石田三成

 豊臣秀吉は異例の出世を遂げ「太閤はん」として人々から愛されている。しかし石田三成は秀吉の五奉行の一人となって活躍するが、家康に逆らった奸臣として不名誉な扱いを受け続け、奸臣の代表的存在とされてきた。

 石田三成は怜悧・狭量で人望に欠けていると悪い評価ばかりだが、これは徳川家康に逆らい「関ヶ原の戦い」で家康と戦ったからで、最近では「義を貫いた忠臣、偉業をなした人物」として評価が高まっている。

 「関ヶ原の戦い」では石田三成は大きな役割を果たしたが、西軍最大の責任者は総大将の毛利輝元であり、きっかけをつくった上杉景勝も石田三成と同等、あるいはそれ以上に責任があるはずである。ところが彼らは助命され、石田三成は罪と悪名を背負わされたまま41歳で死んでいった。それは「関ヶ原の戦い」で、実質的に西軍を組織しまとめたからで、関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は京都六条河原で処刑された。
 石田三成は非業の死から四世紀を経て、徐々に誠意あふれる英雄として見直されている。三成の内政手腕や民への思いやりが注目され、敬意に満ち溢れ正義を貫いた熱血漢として三成は評価を上げている。

 

三献の茶

 1560年、石田三成は近江国石田村(滋賀県長浜市石田町)の土豪・石田正継の次男として生まれた。父・正継は一介の土豪で浅井家に仕えていた。母は浅井家臣・土田氏の娘で三成の幼名は佐吉であった。

 1570年に浅井家は織田信長・徳川家康連合軍に敗北し滅亡する(小谷城の戦い)。主君・浅井長政の滅びると石田家の父・正継、兄・正澄は、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)に小姓として仕官する。

 信長の命令で長浜城主となった秀吉は、巧みな領国経営によって3年間で長浜を活性化させた。17歳の三成はその過程を見て、日本中がこのように繁栄したらどれほど素晴らしいことかと秀吉に憧れていた。
 ある日、秀吉が鷹狩の途中で領地の観音寺に立ち寄ると、汗だくの秀吉を見た寺小姓の三成が、大きな茶碗にぬるいお茶をたっぷり入れて持ってきた。飲み干した秀吉が2杯目を所望すると、三成は1杯目よりも少し熱いお茶を茶碗に半分だけ入れて差し出した。秀吉が3杯目を求めると、今度は熱いお茶を小さな茶碗に入れて持ってきた。

 最初から熱いお茶を出すと一気に飲もうとして火傷する恐れがあったので、三成はぬるいお茶から出したのだった。さらに秀吉が喉を潤したいという願いを叶えたうえで、さらにお茶自体の味を楽しんでもらいたいという心配りで、この相手が欲しているものを瞬時に察知する「三献の茶」に秀吉はいたく感心して、秀吉はそのまま三成を城に連れ帰り小姓として秀吉に召し抱えられた。

 

秀吉の参謀

 石田三成は秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国地方に赴いた時、三成はこれに従軍した。石田三成22歳の時、信長が本能寺の変で横死すると、次の天下人として秀吉が地位を固めるにつれ、三成も秀吉の側近として次第に台頭した。1583年、石田三成は秀吉VS柴田勝家の「賤ヶ岳の戦い」に参陣し、柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当した。また勇名を轟かせた「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれた武将に先駆けて一番槍を務めるという功名をあげた。

 石田三成が豊臣政権の奉行衆として手腕を発揮したのは賤ヶ岳合戦の翌年からで、三成25歳の時に近江国蒲生郡の検地奉行を務めてからである。奉行時代の三成は「横柄で冷酷」という印象であるが、三成が奉行として秀吉の命令を忠実に実行したのであって、職務に忠実であれば三成は私情を挟まず冷静な対応をしたにすぎなかった。それが「冷たい対応、無遠慮な態度」と誤解されたのである。また27歳で九州を征伐し、32歳で小田原攻めに従軍し秀吉から後北条氏の支城の館林城・忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が石田堤として周囲に現存している。 関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。なお三成は常陸国の佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋し、奥州仕置後の奥州における検地奉行を務めるなど着実に実績を重ね、秀吉の天下統一事業の参謀となった。
 三成は戦場ではほとんど武勲を挙げていない。それでも秀吉が側近として優遇したのは補給・輸送に腕を振るい、兵一人当たりの兵糧、弾薬を緻密に計算して輸送するなど、経済面での才能を高く評価したからである。三成は後の太閤検地の実施でも成果を挙げ、秀吉は「有能な実務者は豪胆な武将以上に得難い」として三成に感服していた。1591年、三成は近江北部に所領を与えられ、31歳で城を持った(佐和山城、19万石)。1585年7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任され、同年末に秀吉から近江国水口4万石の城主に封じられた。

 

佐和山城城主
 1591年4月、近江佐和山に入城した。石田三成が初めて500石の領地(知行)を持った時、最初に渡辺新乃丞を家臣として登用した。新乃丞は以前に秀吉が2万石で誘ったのを「10万石なら」と言った英傑で、秀吉がどうやって新乃丞を説得したのか三成に尋ねると「私の500石すべてを新乃丞に与えた。だから今、私は新乃丞の居候になっております」と答えた。三成が100万石になれば新乃丞に10万石を扶持する約束をしたが、三成は終生500石で仕えた。
 1586年1月、石田三成が4万石に加増された時、当時名将として名高かった島左近を召し抱えた。 秀吉は才気に富んだ三成がどのように島左近を召し抱えたのかを尋ねた。島左近は三成よりも20歳も年上の名将である。「あの島左近がお前のような若僧に仕えるのか」と尋ねた。すると「私もそう思い知行の半分2万石で登用した」「これは面白い。主君と従者が同じ知行など聞いたことがない」。秀吉はこの話に感心して、後日左近に高価な羽織を与え「どうか三成をよろしく頼む」とねぎらった。

 三成が佐和山城主になった時、島左近に加増を告げると「三成殿が50万石の大名と成られても、拙者は今の知行で充分なので、その加増はどうか部下達に」と断った。

 

九州平定
 秀吉から堺奉行に任じられる。三成は堺を完全に従属させ兵站基地として整備した。秀吉は1587年に九州に大軍を送り、短期間で平定を終わらせるが、その勝因は水軍を活用して大軍を動員・輸送する能力が三成にあったからである。このように秀吉の遠征を支えたのが、後方の兵糧・武具などの輜重を担当した三成ら有能な官僚であった。

 九州平定すると博多奉行を命じられ、軍監の黒田孝高らと共に博多の町割り復興に従事した。また1588年には薩摩国の島津義久の秀吉への謁見を斡旋した。三成が九州平定で目覚しい働きをしたことから、秀吉が九州に33万石の領地を用意したが、三成はこの破格の厚遇を「私が九州の大名になると、大阪で行政を担当する者がいなくなる」と断っている。三成は自分の出世よりも日本国全体を活性化を重視したのである。

 三成は領民のために褒美をうけとらなかった。「領地はいりません。その代わり淀川の河原の葦に対する運上(税金)を許していただきたい。それで一万石の軍役を致します」と述べている。三成の紋は「大一大万大吉」でその意味は「一人が万民(大)の為に、
万民が一人の為に、さすれば世に幸福(吉)が訪れる」というものであった。

 

豊臣奉行としての三成

 三成は秀吉直下の奉行として様々な政策・実務に携わった。三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地や、秀吉(豊臣政権)の地方大名間の外交交渉、大名内部で起きた諸問題への介入などを通じて、秀吉の国内統一戦が始まってから徐々に高まっていった。三成の主な交渉相手は毛利氏・島津氏であり、両家との交渉過程で築かれた関係が後の関ヶ原の戦いにおける連携に繋がることになる。

 三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地を行ったことである。まず美濃国を検地するそれまで各地で長さ・体積の単位は異なっており、収穫高は各領主の申告制だったので不正が横行していたが、三成は単位を統一し、家臣たちと直接農村に入って測量を行なった。この改革で全国の農業生産高が正確に把握できるようになり、長期的視野の農政が可能になった。単位の統一は経済・流通を大いに発展させた。

 三成はまた検地改革に取り組むでいた。それまで各地で升の長さ・体積の単位は異なっていたうえに、収穫高は各領主の申告制だったので不正が横行していた。三成は単位を統一し、家臣たちと直接農村に入って測量を行なった。この改革で全国の農業生産高が正確に把握できるようになり、長期的視野の農政が可能になった。単位の統一は経済・流通を大いに発展させた。

 

(上段)JR長浜駅前に建てられた「三献茶」の再現した銅像。賤ヶ岳での勝利により豊臣秀吉は天下人への第一歩を踏み出した。下段)佐和山城跡の近くに建立された石田三成の座像。佐和山城の本丸跡からJR彦根駅方向を見下ろした風景。中央の小高い山は荒神山で安土城はその奥にある)

朝鮮出兵
 1592年、石田三成は豊富秀吉の朝鮮出兵に対し、その無益さを訴えて最後まで反対したが、秀吉はどうしても大陸を支配するといって聞かなかった。ここに足掛け6年間の不毛な朝鮮侵略が始まった。

 日本軍は16万という大軍で力攻めをして当初は優勢だった。秀吉が書いた直筆の手紙には「朝鮮王が逃げたので、急いで渡海し大明国も一挙に征伐して、大唐の関白になる」と書かれている。しかし戦いが進むにつれ日本は補給が途絶え大飢饉にあい苦戦し、明の大援軍が介入してきて一気に戦況が悪化した。

 石田三成も増田長盛や大谷吉継と共に渡航して朝鮮出兵の総奉行を務めるが、最前線でも戦い負傷している(文禄の役)。

 ここで小西行長と石田三成が中心となって停戦講和が進められた。秀吉は連戦連勝という報告を受けており、きわめて強硬な講和条件を打ち出してきた。だが実状を知っている小西らは「秀吉を日本王と封じてもらい明に朝貢する」という低姿勢の条件を出した。

 日本は明軍との和平を結ぶために休戦して、明の講和使節を伴って帰国したが日本は明国の勢力を知らずに、明国は大国意識から講和会談は決裂した。

 石田三成は講和をうまく進めるために、明国との対立を軽くみる武将たちが平和交渉を軽視する秀吉に「清正が和睦の邪魔をしている」と報告した。具体的には加藤清正は明の使者を殺し、公文書に「豊臣清正」と書いたなどである。

 秀吉はその報告に怒り狂い清正を帰国させ謹慎処分にした。これを逆恨みした清正は「三成を一生許さぬ。たとえ切腹を申し付けられても仲直りなどできぬ」と激怒した。清正はこれを石田三成の策謀だと判断した。

 明からは「秀吉を日本国王に封じる」との手紙が来て、秀吉はふたたび朝鮮出兵を決断する。これが慶長の役である。

 交渉決裂になり再度出兵となるが「補給線が寸断されており、このままでは日本軍は全滅してしまう」と三成が危惧していた。

 予定されていた朝鮮への大規模攻勢では福島正則や増田長盛と共に石田三成は出征軍の大将となることが決まっていた。しかし秀吉が没したためこの計画は実現できず、三成はすぐさま朝鮮から全軍の退却を指示し、戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力をかたむけた。
 この朝鮮撤退時に三成と加藤清正は激しく対立した。即時撤兵を考える三成と、交渉を有利に運ぶ為に最後まで戦果を挙げるべきとする清正とで間で口論になった。清正は戦線を無理に拡大して、友軍まで窮地に追い込んでいたが、勝手に「豊臣清正」と名乗るなど問題行動があった。

 石田三成は類まれな計画力で活躍したが、秀吉亡き後は諸将の反感を買い窮地に立たされた。

 小西行長は実際に戦ったから許せるが、石田三成だけは許せないというのが諸大名の共通した認識だった。小西と石田三成は「文治派」と呼ばれ、清正らは「武断派」といわれ、この対立は深刻になっていた。

 

三成佞臣論
 三成のイメージを悪くしているものに、数々の陰謀に加担したという噂がある。たとえば千利休の切腹、蒲生氏郷の毒殺、関白秀次の切腹などの陰謀の黒幕として三成が関与したというものである。
 従来から、利休の切腹の裏には三成がいたとされている。三成が利休の切腹後、その妻も処刑したとされているが、しかし利休の妻・宗恩が没したのは後年のことで、単に噂に過ぎなかった。もっともそのような噂が流れたことは三成が秀吉の命令に忠実に動く人物であると多くの人が思いこんでいたからである。
 1595年の蒲生氏郷毒殺は、会津92万石の大封を得た蒲生氏郷を秀吉がひそかに警戒して三成を毒殺したとされるものである。確かに氏郷は40歳という若さでの急死であり、毒殺の噂はそのためである。しかし氏郷の死去の際には、三成は文禄の役で朝鮮に出陣しており国内にいなかった。さらに三成は多くの蒲生家臣を後に抱え、蒲生家臣らは関ケ原で三成のために奮戦している。もし旧臣たちが三成に毒殺の疑いを抱いていたらこのようにはならなかった。
 豊臣秀次の高野山での切腹は、秀吉が実子・秀頼が誕生したため、我が子可愛さから関白秀次を切腹に追い込んみ、その追い込んだのが三成だったとされている。しかし秀次切腹事件の真相は分かない。もちろん三成が讒言したという証拠はない。
 こうした三成の「濡れ衣」は、江戸幕府の方針により三成に関する史料の隠滅が図られていた。江戸時代を通じて、徳川中心の史観が浸透し、徳川幕府の正当化のために関ケ原で家康と戦った西軍の象徴である三成は「佞臣」に貶められ、三成に恩を受けた大名家も幕府に睨まれることを怖れて三成に関する史料を隠したのである。さらには三成の実像を伝えない彎曲が行なわれ、それが江戸時代後期には「史実」として定着したのである。
 こうしたことから三成の実像は現代に至るまで、正確に伝わってはいない。


秀吉他界
 秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められる中、政権内部には三成らを中心とする文治派と加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が対立を深めていった。秀吉の忘れ形見・秀頼はまだ5歳で、秀吉は他界する前に幼い秀頼を心配して、五大老(前田利家・徳川家康・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と、五奉行(前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家)に秀頼への忠誠を誓約させた。

 さらに五大老と五奉行の中から、前田利家と徳川家康をリーダー格に置き、両者の指揮のもとで合議制の政治を行なえと言い残した。秀吉の死を看取った三成は「天下が騒乱にあった時代、秀吉様が世を治め、やっと今日の繁栄となった。 続いて秀頼公の世になることを誰が祈らないであろうか。再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけない」と誓った。
 五奉行を決めた際の秀吉は「浅野長政は兄弟同様で会議に必要な人柄、前田玄以は智将・織田信忠が認めた男であり確かな人材のはず、長束正家は丹羽長秀の下で名判官と言われている。増田長盛は財政経理に詳しく、石田三成は進言する際に機嫌や顔色をうかがわず堂々と意見する」。秀吉はこのように考えていたのである。

 1599年1月(39歳)、秀吉は特定の大名が大きくならないように、大名間の婚姻を厳禁していた。ところが秀吉の死から半年も経たないのに家康はこれに背いて伊達政宗、福島正則らと水面下で私婚を結ぶ動きを見せた。

 この時は家康以外の十人衆が全員で問責して縁組を止めさせた。しかし3月に家康と並ぶ実力者・前田利家が病没すると一気に家康が権力を掌握し始めた。

 前田利家が他界した夜、石田三成は以前から対立していた加藤清正、福島正則ら武闘派の諸将に襲撃された(石田三成襲撃事件)。家康の仲裁により和談が成立し三成の命は助かったが、五奉行の座を退き、大阪城から追い出され滋賀の居城で謹慎することになった。
 そして運命の1600年、家康は天下取りに向けて本格的に動き出した。同年6月、家康は五大老の1人・上杉景勝(会津)を討伐するため江戸から諸国に兵を集めた。

 7月11日、石田三成も水面下で反家康の行動を始め、まず最も親しい越前敦賀の大名・大谷吉継に挙兵計画を打ち明けた。吉継は「今の家康に勝てるわけがない」と忠告したが、三成は「秀吉様の遺言をこれ以上踏みにじらせぬ」と譲らなかった。そのため大谷吉継は「三成は昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにいかない」と腹をくくった。

 大谷吉継は秀吉に「100万の兵を与えてみたい」と激賞されるほどの名将だったがハンセン病を患っていた。当時の人々はハンセン病を感染病と認識していたので、吉継は普段から顔や手を布で覆い隠していた。

 ある時、秀吉の茶会で吉継に茶碗が回った時、吉継は飲む振りをして次に回すが、傷口から膿みが茶に垂れてしまった。列席した武将達は絶句し、一同はすっかり青ざめてしまった。吉継は茶碗を隣に回せなくなり、その場の空気は固まった。その時、石田三成が立ち上がり、「吉継、もうノドが渇いてこれ以上待ちきれぬ早くまわせ」と茶碗をもぎ取ると、そのまま最後の一滴まで飲み干したのである。石田三成とはそういう男だった。

関ヶ原の戦い

 石田三成が関ヶ原の戦いで西軍の結成にどのような役割を果たしたのか、単独で決起した三成が諸大名を引き込んだとされているが、挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は不明であり、また三成を西軍結成の首謀者とするのは江戸時代の創作が多いことが指摘されている。

 家康を叩くといっても家康軍8万に対し、三成軍は6千の兵士しかいなかった。しかも三成は政治の中心から離れて1年以上が経っていた。そのため普通なら諦めるところだが三成は筆一本にかけた。西国にはまだ五大老のうち毛利輝元・宇喜多秀家がいた。

 「家康公の行いは太閤様に背き、秀頼様を見捨てるが如きである」三成は家康の非を訴え、毛利輝元・宇喜多秀家を説得して挙兵の約束をとり付けたのである。また五奉行の長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行が味方になった。7月17日、二大老・四奉行の連署で家康の「罪科13ヵ条」を書いた檄文を全国の諸大名に送った。

 毛利輝元は西軍の総大将として大阪城に入城し、これを受けて各地から続々と反家康勢力が大阪に結集し、その数は9万4千にまで達した。既に数の上で1万余も家康側を上回っていた。さらに東北の上杉軍3万6千を入れると13万になり、東軍をはるかに超える戦力になった。西軍は手始めに伏見城・大津城を落とし近畿一円をほぼ制圧した。
  西軍と東軍の戦闘は日本各地で行なわれ、東北では上杉(西)VS伊達・最上(東)、中山道では真田(西)VS徳川秀忠(東)、九州では黒田勢(東)が西軍諸勢力と戦った。

 9月15日朝8時。ついに天下分け目の合戦が始まった。時に三成40歳、家康58歳である。両陣営の布陣は西軍8万5千、東軍7万5千で西軍は兵数で有利を保ったまま戦いに突入した。

 まず東軍の井伊直政隊が西軍の宇喜多隊へ攻撃を開始し、両陣営が一進一退を繰り返すなか、三成は山上に陣を張る西軍陣営に「加勢せよ」と合図の「のろし」をあげたが、なぜか山から下りてこなかった。西軍で戦っているのは親友の大谷吉継、文官の小西行長、大老・宇喜多秀家の三隊3万5千の兵だけであった。

 正午になって小早川秀秋の大軍がやっと参戦してきたと思ったら、なんと西軍に襲い掛かってきたのである。午後1時には勇戦していた大谷隊が持ちこたえられず全滅した。大谷吉継は自分の首を敵に晒されることを良しとせず、切腹したら地中深く埋めるように側近に命じて自害した。
 小早川秀秋の寝返りがきっかけとなり、味方の裏切りに歯止めが利かなくなっていった。やがて宇喜多隊と小西隊が敗走し、とうとう残るは石田三成の本隊のみとなった。

 三成は西軍内の裏切りに薄々感づいていた。そのため合戦直前の手紙に「小早川が敵と内通し、敵は勇気づいている。毛利が出馬しないことを味方の諸将は不審がっている。人の心、計りがたし」と記している。

 三成の家臣は四方から津波のように押し寄せてくる東軍を相手に、獅子奮迅の戦いぶりを見せたが、多勢に無勢で一人、また一人と壮絶に散っていった。だがこれほど絶望的な状況でも、三成の家臣だけは誰も裏切らなかった。午後2時、死闘の果てに三成隊は全滅し、ここに関ヶ原の合戦は終わった。関が原における石田軍の兵の働き、死に様は壮絶であった。
 西軍総大将を引き受け毛利輝元は、大阪城に入ったまま関ヶ原に行かず、合戦では三成が総大将になるしかなかった。毛利はこともあろうに、家康の「戦闘に加わらなければ所領は保証する」という密約をのんでいたのである。
 合戦3日後に居城の佐和山城は落城し、城内にいた父兄、石田一族は自害した。西軍を裏切った小早川・脇坂らの武将は、早く武勲をあげようとして佐和山城に乗り込み、内部のあまりに質素な造りに驚いた。三成は約20万石の武将であるばかりでなく、秀吉に寵愛され、長く政権中枢に身を置いていたので、さぞかし城内は豪勢で、私財を貯めているだろうと思っていた。ところが壁は板張りで上塗りはなくむき出しのまま、庭には風情のある植木はなく、手水鉢は粗末な石であった。佐和山城には金銀が少しもなかった。

 三成は「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」とよく言っていたのだった。

 

関ヶ原の敗戦後
 敗戦後、三成は伊吹山に独りで落ち延びたが、6日後に潜伏先の古橋村で捕縛された。

 捕縛された時、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った。

 9月24日、三成は家康のもとへ護送された。縄で縛られた三成の姿を見て東軍の猛将・藤堂高虎が近づき丁重に言った。「この度の合戦での石田隊の戦いぶり、敵ながら実にお見事でした。貴殿の目から見て我が隊に問題があれば、どうか御教授願いたい」。すると三成は「鉄砲隊を活かしきれてなかったようです。名のある指揮官を置けば、鉄砲隊の威力は向上するでしょう」。この助言に感謝した藤堂高虎は、以降、藤堂家の鉄砲頭には千石以上の家臣を当てることを家訓とした。
 徳川家康は三成と対面を迎えた。面会した際、最初に家康が声をかけた。「戦は時の運であり、昔からどんな名将でも負けることはある。恥にはあたらぬ」と嘆じた。三成は少しも臆することなく「承知しています。ただ天運が味方しなかっただけのことで、さっさと首をはねられい」。「さすがは三成、やはり大将の器量がある。命乞いをした平宗盛とは大いに異なる」と述べた。

 また家康は処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が破れた衣服ままであると聞き「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である」として小袖を送り届けた。三成は小袖を見て「誰からのものか」と訊き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると「それは誰だ」と聞き返した。「徳川殿だ」と言われると「なぜ徳川殿を尊ぶ必要があるのか」と礼もいわずに嘲笑った。
 関ヶ原から2週間後の10月1日、三成は京の都を引き回された後、六条河原で処刑された。享年40歳。

 三成が京都の町を引廻され処刑される寸前に「「ノドが渇いたお湯が飲みたい」と警護の者に伝えた。すると「残念ながら、今は水がない。しかしかわりに柿がある。これを食べてはどうか」と言った。しかし三成は「柿は腹に悪いから食べない」と言って断った。「今から首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と周りは嘲笑し「お前は今から首を切られるなのに、その後の体調のことなんか心配してどうするんだ」と言った。すると三成は「立派な人間たるもの、たとえ眼前に死刑を控えていたとしても、その最期の瞬間まで体を大切にし、一生懸命生きるべきだ、それは何とかして本望を達したいと思うからである」と毅然と述べた。

 なおかつて横浜一庵から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候」と書いており、他にも三成への柿の贈答が記録されたことから、柿が三成の好物だったことは広く知られていた。

 なぜ関ヶ原の戦場で自害せずに逃亡したのか問われた三成は、「私はまだ再起するつもりだった」と答えている。三成は薩摩の島津義久と連携して九州からの巻き返しを図っていたとされている。

 石田三成は死後徳川幕府によって悪評を流され、極悪人にされてしまった。しかし三成は20万石の一家臣でありながら、250万石の巨大な大名・徳川に戦いを挑んだ果敢な男だった。西軍から裏切り者が出たことで人望がないように言われているが、全滅するまで戦った石田隊の兵たち、大谷吉継、敬意を示した敵将など、彼らは人格者としての三成の素晴らしさを身をもって語っている。何より三成に人間的な魅力がなければ筆一本で東軍を上回る9万もの兵を2ヶ月で集められるわけがない。真に国土の繁栄を願い、自身の居城は極めて質素で、敗者でなければ英雄になっていた男だった。家康に拮抗する軍を組織した力は驚嘆に値する。
  小西行長もまた三成と一緒に斬首された。行長の場合はキリシタンなので自害せずに死去した。

 家康の次男・秀康は、豊臣の時代は三成と仲が良く、名刀・五郎正宗を三成から贈られていた。秀康はこの刀を「石田正宗」と名づけ生涯にわたって愛用した。
 黄門様こと水戸光圀は三成を「石田三成を憎んではいけない。主君の為に義を心に持って行動したのだ。徳川の仇だからといって憎むのは誤りだ。君臣共によく心得るべし」と評している。西郷隆盛はこの三成評に感銘を受け「関ヶ原で東西は決戦し、三成は怒髪天を突き激闘した。だが勝負は時の運である。敗戦を責められるべきでない事は水戸藩の先哲(光圀)が公正に判断している」と記している。

 石田三成の子孫
 関ヶ原の戦い後、石田三成は41歳で六条河原で斬首されたが、三成の3男3女の子供には家康は意外に寛容であった。
 長男の石田重家は、関ヶ原のの戦いの時は16歳で、関ヶ原には出陣せずに三成の居城・佐和山城を守っていた。石田重家は出家し、父・三成と親交の深かった春屋宗園の弟子となって104歳まで生きている。戦国時代は「坊主殺せば末代まで祟る」といわれ、そのせいか石田重家は咎めを受けることなく天寿を全うしている。

 重家の嫡男・石田直重は松平忠直の庇護をうけ、松平忠直が越後高田藩に移った際には随伴して、妙高高原の新田開発を行い、当地に定住して現在でも子孫が存続している。
    次男の石田重成は関ヶ原の時は12歳で、秀頼の小姓をしており大阪城内にいた。西軍が敗北すると津軽信建の手引により、重臣・津山甚内とともに東北へ逃れている。津軽氏に匿われて杉山源吾と名乗り弘前藩・家老となり、その子孫は数家に分かれ津軽家臣となっている。

 重臣・津山甚内は長男・重家とともに佐和山城を脱出すると、京で重家を妙心寺に預け、津軽信建と一緒に次男・重成を東北に落ち延びさせた。津軽為信は南部氏の家臣であったが、南部氏から半ば強引に独立して津軽地方に領土を広げたことから、南部氏から秀吉の惣無事令に違反したと訴えられたが、石田三成の仲介があり無事に所領を安堵していた。津軽為信はそのときの恩に報いるため石田重成を匿ったのである。津軽に渡った次男・重成は徳川氏をはばかり杉山源吾と名を改め、嫡男は杉山八兵衛良成と名乗り、津軽藩主の津軽信牧の娘ねねと結婚している。八兵衛良成は津軽家の家臣として蝦夷地で起きたシャクシャインの戦いで、津軽藩士700人を率いて侍大将として出征している。藩主の娘を妻に持ち、戦では侍大将として出陣し、津軽藩の重臣として活躍した。

 石田三成の三男は関ヶ原の時は元服前で、佐吉という幼名しか伝わっていない。石田佐吉という名前は三成の幼少時と同じである。石田佐吉は関ヶ原の戦いの時は、長男の石田重家とともに佐和山城内に居たが、重家と行動はともにせず石田佐吉は家臣・津田清幽(きよふか)に伴われ高野山へと落ち延びている。

    三男の佐吉は佐和山城が東軍に包囲された際、徳川家の旧臣で三成の兄・石田正澄に仕えていた津田清幽が開城交渉を行っていた最中に、豊臣家家臣で援軍に来ていた長谷川守知が裏切り小早川秀秋、田中吉政の兵を引き入れたため、正澄や父の正継らが自刃する悲劇が起きた。違約に怒った清幽が家康に迫り、生き残った佐吉らの助命を承知させた。佐吉は父・三成と親交の深かった木食応其の弟子となって出家し、清幽の忠義への感謝から法名を清幽と名乗った。

 この津田清幽はかつて織田信長、徳川家康に仕えており石田佐吉の助命を家康に直談判している。津田清幽は西軍の事実上の総大将石田三成の子の助命を家康に申し出ているので、かなり肝が座った人物だった。石田佐吉はその後、出家をして甲斐の国へと渡り、河浦山山薬時の第十六代住職になっている。
    長女は石田・家臣の山田隼人正に嫁いだ。山田隼人正の叔母は家康の側室・茶阿局であったため、その縁から三成の娘を連れて松平忠輝に2万5,000石で仕えた。山田隼人正は妻の妹・辰姫の縁で津軽藩に家臣として仕え、その子孫は津軽藩士となり側用人などを務めた。
    次女は蒲生家臣の岡重政の正室となったが、藩主・蒲生忠郷の母・振姫(家康の三女)の勘気に触れ、江戸に呼び出されて切腹処分になると会津を離れ、後に若狭国へ移り住み小浜で没した。その子の岡吉右衛門の娘は徳川家光の側室・お振の方(自証院)(三成の曾孫)となり家光の長女・千代姫を産んだ。尾張徳川家に嫁いだ千代姫の血筋は第7代藩主・徳川宗春まで続き、さらに千代姫の孫を通じて九条家・二条家を経て貞明皇后、さらに現在の皇室(昭和天皇)に血を伝えている。また岡吉右衛門の子孫は千代姫の縁で尾張藩士となった。
    三女の辰姫(高台院養女)は弘前藩第2代藩主・津軽信枚の正室となり、後に満天姫(家康養女)の降嫁により側室に降格したが、第3代藩主(津軽信義)の実母となった。
 上記の3男3女は全て正室・皎月院の子だが、この他に側室との間に数人の庶子がいた。

 

石田三成から学ぶこと

 石田三成は徳川家康と関ヶ原で戦い、土壇場で裏切られて敗れたため、江戸時代から今日に至るまで悪者にされ続けた。徳川幕府にとって神君・家康公は正義であって、敵である石田三成が悪者のように扱われれるのは仕方のないことであるが、石田三成はその意味では悲劇の智将である。真面目でまっすぐな性格と評される事が多く、三成が目指した日本は、太閤検地に見られるように公平で、朝鮮出兵に反対したように平和で、最期まで主君に忠義を尽くし人を裏切る事のない理想の世界であった。

 三成の旗印「大一大万大吉」は、「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために行動をおこせば、世の中の人々はみんな幸せになる」という三成の思想を表している。
 秀吉亡き後は求心力を失い、先を見通す力を発揮できなかったが、それは三成を活かせる秀吉のような人物がいなかったからである。秀吉の「人たらし」の極意と三成の計画性は重要なことであった。三成は関ヶ原の戦いで表舞台に立ち、結果的に敗将となったが、その洞察力や計画性は反徳川を遂行する上で欠かせない能力であった。
 三成は朝鮮出兵の際、功を焦る武将の行為を命令違反と断じ、軋轢を生み、秀吉の贈り物に季節外れの果実を送った武将ににも、季節のものを送るようにと突き返したこともあった。
 人間には時には計画性よりも「情け」が大切で、それを許容する度量も円滑な進行のためには必要なことであが、石田三成はあまりに真面目すぎた。