平将門の乱

 平安時代の貴族たちは農民に重税をかけ贅沢な暮らしをしていた。その貴族たちを驚かせ、恐れさせたのは平将門の乱と藤原純友の乱であった。この二つの乱が偶然にも日本の東西でほぼ同時に起きたことから、お互いに東方西方から都を挟み撃ちにする共謀が噂された。

 歴史小説では、平将門と藤原純友が比叡山に登って、山頂から京の町を見下ろしながら、平将門が「私が新皇になり、あなたが関白となって日本を治めよう」という場面があるが、もちろんそれは作り話である。平将門は坂東諸国を制圧し、新皇を称したが「将門の乱」はわずか2ヵ月であっけなく幕を閉じた。

 平将門は民衆から人気があり、多くの逸話を残したのは、時の朝廷、特に藤原氏のデタラメな政治に憤慨し国司の横暴に苦しむ民衆を代表して反逆したからである。国司のあくなき搾取に苦しむ民衆のいじらしい願望が、将門を怨霊にして国司らを懲らしめることを願ったのである。

 平将門は戦死したが、民衆の願いは250年後の源頼朝の鎌倉幕府成立によってようやく実現した。しかし江戸時代から明治時代になると、天皇中心の明治時代の平将門への評価は、まさに悪人の末路のごとくで、平将門は戦前の歴史観から朝廷に刃向かった史上最大の極悪人となった。なお平将門は菅原道真、崇徳上皇と共に日本三大怨霊とされている。

 

 

平将門の乱の背景
 平安中期の朝廷で絶対的権力を握っていたのは藤原氏で、藤原氏は菅原道真を大宰府に左遷し、伴善男を応天門の変で、源高明を安和の変で失脚させているが、これらはすべて藤原氏の陰謀であった。 当時の朝廷では藤原氏が国政を担っていたが、藤原氏は権力闘争ばかりで国政への自覚はなかった。藤原氏は自分達一族の繁栄だけを願い朝廷を牛耳っていた。

 他の貴族たちは国司になりたかった。それは藤原氏一族が朝廷の権力を独占していたため、藤原氏一族でなければ絶対に出世できなかったからである。貴族たちは天皇の血縁であっても下級貴族として終えるしかなかった。

 ところが国司に任命されれば、住民から一定の税を朝廷に収めれば、農民を私的に使用しても、豪族から賄賂や接待を受けるのも自由だった。豪族が国司に賄賂や接待を行うのは年貢の取り立てに手心を加えてもらうためであった。

 国内の土地は国有地と荘園と未開拓地に別けることが出来るが、国司が税を徴収するのは国有地だけで、荘園は都の貴族のものだったので税の対象外だった。国司にとっては国有地が多いほど税収は高まるが、それで豊かになることはできなかった。国司にとっては、むしろ未開拓地が多いほど、未開拓地を開拓して自分の荘園にすれば自分が支配することができた。

 国司になれば賄賂は入るし、未開拓地が多ければ荘園の主になれ、任期がすぎても都に帰らずに、新しく開拓した土地を荘園として自分のものにした。名目上は都の藤原氏などの有力貴族に寄進しても実際には自分の自由になった。
 国司は朝廷をかさに威張り、税を搾り取っては農民を私用に使い、賄賂を要求するなどやりたい放題だった。当然ながら国司と農民とは反目が絶えなかったが、地元の豪族たちは生き残るために国司と懇意をはかろうとした。

 当時の坂東(関東)は盗賊に満ち、武蔵国、上総国、下総国などは郡ごとに検非違使(警察署)を置くほど治安は悪化していた。武士たちは数十から数百の兵の集団で一族同士で領地をめぐり争っていた。数千数万の兵が動員されたのは戦国時代以降のことで、当時の武士たちには「恩義と報酬」などとは関係なく自分の好都合だけで行動していた。

 桓武天皇の子孫である平将門は武力に優れ、939年に常陸の国府を攻め落とすと朝廷に反旗を翻した。さらに関東を支配下に収めると、自らを「新皇」と名乗った。将門の乱は軍事クーデターであり、史上初めて「武士が表舞台に登場し、史上初めて天皇を否定して自らを新皇」と名乗った。この事件は天皇制をひっくり返す反乱であったが、そのきっかけは坂東における叔父たちとの領土や女性をめぐる争いであった。中世における武士の特徴とあわせて概要を述べる。

 

高望王
 高望王は平安京へ遷都した桓武天皇の曾孫にあたるが、皇族から離れ「平」という姓を賜って坂東へ下った。平将門はその高望王の孫で、桓武天皇から数えて六代目になり、平将門は皇族の血を引いたいわば貴人であった。

 その当時、国の役人である郡司や国司は任期が切れると、京に戻らなければならなかった。しかし任期が切れても郡司や国司たちは、自分たちの権益や勢力を保つため任地に居座り続けた。そのため中央の中流貴族たちが地方の豪族になり、彼らは新たな国司の命令に従わず、さらには武力蜂起に至る事件が頻発していた。

 平高望(高望王)が派遣された坂東(関東)は、そのような反朝廷の豪族による事件が特に多い地域で、平高望は反朝廷の豪族による武装闘争を鎮圧するために送り込まれた。平高望にとっては皇族の地位を放棄したことになるが、しかし実績を上げれば都の貴族社会で失地を回復することも期待された。

 当時は、地方で有事が起きれば国司が指揮をとって兵士を動員して叛乱を鎮圧していた。国司は自国のみならず他国の兵士を集めることができたが、それでも国司に逆らう反朝廷の豪族がいた。平高望(高望王)の役割は、現地の国司と協力して反朝廷の豪族を支配下に置き、従わない豪族を鎮圧して治安を図ることだった。
 朝廷は地方の政治を国司にまかせていた。しかし国司は税さえ国に納めれば、あとはやりたい放題で、国司は勝手に税率をかえ、自分の財産を増やし、任期が切れても居座り続け財力と武力を蓄えていた。一番迷惑を受けたのは重税や加労働を課せられた農民であった。

 このような状態だったため、地方の治安は悪化し、様々な人たちは自己防衛ため武装して小武士集団となった。国司となった中・下級貴族は小武士をまとめて武士団の棟梁となりそのまま居座った。その代表が桓武天皇の血を引く桓武平氏、清和天皇から出た清和源氏である。

 平将門は桓武天皇の子孫であり、平将門の祖父である平高望(高望王)は上総の国司で、常陸国の前の国司である源護の一族と姻戚関係にあった。国司として国家権力の一端を担いながら、現地の豪族とも婚姻により協調関係を維持していた。将門と争うことになる叔父の平国香や平良兼らも、源護の一族と姻戚関係を維持していた。

 このように上総国の国司として祖父・平高望(高望王)は赴任するが、任期後もその地に居座り、勢力を拡大して武士団を形成していた。

 この時代より約150年後、源頼義は奥州制覇をめざして前九年の役を引き起こしたが、源頼義がなぜ奥州なのかといえば、坂東はすでに平氏一門に押さえられていたからである。

 平将門の父・良将(よしまさ)は下総国の佐倉に所領を持ち、強大な勢力を手に入れ、その子の将門は朝廷の太政大臣・藤原忠平に使えていた。地方での勢力を円滑に保つためには、近隣の国司と良好関係にあること、さらに国司や有力豪族と姻戚関係を持つことであった。また国司を決める中央の有力な貴族との繋がりも必須であった。つまり平将門の父親は地元の坂東を経営し、息子の平将門は京で貴族(藤原忠平)との提携を行っていたのである。

 このようにして坂東の平親子は、当初から地域の豪族と協調し、朝廷の権威・権力に依存していた。これは平安時代の地方の武士の特徴であるが、父・良将の死をきっかけに相続をめぐり、4人の父の叔父たちと争いが起きた。


京での生活
 平将門の父・平良将は下総国佐倉(千葉・佐倉)を領地とし、平将門の母は下総の豪族・犬養春枝の娘であった。平将門は15歳で京へ上るが、それは朝廷内での役職を得るためであった。

この時代の地方武士は京の公家の私臣となって雑務をする者が多く、平将門も右大臣・藤原忠平(時平の弟)の家人になっていた。平将門の父良将が荘園を藤原忠平に寄進して家人になれたのである。

 家人の仕事は藤原忠平の家屋敷や都の警備であったが、将門は人柄を認められ主君の藤原忠平に気に入られた。もちろん任官が目的だったので、それなりの貢物をしていた。平将門の家は坂東一の氏族で、父・良持は鎮守府将軍として陸奥に赴任していたが、当時の武士は低い身分だったので、藤原忠平を私君として主従関係を結んでいたのである。
 武士にすれば身分が低いとはいえ、官位があれば豪族の間でも大きい顔ができた。また国司や豪族の間にトラブルが起きた場合、京の公家とつながりがあれば有利だった。

 平将門は武骨な田舎武士にすぎず、故郷にいれば大勢の郎党や下人にかしずかれていても、宮仕えは戸惑うことばかりで居心地は悪かった。結局、平将門は都にいても、なんの官位ももらえなかったが、将門はそれほど官位に執着してはいなかった。しかし不幸なことに陸奥国にいた父が急死し、将門は家を継ぐため都から戻ることになる。そしてそれが他の平氏一門との戦いのはじまりでもあった。相続制度の確立していない当時、良将の領土は伯父の国香や良兼が勝手に分割していた。

 平将門は、父・良将の死を京で知ると、京での生活をやめ、坂東に所領する土地を維持するために帰郷した。すると父の所領地のほとんどが、伯父の平国香(くにか)や平良兼、平良正らによって横領されており、将門が父の遺領を求めても国香らは応じなかった。さらに平将門が愛した常陸の前国氏の娘を叔父・良兼が強奪していた。

 所領土の強奪と愛妾の強奪が、平将門とその親族との長い抗争のはじまりになるが、このような一族内部の争いは当時の地方武士としては珍しいことではなかった。いわゆる血族同士による生死をかけた争いである。

 帰郷しても土地は叔父たちのものになっており、途方にくれた将門は鬼怒川流域の荒れ地(鎌輪)に目をつけた。その地には村落はあったが、洪水が多発するため捨て置かれていた。平将門は自ら農民たちの先頭に立って土地を耕し、5年間で領土を拡大していった。

 平将門は叔父たちのなかでも、平良兼や前常陸大掾・源護(まもる)の一族と激しく抗争を繰り広げた。それはこの付近の土地が平国香や源護らの領地と将門の領地が複雑に入り組んでいて、しかも源護の長女は平良兼(国香の弟)に、次女は平良正(同)に、三女は平貞盛(国香の長男)にそれぞれ嫁いでいて、源護は姻戚関係から勢力を拡大していた。そのため源護と血縁関係にない平将門は常に周囲と小競り合いをくり返していた。

 

同族との争い
 事の発端は、常陸国の土豪・平真樹が源護と紛争をおこし、その調停を平将門に依頼したことであった。平将門は同盟者の平真樹に応じて常陸に向かうが、ここで将門を討ち取ろうと伯父の平国香と源護の3人の息子が筑波山麓で将門を待ち伏せしていた。彼らは将門を亡き者にしようと、突然将門に襲い掛かった。

 935年2月のこの戦いは、不意打ちであったため、将門は一時は劣勢だった。しかし次第に体制を立て直すと、平将門は追い風を利用して逆に彼らを蹴散らし、ついには攻撃に転じ、一気に大串にある源氏館に、次に石田にある平国香の館に攻め込んだ。源扶、源隆、源繁の3人の兄弟は揃って戦死し、源氏に加担した伯父の平国香は炎に包まれて屋敷で自害した。

 将門軍の勢いは凄まじく、この戦いで野本から石田にかけて点在する源護や平国香の領地の村々500余戸をすべて焼き払い、男女幼老を問わず村人は殺された。この戦いは互いに親族が殺し合い凄惨なものであった。

 平将門が徹底的に戦ったのは、攻撃は激しければ激しいほど、強烈ならば強烈なほど、頼りになる主人と郎党から注目されるからで、当時の坂東はそのような風土だった。血で血を洗うということが、坂東武者にとってはたとえ親子兄弟でも、強い敵と戦いこれを倒すことが最大の名誉であり、そこにあるのは力への信仰だけだった。

 翌年、平将門は叔父の平国香を殺害したことから、朝廷から罪人として取り調べを受けるため上京を命じられた。しかしもともと仕掛けられた戦いであったため、罪は許され将門はその軍事力を見せ付けることになった。

 平将門は帰郷するが、帰郷後も平良兼を初めとした一族の大半と対立した。平貞盛は父の国香を将門に殺されたため叔父側につき、将門派と激しい私闘を繰り広げた。坂東における平氏一門の内部抗争であるが、平貞盛は平国香の長男で、将門とほぼ同じ時期に京へ行っており高い官位を貰っていた。

 父・国香の死を知って故郷に帰った平貞盛は将門と和解するが、平貞盛にとって将門は父の仇である。平将門は貞盛の和解の言葉を信じず、貞盛も叔父の平良兼や良正と共に将門と戦うことになる。

 平国香亡き後、平氏の長者となった平良兼は、良正、貞盛と共に翌年6月、将門の追討に立ち上がる。兵数約1000人に対して、平将門勢はわずかに200人であった。平良兼が1000人もの兵を集めたのは良兼の実力を意味したが、戦いは必ずしも兵力数では決まらなかった。

 5倍の兵力の差があり、平将門には勝目がなかったが、将門は良兼軍を待ち伏せ奇襲攻撃で混乱させ、それに乗じて一気に突撃した。すると良兼軍は後退し、良兼・良正兄弟は近くの豪族の館に逃げ込んだ。将門は館を包囲するが、しばらくすると囲みの一部を開けて良兼らを逃がした。なぜ平将門が良兼・良正を逃がしたのかは不明であるが、それは将門が時折みせる人の良さだったのであろう。平将門は下野国府に赴いて騒動を起こしたことを侘び、国府の役人に一部始終を報告している。

 この年の10月、平将門は源護に訴えられ、再び朝廷に呼び出されて上京した。しかし結果として将門の罪は軽微とされ、かえって将門の武名は都に知れわたることになった。翌年4月、朱雀天皇の元服による恩赦があり、罪は不問となり5月には帰郷した。

 帰郷した将門には再び良兼・良正との戦いが待っていた。この時、平将門は一時的ながら戦いに敗れている。将門は脚気を病んでおり、さらに良兼・良正は卑劣にも祖父・高望王の木像を掲げて突撃してきたのである。将門は祖父・高望王の木像に弓を弾けず、敗退したのである。良兼・良正にとっては普通の手段では将門には勝てないための苦肉の策であったが、それでも将門を倒すことはできず、9月になると脚気が治った将門が常陸国真壁郡にある良兼の領地を奪うと、良兼は筑波山中に逃げ込んだ。

 このような一族の抗争はたとえ大規模であっても私戦である。そのため抗争自体は朝廷の追討となるような公戦にはならず、この時点では誰もが国家への反逆者ではなかった。

将門の下人に丈部子春丸(はせつかべこはるまる)という小姓がいた。この子春丸が良兼の誘いに乗って将門を裏切り、将門の館内の様子や家屋の配置を良兼に教えた。ある日の未明、良兼は80人の精兵を率いて将門の館を襲撃しようとしたが、途中でこれを将門の兵に見られてしまう。その将門の兵の急報で良兼の襲撃を知った将門は手勢わずかに10人であった。

 10人の兵で待ちかまえ、不意打ちをかけようとした良兼は逆に不意を突かれ、数10人の死傷者を出して逃げ帰り、またしても将門が勝利した。その後、良兼は失意のまま病死し、貞盛は将門の追求から逃れるために翌年2月、東山道から京都へ向けて出発した。

 これを知った平将門は百余騎の騎馬兵を率いて追撃し、信濃の国分寺で追いつき千曲川で合戦となった。貞盛は敗れ逃走し将門はまたも追撃したが、貞盛を捕捉することはできなかった。

 貞盛を取り逃がしたが、数回の合戦に勝利したことから、平将門は坂東一の武者と称えられ、同族との戦いはこれでほぼ終わり、以後、平将門の行動は強力な軍事力を背景に戦いの枠を越えていった。

 

武芝騒動
 伯父や源護一族との抗争も平将門優位のまま終息に向かったが、武蔵国(東京、埼玉)では新たに争乱が勃発した。当時の国司は私腹を肥やすために赴任してきたが、新たに武蔵権守に任じられた興世王と源経基も例外でなく、私腹を肥やすことを目的にしており、郡司・武蔵武芝と諍いを起こした。

 郡司とは朝廷から派遣された役人ではなく、地元の有力な豪族が任命されていた。武蔵武芝は極めて優秀な郡司で民衆からの信任が厚かった。興世王と源経基は、武蔵国に到着するなり郡司・武蔵武芝に対して領内を検分すると通知してきた。

 検分といえは聞こえが良いが、検分する土地の有力者から受け取る莫大な貢物が目的だった。守(副知事)として百済貞連が来ることになっており、百済貞連の到着を待たずに検分しようとした。百済貞連が到着すれば取り分が少なくなるためで、その前に検分をしなければ意味がないとしていた。

 武蔵武芝は二人の要求を「守の到着前の領内検分は慣例に反する」として拒絶した。すると怒った興世王と源経基は兵を引き連れて、武蔵武芝の領内を荒らしまわり略奪をほしいままにした。

 興世王と源経基に逆らうことは、朝廷に逆らうことになるので、衝突を恐れた武蔵武芝一族は付近の山に避難した。これを知った興世王と源経基は山を取り囲み武蔵武芝と対峙した。興世王と源経基は、非難の声が高まるにつれて不安を覚えるが、武蔵武芝に詫びを入れるわけにもゆかず動きがとれなくなった。ここで将門が両者の調停に入ることになる。

坂東一の武者と言われる平将門の仲裁は、興世王と源経基にとって渡りに船であった。また武蔵武芝にとっても天の助けだった。なぜ将門が自分の領地を離れてまで他国の紛争に乗り出したのかは分からないが、武勇だけでなく人の良さがあったのだろう。

 平将門は「武蔵武芝、興世王、経基は自分の近親者ではないが、両者の紛争を鎮める」と称して武蔵国に出向き、興世王と武蔵武芝を会見させ、両者による紛争を調停した。

 和解が済み、興世王と武蔵武芝は将門と共に酒宴を開いた。しかし源経基は自分を酒宴に迎えにきた武蔵武芝の兵を、自分を攻撃にきたと思い込み、一目散に都に逃げ出してしまった。

 都に着いた源経基は、将門、興世王、武蔵武芝らが朝廷の命令に反したと訴え、これを受けてかつて平将門が家人として仕えていた太政大臣・藤原忠平が調査に乗り出した。将門は自らの上申書に坂東五カ国の国司の証明書を添えて提出し、謀反の疑いを晴らすことに成功した。訴えに出た源経基は誣告(ぶこく)罪として罰せられた。

 朝廷は坂東での平将門の名声を承認し、その功績への評価が高まった。ここまで平将門に都合良く運んだのは、将門が太政大臣・藤原忠平との政治的つながりがあったからである。

 しかしその後、武蔵国では興世王と新任の百済貞連が再び対立し、興世王が将門のもとを頼ってきた。同じ頃、常陸の豪族・藤原玄明が常陸の国司・藤原維幾と対立し、藤原玄明もまた将門のもとを頼ってきた。将門は坂東の諸勢力から頼られる存在になっていた。将門は人に頼られる人物で、「平将門の乱」は将門のこの侠気に富んだ性格が大きな要因になった。


平将門の乱
 平将門を頼って来た藤原玄明(はるあき)は、租税を納めないばかりか、他人の土地の作物を掠奪し、役人が来れば脅して追い返し、国府の出頭命令を拒否するようなならず者であった。藤原玄明は常陸の不動倉を襲い作物を略奪を行い、それは国府あるいは国家に対する重大な犯罪であった。

業をにやした常陸介・藤原維幾(これちか)が藤原玄明の罪状を並べ、追捕(逮捕)の兵を向けると、玄明は妻子を連れて将門のところへ逃げ込み、国府側は平将門に玄明の引渡しを要求するが、将門はこれを承知せず国司と対立した。

平将門は1000人の兵を引き連れて常陸の国府に赴き、玄明の罪を許し常陸国内に住めるよう計らってほしいと要求した。しかしそのようなことを国府側が認めるはずはなかった。

 平将門は自分を頼ってきた藤原玄明がたとえ極悪人であっても、国府に引き渡すのは武氏の名がすたると思った。平将門と藤原玄明は国府の周辺を襲撃し藤原維幾を追い詰め、国司が使用する印と国倉の鍵を奪った。このように常陸国司である藤原維幾と対立する藤原玄明との私戦に、将門が介入したことが結果的に朝敵に繋がった。

 平将門はそれまでの一族同士の戦いでは、国府への攻撃を慎重に避け、戦いを「私戦」の枠内に収めていた。しかしこの常陸国司への攻撃は朝廷への敵対行為であり「謀反」と見なされた。近隣諸国の国司からただちに都へ報告され、将門に対する調査は行われないまま、すぐに「朝庭に対する公戦」とみなされ朝廷が鎮圧に乗り出した。

興世王
 武蔵武芝の事件後、興世王は百済貞連との折り合いが悪く、武蔵国にいずらくなり将門の居候になっていた。興世王は常陸国府を襲撃した平将門に「一国の占領だけでも罪は重い。同じことならば坂東諸国全域を占領すべきである」と煽動し、平将門は軍を進めて下野国・上野国の国府をただちに占領し、国司を国外に追放した。「毒を食らわば皿まで」といったところである。

 このとき、本来ならば朝廷が行う国司の人事を平将門が行い、坂東諸国の国司を将門が任命した。さらに八幡大菩薩の使者と称する神がかった巫女がやってきて、平将門に天皇の位を授け「新皇」であることを示した。平将門を「新皇」として、将門の居所を「都」とした。

 平将門はもともと自尊心が強く、桓武天皇の血筋を引く自分こそが正当な王権を持つとして「天皇に代わり日本の頂点に立つ」と宣言したのである。平将門は関東八カ国の国府を次々に追放すると、自らを「新皇」と名乗り、関東地方を治め、地方独立政権を作り上げた。 このようなことは明確な反朝廷行為であった。

 地方の軍事豪族に過ぎなかった平将門は、支配領域が拡大しても何ら変わりはなかった。将門は朝廷に対抗して「新皇」を宣言したが、それは突発的な義憤であった。

 神の宣託を受けての「新皇即位」という一連の流れは疑問が多い。将門は一族間の「私戦」に至った経緯と、常陸国司への襲撃や坂東諸国を占領したことに関する文言が残されているが、それは新皇というより義憤にかられた文章であった。

 将門は国を危うくする陰謀の片鱗を担いだが、その一方で主君である太政大臣・藤原忠平への弁明の文言も残されている。勢いに任せて常陸・下野・上野の国府を占領したが、この段階においても中央との連繋を維持しようとしていた。この奏上から「将門が坂東を独立国にしようとした」との意図を読み取るには無理がある。

 「将門記」に描かれた将門の「新皇即位」も、将門の坂東での指導的立場を朝廷が承認したと理解することもできる。坂東諸国の豪族はそれぞれが各地で「私戦」を繰り返していたため、将門の味方をすることで、自らと競合する勢力の駆逐を目論んだのではないだろうか。

 将門を滅ぼしたのが、同じ坂東の藤原秀郷であったように、この段階におて将門は坂東全域を支配していたわけではなかった。しかし坂東の国司らは任国を捨てて逃げたことから、朝廷は将門の勢いを恐れたのであろう。将門の勢いを恐れ、朝廷は将門討伐令が発布されたのである。

 朝廷は比叡山延暦寺で将門の調伏を祈らせ、また将門平定のため伊勢神宮に奉幣している。このように平将門討伐を朝廷が必死に祈ったことは、将門が強かったと過度に反応したものと思われる。

 朝廷はあわてて藤原忠文を征東大将軍に任命し、将門鎮圧に派遣したが、結局は朝廷軍が到着する前に平将門は地元の武士藤原秀郷、平貞盛、藤原為憲の連合軍によって打たれた。

 

 

最期の戦い

 940年2月14日。将門は甲冑を身につけ出陣する。通常ならば8000人前後の軍勢を保持していたが、この日は400人ほどの兵士しか集まらなかった。それは藤原秀郷、平貞盛の決起が突然だったため、また前年からの長期間にわたる軍事行動で疲れた兵を帰郷させていたためである。

 藤原秀郷は下野国の指折りの豪族で、押領司(警察署長)に任じられていた。藤原秀郷が将門と戦った本音は不明であるが、坂東における自分の立場を強固なものにするためだったのだろう。藤原秀郷が将門を討って坂東一の武者となるには、京らの征討軍と一緒に戦って勝ったとしても朝廷内での自分の印象が薄くなる。征討将軍が来る前に戦い勝利しなければいけなかった。

 藤原秀郷らの挙兵を知った将門は、まず先発隊が秀郷の軍と戦い敗北を喫してしまう。将門は覚悟を決め、猿島郡の北山を背に陣を張り貞盛と秀郷を待った。そして戦いは2月14日午後3時頃始まった。この日は大風が吹き砂埃が舞い、将門軍は追い風を得て貞盛・秀郷軍は風下に立った。

 当時の合戦は弓矢が主だったので、風上にたつことが絶対的に有利となった。追い風を得て将門軍の楯は前向きに倒れ、貞盛・秀郷軍の盾は後向きに倒れた。将門軍は馬上から敵を討ち貞盛・秀郷軍は劣勢になり、将門軍は80人ほどの兵で追撃してきた。将門軍が攻めると貞盛・秀郷・為憲の兵2900人は逃げ出し残った兵は300人ほどになった。彼らは逃げ回りながら追い風が吹くのを待っていた。ところが将門が本陣に引き揚げると、突然風向きがかわった。

 今度は風下になり、将門軍が不利な戦況になった。 将門は「どころからでも射抜いてみよ」と云ったが、どこからともなく飛んできた矢が将門の眉間を射抜き、将門の独立国家、新皇への夢は終わった。将門が戦死すると、将門の兵は四散し、主だった者もその後の落武者狩りで討ち取られ将門の乱は終わった。前年、坂東諸国を制圧し新皇を称した「将門の乱」はわずか2ヵ月であっけなく幕を閉じたのである。

「将門記」の作者は将門の死を天罰と書きながらも、その一方で、天下にいまだ将軍が自ら戦い戦死した例がない。誰がこのようなことを予測しただろう。そもそも新皇が名声を失い身を滅ぼしたのは興世王のはかりごとによる。なんと悲しいことかと書いている。

 

平将門への評価
 将門の乱に対し、朝廷は諸社諸寺に将門調伏の祈祷を命じた。これは祈祷するほどに将門を恐れていたことを示している。将門の行状を密告した源経基は従五位下に叙され、藤原忠文を征東大将軍として追討軍が京を出た。

 将門は追討軍が到着するまでに、平貞盛や藤原維幾の子・為憲、さらに下野国押領使・藤原秀郷との戦いを続け、追討軍が到着する前に将門は戦死し、将門の弟たちや興世王、藤原玄明らも誅殺されていた。

 将門との戦いに勝った藤原秀郷は、当初、将門に同調していたが、将門が新皇として坂東諸国に自らが国司を任じ、さらには大軍を率いて京都へ攻め上り、日本国の主になると期待しその構想に感心していた。しかしその後、藤原秀郷は将門の立居振舞を見てその粗雑さに落胆して将門を裏切ったのである。

 将門は勢いに乗じて坂東諸国の国府を占領したが、そもそも国司は平穏に国を運営して税を滞りなく朝廷に納めるのが任務であった。それを将門は武力で追い出し、強引に支配しようとした。手段が強引であればあるほど反発を招き、また朝廷に反発するのでは支持を集めることはできなかった。

 この戦いで藤原秀郷を味方にした貞盛と為憲は、以前から将門と敵対する勢力であった。つまり将門の乱は「私戦」の延長の線上であったが「公戦」と認定され、朝廷の敵にされたのである。

 この乱自体は朝廷の支配を揺るがすようなものではなかった。また「新皇」を称した将門も、その基盤は中央の貴族や国司にあり、朝廷の権威を背景に活動する勢力の一つであった。国府襲撃という事件さえ起こさなければ、将門は国家的軍事・警察権の担い手として朝廷から重用されていただろう。将門は「新皇」を称し朝敵となったが、それほど大それた考えはなかったと思われる。

 将門の独立は近隣の支持を失い潰されたが、将門を支持した富豪層も程度の差はあれ朝廷に依存しており、朝廷を転覆するようなことは考えはしなかった。豪族たちは体制を承認しつつ、そのなかで自らの利益の拡大を図っていたに過ぎなかった。自らの利益にかなえば将門に味方をするし、利益に反するならば離脱するような時代だった。

 平安後期に武士はめざましく社会進出を果たすが、平将門の頃はまだ武士の存在は朝廷の番犬のように弱かった。武士の活躍は院政期の皇統の対立や、寺社強訴の頻発などにより、武力によって守護する必要に迫られてからである。事実、将門の乱に関わった人の子孫の武士たちが武家社会を作ったのである。将門を討った秀郷や貞盛の子孫はやがて武士として発展を遂げることとなる。

 平貞盛は伊勢平氏となり、平家政権を立てた清盛などを輩出し北条などの祖となった。藤原秀郷は小山・結城・長沼、波多野、山内首藤、平泉藤原氏、佐藤(西行法師)、後藤などの祖となっている。平良文は千葉・上総、秩父平氏(畠山・小山田など)、三浦、大庭・梶原などの祖であり、藤原為憲は伊東・工藤、二階堂などの祖となる。

 荘園や諸国の国衙(こくが)に武士を起用したのは防衛のためであり、院や貴族、寺社らと独自に関係を展開してゆくことになる。このように武士の社会進出は彼らが得意とする武芸を活かした奉仕を中心としたものであった。

 また将門の乱からもわかるように、平安後期における武士は朝廷の権威を背景に「私戦」を繰り返し、朝廷の権威に依存する側面と背反を併せ持っていた。

 武士が天皇や貴族、寺社勢力などと対立するのは、平安時代中期ではなく平安後期であつ。したがって平安時代中期の「将門の乱」を坂東の「独立」などと過度に重視する風潮があるが、平安時代中期にはまだその発想はなかった。


平将門の呪
 平将門は数に勝る藤原軍に負け、歴史に残る最初の晒し首になる。非業の死をとげた英雄には伝説がつきものだが、それはその死を惜しんだからである。

 国司のあくなき搾取に苦しむ民衆が、将門を怨霊として国司等を懲らしめることを願ったのである。

 京都・三条河原に晒し首になった将門は、毎夜青白い光を放ち「わが胴体はどこにある。ここに来て首とつながり、もう一戦交えよう」と叫び、さらにいつまでたっても首は腐ることなく、まるで生きているようであった。

 さらに晒し首になっている将門の首が京の空を舞い、自分を裏切った者の首や腕を食いちぎりながら、首は坂東を目指して飛んでゆき、今の東京都千代田区神田まで飛んで落ち、その地に立てられたのが神田明神のはじまりである。神田という地名も将門の首が体(からだ)を求めて飛んできたためとの説がある。

 また首が落ちたところが現在の東京都大手町にある平将門の首塚で、胴体が埋まっていたところが皇居近くの神田明神とされている。さらには将門の愛馬の死骸が埋めているところ、将門が戦勝を祈願した刀を埋めているところ、さらには将門に従って討ち死にした者たちが眠る所など、様々な場所が「平将門の怨霊の地」として残っている。

 東京の大手町1丁目1番地のビジネス街に平将門の首塚がある。将門の首が飛んできて首を洗ったのが「首洗いの井戸」で、その首を埋葬したのが「首塚」とされている。これらは伝説であり、平将門の首が埋葬されているかは分からないが、この首塚をめぐって平将門の祟りと思える出来事が起きている。

 徳川の重臣の大久保家は藤原秀郷の子孫にあたるが、江戸城拡張工事で神田明神の移転を企画したのちに病死し、嫡男・忠隣は事件に巻き込まれ死亡した。

 首塚はこの地の大名邸内に祀られていたが、明治後、屋敷跡に大蔵省が建った。大正12年、関東大震災により大手町一帯が瓦礫の山となったため、国は首塚を取り壊し、区画整備をして大蔵省仮庁舎を建設しようとした。平将門の首塚の上に大蔵省の仮庁舎を建てる計画であったが、その直後から大蔵大臣をはじめ、大蔵幹部や工事関係者たち14人が亡くなった。いずれも平将門など落ち武者などに殺される夢でうなされての変死、あるいは事故死だった。さすがにこれは不吉ということで工事は中止となった。

 さらに太平洋戦争直後、平将門の首塚を取り壊す計画が持ち上がり、GHQが一帯を整地して駐車場にしようとするが、なぜか工事中にブルドーザーが横転し、運転手が死亡する事故が起きてしまった。アメリカ軍も平将門の祟りを聞かされ首塚の取り壊しを中止した。これらの出来事から、現代においても将門の祟りが怖れられ、現在の地で手厚く祀られている。

 現在でも隣接するビルは、平将門の首塚を見下ろすことのないように、窓は設けていない。またビルは管理職が首塚に尻を向けないように、特別な机の配置がなされている。 

 人が怨霊や神になるには「現世で英雄的な功績を立て、かつ非業の死を遂げる」必要がある。非業の死を遂げた人の霊魂は、生を全うできなかった苦しみを死後に自らの力に変換して強い力を持つとされ、それを慰撫するために人々は昔から様々な供養方法を考えてきた。

 

庶民の味方
 平将門は関東八州を制圧し、天皇に対して自ら「新皇」を名乗って関東に新しい朝廷を築こうとするなど、非常に個性の強い人物であった。

 当時の東国は、畿内の人々から「みちのくの国」と蔑まれていた。将門はその東国の人々の期待を背負った人物で、東国の英雄とされた。将門の悲劇は合戦で矢に当たって討死し、斬首された首は京に運ばれて晒し首にされ、更に将門への討伐軍には将門の親戚が加わっており、平安朝の人々はより血なまぐさい骨肉の争いが行われたとの印象を持った。

 しかし平将門は、実は人情に厚い人柄で、将門を慕う人々が大勢いた。争乱の中でも農繁期には兵を田畑に帰し、また乱暴を受けた敵の婦女にも手厚く労わる優しさを見せている。それだけに叛乱者として不本意な死を遂げた将門の霊魂が、怨霊となって祟りをなすとして京の人々に怖れられたのだろう。

 将門の乱の10年前には清涼殿に落雷が落ち、菅原道真の怨霊によるものと怖れられた。将門も道真と同様に御霊信仰の対象となったのである。特に東国では民衆からの信仰が篤く畏敬されているが、それを伝えるのが首塚などの伝説である。

 将門を祀る神田明神はもともと芝崎という村で、そこに塚を築いて将門の首を祀り、築土明神と称されていた。しかし村が荒廃したため、将門の墓に花を供する者が 人々は真教上人に賛仰して念仏道場を建て、その境内に産土神(うぶすながみ)として将門を祀った。

 これが神田明神の縁起といわれ、徳川家康が江戸に入り現在の地に移すまで神田明神はこの地に鎮座していた。ちなみに家康は将門の神威によって江戸の町を守ることを企図して、神田明神を江戸城の鬼門の方角に据えた。

 日本三大怨霊とされるのが平将門の他、菅原道真と崇徳上皇である。後の平家一門は多くの人々が非業の死を遂げたが、怨霊を輩出していない。これは平家物語を語り、建礼門院徳子に菩提を弔わせることによって、一門の人々が成仏したことを意味している。
 平家については怨霊伝説よりも落ち武者伝説の方が多いのは、鎌倉政権に対して、平家の落ち武者がどこかで生き延びていてほしいと願う人々が多かったからであろう。

 首塚を含めて平将門ゆかりの神社を結ぶと下地図が示すようにきれいな「北斗七星」が浮かびあがっている。この「北斗七星」を作ったのは「江戸幕府」で、「神田明神」はもともと今の位置にあったわけではなく、江戸幕府が今の位置に移動させたのである。江戸時代の民衆の将門信仰は相当に強いものだった。将門は江戸の民衆にとって強い人気があったことがわかる。

1)鳥越神社・・・将門の首がこの地を飛び越えたという伝説。
2)兜神社・・・・俵藤太が将門の兜を埋めたという伝説。
3)首塚・・・・・将門の首塚。
4)神田明神・・・将門の首が祀られている。
5)筑土八幡神社・この神社の隣の津久戸明神が将門の首を祀る。
6)水稲荷神社・・将門調伏のための神社
7)鎧神社・・・・将門の鎧(胴衣)を祀っている
8)鬼王神社・・・幼い将門を祀る