清少納言

清少納言

 清少納言は日本最古の随筆として知られる「枕草子」の筆者である。生没は96年頃~1025年頃で村上天皇の勅撰和歌集「後撰和歌集」の撰者の一人でもある。父・清原基輔(もとすけ)の娘として生まれ、清少納言の実名は不明であるが、清原氏は代々文化人として政治、学問に貢献した家柄で、父・清原基輔は「契りきなかたみに袖をしぼりつつ  末の松山波越さじとは」が百人一首に採用され三十六歌仙の一人である。曾祖父・清原深養父(ふかやぶ)も百人一首に「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいづくに月宿るらむ」を古今集に残している歌人である。

 このような環境に感化され、清少納言は「枕草子」に「史記」「論語」などの引用がみられることから、娘時代から和歌や漢文に親しみ、女性としては水準をはるかに超えた教養を身につけ、機転の利く明るい活発な女性であった。小さい頃は父・清原基輔の転勤とともに山口県の田舎に引っ越した。当時は都が一番の時代でしたので、この田舎で過ごした経験はプライドの高い彼女にとってかなりの衝撃的だったと思われる。

 15歳で橘則光と結婚し、翌年に長男・則長を生むが、武骨な橘則光とは性格が合わずまもなく離婚する。当時は妻問婚で、夫が通って来なくなれば婚姻は解消されたので、清少納言の場合もそのようなものだったと思われる。正式な離婚ではないが、清少納言が漢学の素養など教養面で夫の則光より優れていたので、それが性格上の破綻とされ憎み合って別れたわけではない。このことは橘則光と親しく話を交わす場面が「枕草子」にいくつか出てくることから分かる。24歳時に父・清原基輔が他界する。
 993年(27歳)に関白・藤原道隆から一条天皇の中宮(後の皇后)17歳の定子のもとで教養係をして欲しいと依頼される。定子は関白の長女で一条天皇の中宮(后)である。それまで想像もしなかった夢のような宮廷生活が突然始まった。後宮には30名ほどの高い教養の侍女がいたが、清少納言の機知に富む歌の贈答に誰もが感心した。

 清少納言と呼ばれたが少納言といっても正式な官ではないが、明るく機知を尊ぶ定子は、鋭い芸術感覚と社交感覚を持つ清少納言を優遇し、清少納言は才能を発揮するにふさわしい舞台だった。

 和歌や漢詩の豊富な知識もあって、清少納言は詩歌を愛する定子に人一倍寵遇された。当時、漢文は男が学ぶものであり、漢詩に詳しい女性は男達から「生意気だ」とされた。しかし清少納言は子どもの頃から父に漢詩を教え込まれており、定子は清少納言を貴重な存在に思っていた。清少納言は漢文を引用した冗談を繰り出し、鋭い観察眼と歯に衣着せぬ物言いで宮中生活を楽しく過ごす。漢文の知識の高い男達をやり込め名声はどんどん高まった。

 出仕して2年後、定子の父の関白・藤原道隆が死去し、道隆の弟、藤原道長が関白になって「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と読み、これをきかっけに後宮の花形だった清少納言の運命は暗転し始める。

 道隆の子の内大臣・伊周(これちか)および中納言・隆家は道長と対立し罪を着せられ流罪になったのである。やがてふたりは許されて都に戻るが、道隆一家にはかつての勢いはなくなった。不幸にも藤原道長の全盛時代だったので、道長に連なる道長派の勢力が大手を振って通る時代で、道隆たちは道長から一歩下がって見守るほかなかった。

 996年(30歳)、定子の兄が道長の策謀で流刑になり、こともあろうに「清少納言は道長のスパイ」という酷い噂が流れ、清少納言は自ら宮廷を出て家に閉じこもってしまう。定子の母が他界し、屋敷が焼失するなど不幸な出来事が続いた。清少納言が努めて明るく振舞い、皆の心を元気にした。定子はこれまでは陽気で勝気な清少納言が側にいるだけで気持が弾んだ。

 それゆえ家に閉じこもっている清少納言に早く宮廷に戻って欲しと願い、清少納言が以前に「気が滅入った時は上等な紙や敷物を見ると気が晴れる」と言っていたので、当時としてはとても貴重だった20枚の紙と敷物を贈った。清少納言はこの時の喜びを「神(紙)のおかげで千年生きる鶴になってしまいそう」と記した。清少納言は以前にも定子の兄から貰った紙を贈られており、授かった紙に宮廷生活の様子を生き生きと描き込み、詩情豊かに自然や四季を綴ったのが随筆「枕草子」となっていた。

 定子の気持に応じる形で清少納言は宮廷に戻ったが、再び波乱が起きた。1000年に関白道長が娘の彰子(しょうし)を強引に中宮としたのである。天皇が2人の妻を持つ事態になった。そして同年12月、定子は出産で衰弱して24歳の若さで他界した。

 清少納言は自分より10歳も年下なのに聡明で歌の知識も豊富な定子のことを心底から敬慕しており、定子の死の悲劇に打ちのめされ、哀しみを胸に宮廷を去り、山里で隠遁生活を送るようになった(34歳)。
 その後、清少納言は藤原棟世(むねよ)と再婚し、小馬命婦(みょうぶ)と呼ばれる女の子をもうけている。しかし、この二人目の夫は少し後に死んでしまい、結局、清少納言は最初の夫とは離婚、再婚した相手とは死別し、結婚という点では恵まれなかった。長男橘則長と長女小馬命婦は、共に歌人として後拾遺和歌集などに収録された歌を詠んでおり、血筋は争えないのである。さらに面白いことに小馬命婦は定子のライバルとも言える彰子の女房になるなど(紫式部が彰子の女房)している。

 清少納言が書いた枕草子の初稿は、非公開のつもりだったが、清少納言の意に反して家を訪ねた左中将・源経房が「これは面白い」と持ち出し世間に広めてしまった。

 それが驚くほど好評だったので、清少納言はその枕草子を10年近く加筆を続け、やがて宮仕えの7年間を終え44歳ごろに脱稿した。
 清少納言は宮仕えで、藤原氏の内部抗争の犠牲となった中宮定子の苦悶、さらに25歳の若さでの死まで、その一部始終を目の前にしながらも「枕草子」ではそのことには一切触れず、定子を賛美し続けた。

 紫式部より5~7歳ほど年上の清少納言は、紫式部を意識したふしはみられない。この点、中宮彰子に仕えた紫式部が何かにつけて清少納言を徹底的にこき下ろしているのは有名な話である。特に「紫式部日記」の中で清少納言を辛辣に批判する文章がみられるのとは対照的であるが、この二人が宮中で顔を合わせた可能性は低いと言える。知識をひけらかす清少納言をけなした紫式部はやや陰湿な人柄だったとされており、彼女の清少納言の人柄が面白く思わなかったのであろう。

 清少納言の晩年は尼となり、亡父元輔の山荘があった京都東山の月輪に住む。藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮彰子付の女房とも消息を交わしたとされているが、清少納言が宮仕えをやめてから亡くなるまでの24年間、何を思って過ごしていたのかはわからない。清少納言は59歳で亡くなり墓は滋賀坂本のほか、徳島・鳴門市の里浦町にも供養塔(尼塚)がある。

枕草子の抜粋

第1段(春はあけぼの)

 春はあけぼのがよい、だんだん夜が白んで、山の上の空がほんのり明るくなって、薄く紫に染まった雲が、細くたなびいているのがよい。

 

 夏は夜がよい。満月の頃はいうまでもなく、新月の闇夜であっても、たくさんの蛍が舞う様子が美しい。ほんの一、二匹が、ほのかに光って飛んで行くのも何とも趣がある。夏の雨の夜であっても風情がある。

 

 秋は夕暮れがよい。夕日が赤くさして今にも山に沈もうとする時に、カラスがねぐらへ行こうとして、三羽、四羽、二羽などと飛び急ぐ様子さえ、しみじみとしたものがある。まして雁などが連なって、遠い空に小さく見えるのはとても感じ入ってしまう。とっぷり日が落ちて、風の音、虫の音などが聞こえるのは、言葉にならないほど素晴らしい。

 

 冬は早朝がよい。雪が降り積もった朝の景色は言うまでもなく、霜がが下りて真っ白になった、空気のはりつめた寒い朝に、火を急いでおこして、炭火を持ち運ぶのも、冬の朝ならではのものである。昼になって寒さが次第に緩んでくると、火鉢の炭が白い灰ばかりになって見た目がよくない。

 

第2段 (ころは正月)

 正月日は、空の景色も珍しいほどにうららかで、一面に霞が出ているのに、世間にいる人たちはみんな、衣装・外見・化粧で特別に美しくして、主君も自分も末永くと新年を祝っているのは格別趣がある。時節は正月、三月、四月、五月、七、八、九月、十一、十二月。全て折々に触れて一年中すべて趣がある。

 正月一日はまして空の様子もうららかに、一面霞み渡り、世のあらゆる人が衣装や化粧をすっかり整えて、主君をも自分をも新年を祝っているのは格別趣がある。七日は雪の間に育った若菜を摘む。普段は青々とした若菜を見慣れない宮中などの場所で、持て囃しているのはおもしろい。
 白馬節会(あおうまのせちえ・天皇が白馬を見て一年の邪気を祓う儀式)を見物しようと、女性たちは牛車を綺麗に飾り立てて宮中へ出掛ける。侍賢門(たいけんもん・大内裏の東にある門)の敷居を牛車が通過するとき、車が揺れて乗り合わせている者同士の頭がぶつかり、頭に挿した櫛も落ち、うっかりすると折れたりもして、笑いあうのもまたおもしろい。
 建春門(内裏の東側の門)あたりに大勢立っている貴族たちが舎人(警備などの下級役人)の弓を受け取って、馬を驚かせて笑っている様子を牛車の中からそっと覗いてみると、衝立が見える。そこを主殿司(とのもづかさ・宮中の雑務担当)や女官たちが行き来している様子もおもしろい。
 どれほどの幸運の持ち主が宮中で慣れたふうに振舞っているのかと思ってしまうけれども、見える範囲なんてものは宮中のほんのわずかな部分だけである。
舎人の顔の地肌も露わに見えて、地黒で白粉が塗れてない部分は雪がムラになって消え残ったような感じがして大変見苦しく、馬が跳ね上がって騒ぐのもとても怖く感じるので、自然と身体が車の中に引き籠ってしまって、よく見えない。
 八日、出世した人が方々に礼を言うため走らせる車の音は、普段とは違ったうきうきした感じがしておもしろい。
 十五日、粥の木(かゆのき・望 (もち)の日に食べる小豆粥を煮た時の燃えさしの木を削って作った杖。これで女性の腰を叩くと男子を出産するという言い伝えがある)を隠し持って、年配の女房(女性の使用人)や若い女房たちが隙を窺っているところ、杖で叩かれまいと用心して常に背後を注意している様子も大変おもしろい。
 さらにどうしたものか上手く隙を突いて叩き当てたときは、大層おかしくて笑いの渦が起こり、とっても晴れ晴れしい気持ちになる。叩かれた人が悔しく思うのももっともなことだ。
 新たに家に通うようになった婿が出仕の身支度をしているときでさえ、待ち切れずに我こそはと隙を狙う女房が、覗き窺い、奥で隠れてじっと潜んでいる。前に居る女房がその姿に気づいて笑うのを、
「ああ、静かに!」
と手振りで制すけれども、姫君は気付きもせず、のほほんと座っている。
「これをお取りしましょう」
なんて言いながら寄って来て、走りながら姫君を叩いて逃げると、全員が大笑いするのだ。
 婿はにっこりとほほ笑んで、姫君も特段驚いた振りも見せずに顔をほんのり赤くしている姿は、素敵な光景である。
 また女房同士で叩き合ったり、男性を叩いたりもするようだ。戯れの遊びなのに本気になって泣いたり怒ったり、叩いた人を呪ったり、いまいましい言葉を吐く者もいるのがおもしろい。
 宮中のような高貴な場でも、今日はやりたい放題なのだ。
 除目(じもく・朝廷人事の任命式)のころなどは、宮中は格別に趣深い。雪が降り水が凍っている寒さなのに、異動願の申し文を持って歩きまわる四位・五位の身分で、若く元気な者は大変頼もしい。
 年をとって白髪頭になった者が、取り次ぎを頼み、女房の部屋にやって来て、自分は才能ある人間だと必死で説いて聞かせている姿を、若い女房がそのモノマネをして笑っている。知らぬは本人ばかりなりだ。
「どうか帝に宜しくお伝えください。皇后陛下にもどうかどうか」などと言ったところで、出世できればそれは結構な話だけれども、できなければ何とも気の毒なことである。


・第3段 (三段)
 同じ意味なのに耳に聞こえる印象が違うもの。法師の言葉。男の言葉。女の言葉。身分のいやしい者の言葉は余分な事が多い。余計な事を言わずに言葉少ながよい。
・第4段
 世間の目が厳しい法師は気の毒だと言う。宗教者に世の中はそれなりの振る舞いを求めるが、清少納言は寛大だ。愛しい子を法師にするのは痛々しいことだ。世間が法師を木切れのように扱っていて気の毒だ。粗末な精進料理を食べることや寝ることにも(悪口を言う)。若い者はどんな物にも関心を持つ、女のいる所を覗く事もあろうがそれも良くないと言う。まして、修行が厳しい修行者は苦しそう。居眠りをすると「居眠りばかりして」ととがめる。修行者は窮屈でつらいだろう。これは昔の事で、今は気楽そうだ。


・第5段
 清少納言が仕えた藤原定子(一条天皇中宮)が懐妊して内裏を退出する際、定子の生家である二条邸は焼失していたので、大進・平生昌(たいらのなりまさ)の邸が行啓先に選ばれた。この時の様子を記したのがこの五段である。定子の生家・藤原(道隆)家はすでに没落し、天下は藤原道長の時代になっていた。中宮職の3等官(大進)生昌のおかしく不作法な様を「わらい」としてとり上げているが、それを聞く中宮の穏やかで優しい受け取り方も描いている。なお、中宮は翌年ここで出産し崩御した。
           
枕草子(六段)・うへにさむらふ御ねこは 2015・2・18(水)
 天皇が寵愛する猫を脅したとして、中宮の食事時、近くに控えていた犬が懲罰されて追放された。それでも戻ってきて、また折檻され息も絶え絶えになっているが、涙を流していた。犬も涙を流すのだと憐れまれ、天皇の勅勘は許される。面白くて可哀想なことだと清少納言は書いている。
 ペット好きには興味深い。特に犬が涙を本当に流すのか?と思って調べると事実だそうだ。ただ、悲しくて泣くのではなく、ゴミが眼に入ったり、病気の時に流すそうだ。
 と言うことなら、上記の犬は折檻された時に鼻の奥の方や喉で炎症を起していたのかもしれない。
 我家のくるみは涙ではなく目やにがよく出る。素空は鼻炎で鼻水と痰が続いている。


枕草子(七段)・正月一日、三月三日は、 2015・3・8(日)
 五節句の情緒を天候で描く。特に重陽の節句(9月9日)の菊と雨の描写が素晴らしい。
 重陽は菊に長寿を祈る日。陽(奇数)が重なる日そして、奇数の中でも一番大きな数字という意味で重陽と言う。奈良時代から宮中や寺院で菊を観賞する宴が行われているが、素空の日常にはほとんど縁がない。
(七段)
 「正月一日、三月三日は、いとうららかなる。
  五月五日は、曇り暮らしたる。
  七月七日は、曇り暮して、夕方は晴れたる。空に月いとあかく、星の数も 見へたる。
  九月九日は、暁がたより雨すこしふりて、菊の露もこちたく、おほひたる綿なども、いたく濡れ、うつしの香ももてはやされて。つとめてはやみにたれど、猶くもりて、やゝもせばふりおちぬべく見えたるもお(を)かし。」
 (・・・9月9日は明け方から雨が少し降って、菊の露も沢山で、花にかぶした綿などもずいぶん濡れて、綿に移った花の香りも引き立てられて素晴らしい。早朝に雨が止んでも、曇っていてややもすると今にも降りそうに見えるのも面白い)


枕草子(八段)・よろこび奏するこそ 2015・3・23(月)
  位官の昇進した者の内裏での感謝の姿は素晴らしいと言う。美しい着物での立居振る舞いが目の前に浮かんでくる。
 素空は勤めでは“平”が続き、その後自営業になったので昇進には全く縁がない。一度昇進祝いなるものをしてみたかったと思った。
(八段)
 「よろこび奏(そう)するこそお(を)かしけれ。うしろをまかせて、おまえのかたにむかひてたてるを。拝(はい)し舞踏(ぶたう)しさは(わ)ぐよ。」
 (昇進して感謝を表す姿は見事だ。着物の裾を後ろへ長く垂らした姿で天皇の御座の方へ向かって立つ姿は素晴らしい。礼拝をし袖を左右にひるがえし、派手に振舞うのだ)


枕草子(九段)・今の内裏の東をば 2015・4・5(日)
 「定澄僧都(じやうちやうそうづ)に袿(うちぎ)なし、すくせ君(ぎみ)に袙(あこめ)なし」“背の高い定澄僧都が着た袿(長衣)は長衣に見えず、背の低いすくせ君が着た衵(短衣)は短衣には見えない”と言う。
 長衣の袿と短衣の衵とが、長身・短身の人が着た場合、長衣でも短衣でもなくなるとの軽口。それが面白いと言う。背の低い素空が着た半ズボンは長ズボンに近いと言うことかな。
 それにしても清少納言はよく日常の中の出来事を観察している。
 (九段)
 「今の内裏(だいり)の東(ひむがし)をば北の陣(ぢん)といふ。なしの木の、はるかにたかきを、いく尋(ひろ)あらむ、などいふ。権中将「もとよりうちきりて、定澄僧都(じやうちやうそうづ)のえだあふぎにせばや」との給(たま)ひしを、山階寺(しなでら)の別当(べたう)になりてよろこび申す日、近衛府(づかさ)にてこの君のいで給へるに、たかき屐子(けいし)をさへはきたれば、ゆゝしうたかし。出(いで)ぬる後に「など、そのえだあふぎをばもたせ給はぬ」といへば、「物わすれせぬ」と笑い給(たまふ)。「定澄僧都(じやうちやうそうづ)に袿(うちぎ)なし、すくせ君(ぎみ)に袙(あこめ)なし」といひけむ人こそお(を)かしけれ。」
 (仮の内裏の東門を北の陣と言い、そこの高い梨の木はどれほどの高さかなどと言った。権中将が「下より切って、背の高い定澄僧都の扇にしては」と言う。僧都が山階寺・興福寺の別当になった時、その感謝をする日、近衛府での姿は高下駄を履いていたのでとても高い。「どうして扇をもたなかったのか」と問われ、「忘れた」と笑って答えた。「定澄僧都には袿なし、すくせ君には衵なし」と言った人こそ面白い)


枕草子(十段)・山は 2015・4・14(火)
  18の山を列挙して面白いと言う。ほとんどの山が歌枕(歌にしばしば詠み込まれている名所)で、清少納言の時代の人には関連する和歌がわかっただろう。才女・清少納言は何でもよく知っており、それを文に書きとめる。今で言うなら、走り書きのブログのようだ。走り書きは十九段まで続く。
(十段)
 「山は お(を)ぐら山。かせ山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。わすれずの山。すゑの松山。かたさり山こそ、いかならむとをかしけれ。いつはた山。かへる山。のちせの山。あさくら山、よそに見るぞお(を)かしき。おほひれ山もをかし。臨時(りんじ)の祭の舞(まひ)人などの思ひ出(いで)らるゝなるべし。三輪(わ)の山(やま)お(を)かし。手向山。まちかね山。たまさか山。みみなし山。」

 「かたさり山こそ、いかならむとをかしけれ」、山が、かたさる=片側による、遠慮して身を引くとはどんなだろうと興味が湧いて面白い。
 「おほひれ山もをかし。臨時の祭の舞人などの思ひ出らるゝなるべし」、この山の名(おほひれ)から、「大ひれや、小ひれの山は・・・」(東遊歌)が唱われる祭の姿が浮かぶ。


枕草子(十一段)・市は 2015・5・9(土)
  大和にある面白い市に言及する。特に海石榴(つば)市は長谷寺に参詣する人が集まり、観音に縁があるので特別に心ひかれると言う。
 海石榴市は庶民から皇族や貴族まで集まった所だが、歌垣(求愛のために男女が集まり歌い合ったり踊ったりした)で有名。万葉集の歌に
 紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ
   “出会った君の名は?教えて。(名を聞くことは求婚)”
 たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか
   “母が呼ぶ私の名を言いたいけど、知らない人には言えません。
    (名を言うことは求婚を受け入れること)”
(十一段)
 「市(いち)は たつの市。さとの市。つば市。大和(やまと)にあまたある中に、長谷(はせ)寺にまうず(づ)る人のかならずそこにとまるは、観音(くわんおん)の縁(えん)あるにやと、心ことなり。をふさの市。しかまの市。あすかの市。」
 「市は辰の市、里の市がおもしろい。市が大和国に沢山ある中で、とりわけ海石榴(つば)市は長谷寺の参詣する人が集まり、観音に縁があるので特別に心ひかれる。他には、をふさの市、飾磨(しかま)の市、飛鳥の市が良い」


枕草子(十二段・十三段)・峰は 原は 2015・5・22(金)
 峰と原について書く。
 峰の良いのは摂津(大阪府北西部と兵庫県南東部)のゆづる葉の峰、山城(京都府南東部)が阿弥陀の峰、播磨(兵庫県西南部)の弥高(いやたか)の峰だと言う。原は摂津の瓶(みか)の原、山城の朝(あした)の原、信濃(長野県)の園原が良い。
 上記の峰と原に縁が無いが、園原だけはスキー場が山頂にあるのでなじみ深い。
(十二段)
 「峰は ゆづるはの峰(みね)。阿弥陀(あみだ)の峰。いやたかの峰。」
(十三段)
 「原(はら)は みかの原。あしたの原。その原。」


枕草子(十四段~十六段)・淵は 海は 陵は 2015・5・28(木)
 枕草子は「をかし」の文学と言われるが、「をかし」の意味は今と違って、①趣がある、興味深い、心が引かれる ②すぐれている、見事だ、すばらしい ①②のどちらかだが、ここは①の意味で使われている。
 十四段~十六段は淵と海と陵について書く。いろいろ書いているが、固有の名はわかりにくい。
 「かしこ淵」はこの淵のどこが「かしこし(恐ろしい、慎むべきである)」なのか?という気持。「ないりその淵」は、な入りそ(入ってはいけない)の淵。その他、わかりにくいところがあるが、原文のみを下記する。
(十四段)
「淵(ふち)は かしこ淵(ふち)は、いかなる底の心を見て、さる名を付けんとをかし。ないりその淵。たれにいかなる人のをしへけむ。あを色(いろ)の淵こそ、お(を)かしけれ。蔵(くら)人などの具(ぐ)にしつべくて。かくれの淵。いな淵。」
(十五段)
 「海は 水海(うみ)。よさの海。かはぐちの海(うみ)。いせの海。」
(十六段)
 「陵(みさゝぎ)は うぐひすの陵(みさゝぎ)。かしはばらの陵(みさゝぎ)。あめの陵(みさゝぎ)。」


枕草子(十七段~十九段)・渡は たちは 家は 2015・6・5(金)
 渡とたち(舘または太刀)と家について書く。
 渡は水上の渡し場を言う。たち(十八段)はわからない。
 多くの解説書(特に高校生用)が十段~十九段を省略している。それはそれほど面白くないからだろうし、試験にも出そうにない。
(十七段)
「渡(わたりは しかすがの渡(わたり)。こりずまの渡(わたり)。水はしの渡(わたり)。」
(十八段)
「たちは たまつくり。」
(十九段)
「家(いえ)は 近衛(このゑ)のみかど。二条わたり。一条もよし。
 染殿(そめどめ)のみや。清和院(せかい)。菅原(すがはら)の院。冷泉(れいせい)院。閑(かん)院。朱雀院。小野(おの)の宮。紅梅(こうばい)。県(あがた)の井戸(ゐど)。東三条。小六条。小一条。」


枕草子(二十段)・清涼殿のうしとらのすみの 2015・6・12(金)
  「清涼殿の」で始まる二十段は長文である。清少納言が中宮の和歌についての問いに見事こたえた回想記。清涼殿での天皇、中宮、女房たちの和歌をめぐる美しい情景が描かれる。
 宮中は古今集の和歌を暗誦していることが常識だと言う世界、村上天皇の后、宣耀殿の女御が全て記憶していたという逸話が語られる。
 原文は次を参照(でも読むのはしんどいよ)

・第21段 宮仕え礼賛…この時代、高貴な女性は顔を見せてはいけなかった。成人すると親子でも扇で隠していたほど。結婚3日目の朝にやっと夫は妻の顔を見ることが許される(だから平安貴族は歌の良し悪しで恋の運命が決まった)。ところが宮仕えをする者は色んな人に顔を見られているので「すれっからし」と言う男がいる。そんな男は本当に憎たらしい。

・第25段 憎きもの…局(つぼね、私室)にこっそり忍んで来る恋人を見つけて吠える犬。皆が寝静まるまで苦心して迎えいれて男がいびきをかくこと。
隠した男がイビキをかいていること。また、大袈裟な長い烏帽子(えぼし)で忍び込み、慌てているので何かに突き当たりゴトッと音を立てること。簾(すだれ)をくぐるときに不注意で頭が当たって音を立てるのも無神経さが憎らしい。戸を開ける時も少し持ち上げれば音などしないのに。ヘタをすれば軽い障子でさえガタガタ鳴らす男もいて話にならない。局で音を立てるのは憎しみの対象になるほど最低の無作法らしい。

・第26段 胸がときめくもの…髪を洗い、お化粧をして、お香をよくたき込んで染み込ませた着物を着たときは、別に見てくれる人がいなくても、心の中は晴れやかな気持がして素敵だ。男を待っている夜は、雨音や風で戸が音を立てる度に、ハッと心がときめく。

・第27段 過ぎ去りし昔が恋しいもの…もらった時に心に沁みた手紙を、雨の日などで何もすることがない日に探し出した時。

・第60段 暁に帰らむ人は…明け方に女の所から帰ろうとする男は、別れ方こそ風流であるべきだ。甘い恋の話をしながら、名残惜しさを振り切るようにそっと出て行くのを女が見送る。これが美学。ところが、何かを思い出したように飛び起きてバタバタと袴をはき、腰紐をごそごそ締め、昨晩枕元に置いたはずの扇を「どこだどこだ」と手探りで叩き回り、「じゃあ帰るよ」とだけ言うような男もいる。最低。
 
・第93段 呆然とするもの…お気に入りのかんざしをこすって磨くうちに、物にぶつかって折ってしまった時の気持ち。横転した牛車を見た時。あんなに大きなものがひっくり返るなんて夢を見てるのかと思った。

・第95段 ホトトギスの声を求めて…お供の者たちと卯の花を牛車のあちこちに挿(さ)して大笑い。「ここが足りない」「まだ挿せる」と挿す場所がないほどなので、牛にひかせた姿は、まるで垣根がそのまま動いているようだ。誰かに見せたくなり、ホトトギスの声を聞くフリをして町をひかせると、こういう面白い時に限って誰ともすれ違わない。御所の側まで来てついに知人に見てもらった。すると相手が大笑いしながら「正気の人が乗っているとは思えませんよ!ちょっと降りて見て御覧なさい」。知人のお供も「歌でも詠みましょう」と楽しそう。満足した。
 
・第95段 父の名は重い…父の元輔が有名な歌人なので、歌会になる度に「あなたも何か詠め」と言われるのが嫌だ。これ以上詠めと言われたら、もうお仕えはできない。常に人より良いものを詠まねばならない重圧。
※彼女は歌人の家系であり、自身も百人一首に「夜をこめて鳥の空音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」(まだ夜明け前なのに鶏の鳴きマネで門を開けさそうという魂胆ですが、この逢坂の関はそう簡単には行きませんことよ)が採用されている。家集「清少納言集」(42首)もある。しかし、彼女は歌才がないことを痛感していたようで、宮仕えの際に“詠め”と言われて「父の名を辱める訳にはいかないので詠めません」と断っている。

・第123段 はしたなきもの…きまりの悪いもの。他人が呼ばれているのに、自分と思って出てしまった時。贈り物を持ってる時はなおさら。何となく噂話のなかで誰かの悪口を言った時に、幼い子どもがそれを聞いて、当人の前で言い始めた時。悲しい話をされて本当に気の毒に思ってこちらも泣こうとしているのに、いくら泣き顔を作っても一滴も流れないのは決まりが悪い。

・第135段 退屈を紛らわすもの…碁、すごろく、物語。3、4歳の子どもが可愛らしく喋ったり、大人に必死で物語を話そうとして、途中で「間違えちゃった」と言うもの。

・第146段 かわいらしいもの…瓜にかいた幼子の顔。雀の子に「チュッ、チュッ」と言うとこちらに跳ねてくる様子。おかっぱ頭の小さな子が、目に髪がかぶさるので、ちょっと首をかしげて物を見るしぐさは本当に可愛い。公卿の子が奇麗な衣装を着せられて歩く姿。赤ちゃんを抱っこしてあやしているうちに、抱きついて寝てしまった時。人形遊びの道具。とてもちっちゃな蓮の浮葉。小さいものは何でも皆かわいらしい。少年が子どもらしい高い声で懸命に漢書を読んでいる様子。鶏のヒナがピヨピヨとやかましく鳴いて、人の後先に立ってちょこちょこ歩き回るのも、親が一緒になって走るのも、皆かわいらしい。カルガモの卵、瑠璃の壺。

・第147段 人前で図に乗るもの…親が甘え癖をつけてしまった子。隣の局の子は4、5歳の悪戯盛りで、物を散らかしては壊す。親子で遊びに来て、「あれ見ていい?ね、ね、お母さん」。大人が話しに夢中だと、部屋の物を勝手に出してくる。親も親でそれを取り上げようともせず、「そんなことしちゃだめよ、こわさないでね」とニッコリ笑っているので実に憎たらしい。

・第209段 牛車…五月ごろ、牛車で山里に出かけるのはとても楽しい。草葉も田の水も一面が青々としている。表面は草原でも、草の下には透明な水が溜まっていて、従者が歩く度に奇麗なしぶきがあがる。道の左右の木の枝が、車の隙間から入った瞬間に折ろうとすると、スッと通り過ぎて手元から抜けてしまうのが悔しい。牛車の車輪で押し潰されたヨモギの香りが、車輪が回るにつれて近くに漂うのは、とても素敵だった。
 
・第218段 水晶のかけら散る…『月のいとあかきに、川をわたれば、牛のあゆむままに、水晶などのわれたるやうに水のちりたるこそをかしけれ』“月がこうこうと明るい夜、牛車で川を渡ると、牛の歩みと共に水晶が砕けたように水しぶきが散るのは、本当に心が奪われてしまう”。 

  枕草子を読む度に「これが千年前に書かれたとは思えない」と感嘆する。心の動きが現代の僕らと何も変わらないからだ。描かれたのは、冗談を言い合い、四季の景色を愛で、恋話に花を咲かせる女たち。そこには敬愛していた定子を襲った悲劇(父母の死、兄の流刑、家の焼失、そして24歳の死)は一言も書かれていない。作品中の定子は、常に明るい光の中で笑っており、枕草子そのものが彼女への鎮魂歌となっている。清少納言が宮仕えをした人生の7年間は、筆を通して永遠になった。