足利尊氏

 日本史に登場する人物には、平清盛、松永弾正、明智光秀、吉良上野介、徳川綱吉、田沼意次、井伊直弼などは、戦前はどちらかというと悪役というイメージが強かったが、戦後はそのイメージが徐々に薄まり「時代の先駆者あるいは偉大な名君」として評価されることが多くなってきた。逆に和気清麻呂、菅原道真、児島高徳、山中鹿之助、二宮尊徳、高山彦九郎、乃木希典など、戦前・戦中の者ならば誰でも知っている人物であっても、戦後になるとすっかり影が薄くなった者もいる。南北朝時代前後の名将・楠木正成も、時代によって評価が大きく変わっているが、しかし時代によってこれほど大きく評価を変えたのは何といっても足利尊氏である。


概略

 足利高氏は、足利貞氏の次男として生まれ、鎌倉幕府・北条高時の名を受けて高氏(たかうじ)と名乗った。しかし1333年に後醍醐天皇が幕府に対して挙兵した際、その反幕軍を鎮圧するため、足利高氏は鎌倉から幕府軍を率いて京に上ったが、丹波国篠村で幕府へ反旗を翻して六波羅探題を滅ぼした。足利高氏は鎌倉幕府滅亡の第1勲功者として、後醍醐天皇から尊の名を授かり、高氏を尊氏と改めた。
 後醍醐天皇は天皇中心の政治(建武の新政)を目指したが、冷遇された武士達は急速に後醍醐天皇から離れていった。

 足利尊氏は鎌倉の残党が起こした「中先代の乱」により、窮地に陥った鎌倉にいる弟の足利直義を救出するため京から鎌倉に東下し、鎌倉の残党を鎮圧した。

 その後、鎌倉に留まり、朝廷を無視した独自の武家政権を樹立する構えを見せた。これにより後醍醐天皇との関係が悪化し、京に攻め込み、後醍醐天皇を比叡山へ追いやった。しかし天皇側の思わぬ反撃にあい、一時は九州にまで落ちたものの、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して都を制圧すると、光明天皇を擁立して征夷大将軍になり、新たな武家政権・室町幕府(北朝)を開いた。

 後醍醐天皇は捕虜となったが、吉野に脱出して南朝をつくった。室町幕府を開いてのち、弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に両者は対立して「観応の擾乱」を引き起こす。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝などの反対勢力に奔走し統治の安定に努めた。後醍醐天皇が崩御すると、菩提を弔うため天竜寺を建立した。

誕生から元弘の乱
 1305年7月27日、足利高氏は足利貞氏の次男として生まれた。出生地は、これまではその名のとおり足利荘(栃木県足利市)とされてきたが、現在では足利荘説は否定されている。母が上杉氏出身だったため、上杉氏の本拠地だった丹波国上杉荘(京都府綾部市)で生まれたとされている。兄には北条顕時の娘が産んだ足利高義がいた。

 高氏が誕生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽は高氏の肩に止まり、1羽は柄杓に止まったという伝説がある。15歳で元服をすると足利高氏(通称は又太郎)と名乗った。鎌倉幕府が始まって以来、足利氏は源氏の名家とされ、足利尊氏は鎌倉にいることが多く、栃木県の足利荘に足を踏み入れた可能性は低い。
 鎌倉幕府にとって足利家は他の御家人と比べ圧倒的に優遇されていた。そして北条氏一族の有力者であった赤橋流北条氏の赤橋(北条)守時の妹赤橋登子を正室に迎えている。その後、北条守時は鎌倉幕府の執権となる。
 足利氏には先祖に当たる平安時代の源義家が「自分から七代目の子孫に生まれ変わって天下を取る」という置文が存在していた。足利義家の七代の子孫にあたる祖父・家時は、自分の代では達成できないため、八幡大菩薩に三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して腹を切った。三代の孫に相当する足利尊氏・直義兄弟は家時の遺書を見て、自分が天下を取ることを意識する。

 関東武士にとって清和源氏の血筋が重要であった。武家の最高職である「征夷大将軍」になるには清和源氏あるいは桓武平氏の血統が必要だった。北条氏の執権や秀吉の摂関も、この血筋を持たないことからの執権摂関の呼称で、松平家康が源氏の傍流であった徳川を名乗ったのは、血筋の重要性を早くから知っていたからである。

 

足利家と新田家

 足利高氏と新田義貞は共に祖先を源義家にもつ八幡太郎義家の子孫である。源義家を継いだ源義国には二子がいて、仲の良いふたりの兄弟に領地が同じになるように領地を分け与えた。家督は弟の義康(足利氏)が継いで足利の地に土着し、兄の義重(新田氏)は新田の地に土着した。新田氏の地は群馬県太田市と新田郡、足利氏の地とは栃木県足利市で、両地は渡瀬川を挟んで隣接し、文化的にも経済的にも密接な関係にあった。しかし弟の義康(足利氏)が兄の義重(新田氏)をさしおいて家督を継いだことが両家の確執の原因となり、そのわだかまりはその子孫まで続くことになる。足利高氏と新田義貞は両家の第8代目の当主であった。

 鎌倉幕府の将軍となった源氏は源実朝で途絶えたが、もっとも源氏の正統に近い血筋は足利高氏と新田義貞であった。足利家は源氏の嫡流として鎌倉幕府より手厚い保護をうけていたが、その一方で、新田家は冷遇された。鎌倉に大きな屋敷を構えた足利家にくらべ、新田家は北関東の土着武士団のひとつとしての扱いであった。

 この差は賄賂と北条家とのつながりにあった。足利の地は平安時代より有名な絹織物の産地で、賄賂には反物が最も有効であった。新田の地は農耕に適さない赤土の土地がらで賄賂性のある産物がなかった。この差は鎌倉時代が平和になればなるほど大きくなった。平和な時代に有効なのは力より金であった。貨幣文化の始まった鎌倉時代には賄賂が有効にはたらいたのである。また北条家は平氏の子孫であったが、足利氏は北条家と代々婚姻を繰り返し北条家との繋がりを強めたのに対し、新田家は新田荘から動かず、平氏の子孫である北条家を見下していたのだった。
 現在足利家のあった場所は大日如来をまつる鑁阿寺(ばんなじ)になっているが、もともと武家屋敷だったため寺院にはめずらしく寺院には外堀が囲ってあり、寺院には足利家の家紋がある。そのすぐ隣には、日本最古の学校として室町時代に建てられた足利学校の跡がある。
 新田家にも同じく呑竜様と呼ばれる寺院が太田市の中心部にあって、その裏手には小高い山城があり、頂上には新田義貞を祭る神社がある。新田義貞の居城とされる反町館の跡は反町薬師として親しまれている。

 

鎌倉幕府の腐敗
 蒙古の来襲によって日本の国力が低下し、鎌倉幕府は北条氏が権威にあぐらをかき、贈賄、収賄の金権政治にあけくれ腐敗をきたしていた。そのため新たな時代を待ち望む空気が満ち溢れていた。そこに登場するのが、後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成、そして新田義貞であった。後醍醐天皇の倒幕計画が二度発覚し、戦闘は避けられない状態にあった。

 足利家は源氏の嫡流として鎌倉の幕府公認の名門であった。足利家は鎌倉に大きな足利屋敷を持ち、武家の中でも高い地位を保証されていた。足利家は足利の土着武士ではなく、幕府の要人として鎌倉を本拠地としていた。足利高氏は鎌倉の足利屋敷で育ち、足利の地は形だけの領地になっていた。高氏が足利の地を訪れた記録がないことから、高氏は一度も足利の地に来たことはなかったとされている。

 足利家は北条家より血筋が良いと認められ、武士団からの信望も厚かった。そのため統率力に欠けた鎌倉幕府にとって頼りがいがあった。1333年4月、足利高氏は幕府の切札として総大将に任命され、後醍醐天皇の立てこもる船上山めざし鎌倉を出発した。高氏28歳の時であった。
 足利高氏の率いる幕府軍が西上する頃には、倒幕機運は最高潮に達していた。千早城での楠木正成のねばり、吉野の護良親王(もりよし)の挙兵や後醍醐天皇の隠岐脱出などは、倒幕派を勇気づけ。地方武士団は次々に旗を揚げた。もちろんその中心になるのは船上山で各地に号令する後醍醐天皇であった。

 後鳥羽上皇の承久の乱以来、公家は武家を敵視し、後醍醐天皇は天皇の世を復活させるため鎌倉幕府に戦いを臨むことになる。この後醍醐天皇の謀反から戦乱の世になる。

 

 元弘の乱
 1331年、後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は足利高氏に派兵を命じ、高氏は天皇の拠る笠置と楠木正成のこもる赤坂城を攻撃することになる。

 高氏はこのとき父貞氏の喪中であったため、鎌倉からの出撃を辞退したが幕府はそれを許されなかった。このことから高氏が幕府に反感を持つようになったとされている。また足利高氏は承久の乱で大将として幕府軍の勝利を導いて以来、対外的な戦いでは足利氏が大将を務めるのが常とされ、幕府・北条氏は高氏に大将としての力量と幕府に逆らわないと思い込んでいたからである。

 後醍醐天皇は笠置寺にこもり、その周囲を鎌倉幕府の大軍が取り囲んだ。このとき彗星のごとく現れたのが河内国土着の武士・楠木正成であった。楠木正成は天皇軍を後方から支援するため赤坂城に立てこもり、幕府の大軍勢を相手に奮戦した。1か月におよぶ戦闘の結果、後醍醐天皇軍はやぶれて隠岐島へ島流しとなった。
 楠木正成は赤坂城を脱出して山中へ逃げ落ち、これで乱は鎮静するかにみえたが、ここからが楠木正成の本領が発揮された。赤坂城より金剛山に千早城に陣取ると、山岳ゲリラ戦を始めたのである。攻める幕府軍総勢100万に対し、千早城を守る兵はたったの1000人程度であった。しかし楠木正成は知りつくした地の利を生かし、奇襲戦法で幕府軍の攻撃をかわして戦ったのである。たかが1000人程度の兵を前に、幕府の敗退は許されなかった。鎌倉幕府の威信がかかわる攻防戦は長期化し、千早城を落城できない幕府軍をみて、各地で反幕府運動が活発化してゆく。これは楠木正成の狙い通りの動きだった。山中で長期戦になればなるほど、戦局は有利な方向へ向かってゆくことを知っていたからである。
 後醍醐天皇の元弘の乱は失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶らが多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。後醍醐天皇も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。1332年3月には後醍醐天皇は隠岐島に配流された。

反鎌倉幕府
 1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出すると伯耆国・船上山に籠城した。高氏は病中だったが再び幕命を受け西国の討幕勢力を鎮圧することになった。高氏は名越高家とともに幕府軍の大将として都に上った。このとき高氏は妻の登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行させようとしたが、出陣の直前になって幕府は人質として妻子を鎌倉に残留させた。足利高氏は出陣する大将に対し、妻子を人質に差し出せとは、どういう了見なのかと激怒した。
 4月27日早朝、名越高家ははやる心を抑えきれず、7000騎を引き連れて六波羅より八幡山崎に向かった。それより少し遅れ足利高氏は秘めた決意を胸に五千騎で出発した。出発してまもなくして名越高家軍が後醍醐天皇の連合軍と激突した。この連絡が足利高氏の元に届いたが、本来ならば援軍すべき高氏であったが、桂川の西の端にたどりつくと全軍を止め両軍の動きを傍観した。両軍は互角の戦いであったが、血気にはやる若き名越高家は、みずから前線で指揮を取るうちに赤松軍の矢に射られ討ち死にした。
 名越軍敗北の報を待っていたように、足利高氏は全軍に出撃を命じた。向かうは山崎を背にした丹波篠村であった。足利軍の軍勢もにここまで来ると足利高氏謀反に気づき、六波羅に逃げ帰る者も出たが、大半の軍勢は六波羅の主軍を引き連れた名越高家が敗れたため、足利高氏に従うよりないと覚悟を決めていた。
 足利高氏は丹波篠村にて全軍に自分は後醍醐天皇に従う事を告げた。
「すでに御綸旨もいただいてある。この上は源氏の頭領として朝敵を成敗したいと思う。これよりは朝敵成敗の大将は、この尊氏である。おのおのも覚悟を決められよ」、するとと集まった侍頭からときの声が上がった。
 源氏の大将が半幕府として立ち上がったとの知らせに、近隣の豪族達が次々と集まってきた。最初に駆けつけたのは地元の久下時重の軍勢だった。しかも久下時重の軍勢の旗印には「一番」の文字が書かれていた。
 関東では、同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して、幕府を滅亡に追い込んだ。この軍勢には、鎌倉からの脱出した千寿王も加っていた。その一方で、高氏の嫡男・竹若丸は伯父に連れ出され鎌倉を出たが、脱出に失敗して北条勢に捕まり殺害されている。

六波羅陥落
 足利高氏はついに全軍を六波羅にむけた。5月7日の空も白々とする早朝のことだった。全軍はこれから始まる戦を前にして静まり、大軍は無言のままに進んでいった。篠村の外れまでさしかかった所で、足利高氏が馬を止めると、朝もやの中にかすかに煙る落ち葉焚きの匂いがした。森の中を見ると巫女の鳴らす鈴の音が聞こえてきた。
「よし、最初に出会ったあの社に戦勝の願をかけるぞ」と云うと、弟の直義や高師直、上杉憲房らと鎮守の境内に入っていった。ほこらの前に膝をついて祈ると、そばにいた巫女に尋ねた。「ここの神社は、どのような神を祭っているのか」すると、巫女は「この神社篠村八幡宮」と答えた。八幡大菩薩とは源氏の祖を祀る神社であった。八幡太郎義家の直系である足利高氏は祖父の残した置文の事をいまさらのように思い出していた。
 六波羅に迫る頃には、すでに内奏済みの千種忠顕軍、赤松則村軍の活躍が聞こえて来るようになり、ついに京の町を東に望むあたりで六波羅軍と全面衝突した。両軍はにらみ合いがあったが、足利軍の中から一騎の武者が走り出て六波羅軍に向かい声を張り上げた。
「足利の家来にて、設楽(したら)五郎左衛門と申す。六波羅の衆で我と思わん人あらばお相手願う」。これは一騎打ちのはたし口上であった。その勇気ある武者に、敵も味方も、だれが相手をするのかと見守った。
 六波羅軍より進み出てきたのは、意外にも老人だった。「われこそは、六波羅の奉行として長年書記の職に仕えた斎藤伊予房玄基(いよのぼうげんき)なり。筆を太刀に替えてご奉公する身なればいざ勝負」。
 足利軍きっての武者である設楽五郎左衛門と老体の斎藤伊予房玄基では、勝負は明らかに見えたが、まさに死闘となった。両者は馬上で組み合うい、そのまま落馬すると力の勝る設楽が斎藤の上にまたがり首を切った。同時に斎藤も組み伏されながらも下から設楽を太刀で三度突き上げ、両者そのままの形であい果てた。
 勇者に続けとばかりに、両軍いりみだれての死闘が再開された。徐々に敗退していく六波羅軍に足利尊氏軍は優勢に戦いを続けた。もはやこれまでと、六波羅では、天皇、上皇を連れ六波羅探題の北条仲時たちは鎌倉へ落ちることにした。しかし敗残の兵は残酷であった。六波羅探題らを連れた軍は、六波羅をわずかに出た所で野伏の群れに攻撃され、恥辱の内に全員その場で自害し、一面の血の海と化したその中に、ただ呆然と天皇が立ちすくんでいるだけだった。

浮島が原
 六波羅陥落の数日前の深夜、足利屋敷はただならぬ異変で騒がしかった。屋敷を警護していた衛兵の目を盗み、足利高氏の子・千寿王が逃走したのである。足利高氏の謀反を知った北条高時は六波羅に「足利高氏が謀反を計画しているので、ただちに捕らえよ」と命じたのである。しかし鎌倉からの連絡が一歩遅く、千寿王を逃したのは高氏の母・上杉清子であった。その日の夜半、警備の兵に気づかれぬように紀五左衛門が屋敷に忍び入り、千寿王と高氏の妻・登子の寝室に近づくと部屋の中に忍び入った。登子はすぐに気づき、部屋の隅に置いてある長刀に手を延ばした。
 しかし紀五左衛門は高氏の命により、千寿王様と奥方様を安全な所へ案内するために参上したことを述べた。紀五左衛門は上杉清子から派遣された者であった。
 妻の登子は北条一族の赤橋家より嫁いだ女であった。執権とはいとこ同士であったが高氏謀反の事情を知らされていなかった。高氏は京都において旗をあげ、鎌倉様は敵となった。そのため人質の千寿王様と登子の命があぶない、登子は気を失ってしまった。紀五左衛門は配下の者に指示し、登子と千寿王を連れ闇に消えた。
 鎌倉から六波羅へたった使者が駿河の国の高橋駅(清水市)に到着したころ京都の異変を伝える早馬に出会った。その内容は最悪で悲惨なものであった。幕府主軍の名越軍が壊滅し、足利高氏は謀反により六波羅を攻撃している。六波羅へ至急の援軍が必要という内容だった。使者は直ちに早馬を立てて鎌倉をめざした。
 途中箱根を越えたあたりで、二人は奇妙な山伏の一行に出会った。風体は山伏であったが、その中に幼少で色白の山伏とは見えない者が混じっていた。使者が早馬を止め山伏一行に近づいた。「修験の者、連れている稚児は何物か、足利の者と見たが、笠を取りて顔を見せよ」すると山伏の先頭を急いでいた者が足を止め笠を取らずに答えた。
「何を仰せられます。我ら修験の身なれば中には修行の足りぬ者もございます。これより二所権現にて修験の為に先を急いでおりますれば、お引き留めは無用に願います」しかし使者の疑いは解けなかった。
「まこと修験の者なれば勧進帳を披露なされ」と詰問した。たわいのないことと懐より取りだした勧進帳をすらすらと読み上げた。「まあよいではないか。たとえこの者共が足利の者とて、あそこまでして主君を守ろうとする心掛けは見事ではないか。まして間違って本物の山伏を捕らえたとあっては末代までの恥辱となろう」。
 その時「無礼者」との稚児の言葉に、先ほどの勧進帳を読み上げた山伏が、もはやこれまでとふところから短刀を出すと腹を切り果て白紙の勧進帳が落ちた。幕府の使者たちは薄々と感じとっており、この哀れな一団を見ぬ振りでやりすごしたいと思っていた。しかし「まことの武士であるならば、取り残された者がどのようになるかを思い知らせねばならぬ」と、一行を捕らえた二人はその稚児の首をはね、近くの浮島が原の人目に付くところにその首をさらした。足利高氏の嫡子・竹若の哀れな末路であった。

還幸
 足利高氏が丹波篠村で立ち上がって5日目には北条の権力は畿内から一掃されていた。六波羅が壊滅すると楠木正成軍を包囲していた千早の幕府軍までが一斉に郷里に引き上げて行った。恩賞目当ての寄せ集め軍にとって、恩賞の相手がいなくなったので、楠木正成と戦う意味など無くなってしまったからである。

 一方、倒幕として戦った者たちは、それぞれの思惑を持っていた。統率者がいたわけではく、それは次のグループにわけられた。

 千種忠顕軍(ちぐさただあき)などの後醍醐天皇軍として錦の旗を中心に戦った山陰を勢力とする軍、武家の頭領として源氏の旗にて戦った坂東軍、赤松円心などの足利高氏軍、護良親王の令旨をよりどころに戦った山陽の勢力。これらが思い思いに勝ちどきをあげた。六波羅敗退は船上山の後醍醐天皇のもとに届けられた。
 名和長年は天皇の座する会議の場で得意そうに「御還幸でございます。一族あげて盛大に送らせていただきます」と話した。「なれど鎌倉はもちろん各地の探題はいまだ健在、京都周辺も安定したとは言えまい。主上はこのままここでしばらくは号令するのが良いのでは」と、天皇とともに隠岐に渡った阿野廉子が口をはさんだ。しかし反対を押し切って後醍醐天皇は京都還幸を決意した。「最初が肝心である。今回の六波羅攻めは結局伊豆の守の身内の力により成功したもの。この機に主導権を取らねば、単に武家の主の首がすげかえられただけに終わってしまう。朕が京都に早急に帰る必要がある」
 後醍醐天皇はすでにこの時、足利高氏の強大な力を危惧していた。還幸の行列は華々しかった。ほんの1年3ヶ月前に、庶民の嘲笑をあびながら隠岐へ流されたときとは全く違っていた。兵庫まで行列がさしかかった所で、地元の赤松円心と則祐父子の出迎えに出会った。わずかな手勢で、真っ先に挙兵した勇将である。天皇は感激し「恩賞は望み通りにあたえる」と述べた。
 天皇自ら赤松父子にねぎらいの言葉をかけた。天皇は感激のあまり思わず漏らしたこの言葉が、やがて後醍醐政権を根底から覆す事になった。赤松円心が恐縮している所に、関東からの早馬が届いた。何やら関東で重大な事件が起きたとのざわめきの中、使者は羽書を取り出し捧げた。
「北条を討ち滅ぼしたとの知らせである」、使者の文を読み上げた従者が驚きの声をあげた。滅ぼしたのは関東の御家人の新田義貞で、誰も聞いたこともない名であった。途中で楠木正成の出迎えをうけ、二条の内裏に到着したのは6月5日であった。

 足利高氏は後醍醐天皇と複雑な思いで初めて出会った。後醍醐天皇の倒幕の目的は武家から政権を取り戻すことでったが、足利高氏の倒幕は腐敗した武家政治をみずからの手で立て直し再建することであった。全く正反対の目的でありながら倒幕という一致した目的のために共闘したにすぎなかった。

 京都には全国から倒幕に貢献した有力武士団が集まってきた。空前の大恩賞の沙汰が言い渡される時が来たからであった。なにしろ北条の領地だけでも全国に膨大なものがあった。それに北条と命運を供にした有力な御内人達の領土も恩賞の対象であった。倒幕に貢献した全ての武士団に大判振る舞いしてもまだ余るほどの量であった。

 しかし足利高氏の苦悩はここから始まる。倒幕の中心勢力だった武士団に恩賞はほとんどなかったからである。「恩賞は望み通り」という天皇が言い渡された赤松円心でさえ、せいぜい領土安堵だけで、まるで敗北したかのような恩賞であった。

 もちろん無名の武士団などは恩賞の対象外で、北条の一族ということで領地を召し上げられた者までいた。

 北条の領地の大半は千種忠顕、護良親王ら貴族たちに分割された。女官などの倒幕とは無縁な者にまで莫大な領地が与えられた。不満をぶつける先を持たない各地の武士団は足利の元へ集まった。
 源氏の旗の元に戦った者達は、はやく殿に鎌倉へ入って、新代としての采配を取り各地に号令していただきたいと直訴した。家臣の高師直は気の短い男であった。北条にかわりに足利尊氏が政務を司ると公言してはばからなかった。そのため高師直は地方武士から人気があった。


建武の新政
 鎌倉幕府が滅亡すると、足利高氏は後醍醐天皇から倒幕の勲功者とされ、従四位下に叙し、鎮守府将軍・左兵衛督に任じられ、また30箇所の所領を与えられた。1333年8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねるとともに天皇の諱「尊治」を受け高氏を尊氏に改名した。尊氏は建武政権では自ら要職には就かなかったが、足利家の執事(筆頭家老)である高師直とその弟の師泰をはじめとした家臣を多数政権に送り込んだ。これには天皇が尊氏を敬遠した、あるいは尊氏が政権と距離を置いたとする見方とがある。世人はこれを「尊氏なし」と称した。
 1333年、義良親王(後村上天皇)が陸奥太守に任じられ、北畠顕家が鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになった。尊氏も成良親王を上野太守に擁立して弟の足利直義とともに鎌倉に駐屯させた。

 鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら、父の後醍醐天皇に疎まれ不遇であった護良親王は、それにも関わらず尊氏を敵視し、政権の不安定要因となった。1334年には父の後醍醐天皇の命令で逮捕され、鎌倉の足利直義に預けられて幽閉の身となった。
 1335年、信濃国で北条高時の遺児・北条時行を擁立した北条氏の残党が反乱を起こし(中先代の乱)、北条時行の軍勢が鎌倉を攻めて鎌倉を占拠した。直義は鎌倉を脱出する際に、独断で護良親王を殺害した。尊氏は北条時行を討伐するため後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与え、尊氏は直義の軍勢と合流して、相模川の戦いで北条時行を駆逐して、8月19日には鎌倉を回復させた。
 直義の意向もあって、尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き、独自に恩賞を与えはじめた。京都からの上洛の命令を拒んで、独自の武家政権創始の動きを見せはじめたのである。これは朝廷に逆らうことであり、11月、尊氏は新田義貞を「君側の奸」として天皇に討伐を要請するが、天皇は逆に新田義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。

 さらに奥州から北畠顕家が南下し始め、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪する。しかし足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うために天皇に叛旗を翻し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言して出馬した。

中先代
 六波羅探題を滅ぼした足利尊氏の元に各地から続々と戦功のあった武士が一族郎党を引き連れて上洛して来た。彼らは戦功があるにも係わらず、何の恩賞もない地方武士達であった。天皇のお気に入りの女官に領地を召し上げられ、派遣されてきた官吏により領地を追われ着の身着のまま上洛してきた哀れな者も混じっていた。
 後醍醐天皇の綸旨で挙兵した山陰地方の武士たち、護良親王の令旨にて挙兵した楠木正成や赤松円心らの近郷の武士たち、足利尊氏の源氏の白旗で立ち上がった武士たち、それぞれの思いが交錯しながら京の市中は混乱した。

 元々北条氏に最も近い存在である足利尊氏の元には、六波羅の実務派の武士たちが押し掛けていた。彼ら官僚たちにとって、頼るべき主家は北条一門の仲で鎌倉幕府の経営を知っている足利尊氏以外にありえなかった。しかも足利尊氏にとっても、京都の政治の実権を握るためにも彼らの存在は必須であった。六波羅探題は主人を北条から尊氏に代えただけであった。
 実務派官僚の存在は大きく、六波羅による奉行所運営は後醍醐天皇の入京以前にすでに完成していた。旧体制をそのまま復活させるだけなので簡単なことであった。
 後醍醐天皇はこれに遅れをとったが、そのことが後々まで響いてしまう。公家の政り事を復活させ、六波羅方向に遠慮せず勅書を発行できるようになった程度であった。実際には各地の勢力は足利尊氏からの報償をありがたがって領国に帰って行き、後醍醐天皇の綸旨は威力のないものとの感覚で受け留めていた。後醍醐天皇は国の主家を誇示しように公家による一統をことさら叫びつづけた。
 公家政権と足利政権が地方でぶつかりあい、一触即発の状況が続き、各地で抑圧された旧北条勢力が次々と立ち上がった。その中でも北陸の名越時兼と諏訪の北条時行の力は強大であった。とくに北条時行は上野国を経て鎌倉に迫り足利直義軍を打ち破って鎌倉を奪還した。北条時行には日和見的な関東の豪族武士たちを従えて、一気に京都を目指す勢いであった。
 足利尊氏は右往左往するだけの天皇を無視して、北条時行との戦いに京を出た。後醍醐天皇の無能さが露見したが、やむなく出陣した足利軍に後追いの形で征東将軍の追認をおこない、天皇はその威厳をかろうじて保とうとした。
 中先代の乱と呼ばれた戦いをほどなく治めた足利尊氏は、そのまま鎌倉にとどまり、本格的な新しい幕府創設の準備にとりかかった。関東武士を懐柔させるため、新田義貞の上野領を無断で中先代の乱の恩賞に利用した。

竹ノ下
 鎌倉の足利尊氏、京の新田義貞の対立が表面化した。互いに相手の非を天皇に訴える奏状に始まり、政治駆け引きは相手方への討伐の綸旨を乞うものであった。天皇は双方の扱いに苦慮したが、坊門宰相清忠が「鎌倉に幽閉の身であった護良親王を足利直義が殺害した」と報告すると、足利尊氏は一気に逆賊となり、追討が決定し新田義貞に討伐の命令が出された。新田義貞は官軍として足利尊氏が待つ鎌倉に向かった。

 新田軍に従軍したのは、大半が関東の軍勢だった。対する敵の足利軍も関東の軍勢であった。関東の軍勢は京の身内と戦わされる不満があった。また鎌倉では評定の席で足利尊氏は新田軍との全面戦闘をためらい、この戦を避ける方策を練っていた。
 親王殺害と誤解を招いたことを謝罪し、剃髪することで朝廷への恭順の意を示した。この官軍との衝突を避けたいとする足利尊氏の方策に、評定の席に出席していた諸将はいずれも納得しなかった。上杉道勤、細川和氏、佐々木道誉、足利直義ら強行派は三河出兵を決定した。
 三河国の矢矧川(やはぎ)をはさみ、両軍は激突した。新田軍は常に優勢に戦い、足利直義を大将とする足利軍は徐々に東へ退いていった。途中で味方が続々と新田軍に寝返り、側近の佐々木道誉までも寝返った。
 箱根の峠にまで追いやられた足利軍を見て、足利尊氏は消極策を捨て手勢を率いて箱根に向かった。かつての北条時行との戦いで、箱根が破られれば鎌倉が落ちる事を知っていたのである。足利尊氏は、新田義貞本軍と足利直義軍の激戦している箱根峠には向かわず、新田義貞の弟の脇谷義助が少ない軍勢で戦っている竹ノ下へ向かった。敵の弱い部分に突進する戦法は、足利尊氏が経験からあみだしたものであった。いくさは勢いである。勢いの良い方を見て日和見勢が援軍になれば自然と勝機をつかめるのであう。この竹ノ下でも尊氏の戦法は見事に当たった。さっそく敵に寝返っていた佐々木道誉が、新田軍の中心部で寝返り、混乱した脇谷義助軍は狭い峠道を逃走した。大軍が狭い峠で統率を失い、あとは自滅するように西に退却を始めた。
 12月、尊氏は新田軍を箱根・竹ノ下の戦いで破り京へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしていた。1336年の正月、尊氏は入京を果たし後醍醐天皇は比叡山へ退いた。
 しかしほどなくして尊氏は奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図ったが、2月11日の摂津豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫し崩壊した。尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。

はじめての敗戦
 一度敗走を始めると、たとえ錦の御旗の大儀を持った新田義貞軍といえどもろかった。勢いで京に攻め上る足利尊氏軍に対して、敗走してきた新田義貞軍が市中になだれ込んできた京都市街は大混乱となった。
 これを見ていた各地の諸豪も次々と足利尊氏に応じて朝廷に反旗を翻した。その中には鎌倉倒幕の重要な功労者でありながら、不当な恩賞に泣いた赤松円心も混じっていた。彼は楠木正成同様、孤軍強大な鎌倉幕府軍と戦い、やがて怒濤の倒幕機運が全国に盛り上がるきっかけを作り、六波羅攻めに最も勲功のあった武将であった。本来であれば足利尊氏新田義貞に次ぐ恩賞があってしかるべきと思っていたのに、戦後彼に与えられたのは、元々の小さな彼の所領を安堵するという、まるで敗軍の敵将にかける情けのような、とても恩賞とは言い難い沙汰であった。これは自分の望んだ世の中ではない。熱血漢あふれる赤松円心は足利尊氏が京都を離れ、鎌倉に向かったときから、すでに足利尊氏の反旗を予感し、尊氏が反旗したなら真っ先に呼応する事を決めていたのだ。
 西、東からの足利尊氏に呼応する大軍勢の前に、まだ無傷で健在だった楠木正成軍や名和長年軍が主力となって京都防衛の要である宇治、勢多、山崎にその大半の勢力を集中させ防衛にあたった。
「楠木正成は知将だそうであるが、山中で奇策をおこなう程度のことしかできぬ者だ。大軍勢はわずかなほころびで壊滅する事をまだ知らぬとみえる。」
 足利尊氏はほくそ笑んだ。そして、竹ノ下での戦法をここでも使用した。つまり敵の主軍が待ちかまえる宇治、勢多には見向きもせず、迂回して八幡方面から背後の手薄なところに集中攻撃をおこなったのである。大軍勢は、わずかなほころびから全体が動揺して統率がきかなくなる事を足利尊氏はよく知っていた。案の定官軍は総くずれとなり、後醍醐天皇もろとも比叡山に逃れた。
 足利尊氏の全面勝利であった。全国の武将の多くが足利尊氏に味方している。あとは劣勢の新田軍らを徐々に追いつめれば、足利尊氏による新しい秩序の武士の時代が訪れるはずと、足利尊氏に呼応した誰もがそう思った。
 しかしこのとき、足利尊氏は、その後の長い混乱のもとになる新たな勢力が近づいていることを知らなかった。奥州を短期間で統一し、後醍醐親政の危機に、奥州の勢力をひきつれて登ってきた北畠顕家軍であった。北畠顕家は弱冠二十歳にも満たない少年であった。後醍醐天皇のそばに仕える父親の北畠親房の命で建武の新政後の奥州を束ねるため、未開の地に入り、苦闘の末に短期間で奥州統一を果たして後醍醐天皇に背いた足利尊氏の後を追い京都に向かったのである。
 新たな援軍に力を回復した後醍醐天皇の官軍の前に、さしもの足利尊氏も力負けしてしまった。園城寺の戦い、神楽岡の戦い、糺河原(ただすがわら)の戦いと、いずれも破れ、丹波篠村に逃れた足利尊氏は兵庫に向かい、打出浜(うちでがはま)などにて楠木正成に押され気味の戦いを強いられ、ついに周防の大内軍や長門の厚東軍らに守られて瀬戸内の海上を九州方面へと敗走していったのである。足利尊氏初めての敗戦であった。

 後醍醐天皇をはじめとする京都の公家達にとっては、まさに悪夢のような出来事だったが、ようやく足利尊氏を追い、元の平穏な日々が戻ってきた。新田義貞は新しい妻を迎え、北畠顕家は京都市中が平穏になったのを見届けると、奥州の異形と呼ばれた地侍達を引き連れて帰っていった。

多々良浜
 戦いに敗れた足利尊氏は瀬戸内海を西へ向かい、九州の筑前多々良浜に到着した。その間、四国の勢を国々に帰し、京都からの追っ手に備え、備前児島や讃岐などに家臣たちを配置したので、多々良浜に到着した頃には、わずかな手勢が残るのみだった。
 疲れで戦う気力も失っている足利尊氏の元に、筑前国の宗像大宮司の使いの者が訪れた。宗像神社は後醍醐天皇による不平等な恩賞で領地を失った不満があり、足利尊氏に好意を持っていた。使いの者は「宗像神社は場所も狭く、休息するには窮屈ではありますが、どうぞいらしてください。しばし体を休め九州各地に軍勢催促のご教書を書かれてはいかがでしょう」と提案した。
 足利尊氏はこの言葉に救われた心地になり、わずかな勢と一緒に宗像神社に向かった。しかし尊氏に休息の時間は訪れなかった。翌朝、尊氏は若武者の甲高い声で目が覚めた。300の兵とともに小弐妙恵の若き嫡子・小弐頼尚(しょうによりなお)が駆けつけてきたのである。小弐頼尚は、はじめて出会う尊氏に興奮した声でまくしたてた。小弐軍は天皇方の菊池武俊と互角に戦っており、父の命で家臣を引き連れて将軍の警護にはせ参じだが、菊池の勢に待ち伏せされて大半を失ってしまった。残された人数では父も長くは持たじ残念でならない」、小弐頼尚はまぶしいほどの若武者だったが、この経験の浅い若者にも百戦錬磨の菊池武俊軍は容赦しなかった。全軍が総崩れとなる中、命からがら宗像神社まで逃げ延びてきたものだった。少勢で守る少弐の砦はすでに落ち、再起を誓って足利尊氏を頼ってきたのである。足利直義は「勝負は時の運、やってみねばわからない。この直義が先陣をきる」
 尊氏の弟・足利直義は気の短い男だった。わずかな手勢をひきつれて、多々良浜にあふれる菊池軍に突入すると申し出た。社壇の前を過ぎようとしたとき、一羽の烏が直義のかぶとの上に杉の葉を一枝落としていった。これぞ吉兆と、直義はその小枝を袖にさし、ついに多々良浜の戦いの火蓋は落とされた。
 3月初旬、足利直義の決死の突入は、磯の波を蹴散らし、その轟々たる響きにさしもの菊池軍も一瞬ひるんだ。その一瞬を足利軍は見逃さなかった。あとづさりをはじめた菊池軍の本陣めがけてひたすら追った。大軍とはいえ大半は日和見に集まっていた武士達の集まりである。この一瞬の優劣の逆転を見て取った連中は、雪崩の如く足利軍に寝返った。足利直義の電光石火の逆転勝利だった。この筑前・多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、さらに大友貞順ら天皇方勢力を圧倒した尊氏は勢力を立て直し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上した。

院宣
 わずかなあいだに九州一帯を制圧した足利尊氏は、休む間もなく京都を目指す決心をした。日和見をしていた九州一帯の諸豪族も、先を争って足利軍に従い合流してきた。巨大な軍勢を率いた足利尊氏は、落ち延びた同じ瀬戸内の海路を京に向かった。

 足利尊氏には不思議な魅力があった。いつの戦においても、昨日の敵が降人となると全て許す心の広さがあった。領地を守るために戦う武士団には評判が良く、戦の最中もいつも絶やさぬ静かな微笑みが士団に安心感を与え、奇跡を信じさせてしまうのだった。九州を驚異的な短期間で統一すると、ふたたび天下を狙えるほどに回復できたのも、この足利尊氏の魅力が大きかった。
 しかし今回の再起軍を統率する足利尊氏にいつもの微笑みが消えていた。師直は「いかがなされた。いつもの微笑みの尊氏公と呼ばれたあのお顔をお見せ下され。新田義貞なぞ何の手強いことがありましょうや」いつになく元気のない尊氏を気遣って声を掛けた。
 尊氏は「この戦は一体何を求めての戦いなのだろうか。この尊氏はお上の元で働き世の秩序を守る武門の主になろうと努力していただけなのに、どこをどう掛け違えたのか、いまではお上に逆らう大逆人として京を目指している。いまの尊氏にとって敵とは誰なのか、お上なのか」そうつぶやくように吐き捨てると、足利尊氏は鎧を上下させて大きく溜息をついた。
「そこです。まさにそのことのため、京より三宝院の僧正・賢俊殿が到着してお目通りを待っております」意味ありげな高師直の言葉に、いぶかしそうに尊氏が振り返ると、そこには赤松円心の三男則祐がかしこまって平伏し、その隣に賢俊らしき僧がに立っていた。
「足利尊氏殿、お目にかかれて祝着に存じます。この書状は、持明院上皇よりの院宣で、尊氏殿に上洛を命ずる勅書である」賢俊は事情を飲み込めずにいる足利尊氏に挨拶すると勅書を差し出した。本来ならば儀礼をもって勅命を申し渡すのであるが、賢俊は勅書を尊氏に手渡した。
 まだ意味がわからない足利尊氏は困惑した顔で高師直の顔を見た。
 すると高師直は「上皇からの院宣は、最も権威のある勅命で、これにて我が軍は官軍としての大義名分をもって朝敵を征伐するため軍を都に進めることができるのです。新田義貞めは今日より賊軍になった」
 高師直の声に、沈んでいた足利尊氏の顔が赤らんで口元に微笑みが浮かび、いつもの顔に戻り、そばにいた誰もが安堵した。
 これは高師直と赤松円心との苦心の演出であった。鎌倉での尊氏が天皇の命に服して出家しようとしたが、今回はふたたび天皇に弓矢を向けることになる。ふたたび躊躇している足利尊氏の気持ちをなんとかするため、播磨にて新田軍と対峙していた赤松円心の老練な知恵にすがって相談していたのだ。
 赤松円心からの返答は「武士の世では親政の世と異なり、天皇の綸旨よりも上皇の院宣が最も権威あるものとしている。今の上皇は皇位を奪われたままになっている持明院であるから、院宣を給われば足利尊氏は上洛して新田軍をうつであろう」ということであった。高師直は秘密裏に赤松一門とともに、仲介役の賢俊僧正を介して院宣を手に入れることに成功した。昨日までの憂鬱が嘘であったかのように足利尊氏の動きが活発になった。三日のうちに停泊していた厳島を発ち、備後鞆の浦に入り、塩の流れを見計らって、ついに決戦場となる湊川目指して足利尊氏を頂点とする九州四国中国の大軍勢が海から陸から進軍を開始した。

湊川の戦い
 もはや尊氏に迷いはなかった。上皇の院宣を片時も離さず胸元にしまい込み海路から兵庫の浜・湊川に向かって軍船を進めていった。上陸作戦を援軍すべく陸路を行く弟の足利直義らも、足利尊氏の上陸予定地に向かって兵を急がせていた。5月25日、新田義貞と楠木正成らが待つ湊川の瀬戸内に溢れかえるほどの足利軍の大軍船が押し寄せてきた。

 新田軍の中の弓矢の名人・本間孫四郎の放った鏑矢が足利軍の軍船めがけて飛んできたが、その矢は飛び立つ瞬間の海鳥に命中し大内軍の軍船の上に落ちた。
 敵味方なく感嘆の声が上がり、足利尊氏は「あの弓矢の者の名は何と申すか」と側のものに問い掛けた。するとその答えのかわりに本間孫四郎の放った次の矢が、遠く足利尊氏の乗った軍船まで届き、ふたたび足利の軍勢から驚きの声があがる中、「殿、この矢には本間孫四郎の名が刻んでございます。」と側のものが尊氏に伝えた。

 足利軍の士気を削ぐ目的であることは誰の目にも明らかだった。やがて尊氏の軍船から上陸が強行され、湊川決戦の火蓋は切られた。和田岬より上陸する足利軍を新田主軍が追う形で東へ移動し、楠木軍の陣営からわずかに離れた。楠木軍は陸路より攻めかかる足利直義らと対峙して動きが取れなかった。足利尊氏の本体は楠木新田両軍の間の、わずかな間隙をついてほぼ中間地点に上陸した。楠木正成は海陸両軍から挟み撃ちになり退路も断たれた。楠木正成はもはやこれまでと覚悟を決め、弟の楠木正季(まさすえ)と自害の場所を探した。
「正季、死ねば来世に生まれ変われるそうだが、おまえはどのようにに生まれ変わりたいか」、楠木正成はな薄笑いを浮かべ正季に語り掛けた。
「兄上、正季は来世など望みませぬ。七度おなじ人間に生まれ変わって朝敵と戦いたく存じます」正季は覇気を失った正成に言い放った。

 楠木正成は「成仏を望まぬなどとは、罪深い妄念だな。しかしわしも同じく思う。しからば、早々に生まれ変わって本懐を遂げようぞ」。

 死んでも七度生まれ変わりたいという正季の言葉は、楠木正成も同じものでもあった。後醍醐天皇に忠義を尽くそうとすればするほど、公家社会の汚さに振り回されてきたが、後醍醐天皇への気持ちは変わらなかった。
 やがて兄弟を失った楠木軍は、大きな戦の波の中に飲み込まれるように消えていった。足利軍は怒涛のごとく留まるところを知らなかった。京都の防衛のため退いた新田義貞軍を追い、再び入京したのだった。

南北朝
 入京してみると、そこはすでにもぬけの殻であった。不気味なほどに平穏に足利尊氏率いる九州四国中国の諸豪族の大軍勢は京都に入り新たな主となった。 後醍醐天皇方は、京都市街戦を不利とみて新田義貞らとともに再び比叡山に上ったのだった。

 あらかじめ申し合わせていたとおり、寺明院の法皇一行は比叡山には行かず京都に残っていた。法皇に謁見した足利尊氏の表情は誇らしさに溢れていた。六条河原にさらされていた楠木正成の首を故国に帰すふところの豊かさを示すことで、この戦が尊氏の全面勝利になったことを人々に印象づけた。

 尊氏は京をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭をもたげてきた「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている。

 後醍醐天皇方は体制を立て直すための比叡山行きであったが、世情が足利尊氏の天下平定で平和が戻ることを願うようになってきていることに焦りを感じた。足利尊氏の再起があることなど思いも寄らなかった後醍醐天皇方の朝廷公家たちは、足利尊氏を九州に敗走させた東北の武士団を早々に帰郷させていた。北国の異形が市中を徘徊することに耐えられなかったのだ。そして再び足利尊氏が進軍してきたとき、比叡山の山中で、公家たちは、ひたすら若き北国の将軍北畠顕家が上洛してくるのを待つのであった。
 戦局は、日増しに後醍醐天皇方に不利になっていった。焦りから決戦を急いだ千種忠顕や名和長年など、後醍醐天皇が隠岐島を脱出した当時からその中心として活躍していた有力な武士たちが敗れ去った。

 もはやなすすべをもたない後醍醐天皇に、足利尊氏は京都御還幸を勧めた。もとより後醍醐天皇に弓を引くつもりなど毛頭なく、取り巻きで、まつりごとを混乱させた公家たちや、宿敵新田義貞と戦い、後醍醐天皇を救出することが大義名分の戦いであった事を長文の文にしたため比叡山に届けたのだった。

 足利の勢力は比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。足利尊氏の言葉に気持ちが揺らいだ後醍醐天皇は新田義貞に無断で比叡山を下る決心をした。直前にこれに気づいた新田義貞は驚いた。忠義に天皇に従ってきた義貞を見限って、足利尊氏の元に後醍醐天皇が行こうとしていたなど想像もしていなかった。新田義貞に続く言葉はなく、北陸に落ち延びて再起を図はろうとした。しかし北陸に向かった新田義貞には大軍勢の追っ手が差し向けられ、北陸の新田軍は壊滅的に破れ消えさった。捕らわれた親王は京都に戻された後に、何者かによって毒殺された。

 後醍醐天皇はわずかな公家衆らを伴って京の市中に向かった。11月2日に、後醍醐天皇は光厳上皇の弟光明天皇に神器を譲り、11月7日に建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権の成立を宣言した。

 このときをもって室町幕府の発足となった。尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。

 いっぽう後醍醐天皇は12月のの夜に、忽然と京から消え、ほどなくして吉野(奈良県吉野町)へ逃れたことがわかった。後醍醐天皇は光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、本物はこちらにあると称して独自の朝廷(南朝)を樹立した。吉野の山中に新たな朝廷ができたのである。
 以後50年にも及ぶ京都の朝廷と吉野の朝廷の対立の時代、後の世に「南北朝時代」と呼ばれた日本史上特異な時代のはじまりであった。後醍醐天皇が吉野に築いた南朝は、足利尊氏を苦しめ続けたが、時代は足利将軍家を中心とした新しい武士の時代に大きく流れていき、その流れの中に南朝は静かに埋もれていった。
  足利尊氏は、自ら擁立した北朝の天皇から、宿願の征夷大将軍の地位を得たが、それはだいぶ後に、北陸から好敵手だった新田義貞が流れ矢に当たって死亡したという知らせが入ってからの事であった。

足利尊氏と天龍寺
 太平洋戦争のころ足利尊氏はたいへんな悪人のように言われた。それは尊氏が南朝の後醍醐天皇に背いたからである。しかし本当は気立ての優しい人だったようで、後醍醐天皇に背き吉野で死なせたことが尊氏には悪いことをしたように思え、気になってならなかった。そこで尊氏は夢窓疎石という宗の僧と相談して天皇の魂を慰めるために天龍寺を京都の嵐山の近くに建てることにた。しかしその頃は戦いの続いた時代だったので寺を建てる費用がなかった。そこで元(中国) に天龍寺船という貿易船を送って、その儲けを天龍寺建築の費用にあてた。またかつて貰った荘園を寄付したりした。尊氏は自ら天龍寺建築の土運びをしたとされ、現在、尊氏の描いた地蔵様の絵が残っていますが、これは自分の犯した罪をくいて描いたとされている。
 1338年、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が名実ともに成立した。翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。造営費を支弁するため、天龍寺船が製造され中国へ派遣されている。さらに諸国に安国寺と利生塔の建立が命じられた。

 南朝との戦いは基本的に足利方が優位に戦いを進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の遺児正行などが次々に戦死し、小田治久、結城親朝は南朝を離反して幕府に従ったほか、1348年には高師直が吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげた。

 

直義と師直の戦い(観応の擾乱)
 新幕府では足利尊氏は政務を直義に任せ、自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨した。尊氏は武士の支配権と軍事を握り、統治事務をバランス感覚の良い直義に任せたのである。新幕府は鎌倉幕府で将軍が持っていた権力を二つに分けた兄弟による両頭政治であった。尊氏は感情の起伏が激しく、直義がそれを補うような形で幕府の舵取りをしていた。

 もちろん尊氏と直義は最初から仲が悪かったわけではない。むしろ源頼朝・義経兄弟や織田信長・信行兄弟と比べるととても仲が良かった。同じ母親から生まれ、育ちも同じで、鎌倉幕府打倒の際には尊氏を直義がよく支えて倒幕を成し遂げた。

 しかし二元化した権力は、徐々に幕府内部の対立を呼び起こし、尊氏の右腕として活躍した高師直らが反直義派として、直義派が対立してゆくことになる。

 高師直は尊氏の右腕として軍事に携わっていたが、もう一人の片腕である直義は政治を担当しており。武官と文官の仲が悪いのも常であるが、性格的にも全く合わなかったようで、また師直の弟・師泰がかなり自己中な性格だったため、それも影響したと思われる。高師直は直義のやり方に不満を持っていたので、直義の側近が尊氏にあることないことを吹き込んで高師直を幕府中枢から追い出した。当然そのままで済むはずがなく、高師直は武力をもって反抗した。直義と師直が戦い、負けた直義が尊氏邸へ逃げ込んできた。尊氏邸は高師直の兵に包囲され、高師直は直義の引退を求めた。尊氏は直義側にも師直側にもつかず、直義は頭を丸め出家して政務を退くことになった。
 高師直が直義に代わって師直は返り咲き政務を担当し、尊氏の嫡男・義詮が鎌倉から呼び戻され、尊氏が高師直の次男・基氏を鎌倉に下して鎌倉公方とした。東国を統治するため鎌倉府として鎌倉公方を設置したのである。

 直義の引退すると、直義に養子に行った足利直冬が九州で直義派として勢力を拡大した。そのため、1350年、尊氏は直冬を討伐するために中国地方へ遠征した。するとおとなしくしていた直義が京都を脱出して、桃井直常、畠山国清ら直義派の武将たちとともに南朝に降伏したのである。

 直義はかつて南朝方のNo2で、過去には後醍醐天皇の嫡子・護良親王を殺していた、南朝からすれば仇も仇である、普通は手を組まない的であったがが、南朝方は武士を失っている状態だったので、なりふり構わず直義を迎え入れた。

 直義の勢力が強大になると、京の義詮は劣勢となって京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏も光明寺合戦や打出浜の戦いで敗れてしまった。尊氏は高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に直義と和睦し、1351年に和議が成立した。

 この交渉において尊氏は代理人に立てたが、代理人の氏直には「直義に師直の殺害を許可する」旨を伝えた。和睦後、師直兄弟とともに京に戻るが、この時尊氏は出家姿になってみすぼらしい二人と一緒に上洛するのは「見苦しい」と言って嫌い、師直兄弟に行列の後ろから3里(約2km)ばかり離れてついてくるようにと指示を出した。

 高師直ら一族は尊氏に見捨てられた形で、護送中に父の敵として恨んでいた直義派の武士・上杉能憲により殺害された。首を取って胴体は川に投げ捨てるという凄まじいやり方だった。室町幕府設立の立役者・高師直 ラストは無残な殺され方で、高氏一族もこのときほとんど殺されている。
 直義は義詮の補佐として政務に復帰した。この一連の戦闘の勝者は直義、敗者は尊氏であり、尊氏の権威は失墜してもおかしくはなかった。ところが尊氏は全く悪びれた様子もなく、むしろ以前より尊大に振る舞うようになる。

 論功行賞では尊氏派の武将の優先を直義に約束させ、高氏を滅ぼした上杉能憲は後に反尊氏派となったため死罪とし、直義と再交渉の末これを流罪にした。また直義派から尊氏派に鞍替えした細川顕氏は、謁見に現れた直義派の細川顕氏を降参人扱いにし、太刀を抜いて縅すなどまるで勝者のように振る舞い、細川顕氏は尊氏の迫力に気圧され一転して恐怖に震えた。

 そもそも尊氏は細かいことに拘らない性格だったが、今回の敗戦も尊氏と直義の戦いではなく、あくまで「師直と直義の戦い」として、自分の都合のいいように考えていた。また直義が理想とする政治は現実に即しているとは言い難かったため、尊氏派に宗旨替えする武将が続出し、敗者だった尊氏側が実際には優勢となった。このような情勢の中で、直義派の武将が殺害されたり襲撃されたりするなど事件が続発し、直義は政務から再び引退することになる。

 尊氏は佐々木道誉の謀反を名目に近江へ、義詮は赤松則祐の謀反を名目に播磨へ、京の東西へ出陣する形となったが、佐々木や赤松の謀反の真相は不明である。後に彼らは尊氏に帰順し、尊氏はむしろ直義追討を企てて南朝と和睦交渉を行った。

 この動きに対して直義は京を放棄して北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立した。この和睦によって尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝の崇光天皇は廃されることになった。

 尊氏は直義を追って東海道を進み、薩た峠の戦い(静岡市清水)、相模早川尻(小田原市)の戦いなどで撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義は、1352年2月に急死した。太平記では尊氏による毒殺の疑いを記している。尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は義詮を中心に執られることになった。
 尊氏が京を不在にしている間に南朝方との和睦は破られた。宗良親王・新田義興・義宗・北条時行などの南朝方から襲撃された尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐさま反撃し関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還した(武蔵野合戦)。

 一方、畿内でも南朝勢力が義詮を破って京を占拠し、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致し、足利政権の正当性は失なわれるという危機が発生する。しかし近江へ逃れた義詮はすぐに京を奪還し(八幡の戦い)、佐々木道誉が後光厳天皇擁立に成功した為北朝が復活、足利政権も正当性を取り戻した。しかし今度は、佐々木道誉と対立して南朝に下った山名時氏と楠木正儀が京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに京を奪還した。
 1354年には直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受ける。翌年には尊氏は京を放棄するが、結局直冬を撃退して京を奪還した。この一連の合戦では神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで道誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が非常に大きかったが、最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた。尊氏はこの際自ら直冬の首実検をしているが結局討ち漏らしている。
 尊氏は島津師久の要請に応じて自ら直冬や畠山直顕、懐良親王の征西府の討伐を行なうために九州下向を企てるが、義詮に制止され果せなかった。1358年4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて死去した。享年54。
 1358年5月2日、尊氏の葬儀が真如寺 (京都) で行われ、5月6日甲辰の条の初七日からの中陰法要は等持院において行われたことがわかる。 墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺。これを反映して死後の尊氏は京都では「等持院」、関東では「長寿院」と呼び表されている。 尊氏の死から丁度百日後に孫の義満が生まれている。

尊氏の評価

同時代の人達の評価
 尊氏の親交のあった禅僧・夢窓疎石が、歴史物語・梅松論の中で尊氏の人間的な魅力として次の3点を挙げている。
 1. 心が強く合戦で命の危険にあっても、その顔には笑みがあり、全く死を恐れる様子がなかった。これは戦場での勇猛さだが、戦場で矢が雨のように尊氏の頭上に降り注ぎ、近臣が危ないからと自重を促すと尊氏は笑って取り合わなかった。また1355年の東寺合戦で危機的状況に陥った際、尊氏は例の笑みを浮かべ「合戦で負ければそれでお終いなのだから、敵が近づいてきたら自害する時機だけを教えてくれればよい」と答え、全く動揺していなかった。このように尊氏には危機に直面した時に無意識に微笑む癖があった。たとえ鬼神が近づいてきたとしても、全く動揺する気配がないと尊氏の胆力を示し、この微笑は配下の武将たちに安心感と勇気を与えている。

 2. 生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵を許し、しかも彼らに我が子のように接した。この敵への寛容さも、畠山国清や斯波高経など一度敵方に走ったものでも、尊氏は降参すればこれを許容し幕閣に迎えていることからもわかる。
    3. 心が広く、物惜しみする様子がない。金銀すら土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、財産とそれを与える人とを特に確認するでもない。手に触れるのに任せて与えてしまう。

 このの気前の良さは、よく八朔の逸話が取り上げられる。当時は旧暦の8月1日に贈答しあう風習があった。尊氏のもとには山のように贈り物が届けられたが、尊氏は届いたそばから次々と人にあげてしまうので、その日の夕方には尊氏のもとに贈り物は何一つ残らなかった。戦場でも尊氏は戦場で功績を上げた者を見ると、即座に恩賞を約束するかな書きの下文を直接与えている。戦場の下文がもつ即時性の効果は大きく、恩賞を約束された本人の感激はひとしおで、これを見た武将たちも競い合うように軍忠に励むようになった。尊氏が与えたのは下文だけでなく、腰刀や軍扇なども与えた。こうした鷹揚で無頓着な尊氏を見聞きした家臣たちは、みな「命を忘れて死を争い、勇み戦うことを思わない者はいなかった」とされ、これが尊氏最大の人間的魅力だった。

 尊氏の特徴として、尊合戦で苦戦すると切腹すると言い出し、後醍醐天皇に背いて朝敵となったことを悔やんで出家を宣言したりした。尊氏は正月の書き初めで、毎年「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」と書いたとされている。

 尊氏は勇気があるというよりも、生死に対する執着が薄かったのだろう。また命への執着の薄さは時に周囲にも向けられ、親族や腹心であっても状況次第では意外に冷たく突き放した。直冬の冷遇や正平一統による北朝への裏切り、幼い頃から苦楽を共にし幕府創設に欠かせなかった弟・直義と執事・高師直も、事態が面倒になると案外あっさり切り捨てている。尊氏の対人関係には、普段は無類の愛情を示しておきながら、状況次第では簡単に見切ってしまうという、やや無節操な傾向がまま見られる。
 これらは度量の広さと評することが出来るが、逆に言えば全てに無頓着であり、良くも悪くも「無私の人」と言える。その場その場では周囲に気を遣い、他人にいい顔をするが、それは別に深慮があるわけではなく、状況が悪化すると簡単に全てを放り出してしまう。「八方美人で投げ出し屋」という人間なら誰しも大なり小なり持ち合わせる傾向が、尊氏はより強かった。

 尊氏は自分の理想に向けて周囲を引っ張っていくリーダーではなく、英雄的人物とは言いがたいが、歴史の表舞台に立った尊氏は、その性格ゆえに周囲の動向に振り回され傷つき、また自身も無意識に周囲を傷つけてしまう苦悩を背負うことになった。

 夢窓疎石は鎌倉幕府を開いた源頼朝と尊氏を比較し、頼朝については「人に対して厳し過ぎて仁が欠けていた」とする一方で、尊氏については「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と絶賛し、末代までなかなか現れそうにない将軍としている。

 しかし尊氏と同時代に生きた人達の中には、尊氏を酷評する人もいた。南朝方の代表的な武将である新田義貞は尊氏を強く憎んでいた。尊氏は関東の管領を朝廷から得たことを理由に、新田一族の領地を没収し、自分の家臣達に恩賞として与えることをしたからであるが、新田義貞もその報復として足利一族の領地を取り上げたため、同じ源氏一門でありながら足利と新田は激しく対立し、尊氏が朝廷に義貞追討を上奏したと聞き、ついに義貞の怒りは頂点に達した。義貞は後醍醐天皇に尊氏のことを「無能無才で卑しい身分」と激しく罵っている。
 また南朝の公家でありながら、南朝方の武士を率いて転戦し武将としても活躍した北畠親房は、尊氏を「功も無く徳も無き盗人」などと酷評している。北畠親房は武士とは常に天皇や公家に従属すべきものという考えを持っていたため、武家が公家と同等の存在になる事を認めなかった。鎌倉幕府が滅びたのは朝廷の威光と時の運によるもので、武士の力によるという認識は間違いとしている。さらに親房は「神皇正統記」の中で、尊氏の事を「凶徒」「朝敵」と記しており、後の「尊氏=逆賊」というイメージはこれが端緒となっているのではないかとされている。
 尊氏が生きていた時代は南北朝動乱の激動期で、尊氏が築いた新政権はまだ安定しておらず、南朝との戦いだけではなく幕府でも内紛が起こるなど尊氏にとっては敵や戦が多い状況でもあったため、当時の状況を反映して尊氏の事を褒め称える人が多くいる一方で、尊氏の事を厳しく評価する人もまた多くいたわけである。

 尊氏の死後暫くして室町幕府が安定してくると、当然その幕府を創設した尊氏に対しての評価は高くなっていった。室町幕府は3代将軍足利義満の時代を最盛期として、その後は次第に衰退してゆくが、それでも尊氏が酷評される事はなかった。室町時代から江戸時代中期頃までは一般に北朝が正統と認識されており、その歴史観に立てば、楠木正成を始めとする南朝の武将達のほうが「朝廷に弓を引いた逆賊」であり、尊氏は朝廷(北朝)を支えた勲功第一の忠臣であった。室町時代は北朝が正統で、南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は天皇としては認められていなかった。
 徳川家は南朝方の武将であった新田氏の後裔であると自称しているが、南北朝時代の解釈については室町幕府の立場を引き継いで北朝を正統としたため、その北朝を建てた尊氏の評価が急に下落するような事は無かった。

 ところで尊氏は、武将、政治家としてでなく、芸術家としても足跡を残している人物である。連歌については菟玖波集に68句が入集しており、武家では二番目に多く入集している。新千載集を企画し勅撰集の武家による執奏という先例を打ち立てた。地蔵菩薩を描いた絵画なども伝わっており画才にも優れた人物だった。この他にも扇流しの元祖であるとまされ風流や優美さを好む人物だった。


後世の評価

徳川光圀
 足利尊氏の評価を大きく落としたのは第2代水戸藩主の徳川光圀である。水戸光圀は時代劇の黄門様として知られており、徳川御三家でありながら、徳川将軍家(江戸幕府)とは立場を異にし、日本の最高権威は天皇であり、天皇から政治を預かった江戸幕府が統治を行っていると主張した。

 歴史書「大日本史」は、光圀の視点から水戸藩が編纂したもので、江戸幕末の尊王派の思想形成に大きな影響を及ぼし尊皇論が貫かれている。また大日本史の中では南朝が正統で、南朝と対決した尊氏は天皇に逆らった悪人と評された。さらに光圀は、後醍醐天皇のために討ち死にした楠正成こそが忠臣であると讃え、正成の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」と題する墓碑も立てた。
 江戸時代中期以降になると、大衆レベルでも尊氏や正成に対しての評価が次第に変わっていきます。「仮名手本忠臣蔵」は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として人気があり、現在に至るまで上演され続けているる。赤穂浪士の仇討ち事件を題材としているが、当時はそのままでは上演が許可されなかったため、劇中の時代背景を南北朝時代に移し、大石内蔵助は大星由良之助という人物に置き換えられた。

 当時の一般庶民が必ずしも「南朝が正統であり、その南朝に殉じた正成は忠臣である」という明確な史観を持っていたとは言えず、日本人の国民性として、敗者に同情したがるという「敗者の美学」とでもいうべき観念があり、滅び去った南朝方に同情の念を抱いたという面も多分にあった。 

 水戸学に発する尊氏観はその後も継承され、尊王思想が高まった幕末期には等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生している(足利三代木像梟首事件)。

 明治期に欧米から近代歴史学が入ってくると、史学界では太平記の史料的価値が疑われ、楠正成は一般の庶民には尊敬されていたが、史学の分野に於いては正成の評価は下低かった。
 東京帝国大学に初めて国史科が出来た頃、3人の博士が教授になりましたが、3人とも楠正成の評価は低くかった。明治時代に於いても、常に正成は高く評価され、尊氏は逆賊視されていたのであろうと思っている人が多くいますが、少なくとも明治時代前期から中期にかけての時期はそうでもなかった。

 明治37年の国定教科書「小学日本歴史」には、後醍醐天皇の建武の新政について次のように書かれていた。「一統の政治や整ひしかども、弊害、従ひて起り、内奏、しきりに行はれて、賞罰、その富を得ざるもの多かりき。天皇はまた兵乱の後なるにもかかはらず、諸国に課して大内裏を造営せんとしたまふなど、民力の休養に怠りたまふこともありき。されば新政に対する不平は、しきりに起り、人々、中興の政治を喜ばずして、かへつて、武家の政治を慕ひ、つひにふたたび、天下の大乱を見るに至れり」
 意外な事に、はっきりと建武の新政の混乱を述べ、後醍醐天皇の事も容赦なく批判している。尊氏については「才智に富み、巧に将士の心を収めたりしかば、人々、源氏の昔を思ひて、心を、これに寄する者多かりき」と尊氏の人柄を褒めており、これが戦前の国定教科書の記述である。
 しかしこの国定教科書の記述が大きな問題になる。その2年後に国定教科書が南朝を正統とせず南北朝を併記しているのはおかしい、と読売新聞が紙上で大きく取り上げたのある。いわゆる南北朝正閏(せいじゅん)論争で、明治天皇を暗殺を企てたとして幸徳秋水ら社会主義者が処刑される大逆事件が起こった時期であり、帝国議会もこの歴史教科書の記述を国家的な問題として大きく取り上げた。

 時の第二次桂太郎内閣は、国定教科書の記述は誤りであるという結論を下してこの教科書の使用を禁じました。明治天皇の勅裁という形で、南朝こそが正統と定められた。南朝と敵対した北朝の御子孫である明治天皇がそのように定めたことは、不思議な話であるがこれで公式に南朝が正統とされ、尊氏には逆賊という烙印が押される事になった。その後の国定教科書では、南北朝時代についての記述が、それまでの「南北朝時代」は消え、この時代は、南朝が政権を置いた「吉野時代」と変えられた。尊氏は己の欲望のために、後醍醐天皇を利用し、その上で叛旗をひるがえして政権を奪取したと教科書での尊氏に対しての評価は一変した。

 昭和9年になって、斎藤実内閣の商工大臣であった中島久万吉男爵は、足利尊氏を再評価すべきという過去の文章を発掘されて野党からの政権批判の材料とされ大臣職を辞任している。

 このように戦前の日本では楠木正成は「忠臣の鏡」「大楠公」として過剰なまでに高く評価され、逆にその正成を討った足利尊氏は大極悪人と解された。
 しかし、吉川英治が昭和30年代に書いた私本太平記は尊氏を主人公にしている。歴史小説家の海音寺潮五郎や井沢元彦は、後醍醐天皇にとどめを刺さなかったこと、内部抗争の処理に失敗した点をから「人柄が良くカリスマ性は高いが、組織の運営能力では源頼朝や徳川家康に劣っている」さらに「戦争には強いが政治的センスはまるでない」と評価している。

 平成3年にNHKの大河ドラマで「太平記」が放送され、主人公の尊氏役に、二枚目俳優の真田広之が抜擢されると、尊氏は一躍国民的な英雄として認知されるようになり、新時代を築いた英雄として高く評価されるようになった。このように現在では、南朝、北朝のどちらが正統であったかと論じられる事はほぼ無く、南北朝時代はふたつの朝廷が並立していた、という歴史的な事実として受け止められている。