菅原道真

 菅原道真は奈良で生まれ「学問の神様」と称されたように、その学力は非常に優れていた。菅原家は曾祖父の時代に学問をもって朝廷に仕える家柄となり、祖父の清公は私塾を設け、私塾からは朝廷の要職に数々の官人を輩出している。

 菅原道真はわずか5歳で和歌を詠み、11歳で初めて詩を詠み、周囲からは神童と呼ばれていた。18歳で道真は官僚養成学校の文章生となり、26歳の頃には「方略試」という難関試験に合格し、33歳で学者の最高位である「文章博士」になっている。道真は中納言に任じられ、朝廷の文化人の中心的存在になる。また学問だけでなく、弓矢は百発百中の腕前で文武両道に傑出した人物であった。

【幼少期につくったとされる漢詩】

月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房香

 

月の輝きは晴れたる雪の如し
梅花は照れる星に似たり
憐れむべし 金鏡転じ
庭上に玉房の馨れることを


今夜の月の光は、雪にお日さまがあたった時のように明るく、その中で梅の花は、きらきらと輝く星のようだ。なんて素晴らしいのだろう。空には月が輝き、この庭では梅の花のよい香りが満ちているのは。

 菅原道真は秀才の印象が強いが、しかし実際の菅原道真は女遊びが大好きで、正室の他に妾も沢山抱えており遊女遊びもしていた。道真は正室との間に家督を継いだ長男の菅原高視(すがわらのたかみ)を授かっているが、この他にも少なくとも10人の子供がいた。また平安時代きっての遊び人である在原業平と親交があった。

 政治家としての道真は非常には優秀で、42歳の時に讃岐守を任じられ、京都から讃岐国(香川県)の長官として赴任し、4年間で疲弊していた讃岐を見事に立て直している。干ばつの際に、道真は雨乞いの為に7日祈ると見事に雨が降ったという逸話が残されている。しかも誠実な人柄から多くの民に慕われていた。その後、その実績が買われ京都へ戻ると宇多天皇から大いに信頼された。

 菅原道真は身分の低い貴族だったが、学問に秀でた優秀な貴族として宇多天皇から重用され、官職は蔵人頭から中納言、大納言へと順調に出世の道を歩んでいった。

 

遣唐使の廃止

 50歳で遣唐使の長官に任命されるが、唐は乱れ学ぶものがないとして遣唐使を中止している。かつての唐は日本に比べてはるかに進んだ政治の仕組みや華やかな文化で知られていて、唐から学んで国づくりを進めてきた。しかし菅原道真が活躍する頃は、日本の政治や文化もかなり発展し、また唐では内乱が続いていたこともあり、菅原道真はもう危険を冒してまで唐から学ぶものはないとしたのである。そのため、894年に菅原道真は遣唐使の廃止を天皇に提案し受け入れられている。

 この遣唐使の廃止から数年後に唐が滅んでいることから、もともと遣唐使は意味をなさないものであった。それまでの日本の文化は唐などの影響を受けたものが多かったが、この遣唐使の廃止をきっかけに日本独自の文化が盛んになった。いわゆる「国風文化」と呼ばれるもので、これによって源氏物語を書いた紫式部や枕草子を書いた清少納言など、多くの作家が登場することになる。

 菅原道真は、天皇が宇多天皇から醍醐天皇に変わった後も昇進を続け右大臣になる。菅原道真の長女が宇多天皇の側室になり、897年(52歳)に権大納言という官職を授かっている。


阿衡の紛議
 当時の権力者・藤原良房が亡くなり、後を継いだのが良房の養子・藤原基経(実父は藤原長良)である。藤原基経は清和天皇の後を継いだ陽成天皇が、奇行が多いとして退位させ、884年に光孝天皇を即位させた。光孝天皇は政治を藤原基経に一任したが、光孝天皇は3年で亡くなり、次に即位したのが宇多天皇であった。

 宇多天皇は橘広相の娘との間に2人の皇子があり、このままでは次の天皇は藤原氏とは外戚関係がない状況にあった。宇多天皇は藤原基経と外戚関係になかったが、それでも関白という役職を新たに設置して「政治のことは藤原基経に任せる」とした。ところがこれを伝える文に「藤原基経を阿衡に任ずる」とあった。

 藤原基経は関白になりたかったのに「阿衡」という全然違う役職に任命されてしまったのである。阿衡とは昔の中国で用いられていた名誉職的な役職で、具体的な仕事はなかった。

 藤原基経は「阿衡とは摂政ではない。左遷するつもりか」 と激怒し、半年も仕事に出てこなかった。藤原基経だけならともかく、基経の息がかかった者も同調したので宇多天皇は仕事が出来ない状態になった。

 この「阿衡」という言葉は、宇多天皇のお気に入りの文章博士の橘広相(ひろみ)が起草したのだが、藤原基経としては橘広相と宇多天皇の親密ぶりが気にいらなかったのである。

  菅原道真は怒りまくっている藤原基経に、次のような手紙を送った。
1.文章博士などの役職にある人は、古典から言葉を引用して「詔」や「命令」を伝える文書を作るが、引用した全ての言葉の細かい意味などを完全に理解しているのは到底不可能なので、橘広相の書いた詔にある「阿衡」は藤原基経に権限がないと言う意味で用いたものではない。
2.もし橘広相を処罰するなら、文章博士などの役職に就いている人々はみんな罪に問われることになる。もしそうなればなれば文章道そのものが廃れてしまう。
3.橘広相は宇多天皇の即位に力を尽くした人物で、しかも嫁いだ娘は宇多天皇との間に2人の子供を産んでいる。その功績や血筋は、藤原基経でも到底かなわない。このような素晴らしい功績があり、才能もあり、血筋も文句の言いようがない橘広相を処罰することは藤原基経にとっても、これからの藤原氏の繁栄にとっても得策ではない。

 菅原道真は「橘広相を藤原基経よりも格上」としながらも、藤原氏の将来を心配する内容の手紙に藤原基経は大変感動し、藤原基経は怒りを収め、橘広相の罪を問わずに政界を揺るがした大事件は一気に解決に向かった。

 宇多天皇は橘広相の娘との間に2人の皇子を産み、このままでは次の天皇は藤原氏と外戚関係がない状況にあった。宇多天皇にすれば、自分は天皇なのだから権限を藤原基経に白紙委任するつもりはないと対抗したが、結局、宇多天皇が折れて「あの文章を起草した橘広相が悪い。阿衡とは関白は摂政と同じ権力を持つ意味である」と詔勅を発表した、藤原基経は橘広相を追い落とし、宇多天皇政権でも権力を確立した。

 

菅原道真の左遷   
 しかし宇多天皇としては面白いはずがない。阿衡の紛議を通して天皇の無力さを思い知った宇多天皇であるが、藤原基経のおかげで天皇になれたという経緯があるので露骨な行動はできなかった。直接藤原氏には逆らえないが、強くなりすぎた藤原氏の対抗馬として重用されたのが菅原道真であった。

 宇多天皇は藤原氏を天皇の外戚から外そうとして醍醐天皇を即位させ、醍醐天皇の妃として皇族出身の者を選んだ。これで藤原氏が天皇の外戚から外されようとした。宇多上皇は譲位後も、朝廷内で大きな影響力を持ち、醍醐天皇の治世になっても宇多上皇として活躍していた。宇多天皇は最高権力者・藤原基経の娘(藤原温子)と婚姻関係にあったが、宇多天皇は皇太子に藤原温子との子を指名せず、別の者を皇太子として指名した。こうして摂関の代表である藤原時平と宇多天皇の間は微妙な関係となってゆく。
 ここまでは宇多上皇の思惑通りであったが、ここで予想外の出来事が起こる。藤原氏の外戚排除のために醍醐天皇の妃が産んだ嫡男の為子内親王が亡くなったのである。そのため藤原時平は自分の妹の藤原穏子を新たに醍醐天皇の妃にしようとしたのである。
 この藤原穏子を醍醐天皇の妃にすべきかどうかの論争が、菅原道真左遷の原因となった。宇多上皇は一貫して藤原氏の力を弱め、従来の天皇親政を目指していたので、藤原穏子が妃となることに反対した。もちろん菅原道真は宇多上皇に抜擢された人物なので、宇多上皇と同じく藤原穏子の反対派にまわった。
 しかし醍醐天皇は宇多上皇とは正反対の考えを持ち。天皇と上皇の意見が真っ向から対立し意外な結末を迎えることになる。宇多上皇は譲位後も政治に強い影響力を持つ一方で仏教に熱中しついに出家して法皇となった。この出家により宇多法皇はお寺に居ることが多くなり、次第に政治への影響力が薄れていったのである。
 藤原時平は宇多法皇の影響力を排除するために、宇多法皇の側近・菅原道真を政治世界から追放することを考た。


昌泰(しょうたい)の変 
 菅原道真は右大臣に任じられ、国家の発展に尽くした。しかし901年、菅原道真は自分の娘婿(宇多天皇の子なので血筋的にも天皇になる資格を有している)を醍醐天皇の代わりに即位させようと企んだと、身に覚えのない冤罪によって大宰府へ左遷されたのである。また菅原道真に近い人物も朝廷内から一掃され、藤原穏子をめぐる争いは醍醐天皇・藤原時平の大勝利に終わり、藤原氏は再び天皇家の外戚の地位を取り戻すことになった。
 菅原道真の左遷は、一般的には宇多勢力を一掃するため「醍醐天皇と藤原時平が菅原道真を追放した仕組まれた冤罪」とされているが真相ははっきりしていない。醍醐天皇に関係なく、藤原時平と菅原道真の不仲説もあれば、菅原道真の娘婿は宇多天皇の息子であり天皇になりうる人物であったことから冤罪ではなく事実だったとの説もある。真相はどうあれ、左遷させられた菅原道真はその2年後の903年に亡くなってしまう。

学者
 菅原道真は文学者、詩人としても超一流で、日本書紀をはじめとする5つの歴史書をまとめ18の分野に類別し編集している。901年には「日本三代実録」の編纂事業にもかかわり六国史を完結させた。六国史とは「日本書紀」「続日本紀」「日本後紀」「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の6つの歴史書のことで、類聚国史はこれらををまとめたものである。詩の達人であった道真は、900年に菅家文草(12巻)、903年に「菅家後集」1巻をまとめ、和歌も一流で「古今和歌集」に34首が収録されている。

 家族とも十分な別れも許されないまま京都を離れる際、ご自宅の梅の木に次の別れの歌を詠まれた。
「東風(こち)吹かば 匂(にほ)ひおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春を忘るな」
歌の意味は「春になって東風が吹いたなら、その風に託して配所の大宰府へ香りを送ってくれ、梅の花よ。主人のこの私がいないからといって、春を忘てはならないぞ」

 

醍醐天皇

 897年、宇多天皇は突然、13歳の息子・淳仁親王(醍醐天皇)に譲位した。その理由は仏門に入るためだとか、藤原氏からの政治的自由を勝ち取るためとか色々な事を言われているがよくわかっていない。宇多上皇は醍醐天皇の正妃に藤原家とは関係のない為子内親王を入内させ道真・藤原時平の二体制で政治を行わせてゆく。

 ところがこの動きが完全に裏目にでた。藤原氏だけに任せないよう先手を打ち、宇多上皇の側近を醍醐天皇の周囲に置いたが、次第に醍醐天皇の中に宇多上皇と菅原道真の政治に対する不信感が募ってくることになる。
 譲位後、宇多上皇は道真の後ろ盾となるが、同時に仏道にも熱中し、899年には出家して東寺での受戒後仁和寺にて法皇となり、以前ほど協力出来なくなってしまった。鑑真和尚に由来する天台宗は朝廷との関わりが深かったが、それに比べると空海(弘法大師)が開祖の真言宗は朝廷との関係がどうしても希薄だった。真言宗の発言力が高まる事で宇多法皇の朝廷での発言権は増したされ勝ちであるが、宇多法皇は発言権を高めることより仏道に熱中していたのである。

大宰府への左遷
 宇多天皇は醍醐天皇に天皇の位をゆずると、菅原道真は右大臣へと破格の昇進をするが、菅原道真の成功を面白く思わない者がいた。中級貴族の道真の昇進が面白くない有力貴族や、道真が唱える急進的な改革を支持しない保守的な面々の反発が存在していた。さらに競争相手でもあった左大臣・藤原時平の策略により「菅原道真が醍醐天皇を廃そうとしている」という身に覚えのない疑いをかけられ、901年(57歳)に官位を下げられ、道真は無実の罪で九州の太宰府に左遷された。

 大宰府へ向かう際には、家族との別れも許されず、また馬や食糧の支給もない扱いだった。大宰府で与えられた屋敷は廃屋で、給料も使用人も与えられず、衣食に困るような厳しい軟禁生活を強いられた。皇室のご安泰と国家の平安、またご自身の潔白をひたすら天にお祈りされ誠を尽くされた。菅原道真は疑いが晴れるのを待つが、疑いが晴れることはなく大宰府に赴いてから約2年後の903年2月25日、菅原道真は大宰府にて死去し安楽寺に葬られた。享年59。

 菅原道真の遺体を牛車で運んでいたところ、牛が急に止まって動かなくなった場所が、そのまま菅原道真の廟所「安楽寺」になった。

 

北野天満宮

 華々しい経歴の後の急激な転落人生は、ひどく呆気ないものだった。だが道真の人生で大逆転が起きるのは死去した後だった。菅原道真が亡くなった後、醍醐天皇の付近では様々な不幸が起こる。左遷に関わった人たちが相次いで亡くなったのである。

 菅原道真と対立していた藤原時平は30代で病死。時平の息子も急死し、醍醐天皇の皇太子が21歳で亡くなり孫も5歳で亡くなった。藤原時平派の者達ばかりが亡くなったので、これが「菅原道真の祟り」と噂された。さらに天変地異も起こり、干ばつに見舞われ、雨乞いの話し合いをしていた貴族達に雷が襲いかり、かろうじて助かった者たちには、雷雲に乗った菅原道真の姿が見えたという。この落雷は朝廷内の建物に落ちたので、清涼殿落雷事件と言われその様子が絵巻によって伝わっている。

 醍醐天皇は恐怖におびえ病に伏し、天皇の地位を朱雀天皇に譲り、醍醐天皇が上皇なるが醍醐天皇も59歳で亡くなった。

 それから12年後に、一人の巫女に道真の神託が下り、それに従って祭られたのが、火雷天神で、5年後に平安京の北野に移し北野天満宮が建立された。

 数十年後には、すでに故人であるにもかかわらず太政大臣にまで昇進し、京都の北野天満宮に祀られた。こうして菅原道真は死んだ後に神様として祀られたのである。

 

学問の神様
 清涼殿落雷事件で菅原道真の怨霊は雷神として恐れられ、京都の北野に北野天満宮を建立し道真公の祟りを鎮めようとした。その後、大災害のたびに怨霊の仕業と言われ天神信仰が全国に広がった。このように怨霊として恐れられていったが、時代が経つにつれ生前の類稀なる秀才ぶりから学問の神様と呼ばれるようになった。

 福岡県の太宰府天満宮は、菅原道真を祭神として祀り、京都の北野天満宮とともに全国の天満宮総本社となっている。初詣には700万人が参詣し「学問の神様」として有名である。多くの受験生が合格祈願に参拝し、筆を買うと受験にご利益があると言われている。

 大宰府天満宮は幕末には京から逃れて来た三条実美ら公卿5人が約3年滞在した場所でもあり、土佐脱藩の坂本龍馬、土方久元や中岡慎太郎、薩摩の西郷隆盛や長州の伊藤博文、肥前の江藤新平らも太宰府天満宮を訪問している。本殿は桃山時代の建物で、国の重要文化財に指定されている。

図上)北野天神縁起絵巻に描かれた清涼殿落雷事件。

図中)太宰府天満宮。菊池容斎による菅原道真像。

図下)菅原道真公の五円札