北条政子

 北条政子は鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室である。源頼朝は伊豆の蛭ヶ小島(ひるがこじま)で約20年間の流人生活を送り、政子の父・北条時政は源頼朝を監視する平家側の立場にあった。しかし父・北条時政が大番役で京に出向いている際に北条政子(20歳)と源頼朝(30歳)は恋仲になり、北条政子は周囲の反対を押し切って頼朝の妻となった。つまり頼朝と政子は恋愛結婚だった。

 父・北条時政は当初は大反対していたが、しだいに2人の婚姻を認め、翌年には長女・大姫(おおひめ)が誕生している。

 北条氏は伊豆国の平家方の豪族で、北条政子は北条時政の長女である。北条政子は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の正室のみならず、二代将軍・頼家、三代代将軍・実朝の実母であるが、源氏将軍は三人とも不幸な死に方をしている。そのほか大姫、乙姫を子に持ち、兄弟姉妹としては北條宗時、義時、時房、阿波局、時子がいる。

 源頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると、北条政子は御台所と呼ばれ、源頼朝亡きあとは尼になった。しかし征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで殺され、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り尼将軍とよばれ、鎌倉幕府を支え北条氏の基礎を築いた。

 

夢買い
 北条政子と源頼朝の婚姻について「夢買い」の逸話が残されている。

 ある時、北条政子の妹が「月と日を手でつかむ奇妙な夢」を見た。妹はその夢を政子に話して夢解きを求めると、政子はそれは「逆夢で、災難をもたらす恐ろしい夢」なので、その夢を誰かに買ってもらうことを勧め「自分が身代わりになろう」と話を持ちかけ、妹が前から欲しがっていた鏡を渡すと、それで夢を買い取った。

 実はその夢は逆夢ではなく吉夢で「月や太陽はもちろん幸運や栄誉の象徴」であった。政子はその夢を買い取ったおかげで、源頼朝の妻となり後に尼将軍として権力を振うまでになった。
 北条政子の父・時政は平治の乱で敗れ同地に流刑にされた源頼朝の監視役で、頼朝と政子の関係を知った父・時政は平家を恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は平家一族であり、平家の成立とともに伊豆の代官になっていた。

 北条政子は山木兼隆の邸へ輿入れする当日の夜、屋敷を抜け出し、暗夜をさ迷い、雨をしのいで、山を越え頼朝の元へ走ったのである。
 北条政子と源頼朝は伊豆山権現(伊豆山神社)に逃げ込み僧兵に匿われた。伊豆山は僧兵の力が強く代官の山木でも手が出せなかった。父の北条時政は後に政子に子供ができると2人の婚姻を認め、そのため北条氏は頼朝の重要な後援者となった。

鎌倉幕府
 1180年、以仁王が平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけ、伊豆の源頼朝にも以仁王の令旨が届けられた。慎重な頼朝は即座には応じなかったが、令旨が露見して以仁王が敗死したことにより頼朝にも危機が迫り、挙兵せざるを得なくなった。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗し、この石橋山の戦いで政子の兄・北条宗時が討死している。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配しながら不安な日々を送ることになる。

 源頼朝は北条時政、北条義時とともに安房国に逃れると、反平家の東国の武士たちが続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がった。源氏ゆかりの地である鎌倉に移ると、政子も鎌倉に移り住んだ。
 源頼朝は富士川の戦いで平家の大軍に勝利すると、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると、頼朝は東国の主となって鎌倉殿と呼ばれ、北条政子は御台所と呼ばれるようになった。
 1182年の初めに政子は二人目の子を懐妊した。源頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親の恩赦を命じた。頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の娘の八重姫と恋仲になり、男子までなしたが、平氏の怒りを恐れた伊東祐親はこの子を殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き、八重姫を他の武士と強引に結婚させていた。伊東祐親はこの赦免を恥じとして自害し、同年8月に政子は男子を出産した。これが後の2代将軍・源頼家である。

 

嫉妬深さ
 北條政子の妊娠中に、頼朝は「亀の前」を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。頼朝は若いときから女性にもてていた。京都育ちで品があり血筋がいいことに加え、面長でいい男だったからである。このことを時政の後妻の「牧の方」から知らされた政子は嫉妬にかられ狂ったように激怒し「牧の方」の父の牧宗親に命じて「亀の前」の邸を打ち壊させ「亀の前」はほうほうの体で逃げ出した。頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とした。

 今度は頼朝のこの仕打ちに北条時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになった。さらに政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国へ流罪にした。人間の喜怒哀楽は歴史を超えて変わりはなく、これが人間らしくて面白い。
 政子の嫉妬深さは一夫多妻が当然だった当時としては異例のことであった。頼朝は生涯に多くの女性と通じたが、政子を恐れて半ば隠れるように通っていた。当時の貴族は複数の妻や妾の家に通うのが一般的で、武家も本妻の他に多くの妾を持ち、子を産ませて一族を増やすのが当然のこととされていた。政子の父・時政も複数の妾がおり、政子と腹違いの弟妹を多く産ませている。頼朝の父・源義朝も多くの妾がおり、祖父・源為義は20人以上もの子を産ませている。

 京都で育った源氏の棟梁の頼朝にとって、多くの女性の家に通うのは常識であり、当時は一夫一婦制ではなく、正妻が複数いることや反対に旦那さんが複数いることは特に珍しいことではなかった。同じ家に一緒に住まないこともごく普通のことであった。頼朝のように特に身分の高い人は「血筋を絶やさないように」正室(本妻)以外に側室をもつことは常識だった。しかし社会的には当然のことであったが、政子はそれを許さなかった。伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は、頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、妻の地位を守るためとも考えられが、それ以上に嫉妬深かったのである。

 1182年7月に頼朝は兄・源義平の未亡人である新田義重の娘・祥寿姫を妻に迎えようとしたが、政子の怒りを恐れた義重が娘を他に嫁がせたため実現しなかった。政子が「亀の前」の邸を襲撃させたのはこの4ヶ月後である。このため政子は嫉妬深く気性の激しい悪女のイメージを持つことになる。いずれにせよ、関東の武士を従え将軍となった頼朝でさえ政子にはかなわなかったのである。

長女・大姫
 1183年、源頼朝は対立していた木曽義仲と和睦し、木曽義仲は嫡男・義高を鎌倉へ人質として差し出すことにした。名目上は頼朝の長女・大姫の婿(むこ)ということで木曽から鎌倉に送られてきた。義高は11歳、大姫は6歳前後で、幼いながらも大姫は義高になつき慕うようになった。
 木曽義仲は平家を破り、頼朝より早く京し入ったが、義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北し後白河法皇とも対立し、翌年、頼朝は弟の源範頼、義経を派遣して義仲を滅ぼした。頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めるが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させる。

 大姫は義高に女装させ、大姫の女房達が義高を囲んで屋敷から外へ出した。馬は他の場所に隠してあり、馬蹄には真綿が巻かれ、蹄の音を聞かれないようにしてあった。義高の寝床には海野小太郎幸氏が臥し、日が昇ると双六をして義高がいるふりをした。
 しかし晩になってばれてしまい、怒った頼朝は堀親家の者に義高を見つけ出し討ち取るよう命じ、義高は親家の藤内光澄の手によって斬られた。
 大姫は悲嘆の余り床につき、政子は義高を討った為に大姫が病になったと憤り、義高を殺した藤内光澄の配慮が足りなかったと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしている。その後、大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身になった。大姫は嘆き悲しみ、水も喉を通らなくなった。政子は大姫の快癒を願って、しばしば寺社に参詣するが大姫が立ち直ることはなかった。
 範頼と義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、一ノ谷に戦いで捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきた。平重衡の器量に感服した源頼朝は御所内に一室を与え、政子もこの貴人を慰めるため侍女の「千手の前」を差し出している。平重衡は東大寺の強い要望で引き渡され、興福寺・東大寺焼き討ちの罪で斬られたが、千手の前は平重衡の死を悲しみ約3年後に24歳で死去している。
 範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国を治め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席している。1185年、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたが、平家滅亡後に頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちた。

 

静御前
 翌年、義経の愛妾・静御前が捕らえられて鎌倉へ送られてきた。政子は白拍子の名手である静御前に舞を所望し、度重なる要請に折れた静御前は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露し、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝とのつらい馴れ初めと、挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静御前に褒美を与えた。
 北条政子と静御前は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静御前は政子と大姫のために南御堂に舞を納めている。静御前は義経の子を身ごもっており、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、頼朝は「女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺す」と命じた。静御前は男子を生み、子を泣き離さなかったが、母の磯禅師が子を取り上げて安達清常に渡し由比ヶ浜で遺棄された。その後、静御前と磯禅師は北条政子と大姫から多くの重宝を与えられて京に向った。

 

源頼朝の死

 奥州へ逃れた義経は1189年4月、藤原泰衡に攻められ自害し、源頼朝は奥州征伐のために出陣した。政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願し、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして鎌倉に凱旋した。1190年に頼朝は大軍を率いて入京して後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられた。
 1192年に北条政子は男子(千幡)を生んだ。後の三代将軍・源実朝である。その数日前に、頼朝は征夷大将軍に任じられている。政子の妊娠中に頼朝はまたも大進局という侍女のもとへ通い、大進局は頼朝の男子(貞暁)を産むが、政子を憚って出産の儀式は省略している。大進局は政子の嫉妬を恐れて深沢の辺りに身を隠した。政子を恐れ乳母のなり手がなく人目を憚るように育てられ、7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られた。出発の日に頼朝は密かに会いに行き刀を与えている。
 1193年、頼朝は富士の峯で大規模な狩りを催した。嫡男の頼家が鹿を射ると、喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせたが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらいで騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話である。頼家の鹿狩りは頼家が頼朝の後継者とみなされた事を人々に認めさせために頼朝はことのほか喜んだが、政子はそのことを問題にしなかった。下品な言葉で言えば「政子のケツの穴は頼朝より大きかった」のである。

 この富士の鹿狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きている(曾我兄弟の仇討ち)。鎌倉では頼朝が殺されたと流言があり、政子は心配したが、鎌倉に残っていた源範頼が「源氏には、わたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めた。鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられ、範頼は伊豆に幽閉されて殺された。

 大姫は相変わらず病が癒えず、しばしば床に伏していた。1194年、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めるが、大姫はかつての義高を慕い頑なに拒んでいた。政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を催し、翌年、政子は頼朝と共に上洛すると宣陽門院の丹後局と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した。

 頼朝は政治的に大きな意味のある入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えたが、大姫は重い病のため床についたままであった。政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせるが、1197年に大姫は20歳の若さで死去してしまう。政子は自分も死のうと思うほどに悲しむが、頼朝から「母まで死んでしまっては大姫の後生に悪いから」と諌められている。
 頼朝は次女の三幡を入内させようと図るが、朝廷の実力者である土御門通親に阻まれ、また親鎌倉派の関白・九条兼実が失脚し、朝廷政治での頼朝の形勢が悪化し三幡の入内は困難になった。

 頼朝は再度の上洛を計画するが、1199年1月、重臣の稲毛重成が亡き妻のために相模川に橋をかけ、そのために催された橋供養からの帰路で落馬し、それが原因で死去した。源頼朝は享年53であった。政子は「大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思うが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできない」と述べている。
 嫡男の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼になり尼御台と呼ばれた。頼朝の死から2ヶ月ほどして次女の三幡(乙姫)が重病に陥った。政子は鎌倉の全ての寺社に加持祈祷を命じ、後鳥羽上皇に院宣を出させて京の名医を鎌倉に呼び寄せた。三幡は医師の処方した薬で一時保ち直したように見えたが、容態が急変して僅か14歳で死去した。


2代将軍・源頼家

 若い将軍・源頼家による独裁に御家人たちが反発し、1200年に頼家の専制を抑制すべく大江広元、梶原景時、比企能員、北条時政、北条義時ら老臣による十三人の合議制が定められた。
 将軍・頼家が安達景盛の愛妾を奪うという事件が起きると、安達景盛が頼家を怨み兵を集めて討とうとした。政子は調停のため安達景盛の邸に入り、使者を送って頼家を強く諌めて「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と申し出た。政子は景盛を宥めて謀叛の意思のない起請文を書かせ、一方で頼家を重ねて訓戒して騒ぎを収めた。
 将軍・頼家と老臣との対立は続き、頼家が父から引き続いて重用していた梶原景時が失脚して滅ぼされた(梶原景時の変)。

 将軍・頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。政子は頼家の蹴鞠狂いを諌めるが、失政が続き御家人の不満が高まってきた。頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、比企能員の娘が頼家の長子・一幡を生んで権勢を誇るようになった。比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。
 1203年、頼家が病の床につき危篤になると、政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを相談するが、これを不審に思った比企能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴え、頼家もこれを知って北条氏討伐を命じた。これを障子越し聞いていた北條政子は使者を父の北條時政に送り、時政は策を講じて比企能員を謀殺した。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼし、一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。

 頼家は危篤から回復して比企氏の滅亡と一幡の死を知ると激怒し、時政討伐を命じるが既に主導権は北条氏に握られていた。頼家は政子の命で無理に出家させられて将軍の職を奪われると、伊豆の修善寺に幽閉され、のちに暗殺された。享年23であった。

 この比企氏滅亡や頼家の死については、北条氏による政治的作為と考えられるため鵜呑みには出来ないが、愚管抄によれば頼家は病が重くなったので自分から出家し、あとは子の一幡に譲ろうとした。しかし比企能員の全盛時代になることを恐れた北条時政が能員を呼び出して謀殺し、病床の頼家を御所から大江広元の屋敷に移し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡は母が抱いて逃げ延びるが比企一族は皆討たれた。やがて病から

回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付けて修禅寺に押し込めた。

 11月になって一幡は捕らえられて、北条義時の手勢に刺し殺され、頼家も北条義時の送った手勢により入浴中を襲撃され、激しく抵抗したが首に紐を巻き付けられ陰嚢をとられて刺し殺された。

 

北条時政
 鎌倉幕府は将軍の独裁権力を抑えるために有力御家人による合議制がとられた(十三人の合議制)。これは言わば将軍の名が有名無実化し、御家人による権力争いが始まるきっかけとなった。このような中で政子の父・北条時政が初代執権になる。

 北条時政は有力御家人である梶原景時や頼家の外戚である比企能員一族を滅ぼし、北条氏の地位を一段と高め、さらに頼家を廃して弟の源実朝を新将軍として擁立し自らは執権となった。

 北条時政と後妻の「牧の方」は政権を独占しようとして、将軍・源実朝を殺害し、女婿の平賀朝雅を新将軍に立てようとした。「牧の方」は権勢欲が人一倍強く、梶原氏、比企氏と有力御家人を滅ぼし「牧の方」と北条時政の次の標的を武蔵国に大勢力を誇る畠山重忠にさだめた。

 畠山重忠はもとは平清盛の家臣で、頼朝挙兵時には平家について三浦義明を討つなど頼朝を追い詰めたことがあった。しかし後に頼朝に降伏して源義仲追討や一ノ谷の戦い、奥州藤原氏との戦い、比企氏追討などで武功を挙げている。性格も剛直で、人望もあり北条時政にとって最も邪魔な存在になっていた。そのような中、畠山重忠の子・畠山重保が時政と牧の方の娘婿である平賀朝雅と対立することになる。

 これを契機に北条時政は畠山氏討滅を計画する。このとき北条時政の息子である北条義時は畠山重忠と友人関係にあり、あまりに強引な畠山氏排斥を唱える父に対して反感を抱くが、父の命令に逆らえず武蔵二俣川にて畠山重忠一族を討ち滅ぼした。しかし人望のあった畠山重忠を殺したことは、時政と「牧の方」に対する反感を招くことになった

 北条時政と「牧の方」は実朝を廃して平賀朝雅を新将軍しようとしたが、政権のためとはいえ、あまりにも強硬な策は北条政子・北条義時らの反感を招いた。北条政子と義時は協力して父・時政を執権から廃すると、「牧の方」を強制的に出家させ、その後、二人は義時の手によって伊豆国に幽閉された。

 北条時政は、その後、二度と政界に復帰することなく生涯を終えた。また「牧の方」は時政の死後、公卿に嫁いだ娘を頼って上洛し京都で余生を過ごした。平賀朝雅は幕府の命によって殺害された。第2代執権には北条義時が就任し、北条氏は義時のもとで幕府内における地位を確固たるものとした。

3代将軍・源実朝暗殺
 源実朝は専横が目立った兄の頼家と違って教養に富んだ文人肌で、朝廷を重んじて公家との融和を図った。後鳥羽上皇も実朝に期待して昇進を続けさせた。しかし、公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と相反し不満が募ってきた。

 政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁がいた。
 1218年、政子は病がちな実朝の平癒を願って熊野を参詣し、京に滞在して後鳥羽上皇の乳母の藤原兼子と会談を重ね、病弱で子がない実朝の後の将軍として後鳥羽上皇の皇子を東下させることを相談している。
 実朝は右大臣になり、北条義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれることを恐れ諫言したが実朝は従わなかった。
 1219年、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺されることになる。政子はこの悲報に深く嘆き「子供たちの中でただ一人残った実朝を失いこれでもう終わりになる。尼一人が憂いの多いこの世に生きてゆかねばならないのか。淵瀬に身を投げよう」とさえ思い立った。


尼将軍
 実朝の葬儀が終わると、政子は使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることにしたが、後鳥羽上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園からの地頭排除を提示した。北條義時はこれを幕府の根幹を揺るがすとして拒否し、弟の時房に兵を与えて上洛させ重ねて皇子の東下を交渉させるが上皇はこれを拒否した。義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。時房は三寅を連れて鎌倉へ帰った。三寅はまだ2歳の幼児であり、そのため三寅を後見する政子が将軍を代行することになり「尼将軍」と呼ばれるようになった。

 吾妻鏡では実朝の死から1225年の政子が死去するまで、北条政子を鎌倉殿と書いている。

 

承久の乱の最期の詞

 1221年、後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、皇権の回復を望む上皇は京都守護・伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下した。武士たちの朝廷への畏れは大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。
 北条政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」と述べた。

 これで御家人の動揺は収まった。
 鎌倉では軍議が開かれ、箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍することを強く求め、政子の裁断で出撃と決まり、御家人に動員令が下った。消極策が持ち上がったが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がった。
 後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して、幕府軍の出撃を予想していなかった。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して幕府軍は京を占領した。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて降伏し、隠岐島へ流された。政子は義時とともに戦後処理にあたった。
 1224年に北条義時が急死すると、長男の北条泰時は見識も実績もあり次ぎを期待されたが、義時の後室の「伊賀の方」は実子の北条政村を有力御家人の三浦義村と結びつけ執権を得ようとした。

 三浦義村の謀叛の噂が広まり騒然とするが、北條政子は三浦義村の邸を訪ねて泰時が後継者となるべきを説き、三浦義村は平伏して泰時への忠誠を誓った。
 鎌倉は騒然とするが、政子は「伊賀の方」を伊豆へ追放した(伊賀氏の変)。この伊賀の方の謀反については、北條泰時が否定しており「伊賀氏の変は北条氏の代替わりにより影響力の低下を恐れた政子がでっち上げたとする説がある。
 北条泰時は義時の遺領配分を政子と相談し、弟たちのために自らの配分が格段に少ない案を提示し政子を感心させた。

 1225年に北條政子は病の床につくと、享年69で死去した。戒名は安養院殿如実妙観大禅定尼である。墓所は鎌倉・寿福寺の実朝の墓の隣にある。

北条政子

 源頼朝の妻・北条政子は夫の死後、尼将軍と呼ばれて政治の表に登場したことから、権力の権化と見られられることがある。しかし実際には愚直なほどに愛情過多で、この壮大な「やきもち」によって妻の地位を守り、さらには北条政子の強い意志が源家三代の血みどろの家庭内悲劇を引き起こしたともいえる。 

 頼朝が政子の妊娠中に、伊豆の流人時代から馴染みだった「亀の前」と浮気をしたとき、政子は屈強の侍に命じて「亀の前の隠れ家」を無残にも破壊した。頼朝は懲りずに第二、第三の情事を繰り返すが、その度、政子は狂態を演じた。この当時の権力者は一夫多妻が普通だったが、政子はそれを許さず、相当激しい性格の持ち主だった。

 頼朝の死後、政子は長男の頼家を熱愛したが、頼家は愛妾・若狭局に夢中になり振り向きもしない。政子は若狭局を憎み、遂に政子は息子の頼家と嫁を抹殺する。

 政子はせめてもの罪滅ぼしに、頼家の遺した息子公暁を可愛がり、父を弔うために仏門に入れ京で修業をさせた。やがて手許に引き取り、鶴岡八幡宮の別当(長官)にした。ところが公暁は、父に代わって将軍になった叔父の実朝を親の仇と思い込み、叔父の実朝を殺害してしまう。 

 母と子、叔父と甥、源家三代の血みどろの家庭内悲劇を引き起こしたのは、政子の抑制の利かない愛情過多が一因とも言える。もちろん幕府内の勢力争いもからんでいたが、政子の関与は大きい。 政子にとっては腹を痛めた頼家や実朝よりも、実家の北条家あるいは鎌倉幕府そのものを優先させたのである。

 一般には、政子を冷たい権力の権化、政治好きの尼将軍と見る向きがある。しかし承久の変のとき、政子は鎌倉の将兵を集めての名演説を行い鎌倉武士を団結させた。これも策略に長けた政治家・北条泰時の指示とする見方があるが、演説で鎌倉武士を団結させたのは政子である。

 北条政子は「女性らしい激しい愛憎」を歴史に残し、女の中にある愛情の業の深さを浮き彫りにした。平安時代の女性の地位は低く、江戸時代以降の女性の地位も低い。その中で「北条政子は頼朝の浮気を許さず、静御前を義経の愛人として当然の舞」と擁護したことは、歴史上初めて「女の道」を示したと言える。

 政子の父・北条時政は、伊豆に勢力を持つ平家方の豪族で頼朝を監視する役にあった。政子と頼朝が恋仲となったため、父・北条時政は平氏を恐れ、流罪人頼朝との仲を裂き政子を伊豆目代の山木兼隆の元へ嫁がせようとした。

 ところが政子は輿入れの夜、屋敷を抜け出して暗夜をさ迷いながら山を越え、豪雨に打たれながら、頼朝の元へ走ったのである。二人は伊豆山神社に匿われ、駆け落ちを果たした。

 まさに天城越え「誰かに取られるくらいなら、あなたを殺していいですか」である。さすが北条政子である。尼将軍・北条政子は日本最大の烈女である。 やがて父も二人の仲を認め、その2年後に以仁王の令旨を根拠に頼朝が挙兵を決意すると、平氏側だった父・時政も頼朝側に参加した。石橋山の戦いで敗れ安房へ退くが、体制を立て直して富士川の戦いで平氏軍を撃破し、東国に勢力圏を築いた。頼朝と北条政子の間には長女・大姫(1178)、長男頼家 (1182)、次女乙姫(1186)、次男実朝(1192)をもうけ、頼朝の死後は出家するが、将軍の母として政治力を発揮し俗に尼将軍と称された。

 


北条政子の評判
 吾妻鏡は「北条政子は前漢の呂后と同じように天下を治めた。または神功皇后が生まれ代り我が国の皇基を擁護させた」と政子を高く称賛している。愚管抄で慈円は政子を「女人か完成させ日本国」と評した。承久記では「女性の喜しい例である」と評しているが、この評に対して政子に「尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいない」としている。
 室町時代の一条兼良は「この日本国は姫の国で、女が治めるべき国と言える」と政子をはじめ奈良時代の女帝(元正天皇や孝謙天皇)の故事をひいている。このように鎌倉幕府を主導した政子の評価は高い。

 しかし江戸時代になると、頼朝亡き後に鎌倉幕府を主導したことを評価しながらも、子(頼家、実朝)が変死して源氏が滅び、実家の北条氏がこれにとって代ったことが婦人としての人倫に欠くと批判が加えられている。また江戸時代から政子の嫉妬深さも批判の対象となる。政子を日野富子や淀殿と並ぶ悪女とする評価が出るようになった。

 しかしここで注目したいのが、北条政子は源頼朝の妻でありながら、源政子と呼ばれていないことである。当時は妻の地位や意識は夫より実家に向いており、妻は夫の所有物ではなく常に実家を意識していたことである。このことは平安時代には見られなかったことで、室町時代の日野富子も同じである。

 平安時代は妻が最も地位が低く名前さえ何々の妻である。また妻が嫁ぐと夫の姓を名乗るのは江戸時代からで、鎌倉時代はたとえ嫁いでも妻の居所は実家にあった。それだけ血筋を大切にしていたのである。

 鎌倉時代、室町時代は女性の地位が最も高かった。女性の地位が低く見られるようになったのは江戸時代からのことで、1563年に日本にやってきたルイス・フロイスは「日本の女性は財産という点から男性と対等の権利を持っていて、妻が夫に金を貸すことや遺産の相続も男女はほぼ平等である」と書いてある。鎌倉時代は女性の地頭もいて、男女同権の時代であった。