春日局

春日局(斎藤福)
 春日局は三代将軍徳川家光の乳母として有名で、春日局は天皇拝謁の際に賜った院号で、本名は斎藤福(お福)である。 春日局は江戸城大奥の礎を築いた人物で、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた。徳川家に尽力した人生を送り、朝廷との交渉の前面に立ち、江戸時代における女性政治家として徳川政権の安定化に務めた。

幼少期から稲葉正成の妻まで
 実家である斎藤氏は美濃守護代を代々務めた武家の名門で、斉藤道三以前から美濃・斉藤氏の一族で守護代を代々務めていた。父・斎藤利三は斎藤義龍の死後、稲葉一鉄に仕えていたが、1579年に頑固一鉄で知られる稲葉一鉄と喧嘩別れしてかからは親戚だった明智光秀に1580年頃から仕えている。

 明智光秀は荻野氏の黒井城(赤井直政)を陥落させ丹波平定した際に、斎藤利三に10万石を与え丹波・黒井城主を命じている。

 お福は丹波国の黒井城(興禅寺)で斎藤利三の三女として誕生した。母は稲葉良通の娘・安である。斎藤利三の母は明智光秀の妹で、斎藤利三の先妻は斎藤道三の妹とされている。黒井城にはお福が腰をかけたという「お福石」(興禅寺)などの誕生伝説が多くある。
 お福は城主の姫として幼少期を丹波亀山城ですごしたが、春日局が4歳の時に明智光秀が本能寺の変を起こし、この本能寺の変で明智光秀の家臣である父・斎藤利三はともに戦い織田信長を討つが、そのわずか数日後の「山崎の戦い」で豊臣秀吉に破れてしまい、山崎合戦で豊臣秀吉に敗れると亀山城も高山右近らに攻撃を受けた。お福は母とともに母の実家がある京へ逃げる途中で、捕らわれた父・斎藤利三の処刑を目撃したとされている。ここから裏切り者の娘としての人生が始まる。
 お福は母方の実家である稲葉家に引取られ各地を転々とするが、成人するまで美濃の清水城で過ごし、母方の親戚に当たる公家の三条西公国に養育された。これによって公家の素養である書道・歌道・香道など様々な教養を身につけた。その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である稲葉正成の後妻となる。
 稲葉正成は関ヶ原の戦いにおいて、主君・秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ徳川家康を勝利に導いた功労者であった。しかし小早川秀秋は関ヶ原の戦いの直後に死去、関が原で裏切った事を良く思われず、稲葉正成は仕官先がなく浪人となり家族は流浪にさらされた。
 このとき稲葉正成が妾を持ち、度重なる夫の浮気により腹を立てたお福は妾を斬り殺し、稲葉正成に離縁状を叩きつけて京に出にでた。徳川秀忠の子、家光誕生および乳母募集の高札を見て応募した。当時の乳母とは世の女性たちの憧れの的で、まして家康の孫・家光の乳母は超エリートの職業であった。

 乳母となるのに海北友松らの推薦があったとされ、小早川家断絶に呵責を覚えた家康の配慮ともされている。もちろん没落した名家の出で、教養があったからである。

家光の乳母へ
 1604年に2代将軍・徳川秀忠の嫡子・竹千代(徳川家光)の乳母に任命された。このときの選考にあたり、お福の家柄及び公家の教養、夫・正成の戦功が評価されたといわれている。息子の稲葉正勝も家光の小姓に取り立てられた。稲葉正勝は1623年に老中に就任、翌年には相模国小田原藩主となっている。
 家康は女性を蔑視したかのように思われがちだが、女性であっても能力しだいによっては、外交官や教育係として採用した面もあり、子を産まぬ側室たちの中にも、重要な任務を帯びて活躍した女性は多い。
 家康の側室にお梶(英勝院)と呼ばれた女性も、元は太田家の出であり、甥の資宗を家光の学友とした関係もあって、ことのほか家光と縁が深かったと言われる。また秀吉によって改易させられた宇都宮国綱の妻は、入内した東福門院和子(秀忠の娘)の付け人として起用されている。
 お福自身も実の息子・稲葉正勝を家光側近に取り立てられており、名家ゆえに身に付けた教養を、没落したがゆえに葬り去られることを家康が残念に思っていたのだろう。また天下を狙うがゆえに、こうした人材を使って朝廷に働きかけようとしたのだろう。
 未来の将軍、竹千代(三代将軍・家光)の乳母となったお福は、竹千代を懸命に養育したが、竹千代の生母・お江与とはそりが合わなかった。これが後年、家光とお江与が自ら育てた秀忠の次男、忠長(国松)との確執につながったという話はあまりにも有名である。
 当時、二代将軍・徳川秀忠とその正室・江は跡取りに悩んでいた。というのも家光は幼少時から病弱な上、吃音(どもり)があり、内気な性格で天下を統べる将軍としてふさわしくないと思われていたからである。それに比べ、弟の忠長は丈夫で積極的な性格で見た目にも良い子供だったため、「病弱な子に将軍をやらせるのもかわいそうだし、廃嫡して次男に将軍職を継がせたほうがいいんじゃないか」と考えたのでした。
 忠長(国松)は才気にあふれ、秀忠、お江与夫婦をはじめ、徳川家家臣も有力諸大名たちも、次なる3代将軍は忠長という声が江戸城内あちこちで聞こえるようになった。
 春日局はこれを黙って聞くわけにはいかなかった。機感を強めたお福はお伊勢参りと見せかけて江戸城を抜け出し、自ら駿府城(静岡)の家康まで、次期将軍は家光にと直接交渉に出向いたのである。こうして春日局は、次期将軍は家光である事のお墨付きを家康からもらいようやく安堵するのだった。

 乳母に過ぎない身分の者が将軍世継ぎ問題で家康に直訴したとしても家康が会うとは考えにくいため、お福がかつて家康の愛妾の一人であったとの説もあるが不明である。
 家康は江戸にのぼり、長幼の序列を重んじ家光を次期将軍とし、忠長(国松)は家来扱いをして、鶴の一声で将軍職継承は家光に決定した。
 家光はこれにより、春日局を生母以上に遇したという。また、のちに弟・忠長(国松)に謀反の疑いありとして、領地召し上げの上切腹に追いやった。弟・忠長まだ28歳という若い年齢だった。
 当時、いかに春日局の権勢が大きかったかは、後水尾天皇に退位を迫らせようとした家康の使者となり京に乗り込んだことからもわかる。

大奥
 1623年に徳川秀忠が隠居し、徳川家光が将軍に就任。徳川秀忠は江戸城西の丸に隠居し、徳川家光は本丸へ移る。徳川家光は大奥の統制をすべてお福に任せた。家光が将軍として活躍する傍ら、春日局は徳川将軍家の血を絶やさぬように家光好みの女性探しに力を注ぐ。これが江戸城大奥であり徳川の血筋を守るための一大組織を築き上げたのである。

 また斎藤福の娘(まん)が嫁ぎ先で産んだ子である堀田正盛は1000石の旗本に過ぎなかったが、徳川家光の近習に取り立てられた。斎藤福は大奥法度を定め整備し統括をする。大奥法度では女中の出入りや門限のなど5か条からなるが、基本的には秘密漏えい防止の義務で、最も重要なのは局より中へは男子入るべからずである。将軍以外の男子が入らないようにすることで、「ここで生まれた子は将軍の子」ということを明らかにしたのです。また、周りにも認知させるためです。この大奥法度の前には、武家諸法度、禁中並びに公家諸法度などの法律が出来ていました。表と奥、あわせて法治国家としたのです。

 家光には大奥にまつわる逸話が多い。若い頃は男色にかまけて女性に興味を覚えなかったため、春日局は女性選びに心を配り、並みの女性ではならぬとなると、尼僧や身分の低い女性を家光に勧め、嫡子誕生に苦心した。
 春日局自身にも逸話があり、外出して城の門限に遅れたとき、規則を守ることを手本とさせねばならぬとし、門前で一夜を明かした。
 また、家光が疱瘡になったとき、春日局は生涯薬を飲まない誓いを立て、山王社と東照宮に詣で、水の入った桶を頭に乗せ、月が出るまで祈ったという。
 その後、家光は快癒したが、逆に春日局が病を得たのに薬を飲まない事を知ると、家光は手ずから薬を飲ませようとしたが、春日局は飲んだふりをして、密かに吐き出して誓いを守ったと言う。
 離縁した稲葉家の再興にも尽力し、浪人していた元夫の稲葉正成は松平忠昌の家老として召し出され、のち大名に取り立てられた。家光の小姓から老中に出世した者は多いが、その中には春日局の縁者も多い。特に実子である稲葉正勝と義理の孫に当たる堀田正盛が著名である。
 老中井上正就の嫡子の正利の縁談に春日局が介入し、結果、恨みを持った人物により正就は江戸城内で殺害された。江戸城内における刃傷事件の初例の原因は、春日局の権勢による圧力の結果である。
 春日局と、その同僚官僚とも言うべき英勝院は、天海を深く信頼し、始終、城内の吉凶を占わせたり、方位の守り札を依頼したり、家光の側室の安産祈願であるとか、子の誕生の名付けを頼んだなどと言われている。いずれも、仏教への深い帰依が伺われる逸話である。
 1643年9月14日に死去、享年64。辞世の句は「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」。法号は麟祥院殿仁淵了義尼大姉。墓所は東京都文京区の麟祥院、神奈川県小田原市の紹太寺、京都市の金戒光明寺にある。京都文京区に春日という地名があり、ここは春日局に由来している。
 歴史に名を残しただけでなく、地図にも名前を残した春日局には驚くばかりである。