平将門の乱

武士の誕生

 桓武天皇が平安を願って名付けた平安京(京都)であったが、その実態は「平安」とは名ばかりで治安は乱れに荒れていた。庶民にとっては地獄とも云える悲惨な状況にあった。桓武天皇が遷都や蝦夷の征討で国家財源を使いはたし、滅多に起こらない戦争に備えて軍隊を持つことを不経済として軍隊を廃止した。

 軍隊を廃止する替わりに京都には検非違使が置かれ、朝廷周辺ではある程度の治安は保たれていが、それでも流血は避けられなかった。死と隣り合わせの武士は「ケガレ者」として嫌われ、また嵯峨天皇が死刑を廃止したことからも治安は悪化した。

 検非違使がいる京都でさえも治安は荒れていたが、警察力のない地方ではそれ以上に治安は悪化した。地方の行政官として置かれた国司の関心ごとは、私腹を肥やすことばかりで、地方には警察力は存在しなかった。警察のいない世の中では、力の強い者が弱者を制することになる。強盗や殺人事件が頻発し、弱者は強者によって地獄のような日々を送ることになった。

 国司はもともと刀や弓矢を持つことは許されていなかったが、世の中が物騒になり強盗に殺される者がいるので国司も武器を持たずにはいられず、また農民から租税を取り立てるためには強い手下がいたほうが便利だった。そこで国司たちは刀を持ったり、兵士を従えることを許して欲しいと朝廷に願いでた。
 そのことから国司が任務先の土地へ行くときには、郎等を連れて行くようになりました。また各地の国司をつとめる人々の中にも、武士になる者が出てきた。こうして出来た武士の内でも、特に力の強いものはカの弱い農民たちから便りにされ、頭と仰がれるようになり、これを武士の棟梁よんだ。

 また地主の内でも特に、たくさんの田畑なもち、大勢の農民を使い、豪族と呼ばれるような勢いの強い者もあらわれました。豪族は下に幾人もの名主を従えていた。しかし治安の乱れた世の中では、自分の身は自分で守らなければならない。豪族たちは泥棒の用心をしなければならない。隣の豪族が領地拡大のため、攻め込んでくることもああった。

 自分の生命や財産を守るには自分自身が立ち上がって戦わなければならない。平安時代の中頃から、律令制に基づく土地制度が崩壊するなかで、貴族の子孫や地方の豪族たちは、その勢力を維持するため、あるいは拡大するために武装するようになった。有力農民たちも外からの侵略に対抗するために武装し、自衛のために武装集団を作った。これが武士団の起こりである。彼らは兵(つわもの)と呼ばれ、一族や郎党を率いて互いに争い、ときに国司を襲撃し、国家に対して公然と反逆するようになった。国司に雇われる者もいれば、上京して皇室や貴族に雇われる者もいた。

 たとえば天皇の身辺を守るため護衛係とし「滝口の武者」がいた。「滝口の武者」の名前の由来は、天皇の御所の滝の近くに詰所があったからで、滝口の武者は身辺の警護だけでなく、邪気払いの呪術的儀式、さらには教養や見た目が採用時に重視された。
 このようにして武士が誕生したが、任期制の国司も問題を引き起こした。任期制の国司は一定の年数が過ぎると都へ戻らなければならない。任期中に土地を開墾して巨利を得ても、任期が終われば開墾した土地を手放すことになる。そのことから任期が終わっても地方に居残って土着する者が現れた。やがて土着した中下流貴族たちが、自ら武装しあるいは武士を雇って勢力を高めた。

 武士の棟梁には藤原秀郷のような藤原氏からでた人もあれば、橘遠安のように橘氏からでた者もいた。武士の中でも特に有名だったのが、桓武平氏清和源氏の血統につながる者だった。源氏も平氏も皇族の子孫で、天皇の子は親王、親王の子は王と言い、それ以後五代目か六代目になると姓を与えられて皇族を離れるという決まりがあった。これが平安時代になると一代目で姓をもらって皇族から離れるものが多くなり、源氏も平氏もその1つであった。大豪族や任期を終えた国司と結びつき、強大な武士団を形成することになる。数多くの武士の棟梁がでているが勢いが強くなったのは源氏と平氏だった。
 東国の武士団は弓矢だけでなく、広大な領地を駆け巡ることから騎馬術を身につけていた。いっぽう西国の武士団は、船による戦闘術を身につける者たちが誕生した。東国の広大な平地に比べ、西国では川や瀬尾内海を通じてすぐ海に出られる場所から、この地理的条件が船を駆使しての戦闘という形態をつくった。

 桓武平氏の一族は東国に土着していたが、平将門は下総国を根拠地としていた。平将門は同族と争いを繰り返し、さらには国府を攻め落として反乱を起こした。同じ頃、伊予国(愛媛県)の国司・藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、国府や大宰府を攻め落とした。この戦いは「藤原純友の乱」と呼ばれて、同時期に起きたこの二つの反乱は、朝廷の軍事力低下をが明らかにし、この二つの乱は年号から承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう)と呼ばれている。
 武士の実力を知った朝廷は、彼らを侍(さむらい)として奉仕させ宮中の警備にあたらせた。つまり武士たちをガードマンとして雇うようになった。「さむらい」という言葉は「さぶらふ」が語源で、身分の高い人のそばで仕えることを意味している。また地方の国司も盗賊などを追捕するための追捕使や、内乱が起きた際に兵士を統率する押領使として武士を利用するようになった。平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷は押領使として、藤原純友の乱を鎮圧した小野好古は追捕使として戦っている。
 朝廷や国司は治安の維持のために武士を利用するようになる。武士の役目は朝廷の求めに応じて反乱を鎮圧することで、まだ朝廷を脅かすまでには至っていない。承平・天慶の乱から約100年後、藤原道長や藤原頼通らが朝廷貴族の栄華の頂点を極めたことが、まだ貴族の時代であった。武士の更なる成長は、藤原氏の栄華の時代の後にやってくる。

 余談であるが、平将門は若い頃に藤原忠平に仕え、その縁で滝口の武士として雇われている。朝廷に仕える武士であった将門が、やがては朝廷に対して反乱を起こしたわけで、何とも皮肉な話である。「滝口の武士」と紛らわしい言葉に、11世紀の北面の武士、13世紀の西面の武士があるが、その役割はほぼ同じである。


権力闘争

 宮廷では公家が和歌を詠んだり、夜這だけでなく、薄暗い権力闘争が常に行なわれていた。天皇は飾り物で、貴族たちに都合良く祭り上げられ、天皇は政治の実権を持たなかった。いわゆる象徴天皇である。

 政権を独占したのは藤原一門で、彼らは娘を天皇家に輿入れすることで「外戚」として政治を独占した。そのような藤原一門に挑戦した者は、菅原道真(大宰府に左遷)や伴善男(応天門の変)が示すように罠に嵌められ失脚した。

 それでも天皇の中には覇気を持つ者がいて「院政」という新たな政治手法を思いついた。すなわち、天皇を早めに退位すると上皇になり、藤原氏の手のとどかない隠居所で政治を行なうことになった。また藤原一門といえども、女子に恵まれずに天皇家との縁戚関係を維持できない時期もあった。このようにして少しずつ藤原一門の勢力は衰えていった。しかしこの権力闘争はいわば宮廷という「象牙の塔」の話であって、日本全体にとってはさしたる問題ではなかった。

 平安時代の貴族を恐れ驚かせたのは、平将門の乱藤原純友の乱である。この二つの乱は、同じ年に日本の東西でほぼ同時に起きたことから、お互いに何らかの約束があったのではないかと噂を呼んだ。歴史小説では、比叡山で二人が将来の日本を相談する場面が有名であるが、そのようなことはない。

 

平将門の乱
 桓武天皇の子孫である平将門は、939年に常陸の国府を攻め落とすと、朝廷に反旗を翻し関東を支配下に収め、自らを「新皇」と名乗った。将門の乱はいわば軍事クーデターで、武士が歴史上初めて表舞台に登場し、歴史上初めて新皇を名乗った画期的事件であった。この反乱のきっかけは、叔父・良兼との領土や女をめぐる争いであったが、中世における武士の特徴とあわせて事件の概要を述べる。

 

高望王

 高望王は平安京へ遷都したことで有名な桓武天皇の曾孫で、平姓を賜って坂東へ下った。この当時、郡司や国司は国の役人であり任期が切れれば京に戻らなければばらなかった。しかし任期切れの郡司や国司は、自分たちの勢力を保つため任地に留まり続けた。あるいは中央貴族たちが地方の豪族なった。彼らは国司の命令に従わず、さらには武力蜂起に至る事件が頻発していた。

 平高望(高望王)が派遣された坂東は、そのような反朝廷の豪族による事件がとくに多く発生していた。平高望は治安の悪化が著しい坂東に行き、地域の安定化と反朝廷の豪族による武装闘争を鎮圧するために送られた。平高望が坂東に下向したのは、朝廷の地位を放棄したことになるので左遷であるが、もし実績を上げれば京都の貴族社会での失地回復することが期待された。
 当時は、有事が起きれば朝廷が指名した国司が指揮をとって兵士を動員して鎮圧していた。国司は他国の兵士を集めることができたが、それでも国司に逆らう反朝廷の豪族がいたのである。平高望(高望王)が派遣されたのは、現地の国司と協力して反朝廷の豪族を支配下に取り込み、従わない者は鎮圧して治安維持を図ることだった。
 当時の朝廷は、地方の政治は国司にまかせたままであった。国司は税さえ国に納めれば、あとはやりたい放題で、国司は勝手に税率をかえ、自分の財産を増やし、任期が切れても居座り続け財力と武力を蓄えた。このような状態だったため、地方の治安は悪化し、様々な人たちは武装して小武士となった。

 また国司となった中・下級貴族がそのまま居座り、小武士をまとめて武士団の棟梁となった。その代表が桓武天皇の血を引く桓武平氏、清和天皇から出た清和源氏である。

 平将門は桓武天皇の子孫であった。平将門の祖父・平高望(高望王)は上総の国司に加え、常陸国の前の国司である源護の一族と姻戚関係にあった。国司として国家権力の一端を担いながら、現地の諸勢力とも協調関係を維持していた。将門と争うことになる叔父の平国香や平良兼らも源護の一族と姻戚関係を維持していた。
 このように祖父・平高望(高望王)は上総国の国司として赴任するが、任期後もその地に居座り、勢力を拡大するため武士団を形成していた。平将門の父・良将(よしまさ)は下総国佐倉に所領を持ち、強大な勢力を手に入れ、その子の将門は朝廷の官人であり太政大臣・藤原忠平に使えていた。

 地方での活動を円滑に行うためには、近隣の国司との関係を良好にするため、国司や有力豪族と姻戚関係を持ち、さらには国司を左右する有力な中央貴族との提携が必須であった、所領地を維持するには地方での活動はもちろんのこと、京における政治的な地位の確保も欠かせなかった。つまり平将門の父親は坂東を経営し、息子の平将門は在京活動を行っていたのである。

 つまり関東に下向した平氏は、当初から朝廷の権威・権力に依存していた。これは古代から中世にかけての武士の特徴であったが、父・良将の死をきっかけに相続争いが起こきた。

将門

 将門は父・良将の死去の知らせ京で知ると、京での生活を止め地方に所領する土地を維持するため帰郷した。すると父の所領地の多くは伯父の平国香や良兼、叔父の良正らに横領されており、さらに将門が愛した常陸の前国氏の娘は叔父・良兼のものになっていた。これが将門とその一族との長い抗争のはじまりとなるが、このような一族内部での争いは当時の地方武士としては珍しいものではなかった。
 叔父たちのなかでも、平良兼とその姻戚である前常陸大掾・源護の一族は、とりわけ激しく抗争を繰り広げられた。この抗争は拠点となる集落を焼き払い、
互いの一族が殺し合うなど凄惨を極めた。将門はこの抗争で叔父の平国香を殺害した。

 935年、平将門は叔父・平国香を殺害したことにより、罪人として取り調べのため上京を命じられたが、罪はいったん許されて帰郷する。しかし殺害された平国香には息子・貞盛がいた。貞盛は将門との争いには消極的であったが、父を将門に殺された貞盛もまた叔父たち一族との戦いへ身を投じることになる。

 一族内部で所領をめぐる争いを繰り返すことは武士の特徴であるが、このような一族の抗争はたとえ大規模であっても私戦であり、抗争自体は朝廷の追討となる公戦にはならなかった。この時点では、誰もが国家への反逆者ではい。

 しかし939年、罪を犯した平国香の息子・平貞盛を匿っていると、平貞盛の引渡しを常陸国府が求めてきた。平将門は国府に許しを請うが断られたため、平貞盛を守るため国府を攻撃した。この平貞盛が、後に藤原秀郷の協力を得て将門を討つことになる。

 国府は朝廷の出先機関である。国府を攻撃すれば、朝敵となり朝廷が黙っているはずがない。国府が敵対勢力を「朝廷に仇をなすもの」と訴えれば、朝廷による追討(公戦)が発動されることになる。朝廷から追討使が派遣され、国司を含む近隣諸勢力の支援も合流して戦いが進められることになる。

 朝敵にそうなれば、より容易に敵対勢力を駆逐することがでた。そのため両陣営とも相手が国司の命令に従わないと、朝廷に訴え出る工作を行っていた。このような経緯による朝廷からの追討命令は、私戦の延長であっても公戦と見なされものが少なくなかった。

 伯父の良兼や源護一族との抗争も将門優位で終息に向かっていたが、武蔵国では別の争乱が勃発した。

 新任した武蔵権守・興世王と武蔵介・源経基が、武蔵国足立郡の郡司・武蔵武芝と諍いを起こしたのである。

 将門は「武蔵武芝は自分の近親者ではなく、興世王・経基も自分の兄弟ではないが、両者の紛争を鎮める」と称して武蔵国に出向き、武蔵国府で興世王と武蔵武芝を会見させ、両者による紛争を調停したのである。この時、経基は京へ逃亡した。

 地方における紛争の当事者は、それぞれ別々の貴族に訴え出ることができ、地方で起きた紛争が中央の貴族同士の対立に発展することがあった。地方における紛争の調停に貴族が関与したのである。

  坂東の平氏一族の抗争は将門優位であったが、武蔵国における将門の調停は越権行為とされた。興世王と武芝との調停により、将門は両者を従属させたとみられ、とりわけ興世王は将門が後に坂東諸国を制圧した際には、みずからの政治的立場を利用して、対立する二者間の紛争に介入した。

 さらに京都に逃亡した経基は、将門、興世王、武芝らの行状を朝廷に訴え出た。これを受けてかつて将門が家人として仕えていた太政大臣藤原忠平が調査に乗り出したが、将門は自らの上申書に坂東五カ国の国司の証明書も添えて提出し、謀反の疑いを晴らすことに成功した。訴え出た経基がむしろ誣告(ぶこく)として罰せられたのである。

 朝廷では坂東における将門の名声を承認し、その功績の評価が審議された。この間の経緯が将門に都合良く運んだのも、将門がとりわけ太政大臣・藤原忠平との政治的提携を保持していたことが大きく作用したのである。
 その後、武蔵国では権守・興世王と武蔵守・百済貞連が再び対立し、興世王が将門のもとを頼ってきていた。同じ頃、常陸国では富豪層とみられる藤原玄明が常陸介・藤原維幾と対立し、玄明もまた将門のもとを頼ってきた。いまや将門は、坂東の諸勢力から頼りとされる存在となっていた。

朝敵

 藤原維幾は玄明の引き渡しを要求するが、将門はこれを承知せず両者は対立した。将門と玄明は維幾を常陸国府に追い詰め、国府の周辺を襲撃し、印鎰(国司が使用する印と国倉の鍵)を奪うに至った。
 国府への攻撃は朝廷への攻撃を意味する。将門はそれまでの一族同士の戦いでは国府への攻撃を慎重に避けつつ、戦いを「私戦」の枠内に留めていた。常陸国司である藤原維幾と対立する藤原玄明との「私戦」に介入したことが、結果的に常陸国府襲撃に繋がったのである。

 この攻撃は朝廷への敵対行為であり「謀反」と見なされて、近隣諸国の国司からはただちに京都へ報告された。将門本人に対する調査は行われず、朝廷が鎮圧に乗り出す「公戦」と認定され、ついに将門は追討の対象となった。
 常陸国府を襲撃した将門に、興世王は「一国の占領だけでも罪は軽くない。同じことならば、坂東諸国を占領すべきである」と進言し、軍を進め下野国・上野国の国府をただちに占領した。「毒を食らわば皿まで」といったところである。
 このときに本来は朝廷が行う人事を
将門が行い、坂東諸国の国司を任命し、さらに八幡大菩薩の使者と称する一人の昌伎(巫女)が現れ、将門は「新皇」を称するに至った。将門は自らを「新皇即位」としし、将門の居所を「都」した。このような見解は明確な反朝廷を示すものであった。
 将門は自らの存立のためには中央貴族や国司との政治的提携が必須である地方の富豪層に過ぎなかった。いかに将門の支配領域が拡大しても、そのことに根本的な変化はなかった。
 
将門は朝廷に対抗して「新皇」を自称したが、これを伝える将門記が文飾に満ちた作品であって、事実を描いているとは言えず、その評価についても意見が分かれている。将門の乱はそれに関する史料が限られているため、よく知られている事件であるにもかかわらずその実態は不明な点が多いのである。

 「新皇」の自称も突発的なことであったと見られる。たとえ実際に巫女の宣託が行われていたとしても、将門と彼の支持勢力の存在形態自体に大きな変化はないのだから、宣託を受けての「新皇」「即位」という一連の流れを真実とすることはできない。
 「八幡大菩薩」の使者と称する託宣を受けた将門は、貧者が冨を得たが如くに意気盛んとなり、将門自身は「新皇」を自称したとされるが、一族間の「私戦」の経緯の説明と、常陸国衙襲撃において自らに罪はないとする弁明、坂東諸国を占領したことに関する開き直りとも取れる文言が並んでいた。

 また将門は国を危うくする陰謀の片鱗を示したものの、その一方で主君である太政大臣藤原忠平への恩義も忘れていないとする文言も明記されている。勢いに任せて常陸・下野・上野の国府を占領したが、この段階に至ってなお中央との連繋を重視し、それを維持しようとしていた。この奏上から「将門が坂東を独立国にしようとした」との意図を読み取ることはできない。
 「将門記」に描かれる将門の「新皇」自称も、将門の指導的立場が坂東の諸勢力のなかで承認されたことを象徴するものと理解すべきである。坂東諸国の豪族もそれぞれが各地で「私戦」の当事者で、朝廷との連繋が良い将門と結合することで利権の拡大を図りつつ、勢いに乗じた将門に味方することで、自らと競合する勢力の駆逐を目論んだ者も多かったのである。

 将門を滅ぼすのが同じく坂東にいた藤原秀郷であったように、この段階に至ってもなお将門とその支持勢力は、坂東全域を一元的に支配していたわけでもない。
 とはいえ、将門の勢いを恐れた坂東諸国の国司らは任国を捨てて逃亡し、将門は武蔵国・相模国なども次々と従え、実効支配の地域を拡大していった。
 平将門はもともと自尊心が強く、桓武天皇の血筋を引く自分こそが正当な王権を持つとして
「天皇に代わり日本の頂点に立つ」と宣言した。平将門は関東八カ国の国府を次々に攻撃して国司を追放すると、自らを「新皇」と名乗った可能性が高い。関東地方を治め、独立地方政権を作り上げたが、将門は朝廷の敵とみなされ将門討伐令が発布された。

 朝廷は比叡山延暦寺で将門の調伏を祈らせ、平定のため伊勢神宮に奉幣する。このように平将門は朝敵となり、朝廷は必死に祈りに頼ったことは、将門がいかに非凡で強かったかを示している。

 朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し、鎮圧の為に派遣した。結局は朝廷軍が到着する前に平将門は地元の武士、藤原秀郷平貞盛によって打たれた。

 940年2月14日。将門は甲冑を身につけ出陣する。通常ならば8000人前後の兵だが、この日は400人ほどの兵士しか集まらなかった。

 将門は猿島郡の北山を背にして陣を張り、貞盛と秀郷を待っていた。そして戦いは、午後3時頃始まった。

 この日は大風が吹き、砂埃が舞い将門軍は追い風を得て、一方の貞盛・秀郷軍は風下に立った。当時の合戦は弓矢が主だったので風上にたつことが絶対有利となった。将門軍の楯は前向きに倒れ、貞盛・秀郷軍の盾は後向きに倒れた。貞盛・秀郷軍は劣勢になり将門軍は馬上から敵を討った。その数80人ほどの兵で追撃して圧倒した。将門軍が攻めよると貞盛・秀郷・為憲の兵2900人は皆逃げ出し、残ったのは兵は300人ほどであった。彼らは逃げ回りながら追い風が吹くのを待っていた。将門が本陣に引き揚げると、突然風向きがかわった。

 今度は風下にたち、将門軍が不利な戦況になった。 将門は「どころからでも射抜いてみよ」と云ったが、 藤原秀郷はすかさず矢を放ち、その矢は将門様の眉間を射抜いた。将門の独立国家、新皇への夢は終わった。

 

平将門の呪

 平将門は数に勝る藤原軍に勝てず、歴史に残る最初の晒し首になる。京都・三条河原の晒し首は、毎夜青白い光を放ち「わが胴体はどこにある。ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう」と叫び、さらにいつまでたっても腐ることなく、まるで生きているようであった。そして晒し首になっている首だけが京の空を舞い、自分を裏切ったものの首や腕を食いちぎって関東に飛んでいった。

 その首が落ちたところが現在の東京都大手町にある平将門の首塚で、胴体が埋まっていたところが皇居近くの神田明神とされている。さらに将門の愛馬の死骸が埋まっているところ、将門が戦勝を祈願した刀が埋まっているところ、さらには将門に従って討ち死にした者たちが眠る場所など、様々な場所が「平将門の怨霊の地」として残っている。 

 東京の大手町に平将門の首塚がある。平将門の乱で敗れた将門の首が飛んできて、首を洗ったのが「首洗いの井戸」、その首を埋葬した場所が「首塚」である。これらは伝説にすぎず、平将門の首が埋葬されているかはわからないが、この首塚をめぐって平将門の祟りと思える出来事が起きている。
 徳川の重臣の大久保家は藤原秀郷の子孫にあたるが、江戸城拡張工事で神田明神の移転を移転を企画した大久保忠世はすぐに病死し、嫡男忠隣は事件に巻き込まれ死亡しているている。大正12年、関東大震災により大手町一帯が瓦礫の山となったため、国は首塚を取り壊し、土地を整理して大蔵省仮庁舎を建設した。平将門の首塚の上に大蔵省の仮庁舎を建てる計画であった。しかしその直後から当時の大蔵大臣をはじめ、大倉幹部や工事関係者が14人が亡くなっている。いずれも平将門など落ち武者などに殺される夢にうなされての変死。あるいは事故死だった。さすがにこれは不吉ということで工事は中止となった。
 さらに太平洋戦争直後、平将門の首塚を取り壊す計画が持ち上がり、アメリカ軍がその場所を整備して駐車場にしようとすると、工事中にブルドーザーが横転して運転手の男性が死亡した。アメリカ軍も平将門の祟りを聞かされ、首塚の取り壊しを中止した。

 現在でも、隣接するビルは、平将門の首塚を見下ろすようなことのないように、窓は設けていない。またビルは管理職が首塚に尻を向けないように、特別な机の配置がされている。 

 またこの首塚などを含めて、平将門ゆかりの神社として「鳥越神社」「兜神社」「神田明神」「将門首塚」「筑土八幡神社」「水稲荷神社」「鎧神社」があり、これらをすべてつなぐと北斗七星の形になるとして有名である。それらの神社で平将門の名誉を傷つけると死を賜るということになる。このように日本三大怨霊とされるのが平将門の他、菅原道真崇徳上皇である。

 

 

藤原純友
 この平将門の乱と同じ時期に、瀬戸内海では藤原純友が海賊を率いて反乱を起した。こちらは源経基(つねもと)によって鎮圧されている。平将門の乱と同じ939年に、瀬戸内海沿岸で藤原純友の乱が起きる。この二つの朝廷に対する反逆を「承平・天慶の乱と呼ぶ。朝廷の権威に抵抗する武装勢力が同時に発生したことは、公家政権の統治力の衰えを象徴する出来事であった。

 藤原純友は藤原北家(藤原冬嗣・長良)の血統を継ぐ中級貴族だったが、父の藤原良範を早くに亡くし、中央での出世を諦め地方官の伊予掾(いよのじょう)の任務に就いていた。当初は伊予掾として瀬戸内海の海賊を鎮圧する役目を忠実に果たしていたが、瀬戸内海沿岸の海賊や地方官をまとめた藤原純友は、自分が海賊の首領となって海賊行為を指揮するようになった。海賊鎮圧のための純友が、朝廷の命令を無視して海賊行為を指揮したのである。朝廷は追捕使長官・小野好古、征西大将軍・藤原忠文らに純友の征伐を命じた。

 しかし藤原純友の反乱勢力は強く、約2年間にわたって日振島(ひぶりじま)を拠点に抵抗し、瀬戸内海の安全を脅かした。伊予国警固使に橘遠保が任命され本格的な追討が始まり、藤原純友の軍勢が弱まってくると、940年に橘遠保によって純友・重太丸父子は捕縛されて処刑され、藤原純友親子の首が朝廷に届けられた。指導者を失った海賊勢力はその力を弱め、翌941年には瀬戸内海の安全が確保された。

 瀬戸内海沿岸を勢力圏とした藤原純友の乱は、九州地方にも到達するほどの勢いで大宰府追捕使の軍勢も純友に敗れている。平将門の乱を鎮圧した朝廷が、軍勢を集中させ純友の反乱も鎮静化した。藤原純友は、平将門と違い「独立国の建設」との意図はなかったが、瀬戸内海の大勢の海賊を味方につけたことで反乱が長期化した。この平将門の乱と藤原純友の乱はどちらも武士によって鎮圧され、武士のもつ力が注目されることなる。

 公地公民制は崩壊し、民生を掌るのは荘園領主と武士団だった。平安末期になると武士団は源氏と平氏の二大勢力になった。清和天皇の後裔を自認する源氏は東国でその勢力を伸ばした。その契機となったのが、いわゆる「前九年後三年の役」(1051年)である。陸奥(岩手県)の大豪族、阿部頼時の反乱を鎮圧するために出陣した源氏勢力が、9年の歳月をかけてこれを滅ぼし、その後、阿部氏に代わって権勢を誇った清原氏の内部抗争を3年かけて鎮定した。この功績を立てた源義家(八幡太郎)は源氏の守護神となる。

 いっぽう桓武天皇の後裔を自認する平氏は西国で勢力を伸ばした。その契機となったのが、大海賊・藤原純友の反乱であった(941年)。武力を持たない朝廷は、地方の戦乱を有力な武士団に委ねざるを得なかった。そのため反乱が頻発すれば、朝廷の権力が次第に武士に蚕食されていった。やがて朝廷の皇族や貴族たちは、自分たちの権力争いに源氏と平氏の武力を利用するようになる。こうして起きたのが「保元の乱」と「平治の乱」 である。その結果、朝廷の実権を握ったのは平清盛であった(1167年)。朝廷内の権力争いは武士に国の実権を奪われる形で終結した。

武士団の結成

 平将門の乱から約90年後の1028年、将門の遠縁にあたる平忠常が強大な武力を背景に上総国で反乱を起こした。乱は3年続いたが、清和源氏の血を引く源頼信によって倒された。この戦いを平忠常の乱という。平忠常は平将門の乱よりも大規模で長期化したが、平将門の乱ほど有名ではない。それは平将門のカリスマ性にもよるが、平将門が新皇を宣言したことが大きい。

 

清和源氏

 清和源氏は10世紀前半の武将で、藤原純友の乱の鎮圧に参加して名をあげた源経基を始祖としている。源経基の子である源満仲は摂津国多田(兵庫県川西市)に土着していたが、969年に起きた安和の変(あんなのへん)で謀反を密告し、源高明を失脚させた功績によって摂関家に接近した。

 源満仲の子の源頼光は各地の国司を歴任し、その際に蓄えた財産を利用して藤原道長の側近として仕え武家の棟梁としての地位を高めた。源頼光の弟にあたるのが、平忠常の乱を鎮圧した源頼信であった。忠常の反乱によって平氏の勢力が衰えた一方で、源氏は頼信の活躍によって東国における勢力を広げることになった。

 平安時代の後半から武士が少しずつ実力を蓄え、東国をはじめとして各地で勢力を広げていくが、これらは突然に起きたのではなく、このような様々な出来事が重なりあって自然と拡大していった。

 平安時代初期に坂上田村麻呂によって蝦夷が征服されて以来、東北地方は陸奥と呼ばれ、朝廷の支配下に置かれたが、この頃の東北地方は金や銀などの貴金属や、毛皮などの珍しい物産がとれ繁栄を極めていた。このような豊富な経済力に支えられ、東北地方では太平洋側を安倍氏、日本海側を清原氏が支配していた。

 1051年、安倍氏の棟梁・安倍頼時が反乱を起こした。朝廷では源頼義を陸奥守・鎮守府将軍に任じ、頼義の子である源義家とともに鎮圧を命じた。しかし朝廷側についていた藤原経清(つねきよ)の寝返りもあって朝廷側は苦戦した。

 源頼義は同じ陸奥の豪族・清原氏に協力を求め、清原氏がこれに応じると戦局は一変し、1062年に安倍氏と藤原経清が滅ぼされた。1051年から1062年まで続いた安倍氏による一連の反乱を前九年の役と呼ばれている。

 安倍氏の領地は清原氏に与えられ、清原氏が事実上の東北地方(陸奥)の覇者となった。前九年の役に朝廷に味方した清原氏は、陸奥一体の支配権を与えられ、棟梁の清原武則が鎮守府将軍に任ぜられた。前九年の役は清原氏にとって最大の利益をもたらし、また滅ぼされた藤原経清の未亡人が、清原武則の子の清原武貞の妻として迎えられた。

 清原武貞には既に嫡子(跡継ぎ)である清原真衡がいたが、未亡人と藤原経清との間の連れ子である清原清衡を養子とし、また未亡人との間に清原家衡が生まれた。武貞の子はいずれも父親もしくは母親が異なるという複雑な関係となり、兄弟同士の不仲をもたらした。

 兄弟同士の不仲が清原氏の内紛を引き起こし、ついには兄弟同士での戦乱になった。1083年から1087年まで続いたこの戦いのことを、後三年の役という。さて、この内紛に乗じて陸奥の支配を目指した源義家は、朝廷から陸奥守を拝命して後三年の役に積極的にかかわった。

 戦いは1087年に藤原経清の遺児である清原清衡が勝利しに終わるが、清原氏の私闘に参加しただけの源義家には朝廷から恩賞は与えられず、陸奥守の官職も1088年に辞めさせられた。途方に暮れた義家は、自腹を切って部下に恩賞を与えたが、皮肉にもこのことで義家は東国の武士たちの心をとらえ、源氏を棟梁と仰ぐ信頼関係が生まれた。前九年の役は11年、後三年の役は4年続いているのになぜ「九年」「三年」と名づけられているかについては、様々な説が挙げられている。

 後三年の役の勝者となった清原清衡は源義家が東北を去った後に藤原氏に復姓し、豊富な資金力で、朝廷から陸奥の支配権を認めてもらった。

 藤原清衡は奥州の平泉を本拠地として陸奥を完全に手中に収め、清衡の子である藤原基衡(もとひら)、さらに基衡の子である藤原秀衡(ひでひら)の三代、約100年にわたって奥州藤原氏が全盛を極める礎を築いた。

 

桓武平氏

 平氏は平忠常による反乱以来ふるわなかったが、伊勢平氏が次第に頭角を現した。平正盛は源義家の子・源義親(よしちか)が1107年に出雲で反乱を起こした際に滅ぼし、白河法皇の厚い信頼を受けて北面の武士として登用された。平正盛の子の平忠盛も瀬戸内海の海賊を討ったことで鳥羽法皇に信頼され、武士として初めて昇殿(朝廷の内部深く入ること)を許された。

 忠盛が西国を中心に多くの武士を従えて、平氏繁栄の基礎をつくった一方で、源義親の乱が起きてからの源氏の勢力は衰えを見せ始めした。

平清盛

  平清盛は武士が「王家の犬」と呼ばれ、藤原摂関家をはじめとする貴族たちから蔑まれていた。平清盛の功績は、それまでの藤原氏が中心の政治から武士が中心の政治へと変化させたこと、武力に経済力があれば貴族などひとたまりもない。平清盛以後、天皇や貴族は形ばかりの存在となり、政治権力は武士へとうつっていく。ただ皮肉なことに平清盛は、武士でありながら貴族化し、このことが武士たちの大きな反感を買うことになる。

 平清盛は平忠盛の長男として育つが、白河院と舞子の子との噂があった。それを知った平清盛は朝廷に仕える父忠盛への軽蔑から荒れた少年期を過ごた。元服後も家を飛び出して西海で海賊退治をしていたが、都に連れ戻されて鳥羽院の北面の武士になり朝廷や貴族たちの実態を知る。武士が蔑まれる世の中であったが「面白く生き、力をつける」ことを信条とし、宋の文物など新奇なものに惹かれ、旧い権威や迷信を嫌った。
 父忠盛が死後して平氏の棟梁となると、鳥羽院に忠誠を誓う。保元の乱では後白河へ参陣し、勝利すると、信西の命に従って崇徳院方に着いた叔父・忠正の一党を処罰する立場になる。

 実権を握った信西と組んで順調に出世する清盛に対し、冷遇される義朝は不満を募らせ、遂に反信西派の誘いに乗って行動を起こす。平氏と源氏、決着の時が迫っていた。平清盛は信西と組んで財力と兵力で支えが、信西に依頼されて熊野詣ででた最中に義朝らが謀反を起こした。信西を救うために都に急行するが間に合わず、源氏との決着をつけることとになる。恭順を装って源氏方の油断を誘い、後白河院と二条帝を救出した。謀反人追討の勅を得ると直ちに行動し源氏軍を打ち破る。
 戦後は源氏の残党の根絶やしを指示するが、池禅尼の懇願や常盤の姿に実母・舞子の姿を重ねてしまったことから頼朝や常盤の子らの命を助けてしまう。
 二条帝の信頼を得て武士で初の公卿に上り、宋との交易を中心とした新しい国作りを目指すが、保守的な公卿たちの反対に遭い力を得ることを欲する。その野心に気付いた後白河院によって実権の無い太政大臣に据えられるが、在任中に一門の者達を次々に公卿に上らせ平家の権力を磐石なものとする。 

 保元の乱や平治の乱は、皇室や貴族内部の争いに武士が本格的に関わったことで、その後も武士が積極的に政治に介入するようになった。また平治の乱で後白河上皇は近臣だった信西と藤原信頼を失い院政の影響力が薄れ、平清盛の実力が高まることになる。

 1160年、清盛は正三位に昇進して武士でありながら公家の身分を得ることになった。それまで貴族から見下されていた武士が、初めて貴族の仲間入りをしたのである。12世紀終盤の政治は平氏一門に握られた。清盛は朝廷内に入り込んで、自分の娘を天皇に嫁がせる方法で政権を掌握し、平氏一門を朝廷の要職につかせた。これは従来の藤原氏と同じ方法である。

 1161年、清盛の妻の妹で後白河上皇に嫁いでいた平滋子が憲仁親王(のりひと)を産んだことで、後白河上皇との縁が近くなり朝廷での信頼を得た清盛は出世街道を歩むことになる。

 1167年には清盛は太政大臣に昇進し、翌年、憲仁親王を即位させて高倉天皇にすると、自分の娘である平徳子と結婚をさせて二人の間に言仁親王(ときひと)が誕生する、この言仁親王が3歳の時に第81代の安徳天皇として即位させ、清盛は天皇の外祖父(母方の祖父)となった。

 平氏の下には全国から500ヶ所以上の荘園が集まると同時に、平氏が支配を任された知行国も全国の半数近い30数ヶ国にまで拡大して経済的な基盤が強化された。このような政治的・経済的な背景によって、武士(平氏)が朝廷にかわって初めて政治の実権を握ることになる。 平氏政権は武士による政権であったが、平清盛が安徳天皇の外祖父となり、平家一門が次々と朝廷の要職に就き、貴族的な摂関家の性格をもつようになった。

 ただ清盛が藤原氏と違うのは、海外交易で日本の国富を増そうとしたことである。日本の外交政策は外国との窓の閉開のを繰り返すだけであった。古代は開きっ放しであったが、白村口の戦いで朝鮮半島の拠点を失ってからは朝鮮との扉は閉めたままであった。それでも奈良時代に「遣唐使」という形で中国に連絡船を派遣し、世界的先進国であった唐帝国からの文物の導入に努めた。科挙に合格して中国の官僚になった阿部仲麻呂や、密教の摂取に勤めた空海や、渡来僧の鑑真などが活躍した。

 しかし唐が「安史の乱」で混乱状態になると、朝廷は菅原道真の建議を受けて「遣唐使」を廃止した。その後はすでに受け入れていた外国文化を日本流にアレンジする日々であった。日本は四方を荒波に囲まれ、自分の都合に合わせて閉じたり開けたりすることが出来た。

 我が国と宋とは正式な外交を持っていなかったが、以前から民間の交易は盛んに行われていた。清盛は摂津国の大輪田泊(神戸港)を修築し、音戸の瀬戸(呉市)の海峡を開き、瀬戸内海の航路を整備して念願の貿易の拡大に努めた。 平清盛は海外との交流を、文化ではなく経済交流という形で開こうとしていた。宋に貿易船を送るとともに、都を京都から福原(神戸)に遷すことまで行った。清盛は日宋貿易という大きな経済的基盤を十分に活用した。日宋貿易によって巨方の富を得た凊盛は、世界遺産である安芸厳島神社を増設し、京都三十三間堂などを造営し、兵庫兵庫の港を修築するなど栄華を極める。 後白河法皇に義理の妹を嫁し、高倉天皇をもうけさせ,その高倉天皇に自分の娘を嫁がせる。最盛期の平氏は全国66ヵ所中、30以上もの知行国主となり荘園500以上を所有するにいたった。

 貿易の輸出品は金や水銀、硫黄などの鉱物、刀剣などの工芸品、あるいは木材などで、主な輸入品は宋銭や陶磁器、香料や薬品、書籍などであった。特に宋銭は我が国の通貨として流通し、貿易で得た莫大な利益は、そのまま平氏の財源となった。

 このように平氏による政治的・経済的体制の独占は周囲の反発を招いた。平氏政権に反発する勢力には後白河法皇もいた。後白河法皇は自分の院政強化のために武士を雇ったはずが、その武士に政権を奪われたことを不満に思っていた。自分の院政の強化のために警備員として武士を使ったはずが、いつの間にかその武士に政権を奪われたことを不満に思われていたのである。

 1177年、後白河法皇の近臣たちが京都の鹿ヶ谷(左京区)に集まり、平氏打倒の計略をめぐらすが、事前に発覚して失敗に終わった。(鹿ヶ谷の陰謀)

 この計略の背後に後白河法皇がいたことを知った清盛は激怒して、軍勢を率いて後白河法皇を幽閉して院政を停止しさせ、近臣たちの官職をすべて解くなどをおこなった。この事件を当時の年号から治承三年の政変といい、清盛の孫の安徳天皇が即位したのは翌年(1180年)のことである。

 清盛は後白河法皇と反対勢力を封じ込め、平家と血のつながりのある天皇を立て、官職を一門で固めた。清盛にすれば平氏政権を危うくした後白河法皇なので、法皇のかわりに平家と血のつながりのある天皇を立て、反対勢力を封じ込めて一門で官職を固めるのは当然の防衛手段といえた。しかしその専横政治と法皇を幽閉する横暴な手段は周囲の更なる反発を招いた。後の世で足利尊氏や織田信長が同じように武士の身分でありながら皇室と対決状態にあっても、非難の声が平氏ほどなかったことを考えれば、まさに開拓者ゆえの辛さともいえた。

 さらに平氏政権には清盛自身が気づいていない重大な欠陥があり、それが後の平氏滅亡へとつながっていった。それは武士たちの不満であった。

 平安時代の初期に桓武天皇によって軍隊が廃止され、特に地方では無法状態といえる状態になり治安は極端に悪化した。人々は自分や家族の生命、あるいは財産を守るために武装化するようになり、やがて武士という階級が誕生しました。 そのような武士たちにとって、深刻な問題となったのが土地制度の大きな矛盾であった。公地公民制の原則が崩れ、墾田永年私財法によって新たに開墾した土地の私有が認められたが、その権利があったのは有力貴族や寺社などの限られた勢力のみであった。

 実際に汗水たらして開墾したのは武士たちであった。耕した土地を一所懸命に守り抜くために武士となった人々であった。しかし法律では武士たちには土地の所有が認められず、仕方なく摂関家などに土地の名義を移して、自らは「管理人」の立場をとるしかなかった。つまり武士は実質的には自分たちの土地であっても、正式な所有者にはなり得なかった。こんな不安定な、人を馬鹿にした話はない。「開墾した土地は、自らの手で所有したい」。これが武士たちの切実な願いであった。

 全国の武士は平清盛をはじめとする平氏政権の誕生によって、同じ武士の平氏ならば、自分たちの期待に応じてくれると固く信じていた。ところが平清盛の父である忠盛は、白河法皇や鳥羽法皇の護衛として長年仕え、皇室や貴族と接することの多かった平氏には、「武士のための政治」がどのようなものかが理解できなかった。さらに清盛が、自分の娘を高倉天皇の嫁にして、生まれた皇子を安徳天皇として即位させ、自らは天皇の外戚(がいせき、母方の親戚のこと)として政治の実権を握るという、摂関家と同じ方法をとったが、これが大失敗だった。

 平清盛の政策は朝廷と貴族側に偏り、武士団を軽視していた。しかしこの時代は「各地の荘園の実質的権力者である武士団が、法的には貴族の奴隷に過ぎない」という武士の軽視の傾向にあった。

 しかし武士たちの不満は、武士のリーダーである清盛がこの問題を解決せずに、自らが貴族社会の一員となっていることにあった。平氏が摂関家の真似をしても、武士たちには全く変化がなかった。平氏は武士たちの不満や望みを叶えるようとしなかった。

 もともと藤原氏の摂関政治の頃は、武士たちの多くが「貴族たちには武士の気持ちなど分かるまい」とあきらめていた。しかし自分たちの代表平氏が政治の実権を握ったことから、それだけ期待が大きかった。それだけに裏切られた思いも強かった。平氏に対して「同じ武士なのに、俺たちの思いが分からないのか」と余計に不満を持つようになった。

 それまで政治を行っていた貴族たちは、武士の身分は低いものとしていた。しかも血を流す「ケガレた」仕事をしている平氏が、自分たちの真似をしたことに激しく反発した。このように平氏の政治は武士からも貴族からも拒否された。武士としての初めての政権ゆえに確固たるビジョンを持てなかったのである。

 政治の実権を握った平氏は、武士たちの共感を得ることができず、武力で世の中を支配しても民衆の理解を得られなかった。そのため「武士のための政治」を実現させる他の勢力が現われると、平氏の天下はたちまち崩れ去ってしまった。

 平氏にかわって政治の実権を握った源頼朝は「武士のための政治」を理解していた。

 平清盛は熱病に倒れ、平氏一門に「墓前に頼朝の首を供えよ」と命じて亡くなった。

 平清盛は悪虐、非道、非情の暴君とされ、良いイメージを持たれていない。しかしそれは平家物語に描かれた清盛の影響で、清盛の人物像は、温厚で情け深い物だったともされている。

源平合戦

 「平治の乱」で敗北して以来、平家の下に置かれた源氏の残党は、源頼朝を中心に東国で蜂起した。平氏の政治に不満を持っていた全国の武士団はこの動きに同調した。頼朝を迎え撃つべき平氏は西国が大飢饉に見舞われ、さらに大黒柱の平清盛が病没するという大波乱が続いた。その間、源氏には天才的な名将・源義経(九郎判官)が登場し「一の谷」「屋島」で平家の拠点を覆滅し、関門海峡の「壇ノ浦の戦い」で平氏を滅亡させた(1185年)。武 士として初めて太政大臣になり、孫を天皇に即位させ、福原遷都まで行った平清盛が没してわずか4年後のの滅亡であった。おごる平家は久しからず、一期の夢は波の谷間に沈んでいった。代わって頭角を顕わした源頼朝が縑倉幕府を開くことになる