千利休

 千利休(田中与四郎)は和泉国・堺の魚問屋(ととや)で生まれる。当時の堺は貿易で栄える国際都市で、京の都に匹敵する文化の発信地であった。堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、周囲を壕で囲って浪人に警備させるという小さな独立国であった。堺の多くの商人は優れた文化人でもあり、千利休は信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった。
 千利休の父は堺で高名な商人で、利休は16歳の時に、店の跡取りとして品位や教養を身につけるために茶の道に入った。18歳の時に当茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。23歳で最初の茶会を開く。
 武野紹鴎の「侘(わ)び茶」は、人間としての成長を茶の湯の目的とし、茶会の儀式的な形よりも、茶と向き合う者の精神を重視した。大部屋では心が落ちつかないことから、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが後の茶室へと発展していく。
 武野紹鴎は不完全だからこそ美しいという「不足の美」に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。そして、精神の充足を追究し侘び(枯淡)を求めた。
 利休は師の教えをさらに進め、侘びの対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。また当時の茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、利休は新たに茶道具を創作し、掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。利休はこれ以上何も削れないという極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。

千利休像(正木美術館蔵)天正11年(1583年)古渓宗陳賛
千利休像(正木美術館蔵)天正11年(1583年)古渓宗陳賛

 1568年(46歳)、自由都市・堺に信長が目をつけ、圧倒的な武力を背景に堺を直轄地にし、軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。新しいモノに目がない信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ、武力や政治だけでなく文化の面でも覇権を目指した。信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えるなどあらゆる面で茶の湯を利用した。
 戦国武将たちにとって名物茶器は一国一城に値するもので、その価値は現在とは比較にならないものだった。名物茶釜「平蜘蛛釜」を所有していた大和の武将・松永久秀は数度にわたって信長を裏切るが、信長は問答無用で攻め滅ぼさなかった。1577年、信貴山城にこもった久秀を2万の織田軍が包囲した際、「もし平蜘蛛釜を差し出せば命までは奪わぬ」と降伏勧告を行った。信長が喉から手が出るほど平蜘蛛釜を欲している事を知っていた久秀は、「信長にはワシの首も平蜘蛛釜もやらん」と、平蜘蛛釜に火薬を詰めて自分の首に縛り付け、釜もろとも爆死して天守閣を吹っ飛ばした。現代では信じられなけど、茶器が人の命を左右する時代であった。
 織田信長が堺を直轄地としたときに、信長は堺とのつながりを強固にするため、政財界の中心にいて茶人でもあった、今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)、利休を茶頭として重用した。利休は51歳、53歳と2度、信長主催の京都の茶会で活躍している。 信長の家臣は茶の湯に励み茶道具を欲しがった。彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ることで、そのため茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。

 585年(63歳)、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた。この禁裏茶会を利休は取り仕切り、それまで宗易と名乗っていたが天皇から「利休」の号を賜った。このことでその名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。
 1585年(63歳)、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた。この禁裏茶会を利休は取り仕切り、それまで宗易と名乗っていたが天皇から「利休」の号を賜った。このことでその名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。
 翌年に大阪城で秀吉に謁見した大名・大友宗麟は、壁も茶器も金ピカの「黄金の茶室」で茶を服し、「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と記した。
 秀吉は茶会を好んだが本能寺で大量の名物茶道具が焼失したため、自慢できる茶器が不足していた。そこで利休は積極的に鑑定を行ない、新たな「名品」を生み出していく。天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがるようになった。利休は自分好みの渋い茶碗を、ろくろを使用しない陶法で楽焼職人に造らせた。武骨さや素朴さの中に、温かみを持つ樂茶碗を、人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり利休の名声はさらに高まった。
 1587年(65歳)、秀吉は九州を平定すると、天下統一を果たした祝勝として、内外への権力誇示するため史上最大の茶会「北野大茶湯」を北野天満宮で開催し、公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加が許され、まさに国民的行事であった。秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、利休が演出を担当した。利休は秀吉の重い信任を受けていた。当日の亭主には利休、津田宗及、今井宗久、そして秀吉本人という4人の豪華な顔ぶれが並んだ。拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、会場全域に設けられた茶席は800ヶ所以上となった。秀吉は満足気に各茶席を見て周り、自ら茶をたて人々にふるまった。

 

侘び茶

利休は60歳までは先人の茶を踏襲し、本能寺の変の年から独自の茶の湯を始めた。つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だった。利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定し、その代わりとしてわび茶を想像した。わび茶とは茶の湯の一つの美意識。清楚で質素な生活を宗とし、物の不足のなかに心の充足と美を求める考えであった。物の不足つまり、過剰なものをそぎ落とした状態の中に、美しさを見出す心が「侘び」といえる。一方の「寂び」は、経年変化によって新しい美がそこに備わった状態のことで、簡単に言うと「侘び」は不完全な美で、「寂び」は枯れた美と言える。

 楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。
    利休は茶室の普請においても、画期的な変革を行い草庵茶室を創出している。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。なかでも特筆されるべきは「窓」の採用で、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った。このことにより茶室内の光を自在に操り、必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということができた。設計の自由度は飛躍的に増し、利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしている。
 露地も利休の業績である。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。

 秀吉は茶の湯の権威が欲しくて「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが持つ資格とした。しかし利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と告げた。有楽斎が問うと、利休は「それは自由と個性なり」。利休は秘伝などと言う作法を全く重要ではないと説いたのである。

 山崎天王山の麓の妙喜庵(京都府大山崎町)内の待庵(右)は千利休唯一の遺作とされている(国宝)。無駄を削ぎ落とした究極の茶室で、当時の上流階級で愛された「山荘や茶屋の原形」となっている。わずか2畳敷の草庵で、世俗的な身分差を解消するため入り口は「躙口(にじりぐち)」になっている。躙口は狭いうえに低位置にあり、いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。それは天下人となった秀吉も同じだった。しかも武士の魂である刀を外さねば入れない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということである。
 庇、露地(路地)によって庭と室内の一体化が図られている。一見質素で狭隘にみえながらも、天井の複雑な構成や窓の自在な配置、床内の入隅柱、天井を土壁で覆った室床など細部にいたるまで配慮が行き届き、驚くばかりの拡がりを見せている。

 山崎の戦いののち、秀吉はしばしばここで利休らと茶会をもよおしている。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。

利休の逸話

 ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出した。秀吉が満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいとやって来ると庭の朝顔は全て切り取られていた。不審に思いながら、秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。一輪ゆえに際立つ朝顔の美しさに秀吉は深く感動した。
 秋に庭の落ち葉を掃除していた利休がきれいに掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。「せっかく掃いたのになぜ」と尋ねると、「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えた。
 弟子に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われた時、「茶は服の良き様に点(た)て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」「師匠様、それくらいは存じています。もしそれが十分にできましたら、私はあなたのお弟子になりましょう」。当たり前のことこそが最も難しいという利休の話である。

 ある冬の日、大坂から京へ向かっていた利休は、親しい茶人の家へ立ち寄り、主人は来訪に驚きながら迎え入れた。利休は突然の訪問にも関わらず手入れされている邸内や、庭で柚子の実を取り料理に柚子味噌を出す主人のとっさの客をもてなせる趣向に喜んだが、料理に当時は高級品で日持ちもしない蒲鉾が出されたところで顔色を変えた。実は主人は利休がこの日に自邸のそばを通ることをあらかじめ知っており、準備を整えた上で素知らぬ態で突然の客でも十分にもてなすことが出来るように見せかけていただけだったのである。蒲鉾が用意されていたことからそれを察した利休は、わざわざ驚いたように見せた主人の見栄に失望しその場で退席した。

  福島正則は細川忠興が茶人の利休を慕っていることを疑問に思い、その後忠興に誘われ利休の茶会に参加した。茶会が終わると福島正則は「わしは今までいかなる強敵に向かっても怯んだことは無かったが、利休と立ち向かっているとどうも臆したように覚えた」とすっかり利休に感服していた。

 

秀吉との対立と切腹
 利休と秀吉は、茶の湯の最盛期「北野大茶湯」が蜜月の頂点であった。利休は黄金の茶室の設計などを行い、草秀吉の聚楽城内に屋敷を構え聚楽第の築庭にも関わり、禄も3千石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。

 やがて徐々に両者の関係が悪化していく。秀吉は貿易の利益を独占する為に、堺に税を重くするなど様々な圧力を加え、独立の象徴だった壕を埋めてしまった。これは信長でさえやらなかったことで、堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく感じたのであろう。また
 1590年(68歳)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ、その日のうちに耳と鼻を削がれ処刑される。利休はこのことに衝撃を受ける。茶の湯に関しても、秀吉が愛した派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする素朴な草庵と正反対だった。秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、利休との思想的対立が日を追って激しくなった。

 そして翌年の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたてて秀吉に出した。家臣を前に秀吉のメンツが潰れてしまう。その9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。切腹の1ヶ月前、利休が公式に開いた最後の茶会の客は家康だった。
 2月23日、利休は突然秀吉の逆鱗に触れから「京都を出て堺にて自宅謹慎せよ」と命令を受ける。利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた。これは利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いたものであった。しかし大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないということである。秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリ分からせようと思っていた。

 前田利家や利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名の弟子たちが奔走したが助命は叶わなかった。前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻のおね(大政所)を通じて詫びれば許されるだろうと助言したが、利休はこれを断った。

 秘伝の作法に見られるような権力の道具としての茶の湯は、侘び茶の師の武野紹鴎も、絶対に否定したはずである。秀吉に頭を下げるのは、師の武野紹鴎だけでなく茶の湯そのものも侮辱することになる。利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを恐れて、京を追放される利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことから秀吉の怒りが沸点に達した。
 2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。翌26日、秀吉は気が治まらず利休を堺から京都に呼び戻され、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走した。

 翌28日、この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えたのは「切腹せよ」であった。この使者は利休の首を持って帰るのが任務だった。切腹に際しては弟子の大名たちが利休を奪還する恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだ。

 利休は切腹を命じにきた秀吉の使者に対し静かに口を開き「茶室にて茶の支度が出来ております」と答え、使者に最後の茶をたてた後、利休はひと呼吸をついて切腹した。享年69。利休の首は磔にされた、大徳寺三門上の木像に踏ませる形で木像の下にさらされた。
 利休の死から7年後に秀吉も病床に就き他界する。晩年の秀吉は利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせた。さらに17年後の1615年。大坂夏の陣の戦火は堺の街をも焦土と化し豊臣家はここに滅亡した。
日談
 利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。その他にも織田有楽斎、細川忠興ら多くの大名茶人がわび茶を嗣いだ。三千家は千少庵の系譜であり、大徳寺の息子・千宗旦が還俗して、現在の表千家・裏千家の地所である京都の本法寺前に屋敷を構えた。

 秀吉が没すると古田織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南した。だが織部の自由奔放な茶が人気を集め始めると、家康は古田織部が利休のように政治的影響力を持つことを恐れ、大阪の陣の後に「織部は豊臣方と通じていた」として切腹を命じた。
 利休、織部に切腹命令が出たことは、世の茶人たちを萎縮させた。徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように既成の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。
 後年、利休の孫・千宗旦が家を再興する。千宗旦の次男・宗守が「武者小路千家官休庵」を、三男・宗佐が「表千家不審庵」を、四男・宗室が「裏千家今日庵」をそれぞれ起こした。利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。なお切腹の理由にされた木像は今日庵に現存する。

千利休屋敷跡(堺市堺区宿院町西1丁)。 利休居士四百年記念碑(九州大学馬出地区内)