弘仁・貞観文化

弘仁・貞観文化
 平安京への遷都から9世紀末までの文化は、当時の嵯峨天皇・清和天皇の時代の年号から弘仁・貞観文化(こうにん・じょうがん)と呼ばれている。唐風文化を取り入れた学芸中心の国家の隆盛の最盛期を迎えた時期の文化で、平安京における貴族中心の文化が発展し、貴族の教養として漢詩文を作ることが重視された。この時代には大陸の文化にも負けないほどの文人が輩出している。嵯峨天皇空海小野篁(たかむら)、菅原道真らが知られている。嵯峨天皇は漢詩文にすぐれ、天皇の命令で歌集を編纂された最古の勅撰である、漢詩集・凌雲集 (りょううんしゅう)や文華秀麗集には、嵯峨天皇の漢詩が多く収められている。

 空海は唐風の書道の達人として知られ、詩文集である性霊集を著すなど優れた文才を発揮した。空海嵯峨天皇橘逸勢(はやなり)とともに三筆と称されている。
 官吏の養成機関である大学では、文章力の優劣が採用試験で重視され、それまでの儒教中心の内容から次第に歴史や文学を学ぶ紀伝道が盛んになった。このため有力貴族は大学で学ぶ子弟のための寄宿舎と勉学の施設として大学別曹(べっそう)を設けた。主な大学別曹としては、藤原氏の勧学院、和気氏の弘文院、在原氏の奨学院、橘氏の学館院などが知られている。空海は庶民への教育を目指した綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設けている。
 桓武天皇は奈良仏教との決別をはかるために、平城京から長岡京、平安京へと遷都したが、新都においては「早良親王のタタリ」から逃れるために新たな仏教を求めるこのになる。この要望に応えたのが、最澄がもたらした天台宗と空海が樹立した真言宗であった。
 天台宗や真言宗が求めたのは、呪術の取得や厳しい修行によって仏教の奥義を究めた密教である。密教の特徴は加持祈祷を中心とする儀式と、タタリを鎮め怨霊を封じるもので、当時の要求に合っていた。真言宗の密教を東密、天台宗の密教を台密という。
 最澄と空海は、804年に遣唐使に従って同じ遣唐使として同じ船で入唐した。先に帰国した最澄は、都からほど近い近江国(滋賀県)の比叡山延暦寺をひらき、大陸の流れをくみなが ら我が国独特の天台宗を広めた。延暦寺は平安京の東北に位置し、延暦寺は災いが起きやすいとされている京都の鬼門に建てられた。この場所に延暦寺を建てたことが、桓武天皇 の最澄に対する「タタリ封じ」への期待がうかがえる。

 奈良時代の初期に、我が国の歴史書として「古事記と日本書紀」が編纂されたが、日本書紀の続編として漢文による国史の編纂が相次いで行われ、古い順に続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録があり日本三代実録として編纂されている。古事記や日本書紀と合わせ、これらの歴史書は六国史と呼ばれ、古き我が国の律令国家が編纂した正史(国家による正式の歴史書)として扱わた。
 奈良時代に鑑真(唐の僧侶)が来日し、日本に戒律を伝えて以来、僧は戒壇と呼ばれる寺院で戒律を授けるようになった。当初は奈良の東大寺に戒壇があったが、最澄は既存の仏教から独立させ、延暦寺で僧を養成するために独自の大乗戒壇の設置を目指した。最澄の動きは南都の宗派から激しい攻撃を受けたが、最澄は顕戒論(けんかいろん)を著して反論した。大乗戒壇は最澄の死後に公的に設立され、延暦寺はやがて仏教学の中心となる。
 平安後期に浄土教を広めた源信や浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元といった鎌倉新仏教の開祖たちは若い頃に延暦寺で学び独自の道を歩むことになる。
 最澄は866年に死去するが、清和天皇によって伝教大師(でんぎょうだいし)の名が贈られ、最澄の天台宗の教えは弟子の円珍(えんちん)や円仁(えんにん)によって広められ、弟子たちにより本格的に密教が取り入れられた。後に教理上の争いから分裂し円珍派は園城寺(おんじょうじ、別名三井寺)に下って寺門派(じもんは)と呼ばれ、円仁派は延暦寺に残って山門派(さんもんは)と呼ばれた両者は対立した。

 

院政期の文化

  藤原氏の院政期に入ると、朝廷を中心に栄えた貴族文化が地方へと広がっていった。その背景には、新たに勢力を伸ばした武士の存在があった。地方の武士は競うように寺院を建てた。奥州藤原氏による平泉の中尊寺金色堂、陸奥(いわき市)の白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)、豊後(大分県豊後高田市)の富貴寺大堂(ふきじおおどう)などが知られであるが、これらは地方文化の高さを示している。

 これらの建築物は浄土教の思想の広まりを示していて、寺院に所属せずに僧の位を持たない聖(ひじり)や上人たちが民間への布教をしていた。

 院政期には一般の庶民も「現代風な歌謡」である今様(いまよう)や、古代の歌謡である催馬楽(さいばら)、芸能の一種である田楽猿楽などを楽しんだ。今様は後白河法皇も愛誦され、民衆の間に広まった。歌謡を集めた梁塵秘抄(りょうじんひしょう)としてまとめられている。

 文学作品としては日本やインド・中国に伝わる1,000余りの説話を集めた今昔物語集があり、当時の武士や庶民の生活などが表現されている。なお「弘法にも筆の誤り」「受領は倒れたところの土をつかむ」などは、今昔物語集が由来になっている。また芥川龍之介の小説・羅生門や鼻、芋粥なども今昔物語集を題材にしている。

 軍記物としては平将門の乱を記した将門記や、前九年の役を記した陸奥話記などがあり、地方武士の戦いぶりが伝わってくる。歴史物語では栄華物語や大鏡が仮名で書かれ、摂関政治の頃を懐かしむ貴族の様子がうかがえる。

 絵画としては、時代の経過を絵や詞書を織り交ぜながら描く絵巻物が発達し、源氏物語絵巻伴大納言絵巻信貴山縁起絵巻鳥獣戯画などの作品が生まれている。伴大納言絵巻は応天門の変を描き、鳥獣戯画は動物の擬人化で当時の世相を描いている。

 上記、貴山縁起(しぎさんえんぎ)は、平安時代末期の絵巻物で国宝に指定されている。朝護孫子寺が所蔵し「信貴山縁起絵巻」とも称される。内容は高僧による絵伝で平安時代中期に信貴山で修行した中興の祖とされる命蓮に関する説話を描いている。

 山崎長者の巻、延喜加持の巻、尼公の巻の3巻からなる絵巻で作者は不明ながら、人物の表情や躍動感を軽妙な筆致で描いた絵巻の一大傑作である。

 その他、安芸(広島)の厳島神社は平氏の厚い信仰を受け、豪華な平家納経が奉納され世界遺産にも登録されている。厳島神社が現代のような建築様式になったのは、平清盛が造営したことによる。

 

神仏習合
 日本の古代からある神道と仏教は融合し、神仏習合として独自の国風文化はさらに進化した。我が国の八百万の神々は、様々な仏が化身したとする考えが広まり、これを本地垂迹説 (ほんじすいじゃくせつ)といい、神の化身を権現(ごんげん)と称した。
 また天台宗や真言宗の厳しい山岳での修行が、我が国古来の山岳信仰とが融合して、山林での修行の際に、密教的な儀礼を行い霊験を得ようとする修験道が生ま れた。

 名高い修験道としては、和歌山の熊野三山がある。熊野三山とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三つの神社の総称で、真言宗の聖地である高野山とともに、平成16年(2004年)に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されている。
 この頃までに盛んになった「怨霊を祀りタタリを鎮める」とする考えは、疫病や飢饉などの災厄から逃れようとする御霊信仰をもたらし、儀礼としての御霊会が定着した。また仏教勢力を政治の場から遠ざけたことは、国風文化の機運の高まりとも無関係ではない。中国から伝来した宗教を排除したことで、日本独自の文化を改めて見直すことができたからである。

 

末法思想

 平安時代中期には、阿弥陀仏を信仰し、念仏を唱えて来世の極楽浄土(天国)に往生することを願う浄土教が流行した。浄土教は10世紀半ばに空也が念仏を唱えながら諸国をめぐり、源信が往生要集を書いて浄土教の教義を説き、そのため貴族から庶民に至るまで幅広い支持を得た。

 浄土教が広まった背景には末法思想がある。末法思想とは釈迦の死後に正しい仏法が行われる「正法の時代」がくるが、次に仏法や修行者はいても悟りを開く者がいない「像法の時代」を経て、釈迦の教えはあっても通用しない「末法の世」が1052年からやってくるという考えである。
 末法思想が広まったのは、治安の悪化や災厄が多発し、貴族たちは災厄を自身たちの政治によるとは思わず「末法の世」に向かう世情にあると信じ、競って寺院を建て仏像を造立した。それは自分だけは極楽浄土に行こうとする利己的考えであった。
 当時の代表的な寺院としては、藤原道長による法成寺(ほうじょうじ)や、藤原頼通による平等院などがある。このうち平等院の一部である鳳凰堂は10円玉に描かれ有名である。
 弘仁・貞観文化の頃の仏像は、一本の木から一体の仏像を彫りおこす一木造が主流だったが、国風文化の頃は仏像の身体を別々に分担して製作し、寄せ集めて仕上げる能率的な寄木造が創案され大量の造仏が可能になった。
 仏師定朝による仏像は女性的な柔和さをもち、円満な和様彫刻が大きな特徴で、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像などの多くの名作を残した。またこの頃には浄土に往生しようとする人々を迎えるために、仏が来臨する阿弥陀来迎図が盛んに描かれた。
 国風文化によって貴族の生活も日本的な特徴が次第に広まり、貴族の住まいは白木造で檜皮葺(ひわだぶき)を用いた寝殿造と呼ばれる建物と、池のある庭園とを組み合わせた優雅な雰囲気をもつようになった。

 建物内部の襖(ふすま)や屏風にも、日本の風物や物語を題材にした「なだらかな線と上品な彩色」による大和絵が描かれた。屋内の調度品にも漆(うるし)や金銀の粉を利用した蒔絵(まきえ)の手法が用いられた。
 書道の世界も漢文中心の唐風から、流麗な和風の書である和様が発達し、小野道風藤原佐理(すけまさ)・藤原行成の三人は 三蹟(さんせき)と称えられた。三蹟は弘仁・貞観文化の頃の嵯峨天皇空海橘逸勢(はやなり)の三筆と混同しやすいので間違えないでほしい。
 平安時代の貴族の男性の正装は束帯か、それを簡略にした衣冠で、女性は衣装を重ねた女房装束が主流だった。これらは奈良時代の唐風の衣装を日本人向きに改良したものである。一般的に知られている十二単(じゅうにひとえ)は後世の俗称であり、女房装束が正式な名称である。また貴族の食事は仏教の影響から獣肉が禁止されたため意外に質素で、回数も1日に2回が基本であった。
 貴族の息子たちは10~15歳くらいで元服し朝廷に出仕し、娘は裳着(もぎ)の式を挙げて成人とみなされた。また結婚は男が女の家に迎えられて同居する婿入婚で、婿入婚はやがて庶民に広まった。また生まれた子は妻の家で育てられた。このことから次期天皇(皇太子)は妻の実家で育てられたので、政治の勢力者は自分の娘を天皇と結婚させ、実家で次期天皇を自分の影響下に置き勢力をさらに増大させようとした。

 朝廷の官職は世襲化が進み、先例や儀式が重んじられるようになり、それらは年中行事として発達した。貴族たちは自然災害を恐れ、自らの運命や吉凶を気にかけ、日常の生活にも吉凶に基づく多くの制約を設けられた。この背景には陰陽道(おんみょうどう)や怨霊信仰(おんりょうしんこう)があった。

東寺五重塔
 東寺は教王護国寺ともいい、もともとは平安京成立間もない時期に桓武天皇の命によって創建された。当時は東寺、西寺と対であったが西寺はすでにない。

 東寺は創建後の823年に、真言宗の開祖である空海に下賜され、これにより東寺は真言密教の道場となった。東寺にある五重塔は国宝であり、木造の塔としては日本でもっとも高いものである。

 その創建は平安時代であったが、火災によって幾度も消失し、現在の五重塔は江戸初期に再建された五代目の塔である。とはいえ東寺五重塔は、古都京都を代表する建造物として広く知られており、京都をテーマとする写真やイラストにはその美しい姿が表現されている。「東寺の五重塔」というより、「京都の五重塔」として京都のイメージを担っている。

三十三間堂
 三十三間堂は天台宗・妙法院の仏堂であり、正式には「蓮華王院本堂」という。造設したのは後白河上皇で、平安末期の武士の世に移り変わる境目の人物である。もともとこの近辺は「法住寺殿」という後白河上皇の離宮があり、三十三間堂はそれに付随するものとして創建された。完成は1165年と伝わっている。

 三十三間堂という通称は、本堂内陣の柱間が三十三間あるためで、三十三とは観音菩薩が三十三身に変化することに由来する数字である。堂内には千一体におよぶ千手観音像が安置され、この膨大な仏様が並んだ雰囲気は荘厳で壮観である。

 なお像のうち、創建当時につくられたものは全体の1割ほどで、これは鎌倉時代の火災によるもので、そのときに救い出された像がそれに相当し、残りは鎌倉時代に作り直されたものである。本堂も鎌倉時代に再建されたものである。

西行法師(1118-1190)

 西行法師は宮廷の歌人ではなく、生死を深く見つめ、花や月をこよなく愛した歌人である。漂泊の歌人とされ、山里の庵で歌を詠み生涯を旅の中で送った。自然と宗教の融合の中で、過去にとらわれない自由な歌を詠み「新古今和歌集」には最多の94首が入選している。

 西行の生きた時代は、平安から鎌倉へ移る動乱の時代で、まさに平家の台頭から源平の争乱の時期に重なっている。西行法師は世の無常を感じ、自然と仏法に心を寄せ、自由な心で研ぎ澄まされた歌風をつくった。俗名は佐藤義清(のりきよ)である。

 西行法師は関東で活躍した武将・藤原秀郷の子孫として生まれ、幼い頃に父・佐藤康清を亡くし、17歳で後を継いで皇室の警護兵となる。佐藤義清は御所の北側を警護する「北面の武士」に選ばれ同時期の同僚には平清盛がいた。

 この「北面の武士」は白河院が作ったの制度で、下級官人の子弟から厳選され、弓・馬術に優れ、しかも容姿端麗で詩文・和歌・管弦・歌舞の心得が必須であった。官位は五、六位と低かったが宮廷の花形として注目されていた。鳥羽上皇の親衛隊となった「北面の武士」の日常は、歌会が頻繁に催され、そこで佐藤義清の歌は高く評価されていた。

 佐藤義清は武士としての実力も優秀で、疾走する馬上から的を射る流鏑馬(やぶさめ)の達人で、さらに蹴鞠(けまり)の名手でもあった。また徳大寺家・藤原実能の家人として仕え、鳥羽院にも愛され、待賢門院璋子に心を寄せていた。

 文武両道で美形の佐藤義清の名は、政界の中央まで聞こえ、華やかな未来を約束されていた。文武を極め前途洋々であったが、22歳の若さで突然、世の栄達を捨てて出家した。出家そのものは珍しくないが、官位があり20歳過ぎての出家である。内大臣・藤原頼長は日記に「佐藤義清は家が富み、年も若いのに、なぜか不自由のない生活を捨て仏道に入り遁世した。わたしたちはこの志を嘆美しあった」と記している。

 西行法師(佐藤義清)は延暦寺などの大寺院に出家したのではなく、どの宗派にも属さずに、地位や名声を求めず、ただ山里の庵で自己と向き合い和歌を通して悟りを得ようとした。

 出家の理由については誰にも分からないが、(1)仏に救済を求める心の高まり(2)急死した友人から人生の無常を悟ったため(3)皇位継承をめぐる政争への失望(4)自身の性格のもろさを克服するためとされているが、鳥羽院の妃・待賢門院璋子(崇徳天皇の母)に恋をして、その苦悩に女院が情けをかけ、一度だけ逢い契りを交わしたが「逢い続ければ人の噂にのぼります」といわれたことによると噂されている。

 このような感情が絡み合った結果、阿弥陀仏の極楽浄土が西方にあることから「西行」と法号し、妻子と別れて仏道の世界に入った。西行が25歳で出家する際、愛娘を縁から蹴落としたというエピソードは有名である。恩愛を自ら断ち切る胸の内は断腸の思いであっただろう。

 末世戦乱の世の中で、同時代の人々に感銘を与え憧憬の的となった。歌道における名声とも相俟って後世に伝説が広まり、虚実取り混ぜた様々な逸話が伝えられている。西行法師は嵯峨に草庵を結び、仏法修業と和歌に励みながら、陸奥、四国、中国、九州への漂泊の旅を繰り返した。西行法師は平清盛の全盛期、その主催の法会にも参加し、平家一門とも親しく付き合っている。

 讃岐に流された崇徳上皇の元をも訪ねている。1180年には居を伊勢に移し、平家滅亡後に平重衡が焼失させた東大寺復興にも関わり、晩年には奥州・平泉に藤原秀衡を訪ね、その途中の鎌倉で源頼朝とも語り明かしている。後世に大きな影響を与え、松尾芭蕉や幕末に活躍した高杉晋作も西行を尊敬していた。

 家族を捨て、故郷を捨てた西行が辿りついたのは、そのような自分をも快く受け止め、花を咲かせてくれる桜の木の下であった。

 

 「願はくは 花の下にて 春死なむ、そのきさらぎの 望月のころ」

 現代約:満開の桜の下で釈迦の命日に死にたい

解釈:西行法師は若くして世を捨て、本当の自分をつかむ生涯だった。西行の情熱の断片は多くの歌に残されている。なかでも桜の歌人といわれるほど、西行は桜の歌を多く残している。この歌は西行の作の中で特に有名な歌である。如月の望月のころとは2月15日の満月の頃で、太陽暦では3月中旬以降の満月の日にあたる。ちょうど桜が花盛りを迎える時期になり、西行の熱愛した桜の花盛りの時期であり、また釈迦入滅の日でもある。

 出家した者して、とりわけその日に死にたいという願いがこめられている。西行はこの願い通り1190年2月16日、南河内の弘川寺で2月16日に往生を遂げた。この歌は西行が63歳のころに詠んだもであるが、後世、西行の辞世の歌とされた。それから10年後、自ら望んだ日のわずか1日遅れで死んでいった。

 

  西行は出家を前に次の歌を詠んでいる。

「世を捨つる人は まことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ」

 出家して身を捨てた人は、本当に人生を捨てたのだろうか。悟りや救いを求めており、本当に世を捨てたとは言えない。俗世のしがらみに囚われた己を捨てられない出家しない人こそが、己の人生を捨てているという意味である。佐藤義清の出家への並々ならぬ決意が伝わってくる。世を捨てて初めて名を残す西行の功績は、この歌をなぞるかのようである。ちなみにこの歌は、勅撰集である「詩花和歌集」に収録されているが、作者は「よみ人しらず」になっている。勅撰集の作者は身分の高い人だけが記録され、北面の武士に過ぎなかった佐藤義清は対象外だった。

 

「なにごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
現代意訳:目には見えないけれど、誰かがいつもそばで見守ってくれている。そう感じられるだけでも、涙がこぼれるほどありがたい。 

解釈:西行法師の遺した秀歌は数多いが、これは伊勢参宮の際の歌である。この歌は日本人の自然観、宗教観を歌った名歌である。五十鈴川の清冽な流れを見て、聳え立つ杉並木の参道を歩む時に、恐らく万人が感じるであろう敬虔な気持ちをそのまま表している。

 

嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
現代意訳:嘆き悲しめと言って月が私を物思いをさせるのだろうか。いや本当はそうではないだろう。月のせいだとして、こぼれる私の涙よ、という意味である。

解釈:まだ西行が武士として上皇の御所を守っていた頃、中宮のことを好きになり、この和歌は出家した後も、中宮の夢を見たことからつくったと言われている。流れる涙を月の所為にせずにはいられないという、定まらぬ気持ちを巧みに表している。月前の恋を詠んだ恋歌なので、涙は愛しい人を思う心だった。この恋歌の根底にあるのは、出家してなお人の世を愛し続けた西行の孤独感ではないかとされている。