応仁の乱

応仁の乱の背景

  恐怖の独裁者6代将軍・足利義教(くじびき将軍)が、赤松満祐宅での酒宴の席に招ねかれ暗殺されると、それまで抑圧されていた守護大名は胸をなでおろした。足利義教が凄惨な暗殺を受けたのは、その気まぐれな領地没収や斬首などの狂気じみた強権が相次いたためで、次は自分の命が狙われると恐れた赤松満祐の自衛的暗殺と言えた。

 そのため将軍が暗殺されても、赤松満祐の酒宴には守護大名達が多くいたが誰も将軍の仇を討とうとせず皆狼狽して逃げ惑った。義教の暗殺は赤松満祐の単独犯行で、赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想していたが、夜になっても幕府軍が押し寄せず、抵抗することを決めると邸に火を放ち、将軍の首を槍先に掲げて堂々と隊列を組んで京を退去し領国に帰った。その4ヶ月後、次期足利将軍の命を受けた山名宗全によってに赤松満祐は討たれることになった。

 暗殺された足利義教は天台座主から還俗して籤引(くじびき)で将軍になったが、暗殺された時、跡取りとなる二人の子供はまだ幼なく、義教の後を継いだ第7代将軍・足利義勝はわずか9歳であった。幼い足利義勝に政治などわかるはずはなく、しかも足利義勝が翌年に急死すると、弟の足利義政が8歳で第8代将軍になった。

 暗殺された足利義教は恐怖のくじびき将軍で、その恐怖・強権によって世の中をまとめていた。つまり足利義教が暗殺されると、守護大名や守護代のたがが外れ自分勝手な行動をとるようになる。

 室町時代の有力大名家を示す言葉に「三管四職」がある。「三管」とは管領という行政のトップになれる家系で、斯波氏・畠山氏・細川氏に限られていた。「四職」とは京都の警察を輩出する赤松氏・一色氏・京極氏・山名氏のことであった。

  将軍が幼いことから政治は管領(かんれい)にゆだねられた。管領は鎌倉幕府の北条家と同じ役割であるが、室町時代の管領は持ち回り制であった。この「管領の持ち回り制度」が騒乱頻発の原因となった。当時の実力者は細川氏、山名氏、斯波氏、畠山氏の四家で、その中でも細川勝元は幕府第一の権勢を振るっていた。

 当時、細川氏(足利系源氏)の当主が細川勝元で、次の有力者である山名氏の当主が山名宗全であった。世継ぎの実子がいなかった細川勝元は山名宗全の養女を妻に迎え、宗全の実子の勝豊を嫡子としていた。この初期の段階では細川氏と山名氏は良好な仲であったが、細川勝元に実子の政元が誕生すると、細川勝元は勝豊を廃嫡して政元を嫡子としたため、山名宗全と細川勝元の対立は深まった。

 この二人はこの世継ぎの問題で仲が悪くなったが、他の有力者、特に畠山氏を弱体化されることで細川氏と山名氏は思惑が一致していた。

 家督争い

 室町時代後期には諸大名が東西両軍に分かれ、京都市街を主戦場とした「応仁の乱」によって室町幕府は自壊したが、応仁の乱は細川勝元、山名宗全という時の実力者の対立に加え、将軍の後継問題や管領家畠山・斯波両氏の家督争いなどが複雑に絡んでいた。戦国の乱世の序曲であるが、応仁の乱は知名度の割には、その実態はほとんど理解されていない。

 応仁の乱の原因は複雑ではあるが、単純に言えば将軍家や守護の家督争いである。家督相続を有利にしようとして、時の有力者の細川勝元や山名宗全に多くがすがり、細川勝元や山名宗全は自らの勢力を広げるために、将軍家や守護の家督相続に割り込んだことによる。

 応仁の乱には理念もなければ大義もなかった。各自の欲だけが動機だったので分かりにくいのである。また将軍は守護の家督相続を決める権限を持っていたが、将軍・義政は管領に振り回され、節操もなく何度も決定を覆したため混乱が生じた。畠山氏の御家騒動を例に簡単に述べると次のようになる。 
畠山家の御家騒動

 畠山氏は幕政の重責を担う三管領のひとつとして有名であるが、畠山氏のお家騒動が「応仁の乱」の引き金になった。

 畠山家の当主・畠山持国は跡継ぎになる子供がいなかったので弟の持富を嫡子とした。すると持国の側室が男の子(義就)を生んだのである。この義就は畠山持国の庶子であったが、母親は異性関係が奔放な遊女だった。そのため畠山持国は後継を弟の持富のまま、義就は石清水八幡宮の社僧に出された。ところが成長するにつれ、義就の顔つきが自分に似てくると義就を実子として家を継がせたいと思うようになった。畠山持国はとつぜん12歳の義就を還俗させ嫡子として後継者に指名する。この措置は幸いにも幕府の支持も得られ、足利義政は義就の家督を認可した。また嫡子を廃された持富も持国の違約に文句をいわなかった。

 これで丸く収まればよかったが、室町期の家督相続にお家騒動はつきもので、案の定、持富の子・弥三郎(政久)を担ごうという輩が出てきた。そこで持国は弥三郎派の重臣・神保氏らを一掃し弥三郎邸を襲撃した。

 進退窮まった弥三郎(政久)は細川勝元に助けを求め、山名宗全も弥三郎(政久)の家臣たちを受け入れている。細川山名両家の支持をとりつけた弥三郎(政久)はこれで勢いを取り戻し、畠山持国を隠居に追い込んで、義就を京都から追放することに成功した。
 将軍・足利義政は義就が不利と見るや、細川勝元が支持する弥三郎(政久)に家督を認可した。

 このときの管領は細川持之であった。足利義教が暗殺された直後に、幕府は「足利義教が奪った領地や職を返還すること」と決めていた。そのため将軍義教に領地を奪われていた畠山持国は幕府の方針に従って領地と家督の返還を求めたが、管領・細川持之はこの申し出を拒否して、弟の畠山持富領地を相続させたのである。細川持之にとっては、実力のない弟の畠山持に相続させた方が自分の勢力を保つのに都合がよかったのである。

 しかし畠山持国は管領の決定に逆らい、実力で領地と家督を奪いとった。このことから管領の細川持之と畠山持国は幕府内で激しく対立することになる。さらに山名宗全が義就を支持したため形勢が逆転し、将軍・足利義政は義就の家督相続を再認定したのである。この再認定には将軍側近の伊勢貞観が暗躍している。

 管領の細川持之と山名宗全は、足利義政を騙して家督を再度・弥三郎および政長に決めた。将軍・足利義政は家督相続の決定権を持っていたが、何度も認定をくつがえすことに畠山持国と義就は不満を抱き、弥三郎および政長と戦うことになる。

 つまり畠山氏の内部崩壊を願う細川勝元と山名宗全の陰謀に足利義政は振り回されたことになる。この畠山持国・義就と弥三郎・政長の戦いは、応仁の乱のきっかけになり、11年後の応仁の乱後まで続くことになる。

斯波家の御家騒動
 斯波氏の当主・斯波義健には跡継ぎがいなかった。そのため斯波義健が死ぬと分家の斯波義敏が跡継ぎになった。しかし本家斯波家の家臣・甲斐常治は分家の斯波義敏が当主になったことに耐えらきれず、将軍側近の伊勢貞観に賄賂と女性を贈り足利義政に「分家の斯波義敏ではなく本家の斯波義廉が家督相続すること」を認めさせた。しかしその後、斯波義敏も伊勢貞観に賄賂を贈り、足利義政は斯波義敏が再度家督を相続することを認めさせた。

 この伊勢貞親は足利義視を陥れるため謀反のデマを流した。するとこの足利義視の失脚工作を企んだ伊勢貞観に対して、山名宗全と細川勝元がついに怒り、追放してしまった。

家督相続をめぐる複雑な背景 

 このような家督相続をめぐる対立はどれも似ていた。最初決めた後継者を、決めた本人が引きずりおろし、後から出てきた自分にとって都合の良い人物を強引に後継者にするというものである。すると相手も強引な手を使って復権し、これを何度も繰り返すという構図であった。

 鎌倉幕府以降、家督争いが頻発したのは、相続がそれまでの分割相続か家督を独占する方式に代わったことによる。家督を独占すれば、すべての権勢を独占できるが、相続できなければ全ての権力と財産を失うことになる。しかも家督争いの決定権は将軍であるが、実際には管領が握っていたので、時の管領が守護の家督を自分の都合によって決めることができた。このため室町時代の守護の家督争いのほとんどは「管領による家督決定」がからんでいた。

  家督争で管領が一方を支持すれば、もう一方は反管領の実力者に泣きく。そのため管領対反管領の争いに発展した。管領は守護の家督争いを自分の地位保持・安定のために利用した。この守護の家督争いが誰の目にも公平であれば問題はなかいが、家督争いは幕府内の管領と反管領の争いに発展して泥沼化して、しかも管領は持ち回り制であったため、管領が変わるごとに管領と反管領の地位が逆転した。

 管領の細川持之と畠山持国の争いは、加賀国の守護・富樫家の家督争いで再燃した。富樫家は兄の富樫教家と弟の富樫泰高が家督を争ったが、管領・細川持之は弟の富樫泰高を支持し家督を継がせた。しかしこれに不満を持つ兄の富樫教家が畠山持国に支援を求め、しかもこの時、細川持之が急死したため、管領の座は畠山持国に変わっていた。畠山持国はすぐに富樫泰高から守護職を奪うと、富樫教家の子の亀童丸に家督を譲ることを決定した。このことから細川氏と畠山氏の遺恨は後々まで続くことになる。

足利義政

 1436年、第8代将軍となった足利義政は義教の次男として誕生した。母は日野重子である。次男の義政には将軍になる芽はなかった。しかし父・義教が赤松満祐により殺害され、その嫡男・義勝があとを継いだが2年後に死去してしまった。
 当初、足利義政は祖父の足利義満や父の義教にならい将軍の権力復活を図った。鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)と関東管領の上杉氏との内紛である享徳の乱(きょうとくのらん)にも積極的に関わった。

 このように義政のもとに将軍の座が転がり込んできたが、義政はまだ8歳であった。将軍を継承したがまだ若く、政治の主導権は重臣たちが握っていた。実際に宣下を受けたのは14歳であったが、幕府の主導権は管領家の細川勝元、畠山持国、そして侍所の所司の家柄の山名宗全らの宿老層が握っていた。さらに義政の妻である日野富子や実家の日野家、さらには有力大名らが次々と政治に介入してきた。

 将軍・足利義政の権力は著しく低下し、そのため足利義政はしだいに政治への関心を失い、政治に興味をなくしてしまい、義政は贅沢な暮らしを始め、将軍としての人望をさらに失ってゆく。

  29才の足利義政は世の中の問題が山積みとなったため、幕政に嫌気がさし将軍の地位を誰かに譲って、気ままな余生を過ごしたいと願っていた。足利義政は将軍を引退して芸術を愛する気楽な隠居生活をしたかったのである。

 足利義政の正夫人・日野富子との間に嫡男がいなかったので、出家していた妾腹の弟の僧侶・足利義視(よしみ)を還俗させ、養子として迎え次期将軍にすることにした。

 義視は将軍になる気はなかったが、義政は「もし今後自分に男子が生まれても、絶対に後継者にはしない。赤ん坊のうちに僧籍に入れて出家させる」と約束したのである。

 この約束を確実にするため、義視は幕閣第一の有力者で宿老・細川勝元を後見人に立てた。管領の細川持之にその約束を保証させると、12月2日に還俗して、僧名である義尋を捨てて足利義視と名乗った。細川勝元は管領を辞職しても義視を支持した。

 これほど用意周到に次期将軍を義視に指名したのは、義政が政界から早く引退したかったからである。年を取ったからでも体を悪くしたからでもなく、為政者の責任を放棄し気楽な立場で遊んで暮らしたかったからである。義政は自らが東山に創建した銀閣寺に若くして篭り、将軍でありながら半隠居生活を送った。

 ところがこの決断はあまりにも性急過ぎた。皮肉なことに弟を後継者に決めて1年も経たないうちに妻の冨子が懐妊し、翌年、出来ないと思っていた嫡男・足利義尚(よしひさ)が生まれたのである。

 これがやがて大きな問題となる。我が子を可愛いと思うのは世の常で、義政の気持ちはぐらつき始めた。優柔不断の義政は次期将軍の問題を先送りにして、将軍の座にとどまり続けた。妻の日野富子にすれば、腹を痛めた我が子を将軍にしたいと思うのは当然のことだった。日野富子は自分の子・義尚を次期将軍にしたい一心で、義尚の補佐役を山名持豊(宗全)に依頼した。

 このことから両補佐役である「細川勝元と山名持豊」が対立することになった。日野富子は義尚可愛さから義視を必死に排斥しようとし、幕府内部は「義尚派と義視派」に分かれて対立した。足利義政にとっては「実の子と弟との次期将軍をめぐる争い」であったが、どちらとも決定しなかった。

 義視にすれば次期将軍を約束して下俗したのだから反故にされたくなかった。将軍・義政が決断を下せばよいのだが、優柔不断な義政は心情的には息子の義尚を後継にしたかったが、周囲の波風を恐れ決定せずにいた。義政が後継を決めないことに業を煮やした日野富子と足利義視は、お互いに有力な武将を味方にして動き出したのである。

 日野富子と実子の足利義尚は山名持豊(出家して宗全と名乗る)を中心としたグループが支援し、足利義視を細川勝元を中心としたグループが支援した。

 細川勝元の妻は山名宗全の娘で、それまで細川家と山名家の仲は良かったが、互いに守護としての領国を多く持っており、細川・山名の両家は室町幕府の主導権を握ろうとした。また同時に3管領家である斯波家と畠山家の両家で相続争いが生じ、この相続争いに山名宗全・細川勝元が絡み、ここに二大勢力が争う基盤が整い、応仁の乱の導火線に火がついた。

応仁の乱

 1467年。応仁の乱は始まったが、人世空(ひと・よ・むなしい)と覚えやすい。足利義政や足利義視は応仁の乱を引き起こすつもりはなかったが、山名宗全と細川勝元の二大の勢力が争い、互いに引き下がらなかった。山名宗全と細川勝元が争いの主導権を握り、それぞれの勢力は各地の大名・小名を陣営に引き込み、地方の勢力も自分の利益を守るためにそれに応じた。そのため戦いの規模は全国に広がっていった。応仁の乱は京都を舞台として11年間続き、日本は戦国時代へ進むことになる。

 初期の対立構造は次のようになる。
細川勝元方(東軍)・・・足利義政、足利義視、畠山政長、斯波義敏、武田信             賢、赤松政則、京極氏など16万人。
山名宗全方(西軍)・・・足利義尚、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏             など12万人。
 細川勝元は本陣を京都室町の幕府将軍の屋敷・花の御所におき、山名宗全は、花の屋敷よりも西側にある自分の屋敷を本陣とした。その位置関係から「東軍」「西軍」と呼ばれた。当初、足利義政と足利義視は細川勝元の側にいた。このことは応仁の乱における足利義政の優柔不断性と、従来から言われている将軍家の対立がそれほど深刻な問題ではなかったことがわかる。

 意外なことであるが、京都の室町では義政・義尚父子、日野富子や義視までもが起居をともにしていた。つまり歴史上は応仁の乱は将軍家の継承問題として有名であるが、将軍家同士は仲が良く、またそれほど勢力がなかったのである。さらに幕府は出征中の将軍の仮住まいを意味するが、将軍家は京都御所のはす向かいに住んでいた。現在では当時の建築物は残されていない。

 1467年1月の御霊社の乱後、表面上は平穏であったが大乱は既に潜行していた。3月の節句、山名持豊と畠山義就は花の御所の将軍家に参賀したが、管領・細川勝元は出仕せず秘かに兵を集めていた。4月に山名宗全の年貢米が山陰・山陽の領国から京都に運ばれる途中で細川勝元に奪われる事件が起きた。

 5月には失脚していた赤松正則が細川勝元の支援を受け、山名氏から旧領・播磨を奪還した。幕府は斯波義敏を越前・尾張・遠江の3ヶ国の守護に任じ、家督を奪われた斯波義廉は岳父山の名宗全を頼り、一色義直・土岐成頼らも味方にする。さらに伊勢貞親の助言で大内教弘の子政弘が赦免されると、これに反対する細川勝元も伊勢貞親に敵対し、貞親・真蘂・赤松政則らの失脚(文正の政変)に発展する。
 そして1467年5月26日、京でついに戦いが始まった。こうなると流石の将軍足利義政も無関心ではいられなかった。かねてから山名宗全の横暴を憎んでいた足利義政は細川勝元を支持し、弟の義視に山名宗全を追討するように命令を下した。このように義政と義視兄弟は対立しながらも反山名宗全で一致していた。


応仁の乱の経過

 最初の段階では、義政が幕府の牙旗(将軍旗)を東軍に官軍としての地位を与えていたたこともあり、東軍が勝利を収めていた。

 しかし同年8月、周防・長門の守護である大内政弘が大軍率いて西軍の援軍にやってくると、同年10月の相国寺の戦いで西軍は東軍を打ち破ってしまう。大内政弘は20万を超える兵を全国から京都へ集結させ、以後、東軍と西軍は二手に分かれて実に11年にも渡り戦い続けることになる。東軍西軍ともに勢力に差がなかったため、両軍ともに相手を打ち破れず、両軍は膠着状態になり京都は焼け野原になった。

 そのうちに「いつになったら将軍になれるんだ」と不安がっていた足利義視が西軍の誘いに乗り、足利義尚と義視の立場が逆転してしまう。つまり応仁の乱は名目上は足利義尚と義視の争いであったが、実際には細川家と山名家の勢力争いであった。

 応仁の乱の中心になったのは足軽と呼ばれる傭兵で、多くは武士の下層の浪人か農民だった。足軽は武士と異なり、逃げることを恥とせず集団戦を得意とした。自分の得する方へ簡単に寝が入り、京都では足軽の放火や略奪行為が目立ち、このため京都は無法地帯になった。応仁の乱では貴族や武士の屋敷、御所、寺院など3万件の家が焼け、京都は焼け野原となった。

 応仁の乱を引き起こしたのは八代将軍・足利義政の無責任と優柔不断であった。しかし足利義政は、飢饉のために都に餓死者があふれる中、物見遊山にでかけ為政者の責任を放棄し連夜の酒宴を催していた。応仁の乱は都を荒廃させる大乱であるが、足利義政は全く政治を省みなかった。応仁の乱の間、足利義政は将軍でありながら庭園作りや和歌に熱中し、現実から逃避していた。その集大成が京都の銀閣寺を代表とする東山文化である。また妻の日野富子は、だらしない夫・義政に代わって蓄財に励み。関所から税金を集め後世から批判されることになる。
 京都で争いをしている間に、守護や大名の地元では一揆が多発し、そのため帰国する武将が相次いだ。特に西軍に離脱者が多く、争いの当事者だった管領の斯波義廉も京都から撤退している。大内政弘も帰国のため帰り支度をするが、山口に帰るには播磨の赤松氏の領内を通過しなければならない。そのため東軍に降伏してしまう。
 やがて1473年に細川勝元と山名宗全が相次いで死去すると、まもなくして両軍は京から帰国して京都の戦闘はひとまず終わりに近づいたが、両軍の大名たちは帰京してからも地元で戦い続けた。

 足利義政は将軍職を義尚に譲り、やがて富子と別居する。野富子の実子・足利義尚が第9代将軍となったが、足利義尚には勢いはなく、義尚は酒食に溺れて政務を顧みず、富子を疎んじるようになり、やがて1489年に25歳の若さで早逝してしまう。悲嘆に暮れた日野富子は、かつて対立した義視と富子の妹の間にできた子・義材を10代将軍につけるが、義材もまた富子と対立し意のままにならなかった。そのため日野富子は細川政元(勝元の子)と共謀して義材の出征中にクーデターを起こす(明応の政変)。その後、義政の甥・義澄が11代将軍となり、義尚の死後わずか4年で将軍が2人変わったことから政局は混乱の一途を辿る。

 また将軍を守るはずの畠山、斯波などの各家も没落してしまっていった。室町幕府の権威は地に落ち、さらに地方では守護の家臣である守護代や地元の国人たちが力をつけ守護を追い出すようになった。こうして戦国時代と呼ばれる騒乱の時代へ突入してゆく。
 

日野富子

 日本三大悪女言うと北条政子、日野富子、淀殿の三人の名を挙げることが多いが、はたして彼女たちは悪女と呼べるのだろうか。北条政子は息子たちの将軍職を奪い、父を追放したが、それは北条家の安定のための冷静な判断であった。頼朝の浮気相手の家を打ち壊したことから過激な性格とされたが、当時の本妻としては当然の行動であった。頼朝が築いた鎌倉幕府を守ろうとする北条政子の気概と能力の高さは抜きんでていて悪女というよりは、稀にみる賢女あるいは猛女といえる。

 淀殿は徳川家康の再三の要求や和議を拒否し、そのため豊臣家は滅ぶが、それは淀殿のプライドの高さからきたのである。淀殿はある意味で戦国時代を終わらせた女性といえる。

 日野富子は様々な評価がなされているが、悪女とよぶにふさわしいとは思えない。日野富子は足利将軍家の夫人を代々送り出している内大臣・日野政光の娘として生まれ、16歳の時に8代将軍足利義政の正室になり、20歳の時に跡取りを出産するがすぐに死去している。日野富子は嫡男の死去を、足利義政の乳母で権力者の今参局の呪詛呪せいとして今参局は琵琶湖の沖ノ島に流罪とし、配流される途中で義政の母・日野重子が送った刺客に襲撃され自害ししている。さらに義政の4人の側室をも追放してしまう。この今参局の事件があったため日野富子は悪女とされたが、富子の人生の歯車が大きく狂わせたのは夫・義政に責任があるといってよい。

 足利義政は冨子がしばらく男の子を産まなかったため、まだ後継者の男子が生まれる可能性があるのに、義政は息子の出生を諦め、早々と弟・義視を口説き還俗させて次期将軍の地位を約束してしまう。しかしその翌年、日野富子が26歳のときに、後の9代将軍足利義尚を出産したため継承問題を生じでしまう。将軍義政が将軍の弟である義視を次期将軍に立てる約束をしていたことから混迷が始まったのである。

 日野富子は義視と対立した際に、強力な守護大名である山名宗全に義尚の後見役を依頼するが、これが応仁の乱の全国規模化につながってしまう。しかし日野富子にすれば、自分の息子を将軍にしたいと思うには、母親として当然のことであった。

 京都を焼け野原に変えてしまいまった「応仁の乱」の後に、義政が義尚に将軍職を譲ったため、8代将軍足利義政亡きあとに、日野富子が幕府の実質的に権力をにぎることになる。日野富子が行ったのは、敵味方を問わず金銭の貸付と米の投機などによる金儲けであった。

 幼い将軍は飾り物にすぎず、室町幕府は財源に困窮していた。そのため日野富子はなり振りかまわず、京都を荒廃させた戦いの最中でも蓄財に励んでいた。巨額の資産を手にした。京都七口に関所を設置すると関銭を徴集し、表向きのは内裏の修復費や祭礼の費用であったが、富子はその資金を懐に入れた。この異常なほどのカネへの執着に激高した民衆が徳政一揆を起こして関所を破壊した。しかし富子は財産を守るために弾圧に乗りだし、民衆や公家から恨まれることになる。民衆の不興を買いやがて後世の悪女評へとつながっていった。

 日野富子の節操のない金貸しは、対立している足利義視派の武将畠山義就にも軍資金を貸し付けたほどである。息子のためならば、また幕府の財政を考えれば、富子にできることは蓄財を肥やし、息子や幕府を立て直すことだった。将軍が飾り物になり、守護大名の発言権が強まるなかで、日野富子の利殖は女性として当然の行為と思える。日野富子は室町幕府を立て直すつもりはなかったが、日野富子の生き方は世の流れにそった女性として平凡すぎるくらい当然のことであった。

 日野富子は足利義政と別居し、その後義尚を指揮下に政治を行う。やがて息子の将軍足利義尚と不仲になるが、義尚が25歳の若さで病死し、さらに翌年には義政を失う。冨子は慣例では尼になり、普通なら念仏三昧の静かな日々を過ごすことになるはずだったが、世の無常を感じるどころか、敵対していた義視の息子である義稙(よしたね)を10代将軍に立てると義稙と対立して追放した義政の甥の義澄を11代将軍に立てた後、57歳で病死する。

 日野富子ほど生と金に凄まじいほどの執着をもった女性はいないだろう。同じ逞しい女性でも、日野富子の場合は北条政子のような政治理念がなかった。すべてが自分を中心とした権力の構造を死守することに生命力を発揮し、溺愛していた息子の義尚も自分に支障が出れば失脚させ、自分の権力の保持のため、昨日まで敵対していた有力者たちを平気で仲間に引き入れた。

 北条政子と比べると政治的スケールはまったくないが、女性としての生命力は溢れている。日野富子不幸は、政治に愛想をつかし芸術家肌であった夫の足利義政であった。夫の義政がもっとやる気のある男だったなら、富子は良き妻になれたかもしれない。日野富子への評価は歴史的には悪女であっても、女性の生き方としては行動力溢れる猛女であり、評価の違いは価値観の違いであるように思える。