楠木正成

 元寇から半世紀が経ち、鎌倉幕府には御家人に与える恩賞がなく権威が失墜していた。さらに執権の北条高時は政治への興味をなくし「田楽のほか事なし」と言われるほど遊興三昧の日々であった。武士や民衆は重税に苦しみ、武士の世は乱れていった。

 1331年、この世相をとらえた後醍醐天皇が幕府打倒を目指して京都で挙兵し、政治を幕府から取り戻そうとしたが、鎌倉幕府の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者は少なかった。後醍醐天皇は2度倒幕を試みるが、この時、駆けつけた数少ない武将の中に当時37歳の楠木正成の姿があった。

 

楠木正成

 南北朝時代の武将・楠木正成は大阪・千早赤阪村に生まれ、河内・和泉を本拠地にしていた。楠木正成の前半生は不明であるが、楠木一族は土豪(地方豪族)で地元の特産品・水銀を売って経済力を蓄えていた。

 誤解しやすいことであるが、当時の鎌倉幕府は全国津々浦々を支配していたわけではない。特に近畿地方は天皇領が多いこともあって幕府の支配力は比較的弱かった。鎌倉幕府は多くの武装豪族や農民で構成されていたが、それを支えたのは農業中心の東国であった。近畿では農業に加え、商業が発達していたため、河内地方の商業や輸送の利権をめぐって、楠木正成は幕府と常に対立していたのである。
 当時、楠木正成のように幕府の方針に逆らう者を「悪党」と呼んだ。悪党の語感から山賊・盗賊・海賊といった犯罪者・無法者を連想するが「悪党とは悪い事をする者ではなく、幕府の支配に逆らう者のこと」で、反体制の新興武士団である。悪党というのは御家人でない武士団のことで鎌倉幕府から見た呼び名である。朝廷側から見れば「良党」になるが、実際には「良党」という言葉はない。

 鎌倉時代後期になると,近畿地方や西日本には新しい農園開拓者や古い領主に代わって新しい豪族が現れ、楠木正成もその豪族の一人だった。悪党の多くは野武士やあぶれ者で、強盗、ばくち、押買いなどを常に行い幕府には手におえない存在だった。

 

後醍醐天皇との出会い

  後醍醐天皇は倒幕の謀議が発覚し京を脱し笠置山で失意の日々を送っていた。ある日、後醍醐天皇がまどろんでいると、夢で「紫宸殿の庭先に大きな木があり、その下には百官が並んでいたが、南側の玉座(天皇が座るべき場所)には誰もいなかった。天皇が不審に思っていると、童子が現れて天皇を玉座に招いた」。目覚めた後、後醍醐天皇は左右の者に「木へんに南と書けば楠となる。このあたりにクスノキという者はいないか」と尋ねると、ある者が「河内国金剛山の西麓に楠木正成という者がおります」と答えた。このため後醍醐天皇は楠木正成を呼び寄せたのである。

 当時の後醍醐天皇の最大の悩みは軍事力がないことだった。後醍醐天皇は武士の力がなければ自分の理想を実現できないことを痛いほど感じていた。

 綸旨(りんじ)とは天皇の命令であるが、綸旨を出せば武士が天皇に従う時代ではなかった。綸旨を出しても、裏切られたら全てが水の泡になる。綸旨を出すなら明らかに反幕府側の者に出さねばならない。後醍醐天皇が悪党を利用しようと思ったのは偶然ではなく必然だった。摂津・和泉・河内の豪族で1番の悪党と言われるのは楠木正成であった。その後、楠木正成は居城赤坂城で、後醍醐天皇は笠置山で反幕府の旗を上げた。

 

鎌倉討幕
 楠木正成は天皇に討幕の意見を求められ「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はないが、知謀を尽くして策略をめぐらせば勝機はある」と答えた。この言葉はその後の戦いで証明されていく。
 1331年8月、楠木正成は地元に戻ると、河内山中に赤坂城(山城)を築き挙兵した。挙兵といっても正成の兵力はわずかに500人である。これに対して幕府は数万の討伐軍を差し向けてきた。甲冑を着て武装した幕府軍に対し、正成軍の大半は普段は農民の地侍で、兜もなければ上半身裸の者もいた。粗末な山城を見た幕府軍の武将たちは「こんな城など片手に乗せて放り投げてしまえ、1日でも持ちこたえてくれねば、恩賞に預かれぬ」と軽くみていた。
 このように油断していた幕府軍は、各自が勝手に攻撃を始め、城の斜面を登り始めた。ところが幕府兵が斜面を埋めた瞬間、突然二重の塀だった城の外壁が崩れ、幕府兵の頭上に巨大な岩や大木が地響きをあげて転がってきた。城内からは熱湯が浴びせられ、城外からは野山に潜伏した兵が襲撃してきた。

 1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない半農民の地侍たちは奇襲や待ち伏せなど奇想天外な策略を得意とし、この初戦だけで幕府軍は700人もの兵を失った。藁人形で敵をあざむき、熱湯を上からかけ、糞尿をまきちらしたりの奇策に翻弄され、幕府軍は武力で城を落とす事をあきらめ、城を包囲して持久戦に持ち込んだ。

 この時、幕府軍の中には足利尊氏がいた。尊氏は「楠木正成という男は只者ではない」とその天才的戦術と勇猛な戦いぶりに感心していた。

 

再び楠木正成

 兵糧攻めの結果、楠木正成軍は20日で食糧が尽き、そこへ笠置山の後醍醐天皇が捕縛されたことを知るや、楠木正成は城中に死骸を集めて城に火を放ち自害したように見せかけ火災の混乱に乗じて抜け道から脱出して行方をくらました。この時、幕府側の武将は「楠木正成は武士の伝統に従って、炎の中で自刃した」と思い込み、敵ながら立派だったと言い合った。

 このように楠木正成は従来の価値観を持たず、敵をあざむき逃げるところが、楠木正成の正成たる由縁である。
 赤坂城の攻防戦から1年が経った頃、再挙兵の準備を完璧に仕上げ、自害したはずの楠木正成は再び金剛山に姿を現した。楠木正成は河内や和泉の守護(幕府の軍事機関)を次々に攻略して、摂津の天王寺を占拠すると京を睨んだ。これに対し北条氏は幕府最強の先鋭部隊を差し向けた。

 天王寺の楠木正成側の兵は少ないながらも団結は強く、正成の家臣は「敵を一気に踏み潰す」と主張したが、正成は「良将は戦わずして勝つ」として謎の撤退をした。

 幕府軍はもぬけの殻になった天王寺をなんなく占領したが、夜になると天王寺は何万という「かがり火」に包囲され、幕府側の兵士たちは緊張で一睡も出来なかった。しかも夜が明けても正成軍に動く気配はなく、次の夜になると再び無数のかがり火が周囲を包囲した。

 「いつになれば正成の大軍は総攻撃を始めるのか」。4日目、精神的にも肉体的にも疲労の極致に達した幕府兵軍はついに天王寺から撤退した。天王寺を囲んだかがり火は「幻の大軍」で、近隣の農民5000人に正成が火を焚かせたものだった。楠正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利した。

 

持久戦
 翌年2月(正成39歳)、幕府は楠木正成の息の根を止めるべく、8万の追討軍を向かわせた。正成は千人の兵と共に山奥の千早城に篭城し千早城の攻防戦がはじまった。千早城は3方を渓谷に囲まれた天然の要害であったが、周囲は4kmほどの小さな山城であった。そこへ、幕府全軍・20万が攻め寄せます。幕府軍は大軍で千早城を包囲したが、正成の奇策を警戒するあまり近づくことが出来なかった。

 楠木正成は夜のうちに城外の山の麓にわら人形を20~30体並べ、夜が明けると後方から一斉に鬨(とき)の声をあげ敵に矢を射かけさせ。「このわら人形の策」で10万本の矢を手に入れ、欠乏気味の矢を大量に稼ぐことができた。

 幕府軍は京都から5000人の大工を呼び寄せハシゴを造らせ、これを向かい側の山から城壁へと渡して、そこから一気に城内へ攻め寄せようとした。これに対して大量の水鉄砲を用意し、水鉄砲の中に油を仕込み、燃え盛る松明(たいまつ)を投げつけ、火攻めにするなどその戦ぶりは奇想天外であった。

 幕府軍は2年前の赤坂城と同じ兵糧攻めを選んだが、今回は勝手が違った。幕府軍は8万もの大軍だった為に、包囲している幕府側が先に餓えてしまったのである。楠木正成の作戦は目前の大軍と戦わず、その補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つという「千早城そのものが囮(おとり)」になる前代未聞のものだった。

 山中で飢餓に陥った幕府兵に対し、抜け道から城内へどんどんと食糧や水が運び込まれ、正成軍は3ヶ月が経ってもビクともしなかった。やがて幕府軍からは撤退する部隊が続出し戦線は総崩れになった。正成の戦略は幕府の大軍を引きつけて長期戦に持ち込み、全国の武士達に弱体化した幕府を知らしめることだった。最初の攻撃から約3ヶ月後、幕府軍は千早城を落すことなく包囲を解き撤退することになった。正成の戦略とおり幕府軍の弱体化を全国に知らしめることになった。
 8万の幕府軍がたった1000人の正成軍に敗北した事実はすぐに諸国へ伝わった。「幕府軍、恐れるに足らず」これまで幕府の軍事力を恐れていた各地の豪族が次々に蜂起し、ついに幕府内部からも足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す者が出てきた。

 楠木正成の奮戦が鎌倉幕府の権威を失墜させ、全国に倒幕の機運を形成し、遂には足利尊氏や新田義貞ら有力御家人の倒幕参加を招いた。ある意味では正成の果たした役割は尊氏・義貞以上とも言える。

 鎌倉幕府を滅亡

 足利尊氏は京都の幕府軍(六波羅探題)を倒し、新田義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ちとり、140年続いた鎌倉幕府は滅亡した。

 楠正成が千早城を守り抜いたことが新しい時代を作ったのである。楠正成は後醍醐天皇を迎えにあがり、7000の兵を率いて京への凱旋の先陣を務めた。この時が正成の絶頂期だった。
 赤坂城と千早城の合戦の後、楠正成は敵・味方双方の戦死者を区別なく弔い、敵側の供養塔を味方側より大きくを建立し、高僧を招いて法要を行なった。敵という文字を使わずに寄手(よせて)とし、寄手塚の方が身方塚より大きく、残忍非情な戦国武将が多い中で楠正成は人格者として際立った存在になった。誠実な人柄が垣間見える感動的な供養塔は赤阪村営の墓地として現在も残っている。
 1334年(40歳)、後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ建武の新政を始めた。後醍醐天皇は天皇主導により戦いのない世の中を築こうとしたが、理想的政治を行なには強権が必要と考え「建武の新政」の独裁を推し進めた。正成は土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命された。

 後醍醐天皇は強くなりすぎた武家勢力を削ぐために、恩賞の比重を公家に高く武士に低くした。また早急に財政基盤を強固にするため、庶民には重い年貢と労役を課した。朝廷の力を回復する為とはいえ、このような性急な改革は諸国の武士の反発を呼び「建武の新政」は失敗に終わることになる。

 

足利尊氏との戦い

 1335年11月、足利尊氏が武家政権復活を目的に鎌倉で挙兵した。京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃った。尊氏軍は北畠顕家の参入で大敗すると九州へと敗走した。

 楠正成はこの勝利を単純に祝えなかった。西に敗走する尊氏軍に天皇方から多くの武士が加わるのを見たからである。「自軍の武士までが、ここまで尊氏を慕っている」と感じたからである。九州へ落ち延びた足利尊氏はその地で勢力を盛り返すと、再び京を目指して進撃して来た。

 新政権から人々の心が離反したことを痛感した正成は、後醍醐天皇に「どうか尊氏と和睦して下さい」と涙ながらに進言した。ところが公家達は「なぜ勝利した我らが尊氏めに和睦を求めねばならぬのか。不思議なことを申すものよ」と正成を嘲笑する始末だった。

 楠木正成はこ混乱の全ては後醍醐天皇の「建武の新政」の失敗にあることを知っており、社会を静めるには今までどおりの武家政治に戻すしかない。その武家政治の中心となれるのは足利尊氏以外にいないと考えていた。正成は時勢・時流をよくわきまえていた。
 1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得た尊氏が怒濤の如く大軍を率いて都を目指して東上してきた。後醍醐天皇は楠木正成に湊川(みなとがわ、神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と命じた。しかし討伐といっても足利尊氏の数十万の軍勢に対し、朝廷側はその20分の1ほどの軍勢しかいない。これでは尊氏の軍勢の追撃を阻止するのは無理であった。

 正面からぶつかっては勝てないので「尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、足利軍を京に誘い込んだ後に、兵糧攻めにするべき」と後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。「私は河内に帰って兵を集め淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めにしますゆえ、帝は比叡山に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」と正成は提案し、さらに正成が得意とした山中での奇策をも提案したが「帝が都から離れると、朝廷の権威が落ちる」という勝利に奢る公家たちに受け入れられなかった。公家たちは錦の御旗(天皇の旗印)さえあればその威光で戦いは勝利するものと考えていたのである。

 

桜井の別れ

 楠木正成は皇軍として数々の戦功を挙げてきたが、討ち死を覚悟して尊氏との戦場に向かった。その途中の桜井の駅(主要道路に約16Kmごとに設けられた施設)にさしかかった時、正成は嫡子・正行を呼び寄せ「お前はもう11歳だ。私の言うことが理解できるだろうから、よく聞きなさい。私は今度の戦いで戦死するだろう。そうなれば天下は足利尊氏のものになる。しかし武士は一時的に生き延びても、一旦決めた節義を変えてはならない。そなたは故郷の河内へ帰れ」と命じた。

 すると嫡子・正行は「いやです、最期まで父上と共にご一緒に討死します」と懇願したが、正成は「今お前が死んでどうする。お前を帰すのは、自分が討死にした後のことを考えてのこと。生涯後醍醐天皇のために、お前は命を惜しまず、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残り、いつの日か必ず朝敵を滅せ」とさとし、帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を形見として授けた。今生の別れを告げると、楠木正成は勇敢に湊川の戦いに向かって行った。この親子の別れの地が桜井(大阪府島本町桜井)で、地名にちなみ「桜井の別れ」と言われている。桜井村の坂口八幡宮内に、菊水の旗と上差しの矢一交が納められた矢納神社が残されている。

 桜井の別れは戦前の教科書にも唱歌にも載っていた。戦前の歴史書に載っていたこの話は、現在、知る者は少ない。(右下:滋賀県の小学校の校庭あった石像が神社に移されもので現存する)

湊川の戦い
 負けると知りながら、楠正成は失意の中で湊川に向かって出陣する。尊氏軍3万5千に対し、正成軍はたったの700である。戦力差は50倍で天皇の求心力は無きに等しかった。正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書く。「この戦いで我が軍は間違いなく敗れます。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まったが、それは民の心が天皇と通じていたからである。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従う者はいない。正成、存命無益なり」。この書状を受け取った後醍醐天皇が現実を直視するようにと正成は心から祈った。
 5月25日、湊川で両軍は激突した。海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成軍と合流できず、足利軍に寝がいる兵までいた。戦力の差は歴然としており勝敗はすぐにつくと思われたが、尊氏は正成軍に対し戦力を小出しにして、なかなか総攻撃に移らなかった。

 足利尊氏と楠正成は、3年前は北条氏打倒を誓って共に奮戦した同志である。尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、正成が降伏するのを待っていた。しかし正成軍は鬼気迫る突撃を16回繰り返し、10倍以上の軍勢を須磨まで押し戻し、尊氏の本陣にも攻め込んだ。このままでは自軍の損失も増える一方だった。尊氏はついに一斉攻撃を命じた。

 攻撃から6時間後、正成は最期をさとり、残った72名の部下と民家へ入ると死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。正成は弟・正季(まさすえ)は短刀を持ち、向かい合い互いに刺した。楠正成、享年42。

 

楠木正成の死後
 楠正成の首は一時京都六条河原に晒されたが、正成の死を惜しんだ尊氏は特別の配慮で、正成の首を故郷の遺族へ丁重に送り届けた。尊氏側の記録「梅松論」には、敵将・楠正成の死を「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべき、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」と記している。
 楠正成の没後、室町幕府が北朝の正当性を強調するため、足利軍と戦った正成を「逆賊」として扱ったため、楠正成は死後300年近く汚名を着せられていた。たとえ胸中で正成の人徳に共鳴しても、武士支配の優秀さを説く武家社会の中で、後醍醐天皇に殉じた正成を礼賛することは禁じられた。
 楠正成の終焉の地・湊川にある墓は、もとは畑の中の小さな塚であったが、1692年に水戸黄門(徳川光圀)が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立し、荒廃していた塚を整備した。徳川光圀は「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は楠正成の精神を見習うべし」と正成の名誉回復に努めた。墓の傍らには水戸光圀像が建てられている。
 楠正成の墓碑は大きな亀の背に乗る儒教式のものである。古来から中国では、死後の魂が霊峰・崑崙山(こんろんさん)に鎮まるとされ、亀はこの山に魂を運んでくれる聖なる生き物とされていたため、このような墓の形になった。
 室町時代の軍記物語「太平記」には、楠正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは、古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と刻まれている。
 楠正成が子と別れた史蹟・桜井駅跡(大阪)の石碑「楠公父子訣別之所」は明治時代の乃木将軍が書いたもので、正成の故郷の大阪・河内長野の観心寺の境内には正成の首塚がある。
 正成討死の半年後、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開き、翌年、新田義貞が敗死し、1339年には後醍醐天皇も他界する。正成の死から12年後、息子の楠木正行(まさつら、22歳)は南朝方の武将として父の弔い合戦に挑むが破れ、父の最期と同様に弟の正時と互いに刺し違えて自害している。


七生報国
 楠木正成が自決するに際し、弟の正季に「死んだら、人間は死ぬときの一念で生まれ変わるという。そなたは何を念ずるか」と問うと、正季は「七たび人間に生まれ変わり、朝敵を打ち滅ぼす」と答えている。正成は自分と同じであることを喜んで刺し違えて自決した。

 「七生まで同じ人間に生れて、朝敵を滅ぼす」、楠木正季は湊川の戦いに敗れ兄の楠木正成と共に自害するが、死んでも後醍醐天皇の南朝の為に忠誠を尽くす「七生まで同じ人間に生れて、朝敵を滅さばや」の言葉は、後世の人に深い感銘を与えている。
 吉田松陰は「七生滅賊」を謳い、戦時中には「七生報国」の四字が盛んに使われた。正季が誓った「七生」は、まさに後世の人々に脈々と受け継がれ、幕末には見事に江戸幕府を滅ぼした。吉田松陰の「七生説」は漢文体で書かれているが現代語訳は以下のようになる。
(現代語訳)
 天の広大さには理というものがあり、理は自然の中に存在している。また子孫が続く中には気があり代々連なっている。人は生まれたら理が心となり、気が体となる。心は公で体は私である。
 体(私)を犠牲にして公(心)の為に死ぬ者を君子とする。公(心)を犠牲にして体(私)の為に死ぬ者を小人とする。小人は死ねば腐敗して何も残らないが、君子は体が滅んでも心は理となって生き続ける。
 これこそ体(私)滅びても理(心)は生き続けることで、新田義貞一族や菊池一族も、南朝の忠臣という理(心)は同じである。したがって楠木公は七生と言わずとも、理(心)を通じて生き続けている。その忠義心ある者はみな楠公の生き様を見て奮い立った。

 楠公亡き後も志を継ぐ者は数限りなく現れ、楠公が蘇るのは七回だけにとどまらない。私はかつて三度に渡り湊川に楠公の墓前を拝したが涙が止まらなかった。私と楠公とは血の繋がりはないが、なぜ涙せずにいられないのか。楠公も私もみな理を備える心を持っているからである。だから体(私)の繋がりはなくても理(心)は通じている。これが涙の止まらぬ所以である。私には彼らと同じ心があり、忠孝の志を立てて国威を張り、外敵を滅ぼすのを自分の使命とする。
 楠公らと通じている心が、体のように腐敗していまうことはない。必ず後世の人に私の心を継がせてみせよう。それが七たびに及んだならば、それは叶ったと言える。七生の理はいま私の中にある。

下右)日露戦争の軍神・広瀬武夫が書いた七生報国の詩 下左)楠正成の墓碑

楠木正成の評価

 室町幕府は北朝の正当性を強調したため、足利軍と戦った楠正成を逆賊とした。しかし江戸時代には忠臣として美化され、江戸後期には尊皇派によって頻繁に祭られるようになった。明治維新から太平洋戦争までは、「皇国史観」により、尋常小学校の教科書では楠正成は天皇忠臣の象徴とされてきた。皇国史観によって「南朝方であった楠木正成は大忠臣で、南朝方の足利尊氏は大悪人」とされ、楠木正成の悪口を言う者は国賊扱いにされた。戦時中は「忠君愛国」「滅私奉公」とともに「七生報国」は武運長久の言葉として使われた。

 しかし戦後はその反動もあって、楠木正成が載った教科書は墨で塗りつぶされ、タブー視され、楠木正成を「立派な人だ」と言うものなら右翼と呼ばれかねない厳しい状況になっている。
 楠木正成は太平記では天才戦術家として描かれているが、誇張があったとしても日本史では指折りの戦術家であった。また「足利尊氏と和睦すべき」と後醍醐天皇へ進言していることから時勢をわきまえていた。
    後醍醐天皇が楠木正成の進言を拒否すると、楠木正成は節義を曲げずに足利尊氏と戦い後醍醐天皇に殉じた。楠木正成ほど「時代の評価」に浮き沈みした者も珍しいが、これは楠木正成の「天皇への一途な忠臣」によるものである。
    徳川光圀は「大日本史」で楠正成を大忠臣と絶賛しているが、福沢諭吉は正成の死は犬死と酷評している。楠木正成をどのように批判するかは簡単であるが、私たちは歴史の結果を知り、安全な立場から人物を批判してるので単なる観客の感想にすぎない。一介の豪族が天皇に盲目的に忠臣を尽くすことは、私たちの想像を越えたもので、楠木正成のような無名の土豪にとって、神にも等しい天皇から声をかけられた感動はいかほどであったのか。朱子学という学問がなくても、この感動が楠木正成の行動原理となっていたのだろう。
    楠木正成は当時の武将としては珍しく明確な行動原理を持ち、それに殉じた人物だった。俗に言うなら「男の中の男、武士の中の武士」だった。