真田幸村

真田幸村
 真田幸村は大坂の陣で活躍し「日本一の兵(つわもの)」と称された武将である。真田幸村は父・真田昌幸(まさゆき)がまだ武田信玄の家臣だったころに甲斐の甲府で生まれた。真田幸村の本名は真田信繁で、幸村という名は後世の軍記物に記された名前であるが混同しやすいので幸村に統一して書く。
 甲斐には信繁という同名の武将・武田信繁がいた。武田信繁は武田信玄の弟で、人望が厚く兄・信玄をよく補佐し、信玄の代理として戦場で大将を務めることがあった。上杉謙信と武田信玄が争った「川中島の合戦」で信玄をかばって信繁は戦死したが、信繁が存命していれば武田氏の衰退はなかったと言われるほどの武将である。武田氏の家臣たちから信頼され、武田氏の家臣だった父・真田昌幸はこの武田信繁のことをよく知っていた。
 真田幸村(信繁)は次男だったので、兄・信之(のぶゆき)を補佐する武田信繁のような武将になってほしいとの願いから信繁の名が付けられた。しかし実際には、真田幸村は兄に負担をかけ、そのような生涯を送ることはなかった。

 真田幸村が8歳の時、あの鉄砲の3段構えで有名な、1575年5月21日の「長篠の合戦」で武田勝頼が織田信長に敗れたが、その戦いで父・昌幸の2人の兄も討死している。父・昌幸も長篠合戦に参加していたが、勝頼の旗本衆として参加したため戦死を免れていた。さらに1582年の「天目山の戦い」で信玄の子・勝頼も自刃し、これで主君の武田家は滅亡した。

 

知将の片鱗
 天目山戦いで敗走する300人の真田軍が、居城の上田城を前にして北条軍4万と遭遇した。見つかれば瞬殺されるはずであった。すると15歳の幸村が「私に策があります」と父・昌幸に進言した。それは無地の旗に北条方の家臣・松田憲秀の紋所の「永楽通宝」を描くことだった。味方のフリをすることであるが、怪しまれたら終わりである。そのため疑う隙を与えぬ方法をとった。それは夜襲を掛けることだった。
 真田軍は50人ずつに分かれて、6方向から襲撃して人数が多いように見せかけ、奇襲を受けた北条側は旗を見て自軍の家臣が裏切ったと思い大騒ぎとなった。その混乱に乗じて敵陣を突破したのである。

 真田氏の旗印は「六文銭」であるが、三途の川を渡る船賃は6文とされ、当時は棺の中に六文を入れたことから、「真田隊はいつでも死ぬ覚悟がある」という気概を示していたのである。

 

父・真田昌幸
 真田昌幸は武田家が滅びる前、北条氏の手にあった上野の沼田城を謀略によって手に入れ、武田家の滅亡を察知すると長尾憲景を介して北条家に近づき、武田勝頼が自刃する二日後には北条家から返書をもらっている。

 戦国時代後期、甲州征伐を開始した織田信長は甲斐の武田氏を滅亡させ、その領地は甲斐から信濃、駿河、上野に及んだ。次は誰を主君にするのか、悩んだ昌幸は信長に名馬を贈り真田家として独立した大名の道を模索した。上野国(群馬県)岩櫃城の守備を務めていた真田昌幸は織田側につき所領を安堵された。

 さらに織田軍団の関東地方の司令官・滝川一益の配下になり指揮を受ける立場になった。しかしその直後「本能寺の変」が起き、織田信長が殺害されると情勢が大きく変わった。

 織田信長が横死すると織田家と友好関係にあった北条家が離反し、5万6,000の兵で織田領上野に侵攻し、織田政権の関東管領・滝川一益が率いる2万の軍を神流川の戦いで撃破され、滝川一益は本拠地の伊勢まで敗走した。

 これに前後して甲斐の河尻秀隆が一揆により戦死、信濃の森長可や毛利秀頼も撤退すると、織田領である信濃、甲斐、上野が空白地帯となり、越後の上杉景勝、相模の北条氏直、三河の徳川家康が侵攻し、上野は三大勢力の争奪戦の場となった。この時、旧織田領を巡る天正壬午の乱が起きた。

 ここで真田昌幸は三勢力の間を巧みに立ちまわり、真田氏の勢力を維持することに努めた。徳川・北条・上杉の勢力はそれぞれ数万の大軍を動員したので、3千人規模の真田氏では戦いを続けるのは困難だった。1583年、幸村16歳の時である。真田昌幸は上杉軍に勝利すると、関東の北条氏の配下になり、信濃国北部に居城となる上田城の築城を開始した。さらに家康に従属するなど戦国の世を渡る為に昌幸は試行錯誤した。

 大名同士による争いは上杉、北条、徳川が講和し、上杉景勝が信濃北部4郡を支配、徳川家康が甲斐と信濃は切り取り、上野は北条氏直の切り取り次第という形で決着した。

 しかし家康と北条が和睦すると、家康は講和の条件に「真田領の沼田(群馬北部)を北条に譲る」と勝手に決めたのである。このことに父・昌幸は怒った。「沼田は真田が戦いで勝ち取った土地であり、徳川から頂戴した土地ではない」と引渡しを拒絶した。

 天下を狙う家康にとって真田の言い分を認めれば「家康はあんな小国も自由に出来ぬのか」と笑い者にされてしまう。家康は面子を守るために真田征伐を決めた。真田昌幸は徳川との対抗するため、越後の上杉に接近した。しかし上杉はこれまで何度も戦ってきた相手である。そこで17歳の幸村を人質として上杉に送り、真田氏は上杉氏に従属してその保護を受けることになる。
 幸村は人質として、上杉氏の越後に送られたが、この戦国時代、大名や武将の子どもが人質として送られるのは当たり前のことで、徳川家康自身もそうであり、次男の徳川秀康も豊臣秀吉に人質として送られている。幸村と家康の共通点は、家康は織田・今川のもとで 14年間、 幸村は上杉・豊臣のもとで13年間人質として他国で過ごしたことで、力ある大名のもと戦国の世を生き抜く術を学んだのである。裏切りをしないための人質であるが、人質になった幸村には目立った活躍はない。

 

兄・信之(信幸)
 父・昌幸の片腕として活躍したのは、兄の信之(のぶゆき)だった。信之は父・昌幸や弟・幸村の名声に隠れあまり知られていないが、戦場での駆け引きでは父譲りの才能を持っており、さらに内政や財務にも長じて総合的に高い能力を持つ武将であった。

 信之は北条や徳川との戦いを通じて活躍し、少数の兵で奪われた城を奪還したり、領内で起きた一揆を一兵も使わずに鎮圧した実績があり、優れた智謀の持ち主であった。幸村も後に同様の才能を示し、昌幸・信之・幸村の三者はそれぞれが優れた能力を持っていた。親・兄弟が有能というのは珍しいが、そのため小勢力の真田氏が大勢力に挟まれながらも生き延びることができた。

 信之は真田と徳川との戦い(第一次上田合戦)で際立った軍功を上げ、それが家康の目にとまった。信之はのちに徳川家康とその重臣である本多忠勝に見込まれ縁組をする。本多忠勝の娘・小松姫が家康の養女となり信之に嫁いだ。つまり信之は家康の娘婿になったわけで、この流れから関ヶ原の闘いで幸村と信之は袂を分かつことになる。

 真田氏が上野や信濃の領地を守るべく奮戦している間に、中央では豊臣秀吉が天下を制した。父・昌幸は抜け目なく秀吉と交渉し、真田氏は豊臣直属の大名となり、上杉氏の支配を脱して独立する。


第1次上田合戦

 徳川家康と北条氏直が和睦するが、徳川家康はその講和の条件に「真田領の沼田(群馬北部)を北条に譲る」と勝手に決めた。このことに父・昌幸は祖先伝来の地は渡さぬと怒り、引渡しを拒絶したことから、1585年8月に第一次上田合戦が勃発した。

 家康との一戦は、長篠設楽原の戦いで討死した昌幸の兄・信綱と次兄・昌輝の弔い合戦であり、父・昌幸の闘魂はいやがうえにも燃え上がった。しかも昌幸は戦国最強の武将・武田信玄に使え戦略・戦術を余すところなく学んでいた。坐して徳川軍の来攻を待つような凡将ではなかった。北信濃にまで勢力圏を拡大していた越後の上杉景勝に次男の幸村を人質として差し出し、盟約を結び加勢を依頼するとともに、家康を膝下に組み伏せて覇権奪取を目論む羽柴秀吉にも書状を送った。稀世の智謀の将ならではの外交戦略である。

 家康は沼田領引き渡しの拒絶と上杉景勝への鞍替えに激怒し、上田城攻めを決断する。鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世 、柴田康忠らの三河譜代衆に松平康国、諏訪頼忠、保科正直、小笠原信嶺らの信濃諸将、三枝昌吉や武川衆らの武田遺臣からなる派遣軍は総勢およそ7000を数えた。
 徳川勢出陣の報告に上田城では迎撃準備が急がれた。支城の戸石城には嫡男の信幸以下800を入れ、矢沢城には従弟の矢沢頼康、丸子城には丸子三左衛門を配し、昌幸は400の将士とともに上田城に籠もった。

 だが動員できた兵力は徳川勢の3割にも満たない2000ほどでしかなかった。徳川家康は浜松から7000人の兵を信濃に派遣し、真田昌幸は兵700でこれを迎え撃つことになった。10倍の徳川軍と戦って勝ち目はあるのか。昌幸は築城中の上田城に兵500を入れると、残りの200人をおとり部隊として城の手前の神川に配置した。さらに徳川勢の突撃路になる城下の各大手筋に深さ1間(約1.8メートル)、幅1間ほどの堀切を掘り、互い違いに結い上げた柵を設けた。
 北国街道を進軍して信濃へ攻め込んだ徳川勢は、千曲川南岸の台地・八重原に着陣すると、翌日、千曲川を渡って神川東岸に進出し、小休止する間に神川の浅瀬を探し、一気に押し渡るべく水飛沫を跳ね上げて迫ってきた。

 神川の西岸には昌幸の密命を帯びた前衛部隊200が邀撃態勢を整えていたが、1発の銃弾も1本の矢も放たなかった。徳川の先鋒部隊が西岸に達したが、抵抗することなくじりじりと後ずさりした。その間にも後続兵は神川を押し渡り大半が無傷で渡河を終えた。姿を現した徳川軍に対しておとり部隊は敗走するふりをしながら城の側まで敵を引き寄せ、調子に乗る徳川軍は「真田は不甲斐ない」と城下に入った。

 真田勢のおとり部隊に誘引された徳川勢は、三の丸橋と二の丸橋を突破して二の丸へ雪崩れ込んだが、その間、真田勢の反撃はなかった。徳川勢は城中の兵が少ないためと侮り、どっと鬨の声をあげて本丸へ迫り我先に大手門に取りついた。それを待っていたかのように真田昌幸が鋭い眼光を放って「太鼓だ、鉦だ、貝を吹け」と命じた。
 太鼓と鉦が乱打され、法螺貝の吹鳴音が響き渡ると静まっていた真田勢の反撃が始まった。門や塀の上、矢狭間、鉄砲狭間から銃弾と矢を雨のように放ち、かねてから用意しておいた丸太や大石を投げ落とし、沸騰した油を降り注がせた。

 守るのは軍兵だけではなかった。猟師は鳥銃をぶっ放し、農民や町人は丸太や大石を運び石礫を投じ、女・子供は油を沸かすなどの雑用に汗を流した。

 「我らが城下に住まう者は百姓であれ町人であれ、皆、わが子も同じ。妻子を引き連れて籠城せよ」昌幸は徳川勢が来攻する前に城下にお触れを出して入城を許していた。領民はその仁愛に応えるべく徳川勢への攻撃に加わったのである。
 罠に嵌まって二の丸へ殺到した徳川勢は、昌幸の目算どおり大混乱に陥った。真田昌幸が馬にムチ打ち大手門を開けた。

 「者ども、わしにつづけ」槍をしごいた昌幸が馬腹に強い蹴りを入れ、先頭を切って突いて出た。旗本勢も後れてはならじと先を争い、剣刀杖をきらめかせて駆けだした。時を移さず、別部隊も横槍で突きかかり町家に火を放った。町家への放火は昌幸の命令だった。町人は事前に避難させており、無住となった町家に次々と松明を投げ込んでいった。

 その日は強風が吹き荒れており、紅蓮の火炎は渦を巻いてたちまち四方に飛び散り、朦々たる黒煙が城下を覆い尽くした。しかも敵は大軍ゆえに柵で身動きが取れず、そこへ真田鉄砲隊の一斉射撃が始まった。
 大混乱に陥った徳川軍に四方の山や谷に隠れていた領民3000余が、城内で乱打される陣太鼓の音を合図に紙旗を押し立てて徳川勢の側背に襲いかかった。城内へ入った領民と同じく昌幸に報いての合力で、鳥銃を放ち石礫を投げつけた。農民は鎌や鍬を、町人は竹槍や棍棒を手にして徳川勢の撤退路に立ち塞ふさがった。
 徳川軍の将士たちは踏みとどまる者も、踵を返す者も混乱し、死傷者を続出させ雪崩を打って敗走し、かろうじて神川の渡河地点まで逃れた。だがそこに新たな敵勢が出現した。戸石城で機会をうかがっていた信幸配下の800の将兵が、染谷郷から横撃してきたのである。

 真田勢は徳川勢を押し包むように三方から攻撃を加えた。徳川軍が火災から逃れるように川へ逃げ込むと、上流で真田勢が川の堰を切り大増水となり徳川勢の多くの人馬が流された。徳川勢の死傷者は3000人を超え、溺死者は数知れず、ついに撤退命令が出された。真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。

 真田軍は10倍の敵を見事に撃退し、徳川軍は撤退して第1次上田合戦に勝利した。秀吉ですら苦戦を強いられた徳川軍を寡勢でもって撃砕した昌幸の武名は一躍天下に轟き渡った。独立大名としての地位を確立し、真田恐るべしと諸大名から一目置かれるようになった。

 この合戦によって徳川家康の真田氏に対する評価は高まり、結果として本多忠勝の娘である小松姫を嫡男・真田信之へ嫁がせることになった。

秀吉の天下

 真田昌幸は次なる戦いに備え秀吉の力を頼ることにした。秀吉は真田家の後ろ盾となることを約束すると、人質の幸村は上杉から秀吉方へ移された。この後、徳川家康は秀吉に屈服し、秀吉の天下統一を阻むのは関東の北条氏のみとなった。
 1590年の秀吉の北条征伐の際に、幸村は石田三成の軍に属し忍城攻めに参加し、左衛門尉という官位に叙任された。この時期の幸村は長い雌伏にあり、目立った活躍はなかった。
 豊臣姓の下賜は多くの人たちに行われており、幸村が特に厚遇されたわけではない。幸村は人質としての生活を続けるうちに、やがて年齢は30を超えていた。後の華やかな活躍ぶりとは裏腹に、その前半生は地味な生活を強いられていた。
 1590年、秀吉は20万の兵で小田原征伐を行い天下人となり、真田も徳川も同じ主君に従う家臣となった。長男・信之(幸村の兄)は徳川四天王の一人・本多忠勝の娘を娶り、真田幸村は秀吉の重臣・大谷吉継(石田三成の親友)の娘と結婚した。

 この大谷吉継の母は秀吉の妻・高台院の縁者で、幸村は兄の信之と違い、豊臣氏とのつながりが強いことになる。真田昌幸や徳川家康、上杉氏は豊臣政権に従い、北条氏は小田原征伐により没落し、家康は関東に移封された。

 

関ヶ原の戦い前

 幸村31歳の時、天下人となった秀吉が病没すると時代は再び動き出し、豊臣政権で五大老筆頭にあった家康の影響力が強まった。
 家康は天下取りに向けて豊臣5大老の征伐を開始し、前田利長(利家の子)を服従させると、会津120万石の上杉景勝に狙いを定めた。

 反徳川勢力は五奉行の石田三成を中心に結集し、1600年6月、家康が会津の上杉征伐の兵を起こして大坂を離れると、石田三成は毛利輝元を総大将として西軍を組織して挙兵した。

 真田父子(昌幸、信之、幸村)は徳川方として上杉景勝討伐に向かっていたが、下野国犬伏(佐野市)で家康を断罪する石田三成の密書を受け取った。密書には「秀吉の遺命に家康は背き、秀頼を見捨て勢力を拡大している。秀吉の御恩を大切にするなら西軍に入るべし」と記してあった。徳川家康が率いる東軍は、下野国・小山において三成ら西軍の挙兵を知り軍を西に返した。

 真田昌幸は東軍を率いる家康に従っていたが、その夜、真田父子は東軍(徳川家康)西軍(石田三成)のいずれにつくかを話し合った。昌幸の妻と石田三成の妻は姉妹で、信之の妻の父は徳川四天王である。幸村の妻は父が石田三成の親友で、側室は豊臣秀次の娘であった。

 昌幸は真田領譲渡の件(第1次上田合戦)で家康を嫌っていたが、兄・信之は家康から才を認められ側近を務めるなど家康と親しく、幸村は豊臣の人質時代に世話になった知人が西軍に大勢いた。
 その結果、昌幸と幸村が西軍に、信之が東軍につき、敵味方として分かれることになった。また昌幸の三男・四男も東軍についた。幸村はこの時33歳になっていた。関ヶ原の戦いにおいて、真田家は西軍(石田三成側)と東軍(徳川家康側)に別れ、幸村はこの年齢になって大きな舞台で活動する機会が与えられた。
 戦国の世の非情さを痛感しながら両者は互いの武運を祈り、昌幸・幸村は上田城に帰った。この時、どちらが勝っても良いように別れたという説があるが、信之は家康の娘婿であり東軍につくのは自然な流れであった。

 徳川氏に近い兄・信之は東軍の勝利を予想していたが、昌幸は独立する形で3万石を領有しており三成と親しい間柄にあった。幸村は石田三成と血縁関係があり、父・昌幸はかつて領土をめぐって徳川と戦火を交えた経緯があり(第1次上田合戦)徳川につくはずはなかった。

 昌幸は西軍が不利なことはわかっていたが、自分の手で戦況を優位に導いてやろうと決意していた。昌幸は西軍につき幸村もそれに従った。家康は信之が残ったことに感激し、関ヶ原の後、昌幸の土地を信之に与えることを約束した。
 関ヶ原に向かう家康は、上杉・真田軍に江戸を奪われないように軍を二手に分けて進軍した。家康率いる8万は東海道を、嫡子の徳川秀忠を大将とする本隊4万は真田の牽制を兼ねて中山道を行かせた。
 西軍としての真田昌幸の戦略は、秀忠軍を足止めにして関ヶ原合戦に参入せないことだった。東軍の両隊12万に対し、西軍は9万と数の上では負けていた。しかし家康の8万のみならば西軍の方が1万多い。小大名の真田が秀忠の4万を倒すことは無理だが、関ヶ原に遅刻させることができた。これが真田昌幸を天才戦略家と呼ばれる由縁である。

第2次上田合戦
 徳川秀忠にとって重要なのは関ヶ原であり、真田攻めは大事の前の小事であった。真田攻めを無視して真っ直ぐ関ヶ原に行くべきだった。しかし信濃を通過した後に、背後から攻撃される可能性があり無視できなかった。

 まして徳川秀忠は21歳と若いうえ、これが初陣だった。かつて徳川軍を敗退させた上田城を自分が落とせば、関ヶ原に到着した時の良い土産になる。初陣を勝利で飾れば父・家康から誉められる。上田城は天守閣すらない小城で、秀忠軍4万人に対し真田軍は2000人なので負けるはずがなかった。

 父・真田昌幸は徳川秀忠を関ヶ原に行かせない為に、何とか相手を怒らせて戦いに持ち込みたかった。秀忠は上田城に近づくと、この大軍を知れば「まったく勝負にならないから、戦わずに降伏する」として使者を立て降伏を勧告してきた。使者に選ばれたのは真田信之と本多忠勝の子・忠政である。真田信之は父を説得することを命じられた。
 会談の場に現れた父・真田昌幸は、頭を剃り降伏を受け入れ、開城を約束した。徳川秀忠は「我が軍は一人の犠牲も出さずに真田を落とした」と喜んだ。ところが策士・昌幸にとってこれは巧みな時間稼ぎだった。昌幸の狙いは秀忠の行軍を遅らせることで、秀忠の行軍が遅れれば遅れるだけ、主力の軍団が集まる岐阜方面での決戦に間に合わなくなることを知っていた。関ヶ原合戦は10日後(15日)で、秀忠は布陣の準備や他大名との作戦立てのためには2日前には着いていたかった。
 しかしその日も翌日も上田城は開城しない。どうなっているのだ、もう時間がない。「これ以上待てん。今一度使者を送って開城を催促して来い」と秀忠が命じると、昌幸は会談を拒否するどころか逆に宣戦を布告したのである。

 はじめから降伏のための交渉は時間稼ぎであった。さらに昌幸は西軍の旗を掲げ、秀忠軍を挑発して攻撃をしかけるように仕向けた。徳川軍はかつて上田で少数の真田軍に敗れた屈辱の経験(第一次上田合戦)があり、その汚名を挽回するためにこの挑発に乗ってしまう。

 「真田め、徳川を馬鹿にしおって」と秀忠は怒った。秀忠の側近は「真田など無視して先へ」と説得したが、「何もせずこのままでは武士の顔が立たぬ。笑い者になる」と、秀忠は全軍に攻撃命令を下した。

 真田側は上田城に真田昌幸が、北部の戸石城に真田幸村が入っていた。徳川秀忠は本隊で上田を攻め、分隊を戸石城に派遣した。分隊の大将は土地勘のある兄・真田信之が選ばれた。

 真田幸村は「兄上とは戦いたくない」と、信之が着く頃には上田城へ撤退した。真田信之は抜け殻の戸石城に入ったが、奪還される可能性があるためそのまま城を守備した。真田昌幸は戦わずに、秀忠軍の分断に成功し、また真田信之がいないので思う存分戦えた。
 真田昌幸は徳川軍を挑発する為に、まず昌幸と幸村が自ら50騎を率いて城外に出た。総大将が現れたことに徳川軍は驚くが、昌幸らは偵察だけで戦わずに城内へ戻った。総大将が最前線に出てきたことは「お前らには絶対負けない」と嘲笑するのと同じであった。

 頭に来た徳川軍は一斉に城門へ向かった。その結果、後方の本陣が手薄になった。この隙を突いて、本陣の後方に潜んでいた伏兵たちが秀忠を襲撃した。
  「本陣が攻撃されている」徳川軍は慌てて戻り始めた。そこを城内の真田鉄砲隊が一斉射撃した。徳川軍がパニックになると、城門から幸村の騎馬隊が襲い掛かった。徳川軍は挟み撃ちになって大混乱となった。

 これは第1次上田合戦と同じであった。徳川軍に援軍が到着したが、城の手前の神川は真田側によって上流の堰が切られ大増水で渡れなかった。秀忠の顔色が真っ青になった。水位が下がり援軍が合流すると、真田軍は上田城に閉じこもって篭城戦に入った。城内には十分な糧と弾薬が備蓄されていた。

 冷静に考えれば、上田城の周囲に抑えの人数だけを置いて進軍すればよいのだが、老練な昌幸の術に戦場での経験の乏しい秀忠ははめられてしまった。秀忠は大軍で攻めるが、昌幸は少数の兵で大軍をあしらう名人だった。時間を費やしても攻め落とすことがでなかった。
 そうこうしているうちに、家康から早く関ヶ原方面に向かうようにと催促の使者が到着し、秀忠軍は無為に時間を費やしただけで上田城から去っていった。こうして昌幸の遅滞戦術は成功した。この時の幸村は防戦に参加し、秀忠の残した抑えの部隊に夜襲をかけるなど活動した。この戦いで名声を得たのは見事に作戦を成功させた父であり、幸村は依然として無名のままだった。
 「この城を落としていたら、関ヶ原に間に合わぬ」。秀忠軍は急いで関ヶ原へ向かったが、山中で豪雨にあい川は洪水寸前で、天候が最悪となり関ヶ原合戦に間に合わないばかりか、関ヶ原の東軍は1日で勝利し、到着したのは合戦から4日後のことだった。家康は激怒し秀忠が合流しても3日間面会を禁じた。

(徳川でも落とせなかった上田城。関ヶ原の後、上田城は徹底的に破却され三基の隅櫓(すみやぐら)が残るだけである。JR上田駅前の真田幸村像)

 高野山へ

 真田父子は秀忠軍を翻弄し、作戦は大成功に終わったが、肝心の関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、昌幸と幸村は敗者になった。真田父子は第二次上田合戦に勝利したにもかかわらず敗将の立場になった。

 家康は真田父子に2度も煮え湯を飲まされ、死罪にするつもりだった。そこへ真田信之とその舅である本多忠勝が助命の懇願にきた。家康は「真田だけは絶対に許せん」と譲らなかったが、真田信之は「自分の命と父弟の命を引き換えに」と訴え、徳川四天王の一人・本多忠勝は「ならば、一戦つかまつる」と言う次第であった。

 家康はあくまでも特例として、真田父子を高野山の麓の九度山へ謹慎させることにした。昌幸は上田城から連行される際「悔しい。家康をこのようにしてやりたかった」と涙ながらに語った。10月9日、真田親子は高野山に到着した。このとき昌幸55歳、幸村は33歳であった。
 家臣の同行も一部認められたため、昌幸には16人の家臣が、幸村には妻が随行した。当時の高野山は女人禁制だったので、幸村たちは高野山の入口の九度山に入った。
 配流先の善名称院(真田庵)で、幸村たちは武将としての地位を失い、寂しく生活を送ることになる。父子は仕送りに頼って細々と生活をすることになり、昌幸は三男に宛て次のような手紙を書いている。「借金が重なって大変苦しい。至急20両を届けて欲しい。無理なら10枚、せめて5枚でも」。真田幸村も「焼酎を2壷送って欲しい。そして途中でこぼれないように2重に蓋をして欲しい」と書くなど、配流生活は実に侘しい日々だった。和歌山藩は50石の扶持を支給し、真田信之の妻・小松には鮭などを届けているが、監視下の生活は苦しかった。わずかに残った家臣たちは真田紐を編んで販売するなどして生計を立てた。
 1611年、配流から11年目に昌幸が再起の夢も虚しく病没した。享年64であった。翌年に幸村(44歳)は出家し、伝心月叟と名乗った。幸村は来るべき日に備えて兵法書を読み武術の訓練を積んだが、何ら成すこともなく人生が終わってしまうことを無念に思っていた。しかし徳川氏と豊臣氏の関係の悪化が風雲をよび、幸村にとって活躍できる舞台が訪れてきた。
 1614年、幸村が47才の時である。徳川と豊臣が全面対決となり、家康は大坂城討伐を諸国に命じた。この時の家康は豊臣氏を滅亡させることを決意しており、方広寺の鐘銘事件で難癖をつけ、豊臣氏が挙兵するように促した。この頃には徳川氏の支配体制は盤石になっていて、諸大名が豊臣氏に味方するのは期待できない情勢だった。豊臣家の兵は3万で、豊臣秀頼は関ヶ原以降の徳川に不満を持つ諸国の浪人に大坂城に結集するように呼びかけた。大名は動かなかったが浪人は大勢集まった。
 家康が天下を統一してから戦いがなくなり、諸大名が召抱えていた浪人たちで豊臣勢は10万を超える大軍となった。高野山にも使者が尋ねて来た。「徳川を滅ぼすため、幸村殿の力を貸して頂きたい」と述べると、豊臣家から当座の支度金として黄金200枚、銀30貫が贈られた。
 幸村は感極まり「このまま高野の山中に埋もれると思っていたが、ついに武士として最高の死に場所を得た」。幸村は14年間の謹慎生活で周辺の農民とも親しくなっており、農民は幸村の心境を察し脱走に協力した。10月9日、幸村は高野山を脱し長男・大助など5人の子と共に大坂城に入った。
 14日、家康の元に「真田が大阪城に入った」との情報が入った。家康は驚愕して立ち上がりと、手の震えで掴んだ戸が音を立てるほどだった。「その篭城した真田は親か子か」と尋ねると「子の幸村であります」と家臣は答えた。すると幸村を知らない家康は胸を撫で下ろした。家康は真田が大坂城に入ったと聞いて焦ったが、昌幸ではなく幸村だと聞いて安堵したのである。それは大きな間違いだったが、幸村は生涯でただ一度、自らの真の力を示せる舞台に立った。真田幸村はその生涯の最後のたった8カ月で400年間、名前を残すことになる。(下左:真田幸村 上田市立博物館所蔵。下右:真田昌幸 長野市松代町の原氏所蔵)

大坂の陣の始まり
 大阪の陣は「関ヶ原の戦い」から 15 年ほど経っており、世の中は江戸時代に入っていた。「関ヶ原の戦い」では徳川家康が率いる「東軍」が勝ち、石田三成の西軍が破れたが、関ヶ原の戦いは名目上は「豊臣家の家臣団同士の戦い」であった。

 徳川家康と対立していた豊臣家の家臣の多くは関ヶ原によって死罪、あるいは戦死・追放となって徳川家康が名実共に「豊臣家の家臣の代表」になっていた。豊臣家の重臣であった「豊臣五奉行」は解体され、政務は家康の主導で行われた。

 大阪城は豊臣秀頼の母である「淀殿」が中心となって運営され、淀殿は我が子・豊臣秀頼を過保護なほどに可愛がり、豊臣秀頼こそが天下人であり、徳川家康は秀頼の家臣に過ぎないとしていた。

 1605 年、徳川秀忠の将軍就任の挨拶を淀殿は拒否し、その6年後になってやっと徳川家康と豊臣秀頼の会見は行われたが、家康は豊臣秀頼が立派な成長したのを見て危機感を抱いた。さらに1613 年頃に豊臣家が江戸幕府を無視して朝廷に官位を要請したが、このことが江戸幕府の方針に逆らうことになった。ここから両者の関係は急速に悪化した。豊臣家は豊臣家に近い有力大名の高齢化や病死が進んだこと、さらに徳川幕府の体制が年々強固になった事に焦りが出てきた。

 大坂の陣が起こる直接のきっかけは、あの有名な「方広寺鐘銘事件」であった。豊臣家に大地震で倒れた京都の方広寺を立て直させましたが、方広寺に収めた鐘に「国家安康」「君臣豊楽」と書かれており、「これは「家康」の字を2つに分けて呪い、さらに「豊臣」が主君になって栄えると言いがかりを付けられたのである。

 家康はそれ以前から豊臣家に各地の寺院の修繕を命じ、その資金力を削いでいたが、まさに豊臣家は家康の術中にハマったと言える。このような言いがかりは誰の目にも強引で、豊臣氏ではいろいろ弁解したが家康は聞き入れず、最初から相手を怒らせるのに十分だった。徳川側は豊臣家との合戦は不可避として両者は防戦体制を固め、徳川家康は豊臣家の討伐宣言をしたのである。

 

大坂冬の陣

 徳川家康は全国の大名に豊臣家討伐のために参陣するように要請し、全国から軍勢約 20 万を集めた。豊臣家も全国の大名に味方するよう嘆願するが幕府のカを恐れ応じた大名は1つもなかった。しかし豊臣家はこの数年前から資金を惜しみなく使い全国から浪人を集め、また「関ヶ原の戦い」の際、西軍に味方して没落した大名家やその家臣、武士達が全国に多くいたため、その浪人たちが「関ヶ原の復讐とお家再興」を目指して約 10 万もの兵力が集まったのである。
 豊臣側の主な武将としては、関ヶ原の後に取り潰された四国・長宗我部家の末裔「長宗我部盛親」、関ヶ原で毛利軍として布陣していた「毛利勝永」、関ヶ原の宇喜多軍の主力戦力で熱烈なキリシタン武士、徳川家のキリスト教禁止に反発していた「明石全登」、また武闘派として有名な後藤又兵衛や、大谷吉継の子「大谷吉治」、仙石久秀の子「仙石秀範」などがいた。さらに「これが戦国最後の合戦になる。戦って死に花を咲かせよう」と、最初から最期の戦いのつもりで参加した武将も多かった。
 大坂城での軍議では「篭城」か「出撃」かで2つに割れた。豊臣家の重臣は大坂城の堅牢さに自信を持っており、長期的な篭城戦に持ち込めば、また真冬が来れば敵は疲弊し諸大名の寝返りが期待出きると主張した。
 真田幸村たち浪人衆は「篭城策が有効なのは援軍を待つ時だけであり、今回は先制攻撃をかけて、城から討って出て家康を迎え撃つように」と提案した。つまり伏見城、宇治川、京都、大和、茨木、大津を先に抑えて畿内を統一し、遠征で疲労した東軍を迎え撃つ野戦を主張した。しかし結局は「きっと味方になる大名が現れる」という豊臣家の強い願望が反映され篭城策になった。
 篭城が決定した後、幸村は籠城でどう戦えばよいのかを考えた。攻城戦ならば東に湿地帯、北に天満川、西に難波港という「天然の水掘」があるため、家康の大軍が陣を張るのは南側と予測できた。そこで防衛力を南側へ集中するため、大坂城の唯一の弱点であった三の丸の南に「真田丸」と呼ばれる出城を築いた。

 真田丸とは背後を大坂城の堀で防御し、三方を水の無い深い空掘りと三重の柵で囲い、壁には矢倉、銃座、さらには城内への抜け穴を持った強固な砦であった。籠城をしても勝ち目はなく、真田丸から積極的に野戦をしかけ、相手が油断しているところで家康を討ち取ると幸村は考えていた。
 11月15日、大坂冬の陣が始まった。敵の進攻方向が南側と決まっている以上、そこを守るのは当然だった。幸村は大坂城の外に飛び出た「真田丸」が総攻撃の的になる事を覚悟して立て篭もり、兵たちの団結力を高める為に、真田隊の鎧を赤で統一した(真田の赤備え)。

 戦闘が始まるまでは大坂城の首脳部から幸村は信用されず、出城を築いたのは徳川に寝返るためではないかと疑われていた。味方を信じることができないようでは勝利の可能性は乏しと言えるが、幸村はそのような逆境に置かれていた。

 5,000の兵が守る真田丸によって大坂城唯一の弱点はふさがり、徳川方は攻めあぐね、家康は力攻めでは落城できぬと判断した。家康は城内にスパイを忍ばせて内部の切り崩しを謀るなど、攻撃のタイミングをうかがっていた。また同時に「一番槍」を固く禁じた。一番槍とは最初に戦った者で、武士の世界では最大の名誉で、合戦の勝敗に関係なく英雄として後世まで語り継がれた。

 開戦から数日が経っても一向に東軍が攻めてこないので、幸村は敵兵の功名を焦る気持を刺激する心理戦で勝機を生もうとした。
 真田丸の前方200mに、ちょうど真田丸と敵陣との間に篠山という小山がある。幸村はこの小山に少数の鉄砲隊を配置し、前列の前田利常隊を連日射撃した。家康は前田利常に塹壕を掘り土塁を築き、城は攻撃しないように指示していた。前田利常隊は死傷者が出たが家康はまだ攻撃命令を出さなかった。前田利常隊の兵たちは腹を立て、小山の鉄砲隊を追い払おうと出陣するが、小山につくと既に真田兵は撤退して誰もいなかった。手持ち無沙汰で小山をウロつく前田隊は両陣営から笑われた。
 翌日(12月4日)も前田隊は、発砲された小山に夜襲をかけたが真田勢は城内に撤収して誰もいなかった。カッコ悪くて陣に戻れず、前田隊は挑発に乗り真田丸の堀まで進撃した。これを見た徳川勢は、前田隊が「一番槍」を抜け駆けしたと思い「我が隊も遅れをとるな」と井伊直孝、藤堂高虎、松平忠直の各隊が真田丸に殺到した。

 まさに幸村の思うツボだった。真田丸は屏風のように建てられ、堀に入った敵兵を十分に引きつけてから真田丸から一斉に射撃を行った。「撃てい」一瞬のうちに数百名の犠牲者を出し、東軍は退却を始めたが、その時、真田丸の後方で守備兵が誤って火縄を火薬桶に落とし大爆発が起きた。徳川の内通者が城内で裏切る手はずになっており、これを寝返りの合図と勘違いした東軍は真田丸に引き返して来た。徳川軍は爆発のあった辺りで城門が開くものと思っていたが、当然開かないうえに真田丸から攻撃を受けた。
 手柄を焦り狭い城門の前にひしめき合う敵兵を見て、幸村は呆れてしまった。連中は開城を狙い竹束・鉄楯などの防御をしていない。「では遠慮なく」と再び真田鉄砲隊の一斉射撃が始まった。真田幸村は大阪城に入る前、鉄砲の産地であった紀州(紀伊半島南部)にいた。そのため部隊には鉄砲の名手が多くいたのだった。

 みるみる死傷者が増え、やがて事態を把握した徳川軍は兵を撤収させようとしたが、後方からどんどん援軍がやって来て撤退できなかった。前にも後ろにも身動き出来なくなった軍勢の頭上に、さらに弾丸の雨が降り注いだ。幸村は完全に指揮系統が崩壊した徳川勢を見て「一気に叩き潰すぞ」と、城門を開いて長男・大助ら陸戦隊を突撃させた。
 徳川軍は24時間で1万人以上の死傷者を出し、この日から迂闊に真田丸に接近できなくなった。師走の厳寒の中、吹きさらしの塹壕や仮小屋で野営を続ける徳川軍の士気は低下し、米を補給するにも豊臣側が既に買い占めていたので現地調達は出来なかった。退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後防御のための竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。

和議
 焦った家康は家臣の真田信尹(幸村の叔父)を使者として真田丸を訪問させ、信濃に10万石を与えるから味方になれと説得した。10万石というと兄・信之と同じで好条件であったが幸村はこれを断った。すると今度は信濃一国(40万石)をすべてを与えると条件を釣り上げたが、幸村はこれをも跳ねつけた。幸村は金でも領土でもなく、最後まで戦い抜き、家康を討ち取る道を選んだのである。
 次に家康は豊臣方に和議を提案したが、総大将・秀頼は和睦を拒否したため戦況が膠着した。そこで家康は一晩中、約300門の大筒(大砲)で淀殿の居住区を砲撃する作戦を取った。砲撃で断続的に攻撃する為、轟音で淀君の神経が参ってしまった。しかも大筒の一発が居室を直撃し、侍女8名が即死した。悲惨な現場を見て震え上がった淀君は秀頼を説き伏せ、城の外堀を埋める条件を呑んで12月20日に和平が成立した。

 「大坂・冬の陣」が終わった後、双方の間では次のような取り決めが行われた。
・大阪城の外堀を埋める
・大坂城の「二の丸」「三の丸」の撤去
・豊臣側の領地の補償
・豊臣秀頼と淀の身の安全の保証
・豊臣家が雇った浪人たちの罪は問わない

 この取り決めで豊臣側は「だらだらと埋め立てて時間を稼げば、家康はもう高齢なので、いずれ死ねば諸大名も寝返るだろう」と考えた。事実、家康は1年半後に他界している。

 和平が結ばれたが、真田丸は日本中の大名20万を相手に大坂城を守り通した。この冬の陣で幸村は、真田の軍旗「六文銭」を使用せず真紅の旗を使っている。東軍の兄・信之の部隊が「六文銭」を掲げていたので遠慮したのである。ただし冬の陣に兄・信之は病気になり出陣しておらず、代わりに2人の息子が戦列に加わっていた。甥っ子たちは攻撃が巧みで豊臣の武将も感心し、猛将・木村重成は鉄砲隊に「あの六文銭の2人を撃つな。鉄砲で殺してはならん」と命じた。
 しばしの休戦で、幸村は故郷の姉や親戚に遺書とも思える手紙を書く。「豊臣方について本家に迷惑をかけ申し訳ない。豊臣の味方をして奇怪とお思いでしょうが、まずは戦いも済み、自分も死なずにいます。ただし明日はどうなるか分かりませんが、とにかく今は無事です」。
 和平条件で家康はただちに外堀の埋め立てに取り掛かった。徳川方は異常な速さで堀を埋めていった。水を抜いたり土を運んでくるような悠長なことはややずに、何でもかんでも放り込んで埋めていった。要するに攻撃の足場ができれば良かったので城下の民家を壊して埋めて平地にした。

 豊臣側が工事を担当するはずだった埋め立てを「お手伝い」と称してどんどん埋めていった。さらに豊臣方が内堀まで埋めようとする東軍に抗議するが、なんせ家康は「タヌミ親父である」である。とぼけたまま約1ヶ月後には外堀、内堀の全ての堀が埋まり真田丸も壊されてしまった。

 家康は「堀を3歳の子供でも昇り降りできるくらいにせよ」と命じた。大坂城は本丸だけの裸城になり、家康は秀頼に「大坂から別の土地への国替えとすべての浪人の追放」を要求してきた。秀頼は「要求は我がドクロの前で言え」と怒ったとされている。

 豊臣家は「大坂・冬の陣」が終わった後も、浪人たちをそのまま城内に留め置いていた。「浪人たちの罪は問わない」という条件を豊臣側が都合よく解釈したが、徳川側は浪人追放、武装解除を要求していたのである。

 翌年の3月、徳川家康は浪人たちが町で乱暴を働いている事を理由に、豊臣家に「浪人を解雇する」か「別の土地に移る」かのどちらかの選択を最後通告として通達してきた。しかし豊臣家はこれを拒否。 同時に合戦の準備を開始めた。家康は再び各地の大名に京都に集結するように呼びかけた。

大坂夏の陣
 1615年4月28日、夏の陣が始まった。兵力は豊臣軍約7万、徳川軍約15万5千。この時には大坂城を守る堀はなく、防御力を失っており豊臣側に勝ち目があるとは思えない状況であった。そのため豊臣方の武将は城を捨て野戦に打って出ることを決め2倍の敵に突撃していった。

 まず豊臣家は首脳陣で淀殿の側近である大野治長の弟、大野治房を大将に商業都市・堺に進攻して焼き討ちして全焼させた。これは堺が徳川軍の前線基地になる事を恐れたからである。これを受けて徳川軍も大和(奈良)方面から大坂城へ進んできた。

 5月6日、豊臣方は奈良と大坂を結ぶ山と川に挟まれた道明寺付近に布陣をしき、畿内入りする東軍を各個に撃破する作戦をとった。しかしスパイがいた為に進軍ルートは変更され、さらに濃霧の中で前が見えず豊臣勢の集結が遅れた。豊臣勢の中で先に集合地点に着いた後藤又兵衛、薄田兼相(すすきだかねすけ)らの武将が山を占拠し単独で徳川軍を押し止めようとするが、伊達政宗の騎馬鉄砲隊1万5千の前に次々と壮絶な戦死を遂げた(道明寺の合戦)。 
 午後になってから真田幸村と毛利勝永がその地に到着するが、その頃には戦線が崩壊しており、撤退する大坂方の殿軍(最後尾)を務めることになった。到着が遅れて後藤又兵衛を死なせてしまった幸村は、地面に伏した長柄槍隊で波状攻撃をかけ伊達軍の追撃を食い止めた。

 幸村は「関東の武士は百万いても、男は一人もおらん」と言って帰還した。大坂城に戻った幸村は、木村重成が八尾合戦で討死したことを知った。
 5月7日、幸村は徳川の主力が天王寺方面から進軍して来ると予想して天王寺口(茶臼山)に布陣したが多くの古参武将が倒れた。豊臣勢の疲弊は激しく、真田幸村や明石全登、毛利勝永らは最後の作戦を立て、兵の士気を高める為に秀頼の出陣を求めた。城内には「幸村は東軍の兄のスパイ」という噂が広まっていたため、幸村は子・大助を大坂城に人質として送り秀頼の出馬を要請した。しかし秀頼の出陣が実現することはなかった。豊臣氏の譜代の家臣たちや、母の淀殿が反対したからである。
 戦力は豊臣が5万、徳川が15万であった。3倍の戦力差があり正面から野戦で戦えば、豊臣方に勝利の可能性はなかった。わずかに可能性があるとすれば、家康の本隊を強襲して家康の首を獲ることだった。そこで敵の陣形が伸びきったところで、明石全登隊が家康本陣に突入した。毛利勝永は徳川方の先鋒である本多忠朝隊を壊滅させ本多忠朝を討ち取り、さらに小笠原勢をも撃ち破り緒戦は豊臣方に優位に進んだ。
 序盤は最後の戦いと奮い立つ豊臣方の兵の士気が勝っていて、徳川方の二番手、榊原・仙石・諏訪らの大名の軍勢も壊乱し、狙い通りに家康の本陣に迫れる状況になった。

 

最後の戦い
 正午、家康は真田幸村の正面に越前・松平軍1万3千を置き本陣を張った。幸村は「名誉な死に場所を得た、行くぞ」。真田隊3000は家康だけに狙いを定め一丸となって突撃した。勝つためは「徳川家康の首を取る」しかない。せめて家康を道連れにという気持ちがあった。

 幸村はこの時に松平忠直の部隊と交戦するが、すれ違うようにして前に出て家康本陣へと進出した。この最終戦での豊臣軍の戦いぶりは凄まじく敵味方を問わず賞賛されたほど苛烈だった。さらに寝返りが出たという虚報を流し徳川方を混乱させた。
 真田幸村は家康の本陣に突撃を行い、家康の身辺を守る旗本隊を恐怖に陥れ、旗本隊は数キロに渡って逃げた。関ヶ原の戦いから15年が過ぎており、精強だった徳川軍にも緩みが出ていたのである。幸村は越前勢の戦力を分散させる為に、数名の影武者を進撃させ、各影武者が最初から死ぬ気で東軍を引き付けた。真田隊は鬼気迫る戦いぶりで、防御が手薄となった場所を突いて、ついに家康の本陣にたどり着いた。
 家康の本陣前では旗本隊(先鋭部隊)が人間の壁を作り、真田隊の猛攻を受け止め凄絶な乱戦となった。真田隊は討死が相次ぐが、戦列を整えて3度本陣への突撃を繰り返した。そしてついに家康の馬印(本陣の旗)が引き倒された。家康にとって馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来のことで、この真田幸村による特攻の2度にわたった。「真田にこの首は取らせぬ」踏み倒された馬印を見て家康は腹を切ろうとしたが、これを側近たちが止めた。
 決死の覚悟で臨んだ真田隊であるが、多勢に無勢で、時間とともに兵力の少ない真田隊は劣勢に陥り、武将の戦死や撤退が相次いだ。真田幸村もついに力尽き、真田隊は次第に追い詰められ四天王寺に近い安居神社まで撤退した。

 負傷した幸村は神社で手当てを受けたが、そこを松平忠直の部隊に発見され、真田幸村は「我が首を手柄にせよ」と敵に告げると西尾宗次に討ち取られた。享年48歳。翌日、秀頼と淀殿は自害し、大助も秀頼とともに殉死し大坂夏の陣は終わった。真田幸村を討って褒美を授かった西尾宗次は故郷に「真田地蔵尊」を建て菩提を弔った。


英雄としての真田幸村
 夏の陣で幸村の武神ぶりを目の当たりにした島津家当主・島津忠恒(家久)は、故郷へ次のようなの手紙を書いた。「真田幸村は日本一の兵(つわもの)。真田の奇策は幾千百あり。そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。真田を英雄と言わずに誰を英雄と呼ぶのか。女も童もその名を聞きて、その美を知るべきである。真田幸村は現れては隠れ、前にいるかと思えば後ろにいて、火を転じて戦った。真田幸村は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にてつつじの咲きたるが如し。合戦において討死したが古今これなき大手柄である」。

 たしかにその通りである。徳川家康は戦国時代に終止符を打ち、265年続く江戸幕府を開いたが、 その家康を撃破したのが真田一族で、真田一族と家康の戦績は真田の3勝1敗で家康は最後の一度しか勝っていない。
 大坂の陣の後、家康は幸村の首実検の際に「真田幸村の武勇にあやかれ」と言うと、居並ぶ武将達はこぞって遺髪を取り合った。家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」とした。

 石田三成のように名前さえ口に出来ない者がいる一方、「誉め称えてよい」というのは極めて異例なことである。家康は本陣が崩壊するほど窮地に追い込まれ、最後まで震え上がらせた幸村に同じ戦国の男として感嘆したのである。
 兄の信之は弟・幸村の人柄を次のように評している「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒って腹立つことはなかった。幸村こそ国を支配する本当の侍であり、幸村に比べれば我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具持ちである。それ程の差がある」。
 これは連戦連勝の豪傑としての幸村とは随分異なる人物像であるが、しかし普段はとても温厚なのに、戦場では無敵の男に変貌し、各地の浪人衆をひとつに結束させたことが人々の畏敬の念を呼んだ。まさに名だたる武将の中でも傑出した名将であった。
 戦局不利と見るや、身内でも裏切りが珍しくない世に、幸村の家臣は誰も降参しなかった。これも幸村の高い人徳ゆえと諸将は感心した。庶民からも尊敬され、歌舞伎・講談でも英雄となったが、幕府はこれを禁じなかった。
 幸村は生き延びたければ高野山にいればよかった。それでも大坂城に入ったのは武人としての死に場所を求めたからである。信濃譲渡の話を蹴ったように、保身や利といった文字は幸村の心にはなかった。敵味方から幸村が絶賛されるのは、戦国期において失われがちな武士の誇りを、身をもって体現した数少ない本物の侍だったからである。武士が憧れ、武士が尊敬したのが真田幸村だった。


真田家のその後
 大坂夏の陣で見せた幸村の奮戦ぶりはすざましく、戦場の武将たちの間でその名が知れわたった。本名の信繁よりも幸村の名が知られたのは、軍記物などで「幸村」と書かれていたからで、変名を使ったのは当時の支配者である徳川氏に逆らった人物だったからである。圧倒的に有利な状況にいた家康の本陣を幸村が突き崩したのは事実であり、それが人々を痛快にさせた。家康は既に天下人であり、その痛快さが、幸村を伝説化させたのである。

 大坂の陣は戦国時代の最後を飾る戦いであり、そこで不利な状況にありながらも、一時のきらめきを見せた幸村は、より鮮明に人々の心に焼き付いた。
 幸村の長男・幸昌は秀頼に殉じ切腹するが、次男の守信は大坂城から脱出し、伊達政宗の重臣である片倉重長に保護された。真田守信はしばらくは徳川幕府をはばかって片倉を称していたが、守信の子どもの代には真田姓に復し仙台真田氏としている。

 また幸村の娘も保護され片倉重長の妻となっている。兄の真田信之の家系は、信濃の10万石の大名として明治時代まで続いた。真田信之は第2次上田合戦で辛苦を味わった二代将軍・徳川秀忠から疎まれたが、後に信頼を得て真田家を守り通した。真田信之にすれば、自分が助命嘆願をして救った幸村が徳川に逆らったことで、心理的な負担を負うことになるが、幸村に恨みはなく、後に「幸村こそが真の侍」と述べている。