称号を与えた。このことは天皇の権威が失墜したことで、後水尾天は権威の失墜を嘆き、また公卿らの不興をかい、後水尾天皇は和子の娘・興子内親王に譲位して859年振りの女帝(明正天皇)が誕生した

 

大奥
 1623年に徳川秀忠が隠居し、徳川家光が将軍になった。徳川秀忠は江戸城西の丸に隠居し、徳川家光は本丸へ移るが、徳川家光は大奥の統制をすべてお福に任せた。家光が将軍として活躍する傍ら、春日局は徳川将軍家の血を絶やさぬように家光好みの女性探しに力を注いだ。これが江戸城大奥であり徳川の血筋を守るための一大組織を築き上げたのである。

 この頃までに御台所だった徳川家光の正室・鷹司孝子は大奥から追放されて称号を「御台所」から「中の丸様(中の丸殿)」と変えられ、吹上の広芝に設けられた邸宅で軟禁生活を送らされ、事実上家光から離婚させられた。当然子はいなかった。
 徳川家光は若い頃は男色にかまけて女性に興味を覚えなかった。そのため春日局は女性選びに心を配り、並みの女性ではならぬとなると、尼僧や身分の低い女性を家光に勧め嫡子誕生に苦心した。世継ぎが出来ぬと春日局は心配し、春日局の養女として大奥に入っていたお振の方との間に、徳川家光にとって初めての子ができ、長女・千代姫が誕生した。これ以降、春日局が見つけた伊勢・慶光院の院主お万の方、春日局が探してきた女中・お玉方など側室をたくさん迎えることになり、お楽の方は徳川家光の手がつき5代将軍・徳川綱吉を産んでいる。

 お夏の方は正室・鷹司孝子付の女中で、将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を担当しており、その際徳川家光の手がつき懐妊、のちの甲府宰相・徳川綱重を産んでいる。

 また斎藤福の娘(まん)が嫁ぎ先で産んだ子である堀田正盛は1000石の旗本に過ぎなかったが、徳川家光の近習に取り立てられた。斎藤福は大奥法度を定め整備し統括をする。大奥法度では女中の出入りや門限のなど5か条からなるが、基本的には秘密漏えい防止の義務で、最も重要なのは局より中へは男子入るべからずである。将軍以外の男子が入らないようにすることで、「ここで生まれた子は将軍の子」ということを明らかにしたのです。また、周りにも認知させるためです。この大奥法度の前には、武家諸法度、禁中並びに公家諸法度などの法律が出来ていました。表と奥、あわせて法治国家としたのです。

 家光には大奥にまつわる逸話が多い。
 春日局自身にも逸話があり、外出して城の門限に遅れたとき、規則を守ることを手本とさせねばならぬとし、門前で一夜を明かした。
 また、家光が疱瘡になったとき、春日局は生涯薬を飲まない誓いを立て、山王社と東照宮に詣で、水の入った桶を頭に乗せ、月が出るまで祈ったという。その後、家光は快癒したが、逆に春日局が病を得たのに薬を飲まない事を知ると、家光は手ずから薬を飲ませようとしたが、春日局は飲んだふりをして密かに吐き出して誓いを守った。
 離縁した稲葉家の再興にも尽力し、浪人していた元夫の稲葉正成は松平忠昌の家老として召し出され、のち大名に取り立てられた。特に実子である稲葉正勝と義理の孫に当たる堀田正盛が著名である。
 老中井上正就の嫡子・正利の縁談に春日局が介入し、結果、恨みを持った人物により正就は江戸城内で殺害された。江戸城内における刃傷事件の初例は春日局の権勢による圧力の結果となった。
 春日局と英勝院は、天海を深く信頼し、始終、城内の吉凶を占わせたり、方位の守り札を依頼したり、家光の側室の安産祈願や子の名付けを頼んだと言われている。いずれも、仏教への深い帰依が伺われる逸話である。
 1643年9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺、京都市の金戒光明寺にある。京都文京区に春日という地名があり、ここは春日局に由来している。歴史に名を残しただけでなく、地図にも名前を残した春日局には驚くばかりである。

 

喜多院
 徳川家光誕生の間と春日局化粧の間が国の重要文化財として現存している(下:喜多院)。江戸城で生まれたはずの徳川家光の部屋がなぜ川越にあるかと言うと、喜多院が1638年の大火で山門以外のすべての建物が消失し、1539年、徳川家光が堀田正盛に命じて、江戸城にあった客殿、書院、庫裏を喜多院に移築させたのである。

 喜多院は天海が住職として関わりある寺で、徳川家康の遺体を久能山から日光に送致する際にも、川越の喜多院を経由した。天海は徳川家に大きく関わっている。このようなことから徳川家光は喜多院の再建のため、江戸城の建物を移築し現在も現存している。

 

 

 

春日局 逆賊のアバタ娘が離婚後、徳川三代将軍家光の乳母になる

 春日局といえば、徳川三代将軍家光の乳母となり、将軍の後継ぎ問題を円滑に進めるために、江戸城の“大奥”をつくり、半面、清楚な「賢婦人」のイメージを抱く。だが、彼女は現実にはひどいアバタ面で、壮烈なヤキモチ焼きで、勝ち気でしたたかな女性だった。

 春日局の本名はお福。夫の稲葉正成と先妻(死亡)の間に2人の子供がいるところへ後妻として嫁いだ。彼女の父は明智光秀の家臣で、山崎の合戦で討ち死にしている。つまり逆賊の家で世間の目が冷たく、経済的にも苦しかったからだ。しかも彼女自身、天然痘を患ってひどいアバタ面だったという。

 結婚したお福にとって我慢できなかったのは、夫が女中に次々と手をつけることだった。そんな思いが爆発するときがくる。お福が3人目の子を産んで一月ほど経ったある日、勝ち気な彼女は夫の寵愛を受けている女中の一人をいきなり殺してしまったのだ。そのまま「もう家にはおりません」と宣言して、彼女は子供を置き去りにして家を飛び出してしまう。

 この気性の強さがお福の運命を切り開く。夫の側室を殺して家を飛び出した彼女は、そのまま京へ上る。そして町の辻に立てられた高札を目にしたことが、その後の彼女の生涯を決定した。「将軍家康公の嫡孫竹千代君の乳母募集!」とある。子供を産んだばかりのお福は、まさに有資格者だった。

早速、申し出ると即座に採用決定。お福は新しい生活の第一歩を踏み出す。彼女は竹千代を熱愛した。報われなかった夫への愛の代わりに、狂おしいまでの愛情を竹千代に注ぎ込む。あるとき竹千代が天然痘にかかると、彼女は薬断ちの願をかけ、遂に生涯薬を飲まなかったといわれるほどだ。

 家光への溺愛、そして独占欲の表れは、まず竹千代と弟・国松の将軍三代目の跡目相続をめぐっての、駿府に隠居している大御所・家康への直訴だ。ここで「長子相続」をタテに竹千代の跡目相続を勝ち取る。次いで、竹千代が元服して家光と名乗り、やがて父秀忠の後を継いで三代将軍になった後、お福は家光にとって危険と思われるものを用心深く周りから取り除いていく。かつての国松=忠長の存在だ。いつ周りから担がれて将軍職乗っ取りを図るかも知れないと、口実をもうけて忠長に詰め腹を切らせてしまった。

 表向きには、お福はこの事件とは全く関わりがないようにみえる。しかし、鎌倉の東慶寺に残る棟札には忠長の死後、彼の住んだ御殿を東慶寺に移したのは「春日局のおとりもちだ」と書いてあるという。こうしてみると、長い間、忠長を憎み続けてきた彼女が、終戦処理をしたとみられる。

 家光にはホモの趣味があって、初めは女にあまり興味を示さなかった。そこでお福は、伊勢の慶光院院主の尼僧を近づけて、巧みに女性開眼させた。普通の女性には見向きもしない家光だったが、頭を丸めた尼僧という異形の女性には少なからず興味をそそられたということらしい。これをきっかけに、家光はがぜん女性への関心を示し始め、無事に後継ぎも生まれた。

 お福のスゴ腕は朝廷に向けても発揮された。将軍秀忠時代、彼女は上洛して後水尾天皇に拝謁している。「春日局」はそのとき朝廷からもらった名前だ。この拝謁には下心があった。お福はその席で帝に「そろそろ、ご退位を…」とほのめかしたという。

このとき後水尾天皇の妃は秀忠の娘和子で、帝との間に姫宮をもうけていた。その姫宮へご譲位を!というのが幕府の魂胆で、お福はその特命全権大使だったのだ。恐るべし、夫も子供も捨てて、第二の人生に懸けた中年女のしたたかさだ。