足利尊氏

 日本史に登場する人物の中には平清盛、松永弾正、明智光秀、吉良上野介、徳川綱吉、田沼意次、井伊直弼などは、戦前はどちらかというと悪役というイメージが強かったが、戦後はそのイメージが徐々に薄まり「時代の先駆者、あるいは偉大な名君」として評価されることが多くなってきた。

 逆に和気清麻呂、菅原道真、児島高徳、山中鹿之助、二宮尊徳、高山彦九郎、乃木希典などは、戦前・戦中の者ならば誰でも知っている人物であるが、戦後になるとすっかり影が薄くなっている。

 南北朝時代前後の名将・楠木正成も、時代によって評価が大きく変わっているが、時代によって足利尊氏ほど大きく評価を変えた人物はいない。

 また足利尊氏は武将でありながら、一見、不可思議と思える行動に武士らしくない人間性が溢れているのが魅力でもある。

 室町幕府に至るまでの経過は複雑で分かりにくいが、合戦に明け暮れた足利尊氏の生涯を知れば鎌倉幕府の滅亡から南北朝から室町幕府の初期まで見えて来る。


概略

 足利高氏は、足利貞氏の次男として生まれ、鎌倉幕府・北条高時の名を受けて高氏(たかうじ)と名乗った。しかし1333年に後醍醐天皇が幕府に対して挙兵した際、その反幕府軍を鎮圧するために、足利高氏は鎌倉から幕府軍を率いて京に上ったが、丹波国篠村で幕府へ反旗を翻して幕府側の六波羅探題を滅ぼした。

 足利高氏は鎌倉幕府滅亡の第1勲功者として、後醍醐天皇から尊の名を授かり高氏を尊氏と改めた。初名は「高氏」であるが、ここでは「尊氏」に統一して説明する。
 鎌倉幕府滅亡後、醍醐天皇は天皇中心の政治(建武の新政)を目指したが、新政で冷遇された武士達は急速に後醍醐天皇から離れていった。

 足利尊氏は鎌倉の北条家の残党が起こした「中先代の乱」により、窮地に陥った鎌倉の弟・足利直義を救出するため、京から鎌倉に東下し、鎌倉の北條残党を鎮圧した。その後、鎌倉に留まり朝廷を無視して独自の武家政権を樹立する構えを見せた。

 これにより後醍醐天皇との関係が悪化し、朝廷が送った討伐軍を打ち破ると、京に攻め込み後醍醐天皇を比叡山へ追いやった。しかし天皇側の思わぬ反撃にあい、一時は九州にまで落ちたが、再び太宰府天満宮を拠点に上洛して都を制圧すると、光明天皇を擁立して征夷大将軍になり、新たな武家政権・室町幕府(北朝)を築いた。

 後醍醐天皇は吉野に脱出して南朝をつくったが、足利尊氏は室町幕府を開いて後、弟・足利直義と二頭政治を布いた。やがて兄弟は対立して「観応の擾乱」を引き起こすが、弟・足利直義の敗戦により乱は終息した。その後も南朝などの反対勢力に奔走し統治の安定に努めた。難聴の後醍醐天皇が崩御すると、後醍醐天皇を弔うため天竜寺を建立する人間らしい一面を見せている。

誕生から元弘の乱
 1305年7月27日、足利尊氏は足利貞氏の次男として誕生した。出生地はその名のとおり足利荘(栃木県足利市)とされてきたが、現在では足利荘説は否定されている。母親が上杉氏出身だったため、上杉氏の本拠地だった丹波国の上杉荘(京都府綾部市)で生まれたとされている。尊氏が誕生して産湯につかった際、2羽の山鳩が飛んできて1羽が尊氏の肩に止まり、1羽が柄杓に止まったという伝説がある。

 足利氏は源氏の名家とされ、鎌倉幕府が始まって以来、足利尊氏は鎌倉にいることが多く栃木県の足利荘に足を踏み入れた証拠はない。尊氏には北条顕時の娘が産んだ兄・足利高義がいた。足利尊氏は次男でしかも側室の生まれだったため正室生まれの兄・高義が足利家を継ぐはずだった。しかし兄・高義が若くして死去してしまう。兄の代わりに足利家の跡を継いでも不思議ではなかったが、元服してもすぐには家督を継がせてもらえず、しばらくは日陰とも日向ともいえない場所に置かれた。

 15歳で元服をすると足利尊氏(通称は又太郎)と名乗理、父親が死去すると尊氏は27歳でようやく足利家の当主になった。 
 鎌倉幕府において和田、三浦、安達らの有力な御家人が次々に排除されるなかで足利家は圧倒的に優遇されていた。それは源氏の棟梁の子孫という血統の良さに加え、代々北条氏と婚姻関係を保っていたからである。

 北条家が独占する鎌倉幕府のなかでは重要な公職にはつかなかったが、有力御家人として鎌倉に壮大な屋敷を構えていた。足利氏は源氏の名家とされ、足利尊氏は北条一族の有力者・赤橋流北条氏の赤橋(北条)守時の妹・赤橋登子を正室に迎えている。

 足利家は代々北条一族から正室を迎えることになっていたので、尊氏も例にもれず北条氏から正室を迎えたのである。それが赤橋登子で、室町幕府二代将軍・義詮を生むことになる。義詮の場合もまた「側室生まれの長男と正室生まれの次男」という複雑な構図ができてしまうが、これは後々哀しい形で解決することになる。
 足利家の先祖に当たる平安時代の八幡太郎・源義家は「自分から七代目の子孫に生まれ替わって天下を取る」という置文を残していた。足利義家の七代の子孫にあたる祖父の家時は、北条氏の勢力が強すぎて自分の代ではそれを達成できないため、八幡大菩薩に「三代後の足利家の子孫に天下を取らせよ」と祈願し腹を切った。家時の孫にあたる足利尊氏・直義兄弟は切腹した家時の遺書を見て、天下を取ることを意識した。

 関東武士にとって清和源氏の血筋は重要であった。武家の最高職である「征夷大将軍」になるには清和源氏あるいは桓武平氏の血統が必要だった。北条氏の執権や秀吉の摂関も、この血筋を持たないため執権・摂関とされ、松平家康が源氏の傍流であった徳川を名乗った。このように武士にとって血筋は重要であった。鎌倉幕府の北条執権家はあくまでも執権であって武士の棟梁ではなかった。

 

足利家と新田家

 足利尊氏と新田義貞は共に祖先を源義家にもつ八幡太郎義家の子孫であった。その源義家を継いだ源義国には二人の息子がいて、源義国は仲の良いふたりの兄弟に領地が同じになるように分け与えた。家督は弟の義康(足利氏)が継いで足利の地に土着させ、兄の義重(新田氏)は新田の地に土着した。新田氏の地は群馬県太田市と新田郡、足利氏の地は栃木県足利市で、両地は渡瀬川を挟んで隣接し、文化的にも経済的にも密接な関係にあった。

 しかし弟の義康(足利氏)が兄の義重(新田氏)をさしおいて家督を継いだことが両家の確執となり、そのわだかまりは両家の子孫まで続くことになる。足利源義国と新田義貞は両家の第8代目の当主であった。

 鎌倉幕府の将軍となった源氏の家系は3代将軍・源実朝で途絶えたが、最も源氏の血統に近いのが北条氏ではなく足利高氏と新田義貞であった。足利家は源氏の嫡流として鎌倉幕府より手厚い保護を受けたが、その一方新田家は冷遇された。鎌倉に大きな屋敷を構えた足利家にくらべ、新田家は北関東の土着の武士団として扱われた。

 足利尊氏は鎌倉の足利屋敷で育ち、幕府の要人として鎌倉を本拠地としていた。足利の地は形だけの領地になっていた。

 足利尊氏と新田義貞の差は賄賂の違いと北条家との繋がりにあった。足利の地は有名な絹織物の産地で、絹織物の反物が賄賂には最も有効であった。新田の地は農耕に適さない赤土で賄賂性のある産物がなかった。この差は鎌倉時代が平和になるほどに大きくなった。平和な時代に有効なのは力よりも賄賂であった。貨幣文化が始まった鎌倉時代には賄賂が有効にはたらいた。

 また北条家は平氏の子孫であったが、源氏の血を引く足利氏は北条家と代々婚姻を繰り返し、北条家との繋がりを強めたが、新田家は新田荘から動かず、平氏の子孫である北条家を見下していた。
 現在の足利市の足利家のあった場所は大日如来をまつる鑁阿寺(ばんなじ)が建っているが、もともと武家屋敷だったため寺院にはめずらしく寺院には外堀があり、寺院には足利家の家紋がある。そのすぐ隣には、日本最古の学校として室町時代に建てられた足利学校の跡がある。

 新田家も太田市の中心部に呑竜様と呼ばれる寺院がある。その裏手には小高い山城があり、頂上には新田義貞を祭る神社がある。新田義貞の居城とされる反町館の跡は反町薬師として市民に親しまれている。

 

鎌倉幕府の腐敗
 蒙古の来襲によって日本の国力が低下しても、鎌倉幕府の北条氏は権威の上にあぐらをかき、贈賄や収賄の金権政治にあけくれ腐敗をきたしていた。そのため新たな時代を待ち望む空気が満ち溢れていた。そこに登場するのが後醍醐天皇、足利尊氏、楠木正成、そして新田義貞であった。後醍醐天皇の倒幕計画が二度発覚し、幕府との戦闘は避けられない状態になっていた。

 足利家は鎌倉幕府公認の名門で、鎌倉に大きな屋敷を持ち、武家の中でも源氏の嫡流として高い地位を保証されていた。北条家より足利尊氏の方が血筋が良く武士団からの信望も厚かった。そのため統率力に欠けた鎌倉幕府にとって足利尊氏は頼りがいがあった。

 後醍醐天皇は「鎌倉幕府倒幕」の先頭に立ち反幕運動に動き出すが、1333年4月、足利尊氏は鎌倉幕府の切札として総大将に任命され、後醍醐天皇の立てこもる船上山めざして鎌倉を出発した。尊氏28歳の時であった。
 足利尊氏の率いる幕府軍が西上する頃には、倒幕機運は最高潮に達していた。千早城では楠木正成がねばり、吉野の護良親王(もりよし)は挙兵し、後醍醐天皇は隠岐を脱出するなどは、倒幕派を勇気づけ地方の武士団は次々に反幕の旗を揚げた。もちろんその中心になるのは船上山で各地に号令を下す後醍醐天皇であった。

 後鳥羽上皇の承久の乱以来、公家は武家を敵視し、後醍醐天皇は天皇の世を復活させるため鎌倉幕府に戦いを臨んだのである。この後醍醐天皇の倒幕から戦乱の世になる。

 

 元弘の乱
 1331年、後醍醐天皇が2度目の倒幕を企図し、笠置で挙兵した(元弘の乱)。鎌倉幕府は足利尊氏に派兵を命じ、尊氏は天皇の拠る笠置と楠木正成のこもる赤坂城を攻撃することになる。尊氏はこのとき父・貞氏の喪中であったため、鎌倉からの出撃を辞退したが、幕府はそれを許されなかった。このことから尊氏が幕府に反感を持つようになったとされている。

 また足利尊氏は「承久の乱」で大将として幕府軍の勝利を導いて以来、対外的な戦いは足利氏が大将を務め、鎌倉幕府は尊氏に大将としての力量を認め、北条氏には逆らわないものと思い込んでいた。

 後醍醐天皇は笠置寺にこもり、その周囲を鎌倉幕府の大軍が取り囲んだ。このとき彗星のごとく現れたのが河内国土着の武士・楠木正成であった。楠木正成は天皇軍を後方から支援するため赤坂城に立てこもり、幕府の大軍勢を相手に奮戦した。1か月におよぶ戦闘の結果、後醍醐天皇軍は敗走した。

 楠木正成に勝利した足利尊氏は他の武士からも「さすが足利尊氏、おれたちに出来ないことをやってくれた」と賞賛するが、それでもよほど不服だったらしく、尊氏は一人でさっさと鎌倉に帰ってしまった。あまりの非礼ぶりに北朝方の花園上皇は「いくら立派な仕事したからといっても非礼すぎる」と言わしめている。
 後醍醐天皇の元弘の乱は失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶らが多くが逮捕され死刑・配流などの厳罰に処された。後醍醐天皇も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。1332年3月に後醍醐天皇は隠岐島に配流された。

 これで乱は鎮静するかにみえたが、しかし楠木正成は赤坂城を脱出して山中へ逃げ落ち、しばらくして楠木正成の本領の戦いが発揮された。赤坂城より金剛山の千早城に陣取ると、山岳ゲリラ戦を始めたのである。攻める幕府軍総勢10万に対し、千早城を守る兵はたったの1000人程度であった。しかし楠木正成は地の利を生かし奇襲戦法で幕府軍の攻撃をかわして戦った。

 たかが1000人程度の兵である。幕府軍の敗退は鎌倉幕府の威信がかかっていたため許されなかった。しかし千早城の攻防戦は長期化し、千早城を落城できない幕府軍をみて、幕府軍の不甲斐なさを知った武士たちは各地で反幕府運動が活発化してゆく。

 これは楠木正成の狙い通りだった。山中で長期戦になればなるほど、戦局は有利な方向へ向かうことを知っていたのである。

反鎌倉幕府
 1333年、後醍醐天皇は隠岐を脱出すると、伯耆国の船上山に籠城した。尊氏は病中だったが再び幕命の命を受け西国の討幕勢力を鎮圧することになった。尊氏は名越高家とともに幕府軍の大将として鎌倉から都に上った。このとき尊氏は妻の登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行させようとしたが、出陣の直前になって幕府は人質として妻子を鎌倉に残留させた。足利尊氏は出陣する大将に対し「妻子を人質に差し出せ」とはどういう了見なのかと激怒した。
 4月27日早朝、名越高家ははやる気持ちを抑えきれず、7000騎を引き連れて鎌倉幕府の京都の拠点である六波羅より八幡山崎に向かった。少し遅れて足利尊氏は秘めた決意を胸に六波羅を5000騎で出発した。出発してまもなくして名越高家軍が後醍醐天皇の連合軍と激突した。この戦いの報告は足利尊氏の元に届いたが、援軍すべき尊氏は、桂川の西の端にたどりつくと全軍を止め両軍の動きを傍観した。両軍は互角の戦いであったが、血気にはやる名越高家はみずから前線で指揮を取るうちに赤松軍の矢に射られて討ち死にした。
 名越軍敗北の報を待っていたように、足利尊氏は全軍に出動を命じた。向かうは山崎を背にした丹波篠村であった。足利尊氏の軍勢がここまで来ると、足利尊氏の謀反に気づき六波羅に逃げ帰る者も出た。しかし大半の軍勢は六波羅の主軍を引き連れた名越高家が敗れたため、足利尊氏に従うより他はないと覚悟した。
 足利尊氏は丹波篠村にて、自分は後醍醐天皇に従う事を全軍に告げた。つまり幕府軍から討幕軍に変わったのである。
  「すでに御綸旨もいただいてある。この上は源氏の頭領として朝敵(鎌倉幕府)を成敗したいと思う。これよりは朝敵成敗の大将はこの尊氏である。おのおのも覚悟を決められよ」、そう宣言すると集まった侍頭からときの声が上がった。
 源氏の大将が反幕府として立ち上がったとの知らせに、近隣の豪族達が次々と集まってきた。最初に駆けつけたのは地元の久下時重の軍勢だった。しかも久下時重の軍勢の旗印には「一番」の文字が書かれていた。
 関東では同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心に叛乱が起こり、新田義貞は鎌倉を制圧して、幕府を滅亡に追い込んだ。幕府軍は鎌倉からの脱出したが、この時、千寿王も加っていた。その一方で足利高氏の嫡男・竹若丸は伯父に連れ出されて鎌倉を脱出したが、脱出に失敗して北条勢に捕まり殺害されている。

六波羅陥落
 5月7日の空も白々とする早朝、足利尊氏は全軍を六波羅にむけた。足利尊氏軍はこれから始まる戦を前にして静まり、大軍は無言のまま進んでいった。篠村の外れにさしかかると、朝もやの中にかすかに煙り落ち葉焚きの匂いがしたので足利尊氏は馬を止めた。森の中を見ると巫女の鳴らす鈴の音が聞こえてきた。
  「よし、最初に出会ったあの社に戦勝の願をかけるぞ」と云うと、弟の直義や高師直、上杉憲房らと鎮守の境内に入っていった。ほこらの前に膝をついて祈ると「ここの神社は、どのような神を祭っているのか」と巫女に尋ねた。すると巫女は「神社は篠村八幡宮です」と答えた。八幡大菩薩とは源氏の祖を祀る神社である。八幡太郎義家の直系である足利尊氏は、祖父の残した置文の事をいまさらのように思い出した。
 六波羅に迫る頃には、すでに千種忠顕軍、赤松則村軍の活躍が聞こえて来るようになり、ついに京の町を東に臨むあたりで六波羅軍と全面衝突した。両軍はにらみ合ったが、足利軍の中から一騎の武者が走り出て六波羅軍に向かい声を張り上げた。
「足利の家来にて、設楽(したら)五郎左衛門と申す。六波羅の衆で我と思わん者あらばお相手願う」。これは一騎打ちのはたし口上であった。その勇気ある武者に、敵も味方も誰が相手をするのかと見守った。
 六波羅軍より進み出てきたのは意外にも老人だった。「われこそは、六波羅の奉行として長年書記の職に仕えた斎藤伊予房玄基(いよのぼうげんき)なり。筆を太刀に替えてご奉公する身なればいざ勝負」。
 足利軍きっての武者である設楽五郎左衛門と老体の斎藤伊予房玄基では勝負は明らかだったがまさに死闘となった。両者は馬上で組み合うい、そのまま落馬すると力の勝る設楽が斎藤の上にまたがり首を切った。同時に斎藤も組み伏されながらも下から設楽を太刀で三度突き上げ、両者そのままの形であいはてた。
 勇者に続けとばかりに、両軍入り乱れての死闘が始まり、徐々に敗退していく六波羅軍に足利尊氏軍は優勢に戦いを続けた。もはやこれまでと六波羅探題の北条仲時らは天皇・上皇を連れて鎌倉へ落ちることにした。しかし敗残の兵は残酷にも六波羅探題をわずかに出た所で野武士の群れに攻撃され、恥辱の内に全員その場で自害した。一面血の海と化したその中に、ただ呆然と天皇・上皇が立ちすくんでいた。

側室の長男と正室の次男
 六波羅探題陥落の数日前の深夜、鎌倉の足利屋敷はただならぬ異変に騒がしかった。屋敷を警護していた幕府軍の目を盗み、足利尊氏の子・千寿王(義詮)が逃走したのである。足利尊氏の謀反を知った北条高時は六波羅探題に「足利尊氏が謀反を計画しているので、ただちに捕らえよ」と命じた。この連絡が一歩遅かった。千寿王(義詮)を逃したのは母・上杉清子であった。

 その日の夜半、警備の兵に気づかれぬように紀五左衛門が屋敷に忍び入り、千寿王と尊氏の妻・登子の寝室に近づくと部屋の中に忍び入った。登子はすぐに気づき、部屋の隅に置いてある長刀に手を延ばした。しかし紀五左衛門はの尊氏の命により、千寿王様と奥方様を安全な所へ案内するために参上したことを述べた。紀五左衛門は上杉清子から密かに派遣された者であった。
 妻の登子は北条一族の赤橋家より嫁いだ女であった。執権・北条高時とはいとこ同士であったが尊氏謀反の事情を知らされていなかった。「尊氏が京都において旗をあげ、鎌倉様は敵となった。そのため人質の千寿王と登子の命があぶない」突然のことに登子は気を失ってしまった。紀五左衛門は配下の者に指示し、登子と千寿王(義詮)を連れ闇に消えた。
 鎌倉から六波羅へたった使者が駿河の国の高橋駅(清水市)に到着したころ、京都の異変を伝える早馬に出会った。その内容は最悪で悲惨なものであった。幕府の主軍の名越軍が壊滅し、足利尊氏が謀反により六波羅を攻撃している。六波羅へ至急援軍が必要という内容だった。使者は直ちに早馬を立てて鎌倉をめざした。
 途中の箱根を越えたあたりで、二人は奇妙な山伏の一行に出会った。風体は山伏であったが、その中に幼少で山伏とは見えない色白の者が混じっていた。使者が早馬を止め、山伏一行に近づいた。「修験の者、連れている稚児は何者か、足利の者と見たが笠を取りて顔を見せよ」すると山伏の先頭を急いでいた者が足を止め笠を取らずに答えた。
「何を仰せられます。我ら修験の身なれば、中には修行の足りぬ者もございます。これより二所権現にて修験の為に先を急いでおりますので、お引き留めは無用に願います」しかし使者の疑いは解けなかった。「まこと修験の者なれば勧進帳を披露なされ」と詰問した。山伏はたわいのないことと懐より取りだした勧進帳をすらすらと読み上げた。「まあよいではないか。たとえこの者共が足利の者とて、あそこまでして主君を守ろうとする心掛けは見事ではないか。まして間違って本物の山伏を捕らえたとあっては末代までの恥となろう」と述べた。
 しかしその時「無礼者」と稚児は声を張り上げた。先ほどの勧進帳を読み上げた山伏が、もはやこれまでと懐から短刀を出すと腹を切り白紙の勧進帳が落ちた。幕府の使者たちは薄々と感じとっていて、この哀れな一団を見ぬ振りでやりすごしたいと思っていた。しかし「まことの武士であるならば、取り残された者がどのようになるかを思い知らせねばならぬ」と、一行を捕らえその稚児の首をはね、浮島が原の人目に付くところにその首をさらした。それは足利尊氏の側室の長男の竹若の哀れな末路であった。尊氏は後に駿河で竹若の菩提を弔った。

京都への還幸
 足利尊氏が丹波篠村で立ち上がってから5日目には北条の権力は畿内から一掃されていた。六波羅が壊滅すると楠木正成軍を包囲していた千早の幕府軍までが一斉に郷里に引き上げて行った。

 恩賞目当ての寄せ集め軍にとって、恩賞を貰う相手がいないため楠木正成と戦う意味がなくなってしまったのである。一方、倒幕として戦った者たちは、それぞれの思惑を持っていた。統率者がいたわけではなかったが、それは次のように分けられた。

 後醍醐天皇軍として錦の旗を中心に戦った山陰を勢力とする千種忠顕(ちぐさただあき)などの軍。武家の頭領として源氏の旗の元で戦った坂東軍。足利尊氏に賛同する赤松円心などの軍、護良親王の令旨をよりどころにした山陽の勢力軍であった。これらが思い思いに勝ちどきをあげ、六波羅敗退は船上山の後醍醐天皇のもとに届けられた。
 名和長年は天皇の座する会議の場で得意そうに「御還幸でございます。一族あげて盛大に送らせていただきます」と述べ、さらに「なれど鎌倉はもちろん各地の探題はいまだ健在、京都周辺も安定したとは言えない。主上はこのまましばらくは号令するのが良いのでは」と述べた。これに天皇とともに隠岐に渡った阿野廉子が口をはさみ、反対を押し切って後醍醐天皇は京都還幸を決意した。

 「最初が肝心である。今回の六波羅攻めは結局伊豆の守の身内の力により成功したが、この機に主導権を取らねば、単に武家の首のすげかえに終わってしまう。朕が京都に早急に帰る必要がある」
 後醍醐天皇はすでにこの時、足利尊氏の強大な力を危惧していた。ほんの1年3ヶ月前に、庶民の嘲笑をあびながら隠岐へ流されたときとは全く違い、後醍醐天皇還幸の行列は華々しく行われた。兵庫まで行列がさしかかった所で、地元の赤松円心と則祐父子の出迎えを受けた。赤松円心父子はわずかな手勢で、真っ先に挙兵した勇将である。天皇は感激し「恩賞は望み通りにあたえる」と述べた。
 後醍醐天皇自ら赤松父子にねぎらいの言葉をかけたが、感激のあまり思わず漏らしたこの言葉が、やがて後醍醐政権を根底から覆す事になった。

 赤松円心が恐縮している所に、関東からの早馬が届いた。何やら関東で重大な事件が起きたとざわめく中、使者は羽書を取り出し「北条を討ち滅ぼした」と知らせた。使者の文を読み上げたが、天皇は驚きの声をあげた。滅ぼしたのは関東の御家人の新田義貞で、誰も聞いたこともない名前だったからである。途中で楠木正成の出迎えをうけ、二条の内裏に到着したのは6月5日であった。

 足利尊氏は後醍醐天皇と複雑な思いで初めて面会した。後醍醐天皇の倒幕の目的は、武家から政権を取り戻すことであったが、足利尊氏の倒幕は腐敗した武家政治を自らの手で立て直し再建することであった。全く正反対の目的でありながら、倒幕という一致した目的のために共闘したにすぎなかった。

 京には全国から倒幕に貢献した有力武士団が集まってきた。空前の大恩賞の沙汰が言い渡される時が来たのであった。なにしろ北条の領地だけでも全国に膨大なものがあった。それに加え北条と命運を供にした有力な御内人の領土も恩賞の対象であった。倒幕に貢献した全ての武士団にとっては大判振る舞いしてもまだ余るほどの恩賞が期待された。

 しかし足利尊氏の苦悩はここから始まる。倒幕の中心勢力だった武士団に恩賞はほとんどなかったからである。「恩賞は望み通り」と後醍醐天皇から言い渡された赤松円心でさえ領土の安堵だけで、まるで敗北したかのような恩賞であった。もちろん無名の武士団たちは恩賞の対象外で、北条の一族ということで領地を召し上げられた者までいた。

 北条氏の領地の大半は千種忠顕、護良親王ら貴族たちに分割された。女官などの倒幕とは無縁な者にまでにも莫大な領地が与えられた。不満をぶつける先を持たない各地の武士団は足利高氏の元へ集まった。
 源氏の旗の元に戦った者達は、はやく高氏が鎌倉へ入って、新たに采配を取り各地に号令していただきたいと直訴した。家臣の高師直は気の短い男で、北条にかわりに足利高氏が政務を司ると公言してはばからなかった。そのため高師直は地方武士から人気があった。


建武の新政
 鎌倉幕府が滅亡すると、足利尊氏は後醍醐天皇から倒幕の勲功者とされ、従四位下に叙し、鎮守府将軍・左兵衛督に任じられ、また30箇所の所領を与えられた。1333年8月5日には従三位に昇叙、武蔵守を兼ねるとともに天皇の諱「尊治」を受け高氏を尊氏に改名した。

 足利尊氏は建武の政権では自ら要職には就かなかったが、足利家の執事(筆頭家老)である高師直とその弟の師泰らをはじめとした家臣建ちを多数政権に送り込んだ。これには天皇が尊氏を敬遠した、あるいは尊氏が政権と距離を置いたとする見方があるが、世人はこれを「尊氏なし」と称した。
 1333年、義良親王(後村上天皇)が陸奥太守に任じられ、北畠顕家が鎮守府大将軍に任じられて陸奥国に駐屯することになった。足利尊氏も成良親王を上野太守に擁立して、弟の足利直義とともに鎌倉に駐屯した。

 鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげた護良親王は父の後醍醐天皇に疎まれ不遇であった。それにも関わらず護良親王は尊氏を敵視し、政権の不安定要因となった。1334年には父の後醍醐天皇の命令で逮捕され、鎌倉の足利直義に預けられて幽閉の身となった。

 六波羅探題を滅ぼした足利尊氏の元に各地から続々と戦功のあった武士が一族郎党を引き連れて上洛して来た。彼らは戦功があるにも拘らず、何の恩賞もない地方武士たちであった。天皇のお気に入りの女官に領地を召し上げられ、派遣されてきた官吏により領地を追われ着の身着のまま上洛してきた哀れな武士も混じっていた。 

 後醍醐天皇の綸旨で挙兵した山陰地方の武士たち、護良親王の令旨にて挙兵した楠木正成や赤松円心らの近郷の武士たち、さらに足利尊氏の源氏の白旗で立ち上がった武士たちは、それぞれの思いが交錯して京の市中は混乱した。

 元々北条氏に最も近い存在である足利尊氏の元には、六波羅探題の実務派の武士たちが押し掛けた。彼ら官僚武士にとって、頼るべきは北条一門で鎌倉幕府の経営を知っている足利尊氏以外にありえなかった。しかも足利尊氏にとっても、京都の政治の実権を握るため彼らの存在は必須であった。六波羅探題は主人を北条から尊氏に代えただけであった。
 実務派官僚の存在は大きく、六波羅による奉行所運営は後醍醐天皇の入京以前にすでに完成していた。旧体制をそのまま復活させるだけであった。
 後醍醐天皇はこれに遅れをとったが、そのことが後々まで響いてしまう。公家の政り事を復活させ、六波羅に遠慮せず勅書を発行できるようになった程度であった。実際には各地の勢力は足利尊氏からの報償をありがたく受け取り領国に帰って行き、後醍醐天皇の綸旨は威力のないものとして受け留められていた。後醍醐天皇は国の主家を誇示しように公家による一統をことさら叫びつづけた。

 

中先代の乱
 公家政権と旧北条勢力が地方でぶつかりあい、一触即発の状況が続いた。各地で抑圧された旧北条勢力が次々と立ち上がったが、その中でも北陸の名越時兼と諏訪の北条時行の力は強大であった。とくに北条時行は上野国を経て鎌倉に迫り足利直義軍を打ち破って鎌倉を奪還した。北条時行には日和見的な関東の豪族武士たちを従えて、一気に京都を目指す勢いであった。
 1335年、信濃国で北条高時の遺児・北条時行を擁立した北条氏の残党建ちが反乱を起こし、北条時行の軍勢が鎌倉を攻めて占拠した。足利尊氏の弟・直義は鎌倉を脱出する際に、独断で護良親王を殺害した。足利尊氏は北条時行を討伐するため後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、8月2日、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉に向かった。後醍醐天皇の無能さが露見したが、出陣した足利軍に後追いの形で征夷大将軍ではなく征東将軍の追認をおこない、天皇はその威厳をかろうじて保とうとした。

 足利尊氏は弟・直義の軍勢と合流して、相模川の戦いで北条時行を駆逐して、8月19日に鎌倉を奪回した。
 中先代の乱と呼ばれた戦いをほどなく治めた足利尊氏は、そのまま鎌倉にとどまり、本格的な新しい幕府創設の準備にとりかかった。関東武士を懐柔させるため、新田義貞の上野領を無断で中先代の乱の恩賞に利用した。
 弟・直義の意向もあって、尊氏は京都からの上洛の命令を拒んで、そのまま鎌倉に本拠を置き独自に恩賞を与えはじめた。独自の武家政権創始の動きを見せはじめたのである。これは朝廷に逆らうことで、尊氏は新田義貞を「君側の奸」として天皇に討伐を要請するが、天皇は逆に新田義貞に尊良親王をともなわせて足利尊氏討伐を命じた。

 さらに奥州から北畠顕家が南下し始め、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し、寺にひきこもり断髪した。しかし足利方が各地で劣勢となると、尊氏は足利方を救うために天皇に叛旗を翻し「直義が死ねば自分が生きていても無意味である」と宣言して出馬した。

 

鎌倉での対立
 鎌倉の足利尊氏と京の新田義貞の対立が表面化した。互いに相手の非を天皇に訴え、この政治駆け引きは相手方への討伐の綸旨を乞うものであった。天皇は双方の扱いに苦慮したが、坊門宰相清忠が「鎌倉に幽閉の身であった護良親王を足利直義が殺害した」と報告すると、足利尊氏は一気に逆賊となり追討が決定し、新田義貞に討伐の命令が出された。新田義貞は官軍として足利尊氏が待つ鎌倉に向かった。

 新田軍に従軍したのは、大半が関東の軍勢だった。対する足利軍も関東の軍勢であった。関東の軍勢は京の軍勢である身内と戦うことに不満があった。一方、鎌倉では評定の席で足利尊氏は新田軍との全面戦闘をためらい、この戦を避ける方策を練っていた。
 足利尊氏は親王殺害との誤解を招いたことを謝罪し、剃髪することで朝廷への恭順の意を示した。この官軍との衝突を避けたいとする足利尊氏の方策に、評定の席に出席していた諸将はいずれも納得しなかった。上杉道勤、細川和氏、佐々木道誉、足利直義ら強行派は三河出兵を決定した。
 三河国の矢矧川(やはぎ)をはさみ両軍は激突した。新田軍は常に優勢に戦い、足利直義を大将とする足利軍は徐々に東へ退いていった。味方が続々と新田軍に寝返り、側近の佐々木道誉までも寝返ってしまった。
 箱根の峠にまで追いやられた足利軍を見て、足利尊氏は消極策を捨て、手勢を率いて箱根に向かった。かつての北条時行との戦いで、箱根が破られれば鎌倉が落ちる事を知っていたのである。足利尊氏は、新田義貞本軍と足利直義軍の激戦している箱根峠には向かわず、新田義貞の弟・脇谷義助が少ない軍勢で戦っている竹ノ下へ向かった。

 敵の弱い部分に突進する戦法は、足利尊氏が経験からあみだしたものである。戦は勢いである。勢いの強い方を見て日和見勢が援軍になれば自然と勝機をつかめるのである。この竹ノ下の戦いで尊氏の戦法は見事に当たった。さっそく敵に寝返っていた佐々木道誉が、新田軍の中心部で寝返り、混乱した脇谷義助軍は狭い峠道を逃走した。大軍が狭い峠で統率を失い、あとは自滅し西に退却を始めた。
 12月、足利尊氏は新田軍を破り京へ進軍を始めた。この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしていた。1336年の正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。

はじめての敗戦
 一度敗走を始めると、たとえ錦の御旗の大儀を持った新田義貞軍といえどもろかった。勢いで京に攻め上る足利尊氏軍に対して、敗走した新田義貞軍が市中になだれ込み京市街は大混乱となった。
 これを見ていた各地の諸豪も次々と足利尊氏に応じて朝廷に反旗を翻した。その中には鎌倉倒幕の重要な功労者でありながら、不当な恩賞に泣いた赤松円心も混じっていた。赤松円心は楠木正成同様、孤軍で強大な鎌倉幕府軍と戦うことによって、倒幕の機運を全国に盛り上がるきっかけを作り、六波羅攻めに最も勲功のあった武将であった。本来であれば足利尊氏新田義貞に次ぐ恩賞があってしかるべきなのに、赤松円心に与えられたのは、元々の小さな彼の所領の安堵だけで、まるで敗軍の敵将にかける情けのようなもので、とても恩賞とは言い難い沙汰であった。

 これは自分の望んだ世の中ではない。熱血漢あふれる赤松円心は足利尊氏が京都を離れ、鎌倉に向かったときから、すでに足利尊氏の反旗を予感し、尊氏が朝廷に反旗したなら真っ先に呼応する事を決めていたのだ。
 西、東からの足利尊氏に呼応する大軍勢の前に、まだ無傷で健在だった楠木正成軍や名和長年軍が主力となって京都防衛の要である宇治、勢多、山崎にその大半の勢力を集中させ防衛にあたった。
「楠木正成は知将であるが、山中で奇策をおこなう程度のことしかできぬ者。大軍勢はわずかなほころびで壊滅するのを知らぬとみえる」
 足利尊氏はほくそ笑み、敵の主軍が待ちかまえる宇治・勢多には見向きもせず、迂回して八幡方面から背後の手薄なところに集中攻撃を始めのである。大軍勢はわずかなほころびから全体が動揺して統率がきかなくなる事を竹ノ下の戦いで足利尊氏はよく知っていたのである。案の定、官軍は総くずれとなり、後醍醐天皇もろとも比叡山に逃げた。
 足利尊氏の全面勝利であった。全国の武将の多くが足利尊氏に味方している。あとは劣勢の新田軍らを徐々に追いつめれば、足利尊氏による新しい秩序の武士の時代が訪れるはずであった。足利尊氏に呼応した誰もがそう思った。
 後醍醐天皇はいったん尊氏に京都を明け渡すと、比叡山に移り尊氏の兵糧を絶ちながら諸国の援軍を集めて尊氏包囲網を敷いた。このとき足利尊氏は、その後の長い混乱のもとになる新たな勢力が近づいていることを知らなかった。奥州を短期間で統一し、後醍醐親政の危機に、奥州の勢力をひきつれて登ってきた北畠顕家軍であった。

 北畠顕家は弱冠二十歳にも満たない青年であった。後醍醐天皇のそばに仕える父親の北畠親房の命で建武の新政後の奥州を束ねるため、未開の地に入り、苦闘の末に短期間で奥州統一を果たし、後醍醐天皇に背いた足利尊氏の後を追い京都に向かったのである。
 奥州から北畠親房が入京すると朝廷軍は再び勢いを取り戻し、後醍醐天皇の官軍の前に足利尊氏は大敗をきしてしまった。園城寺の戦い、神楽岡の戦い、糺河原(ただすがわら)の戦いと、いずれも破れ丹波篠村に逃れた足利尊氏は兵庫に向かい、打出浜(うちでがはま)などにて楠木正成に押され気味の戦いを強いられ、ついに周防の大内軍や長門の厚東軍らに守られて瀬戸内の海上を九州方面へと敗走したのである。足利尊氏にとって初めての敗戦であった。

 後醍醐天皇をはじめとする京都の公家達にとっては、まさに悪夢のような出来事だったが、ようやく足利尊氏を追い、元の平穏な日々が戻ってきた。新田義貞は新しい妻を迎え、北畠顕家は京都市中が平穏になったのを見届けると、奥州の地侍達を引き連れて帰っていった。

多々良浜
 足利尊氏は摂津兵庫から播磨室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都から九州に下った。戦いに敗れた足利尊氏は瀬戸内海を西へ向かい、その間、四国の軍勢を国々に帰し、京都からの追っ手に備え備前・児島や讃岐などに家臣たちを配置し、多々良浜に到着した頃には、わずかな手勢が残るのみだった。

 九州の筑前多々良浜に到着すると、疲れで戦う気力も失っている足利尊氏の元に、筑前国の宗像大宮司の使いの者が訪れた。宗像神社は後醍醐天皇による不平等な恩賞で領地を失った不満があり、足利尊氏に好意を持っていた。使いの者は「宗像神社は場所も狭く、休息するには窮屈ですが、どうぞいらしてください。しばし体を休め九州各地に軍勢催促のご教書を書かれてはいかがでしょう」と提案した。
 足利尊氏はこの言葉に救われた心地になり、わずかな勢と一緒に宗像神社に向かった。しかし尊氏に休息の時間はなかった。翌朝、尊氏は若武者の甲高い声で目が覚めた。300の兵とともに小弐妙恵の若き嫡子・小弐頼尚(しょうによりなお)が駆けつけたのである。小弐頼尚は、はじめて出会う尊氏に興奮した声でまくしたてた。小弐軍は天皇方の菊池武俊と互角に戦っており、父の命で家臣を引き連れて将軍の警護にはせ参じだが、菊池の勢に待ち伏せされて大半を失ってしまった。残された人数では父も長くは持たない、残念でならない」、小弐頼尚はまぶしいほどの若武者だったが、この経験の浅い若者にも百戦錬磨の菊池武俊軍は容赦しなかった。全軍が総崩れとなる中、命からがら宗像神社まで逃げ延びてきたのだった。少勢で守る少弐の砦はすでに落ち、再起を誓って足利尊氏を頼ってきたのである。足利直義は「勝負は時の運、やってみねばわからない。この直義が先陣をきる」
 尊氏の弟・足利直義は気の短い男だった。わずかな手勢をひきつれて、多々良浜にあふれる菊池軍に突入すると申し出た。社壇の前を過ぎようとしたとき、一羽の烏が直義のかぶとの上に杉の葉を一枝落とした。これぞ吉兆と、直義はその小枝を袖にさし、ついに多々良浜の戦いが始まった。
 3月初旬、足利直義の決死の突入は、磯の波を蹴散らし、その轟々たる響きに菊池軍も一瞬ひるみ、その一瞬を足利軍は見逃さなかった。後づさりした菊池軍の本陣めがけて、足利直義はひたすら追った。大軍とはいえ大半の武士は日和見で集まっていた者である。この一瞬の優劣の逆転を見て取った連中は、雪崩の如く足利軍に寝返った。

 足利直義の電光石火の逆転勝利だった。この筑前・多々良浜の戦いにおいて天皇方の菊池武敏らを破り、天皇方勢力の大友貞順らを圧倒した尊氏は勢力を立て直し、西国の武士を急速に傘下に集めて、再び東上した。

院宣
 わずかなあいだに九州一帯を制圧した足利尊氏は、休む間もなく京都を目指す決心をした。日和見をしていた九州一帯の豪族たちも、先を争って足利軍に従い合流してきた。巨大な軍勢を率いた足利尊氏は、落ち延びた時と同じ瀬戸内の海路を辿り京に向かった。

 足利尊氏には不思議な魅力があった。どの戦においても、昨日の敵が降人となると、全てを許す心の広さであった。いつも絶やさぬ静かな微笑みが武士団に安心感を与え、奇跡を信じてしまうのだった。そのため領地を守るために戦う武士たちには評判が良かった。

 九州を驚異的な短期間で統一し、再び天下を狙えるほどに回復したのも、この足利尊氏の魅力が大きかった。
 しかし再起軍を統率する足利尊氏には、いつもの微笑みが消えていた。筆頭家臣の師直は「いかがなされた。いつもの微笑みの尊氏公と呼ばれたあのお顔をお見せ下さい。新田義貞なぞ何の手強いことがありましょうや」いつになく元気のない尊氏を気遣って声を掛けた。
 尊氏は「この戦は一体何を求めての戦いなのだろうか。この尊氏はお上の元で働き、世の秩序を守る武門の主になろうと努力していただけなのに、どこをどう掛け違えたのか、今ではお上に逆らう大逆人として京を目指している。いまの尊氏にとって敵とは誰なのか、お上なのか」そうつぶやくと、鎧をつけた足利尊氏は大きく溜息をついた。
「そこです。まさにそのことのため、京より三宝院の僧正・賢俊殿が到着してお目通りを待っております」意味ありげな高師直の言葉に、いぶかしそうに尊氏が振り返ると、そこには赤松円心の三男・則祐がかしこまって平伏し、その隣に賢俊らしき僧正が立っていた。
「足利尊氏殿、お目にかかれて祝着に存じます。この書状は、持明院上皇よりの院宣で、尊氏殿に上洛を命ずる勅書である」僧正・賢俊は事情を飲み込めずにいる足利尊氏に挨拶すると勅書を差し出した。本来ならば儀礼をもって勅命を申し渡すのであるが、賢俊は勅書を尊氏に手渡した。
 まだ意味が分からない足利尊氏は困惑した顔で高師直の顔を見た。すると高師直は「上皇からの院宣は、最も権威のある勅命で、これにて我が軍は官軍としての大義名分をもって朝敵を征伐するため軍を京に進めることができる。新田義貞は今日から賊軍になった」
 高師直の言葉に、沈んでいた足利尊氏の顔が赤らんで口元には微笑みが浮かび、いつもの顔に戻った。それを見てそばにいた誰もが安堵した。
 これは高師直と赤松円心との苦心の演出であった。鎌倉での尊氏が天皇の命に服して出家しようとしたように、今回はふたたび天皇に弓矢を向けることになる。このような立場に躊躇している足利尊氏の気持ちを何とかするために、播磨にて新田軍と対峙していた赤松円心の老練な知恵にすがって高師直は相談していたのだ。
 赤松円心からの返答は「武士の世では親政の世と異なり、天皇の綸旨よりも上皇の院宣が最も権威あるものとしている。今の上皇は皇位を奪われたままの持明院であるから、院宣を給われば足利尊氏は上洛して新田軍を撃つであろう」ということであった。

 高師直は秘密裏に赤松一門とともに、仲介役の僧正・賢俊を介して院宣を手に入れることに成功したのである。昨日までの尊氏の憂鬱な顔が嘘であったかのように晴れやかになった。三日のうちに停泊していた厳島を発ち、足利尊氏を頂点とする九州四国中国の大軍勢は備後・鞆の浦に入り、塩の流れを見計らって決戦場となる湊川を目指してが海から陸から進軍を開始した。

湊川の戦い
 もはや尊氏に迷いはなかった。上皇の院宣を片時も離さず胸元にしまい込み海路から兵庫の浜・湊川に向かって軍船を進めていった。上陸作戦を援軍すべく陸路を行く弟の足利直義も、足利尊氏の上陸予定地に向かって兵を急がせていた。5月25日、新田義貞と楠木正成が待つ湊川の瀬戸内に、溢れるほどの足利軍の大軍船が押し寄せてきた。

 新田軍の中の弓矢の名人・本間孫四郎の放った鏑矢が足利軍の軍船めがけて飛んできたが、その矢は飛び立つ海鳥に命中し、大内軍の軍船の上に落ちた。
 敵味方なく感嘆の声が上がり、足利尊氏は「あの弓矢の者の名は何と申すか」と側のものに問い掛けると、その答えのかわりに本間孫四郎の放った次の矢が、足利尊氏の乗った軍船まで届き、ふたたび足利の軍勢から驚きの声があがった。「殿、この矢には本間孫四郎の名が刻んでございます」と側の者が尊氏に伝えた。

 足利軍の士気を削ぐ目的であることは誰の目にも明らかだったが、やがて尊氏の軍船から上陸が強行され湊川決戦の火蓋が切られた。和田岬より上陸する足利軍を新田主軍が追う形で東へ移動したため、楠木軍からわずかに離れた。楠木軍は陸路より攻めかかる足利直義らと対峙して動きが取れなかった。足利尊氏の本隊は楠木・新田両軍の間のわずかな間隙をついてほぼ中間地点に上陸した。

 楠木正成は海陸両軍から挟み撃ちになり退路を断たれ、楠木正成はもはやこれまでと覚悟を決め、弟の楠木正季(まさすえ)と自害の場所を探した。
「正季、死ねば来世に生まれ変われるそうだが、おまえはどのようにに生まれ変わりたいか」、楠木正成は薄笑いを浮かべ正季に語り掛けた。
「兄上、正季は来世など望みませぬ。七度おなじ人間に生まれ変わって朝敵と戦いたく存じます」正季は覇気を失った正成に言い放った。

 楠木正成は「成仏を望まぬとは、罪深い妄念だな。しかしわしも同じく思う。しからば早々に生まれ変わって本懐を遂げようぞ」。

 死んでも七度生まれ変わりたいという正季の意志は、楠木正成も同じでもあった。後醍醐天皇に忠義を尽くせば尽くすほど公家社会の汚さに振り回されてきたが、後醍醐天皇への気持ちは変わらなかった。
 やがて兄弟を失った楠木軍は、大きな戦の波の中に飲み込まれるように消えていった。足利軍は怒涛のごとく留まるところを知らなかった。京都の防衛のため退いた新田義貞軍を追い、足利軍は再び入京したのだった。

南北朝
 入京してみると、京はすでにもぬけの殻であった。不気味なほどに静まりかえった京都に足利尊氏が率いる九州四国中国の諸豪族の大軍勢が入ると、足利尊氏は新たな京の主となり、この戦が尊氏の全面勝利になったことを印象づけた。六条河原にさらされていた楠木正成の首を故国に帰しふところの豊かさをみせた。

 あらかじめ申し合わせていたとおり、寺明院の法皇は比叡山には行かず京都に残っていた。法皇に謁見した足利尊氏の表情は誇らしさに溢れていた。 

 尊氏は京をほぼ制圧したが、このころ再び遁世願望が頭をもたげてきた「この世は夢であるから遁世したい。信心を私にください。今生の果報は総て直義に賜り直義が安寧に過ごせることを願う」という趣旨の願文を清水寺に納めている。

 後醍醐天皇は京都での市街戦を不利とみて新田義貞らとともに再び比叡山に上った。体制を立て直すための比叡山行きであったが、世情が足利尊氏の天下平定で平和が戻ることをに焦りを感じていた。足利尊氏の再起など思いも寄せていなかった後醍醐天皇方の朝廷の公家たちは、足利尊氏を九州に敗走させた東北の武士団を早々に帰郷させていた。北国の武士が市中を徘徊することに耐えられなかったからである。しかし再び足利尊氏が進軍してくると、比叡山の山中で公家たちは、ひたすら若き北国の将軍・北畠顕家が上洛してくるのを待つのであった。
 戦局は、日増しに後醍醐天皇方に不利になっていった。焦りから決戦を急いだ千種忠顕や名和長年など、後醍醐天皇が隠岐島を脱出した当時から活躍していた有力武士たちが敗れ死去していた。

 もはや成すすべを持たない後醍醐天皇に、足利尊氏は京都御還幸を勧めた。足利尊氏は「元々後醍醐天皇に弓を引くつもりなど毛頭なく、混乱させた公家たちや宿敵新田義貞と戦い、後醍醐天皇を救出するための戦いであった」と長文をしたため比叡山に届けたのだった。

 足利の勢力は比叡山に逃れていた後醍醐天皇の顔を立てる形での和議を申し入れた。この足利尊氏の言葉に気持ちが揺らいだ後醍醐天皇は新田義貞に無断で比叡山を下る決心をした。新田義貞は直前にこれに気づき驚いた。忠義に天皇に従ってきた新田義貞を見限って、足利尊氏の元に後醍醐天皇が行くことなど想像もしていなかった。

 新田義貞に言葉はなく、北陸に落ち延びて再起を図はろうとした。しかし北陸に向かった新田義貞には足利尊氏の追っ手の軍勢が差し向けられ、北陸の新田軍は壊滅的に破れ消えさった。捕らわれていた親王は京都に戻された後に何者かによって毒殺された。

 後醍醐天皇はわずかな公家衆らを伴って京の市中に向かった。11月2日に、後醍醐天皇は光厳上皇の弟・光明天皇に神器を譲り、11月7日に足利尊氏は建武式目十七条を定めて政権の基本方針を示し、新たな武家政権を宣言した。

 この時をもって室町幕府の発足となった。足利尊氏は源頼朝と同じ権大納言に任じられ、自らを「鎌倉殿」と称した。

 いっぽう後醍醐天皇は12月の夜に、忽然と京から消え、ほどなくして吉野(奈良県吉野町)へ逃れたことがわかった。後醍醐天皇は光明天皇に譲った三種の神器は偽物であり、本物はこちらにあるとして独自の朝廷(南朝)を樹立した。吉野の山中に新たな朝廷ができたのである。
 以後50年にも及ぶ京都の朝廷と吉野の朝廷の対立の時代、後の世に「南北朝時代」と呼ばれた日本史上特異な時代が始まった。後醍醐天皇が吉野に築いた南朝は、足利尊氏を苦しめ続けたが、時代は足利将軍家を中心とした新しい武士の時代に大きく流れてゆき、その流れの中で南朝は次第に静かに埋もれていった。
  足利尊氏は自ら擁立した北朝の天皇から、宿願の征夷大将軍の地位を得たが、それは北陸で新田義貞が流れ矢に当たって死去したという知らせが入ってからであった。

足利尊氏と天龍寺
 太平洋戦争のころ足利尊氏は大悪人のように言われた。それは尊氏が南朝の後醍醐天皇に背いたからである。しかし本当は気立ての優しい人だったようで、後醍醐天皇に背いた尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ室町幕府が成立した翌年、後醍醐天皇が吉野で崩御すると、尊氏は慰霊のために天龍寺造営を開始した。吉野で死なせたことを尊氏は後悔し悪いことをしたように気にしていた。そこで尊氏は僧・夢窓疎石と相談して天皇の魂を慰めるために天龍寺を京都の嵐山に建てたのである。

 しかし戦いが連続した時代だったので寺を建てる費用がなかった。そこで元(中国) に天龍寺船という貿易船を送って、その儲けを天龍寺建築の費用にあてた。また自分の荘園を寄付し、尊氏は自ら天龍寺建築の土運びを行った。さらに諸国に安国寺と利生塔の建立が命じられた。

 現在、天龍寺には尊氏の描いた地蔵様の絵が残されているが、これは自分の犯した罪を悔いて描いたとされている。

 南朝との戦いは足利尊氏方が優位に戦いを進め、北畠顕家、新田義貞、楠木正成の遺児・正行などが次々に戦死し、小田治久、結城親朝は南朝を離反して幕府に従った。さらに1348年には高師直が吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげた。

 

観応の擾乱(直義と師直の戦い)
 将軍・足利尊氏は北条氏を滅亡させて室町幕府を開くが、政務を弟の直義に任せ、自らは軍事指揮権と恩賞権を握り武士の棟梁として君臨した。尊氏は武士の支配権と軍事を握りながら、統治事務をバランス感覚の優れた直義に任せたのである。

 鎌倉幕府で将軍が持っていた権力を、室町幕府では二つに分けた兄弟による両頭政治であった。尊氏は感情の起伏が激しく、直義がそれを補うような形で幕府の舵取りをした。

 もちろん尊氏と直義は最初から仲が悪かったわけではない。むしろ源頼朝・義経兄弟や織田信長・信行兄弟と比べるととても仲が良かった。同じ母親から生まれ、育ちも同じで鎌倉幕府打倒の際には尊氏を直義がよく支えて倒幕を成し遂げた。

 しかしまだ政権としての安定のない室町幕府は、二元化した権力は徐々に幕府内部の対立を呼び起こし、尊氏の右腕として活躍した初代執権・高師直が軍を束ね、足利尊氏はほぼ実質的に隠居状態に入る。武官と文官が仲の悪いのは歴史の常であるが、高師直と足利直義も仲が悪かった。

 高師直は系譜からすると新田氏や足利氏とは兄弟の家筋であった。足利家では尊氏の祖父・家時が子孫三代の間に天下が取れることを願い、置文(遺言状)を残して自害したが、置文は師直の祖父・師氏に宛てられていた。このことからも足利氏と高氏は当初は親密以上の特別な関係であった。
 高師直はこのような名家の一族であり、足利尊氏が幕府を開いてからは、並みいる守護大名も畏怖するような権勢を振るった。特に弟・高師泰がかなり自己的な性格だった。高師直の権勢をやっかんだ武士たは「悪逆非道」の烙印を押し、特に天皇家の権威・権力を軽んじる傍若無人な人物として「太平記」に記されている。

 一方の直義は真面目な性格で、政務を法規通りに進め、さらに家柄や伝統を重んじて譜代の家臣を重用した。一方の高師直は既存秩序を破壊し下級武士や卑しい者でも成果を上げた者を取り立てていた。高師直にとって形式主義の直義が邪魔で仕方なかった。ここで高師直は直義派と対立することになる。

 高師直は直義のやり方に不満があったので、それを知る直義の側近(上杉重能・畠山直宗ら)が足利尊氏にあることないことを吹き込んで、高師直を幕府中枢から追い出したのである。

 当然そのままで済むはずがなく、執事職を解任された師直は師泰とともに挙兵して直義と師直が戦うが、負けた直義が京都の尊氏邸へ逃げ込んだ。尊氏邸は高師直の兵に包囲され、高師直は尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求した。尊氏は直義側にも師直側にもつかず、直義は頭を丸め出家して引退することになった。
 尊氏の周旋によって和議を結美、高師直が足利直義に代わり政務を担当し、幕府内における直義ら反対勢力を一掃した。尊氏の嫡男・義詮を鎌倉から呼び戻し、高師直は将軍尊氏の嫡子・義詮を補佐して幕政の実権を握った。さらに高師直の次男・基氏を鎌倉に下して鎌倉公方とした。つまり東国を統治するために鎌倉公方を高師直の次男に与えたのである。

 

足利直冬の反乱と直義の南朝

 直義が引退すると、直義の養子・足利直冬が九州で直義派として勢力を拡大した。そのため、1350年、尊氏は足利直冬を討伐するために中国地方へ遠征した。すると出家した足利直義が京を脱出して、桃井直常、畠山国清らの武将らとともに宿敵である南朝と和議をして、反幕府軍を旗揚げ再び都を攻略してきた。

 直義はかつて後醍醐天皇の嫡子・護良親王を殺したことから、南朝からすれば仇の中の仇で、南朝と手を組むはずのない敵であったが、南朝方は有力武士のいない状態だったので、なりふり構わず直義を迎え入れたのである。

 直義の勢力(南朝)が強大になると、今度は高師直と尊氏軍(北朝)が劣勢となった。京の足利尊氏の嫡男・義詮は京を脱出し、京に戻ろうとした尊氏も光明寺合戦や打出浜の戦いで直義・南朝方に敗れてしまった。

 この大逆転にて再び権力についた直義は兄・尊氏の依頼により高師直の一命は取らずに高師直・師泰兄弟の出家・配流を条件に尊氏と和議が成立した。

 

高師直の死去

 この交渉において足利尊氏は代理人に「足利直義に高師直の殺害を許可する」と伝えていた。和睦後、高師直・師泰兄弟は尊氏とともに摂津から京へ戻るが、この時尊氏は「出家姿のみすぼらしい高師直・師泰兄弟と一緒に上洛するのは見苦しい」と言って、高師直・師泰兄弟に行列の3里(約2km)後ろからついてくるように命じた。

 高師直ら一族は尊氏に見捨てられた形となり、護送中に父の敵として恨んでいた直義派の武士・上杉能憲により殺害された。武庫川畔(兵庫県伊丹市)で待ち受けていた上杉能憲によってにおいて、高師直・師泰兄弟の首は取られ胴体は川に投げ捨てるという凄まじい殺し方だった。

 尊氏と直義兄弟の仲に割って入り、室町幕府の実権を握り権勢を振るった高師直も、源氏の貴種という血統には勝てず、権勢をほしいままにし過ぎたため「悪逆非道」のレッテルを張られあっけない末路となった。室町幕府設立の立役者・高師直の最期はあまりに無残で、高氏一族もほとんどが殺されている。

 
 直義は足利義詮の補佐役として政務に復帰した。この一連の戦闘の勝者は直義であり敗者は尊氏で、尊氏の権威は失墜しても不思議ではなかった。しかし尊氏は全く悪びれた様子もなく、むしろ以前より尊大に振る舞うようになる。

 論功行賞では尊氏派の武将の優先を直義に約束させ、高師直らを滅ぼした上杉能憲は後に反尊氏派となったため死罪とした。また直義派から尊氏派に鞍替えた細川顕氏は、謁見に現れると太刀を抜いて脅すなどまるで勝者のように振る舞い、細川顕氏は尊氏の迫力に気圧され恐怖に震えた。そもそも尊氏は細かいことに拘らない性格だったが、今回の敗戦も尊氏と直義の戦いではなく、あくまで「師直と直義の戦い」として、自分の都合のよいように考えていた。

尊氏と直義の戦い

 直義が理想とする政治は現実に即しているとは言い難く、尊氏派に加わる武将が続出し、敗者だった尊氏が実際には優勢となった。このような情勢の中で直義派の武将が殺害され、襲撃され、直義は政務から再び引退することになる。

 尊氏は佐々木道誉の謀反を名目に近江へ、義詮は赤松則祐の謀反を名目に播磨へ、京の東西へ出陣することになったが、佐々木や赤松は後に尊氏に帰順し、尊氏は直義追討を企てて南朝と和睦交渉を行った。

 この動きに対して直義は京を放棄し、北陸を経由して鎌倉へ逃亡した。尊氏と南朝の和睦は同年10月に成立した。この和睦によって尊氏は南朝から直義追討の綸旨を得たが、尊氏自身がかつて擁立した北朝の崇光天皇は廃されることになった。

 尊氏は直義を追って東海道を進み、薩た峠の戦い(静岡市清水)、相模早川尻(小田原市)の戦いで撃ち破り、直義を捕らえて鎌倉に幽閉した。直義はその直後に急死した。太平記ではこれを尊氏による毒殺を記している。

 しかし尊氏は直義の死後病気がちになり、以後政務は足利義詮を中心に執られることになった。尊氏が京を不在にしている間に、南朝方との和睦が破られ、宗良親王・新田義興・義宗・北条時行などの南朝方から襲撃され、尊氏は武蔵国へ退却するが、すぐに反撃して関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還した(武蔵野合戦)。

 畿内でも南朝勢力が義詮を破って京を占拠し、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王を拉致した。このため足利政権の正当性は失なわれそうになるが、近江へ逃れた義詮はすぐに京を奪還し(八幡の戦い)、佐々木道誉が後光厳天皇擁立に成功して北朝が復活し足利政権も正当性を取り戻した。

 しかし今度は南朝に下った山名時氏と楠木正儀が京を襲撃して、義詮を破り京を占拠した。尊氏は義詮の救援要請をうけ京へ戻り義詮とともに京を奪還した。

直冬との戦い
 1354年には直冬を奉じた旧直義派が京への大攻勢をかけ、翌年には尊氏は京を放棄するが、結局、直冬を撃退して京を奪還した。この一連の合戦は、神南での山名氏勢力との決戦から洛中の戦に到るまで、道誉と則祐の補佐をうけた義詮の活躍が大きかった。最終的には東寺の直冬の本陣に尊氏の軍が突撃して直冬を敗走させた。
 足利尊氏は島津師久の要請に応じて自ら直冬や畠山直顕、懐良親王を討伐するため九州へ向うが、義詮に制止されて果せなかった。

 1358年4月30日、先の直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(京都市下京区)にて足利尊氏は死去した。享年54。
 1358年5月2日、尊氏の葬儀が京都の真如寺 で行われ、初七日の法要は等持院において行われた。 墓所は京都の等持院と鎌倉の長寿寺の2箇所にある。そのため尊氏は京都では「等持院」、関東では「長寿院」と呼ばれている。 尊氏の死から丁度百日後に孫の義満が生まれている。

尊氏の評価

同時代の評価
 足利尊氏と親交のあった禅僧・夢窓疎石が、梅松論の中で尊氏の人間的魅力として次の3点を挙げている。
 1. 心が強く合戦で命の危険にあっても、その顔には常に笑みがあり、全く死を恐れる様子がない。これは戦場での勇猛さを表すが、戦場で矢が雨のように頭上に降り注ぎ、近臣が危ないからと自重を促すと、尊氏は笑って取り合わなかった。

 また1355年の東寺合戦で危機的状況に陥った際、尊氏は例の笑みを浮かべながら「合戦で負ければ、それでお終いなのだから、敵が近づいてきたら自害する時機だけを教えてくれればよい」と家臣に答え、全く動揺していなかった。

 このように尊氏には危機に直面した時に無意識に微笑む癖があり、たとえ鬼神が近づいてきても、全く動揺する気配がないと尊氏の胆力を示している。この微笑は配下の武将たちに安心感と勇気を与えた。

 2. 生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵を許し、しかも彼らに我が子のように接した。この敵への寛容さは、畠山国清や斯波高経など一度敵方に走った者でも、尊氏は降参すればこれを許し、幕閣に迎えていることからもわかる。
    3. 心が広く物惜しみする様子がなかった。金銀すら土か石のように考え、武具や馬などを渡すときも、与える者を特に確認しなかった。手に触れるに任せて与えてしまうのである。

 この気前の良さについては逸話が残されている。当時は旧暦の8月1日に贈答しあう風習があった。尊氏のもとには山のように贈り物が届けられたが、尊氏は届いたそばから次々と人にあげてしまうので、その日の夕方には尊氏のもとに贈り物は何一つ残らなかった。尊氏は戦場でも戦場で功績を上げた者を見ると、即座に恩賞を約束する下文を与えている。戦場の下文がもつ効果は大きく、恩賞を約束された本人の感激はひとしおで、これを見た武将たちも競い合うように励んだ。

 尊氏が与えたのは下文だけでなく、腰刀や軍扇なども与え、このように鷹揚で無頓着な尊氏を見聞きした家臣たちは、みな「命を忘れて死を争い、勇み戦うことを思わない者はいなかった」と述べ、これが尊氏最大の人間的魅力だった。

 尊氏の特徴として、合戦で苦戦すると切腹すると言い出したり、後醍醐天皇に背いて朝敵となったことを悔やんで出家を宣言したりした。正月の書き初めでは、毎年「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」と書いたとされている。

 尊氏は勇気があるというよりも、生死に対する執着が薄かったのだろう。また命への執着の薄さは時に周囲にも向けられ、親族や腹心であっても状況次第では意外に冷たく突き放した。幼い頃から苦楽を共にし幕府創設に欠かせなかった弟・直義と執事・高師直も、事態が面倒になると案外にあっさり切り捨てている。尊氏の対人関係には、普段は無類の愛情を示しておきながら、状況次第では簡単に見切ってしまう無節操な傾向が見られる。
 これらは度量の広さと同時に全てに無頓着で、良くも悪くも「無私の人」と言える。その場その場では周囲に気を遣い、他人にいい顔をするが、それは別に深慮があるわけではなく、状況が悪化すると簡単に全てを放り出してしまう。「八方美人で投げ出し屋」という人間なら誰しも大なり小なり持ち合わせるが、尊氏はより強かった。

 足利尊氏は自分の理想に向けて周囲を引っ張っていく指導者ではなく、英雄的人物とは言いがたいが、歴史の表舞台に立った尊氏は、その性格ゆえに周囲の動向に振り回され傷つき、また自分自身も無意識に周囲を傷つけてしまう苦悩を背負っていた。

 夢窓疎石は鎌倉幕府を開いた源頼朝と尊氏を比較し、頼朝については「人に対して厳し過ぎて、仁が欠けていた」とする一方で、尊氏については「仁徳を兼ね備えている上に、なお大いなる徳がある」と絶賛し、末代までなかなか現れそうにない将軍としている。

 しかし尊氏と同時代に生きた人達の中には、尊氏を酷評する人もいる。南朝方の代表的な武将である新田義貞は尊氏を強く憎んでいた。尊氏は関東の管領を朝廷から得たことを理由に、新田一族の領地を没収し、自分の家臣達に恩賞として与えた。新田義貞もその報復として足利一族の領地を取り上げたため、同じ源氏一門でありながら足利と新田は激しく対立し、尊氏が朝廷に新田義貞追討を上奏したと聞くと、新田義貞の怒りが頂点に達し、新田義貞は後醍醐天皇に尊氏のことを「無能無才で卑しい身分」と激しく罵っている。
 また南朝の公家でありながら、武将としても活躍した北畠親房は、尊氏を「功も無く徳も無き盗人」と酷評している。北畠親房は武士とは常に天皇や公家に従属すべきものという考えを持っていたため、武家が公家と同等の存在になる事を認めなかった。鎌倉幕府が滅びたのは朝廷の威光と時の運によるもので、武士の力によるという認識は間違いとしている。さらに「神皇正統記」の中で、尊氏の事を「凶徒」「朝敵」と記しており、後の「尊氏=逆賊」というイメージはこれが端緒となっているとされている。
 尊氏が生きていた時代は南北朝動乱の激動期で、尊氏が築いた新政権は安定しておらず、南朝との戦いだけではなく幕府でも内紛が起こるなどしていた。そのため尊氏の事を褒め称える人が多くいる一方で、尊氏の事を厳しく評価する人もまた多くいたわけである。

 尊氏の死後暫くして室町幕府が安定してくると、当然その幕府を創設した尊氏に対しての評価は高くなっていった。室町幕府は3代将軍足利義満の時代を最盛期として、その後は次第に衰退してゆくが、それでも尊氏が酷評される事はなかった。

 室町時代から江戸時代中期頃までは一般に北朝が正統と認識されており、その歴史観に立てば、楠木正成を始めとする南朝の武将達のほうが「朝廷に弓を引いた逆賊」であり、尊氏は朝廷(北朝)を支えた勲功第一の忠臣であった。室町時代は北朝が正統で、南朝の後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇は天皇としては認められていなかった。
 徳川家は南朝方の武将であった新田氏の後裔であると自称しているが、南北朝時代の解釈については室町幕府の立場を引き継いで北朝を正統としたため、その北朝を建てた尊氏の評価が急に下落するような事はなかった。

 また尊氏は、武将・政治家としてでなく、芸術家としても足跡を残している。連歌については菟玖波集に68句が入集しており、新千載集を企画し勅撰集の武家による執奏という先例を打ち立てた。地蔵菩薩を描いた絵画なども伝わっており画才にも優れた人物だった。この他にも扇流しの元祖であるなど、まされ風流や優美さを好む人物だった。


後世の評価

徳川光圀
 足利尊氏の評価を大きく落としたのは、第2代水戸藩主の徳川光圀である。水戸光圀は時代劇の黄門様として知られており、徳川御三家でありながら、徳川将軍家(江戸幕府)とは立場を異にし、日本の最高権威は天皇であり天皇から政治を預かった江戸幕府が統治を行っているだけと主張していた。

 歴史書「大日本史」は光圀の視点から水戸藩が編纂したもので、江戸幕末の尊王派の思想に大きな影響を及ぼし天皇中心の尊皇論が貫かれている。また大日本史の中では南朝が正統で、南朝と対決した足利尊氏は天皇に逆らう悪人と評せられていた。さらに光圀は、後醍醐天皇のために討ち死にした楠正成こそが忠臣であると讃え、正成の墓所に「嗚呼忠臣楠子之墓」と彫られた墓碑を建てている。
 江戸時代中期以降になると、大衆レベルでも足利尊氏や楠正成に対する評価が次第に変わって行く。赤穂浪士の仇討ち事件を題材とした「忠臣蔵」は、当時はそのままでは幕府の方針に反することから上演は許可されず、劇中の時代背景を南北朝時代に移し、大石内蔵助は大星由良之助という人物に置き換えられている。この「仮名手本忠臣蔵」は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として人気があった。

 当時の一般庶民は必ずしも「南朝が正統で、その南朝に殉じた楠木正成は忠臣である」という明確な史観を持ってはいなかった。日本人の国民性として敗者に同情したがる「敗者の美学」とでもいうべき観念から、滅び去った南朝方に同情の念を抱いたというべきである。 

 水戸学による天皇史観は尊王思想を生み、幕末には等持院の尊氏・義詮・義満の足利3代将軍の木像が梟首される事件が発生している。明治時代になると欧米から近代歴史学が入ってきて、史学界では太平記の史料的価値が疑われ、楠正成は一般庶民からは尊敬されていたが、史学の分野に於いては楠正成の評価は低下した。東京帝国大学に初めて国史科ができ3人の博士が教授になったが、3人とも楠正成の評価は低くかった。明治時代には楠木正成は低く評価され、尊氏は逆賊視されていなかった。

 明治37年の国定教科書「小学日本歴史」には、後醍醐天皇の建武の新政について「政治の弊害が起り、賞罰は富を得ざるもの多かりき。天皇は兵乱の後なるにもかかはらず、諸国に課して大内裏を造営せんとしたまふなど、民力の休養を怠り、新政に対する不平はしきりに起り、人々は中興の政治を喜ばず、武家の政治を慕ひ、つひにふたたび天下の大乱を見るに至れり」と書かれている。
 このように建武の新政の混乱を述べ、後醍醐天皇を容赦なく批判している。足利尊氏については「才智に富み、巧に将士の心を収めた、人々、源氏の昔を思ひて、心をこれに寄する者多かりき」と尊氏の人柄を褒めており、これが戦前の国定教科書の記述であった。
 しかしこの国定教科書の記述が大きな問題を引き起こす。その2年後に国定教科書が「南朝を正統とせず南北朝を併記しているのはおかしい」と読売新聞が紙上で大きく取り上げたのである。いわゆる「南北朝正閏(せいじゅん)論争」で、明治天皇の暗殺を企てたとして幸徳秋水ら社会主義者が処刑される大逆事件が起こった時期に、帝国議会でこの歴史教科書の記述を国家的な問題として大きく取り上げたのである。

 時の第二次桂太郎内閣は「国定教科書の記述は誤りである」という結論を下し、この教科書の使用を禁じた。明治天皇の勅裁という形で南朝こそが正統と定められたのである。

 明治天皇は北朝の御子孫であるが、公式に南朝が正統とされ尊氏には逆賊の烙印が押された。その後の国定教科書から「南北朝時代」は消え、南朝が政権を置いた「吉野時代」と変えられ、尊氏は己の欲望のために後醍醐天皇を利用し、その上で叛旗をひるがえして政権を奪取したとされたのである。

 昭和9年になって、斎藤実内閣の商工大臣であった中島久万吉男爵は、足利尊氏を再評価すべきという過去の文章を野党から批判され大臣職を辞任しているが、このように戦前の日本では楠木正成は「忠臣の鏡」「大楠公」として過剰なまでに高く評価され、逆にその正成を討った足利尊氏は大極悪人とされた。
 しかし昭和30年代に吉川英治が書いた私本太平記は尊氏を主人公にしており、また歴史小説家の海音寺潮五郎や井沢元彦は、後醍醐天皇にとどめを刺さなかったこと、内部抗争の処理に失敗したことなどから「人柄が良くカリスマ性は高いが、組織の運営能力では源頼朝や徳川家康に劣っている」さらには「戦争には強いが、政治的センスがまるでない」と評価している。

 平成3年にNHKの大河ドラマで「太平記」が放送され、主人公の足利尊氏役に二枚目俳優の真田広之が抜擢されると、足利尊氏は国民的な英雄となり、新時代を築いた英雄として高く評価されるようになった。現在では南朝・北朝のどちらが正統であったかと論じられる事はなく、南北朝時代はふたつの朝廷が並立していた、という歴史的な事実として受け止められている。