蝦夷征討

 桓武天皇のおこなった二大事業は、中央集権化の強化のための長岡京・平安京への遷都と奥羽地方の蝦夷征討で、この二つの事業は同時に進められた。

蝦夷征討
 蝦夷征討は大和朝廷の支配地域を拡大するため、未開の異民族を征伐するという名目でなされたのである。関東以北の、陸奥・出羽地方(奥羽地方)の原住民(蝦夷)が取り立てて野蛮・凶暴だったわけではない。また蝦夷はアイヌと違い、関東以北に住む者を示している。

 天皇の(朝廷)いる大和・山背(山城)などの近畿周辺を文明圏とし、その文明圏から遠く離れた未開の蝦夷は、異民族が支配する地域とする感覚が当時の朝廷にあった。蝦夷攻略は飛鳥時代から続く「東国支配の延長上」にあり、律令制を整備しようとした聖徳太子以降、日本の領土を関東以北に広げるという政策であった。古代の昔から明治時代に至るまで、日本の中央政府は領土拡大政策を取ってきたが、平安時代には九州の隼人(はやと)は既に朝廷に服属していた。

 朝廷は服従する者には寛容に接し、稲作を教え朝廷の官人に任命して高官にまで昇進させた者がいた。しかし律令国家の行為に服従しない者は、いわゆる蝦夷として武力によって服従させられた。
 719年、奥羽地方を統治する官職として按察使(あぜち)が制定され、724年には東北支配の最大拠点である多賀城が建設された。多賀城には陸奥の国府と鎮守府を設置して東国征討が行われた。

 当時の東国は、律令国家に服従した民(俘囚)が開拓農民となって寒冷と戦いながら耕作に励んでいた。一方、服従しない民は山野で自らの民族の誇りを持って縄文時代からの狩猟・採集生活を送っていた。

 紀広純が按察使を務めていた780年に、朝廷に帰属していた蝦夷夷俘(俘囚)の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)が反乱を起こした。多賀城を襲撃した伊治呰麻呂は食糧・財物を収奪して放火したが、この反乱に対して朝廷は征東大使・藤原継縄(つぐただ)を多賀城に派遣した。しかし藤原継縄が率いる官軍は伊治呰麻呂らの俘囚軍に敗戦し、光仁天皇は征東大使を藤原小黒麻呂(おぐろまろ)に換えて、再度戦いを挑むが反乱の鎮圧に失敗している。

 784年から桓武天皇は本格的に陸奥地方の反乱の制圧に乗り出し、老齢の大伴家持が征東将軍に任命し陸奥の多賀城に向かった。しかし大伴家持は目立った戦果を上げることができずに陸奥の地で客死(かくし)している。大伴家持は万葉集の編纂に関与した歌人として有名であるが、元々大伴氏は軍事貴族で、家持自身も朝廷の武門としての自負を持っていた。

巣伏村の戦い
 788年の第一次征討では紀古佐美が征東大使となり5万2800人の兵士を率いて攻め込むが、胆沢(岩手県)に本拠を置く蝦夷の賊帥・アテルイ(阿弖流爲)に巣伏村の戦いで大敗している。

 征東将軍・紀古佐美は胆沢の入口の北上川に朝廷軍を駐屯させていたが、789年5月末に、桓武天皇から征討が進展していないことを叱責され進軍を開始した。

 朝廷軍は前軍4000人が衣川を渡って東岸を進み、残りの中・後軍は西岸を北進して、巣伏村で合流する作戦をとった。蝦夷軍約300人と交戦となり、当初は朝廷軍が優勢で蝦夷軍を追撃した。しかし蝦夷軍に約800人が加勢し、更に東の山に隠れていた蝦夷軍400人が現れ、朝廷軍は挟み撃ちにあい敗走した。蝦夷軍は遠征軍を前後に囲み、北上川に追い落とす作戦をとるが、これが見事にあたり、甲冑姿の朝廷軍は戦わずに溺死しその数は2600人余りとなった。

 さらにアテルイ(阿弖流爲)率いる蝦夷軍は普段は森に隠れては、相手の隙に乗じて森の中から出撃してきた。この神出鬼没による弓矢の戦いで、朝廷軍は翻弄され失敗に終わった。

 791年には第二次征討として、征東大使・大伴弟麻呂と副使の坂上田村麻呂が任命された。坂上田村麻呂は指揮を取る事になり遠征の準備に入った。坂上田村麻呂はそれまでの軍制を改革し、防具を強化するなど、兵士の質を改善し、793年に大伴弟麻呂と坂上田村麻呂らが遠征を開始した。

 坂上田村麻呂は副使ながら中心的な役割を果たし、794年6月には初めて蝦夷軍に勝利している。征夷大将軍は大伴弟麻呂であったが、実際の戦いで武勇を見せたのは坂上田村麻呂であった。

 下図)鹿島神宮にあるアテルイの像、ねぶた祭りでのアテルイの像、巣伏村の戦いの跡と蝦夷軍の攻勢、朝廷軍2600人を溺死させた北上川。

 坂上氏について

 坂上田村麻呂の祖先の坂上氏は百済から渡来した「東漢氏」の一族である。東漢氏は直姓で支族が多く、その後多くの氏に分裂し、住みついた所の地名を氏としてそれぞれが発展した。

 坂上氏は大和国南部に本拠を持ち、高取町(奈良県)大字観覚寺の坂ノ山を居住したことから坂上と称し、飛鳥時代から平安時代にかけて武門の氏族として軍事に関与することが多かった。坂ノ上には坂上田村麻呂の邸宅があったと伝わっている。

 当時の日本人は渡来人を異民族として敵視するようなことはなかった。それは渡来人の進んだ技術・文化に対して素直に敬意を抱き、また当時の日本人の間には「まれびと信仰」つまり「外から来訪する神や人は幸せをもたらす」として歓迎する風習があった。このような風習を背景に、渡来人たちがその地に土着して、その子孫が定着したのである。
 坂上氏が歴史の表舞台に現れるのは、壬申の乱で東漢氏一族が大海人皇子(吉野朝廷)に味方し、なかでも坂上氏の軍事活躍はめざましく、大伴吹負(ふけい)と共に飛鳥に攻め入り、大友皇子(近江朝廷)の有力な戦略拠点を制覇している。この功績により坂上氏一族は昇進し、田村麻呂の祖先である坂上老(おゆ)は正四位下の位を与えられている。
 祖父の坂上犬養は四つの職を兼ねる高官にまで昇進し、最後は出身地の大和国府の長官として赴任している。父の坂上刈田麻呂(かりたまろ)は、陸奥鎮守将軍、安芸守、丹波守、越前守、右下総守などを歴任し、従三位の地位に出世した。また娘を天皇の後宮に入れ内親王が生まれている。刈田麻呂は大和国高市郡と大和高田・御所両市の一部の郡司を同族に任命するように上奏し同族を郡司にしている。

 桓武天皇は積極的に蝦夷征討に力をいれた。その理由は律令政府の威力を東国におよぼし、未開の民を律令政府に服従させることであった。これは中国の影響を受けたもので、中華思想つまり自国の政治文化などを周辺の諸国よりはるかに優れたものとして、その高度な文化や思想を全国に及ぼそうとして、国土・人民のすべてを天皇の支配下に置きたかったのである。政治は天皇の儒教的な徳により治めるとする考えだった。
 さらに東国の陸奥・出羽は豊かであり、この豊かな土地を獲得し、そこから生産物を確保したかったのである。

 

坂上田村麻呂

 奈良時代末期から平安時代の初期まで、坂上田村麻呂は東北地方の征討・統治に大きな貢献をして、優れた武人として尊敬された。坂上田村麻呂は武人であるが貴族階級の出身で、名前から公家のような華奢な姿を想像するが、身長は180センチを超え、体重120キロ、胸板が36センチで堂々とした体格である。禽類のような瞳と黄金の顎髭を持ち見るだけでも圧倒され、怒怒って眼をめぐらせば猛獣をたちまち倒し、笑って眉を緩めれば赤ん坊もなついくとされていた。

 この田村麻呂は、758年に坂上苅田麻呂の3男として生まれた。苅田麻呂を父に、坂上犬養を祖父にもつ田村麻呂は、武門の子弟として23歳で近衛将監、30歳で近衛少将となった。坂上氏は走る馬から弓を射ることが得意な武門の一族で、宮廷に寝泊まりして天皇の警護にあたっていた。

 田村麻呂は971年征夷大使・大伴弟麻呂の副使になり、第二次征討の準備を任されていた。田村麻呂は兵士の質や武器を調べると、兵士は大部分が農民の子弟で、生活苦を背負っている者ばかりだった。畿内をはじめ諸国の農民の生活は、旱魃や疫病が流行り、さらに租庸調の税金が重くひどい状態であった。征夷のために武器や食料を調達することを命じられても調達できる状態にはなかった。田村麻呂は皮製の甲(よろい)を富裕な農民層と五位以上の貴族に差し出させた。これまでの一般農民からの徴兵に加え、郡司の子弟を選んで健児(こんでん)と名づけ、彼らに諸国の役所や武器庫を守らせる大幅な改革案を上奏し許可された。

 陸奥と出羽だけは蝦夷との交戦を目前に控えていたため、従来の軍団制をそのまま存続させたが、兵士の質は以前よりだいぶ改善され、第2次蝦夷征討にはそれなりの成果をあげた。また多くの兵士が短期間の戦闘にもかかわらず逃亡して捕えられた。従来ならば死罪になるところを、陸奥国に流罪にする名目で、柵を守る農民兵(柵戸)として彼らの命を救った。田村麻呂はこの功績により従四位下に昇進している。

 坂上田村麻呂は遠征の準備に入り、それまでの軍制を改革し、防具を強化するなど、兵士の質を改善し、793年に大伴弟麻呂と遠征を開始した。田村麻呂は副使ながら中心的な役割を果たし、794年6月には初めて蝦夷軍に勝利を収めている。征夷大将軍は大伴弟麻呂であったが、実際の戦いでは田村麻呂が卓越した武勇を見せた。

 797年に桓武天皇によって坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命された。征夷大将軍という官職は中国の中華思想と律令政治が背景にあり、天命を拝受した天子(皇帝・天皇)が夷狄(いてき=野蛮な異民族)を征伐するという意味がある。ちなみにこのときから「征東将軍」ではなく「征夷大将軍」と名称が変わる。

 797年の第三次征討では、坂上田村麻呂が初めて征夷大将軍に任命され、勢力圏を多賀城からさらに北へと拡大した。蝦夷との戦いに勝った田村麻呂は胆沢城(岩手県奥州市)を造営し、胆沢城は行政機関としての役割を果たすようになる。
 801年、田村麻呂は桓武天皇から節刀を受け、4万の軍を率いて大規模な蝦夷征討を行い、アテルイ(阿弖流爲)と激突している。田村麻呂は苦戦を強いられたが、胆沢城より更に北に進出するなどの成果を得ている。翌年にはアテルイ(阿弖流爲)とモレ(母礼)が同族500人とともに田村麻呂に降服した。蝦夷軍の指揮官であったアテルイ(阿弖流爲)とモレ(母礼)が胆沢城で投降したが、それは戦乱が続き土地が疲弊し、蝦夷にも農耕や養蚕などの文化が発展し、戦う理由がなくなったからとされている。

 アテルイは田村麻呂との戦いで田村麻呂の器量を認め、田村麻呂なら命を預けてもよいと思った。田村麻呂も蝦夷制圧後は、アテルイを現地官人として蝦夷を治めさせようとした。
 802年7月10日に、田村麻呂は投降したアテルイとモレを連れて平安京に凱旋した。田村麻呂はアテルイの助命を願い出て「アテルイに東北運営を任せるべき」と提言したが、アテルイの武勇を恐れた貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と死罪を要求し決定された。

 8月13日に河内国の植山にてアテルイとモレは処刑された。処刑された植山は現在の牧野町と推定され、牧野町にはアテルイの首塚とされる「蝦夷塚」の石碑(牧野公園)が立っている。

 田村麻呂は二度の征討においてすぐれた武勲を立てただけでなく、帰降した蝦夷の取扱いに誠意をもってあたり、蝦夷や俘囚から大きな信頼が寄せられた。また俘囚でも戦功のあった者は昇進を取り計らい、公民として改姓を願い出た者にはそれを認めるなど、蝦夷の身分差別の解消にも配慮した。こうして田村麻呂は朝廷以外にも、東北の人々にも偉大な将軍として神格化され、田村麻呂を祀る寺社が岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布している。
 胆沢城の北には軍事的な前線基地として志波城が造営され、さらに志波城は徳丹城へと移された。蝦夷を平定した坂上田村麻呂の奥羽の拠点は多賀城・胆沢城・徳丹城(志波城)となったが、桓武天皇の深い信任を受けた田村麻呂は「征夷大将軍・陸奥守鎮守将軍」として陸奥・出羽の全権大使となった。

 蝦夷反乱を鎮圧して東北地方(奥州地方)を日本の領土に組み込んだ田村麻呂は、その後、国政に直接関与する参議の職に任じられた。参議とは現在の内閣の大臣に相当し、坂上一族では彼だけが参議になった。

 809年の薬子の変では嵯峨天皇側に付き、田村麻呂は美濃道を通ってきた上皇軍の側近の藤原仲成・薬子兄妹を打ち破り、処刑または自殺させたことにより嵯峨天皇の勝利を導いた。
 桓武天皇は財政難から蝦夷遠征を中止したが、田村麻呂は武力だけでなく頭脳明晰で、参議、中納言、大納言と出世してゆく。田村麻呂は「私が死んだときは、身体に鎧と甲をつけ、手には太刀をにぎらせ、立ったまま埋葬してほしい。いつでも御所を守っていたいから、御所の見えるところに埋めてほしい」と遺言して、811年に粟田の別宅で病死した。享年54であった。

 嵯峨天皇は悲しみのあまり政務を取ることができず、田村麻呂を称える漢詩を作りその死を惜しんだ。田村麻呂の遺体は遺言通りに平安京を守護するように山城国宇治郡来栖村に埋葬された。後に国家に大事が起きたときには、この墓が雷鳴のようにゆれ動いたとされている。また朝廷から将軍の号をうけた者が出征するときには、田村麻呂の墓に行き戦勝を祈願するようになった。
 なお田村麻呂は京都の清水寺、富士山本宮浅間大社を創建している。780年、鹿を捕まえるために京の山に入った田村麻呂は、鹿を探しているうちに綺麗な水を見つけ、その水源の家で延鎮上人と会った。延鎮上人から「殺生はいけない」と教えられ、それに感銘した田村麻呂がお堂を滝の近くに建てたのが、清水寺の始まりである。田村麻呂というと猪武者を思い起こすが、文武両道の優秀な人物だった。
 田村麻呂は「武人の鑑」として神格化され、生前には毘沙門天の化身との評判が立ち、胆沢の鎮守府八幡宮には田村麻呂の剣や弓矢が奉納され、わが国を守る武家の崇拝の対象となっている。

 また田村麻呂は蝦夷と戦う武人にみならず、各地で様々な鬼や盗賊を退治している。鈴鹿山の鬼を退治し、伊勢の鈴鹿山にいた悪路王や大嶽丸のような鬼の頭目を陸奥近くまで追って討つなど多くの伝説を残している。
 桓武天皇と坂上田村麻呂による東北征討の後には、嵯峨天皇が文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)を陸奥按察使・征夷大将軍にしている。文室綿麻呂は蝦夷を日本各地へ強制移住させ、蝦夷は次第に日本に同化していく。日本各地に「俘囚料」という行政支出が書き残されていて、服属した俘囚の同化政策のために俘囚の強制移住が行われたことがわかる。

 かつては東北の先住民を蝦夷と呼んでいたが、坂上田村麻呂や文室綿麻呂の征伐によって朝廷に服属する蝦夷が増え、蝦夷は俘囚(ふしゅう)、夷俘(いふ)と呼ばれた。俘囚は朝廷に完全に服属した者で、夷俘は中央政府への服属や同化の程度が弱いという意味がある。しかし蝦夷の人たちは朝廷の軍事力によって強制的に服属させられたので、9世紀以降も何度か反乱蜂起が起きている。

元慶の乱
 878年には出羽地方(秋田県)で俘囚の反乱蜂起が勃発した(元慶の乱)。この反乱は秋田城司の俘囚に対する重税と抑圧・差別が原因で、元慶の乱の平定に藤原保則(やすのり)と蝦夷の言語に精通している鎮守将軍・小野春風が当たった。

 反乱が官吏の苛烈な悪政にあると判断した藤原保則は、俘囚(夷俘)の反乱に武力鎮圧を用いず、小野春風による対話による懐柔策で臨み、俘囚たちを自発的に投降させた。

 このように桓武天皇の2大政策である平安京の造営と蝦夷征討は意欲的に進められたが、この2大政策は国家財政に負担をかけ、藤原百川の子・藤原緒嗣(おつぐ)の進言によって造都と蝦夷征夷事業は中止となった。桓武天皇は合計5回の蝦夷征討(東北征討)を実施しているが、5回目の蝦夷征討(804年)の2年後に崩御している。

 桓武天皇が採用した制度として、軍団制にかわる健児の制が設けられている。健児の制は郡司の子弟に国府などの守備をさせることで、東北や九州などの地域以外に設けられた。また地方行政の監視を強化するために勘解由使(かげゆし)が新設された。この勘解由使は、国司や郡司が交代する際、前任者に不正がなかったかどうかを、また租税や官有物が正当に管理されていたかどうかを、引き継ぎ者が調べることで、その書類である解由状が適正かどうかを審査して不正を取り締まるものであった。

 元慶の乱の後には暫く俘囚の反乱は影を潜めるが、11世紀には俘囚長・安倍頼良が源頼義に反旗を翻す「前九年の役」と俘囚の清原氏が滅亡する「後三年の役」が起きている。