安倍晴明

 平安時代の安倍晴明は日本史上屈指の陰陽師(おんみょうじ)である。921年の生まれとされているが、系譜や出自は定かでなく、遣唐使の阿倍仲麻呂の子孫という説もある。

 白狐(妖狐)の葛の葉を母に持つとされているが、もちろん後世の作り話であろう。幼少の頃の確かな記録はないが、優秀だったとされている。

 陰陽師である賀茂忠行・保憲父子に陰陽道や天文道を学び伝授された。
 陰陽師とは日本の古代からある官職で、陰陽五行思想に基づいた陰と陽によって占術、方術、地相(風水)、祭祀などを司る官人(公務員)である。この安倍晴明は一代で陰陽道の名家になった。

 平安時代の民衆は読み書きや計算はできず、さまざまな学問が官人から生まれているが、陰陽道もそのひとつで、安倍晴明は960年に天文博士となり、村上天皇や花山天皇、藤原道長などの信頼を得て、播磨守などの官職を歴任し位階も従四位下にまで昇っている。
 安倍晴明は呪術を駆使し、カルトめいた超能力者の印象がある。しかし妖怪を飛ばすような不気味さは後世に作られたもので、意外に安倍晴明は地味な存在だった。近代以降、陰陽師は影を潜めたが、荒俣宏の小説「帝都物語」や、その後に発表された夢枕獏の小説「陰陽師」の大ヒットにより、平成の世に知名度が飛躍的に向上して、漫画、映画、ドラマ、ゲームによってもてはやされている。

日本で生まれ陰陽道

 安倍晴明は陰陽道の傑出者としての名声を得るが、表舞台に出たのは40歳ごろで、出世としては遅かった。安倍晴明が出世したのは村上天皇から占いを命じられ、占いの才能が貴族社会で認められてからである。
 天文道とは占いの要素が強く、天候などの現象はすべて天からのメッセージとされ、安倍晴明は星や雲の動きから「宮殿の異変や吉凶」を言い当て報告する仕事をしていた。天文道は科学的な天文学ではなく、日食・月食や彗星などの天体現象について意味づけをして占うものだった。

 当時の人は空や星に関心があり、星に動き、あるいは時刻や暦によって災難が来ると信じられていた。中国や西洋では天文学が発達して地球儀・天球儀を作り、これを航海術に活かしたが、天文道はそのような天文学ではない。

 陰陽道とは中国から伝わった陰陽五行思想にもとずくが、この世界の森羅万象を読み解くのは日本独自のもので、仏教のように大陸の文化がそのまま伝わってきたわけではない。大陸から渡来した理論体系が、日本で独自に進化し発展したものである。陰陽道は錬金術と似ていて「万物は陰陽と木・火・土・金・水の五つの要素が組み合わされ、それぞれが木の家系、火の家系、土の家系、金の家系、水の家系として晴明の陰陽道を継承している。陰陽師の術は1,080種類あり、先読み、結界、式神、吉方・吉日読み、除霊などの中から必要な術を使ってより良い状態へと導く鑑定・占術である。

 また目に見えるもの、耳に聞こえるもの、五感で感じるもの全てを理論体系から読み解き、五感を超える超自然的な事象についても理の範疇で理解し、それを操作しようとしている。縁起を担いだり、厄を避ける儀式もこの理論体系から生まれた。
 陰陽学は古代からわが国の様々な祭祀を執り行い、占術や呪術を駆使することで、日本の歴史に影響を与えた。陰陽師は当事の先端技術に長じた科学者であり、帝や貴族たちにもてはやされた。源氏物語などで「今日は方違えに行かなくては」という話が出てくるが、これは陰陽道の考えが元にある。まさに儀式であるが、この儀式の形式が日本のお国柄に合っていたのだろう。
 陰陽師の最大の役割は、一言でいうと日本人の守り人(護国人)といえる。その役割は古代から現在にいたるまで、基本的にまったく変わらない。それこそがこの国に活力を与え護国につながる。

安倍晴明の活躍
 天文道と陰陽道を学んだ安倍晴明は管人で位は低かったが、占いの名人として貴族社会に受け入れられ、朱雀帝から一条天皇まで6代の天皇に仕え絶大な信頼を集めた。安倍晴明は陰陽博士という役職にあったが、天文道による占いが得意だった。

 当時は末法思想が流行しており、貴族は自分の死後の世界がどうしても気になり、身分に関係なくその道の名人に祈祷してもらう姿勢があった。当時は病気や災難に対して、祈祷しか手段がなかったため、祈祷師がもてはやされたのである。晴明は呪術や祈祷に長け、式神(十二神将)を自在に操り、数々の伝説を生んでいる。僧侶も祈祷を行ったので、僧侶の蘆屋道満とは祈祷による対決を繰り広げている。

 蘆屋道満と安倍晴明が内裏で争い、負けた方が弟子になるという呪術勝負があった。天皇が大柑子(みかん)を15個入れた長持を両人には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を与えた。早速、道満は「大柑子が15個」と答えたが、晴明は冷静に「鼠が15匹」と答えた。大臣・公卿らは管人の陰陽師・晴明に勝たせたかったが中身が「大柑子」であることを事前に知っていたので落胆した。しかし長持を開けてみると、晴明が式神を駆使して大柑子を鼠に変えており、中からは鼠が15匹出てきて走り回った。この後、約束通り道満は晴明の弟子となったとされている。

 59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封ずる儀式を行い、大きな仕事が任されるようになった。一条天皇の病気回復を祈るとすぐに回復し、深刻な干魃が続いたため雨乞いをさせたら見事に恵みの雨が降ったなど、さまざまな活躍が記録されていている。
 安倍晴明が街をめぐると、目には見えない怪異(霊)を肌で感じ、それを封じ込めた。怪異(霊)の代表的なものが地主神社の「のろい杉」である。この杉には無数の穴があり、人を呪ったくぎを打った後が現在も残されている。
 安倍晴明が活躍したのは高齢になってからであるが、その長寿もまた神秘性に拍車をかけた。当時の平均寿命の倍以上は生きたことになる。平安時代は末法思想が流行し、先の見えない不安を人々が抱えていた。その心の闇を打ち払う安倍晴明は時代を経るに従ってカリスマ性をさらに増していった。
 安倍晴明には語り継がれる様々な「伝説」がある。たとえば「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」には、晴明が式神を使って蔀(板戸)を上下させたり、門を開閉させたという話や、草の葉を式神にして蛙を殺すなどの話が残されている。
 その他にも人の前世や先々に起こることを看破し、呪術で要人を守護したり、京の都の魔物を調伏した逸話が多く語り継がれている。

 ある時、晴明のもとに一人の老僧が「陰陽道を習いたい」と童子を二人連れ播磨国から訪ねてきた。しかし晴明はその老僧が術比べをしにきたとに気づき、連れの童子が式神(霊)だと察すると、晴明は術を唱え二人を隠してしまった。慌てた老僧は「人が式神を隠すとは、とてもできることではない」と観念して弟子入りを志願したとされている。

 またある時、晴明が寛朝僧正の所へ訪ねたところ、若い公達が晴明の噂を聞きつけ「式神(霊)を使って人を殺す事ができるのか」とたずねた。晴明は「やろうと思えば出来るが、生き返らせる事は出来ないので、無益な殺生はできない」と答えた。ちょうど蛙が池に飛び跳ねているのを見た公達は「もし本当にできるなら、あの蛙を殺して見せて下さい」としつこく言った。仕方なく、晴明は草の葉をちぎり呪文を唱え、その蛙に投げ付けると蛙は潰れて死んでしまった。これには皆驚き、人々はいやが上にも一目置かざるをえなかった。

 晴明は12の式神(霊)を操ったとされている。式神とは鬼神・使役神のことで、一般の人には見えない。晴明は家に誰もいない時、式神を使って雑用をさせていたらしく、自宅の門が勝手に開閉するなど不可思議な現象が多々伝えられている。

 このような伝承は晴明が85年の生涯を閉じるまでに、日本の様々な場所に残されている。鬼や物の怪を塚に封じ込め、国の要所となる聖地に結界を張るなど、数々の霊的仕かけや、晴明が施した結界や塚などは現在でも残されている。

 ちなみに晴明が大活躍していた頃は、藤原道長が娘・彰子を入内させており、晴明が信頼されている様子が「御堂関白記」に書かれている。また藤原道長の「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思へば」の歌を記録した藤原実資(さねすけ)の日記「小右記」にも晴明の名前が出ている。

 

貴族の衰え
 あれほど盛んであった貴族の勢いもやがて衰えるときがきた。その一番大きな原因は貴族が怠け者になったからである。貴族たちは荘園からの収入で贅沢な暮らしができ、そのおかげで文化が進んだ。
 しかし政治の仕事は、下のものに任せきりだった。文化も生活を楽しむための文化ばかりで、生産を高める技術は進まなかった。
 また宮中の仕事は、毎年繰り替えされる年中行事だけで、その上、貴族の中でもそれぞれの家筋によって、役がらが決まっていた。例えば摂政や関白には藤原氏北家の藤原道長の子孫だけで、文章博士(大学の詩や歴史の先生))は大江氏と常原氏、外記(書記役)は中原氏、医者は和気氏と丹波氏という具合だった。これでは貴族たちも努力のしがいがなかった。貴族はだんだん気力を失い怠け者になり迷信深くなっていった。
 平安時代の貴族たちは、迷信に捉われながら毎日の生活を送っていた。貴族たちは、日柄の良い悪いによって朝廷へ出勤したり家に閉じこもったりした。このように、日柄により家に閉じこもることを「ものいみ」という。その日は家の門を閉め、ものいみと書いた札を立てて人の出入りを禁じた。このものいみには軽いものと重いものがあり、重いものいみの日には、どんなに大切な用事で人が訪ねてきても、絶対に会わなかった。もし、ものいみの日に人にあえば、大きな災難を受けると信じられていたからである。天皇や摂政・関白のような立場の人の「ものいみの日」は、政治が出来ず異様な有様だった。迷信が深くなればなるほど、ますます自分頼りなくなって、神仏に頼るようになった。 

 右大臣藤原道長の祖父が書きのこした子孫への戒めを見ると、平安時代の貴族が、いかに迷信深かったかがわる。守るべきこととして、次のことが書かれている。
「朝起きると、まず自分の星の名を低い声で七回唱えよ」これはその頃、人は生まれつき北斗七星の内のどの星かに自分の運命が支配されていて、その星をまつれば、幸福になれると信じていたからである。次に「歯をみがき、手を洗って西に向かい仏名(仏の名)を唱え、また普段信仰している神に祈る。次に日記をつけてから、粥を食べ、髪を櫛でとく。髪をとくのは男なら三日に一度でよい。次に手足の爪を切るが、丑の日には手の爪、寅の日には足の爪を切り、だいたい五日目ごとに風呂に入れ」こんな具合に。何から何まで迷信に支配されていた。

 

その後
 晴明の息子達も親の七光りで陰陽師として要職に就き、やがて安部家は陰陽寮(陰陽道の学校)で一定の地位を保った。しかしそのうち意見の相違から、別々の家に分かれてしまった。こだわりが強くなると対立するのは仕方のないことである。なお晴明亡き後、屋敷があった場所には晴明神社が建てられ「魔除け」「厄除け」の神社として人気がある。現在、京都市内の晴明神社と大阪市内の阿倍王子神社があり祀られている。 

 図上)京都市の晴明神社。安倍晴明像(安倍晴明神社・大阪市)。術比べに来た陰陽師の返り討ち。図中)式神の力を証明、安倍晴明公逸話集より。疫病神退治をする安倍晴明。図下)五芒星(ごぼうせい)とは、5つの角を持つ星マークで互いに交差する長さの等しい線で構成され、中心が五角形の図形である。5つの要素を並列的に図案化でき、世界中で魔術の記号とされ守護に用いられる。安倍晴明像。