淀殿

 関ヶ原の合戦の影には同じ姉妹で敵味方に分かれた三人がいた。それは淀君とお江、お初の三人姉妹で、三人の母は織田信長の妹で美人の誉れ高い「お市の方」であった。秀吉の命によって京極高次に嫁いだお初は、高次が亡くなると仏門に入って常高院と号し、大坂冬夏の陣では大御所家康の講和交渉に臨み、姉の淀殿に降伏するように諭した。
 お江は秀吉の命で家康の息子・秀忠に嫁いだ。典型的な政略結婚で、結婚当時の秀忠は17歳で、お江は六歳年上の23歳であった。しかも二度目の結婚であり、とかく嫉妬深く夫を尻に敷くタイプであった。それはともかく、大坂の陣は血を分けた姉妹同士での戦でもあった。このときには徳川家の歴史には登場しないが、三代将軍・徳川家光の乳母となるお福(春日局)も戦乱に巻き込まれた女性であった。

 

茶々(淀殿)
 1569年、茶々は北近江(滋賀県北部)を支配する大名・浅井長政の娘として生まれた。茶々の母は戦国一の美女と謳われた織田信長の妹「お市の方」で、信長は浅井長政と同盟を結び、その証として「お市の方」を浅井長政に嫁がせた。

 信長が血縁者を他家に嫁がせるのは珍しいことで、浅井長政を信頼してのことだったが、後に両者は敵対することになる。その決裂は茶々が生まれてからわずか1年後だった。

 茶々は後に秀吉の側室となり嫡男・豊臣秀頼を生んで、秀吉の死後は秀頼の生母として豊臣政権を掌握するが、やがて徳川家康と対立する。茶々の人生はまさに波乱万丈で、大坂の陣で徳川方に敗れ秀頼と共に自害した。淀殿は通称で、茶々が生涯を通しての名前である。
 お市の方と浅井長政には茶々以外に、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠正室)の三姉妹がいる。異母弟妹には千姫の乳母となった刑部卿局、さらに浅井井頼、浅井万福丸がいた。

浅井長政と織田信長の対立
 1570年、信長は上洛命令に従わない越前(福井県)の朝倉義景の討伐を開始した。浅井長政は信長と同盟を結ぶ際に、信長が朝倉氏を攻める際には、事前に長政に相談することを条件にしていたが、信長がこれを破って朝倉を攻撃したため、長政は信長と同盟を破棄し信長と敵対した。
 浅井氏はかつて滅亡の危機に面していた際に、朝倉氏の支援で立ち直った経緯があり、このため長政は信長の朝倉氏への攻撃を黙認できなかった。長政はただちに織田軍への攻撃を開始し、4年に渡り信長と激闘を繰り広げることになる。
 織田軍は浅井氏の小谷城を大軍で包囲して攻め落とし、浅井氏と朝倉氏は信長によって滅亡する。小谷城の落城の直前に長政はお市の方と茶々ら娘3人を城から脱出させ、茶々たちは伯父の織田信包(信長の弟で、お市の兄)に保護された。
 浅井長政と祖父は小谷城で自害し、城から脱出した万福丸は捕らえられ、信長の命で処刑されている。このように茶々は4才で父を失い、生まれた城を追いだされた。信長の一族であったためその身は保護されたが、戦国の世の厳しさを幼い頃から身にしみて知ることになる。
 その後は織田氏の尾張の城で母や妹たちと平和に暮らしていたが、1582年に天下統一を目前にして織田信長が明智光秀に討たれ、お市の方と娘たちにも境遇の変化が訪れる。信長の遺産の分割などが尾張の清州城で話し合われ、この際、お市の方は織田家の重臣・柴田勝家に嫁ぐことになる。

 これにともなって茶々たちも柴田勝家の居城である越前の北ノ庄城に移った。このお市の方の再婚は清州会議で何も得られなかった柴田勝家をなだめるために秀吉が取り計らったものである。柴田勝家にすれば主君・信長の妹君をもらい受けたわけたわけで名誉なことであった。

柴田勝家とお市の方の死
 1583年、信長なき後の主導権を巡り、秀吉と柴田勝家の対立が激しくなり、両者はともに大軍を繰り出して北近江の賤ヶ岳で対決する。この戦いの結果、柴田勝家は敗れ北ノ庄城に戻って抗戦の末に自害した。この時に勝家は結婚したばかりのお市の方に、娘たちとともに城を脱出するようにと勧めるが、お市の方はこれを拒絶し勝家とともに自害する道を選んだ。
 お市にとって2度目の落城と夫の死を前にして、長政の時と同じ思いをしたくなかったのだろう。お市の方は秀吉に書状を送り、自分の死後の娘たちの行く末を託している。こうして勝家とお市の方は自害して茶々たちは孤児となった。茶々たちは北ノ庄城の落城の際に城を脱出すると、やがて秀吉からの迎えを受け安土城で暮らしたが、以後は父・浅井長政の姉や、信長の弟・織田長益(有楽斎)などの世話を受け成長してゆく。

秀吉の側室となる
 1588年、茶々が19才になると秀吉の側室になった。この時、秀吉は50才で年の差があった。茶々が秀吉の側室になった経緯は不明であるが、秀吉は茶々を気に入り足繁く茶々の部屋を訪れていた。翌年、茶々は懐妊して鶴松を生む。秀吉は年老いてからの実子の誕生に喜び、鶴松を自分の後継者に定め山城(京都)の淀城を茶々に授けた。茶々は淀城に移り住んだことから「淀殿」と呼ばれるようになった。天下人の子を生んだことから、秀吉の正妻であるおね(北政所)と対等の立場になった。
 お初とお江はそれなりの若い武将と結婚したが、茶々は若い武将よりも権力を持つ秀吉に近づいた。その意味では野心的な女性であった。

 1591年に鶴松が2才で病死するが、茶々は2年後に再び秀吉の嫡男・秀頼を生む。それまで秀吉は多くの側室を抱えながらも実子がいなかったのに、茶々との間にだけ子が生まれた。これは不自然なことで、父親は別人だったとするむきがある。秀頼は後に身長が190cmもある巨漢に成長するが、秀吉は小さな体格だったことから疑いいが持たれた。しかし秀吉ほどの人物が、茶々が別の男との間に子を作っていたのに気がつかなかないはずはない。この真偽は不明であるが、身長については長身の茶々の父・長政の血を引いていると説明することができた。いずれにせよ秀頼は健康に育ち、茶々は再び「天下人の母」としての立場を手に入れた。

秀吉と秀次の対立
 秀頼が生まれた頃には、秀吉は甥の豊臣秀次をすでに後継者に指名しており、関白の地位も継がせていた。鶴松が亡くなったことから、秀吉はもう自分には子どもが生まれないと思い、秀次を養子にして豊臣政権の後継者に指名したが、秀頼が生まれたことで状況が変わり、秀吉は再び後継者問題に頭を悩ませることになる。

 秀頼に後を継がせるにしてもまだ幼すぎ、成人している秀次を関白の地位に置いた方が政権は安定する。しかしそれでは秀頼が将来関白の地位につけるかどうかわからない。秀次にも子どもがいて、秀次にしても自分の子どもに後を継がせたいと思うのが自然なことである。
 秀吉は秀頼にもある程度の権力を分け与えたいと思い、日本を5つに分け、5分の4を秀次に任せ、5分の1を秀頼に任せる、という構想を述べるようになる。

しかし自分の地位が脅かされると動揺した秀次は、情緒が不安定になり辻斬りを行ったり悪評が立つようになった。これを受け秀吉は秀次の排除を考えた。何の落ち度もなければ排除は難しいが、秀次がその原因を自ら作ってしまった。我が子を豊臣政権の後継者にしたい茶々も何らかの働きかけをしたと思われる。

秀次の処刑と秀頼の擁立
 1595年、秀吉は秀次が謀反を企んでいると嫌疑をかけ、関白の地位を取り上げて高野山に追放した。さらに使者を送って秀次を自害させ、秀次の妻子を皆殺しにした。秀次の子どもが生きていれば、秀頼の敵となる可能性があったからである。このような血なまぐさい過程をへて秀頼の地位が確立されたが、同時に豊臣家の力が削がれることにもなった。関白の秀次の元には多くの大名の娘たちが嫁いでおり、それが豊臣家と各大名家を結ぶ絆になっていたが、これが全て断ち切られてしまったのである。また軍事や政治の経験を積んだ男子が豊臣家からいなくなり、これが秀吉死後の豊臣家の衰退を招くことになった。さらに秀次の謀反に関与したと疑われた大名たちを徳川家康が助けたことから、家康の人望が高まることになった。秀次の処刑に茶々がどの程度関与していたのかは不明であるが、茶々の生んだ秀頼が豊臣家の運命を大きく変えたことは確かである。

秀吉の死と家康の台頭
 1598年になると秀吉は体調を崩し、同年の8月に死去した。この時、秀頼はまだ5才で政権を担えるような状態ではなかった。そのために秀吉は徳川家康や前田利家ら五大老に、秀頼の後見を務めるように依頼し、石田三成らを五奉行に任じて合議によって政権を維持し秀頼を支えるようとした。しかし秀吉の死後に家康は自身の野心を明らかにすると、その勢力を拡大してゆく。これが家康と三成との間に確執を引き起こし、やがて関ヶ原の戦いが勃発する。

関が原の戦い
 1600年、石田三成が家康打倒のために挙兵するが、茶々はこれを三成の謀反ととらえ家康と毛利輝元に書状を送って鎮圧を依頼する。しかし毛利輝元は石田三成と結託して大坂城に入り、反家康連合である「西軍」の総大将となる。このようにして家康と三成のどちらが勝利するかわからない状況になったため、茶々はいずれにも味方せず、両者の動きを傍観する立場を取った。
 三成には秀頼のお墨付きなどの後ろ盾を与えず、どちらが勝利しても秀頼の地位が保てるようにした。この動きから茶々はある程度の政治的な能力を備えた女性であることがわかる。下手にどちらかに加担して敗北した場合、秀頼が豊臣家の当主の地位を追われる可能性もあったからで、これは正しい判断だった。しかし関ヶ原で両軍の主力決戦が行われ家康が完勝すると、家康は秀吉死後の最大の実力者として、豊臣家からの政権奪取を進めてゆくことになる。

家康との関係
 関ヶ原の戦いの勝利後、家康は茶々の腹心である大野治長に、茶々と秀頼が西軍に加担していないことはわかっていると伝え茶々を安心させる。家康が大坂城に入ると、茶々は家康を饗応し、自分の酒盃を家康に渡し、次に秀頼にそれを与えるように求めた。これにより家康に父親代わりとなって秀頼を保護して欲しいと願い出たことになる。しかし家康は容赦なく自身の政権の確立と豊臣家の権力の削減を進め、茶々との関係は悪化してゆく。

豊臣家の転落と権力の向上
 関ヶ原の戦いの後、家康は豊臣家の勢力を削るため、その直轄地を大幅に削減し、自身や協力者たちの領地として配分した。この結果、222万石であった豊臣家の領地は、わずか65万石にまで減少してしまった。こうして豊臣家は一大名の地位に転落し、この待遇に誇り高い淀殿が我慢できるはずはなかった。一方で天下人の城・大坂城からは有力な大名たちが去ることになり、茶々は秀頼の母として大坂城の権力を掌握し、豊臣家内で独裁体制を敷くことになる。
 茶々は乳母である大蔵卿局とその子・大野治長や、同じ乳母である饗庭局(あえばのつぼね)らを重用し、豊臣政権を取り仕切ることになる。茶々は父も母も失ったことから、乳母たちとのつながりが強くなり、豊臣家はこの世間知らずの女性たちが中心となって運営されることになり、これがある種の歪みを生じさせてゆくことになる。このようにして、豊臣家の勢力が縮小したことから、茶々個人の権力は増大する結果になった。権力志向が強い茶々からするとこの状況は必ずしも悪いものとは言えなかったが、天下を広く見渡して情勢を冷静に判断できる人材を欠いたことから、その後の豊臣家のたどる道筋は危ういものになった。大坂城という巨大で壮麗な城と秀吉が遺した莫大な財産を手に入れたことから、茶々の自意識は権力と富に取り憑かれて肥大化し、現実的な判断力を失っていくことになる。

家康の将軍就任と、秀忠への継承
 この頃の茶々と側近たちは、いずれ家康が豊臣家に権力を返還すると期待していた。そうなれば自分たちの立場が強くなり、身分が高いくなるはずであった。しかし家康は1603年に征夷大将軍に就任し、武家の棟梁となって江戸に幕府を開いた。さらに1605年には嫡男の秀忠に将軍位を継承させ、徳川政権の継承の体制を確立した。それまでは京都や大坂では、秀頼が次に関白に就任するという噂が流れていたが実現しなかった。
 家康は豊臣家に政権を返還する意思がないことが明らかになり、茶々と家康の関係が悪化した。家康は秀忠を右大臣に就任させると、それを口実に上洛を要請し、将軍となった秀忠に挨拶に出向くようにと促した。これが行行われれば秀頼が徳川家に臣従することになり、天下人になる道が絶たれるため、茶々は頑としてこれを許さず両者の対立が表面化していく。
家康の意向
 家康は秀頼と孫の千姫を結婚させ、豊臣家はかつての主家だったこともあり、この時点ではまだ豊臣家を懐柔して存続させる意向を持っていた。しかし豊臣家の存続のためには、秀頼が徳川家への臣従をはっきりと表明する必要があった。豊臣家が新たな天下人となった家康の下について「もはや秀頼は天下人ではない。またそれを目指すこともしない」と世間に明らかにしなければ、徳川家の天下が定まらなかった。しかしかつての栄華を取り戻すことを夢見る茶々はこれを認めず話がこじれてゆく。
 この頃には既に豊臣家の実力は失われており、徳川家に従うのが現実的な選択だったが、淀殿とその側近たちにはそれが理解できなかった。秀頼が成人して立ち上がれば豊臣家に恩のある大名たちが味方になり、徳川家を倒してくれるとしていた。しかし実際には、家康と秀忠は着実に徳川政権の支配体制を強化しており、時間がたつにつれ盤石なものとなっていった。豊臣家に恩のある大名たちも、徳川幕府からの命令によって築城などに追い使われ、飼いならされていた。

二条城の会見
 茶々の強硬な姿勢に危機感を抱いたのが、加藤清正や福島正則らの、かつての秀吉子飼いの大名たちであった。彼らは日々強まっていく徳川家の実力を冷静に評価し、豊臣家が存続するためには徳川家に臣従するしかないという現実を見ていた。このため茶々と家康に働きかけ、家康と秀頼の対面を実現するべく運動を行った。この動きに豊臣家の重臣・片桐且元も加わり、会見を行わなければ「関東と不和になり、合戦が起こるのは確実」とまで茶々に告げた。重臣と秀吉子飼いの大名たちの言葉には、茶々も耳を傾けざるを得ず、1611年に京都の二条城で会見が実現した。この時の秀頼上洛の名目は「妻・千姫の祖父に挨拶する」というもので、臣従を約束するためのものではなかった。しかしこれが豊臣家と徳川家の関係改善すると清正らは期待した。会見そのものはつつがなく終わっが、その直後から次々と豊臣家と関係の深い大名たちが死去してしまう。

加藤清正らの死
 会見の直後に加藤清正は病に倒れ、間もなく亡くなってしまう。さらに秀吉の妻・高台院の実家である浅野家の当主・浅野長政とその子の幸長(よしなが)が相次いで亡くなる。彼らはいずれも徳川家に仕えつつ、豊臣家にも忠誠を誓うという態度の大名たちだったので、家康によって暗殺されたのではないかという噂が流れた。真偽は不明であるが、茶々と秀頼は頼れる存在を次々と失い、豊臣家の諸大名への影響力が大きく低下する。秀吉に直接恩を受けた大名は福島正則ぐらいで、徳川家に対し危険を犯してまで逆う可能性のある者はいなくなる。家康にとっては、その気になればいつでも豊臣家を滅ぼせる状況が作り出された。さらに徳川秀忠が徳川幕府の二代将軍に即位し、幕府の世襲が明らかになると、天下の豊臣家をさしおいて何事かと激怒した淀殿は全面戦争の構えをみせる。

方広寺の鐘銘を巡るいさかい
  1614年に、豊臣家は京都の方広寺の再建を行った。この再建は家康から勧められたもので、豊臣家の持つ莫大な財宝を消費させることが狙いだった。この年の4月に梵鐘が完成し、工事奉行を務めていた片桐且元が清韓という僧に銘文を選定させ刻みつけた。家康に開眼供養の日取りを相談したが、やがて家康が鐘の銘文に問題があると言い出した。この鐘には「国家安康」という文字が刻まれており、「家」と「康」の字を分けて刻んだのは、家康への呪詛を込めていると非難した。これに対し銘文を選定した清韓は、家康の名を安易に刻んだのは手落ちだったが、呪詛の意図はなく、むしろ家康への祝意を込めたものだと弁解した。しかし家康は銘文の「君臣豊楽」という言葉には、豊臣家が栄えるようにとの祝意を示していると指摘し「国家安康」と合わせ、これは家康を呪って豊臣家が栄えるように念じたものだと主張した。家康に報告をしながらの寺院の再建事業で、家康を呪う文面をわざわざ鐘銘に刻むのは考えられないことで、これは家康が豊臣家を糾弾するための難癖とするのが妥当である。

片桐且元の追放
 これに対し再建の奉行を務めていた片桐且元が、駿府の家康の元に赴いて弁解しようとするが、会うことすらも許されず窮地に陥いる。一方で、茶々の腹心である大蔵卿局が家康に会いに行くと、こちらは簡単に面会を許され、「鐘銘の問題など何も気にしていない」と告げられ丁寧にもてなされる。茶々の元に戻ってこれを報告して安心させるが、その後に片桐且元が帰還して報告をすると、その内容は大蔵卿局のものとまるで違っていた。
 片桐且元は戦争を避けたければ、秀頼が駿府か江戸に参勤すること、茶々は江戸で人質となること、秀頼は大坂城を出て別の領地に移ること、などの厳しい要求が突きつけられ、このうちの一つを選ばなければならないと告げた。

 二人の報告がまるで違っていたため、片桐且元は茶々とその側近たちから家康への内通を疑われた。もともとが且元は家康に命じられて豊臣家の重臣になっていただけに、淀殿は且元を裏切り者呼ばわりして且元への暗殺計画が持ち上がり、ついに且元は大坂城からの退去を決断する。
 淀殿とその側近たちは片桐且元の領地を没収し屋敷を打ち壊したため、且元は自領の城に撤退した。交渉役に当たっていた片桐且元の追放と、屋敷の打ち壊しによって交渉が決裂したと家康は判断し、ついに豊臣家に対して宣戦を布告する。

 これらはすべて家康が描いた構図通りの展開で、片桐且元の信用を失わせ、追放させるために、わざと大蔵卿局と且元で異なる対応をしたのである。こうして家康のもくろみ通り、徳川幕府による豊臣討伐軍が大坂に送り込まれた。茶々にすれば、寺の再建で難癖をつけられたと思い、いつの間にか大軍で攻め込まれる事態となったわけで狐につままれたような気分だった。

大坂冬の陣
 茶々は福島正則や加藤嘉明などの、豊臣家と縁の深い大名たちに味方するようにと呼びかけるが、応じる大名はいなかった。この頃には徳川幕府の支配体制が固まっており、いまさら豊臣家の世が戻ってくると思う者はいなくなっていた。かろうじて福島正則が大坂屋敷に蓄えた兵糧を豊臣家が接収するのを黙認しましたが、援助はそのくらいだった。もし加藤清正や浅野幸長らが生きていれば違った展開もあったかもしれない。このため豊臣方は関ヶ原の戦いに敗れて領地を失った浪人たちが集まり、10万ほどの寄せ集めの軍を組織した。淀殿はこの城は10年持ちこたえられると強気だった。
 真田信繁(幸村)や後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親らが勧誘に応じ、指揮官級の人材は揃いましたが、淀殿や側近たちはこれらの牢人たちを心からは信用せず、その間に生まれた溝は埋まらないままで終わりました。牢人たちも互いに牽制しあって打ち解けることはなく、これらの優れた武将たちを束ねて一つの力に変えていける将帥の存在を欠いていたことが、豊臣方の劣勢を招くことになります。これに対し、家康と秀忠は20万の大軍で大坂城を包囲しますが、この時は秀吉の築いた堅牢な防御構造に守られていたため、徳川方は安易に手を出さず、持久戦となります。

大坂城への砲撃と和睦
  この時に茶々は自ら武装し供の女房たちにも軍装をまとわせ、城を巡回して兵士たちを励ましました。しかしどこからも豊臣家の味方は現れず、その威光が完全に消え去ったことが思い知らされ、茶々の心にも暗い影が差すようになります。茶々の心には、秀吉の時代に見た天下人の栄光が焼き付いており、いずれそれを回復させ、秀頼を天下人にしてやりたいという思いを抱いていたのでしょうが、それが夢想に過ぎないという現実に、ようやく気づかざるを得ない事態となりました。やがて家康は高台に長距離砲を設置し大坂城に向かって撃ちかけさせます。それは茶々の居住区にまで届き、侍女のひとりを負傷させました。
  抗戦を続けても勝ち目が見えてくるわけでもなく、この事態に心を折られたのか、茶々は和睦交渉を行うことを指示し大坂冬の陣は終了する。この戦いの前に、家康は秀頼が大和一国で我慢するなら命を助けてやろう、と言っている。「たぬきオヤジ」といわれた家康の真意は分からないが、もしそれが本音だとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。そして、彼女にそれを受け入れる度量の広さや冷静さがあったら、母子して猛火の中でその生涯を終えることはなかったろう。

大坂城の堀が埋め立てられる
  この時の和睦の条件に、大坂城の堀を埋め立てること、というものがあり、茶々はこれを受け入れます。そして堀が全て埋め立てられたことで、大坂城からは防御力が失われ、もはや徳川家に抵抗するための手段は失われました。その上、大坂城には徳川家に内通している者が数多くおり、情報はすべて筒抜けになっていました。秀頼の妻・千姫は徳川秀忠の娘ですし、織田氏の一族同士ということで用いていた織田有楽斎や織田信雄らも、みな家康に通じていました。そして実際に戦ってみた結果、もはや大名たちへの豊臣家の影響力は皆無になっていることもわかりました。このような状況下では、これ以上の抗戦が不可能であることは茶々も理解していたでしょうが、それでも大坂城を捨てて秀頼とともに江戸に移り、わずかな領地をもらって生き延びる、という選択をすることはありませんでした。徳川家に全面的に屈服すれば命だけは助かるかもしれませんが、そこまでして生き延びたいとは考えなかったようです。
  それは自らの誇りのためなのか、豊臣家の栄光を完全に潰えさせたくなかったからなのか、衰えたりといえども、豊臣家を掌握した己の権力を手放したくなかったからなのか、いずれの理由なのかは定かではありません。ともあれ、ここからの茶々は自ら滅びへの道を選択し、それを歩んでいくことになる。

大坂夏の陣
 1615年になると、茶々は大坂からの国替えや、牢人衆の追放という家康からの要求を拒否し、再び対決姿勢を明らかにします。家康は一度戦って打ち負かせば、茶々もさすがにあきらめて徳川家に屈服するかと考えていたかもしれませんが、この対応を受け、ついに完全に豊臣家を滅ぼすことを決意する。そして15万の軍に動員をかけ、大坂城に向けて進軍させる。家康は大坂城が無力化したことから、数日でこの戦いの決着がつくと見ていたようで、「三日分の腰兵糧を持つだけでよい」と家臣たちに命じるほどの余裕をみせていました。圧倒的に不利な状況であったため、大坂城からは退去するものが相次ぎ、こちらの戦力は7万8千にまで減少しました。残った武将たちは軍議を開き、堀がなくなったために籠城が不可能となり、家康の首を取って逆転する以外に勝利の道はないと結論を出します。こうして豊臣軍は城から打って出て、徳川軍を攻撃することになります。

敗北と落城
 1615年5月6日に最初の戦いが始まるが、後藤又兵衛や木村重成らの武将たちが戦死し、大坂方はいよいよ追い詰められてゆく。翌日には最後の決戦が行われ、真田幸村は秀頼自らが出陣し、兵たちの士気を高めるようにと要請するが、茶々はこれを強く拒否して、秀頼は生涯を通じて一度も戦場に立つことはなかった。秀頼を大事に思うあまり戦場に立たせなかったのだろうが、武将として育てる気がなかったのだろう。多くの領地を保有しているのに矛盾している。戦いたくないなら領地を捨てて公家になれば、秀頼は生き延びたであろう。豊臣家は摂関家で、藤原氏と同じように存続することは可能であった。領地と武力を捨てれば、家康も豊臣家を滅ぼすまではしなかったであろう。

 茶々は武家や公家を制した豊臣家の栄光に固執したあまり、我が子の運命を誤らせてしまった。その後に行われた戦いでは、真田信繁や毛利勝永の奮戦のかいあって一時は家康を追いつめたが、大坂方は大軍の前に力尽きて敗れ去ってしまう。家臣の大野治長は淀殿・秀頼親子の助命を願って、徳川家から秀頼に嫁いでいた千姫を大坂城外に脱出させたが、その日のうちに牢人衆の一部が寝返って大坂城に火を放ち、略奪を行うなどの事態となり豊臣軍は完全に壊滅した。

その最期
 茶々は秀頼とともに城内の山里丸に逃げ込むが、やがてそこも徳川方に包囲される。大野治長は千姫の身柄と引き換えに秀頼の助命を嘆願するが、家康はもはや手遅れとしてこれを受け入れなかった。茶々はついに覚悟を決め、秀頼とともに自害して果てた。
  大蔵卿局や大野治長らの側近と、秀吉の家臣であった毛利勝永がこれに殉じ、豊臣家と縁の深い者たちもことごとく殉じた。茶々、享年は46た。こうして茶々は、母と同じく落城とともにその死を迎えることになった。

豊臣家の滅亡
 秀頼には側室に生ませた国松という子どもがいたが、家康はこの子を処刑して豊臣家の嫡流を断ち切っている。秀頼の娘の天秀尼は助命されたものの、一生を尼として寺で過ごすことになり、子を成すことはなく豊臣家の血統は絶えている。
 もし茶々が早いうちに豊臣家の栄華を忘れて徳川家に臣従していれば、秀頼はある程度の身分を保って生き延びることができた。しかし茶々は大坂城の主となり、権力を手放すことができなかった。
 秀頼を生んだことで秀次の抹殺を招き、さらに自らの選択で豊臣家を完全に滅ぼしてしまったことは茶々は豊臣家にとって災いであった。秀吉が茶々を選んだのか、茶々が秀吉を選んだのかはわからないが、いずれにせよその出会いが豊臣家の滅亡という結果を招いた。茶々は野心に取り憑かれ、権力を捨てられずに滅んでしまった誇り高い女性としての役回りだった。前半生の悲劇は茶々が知らぬところで進行し、豊臣家の主となってからは自らの選択で災いを招き寄せたのである。茶々は自ら滅びの道を選び、子も孫も死なせてしまうことになった。その人生は富と権力に取り憑かれたせいである。
 淀殿は秀吉の妻となって秀頼を生み、豊臣家の終焉を導いたが、浅井氏と織田氏の一族に生まれ戦乱の中で父と母を失い、さらに自分も大坂の陣という大戦に敗れ豊臣家を滅亡に導いた。

 淀君は猛烈な母の顔を持ったが、秀頼の教育において決定的な間違いを犯している「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」ということに気付くべきだった。淀君は秀頼を可愛がるあまり外に出すことは少なく、危ないからと武芸なども行わせていなかった。温室育ちだった秀頼にこれでどこまで大将として通用したかは疑問である。秀頼を溺愛するあまり、秀頼を愚将にしたのか、秀頼を愚将と見抜く冷静さに欠けていたのだろう。

 淀君は「ねね」のような政治的センスもなく、お市のような気丈さもなく、我が子を愛しただけの普通の女性だったのだろう。淀君が豊臣家の命運を背負うには重すぎたのであろう。