国風文化

国風文化
 弥生時代から奈良時代まで、日本は中国(漢・隋・唐)や朝鮮、さらにインド・イラン(ペルシャ) までの文化を学んで、日本なりにその文化を発展させてきた。つまりは日本の文化は模倣の文化であった。

 しかし唐(中国)で内乱が頻発し国力が弱まり、遣唐使を送っても得るものが少なく、難破の危険を冒してまでも遣唐使を送る意味がなくなった。そのため日本の政治や文化の上で大きな役割を果たした遣唐使は、894年に菅原道真によって取り止めになった。

 この遣唐使の取り止めによって、日本の文化はこれまでとは大きく変わった。十分に中国から学んだ日本が自分の足で立ち、自分なりの文化を形成したのである。日本風の優れた文学や絵画がたくさん生まれ、日本人の気持ちに合った文化が平安時代の国風文化である。
 日本はこれまで大陸文化を巧みに消化し、日本の風土や生活や人情、嗜好などに合わせた洗練された文化を生み出してきた。この大陸重視の文化から、徐々にわが国にかなった日本的な文化へ変化してきた。菅原道真によって遣唐使が廃止されたことがきっかけではあったが、むしろ国風文化が栄えたのは中国への留学が廃止されたことより、日本古来の風土や習慣、実生活などを見直す気運が高まったからである。この日本古来の文化を見直す気運こそが国風文化の大きな要因となった。

 その特色は貴族社会を中心に醸成された繊細で優美な文化で、この時期は、藤原氏の摂関政治の最盛期に当たり、藤原氏などの宮廷で繰り広げられた文化だったことから藤原文化ともいえる。宮廷では華やかな服(十二単)を着飾った女性が宮中を飾り、それまでの唐絵とは違っていた大和絵(やまとえ)や絵巻物(えまきもの)が飾られ、寝殿造。日本独自の文学や美術が数多く生まれたが、そのなかで最大の発明は「かな文字」で、かな文字を使って多くの文学作品が作られた。

 

仮名文字
 わたしたち日本人は文字を普通に書くことができる。しかし中国から漢字が伝えられるまでは物事を人に伝える手段は口伝が主流だった。漢字が中国から入ってきたことが、日本の文化に大きな影響を与えたことは言うまでないが、中国から輸入された漢字が日本独自に改良され万葉仮名として使われるようになった。さらに万葉仮名が「仮名文字」としてさらに使用しやすくなった。この「仮名文字」の登場が国文学の発達に大きく寄与した。

 かつての日本には独自の文字がなく、中国の漢字の音訓を借りて1字1音にあて、楷書や行書の漢字で書いたのが「万葉仮名」で、「万葉仮名」をさらに崩して草書体にしたのが「草仮名」で、「草仮名」をさらに簡略化したのが平仮名(ひらがな)である。

 
このように平仮名は万葉仮名の草書体から生まれた。例えば「波」という字は「は」と読むので、ひらがなの「は」という字がなかったので漢字の「波」という字をあてて書いていた。この「波」という宇を柔らかく崩したのが、ひらがなの「は」である。つまりひらがなは四角ばった漢字を柔らかく崩したのである。

 また片仮名(かたかな)は仏教経典の難しい漢字の一部を省略してルビを振っていたのを漢字の扁(へん)や旁(つくり)の一 部をとったものある。漢字の偏やつくりから作ったもので、例えば「加」という漢宇を編だけにすると「カ」になる。
 このように仮名文字が出来上がったことにより、日本の言葉を自由に簡単に書けるようになり非常に便利になった。
 この「平仮名や片仮名」によって、これまでに比べて一層多くの人々が、読み書きできるようになった。平仮名と片仮名の使用によって、日本人特有の感情や感覚の表現が可能になり、和歌や物語の創作をうながし文学の飛躍的な発展をもたらした。

 漢字よりも平素で書きやすく、日本人としての心情を訴えやすい仮名文字は、女性が日常生活の中で使用したので女手(おんなで)と呼ばれ、女房文学の発展に寄与し、仮名文字が女性の進出を促した。

 仮名文字は主に女性が使用する文字で、藤原氏が娘の后妃たちを教育するため侍女に才媛を求めた。平安時代の貴族たちは、当時の権力者であった藤原氏と外縁関係になるために自らの娘たちに高度な教育をほどこしていた。仮名文字はそのような教育の一環として使われていき、貴族子女たちにとっては一般的な文字として受け入れられていった。また学問があまり必要でなかった人も、この仮名文字を使っていろいろなものを書くようになってきた。

 平安時代の貴族社会ではかな文字は仮名は仮の文字の「かりな」の音便形「かんな」がつまって「かな」になり、漢字こそが正式の文字であるという意識があった。そのため仮名・女手に対して、漢字は真名(まな)とか男手(おとこで)と呼ばれていた。
 しかし字画の多い漢字を書くのは骨が折れ、書くのに時間がかかり、漢字を覚えることがたいへんであった。たとえば「大漢和辞典」には5万字もの漢字が収録されているが、平仮名ならば覚える数は50字もない。漢字の千分の一の量を覚えれば自由自在に日本語を表現できるのである。
片仮名や平仮名の発明は膨大な労力から解放し、1字1音の表音文字は、わが国の文化の発展に大きく寄与した。仮名文字が生まれた結果、日本人特有の感情や感覚が生き生きと表現できるようになった。和歌や物語・随筆・日記など、仮名で書かれた国文学がおおいに発達した

 仮名文字は国風文化の代表的なもので、仮名文字は国文学の発達に大きく寄与し、この方面への女性の進出を促し女房文学が登場した。元々、日本は文字を持たない民族で、中国から輸入された漢字を使って硬い文章を書いていた。しかし紫式部と清少納言という二人の女流作家の登場により、平仮名・カタカナという日本語を表現しやすくした文字が一般的に使われるようになった。

 学問のある学者や役人たちは、この優しい文字を馬鹿にして相変わらず難しい漢字を使い公的文書や漢詩や和歌を書いていた。漢字・漢文は男の教養であって、女性が漢字の読み書きをすることは貴族社会ではあり得なかった。紫式部は主人の彰子から漢詩について尋ねられても人目をはばかって漢字を知らないふりを通した。紫式部日記のなかで「漢詩・漢文の知識をひけらかす清少納言ははしたない女性」とこき下ろしている。

 当時の体験を現代に届けてくれた紫式部と清少納言の女流作家は、平安時代を代表する人物としてとりあげるにふさわしいが、同ライバル意識があったのは否めない。紫式部は恋愛小説の決定版とも言える「源氏物語」を、清少納言は随筆として名高い「枕草子」を世に送り出し、両作品ともに当時のベストセラーとして貴族の間で親しまれ、仮名文字が一般化することになる。

 また紀貫之などのように進んで仮名文字を使った男性もいた。紀貫之の書いた「土佐日記」は仮名文字の文学作品として知られている。これらの作品は現代においても古文の授業だけでなく、愛読書として読まれている。また当時の日記は、現在の日記とは違い、他人に読ませることを目的にしていたため、歴史的資料としても重要なのである。

言霊(ことだま)の世界
 言霊(ことだま)とは「言葉に宿ると信じらる神秘的な霊力」で、万葉時代ごろから信じられるようになった。すなわち「心をこめて言葉を念じれば、その願いが叶えられ」、その逆に不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされていた。
 日本の神道では「言霊で念じれば、怨念を鎮魂できる」として、怨霊以外にも、気候不順、天災や疫病も克服できるとしてきた。「言葉には命が宿っていて、使い方次第で人生まで左右する」としたのである。
 平安時代は世界最古の長編小説「源氏物語」や「竹取物語」「古今和歌集」などの名作が数多く創作されたが、それらは我が国独特の「言霊」の世界観による。

 紫式部は藤原氏絶頂期の藤原道長に仕えていたが、その紫式部が「藤原物語」ではなく、なぜか「源氏物語」を書き、それを藤原道長が絶賛しているのである。最高権力者なら絶賛ではなく懲罰であろうが、それは書いた目的が違うのである。源氏物語は政敵たちの怨霊を鎮魂するためとされ、物語の中で不幸な生い立ちの「光源氏」を美化することで、皇位につけずに高い官職にも就けなかった幾多の「負け組」たちの怨念を鎮魂するために書かれたからである。藤原氏を中心とした平安貴族たちは、陰謀による蹴落としや陰謀政争に対してうしろめたさがあった。「負け組」の怨念から逃れるために、彼らの恐怖心が世界最高峰の文学を生んだのである。
 「竹取物語」も同じである。竹取は賤民の総称で、かぐや姫は賤民の輝ける代表であった。その賤民のかぐや姫が貴族や天皇を袖にする有様を描き、朝廷に虐げられた人々の怨念を鎮めたのである。古今和歌集も同じで、小野小町を初めとした六歌仙は政争に負けた人たちで、古今和歌集の紀貫之ら撰者たちは、彼らを美化して怨念を鎮めようとしたのである。さらに言えば、比叡山延暦寺や南都興福寺といった仏教寺院は、学府としての機能も果たしてはいたが、最も期待された役割は「怨霊鎮魂」であった。このように霊と怨霊は、平安文化を語る上で欠かせぬキーワードである。
 ちなみに神社も鎮魂のためで、出雲大社は大国主尊(おおくにぬしのみこと)の霊を慰め、太宰府天満宮は菅原道真の霊を慰めるためである。これが英雄賞賛に変えたのが豊臣秀吉で、秀吉は豊国神社の豊国大明神に、徳川家康は日光東照宮の東照大権現になっている。

 古来から「言」と「事」は同じ概念で用いられ、かつての日本人は言霊を信じていた。しかし現在の日本人は言魂を自然に身につけていることが多い。このことは結婚式のスピーチに生きていて、結婚式では忌み言葉を避ける習わしがある。「去る」「帰る」「別れる」「割れる」「落ちる」などを結婚式で使ってはいけないことは言霊信仰から来ている。良いことを言えば良いことが、悪い事を言えば悪い事が起きるとされていからである。

 言葉の力は良い意味の言葉を発すれば幸せになり、悪い意味の言葉を発すれば不幸が訪れることが基礎にある。いつも「ああ、いやだなあ」とか「もうダメかも」というのが口癖の人にはネガティブな事象が多く、元気よく「私は幸せだ」とか「私はラッキーなんだ」を言い続けている人は、それなりに素敵なことが起こり続ける。ただ単に言うよりも感情を込めて言えばさらに運は増す。

 しかしながらこのようなネアカ、ネクラの世界は、言霊ではなく自己啓発で使われる用語であろう。
  言霊は言葉に神が宿る崇高なものであるが、日本語には意味深い言葉がある。ありがとうは「有難たい」、つまり滅多にないことへの感謝の気持ちである。ごめんなさいは「御免」で、どうかあなたの寛大さで許して下さいである。このように日本では意味深い言葉が軽く頻繁に使われている。
 さらに言葉以上に重要なことは、無言の重みである。たとえば英語のアイに相当するのは、私、僕、自分、俺、小生など多数あることが指摘され、西洋人は「I Love You」というが、これは日常の挨拶語で、もともと日本にはない言葉である。日本にはLove の表現は、恋しい、いとしいで、いつくすむなど20種類以上あるが、日本人は言わなくてもわかるという「察する文化」があるので、大切な人ほど愛という言葉は使わない。「男は黙ってサッポロビール」の名句のように、言葉以上に無言の言葉には力がある。
 現代において、昭和の歌がまだ歌われている。それは哀愁を帯びた歌詞が心を震わすからである。時代が変われば歌も変わるが、今の若者たちの歌はどうだろうか。英語混じりの意味不明の歌詞である。これを表現するならば統合失調症(分裂病)の歌詞である。言霊などあるはずがない。4649(よろしく)と言えば、931(くさい)と答える語呂合わせ以下で、このような歌詞が心に響くはずがない。

 また現社会では逆のかたちもある。一番多いのはマスコミと健康食品で、ひとつの悪を100倍に悪く言う者が、ひとつの恐怖を100倍に膨らませて書く文筆家がもてはやされる。これらは不安に付け入る商売であるが、そのため世の中はいっそう暗いお化け屋敷になっている。

 また「あってはならないものは指摘してはならない。または議論してはいけない」という日本人の特徴がある。第二次世界大戦では「日本は負けるのではないか」ということは禁句であった。戦後もおいても同じように、縁起でもないということがある。災害にあって数ヶ月経っても、死亡者とは言わないことで、もし遭難者が数ヶ月たち、その遭難者を死者と言ったらアナウンサーは即クビになるのが日本である。また閣僚の言葉尻をとらえ揚げ足を取るのが日本なのである。

 また言葉だけでなく、音にも魂や霊を追い払い、場を清める働きがある。たとえば神社にお参りする時の拍手、神事での太鼓、演奏会などでの拍手である。

 

 和歌とは

 和歌とは日本の定型詩の総称で、短歌や俳句は和歌のいち分野である。和歌は古代からある漢詩に対する呼称で、やまとうた(大和歌・倭歌)あるいは単にうたという。五音と七音を標準として、狭義には31音を定型とする短歌のことを指すため、三十一文字(みそひともじ)とも言う。奈良時代には倭歌(わか)・倭詩(わし)と言った。
 また日本神話ではスサノオが詠った「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を」が日本最初の和歌とされることから、「八雲の道」といえば「歌道」の事で、同じく「歌道」を表す言葉として大和・日本を表す敷島(しきしま)を使用したため「敷島の道」ともいう。これは直訳すれば「日本の道」という意味になり、歌を詠むことが日本古来からの文化であることを示している。
 短歌(たんか)は和歌のいち分野で五・七・五・七・七の詩形の歌で、万葉集の初期に成立し、長歌が作られることがなくなるにつれて和歌といえば短歌をさすようになった。奈良時代には長歌に対して短歌、平安時代以降は漢詩に対して和歌、明治時代後半からは新体詩にたいして再び短歌と呼ばれて現在に至っている。和歌は私性の詩と呼ばれるほど、作者の主体性が強く表現されている。 
 なお近代短歌と和歌の大きな違いは、近代短歌では枕詞、すなはち「たらちねの」とか「ぬばたまの」とかいった決まり文句を使わない点があげられる。これは限られた字数をより有効に使おうとする考へからである。

和歌の言霊
「志貴島(敷島)の 日本(やまと)の国は言霊の 佑(さき)はふ国ぞ ま福(さき)くありこそ」(しきしまの やまとのくには ことだまの さきはふくにぞ まさきくありこそ)  これは柿本人麻呂が詠んだ和歌で、唐に行く遣唐使が海路を行くときに詠んだ歌である。日本は言霊が幸いをもたらす国なので、私が「ご無事でいて下さい」と言っているのだから、無事でいて下さいとのべている。
 日本人は古来から日本語を使っており、それは漢語とは違う大和言葉であり、大和言葉には神々が宿るとしていた。上記の和歌は遣唐使が海路の危険を乗り越えてゆくには霊力が必要で、柿本人麻呂は「言霊によって危険を超えよと願ったのだから、この歌を何度も音読すれば旅の無事が約束される、としている。まさに大和言葉には神の力が宿り、大和の人はそれを使いこなしていたのである。次に有名な和歌を紹介する。
有名な和歌
1.「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(やくもたつ いずも やえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)
 この句は天皇家の祖神・天照大神の弟、ヤマタノオロチ伝説で有名な須佐之男命(スサノオノミコト)の歌である。須佐之男命がヤマタノオロチを退治した後、櫛名田姫との新婚の宮を建てる際、何重の雲が立ち上るのをみて詠んだとされている。紀貫之はこの歌が和歌の起源としている。

2.「ひむがしの 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ」

(柿本人麻呂)
 東の野に陽炎が立つ。太陽が今まさに昇ろうとするとき、後ろを見れば月が傾いている。この雄大な和歌は、まさに万葉集の代表といった風格がある。詠み人は紀貫之や藤原俊成をして「歌の聖」と讃えられた柿本人麻呂である。実はこの歌、登る太陽に軽皇子を、沈む月に亡くなった皇子の父・草壁皇子をたとえたとされている。草壁皇子は天武天皇の息子でありながら、即位することなく28歳の若さで早世してしまった。柿本人麻呂は若々しい軽皇子に次の時代を感じながらも、草壁皇子の無念さに心を寄せている。ちなみに太陽と月が逆になると「菜の花や 月は東に 日は西に」(与謝蕪村)となる。いずれも明暗のコントラストが美しい歌である。

3.「唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」(在原業平)
 六歌仙の一人である在原業平の歌である。何度も着て身になじんだ唐衣のように、長年なれ親しんだ妻が都にいるので、その妻を残したままはるばる来てしまった旅のわびしさを、しみじみと思い歌ったのである。 京からの長い旅中、愛しい妻を思い綴った歌である。これは伊勢物語の中で特に有名な「東下り」の中の句であるが、各句の頭をよむと見事に「か・き・つ・ば・た」となっている。和歌の修辞法が全て詰まっている歌で、この「かきつばた」の歌が後世に多大な影響を与えた。

4.「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに」

(小野小町)
 言わずと知れた六歌仙の小野小町の歌である。これは百人一首、古今和歌集あるいは日本の和歌を代表する歌といって過言でなく、この三十一文字のなかに日本の美意識が凝縮されている。桜の美、それも散り行く桜。そこにこめた寂寥の思い。藤原定家はその歌論の中で「余情妖艶」こそが歌の核心であるとし、小町小町がいなければ恋歌もなく源氏物語のような恋物語は生まれなかったとしている。

5.「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(菅原道真)
 菅原道真は大宰府天満宮に祀られ、学問の神様として有名である。その学識の高さから宇多天皇に重用され、醍醐朝では右大臣にまで昇進した。しかし急激な出世は反感を招き、ついには大宰府へ左遷されその地で没した。
 この歌は太宰府へ旅発つとき、屋敷内の梅の木に語りかけるように詠んだものである。ちなみにこの梅、ご主人を追いかけて遠く大宰府まで飛んでいった「飛梅伝説」が語り継がれている。三大歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」はこの伝説を主題としている。

 道真は漢様と和様の融合をなした人で、自らの漢詩集を何冊も書くほど漢詩に長け、漢詩の心を和歌で育んでいる。

6.「袖ひぢて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ」(紀貫之)
 古今和歌集の代表的選者である紀貫之による和歌である。夏の日に袖を濡らした、両手ですくった水は、冬凍っていたのを立春の温かい風が溶かしてたのだろ。このように四季の移ろいはとは本来とりとめのないものである。それを貫之は新しい美の形式とし強く意識してつくっている。まさにここに古今和歌集の美学・理想が凝縮されている。そしてこの感覚は日本人の「四季感」となって今も息づいている。

7.「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」(藤原道長)
 左大臣藤原道長は長女の彰子を一条天皇のもとへを入内させ、一条天皇にはすでに先の后・藤原定子がいましたので、一帝二后という過去に類のない状況を生み出した。ちなみに彰子には紫式部が、定子には清正納言が女房として仕えていた。道長の策略はその後も続き、次女の妍子を三条天皇の中宮に、四女の威子を後一条天皇の中宮にするという「一家三后」と謀略の限りを尽くす。中臣鎌足に始まる藤原摂関家は、不比等、良房をへてついに絶頂を極める。この和歌はその帝王・藤原道長の歌である。しかしこの歌の翌年、道長は病に侵され、出家したが病に勝てずに死去している。

8.「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」(崇徳院)
(岩に当たって別れてしまった水の流れも、またいつかは一つになる)。崇徳院は皇族の中でも、最も悲劇的な人物である。崇徳院は形式上は鳥羽上皇が父であるが、本当は祖父の白河上皇の子で、祖父の白河上皇が待賢門院(藤原璋子)をはらませたまま、鳥羽上皇と結婚させたのである。鳥羽上皇は躰仁親王(なりひと)を即位させ近衛天皇とし、崇徳院は実権のない上皇となった。近衛天皇が崩御すると崇徳院は実子の重仁親王の即位を画策するが、結局それは叶わず、後白河天皇が即位した。鳥羽上皇が崩御すると、天皇家、摂関家、武家がふたつに分かれ内紛が始まる。この保元の乱で敗れた崇徳院は讃岐に流され、二度と都の地を踏むことはなく、乱の8年後に46歳で崩御した。崇徳院は後白河天皇の仕打ちに激怒し、鬼のような姿のまませ朝廷を呪い続け怨霊となった。

9.「願わくば 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ」(西行法師)
 西行法師は鳥羽院の北面武士として仕えていたが、若くして出家した。平安末期における最も有名な歌人である。西行法師の生き方は、松尾芭蕉などの俳人をはじめ、多くの日本人に影響を与えた。この歌は僧でありながら最後まで「美」を求め続けてきた自分への死の聖歌といえる。西行は願いどおりの2月26日、桜満開の望月(満月)の日に滅した。

10.「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮」(藤原定家)
 花も紅葉もここにはないと述べているが、そのことが秋の寂寥感を表し、次に続く浜の海辺の粗末な苫ぶきの小屋の秋の夕暮という句で寂しさをより強調している。この和歌が「わび」の心とされている。

 

平安時代の和歌

 万葉集などで盛んになった和歌は、平安時代には公式の場で広まり、905年には醍醐天皇の命によって、紀貫之らが日本初の勅撰和歌集である古今和歌集を完成させた。古今和歌集に見られる歌風は繊細かつ技巧的で、古今調と呼ばれ和歌の模範とされている。

 優れた歌人が次々と登場し、在原業平、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、小野小町、文屋康秀(ふんやのやすひで)、大伴黒主、喜撰法師(きせんほうし)らが後の世に六歌仙と称えられている。
 和歌は貴族の教養や社交に不可欠とされ、和歌そのものに人智を超える力があると信じられた。言葉には霊魂(れいこん)が宿る、いわゆる「言霊」(ことだま)を信じていた日本独自の感覚である。
 朝廷の勢力が武士に奪われると、和歌は貴族たちの数少ない心の支えになり、政治の世界から離れた和歌の神秘性がむしろ高まった。和歌は日本の伝統文化として広まり、古今和歌集から鎌倉時代に完成した新古今和歌集まで、計8回にわたって勅撰和歌集が編集され、これらを総称 して八代集という。

 一方、貴族による公式文書としては従来どおり漢文が使用され、漢字を使用した詩として、藤原明衡(あきひら)が編纂した漢詩文集がある。また本朝文粋(ほんちょうもんずい)や、源順(したごう)が編纂した辞書である和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)などがある。
 この他にも藤原公任(きんとう)によって和歌と漢詩文が同時に収められた和漢朗詠集が編纂された。この藤原公任は「三舟の才」の異称を持ち、ある時、藤原道長が船遊びを行った際に「管弦の舟」「漢詩の舟」「和歌の舟」を用意し、参加者は自分が得意な舟に乗って一芸を披露するという趣向を凝らした。いずれの才能にも秀でていた藤原公任は和歌の舟に乗って歌を詠んだ。この席で藤原公任は高く評価されたが、後に公任は漢詩の舟に乗れば良かったと後悔した。当時は和歌より漢詩の方が高く評価されていたのである。

 

神仏習合
 神仏習合とは日本の神道と仏教がひとつの信仰として調和融合したもので、明治維新に伴う神仏分離令まで1000年以上続いた。神道は本来は日本土着の素朴な信仰で、共同体の安寧を祈るものであった。神は特定のウジ(氏)やムラ(村)と結びつき、その信仰は極めて閉鎖的であった。しかし大陸から伝来した仏教は、このような伝統的な神道に大きな影響を与え、仏教が社会に浸透すると、伝統的な神道との融和がはかられた。日本の神道は元来多神教なので、敵対するよりは「仏教も仲間に入れる」とする傾向にあった。この柔軟性とおおらかさが日本の神社の特徴である。

 またかつての朝廷は、天皇を天津神の子孫とする神話の考えを持ちながら、東大寺大仏に象徴されるように「仏教による鎮護国家」を採用したため、奈良時代前後から神仏の関係は次第に緊密になり、平安時代の国風文化で神仏習合はさらに発展し、我が国の八百万の神々は、様々な仏の化身とする考えが広まった。これを本地垂迹説 (ほんじすいじゃくせつ)というが、「神は本来は仏であるが、仮の姿として神となっている」という意味である。神様の本性は仏とするが、結局は「仏主神従」であった。
 奈良時代初頭から神宮寺を建立する動きが始まり、鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などでは境内外を問わず神宮寺が併設された。日本の神々も民衆と同じく苦悩があり、それを救済するため、神社の傍らの寺で読経が読まれるようになった。伊勢桑名の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をするなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、仏道に帰依する意思を示すようになった。

 たとえば浅草寺も境内の中に神社があり、三社祭は神社の催し物なのに浅草寺からお神輿が出る。浅草寺は推古天皇の時代には建立されており、浅草寺のご本尊様が隅田川で漁師の兄弟に引き上げられたことから、漁師の兄弟とその親分の3人をまつったのが三社である。また京都三大祭りの祇園祭も八坂神社のお祭りだが、祇園は元々仏教の祇園精舎からきている。

 さらに仏教には祟りという概念が無かったため、平安時代に盛んになった「怨霊を祀り、タタリを鎮める」という考えは、疫病や飢饉などの災厄から逃れようとする御霊信仰をもたらし儀礼として定着した。

 中国から伝来した仏教が千年以上にわたって神道と融合し、日本独自の宗教を作り上げられ、寺院にも鳥居や神殿がつくられ、賽銭箱や灯篭・手水舎などがみられるが、これらはまさにその証拠である。
 戦国時代には天道思想による統一した枠組みが形成され、神の化身の姿のことを権現(ごんげん)といった。権現とは「仏が神の姿に変わってこの世に現れた」ということで、「権」は「仮」を意味する文字で権威をあらわす言葉ではない。
 また我が国の古来からの山岳信仰が天台宗や真言宗の厳しい修行と融合して、山林での修行の際に密教的な儀礼を行い、霊験を得ようとする修験道が生まれた。名高い修験道の道場としては、和歌山の熊野三山がある。熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称で、真言宗の聖地である高野山とともに、平成16年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。

 現在、私たちは神と仏を特別に区別していない。別の宗教である神と仏が合祀されても、神棚と仏壇が並んでいても、何の不思議もない。私たちは「神様・仏様」に祈り、成就しなければ「神も仏もあるものか」と嘆くだけである。
 12月24日にはクリスマスを祝い、12月31日には除夜の鐘を聞き、正月には神社に初詣に行く。お盆にはお寺に行き、お宮参りや七五三で神社を訪ね、結婚式は神前か牧師にお願いして、葬儀はお寺に出向くことが自然に身についている。この日本人の宗教観は世界でも例のないものである。

 

 末法思想
 平安時代中期には、阿弥陀仏を信仰し、念仏を唱えて来世の極楽浄土(天国)に往生することを願う浄土教が流行した。浄土教は10世紀半ばに空也が念仏を唱えながら諸国をめぐり、源信が往生要集を書いて浄土教の教義を説き、そのため貴族から庶民に至るまで幅広い支持を得た。
 浄土教が広まった背景には末法思想がある。末法思想とは釈迦の死後に正しい仏法が行われる「正法の時代」がくるが、次に仏法や修行者はいても悟りを開く者がいない「像法の時代」を経て、釈迦の教えはあっても通用しない「末法の世」が1052年からやってくるという考えである。
 末法思想が広まったのは、治安の悪化や災厄が多発し、貴族たちは災厄を自身たちの政治による失政とは思わず「末法の世」に向かう世情にあると信じ、競って寺院を建て仏像を造立した。それは自分だけは極楽浄土(天国)に行こうとする利己的な考えがあった。
 当時の代表的な寺院としては、藤原道長による法成寺(ほうじょうじ)や、藤原頼通による平等院などがある。このうち平等院の一部である鳳凰堂は10円玉に描かれ有名である。

仏教
 桓武天皇は奈良仏教との決別をはかるために、平城京から長岡京、平安京へと遷都をしたが、新都においては「早良親王のタタリ」から逃れるために新たな仏教を求めるこのになった。この要望に応えたのが、最澄がもたらした天台宗と空海が樹立した真言宗である。
 天台宗や真言宗が求めたのは、呪術の取得や厳しい修行によって仏教の奥義を究めた密教で、この密教の特徴は加持祈祷を中心とする儀式やタタリを鎮め怨霊を封じるもので、当時の要求に合っていた。真言宗の密教を東密、天台宗の密教を台密といった。
 最澄と空海は、804年に遣唐使として同じ同じ船で入唐した。先に帰国した最澄は、都からほど近い近江国(滋賀県)の比叡山延暦寺をひらき、大陸の流れをくみながら我が国独特の天台宗を広めた。延暦寺は平安京の東北に災いが起きやすいとされている「京都の鬼門」に建てられた。この場所に延暦寺を建てたことが、桓武天皇の最澄に対する「タタリ封じ」への期待がうかがえる。
 奈良時代に鑑真(唐の僧侶)が来日し、日本に戒律を伝えて以来、僧は戒壇と呼ばれる寺院で戒律を授けるようになった。当初は奈良の東大寺に戒壇があったが、最澄は既存の仏教から独立させて、延暦寺で僧を養成するために独自の大乗戒壇の設置を目指した。最澄の動きは南都の宗派から激しい攻撃を受けたが、最澄は顕戒論(けんかいろん)を著して反論した。大乗戒壇は最澄の死後に公的に設立され、延暦寺はやがて仏教学の中心となる。
 平安後期に浄土教を広めた源信や浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元といった鎌倉新仏教の開祖たちは、若い頃に延暦寺で学び独自の道を歩むことになる。
 最澄は866年に死去するが、清和天皇によって伝教大師(でんぎょうだいし)の名が贈られ、最澄の天台宗の教えは弟子の円珍(えんちん)や円仁(えんにん)によって広められ、弟子たちにより本格的に密教が取り入れられた。後に教理上の争いから分裂し円珍派は園城寺(おんじょうじ、別名三井寺)に下って寺門派(じもん)と呼ばれ、円仁派は延暦寺に残って山門派(さんもん)と呼ばれた両者は対立した。

 

 

大学

 官吏を養成する大学では、文章力の優劣が採用試験で重視され、大学ではそれまでの儒教中心の内容から次第に歴史や文学を学ぶことが盛んになった。このため有力貴族は大学で学ぶ子弟のために寄宿舎と、また勉学する施設として大学別曹(べっそう)を設けた。主な大学別曹としては、藤原氏の勧学院、和気氏の弘文院、在原氏の奨学院、橘氏の学館院などが知られている。空海は庶民への教育を目指した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設けている。

 奈良時代の初期に、我が国の歴史書として「古事記と日本書紀」が編纂されたが、日本書紀の続編として漢文による国史の編纂が相次いで行われた。古い順に続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録があり、これらは日本三代実録として編纂されている。古事記や日本書紀と合わせ、これらの歴史書は六国史と呼ばれ、古き我が国の律令国家が編纂した正史(国家による正式の歴史書)として扱わた。

 

 

漢詩・漢文
 平安京への遷都から9世紀末までの文化は、当時の嵯峨天皇・清和天皇の時代の年号から弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがん)と呼ばれている。唐風文化を取り入れた学芸中心の国家隆盛期を迎えた文化で、平安京における貴族中心の文化が発展し、貴族の教養として漢詩文を作ることが重視された。この時代には大陸の文化にも負けないほどの文人が輩出している。嵯峨天皇や空海、小野篁(たかむら)、菅原道真らが知られている。嵯峨天皇は漢詩文にすぐれ、天皇の命令で歌集を編纂され、漢詩集・凌雲集 (りょううんしゅう)や文華秀麗集には、嵯峨天皇の漢詩が多く収められている。

 空海は優れた僧侶であっただけでなく漢詩文にも秀で、唐風の書道の達人として知られ、詩文集である性霊集を著すなど優れた文才を発揮し、空海嵯峨天皇橘逸勢(はやなり)とともに三筆と称されている。

 空海は遣唐使で唐に渡り、唐の順宗皇帝から宮殿の壁に文字を書くように命じられた。その壁は中国稀代の名書家である王羲之が詩を書いた壁で、歳月によって王義之の書が消えてしまっていたので新たな書を書かせようとした。その際、空海は左右の手足と口に5本の筆で持って王羲之の五行の詩を一度に同時に書いた。さらに別の間に墨汁を注ぎかけると、たちまち巨大な「樹」の字が浮かび上ったので、皇帝が驚き空海に「五筆和尚」の称号を与えた。この五筆和尚の伝説が能書家として尊崇された証である。

 また下記の書は、空海が天台宗の最澄に宛てた風信帖(ふうしんじょう)という名の手紙である。空海は弘法大師とも呼ばれ「弘法にも筆の誤り」ということわざを残すほどの書の達人である。このことわざは書の名人である弘法大師でも書き損じがあるとのたとえで、その道にすぐれている人でも、時には失敗するという意味である。猿も木から落ちる、河童の川流れ、天狗の飛び損ないなどと同じ意味ととられやすい。
 しかし空海が字を書き間違えたのは、応天門という門の額の字を書いた際に「応」の字の点を打ち忘れたことで、気づいた時はすでに額は高い門に飾られていた。周囲がどうしようかと困っていると、弘法大師は少しもあわてず、墨のついた筆を下から額めがけて投げつけ足りない点を補ったのである。このことから「天才というものは、失敗したあとも常人とは違う」という賞賛の意味が含まれている。

院政期の文化

地方文化と建築物

  藤原氏による院政期に入ると、宮廷を中心に栄えた貴族文化が地方へと広がっていった。その背景には、朝廷の権威が藤原氏に集中したため、中小貴族が朝廷での出世を諦め地方に出たこと。また新たな勢力として地方の豪族や武士の成長があった。

 特定の寺院に所属しない民間の布教者は聖(ひじり)あるいは上人とよばれ、諸国を遍歴する彼らによって浄土教思想が全国に広がり、浄土教の地方普及によって地方豪族のつくった阿弥陀堂建築や浄土教美術が各地に残されている。浄土教とは、往生すれば苦難に満ちた現世から離れて、阿弥陀仏が住んでいる極楽浄土(天国)に行けるという信仰で、阿弥陀仏によってすべてが救済される他力本願であり、誰でもできる行を説いて民衆に広がった。

 浄土信仰から地方の豪族は競うように寺院を建てた。平泉(岩手)には奥州藤原氏の初代・藤原清衡が建てた中尊寺金色堂が残されている(上段)。当時奥州では黄金が豊富に産出し、その経済力を背景に造られたのが中尊寺金色堂で、豪華な建造として知られている。内側・外側とも黒漆を塗った上に金箔が押されている。内陣はきらびやかな装飾が施され、その須弥壇(しゅみだん)の下には、清衡・基衡・秀衡三代のミイラが安置されている。2代目の藤原基衡が建立した毛越寺(もうつうじ)や3代目の藤原秀衡の建てた無量光院(むりょうこういん)は現存していない。

 陸奥(いわき市)の白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)は藤原秀衡の妹で徳尼(とくに)という女性が、亡夫の冥福を祈って建立したもので(中段)、奥州藤原氏ゆかりの女性が建立したもで「白水」の名前は「平泉」にちなんだもので、「泉」の文字を上下に分解すると「白水」になる。

 豊後(大分豊後高田市)の富貴寺大堂(ふきじおおどう)は九州最古の阿弥陀堂建築である(下段)。富貴寺がある国東半島は神仏習合の宇佐八幡(宇佐神宮)と関係の深い土地であり、古くから仏教文化が栄えていた。平安時代後期には天台宗となり叡山延暦寺の末寺となった。

 これらの建築物は地方文化の高さを示すとともに、浄土教の広まりを示している。

嚴島神社

 厳島は一般に「安芸の宮島」とも呼ばれ、嚴島神社は推古天皇(593)の時代にはすでに創建されていた。嚴島神社は「いつき島にまつれる神」という意味があり、原始宗教のなごりで島全体が神の島として崇められていた。そのため陸地では畏れ多いと潮の満ち引きするところに寝殿造の社が建てられている。平家が厚く信仰していたのは有名で、平清盛により、現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられた。
 1146年、平清盛が安芸守に任官されたことから、平清盛が平家の守護神として尊崇し、平家一門の権力が増大するにつれて社を尊崇する度合いが増し、社殿を現在の姿に造営した。
 都から後白河上皇、建春門院、中宮徳子、高倉上皇、建礼門院などの皇族や貴族が訪れ、都の文化や建築様式が宮島に入ってきた。嚴島神社に伝承されている舞楽は、清盛が大阪の四天王寺から移したものである。
 社殿は災害により何度か立て替えられてるが、清盛が造営した当時の姿をほぼ伝えている。社殿は本殿・拝殿・回廊など6棟が国宝に、14棟が重要文化財に指定され、さらに平家が納めた平家納経などの工芸品を含めると、国宝・重要文化財は約260点になる。
 床板の隙間は高潮時に床下から押し上げてくる海水の圧力を弱め、また廻廊に上がった海水を流す役目をしている。この床板は国宝なので本来は土足で歩くことはできないが、床板上に養生板が敷いてあるので土足で歩くことができる。
 なお日本三景といえば宮島、天橋立、松島であり、海と緑が対象の妙をなし、その美しさは人々の心の琴線に触れる。海に囲まれた日本を象徴する絶景は、まさに天が我々に与えてくれた自然の恩恵である。

今様と絵画

 平安時代末期の院政期には、後白河法皇が今様に熱中し過ぎて喉を痛めたことが記録されている。一般の庶民も「今風のはやり歌謡」である今様(いまよう)に熱中した。今様は歌詞が七・五調4句からなる。つまり7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを成すのが特徴で様々な歌詞が生み出され、民衆の間でも広まった。後白河法皇の手で「梁塵秘抄」としてまとめられている。

 この今様に対し、古くからの歌謡である催馬楽(さいばら)、田植えの風景として歌い躍る田楽、芸能の一種である猿楽などを庶民は楽しんだ。

 絵画としては、時代の経過を絵や詞書を織り交ぜながら描く絵巻物が発達し、源氏物語絵巻・伴大納言絵巻・信貴山縁起絵巻・鳥獣戯画などの作品が生まれている。伴大納言絵巻は応天門の変を描き、鳥獣戯画は動物の擬人化で当時の世相を描いている。

  下図、貴山縁起(しぎさんえんぎ)は、平安時代末期の絵巻物で国宝に指定されている。朝護孫子寺が所蔵し「信貴山縁起絵巻」とも称される。内容は高僧による絵伝で平安時代中期に信貴山で修行した中興の祖とされる命蓮に関する説話を描いている。

 山崎長者の巻、延喜加持の巻、尼公の巻の3巻からなる絵巻で作者は不明ながら、人物の表情や躍動感を軽妙な筆致で描いた絵巻の一大傑作である。

鳥獣戯画

 高山寺にある鳥獣戯画は正式名を「鳥獣人物戯画」といい、平安・鎌倉時代の戯画(漫画)でありながら著名な国宝の絵巻である。鳥獣戯画は甲乙丙丁の4巻から成り立っている。
 甲巻には人間は登場せず、兎・猿・蛙などの動物が森の中で戯れるが擬人化はされていない。様々な動物による水遊び・賭弓・相撲といった遊戯や法要・喧嘩などの場面が描かれ、萩などの光景から秋とみられる。甲巻は当初は2巻以上で、それらが独立した絵巻物だったとされている。少なくとも1巻は草むらからの蛇の出現によって動物たちが逃げ出し遊戯が終わりを迎えるという構成だった。現在の甲巻は、一部が火災による焼損などで失われ、あるいは持ち去られ、その不自然さを補うために加筆されたと思われる。室町時代の戦乱時に高山寺の伽藍が焼けた記録というがある。
 乙巻は実在する馬・牛・鷹・犬・鶏・山羊といった身の回りの動物だけでなく、豹・虎・象・獅子・麒麟・竜・獏といった海外の動物や架空の動物もいて、動物図鑑としての性質が強い。絵師たちが絵を描く際に手本にしたと指摘されている。
 丙巻になってようやく人間が登場する。この丙巻がなければ「鳥獣人物戯画」という正式名は付けられなかった。丙巻は前半が人間風俗画、後半が動物戯画で、前半10枚は人々による遊戯を、後半10枚は甲巻の様に動物による遊戯を描いている。
 後半部分については、甲巻の動物の遊戯を手本に描かれ、前半と後半の筆致に違いがあることから、別々に描かれた絵巻を合成したとみられていた。しかし修復過程で表に人物画、裏に動物画を描いた1枚だった和紙を薄く2枚にはがし繋ぎ合わせたことが分かった。
 19枚目の歩く蛙の絵に墨跡があり、2枚目のすごろく遊びをする人の絵と背中合わせにすると、19枚目の墨跡(烏帽子の滲み)と2枚目の人物画の烏帽子の位置と合致することが判明した。この他にも1枚目と20枚目、3枚目と18枚目の墨跡などが合致することが分かった。これにより元々は10枚の人物画の裏に動物画が描かれ、江戸時代に鑑賞しやすいように2枚に分けられたとされている。
 最後の丁巻は、鎌倉時代に描かれたとされ、筆致も前3巻とは異なっていて、人々による遊戯の他、法要や宮中行事も描かれている。描線は奔放で他の巻との筆致の違いが際立っている。即興的な印象を抱かせる。また、全4巻のうち最も保存状態がよい。
鳥獣戯画の謎
 鳥獣戯画の謎の中で、まず挙げたいのは作者が誰かということである。作者と思われる人物として鳥羽僧正覚猷が挙げられるが、鳥羽僧正がどういう人物だったのかは謎のままである。他にも宮廷絵師説・絵仏師説・複数の制作者説など諸説があり確証はなく作者は不明のままである。ただ寺院(京都の高山寺)に所蔵されていたことから、絵仏師説が有力視されている。しかし甲・乙巻と丙巻、丁巻の作者が違っている上に、甲巻でも前半と後半で微妙に作風が異なるため、作者は複数いたとされている。
 鳥獣人物戯画は製作から800年と長い年月を経過し、また多数の作品を集めたことから、描かれた当時の形態を留めていない。脱落や繋ぎなどがあり、本来は鳥獣人物戯画の一部であったと思われるものもある。
 鳥獣戯画の謎は、描かれている動物たちにもある。例えばその大きさである。鳥獣戯画の有名な場面に、兎と蛙が相撲をとっているものがあるが、現実に兎と蛙では相撲などできるはずがない。そもそも兎と蛙は二足歩行ができない。それが鳥獣戯画の中では兎と蛙はほぼ同じくらいの体格で、また人間のような二足歩行で絵の中を動き回っている。動物たちはあくまで動物としての姿で登場しているが、当時の人びとは「動物は動物であり、決して人の姿にはなれないが、人と同等かあるいはそれ以上に振る舞える知性ある」としていたのかもしれない。登場する動物たちは、高度な謎かけを与えてくるが、これは漫画だかことのことであろう。
 最後に鳥獣戯画には「セリフ」がない。日本最古の漫画なので
「セリフ」の発想がなかったのだろう。しかし見ている者が勝手にセリフを考えてしまうことは可能なので、例えば兎が蛙を追いかけている絵があるが、追う兎と追われる蛙は何を言いながら走っていたのか、それを考えると鳥獣戯画は単なる絵画から、まさに漫画の如き娯楽へ変わってゆく。
 平安文化は弘仁・貞観文化ともいうが、それまでの仏像は一本の木から一体の仏像を彫りおこす一木造が主流だったが、国風文化の頃からは仏像の身体を別々に分担して製作し、寄せ集めて仕上げる能率的な寄木造が創案され大量の造仏が可能になった。
 遣唐使が廃止されると和様彫刻が中心となり、中でも仏師・定朝による「定朝様」が隆盛を極め、伏し目・丸顔の穏やかな風貌と、優美な体女性的な柔和さが特徴となり、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像などの多くの名作を残した。またこの頃には浄土に往生しようとする人々を迎えるために仏が来臨する阿弥陀来迎図が盛んに描かれた。
貴族の生活
 国風文化によって貴族の生活も日本的な特徴が次第に広まり、貴族の住まいは白木造で檜皮葺(ひわだぶき)を用いた寝殿造と呼ばれ、池のある庭園とを組み合わせた優雅な雰囲気をもつようになった。
 建物内部の襖(ふすま)や屏風にも、日本の風物や物語を題材にした「なだらかな線と上品な彩色」による大和絵が描かれた。屋内の調度品にも漆(うるし)や金銀の粉を利用した蒔絵(まきえ)の手法が用いられた。
 書道の世界も漢文中心の唐風から、流麗な和風の書である和様が発達し、小野道風・藤原佐理(すけまさ)・藤原行成の三人は 三蹟(さんせき)と称された。三蹟は嵯峨天皇・空海・橘逸勢(はやなり)の三筆と混同しやすいので間違えないでほしい。三筆は各時代にそれぞれいるが、三蹟とは平安時代の三人のみをいい、三蹟が後世まで影響を与えることになる。
 平安時代の貴族の男性の正装は束帯(そくたい)かそれを簡略にした衣冠で、女性は衣装を重ねた女房装束が主流だった(下図)。貴族の食事は仏教の影響から獣肉が禁止されたため意外に質素で、回数も1日に2回が基本であった。
 男性貴族が儀式に着るときの束帯は、位によって服の色が変わっており、黒は高い位にあった。かんむりをかぶり、手には笏(しゃく)を持ち刀をこしにつける。束帯は内側に袴(はかま)と下襲(したがさね)をつけ、大きなそで口のゆったりとした袍(ほう)を上から着る。そのため貴族の服は動きにくい。束帯には裾(きょ)という幅の広い長い布を引きずっるため移動はたいへんだった。
 女性貴族が儀式に着るのは女房装束が主流で、色は違うが同じ形の服を何枚も重ねて着るので十二単(じゅうにひとえ)というが、十二単は後世の俗称であり、女房装束が正式な名称である。何枚も重ねて着た後で、最後に大きなえりでたけの短い唐衣(からぎぬ)を着る。後からこしに白く長い裳(も)をつける。
 女性は丸顔で白い顔が美しいとされた。そのため顔を白くぬり、まゆ毛をぬいてぼかしたまゆをかき、くちびるを赤くぬった。
 貴族の息子たちは10~15歳くらいで元服し朝廷に出仕し、娘は裳着(もぎ)の式を挙げて成人とみなされた。また結婚は男が女の家に迎えられて同居する婿入婚で、婿入婚はやがて庶民に広まった。また生まれた子は妻の家で育てられた。
 このことから次期天皇(皇太子)は妻の実家で育てられたので、政治の勢力者は自分の娘を天皇と結婚させ、実家で次期天皇を自分の影響下に置き勢力をさらに増大させようとした。
 朝廷の官職は世襲化が進み、先例や儀式が重んじられるようになり、それらは年中行事として発達した。貴族たちは自然災害を恐れ、自らの運命や吉凶を気にかけ、日常の生活にも吉凶に基づく多くの制約を設けられた。この背景には陰陽道や怨霊信仰があった。

東寺五重塔
 東寺は教王護国寺ともいい、もともとは平安京成立間もない時期に桓武天皇の命によって創建された。当時は東寺、西寺と対であったが西寺はすでにない。

 東寺は創建後の823年に、真言宗の開祖である空海に下賜され、これにより東寺は真言密教の道場となった。東寺にある五重塔は国宝であり、木造の塔としては日本でもっとも高いものである。

 その創建は平安時代であったが、火災によって幾度も消失し、現在の五重塔は江戸初期に再建された五代目の塔である。とはいえ東寺五重塔は、古都京都を代表する建造物として広く知られており、京都をテーマとする写真やイラストにはその美しい姿が表現されている。「東寺の五重塔」というより、「京都の五重塔」として京都のイメージを担っている。

 かつてのJR京都駅からは、新幹線が京都駅に着くと美しい五重塔が見え、その瞬間、京都にやって来たことを実感できた。東寺の五重塔はまさに京都のシンボルだった。

 ところで東寺があるなら西寺もあると思うだろうが、確かにかつての京都には西寺があった。西寺は東寺と同規模の大寺院であった。

 桓武天皇が平安京を造営し、平安京の中央に朱雀大路があり、その東側を左京、西側を右京としていた。その平安京の入り口である朱雀大路の南端には羅城門と呼ばれる巨大な門が造られ、その門を入ったすぐ右手(左京)に東寺が、左手(右京)に西寺が建てられていた。
 東寺と西寺は同規模で左右対称に建てられた。東寺にある五重塔と同様に、西寺にも五重塔があって、この2つの五重塔は平安京の門柱のようにそびえ立っていた。東寺と西寺は国家鎮護を目的として創建されたのである。
 嵯峨天皇は東寺の管理を空海(弘法大師)に、西寺の管理を守敏(しゅびん)に委ねた。東寺は真言密教の根本道場として発展したが、西寺は全国の寺院や僧尼を統括する施設・僧綱所(そうごうしょ)」が置かれ、天皇の国忌を行う官寺として発展した。
 空海と守敏はともに真言宗の僧であったが、事あるごとに対立していた。824年、雨が降らず、干ばつ続きで困っていた朝廷は、2人に雨乞いの対決をさせた。守敏は西寺の金堂に籠もり、三日三晩、寝ずの祈祷を行ったが雨は一粒も降らなかった。ところが空海が祈祷をすると空は厚い雲の覆われ夜の如く暗くなって激しい雨が降り始めた。この結果、朝廷の守敏への信頼は失墜することとなった。

 西寺はその後に起きた落雷による火災によって焼失、再建はされたが次第に荒廃し、鎌倉時代に五重塔が焼けて西寺は廃絶し再興されることはなかった。平安朝の半ばに国家の財政が破綻したため、それに伴って全国にある官寺の多くは廃寺となり、西寺も例外ではなく、その運命を辿ることになった。今では石碑と疎石があるのみである。
 真言密教を開いた空海は、書に優れ全国の土木事業や灌漑に尽力したことから、弘法大師信仰が絶大な支持を得ていた。空海が東寺から高野山に入定した後、落雷で五重塔が焼失するが、天皇や公家に信頼されていた空海は、彼らの庇護を仰ぎ再興に全力を注いだ。平安時代以降も空海への信仰から、歴代天皇や、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者は伽藍が焼失するたびに東寺が廃れないようにと復興に尽力したのである。

三十三間堂
 京都市東山区にある三十三間堂は天台宗・妙法院の仏堂で、正式には「蓮華王院本堂」(れんげおういんほんどう)という。造設されたのは後白河上皇で、平安末期の武士の世に移り変わる境目の人物である。もともとこの近辺は「法住寺殿」という後白河上皇の離宮があり、三十三間堂はそれに付随する寺院として創建された。本尊は千手観音で蓮華王院は千手観音の別称である蓮華王に由来する。後白河上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて1165年に完成している。

 三十三間堂という通称は、本堂内陣の柱間が三十三間あるためで、三十三とは観音菩薩が三十三種の姿に変じて衆生を救うとされていることによる。堂内には千一体におよぶ千手観音像が安置されている。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。この膨大な仏様が並んだ雰囲気は荘厳かつ壮観である。

 なお像のうち、創建当時につくられたものは全体の1割ほどで、これは鎌倉時代の火災により焼失したためで、そのときに救い出された像が全体の1割に相当し、残りは鎌倉時代に作り直されたものである。本堂も鎌倉時代に再建されたもので、創建当時は五重塔などが建つ本格的な寺院であった。

 江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。北端に的を置き、南端から天井に当たらぬように矢を射抜くのである。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」からきて、強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができないため弓術家の名誉となった。