清少納言

 清少納言は日本最古の随筆として知られる「枕草子」の筆者である。清少納言の生没は966~1025年頃で、村上天皇の「後撰和歌集」の撰者の一人でもある。清少納言は清原基輔(もとすけ)の娘として生まれるが実名は不明である。しかし清少納言の名前は清原氏の出であること、親族に少納言を務めた人がいたことに由来する。そのため「清少・納言」ではなく「清・少納言」と読むのが正しい。

 清原家は代々文化人として政治、学問に貢献してきた家柄で、父・清原基輔は「契りき なかたみに袖を しぼりつつ  末の松山 波越さじとは」(互いに袖をしぼりながら約束したじゃないか。末の松山を波が乗り越えないように、ぜったいに心変わりはしないと。それなのにあなたは浮気したのね)が百人一首に掲載され、清原基輔は三十六歌仙の一人である。曾祖父・清原深養父(ふかやぶ)は百人一首に「夏の夜は まだ宵ながら明けぬるを 雲のいづくに月宿るらむ」(夏の夜はとても短く、まだ宵の口だと思っているうちに、もう夜が明けてしまう。いったい雲のどの辺りに月はとどまっているのだろうか)を残している歌人である。

 清少納言も百人一首に入選しており「夜を込めて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」(まだ夜が明けないうちに、孟嘗君の故事のように鶏の鳴きまねをして関守を騙して門を開けさせようとしてもだめですよ。私と貴方の間にある逢坂の関はけして開きませんからね)。

 この句は「鶏の鳴き声が聞こえたので、夜明けになったと思った」と藤原行成が弁解したのに対して詠んだ歌である。この歌は古代中国の賢君として知られる斉の孟嘗君が、敵国の秦から脱出する際に、大勢抱えていた食客の中から、鶏の鳴き声が上手な者に鳴き声を真似をさせて、夜の函谷関を通り抜けたという逸話をもとにしている。このように歴史的背景を知った上で、清少納言は「函谷関の鶏の声を真似しても、逢坂の関(交通の要所)はだませないわ」と藤原行成をやりこめたのである。この句からも清少納言の教養の高さが窺える。

 清少納言の「枕草子」には「史記」「論語」などの引用が多くみられ、娘時代から和歌や漢文に親しみ、女性としては水準をはるかに超える教養を身につけ、機転の利く明るく活発な女性であったことがうかがえる。

 清少納言の幼ない頃は父・清原基輔の転勤とともに山口県の田舎にいた。当時は都が一番の文化の時代だったので、山口の田舎で過ごした経験は、プライドの高い清少納言にとってかなり衝撃的なことだったと思われる。

 清少納言は15歳で橘則光と結婚し、翌年に長男・則長を生むが、武骨な橘則光とは性格が合わず、まもなく離婚する。当時は妻問婚なので、夫が通って来なくなれば婚姻は解消されたので、清少納言の場合もそのようなものだったと思われる。正式な離婚ではないが、清少納言が漢学の素養などの教養面で夫の則光より優れていたことから、それが破綻の原因とされ、憎み合って別れたわけではない。このことは橘則光と親しく会話を交わす場面が「枕草子」にいくつか出てくることからも分かる。

 清少納言24歳の時に父・清原基輔が他界するが、同年、関白・藤原道隆から一条天皇の17歳の中宮(後の皇后)藤原定子の教養係をして欲しいと依頼される。藤原定子は関白・藤原道隆の長女で一条天皇の中宮(后)で、それまでとは想像もつかない夢のような宮廷生活が突然始まる。後宮には30人ほどの教養の高い侍女がいたが、清少納言の機知に富んだ歌には誰もが感心した。

 和歌や漢詩の豊富な知識があり、詩歌を愛する中宮・定子にとって鋭い芸術感覚と社交感覚を持つ清少納言は優遇され、清少納言にとって朝庭は才能を発揮するにふさわしい舞台になった。

 清少納言は子どもの頃から父に漢詩を教え込まれており、定子にとっては漢詩を知る清少納言は貴重な存在であった。清少納言は漢文を引用した冗談を繰り出し、鋭い観察眼と歯に衣着せぬ物言いで宮中生活を楽しく過ごした。当時は漢文は男が学ぶものであり、漢詩に詳しい清少納言は男達をやり込めるほどの教養があった。陽気で快活な性格から、漢文の知識の高い男達を一刀両断する物言いは納得することばかりで、男達をやり込めるればやり込めるれほど名声はどんどん高まった。

 しかし出仕して2年後、定子の父の関白・藤原道隆が死去すると、道隆の弟・藤原道長が関白になって「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と詠むほどの勢力を持った。定子の父・藤原道の死去をきかっけに後宮の花形だった定子の家運は暗転し始める。

 権力争いに敗れた藤原道隆の子の内大臣・伊周(これちか)、中納言・隆家が関白・藤原道長と対立して罪を着せられ、藤原道隆一家にはかつての勢いはなくなってしまった。藤原道長は自分の娘・彰子を強引に一条天皇に入内させ定子の地位は危うくなった。

 996年(30歳)、定子の兄が道長の策謀で流刑になり、こともあろうに「清少納言は道長のスパイ」という酷い噂が流れ、清少納言は自ら宮廷を出て家に閉じこもってしまう。藤原定子の母が他界し、屋敷が焼失するなど不幸な出来事が続いたが、清少納言は努めて明るく振舞い皆の心を元気にした。定子は陽気で勝気な清少納言が側にいるだけで気持が弾んでいた。このような暗い雰囲気の中で清少納言は「枕草子」の中でその暗さを全く見せず、定子の明るく華やかなサロンを書き綴った。

 藤原道長の全盛時代になり、道長に連なる勢力が大手を振い、道隆たちは一歩下がって見守るしかなかった。それゆえ清少納言は家に閉じこもってしまうが、早く宮廷に戻って欲しと定子に言われた。清少納言が以前に「気が滅入った時は上等な紙や敷物を見ると気が晴れる」と言っていたことから、定子は当時としては貴重だった20枚の紙と敷物を贈った。清少納言はこの時の喜びを「神(紙)のおかげで千年生きる鶴になってしまいそう」と記した。

 清少納言は以前にも定子の兄から貰った紙を贈られており、授かった紙に宮廷生活の様子を生き生きと描き込み、詩情豊かに自然や四季を綴ったのが随筆「枕草子」のもととなった。

 定子の気持に応じる形で清少納言は再び宮廷に戻るが波乱が起きた。1000年に関白の藤原道長が娘の彰子(しょうし)を強引に中宮にし、天皇が2人の正妻を持つ事態になった。そして同年12月、定子は出産のため衰弱して24歳の若さで他界した。

 清少納言は10歳年下の定子のことを心から敬慕しており、聡明で歌の知識も豊富な定子の死に打ちのめされ、哀しみを胸に宮仕えをきっぱり辞め、山里で隠遁生活を送るようになった(34歳)。
 その後、清少納言は藤原棟世(むねよ)と再婚し、小馬命婦(みょうぶ)と呼ばれる娘をもうけている。しかし夫・棟世はすぐに死んでしまい、結局、清少納言は最初の夫とは離婚、再婚した相手とは死別し、結婚には恵まれていなかった。

 長男の橘則長と長女の小馬命婦は、歌人として共に歌を詠んでおり後拾遺和歌集などに収録されている。このように歌人としての血筋は争えないものであるが、さらに面白いことに小馬命婦は紫式部とともに彰子の女房になった。

 清少納言が書いた枕草子の初稿は、非公開のつもりだったが、清少納言の意に反して家を訪ねてきた左中将・源経房が「これは面白い」と持ち出し世間に広めてしまった。

 それが驚くほど好評だったので、清少納言はその枕草子を10年近く加筆を続け、やがて宮仕えから7年後の44歳ごろに脱稿した。
 清少納言は藤原氏の内部抗争の犠牲となった中宮・定子の苦悶、さらには25歳の若さで定子が死ぬまで宮仕えを続けるが、その一部始終を目にしながらも「枕草子」ではそのことには一切触れずにいた。

 清少納言と同時代の「源氏物語」の作者・紫式部とのライバル意識が後世に盛んに喧伝されている。中宮彰子に仕えた紫式部が何かにつけて清少納言を徹底的にこき下ろし、特に源氏物語よりも後に書かれた「紫式部日記」では「いつも得意げな顔をしていて、自慢げに字を書いていているが、よく見るとところどころが間違っている。こんな清少納言だから、どうせロクな人生にならない」と徹底的にこき下ろしている。しかし紫式部より7歳ほど年上の清少納言には紫式部を意識した様子はみられない。また紫式部が中宮・彰子に仕えたのは清少納言が宮仕えを退いてからはるか後のことなので2人は一面識さえないはずである。この点、紫式部は源氏物語を書いていただけに一筋縄ではいかないのであろう。しかし「紫式部日記」に記された意地悪ぶりは予想以上である。紫式部にとって清少納言の教養が面白くなかったのであろう。

 知識を持つ清少納言をけなす紫式部はやや陰湿である。清少納言は紫式部より7歳前後年上だったが、紫式部は同僚女房としてライバル意識を持っていたのである。この二人が宮中で顔を合わせた可能性は低く、清少納言は紫式部が「紫式部日記」の中で辛辣に批判するのとは対照的に静かに達観していた。

 清少納言は晩年は尼となり、亡父・元輔の山荘があった京都東山の月輪に住んでいた。藤原公任ら宮廷の旧識や和泉式部・赤染衛門ら中宮・彰子つきの女房とも消息を交わしているが、清少納言は宮仕えをやめてから亡くなるまでの24年間、老後は落ちぶれさみしいものだったとされている。中宮・定子の眠る鳥辺野の御陵を拝することを日課とし、廃屋のような庵で一人寂しく暮らしていた。

 枕草子を読めば清少納言の感覚のするどさに驚くが、その感覚は現代でも十分に通用するほどである。このようなすばらしい才能をもった清少納言は、59歳で亡くなるまで何を思いながら、ひとりで過ごしていたのだろうか。

 清少納言の墓は滋賀坂本にある。また徳島・鳴門市の里浦町には供養塔(尼塚)がある。

枕草子の抜粋

枕草子第1段(春はあけぼの)

 春は夜がほのぼのと明けようとするあけぼのがよい。だんだん夜が白んきて、山の稜線近くの空がほんのり明るくなって、そこに薄く紫に染まった雲が、細くたなびくのがよい。

 夏は夜がよい。満月の頃はいうまでもなく、月の出ていない新月の闇夜であっても、たくさんの蛍が舞う様子が美しい。ほんの一、二匹の蛍が、ほのかに光って飛んで行くのも何とも幻想的で感動する。夏の夜は雨であっても風情を感じさせる。

 秋は夕暮れが美しい。夕日が赤くさして今にも山に沈もうとする時に、カラスがねぐらへ向かい、三羽、四羽、二羽などと飛び急ぐ様子さえ、しみじみとしたものがある。まして雁などが連なって、遠い空に小さく見えるのはとても感じ入ってしまう。とっぷり日が落ちて、風の音や虫の鳴く音などが聞こえるのは、言葉にならないほど素晴らしい。

 冬は早朝がよい。雪が降り積もった朝の景色は言うまでもなく、霜が下りて真っ白になった時も、空気のはりつめた寒い朝に、火を急いでおこして炭火を持ち運ぶのも、冬の朝ならではのものである。昼になって寒さが次第に緩んでくると、火鉢の炭が白い灰をかぶったままになって見た目はよくないがそれもよい。

 

枕草子第2段

 特に趣深いと感じる季節は、まず正月、三月、四月、五月、七月、八月、九月、十一月、十二月ですが、一年中すべてにおいて、その折々に素敵な趣があり、一年中いつでも楽しめる。

枕草子第3段 (ころは正月)

 正月元日は、空の景色は珍しいほどにうららかで、一面にたちこめる霞までいつもとはちがって清らかに感じられる。世間の人たちはみんな、衣装・外見・化粧で特別に着飾って、主君も自分も末永くと新年を祝っているのは、お正月にふさわしい光景で格別の趣がある。

 正月七日は雪の消えた間に青々とした育った若菜を摘んできて、普段は若菜など見られない所に若葉が生えているのを見つけて、珍しいとしゃぐのも楽しいものである。
 天皇が一年の邪気を祓う儀式・白馬節会(あおうまのせちえ)があるので、女性たちは白馬を見ようとして牛車を綺麗に飾り立てて宮中へやってくる。大内裏の東にある侍賢門(たいけんもん)の敷居を牛車が通過する時、車がガタンと揺れて乗っている女性たちの頭がぶつかり、頭に挿した飾り櫛も落ち、うっかりすると櫛が折れたりして、みんなで笑いあうのも、またこの行事ならではのことです。
 内裏の建春門に左衛門府のあたりに殿上人たちが大勢立っていて、舎人の持っている弓を取り上げて馬をふざけて驚かせて笑っている様子が見える。牛車のすだれ越しからそっと覗いてみると衝立が見え、そこを主殿司(宮中の雑務担当)や女官たちが行き来している様子がみえ、とても白馬の節会らしい様子に思える。
 いったいどのような身分の人たちが、宮中で慣れたふうに行き来しているのかしら、今見える範囲では宮中のわずかな部分だけなのでよく分からない。

 よく見ると舎人の顔の化粧がまだらにはがれ、白粉が塗れていない部分は黒い地肌が露わに見えて、雪がまだらに消え残っているみたいで見苦しい。また馬が跳ねて騒ぐ様子ががとても怖く感じられ、思わず身を車の奥に引き込めがちになってしまい宮中の様子がよく見えない。
 八日、昇進した女房に位を授ける儀式があり、位をもらった人たちが喜んで方々に礼を言うため走らせる車の音は、いつもとは違ってこころなしか弾んだ感じに聞こえる。
 十五日、帝に望粥(もちがゆ)の節供のお食事を最初にお出しする日ですが、この日は面白い行事がある。望粥を煮る木で作った杖(粥の木)で女性の腰を叩くと男子を出産するという言い伝えがある。

 この粥の木を隠し持って、古参の女房や若い女房たちが杖で腰を叩こうと隙を窺い、また杖で叩かれまいと常に背後を注意している様子がおもしろい。
 どのように隙を見つけたのだろうか、上手く隙を突いて杖で叩き当てた時は、みんなそれが大層おかしくて笑いの渦が起こり、とっても晴れ晴れしい気持ちになってしまう。叩かれた人は悔しがる様子が面白い。
 新しく姫君のもとへ通い始めた婿が宮中へ出かける時間さえももどかしく思え、待ち切れずに我こそはと姫君の隙を狙う女房が奥に隠れて覗き見してじっと潜んでいる。婿君の前に居る女房がその姿に気づいて笑うと「静かに」と手振りで注意するが、姫君は何も知らない顔をしておっとりと座っている。

 そして虎視眈々と姫君を狙っていた女房が「あら、何かついてますわ。取って差し上げましょう」と言いながら近寄ってきて、走りながら姫君の腰を粥の木で叩いて逃げると、居合わせた人たちはみんな大笑いするのだった。
 姫君もまんざらではない様子で、にっこりとほほ笑んで、恥ずかしそうに顔をほんのり赤くしている姿はかわいらしい。
 また女房同士で叩き合うだけでなく、どういうわけか男を叩いたりもする。戯れの遊びなのに本気になって泣いたり怒ったり、叩いた人を呪ったり、いまいましい言葉を吐く者もいる。宮中のような高貴な場でも、今日はやりたい放題なのだ。宮中にいる高貴な方々も、今日は無礼講で慎みも何もなく楽しんでいる。
 朝廷人事の任命式などは、宮中は格別である。雪が降ったり水が凍ったりの寒さなのに、人々は異動願の申し文を持ってあちこちを行ったり来たりする。若くて気力のある人たちは四位・五位の身分でもとても頼もしいが、年をとって白髪頭になった者が、女房に取り次ぎを頼み、局の部屋にやって来て「自分は才能ある人間だ」と、必死で好き勝手に説いて聞かせているのを、同じ局の若い女房が陰でその真似をして笑っている。知らぬは本人ばかりである。
「どうか帝に、中宮様に宜しくお伝えください」などと頼んでも、出世できればそれは結構な話であるが、できなければ何とも気の毒なことである。

 三月三日はうららかに日が照っているのが良い。桃の花も今咲き始めたが、春の訪れを感じさせられる。柳の姿の風情はいうまでもない。それもまだ芽が出るか、出ないかという時期に味わいがある。芽が繭のようにこもっているのはこの季節ならで、葉が開ききってしまうと情趣がなくなってしまう。
 美しく咲いた桜を長く折って、大きな花瓶に挿しているのは、とても趣深く美しいものである。お客様や中宮様のご兄弟が、桜重ねの直衣に出だし衣という出で立ちで、その花瓶の近くに座っていて話をしているのは、いかにも春らしくてとても風情がある。
 四月の賀茂の祭の頃は、とてもしみじみとした情趣がある。上達部も殿上人も、着物の色が濃いか薄いかとの違いだけで、みんな白くて薄い着物を着ているのがいかにも涼しげである。

 木々の葉はまだ生え始めたばかりで、若々しい木の葉の青さが広がっている。霞や霧もない澄みきった晴れた空の景色は、何となく気持ちが浮き立つような趣きがある。

 そのような日の少し曇った夕方や夜などに、遠慮がちに遠くから声をしのばせて鳴くほととぎすが弱々しく聞超えてくる。小さな声で鳴いくので空耳だろうかと思えるほどになる。なんとも言えない素敵な気持ちになる。
 葵祭りが近くなると、祭りの着物用に青朽葉や二藍の着物地を使いの者に取りに行かせる。着物を巻いて紙に包んだのを持って、忙しそうに行き来するのはこの時期らしい風情がある。末濃や村濃で染めた布もいつもと違って見える。

 小さな女の子で、お祭りのために頭だけは綺麗に洗って手入れをしているが、服装は普段着のままで、綻びの所は大きく裂けてしまっている着物を着ている子もいるが「下駄に鼻緒をつけさせて、靴の裏を打たせて」とはしゃいで、「早くお祭りの日にならないかな」と待ち遠しそうにしてるのもほほえましい。
 普段は粗末な恰好をしている子供でも、祭りの日には晴れ着を着ると、まるで法会の時のお坊さんのように周囲を練り歩いている。着なれない服を着せられて行列を歩かされるのたから緊張するだろう。親は迷子にでもならないかとどんなにか心配だろう。その子の親や叔母、姉などがついて、子供の身なりを整えながら大仰に練り歩く歩のもかわいらしい。

 

枕草子第4段
 同じ意味なのに聞いた感じが異なるもの。

 それは法師(僧侶)の言葉。男の言葉と女の言葉。身分のいやしい者(下衆)の言葉は余計なひとことが付いている。余計な事を言わず、言葉は少ない方がよい。


枕草子第5段
 世の人々は法師にそれなりの振る舞いを求めるが、愛しい我が子を法師にするのは心苦しいことである。人々が坊さんを木切れのように取るに足りないものだと思っているのに、粗末な精進料理を食べ、居眠りしただけでもうるさく叱られる。世間の目が厳しい法師は気の毒だと思う。

 若いうちはどんな物にも好奇心を持ち、女のいる所を覗きたい事もあるだろうが、それも良くないという。まして山野で過酷な修行をしている験者などはとても辛そうに思えてならない。
 修行僧になれば、疲れて居眠りをすると「居眠りばかりして」と文句を言われ、修行者は窮屈でつらいことばかりである。自分の居場所もなく肩身が狭くどんなにか辛いことだろう。でもこれは昔の話で、今の僧侶はとても気楽にやっているようだ。

枕草子第6段
 清少納言が仕えていた藤原定子(一条天皇の皇后)が懐妊して内裏を退出することになった。宮中での出産は禁止されていたので、通常なら生家で出産するはずだが、定子の生家はすでに没落し焼失したままであった。天下は藤原道長の時代になっており、平生昌の邸宅が行先に選ばれたのである。平生昌は中宮を家に迎えられるほどの身分ではなかったが、すでに権勢が衰え始めていた定子は、中宮職の平生昌を頼らざるをえなかった。

 中宮定子がお出ましになられるので、平生昌は邸宅の東の門を四脚門に造り変え警護の者たちの詰所を置き、中宮定子の輿(こし)は四脚門からお入りになった。
 女房たちの乗った牛車は、人目の付かない北の門から入ることになっていた。そのため女房たちは、髪をつくろわず、建物の側に牛車を寄せて降りるとばかり思っていた。ところが女房たちが乗った大きな牛車は北の門が小さいため中に入ることができず、地面に筵道を敷いて降りなければならなかった。なんとも腹立つがどうしようもな買った。殿上人だけではなく下級役人たちまでが、詰所の傍で立って見ているのがとても癪に障わった。

 中宮定子の前に参上して、あまりに腹が立ったのでなりゆきを申し上げたところ「気を遣わずにすむ平生昌の家だからといって、人に姿を見られないことはなどないでしょう。なぜ気が緩んでいたのですか」とお笑いになられた。「さすが中宮様ごもっともですが、でも見知った人ばかりの家ですから、私たちがきちんと身繕いして化粧を決めて来たら、逆にびっくりさせてしまいます。それにしても、これほどの大邸宅なのに、牛車が入らない門があるなんて、平生昌さまが来たら笑い飛ばしてあげますわ」と答えると、ちょうど「これを中宮定子さまに差し上げてください」と言って、平生昌が硯などを御簾(間仕切り)の中へ差し入れて来た。
 ここぞとばかりに「まったくもう、なんとみっともない。どうしてあの門は、あんなに狭い造りになさったのですか」こう尋ねると、平生昌は笑って「家は身分相応の大きさにしたのです」と答えた。
「でも門だけを立派に造った人もいましたね」と言うと、「これはやられた、于定国(うていこく)の故事のことでしょう。たまたまこの道をかじったことがありますので、これくらいはなんとか判りますけども」と平生昌は答えながら、「おお、こわいこわい」と驚いて言った。于定国は中国前漢時代の裁判官で、于定国の父が「公平な裁判を心がけてきたので、その功徳で子は出世するはずだ。そのため高貴な人が出入りできるよに高い門を造りると、期待通り定国が丞相(大臣)になった逸話のことである。

 「漢学の道といわれましたが、その道すら大して立派でもないようですわね。ムシロを敷いた上を歩かされましたが、皆、地面の穴に足を取られて騒いでました」こう言うと、平生昌は「雨が降りましたから、そういうこともあるでしょう。はいはい、また何か言い返されそうですので、これにて退出いたしまします」と言って立ち去ってしまった。
  中宮定子が「どうしましたか。平生昌が随分怖れていましたが」とお尋ねになったので「いえ何もございません。牛車が門をくぐれなかった件を申し上げただけです」と申し上げてひとまず御前から下がった。

 部屋に戻ると、同じ部屋の若い女房たちと一緒にいたため、何が起きているのか知る由もなく、睡魔に負けて皆疲れて寝てしまった。私たちがいた部屋は東棟の西側の廂の間で(ひさしのま)、北側の部屋に続いていたが、隔てる障子に鍵も掛けていなかった。戸締りの確認をしていなかったこともあり、平生昌は家の主人だけあって勝手知ったる我が家とばかりに障子を開けたのである。
 しわがれた騒々しい声で「入っていいですか。入っていいですか」と何回も言うので見てみると、几帳(布でできた衝立)の後ろに立ててあった燭台の光がまざまざと平生昌の姿を照らした。生昌は障子をちょっとだけ開けて声を掛けてきたのだった。平生昌はこんな夜這いめいた振舞いなどしない男なのに、中宮定子が我が家にお越しになられた名誉に浮かれて気が大きくなったのだろうと思うとこれもまたおかしかった。
 傍で寝ていた女房を揺り起こして「ちょっとあれご覧になって、珍しいお客様がいらしてよ」と言うと、女房は頭を上げてそっちを眺め「誰、夜這いしているの」と問うと、平生昌は「違うんです。この家の主として、この部屋の責任者であるあなたに相談したいことがあるのです」と答えた。
「さきほど門のことに関しては申し上げましたが、障子を開けてくださいだなんて言いましたかしら」と私が返せば、「いえでもその件に関してもお話しをしたいことが。そちらに入っていいですか。入っていいですか」と言ってくるので、これを聞いた若い女房が「はしたない、見苦しい恰好をしているのに。絶対入れるわけにまいりません」と笑い声を上げた。
  平生昌は「若い方もいらっしゃったのですね」そう言って、ふすまを閉めて立ち去ったのでした。障子を開けるくらいなら、黙って入ってくればいいのに、入室許可を求められ「はいどうぞ」なんて女性の立場で言えるはずないじゃない。まったく野暮ったいお方と笑ってしまった。
  翌朝、中宮定子の前に参上して報告すると「そんな生昌の遊び人のような噂、聞いたことがないのに。昨夜のあなたの切り返しに感心して部屋まで行ったのでしょうね。あらあら、生昌に恥をかかせる形でやりこめたのは可哀想なことでした」とおっしゃってお笑いになった。
  平生昌は脩子内親王に仕える童女の着物を新調するようにと中宮定子から言いつけられた。脩子内親王は一条天皇と中宮定子の第1皇女で、定子と共に生昌邸へ来ていた。この時も「この衵(あこめ・童女の中着)の上から着る着物は何色にしましょうか」と尋ねてきた。女房たちがまた笑いだしたが、でもそれはしょうがない。女児の上着である汗衫という単語であるのを知らなかっただけである。

 さらに平生昌は「姫宮がお使いになる食器は、大人用の大きな食器では宜しくないでしょう。ちっこい折敷(おしき・お盆)に、ちっこい高坏(たかつき・脚のついた皿)が宜しいかと」なんて言う始末で、「小さい」を「ちっこい」となまって言うのだからおかしいったらありません。
「ちっこいお盆、ちっこい高坏なんていう変な名前の食器をお使いになるのですから、「衵の上っ張り」とかいうこれまた変な名前の服を着た童女もさぞお給仕しやすいことでしょう。それなら上から着る着物を羽織った女の子も、さぞかしお仕えしやすいことでしょう」とひやかすと、これを聞いた中宮定子が「ほらほら、普通の人と同じように平生昌を笑い者にしてはいけません。平生昌は愚直なほど真面目なのだから」と気の毒そうにおしゃるのだった。
 どっちつかずな時にやって来て「生昌さまが、何を置いてもまずお話し申し上げたいと言っている」と取次ぎの女房が言うのを中宮定子がお聞きになられて「またどんなことを言い出して清少納言に笑われるのかしら、行って聞いてらっしゃい」とおっしゃったので。わざわざ出て行ってみると「あの夜の門のことを兄の惟仲(これなか)に話したところ、大層感心しまして「なんとか機会を設けて、ゆっくりと会って語らいたいものだ」と申しておりました」と言うだけで、それ以外に何も話さなかった。あの夜の夜這いのことでも言い出すのだろうかと思っていたのに、平生昌は「ではこれで、そのうちまたお部屋に伺いますので」と言って帰ってしまった。
  中宮定子の前に戻ったところ「何だったの」とおっしゃられたので、生昌が言ったことを説明すると「わざわざ訪ねて来て呼び出すほどの話ではないわ。中宮定子さまにお仕えしていない時とか、部屋に下がっている時に言えば済むことよね」と女房たちが言って笑っていた。でも中宮定子は「いいえ、自分が尊敬する惟仲が褒めたのだと清少納言が知ったら、喜ぶに違いないと思って、わざわざ報せに来たのでしょう」とおっしゃった。生昌を思いやる中宮定子のそのご様子はなんとも素晴らしい。

 この段で中宮職3等官の平生昌のおかしくも不作法な様子を「わらい」としてとり上げ、それを聞く中宮の穏やかで優しい受け取り方を描いている。なお中宮は翌年ここで出産し崩御した。

           
枕草子7段
 一条天皇が寵愛しているネコはとても可愛らしいので、五位の位階を与えられ「命婦のおもと」と呼ばれていた。五位の位階というのは御所殿上を許される地位で、五位になるために下級の貴族たちはしのぎを削っていたのだから、「命婦のおもと」は下級の貴族たちより地位が上であった。

 暖かい場所で眠っているネコ(命婦のおもと)を、お世話係の馬の命婦が「まあ、みっともない、奥にお入りなさい」と呼んだが、ネコは日射しを浴びたまま寝て動かなかった。少しおどかしてやろうと、お世話係の馬の命婦は翁丸(犬の名前)に行儀の悪いネコ(命婦のおもと)に食いついておやりなさいと言った。イヌの翁丸は冗談とは受け取らず、本気で噛めと言われたと勘違いして、ネコに向かって走った。ネコは恐れて御簾の中に入ってしまった。

 ちょうど御朝食のため帝(一条天皇)がいらっしていた。この様子を見て一条天皇は非常に驚き、寵愛する猫を脅したとして「この犬を、打ち据えて罰し、犬島に流刑にしてしまえ、今すぐにそうせよ」と近くに控えていた者に命じた。みんなが集まって翁丸を捕まえるために騒がしくなり、また帝は馬の命婦も強く叱責して猫の世話係を御役御免にさせた。犬(翁丸)はみんなで狩りをして捕まえた。
  「可哀想に、翁丸はあんなに威張ってこの辺を歩いていたのに。三月三日には、頭の弁が柳で頭を飾らせ、桃の花を首に掛け、桜を腰に差したりして練り歩かせていたのに、こんな酷い目に遭うなんて、翁丸は思いもしなかっただろう。皇后様(定子)のお食事のときは、必ず皇后様に向き合って控えていたのに、いなくなってさびしくなるわ」と翁丸を哀れんでいた。

 それから3、4日たった昼のことである。たくさんの犬の吠える声が聞こえてきた。あまりに長く鳴くので、どうしたのかしらと思っていると、女官が走ってきて「大変です。蔵人の忠隆と実房が犬を叩いています。このままでは死んでしまうかもしれません。追放したのに犬が戻ってきたので叩いているのです」と言うので、「なんてことを、きっと翁丸でしょう」と止めさせようと使いを出すうちに犬は鳴きやんだ。
  戻った使いの者から「死んでしまったので門の外へ捨てました」と報告があった。それを聞いて哀れがっている夕方のこと、痛々しくはれ上がってひどい姿になっている犬がわなわな震えながら歩いているのが目に入った。
  「あれは翁丸かしら、こんなひどい姿をした犬なんて、最近いたかしら」と女房が言うので、「翁丸」と呼んでみたが反応はなかった。
 女房達が「翁丸では、いえ違うでしょう」と口々に言う中、皇后様が、「右近ならわかるかもしれません。お呼びなさい」と仰せになるので右近が参上した。「これは翁丸か」と例の犬をお見せになると、右近は「似てはおりますが、この犬は見るも無残な姿でございます。また翁丸と呼べば普段なら喜んでやってくるはずですが、この犬は呼んでもこちらへ来ません。恐らく違うでしょう。翁丸は打ち殺されたと聞いております。しかも蔵人が二人して叩いたのですから生きていないでしょう」と申し上げるので、皇后様は大変心を痛められた。

 暗くなってからも、その犬は与えられた食べ物を食べないので、この犬は翁丸ではないということになりそのまま放置された。
 翌朝、皇后様の身支度のため、わたくしが鏡をお持ちした時のこと。昨日の犬が柱のもとにうずくまっているのを見て「昨日は翁丸を酷く打って死なせてしまったようですが、かわいそうなことをしましたわ。今度は何に生まれ変わっるのでしょうか。打たれ死ぬときはとても辛かったことでしょう」と言うと、うずくまっていた犬がわなわな震えだして涙をボタボタ落としたのである。なんとこの犬は翁丸でした。帝からおとがめを受けたので、昨夜は素性を隠していたのでしょう。なんと健気なことかしらと驚いてしまった。

 人間こそ他人に同情されて泣くことはありますが、まさか犬にもそのようなことがあるとは思いもしませんでした。犬は戻ってきて、折檻され息も絶え絶えになっていたが涙を流していたのでした。わたくしに憐みをかけられ、体を震わせ泣き出した翁丸の様子は、非常に感動的でまた不憫でありました。 
  わたくしは鏡を置いて「翁丸なの」と言うと、その犬は泣いた。皇后様も事情を知って驚かれ右近を呼んで一部始終を話すと、女房たちも驚き、やがて帝のお耳にも入り、帝がこちらへお出ましになった。帝もまた「驚いた。犬にもこんな健気な心があるものなのか」とおしゃった。
 帝付きの女房達も集まり、「翁丸」と呼べば言われた通り動き、わたくしが「まだ顔の辺りが腫れてます。手当てさせたい」と言うと「翁丸をかわいそうにと思う心をおっしゃいましたね」と女房が言いました。
 翁丸とわかり、みんなで笑いあっていると、「翁丸がいると聞いたのですが本当でしょうか、その犬を見せていただきましょう」騒ぎを聞きつけやってきたのは、あの蔵人・忠隆であった。わたくしが「恐ろしい、そんなものはおりません」と言いましたら、忠隆は「そうおっしゃられても、いつか見つける時が来るでしょう。いつまでも隠し通せはしません」などと言いったので、「翁丸はお咎めを許されて、宮中でもとのように飼われるようになりました。帝の命です」と蔵人に言った。

 

 

  枕草子を読む度に「これが千年前に書かれたとは思えない」ほどに感嘆する。心の動きが現代の私たちと何ら変わらないからである。冗談を言い合い、四季の景色を愛し、恋話に花を咲かせる女性たちが描かれている。そこには清少納言が敬愛していた定子を襲った悲劇(父母の死、兄の流刑、家の焼失、そして24歳の死)は一言も書かれていない。作品中の定子は、常に明るい光の中で笑っており、枕草子そのものが定子への鎮魂歌となっている。清少納言が宮仕えをした人生の7年間は筆を通して永遠に残されている。

 

 枕草子8段まで全訳してみたが、枕草子は全323段まである。このまま全訳を続けたら、日本の歴史を振り返るという当初の目的が達成できなくなるので、枕草子の全訳はいったん中断したいと思う。


枕草子8段
 五節句の情緒を天候で描く。特に重陽の節句(9月9日)の菊と雨の描写が素晴らしい。
 重陽は菊に長寿を祈る日。陽(奇数)が重なる日そして、奇数の中でも一番大きな数字という意味で重陽と言う。奈良時代から宮中や寺院で菊を観賞する宴が行われているが、素空の日常にはほとんど縁がない。
(七段)
 「正月一日、三月三日は、いとうららかなる。
  五月五日は、曇り暮らしたる。
  七月七日は、曇り暮して、夕方は晴れたる。空に月いとあかく、星の数も 見へたる。
  九月九日は、暁がたより雨すこしふりて、菊の露もこちたく、おほひたる綿なども、いたく濡れ、うつしの香ももてはやされて。つとめてはやみにたれど、猶くもりて、やゝもせばふりおちぬべく見えたるもお(を)かし。」
 (・・・9月9日は明け方から雨が少し降って、菊の露も沢山で、花にかぶした綿などもずいぶん濡れて、綿に移った花の香りも引き立てられて素晴らしい。早朝に雨が止んでも、曇っていてややもすると今にも降りそうに見えるのも面白い)


枕草子(八段)・よろこび奏するこそ
  位官の昇進した者の内裏での感謝の姿は素晴らしいと言う。美しい着物での立居振る舞いが目の前に浮かんでくる。
 素空は勤めでは“平”が続き、その後自営業になったので昇進には全く縁がない。一度昇進祝いなるものをしてみたかったと思った。
(八段)
 「よろこび奏(そう)するこそお(を)かしけれ。うしろをまかせて、おまえのかたにむかひてたてるを。拝(はい)し舞踏(ぶたう)しさは(わ)ぐよ。」
 (昇進して感謝を表す姿は見事だ。着物の裾を後ろへ長く垂らした姿で天皇の御座の方へ向かって立つ姿は素晴らしい。礼拝をし袖を左右にひるがえし、派手に振舞うのだ)


枕草子(九段)・今の内裏の東をば 
 「定澄僧都(じやうちやうそうづ)に袿(うちぎ)なし、すくせ君(ぎみ)に袙(あこめ)なし」“背の高い定澄僧都が着た袿(長衣)は長衣に見えず、背の低いすくせ君が着た衵(短衣)は短衣には見えない”と言う。
 長衣の袿と短衣の衵とが、長身・短身の人が着た場合、長衣でも短衣でもなくなるとの軽口。それが面白いと言う。背の低い素空が着た半ズボンは長ズボンに近いと言うことかな。
 それにしても清少納言はよく日常の中の出来事を観察している。
 (九段)
 「今の内裏(だいり)の東(ひむがし)をば北の陣(ぢん)といふ。なしの木の、はるかにたかきを、いく尋(ひろ)あらむ、などいふ。権中将「もとよりうちきりて、定澄僧都(じやうちやうそうづ)のえだあふぎにせばや」との給(たま)ひしを、山階寺(しなでら)の別当(べたう)になりてよろこび申す日、近衛府(づかさ)にてこの君のいで給へるに、たかき屐子(けいし)をさへはきたれば、ゆゝしうたかし。出(いで)ぬる後に「など、そのえだあふぎをばもたせ給はぬ」といへば、「物わすれせぬ」と笑い給(たまふ)。「定澄僧都(じやうちやうそうづ)に袿(うちぎ)なし、すくせ君(ぎみ)に袙(あこめ)なし」といひけむ人こそお(を)かしけれ。」
 (仮の内裏の東門を北の陣と言い、そこの高い梨の木はどれほどの高さかなどと言った。権中将が「下より切って、背の高い定澄僧都の扇にしては」と言う。僧都が山階寺・興福寺の別当になった時、その感謝をする日、近衛府での姿は高下駄を履いていたのでとても高い。「どうして扇をもたなかったのか」と問われ、「忘れた」と笑って答えた。「定澄僧都には袿なし、すくせ君には衵なし」と言った人こそ面白い)


枕草子(十段)・山は
  18の山を列挙して面白いと言う。ほとんどの山が歌枕(歌にしばしば詠み込まれている名所)で、清少納言の時代の人には関連する和歌がわかっただろう。才女・清少納言は何でもよく知っており、それを文に書きとめる。今で言うなら、走り書きのブログのようだ。走り書きは十九段まで続く。
(十段)
 「山は お(を)ぐら山。かせ山。三笠山。このくれ山。いりたちの山。わすれずの山。すゑの松山。かたさり山こそ、いかならむとをかしけれ。いつはた山。かへる山。のちせの山。あさくら山、よそに見るぞお(を)かしき。おほひれ山もをかし。臨時(りんじ)の祭の舞(まひ)人などの思ひ出(いで)らるゝなるべし。三輪(わ)の山(やま)お(を)かし。手向山。まちかね山。たまさか山。みみなし山。」

 「かたさり山こそ、いかならむとをかしけれ」、山が、かたさる=片側による、遠慮して身を引くとはどんなだろうと興味が湧いて面白い。
 「おほひれ山もをかし。臨時の祭の舞人などの思ひ出らるゝなるべし」、この山の名(おほひれ)から、「大ひれや、小ひれの山は・・・」(東遊歌)が唱われる祭の姿が浮かぶ。


枕草子(十一段)・市は
  大和にある面白い市に言及する。特に海石榴(つば)市は長谷寺に参詣する人が集まり、観音に縁があるので特別に心ひかれると言う。
 海石榴市は庶民から皇族や貴族まで集まった所だが、歌垣(求愛のために男女が集まり歌い合ったり踊ったりした)で有名。万葉集の歌に
 紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ
   “出会った君の名は?教えて。(名を聞くことは求婚)”
 たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか
   “母が呼ぶ私の名を言いたいけど、知らない人には言えません。
    (名を言うことは求婚を受け入れること)”
(十一段)
 「市(いち)は たつの市。さとの市。つば市。大和(やまと)にあまたある中に、長谷(はせ)寺にまうず(づ)る人のかならずそこにとまるは、観音(くわんおん)の縁(えん)あるにやと、心ことなり。をふさの市。しかまの市。あすかの市。」
 「市は辰の市、里の市がおもしろい。市が大和国に沢山ある中で、とりわけ海石榴(つば)市は長谷寺の参詣する人が集まり、観音に縁があるので特別に心ひかれる。他には、をふさの市、飾磨(しかま)の市、飛鳥の市が良い」


枕草子(十二段・十三段)・峰は 原は
 峰と原について書く。
 峰の良いのは摂津(大阪府北西部と兵庫県南東部)のゆづる葉の峰、山城(京都府南東部)が阿弥陀の峰、播磨(兵庫県西南部)の弥高(いやたか)の峰だと言う。原は摂津の瓶(みか)の原、山城の朝(あした)の原、信濃(長野県)の園原が良い。
 上記の峰と原に縁が無いが、園原だけはスキー場が山頂にあるのでなじみ深い。
(十二段)
 「峰は ゆづるはの峰(みね)。阿弥陀(あみだ)の峰。いやたかの峰。」
(十三段)
 「原(はら)は みかの原。あしたの原。その原。」


枕草子(十四段~十六段)・淵は 海は 陵は
 枕草子は「をかし」の文学と言われるが、「をかし」の意味は今と違って、①趣がある、興味深い、心が引かれる ②すぐれている、見事だ、すばらしい ①②のどちらかだが、ここは①の意味で使われている。
 十四段~十六段は淵と海と陵について書く。いろいろ書いているが、固有の名はわかりにくい。
 「かしこ淵」はこの淵のどこが「かしこし(恐ろしい、慎むべきである)」なのか?という気持。「ないりその淵」は、な入りそ(入ってはいけない)の淵。その他、わかりにくいところがあるが、原文のみを下記する。
(十四段)
「淵(ふち)は かしこ淵(ふち)は、いかなる底の心を見て、さる名を付けんとをかし。ないりその淵。たれにいかなる人のをしへけむ。あを色(いろ)の淵こそ、お(を)かしけれ。蔵(くら)人などの具(ぐ)にしつべくて。かくれの淵。いな淵。」
(十五段)
 「海は 水海(うみ)。よさの海。かはぐちの海(うみ)。いせの海。」
(十六段)
 「陵(みさゝぎ)は うぐひすの陵(みさゝぎ)。かしはばらの陵(みさゝぎ)。あめの陵(みさゝぎ)。」


枕草子(十七段~十九段)・渡は たちは 家は 
 渡とたち(舘または太刀)と家について書く。
 渡は水上の渡し場を言う。たち(十八段)はわからない。
 多くの解説書(特に高校生用)が十段~十九段を省略している。それはそれほど面白くないからだろうし、試験にも出そうにない。
(十七段)
「渡(わたりは しかすがの渡(わたり)。こりずまの渡(わたり)。水はしの渡(わたり)。」
(十八段)
「たちは たまつくり。」
(十九段)
「家(いえ)は 近衛(このゑ)のみかど。二条わたり。一条もよし。
 染殿(そめどめ)のみや。清和院(せかい)。菅原(すがはら)の院。冷泉(れいせい)院。閑(かん)院。朱雀院。小野(おの)の宮。紅梅(こうばい)。県(あがた)の井戸(ゐど)。東三条。小六条。小一条。」


枕草子(二十段)・清涼殿のうしとらのすみの 
  「清涼殿の」で始まる二十段は長文である。清少納言が中宮の和歌についての問いに見事こたえた回想記。清涼殿での天皇、中宮、女房たちの和歌をめぐる美しい情景が描かれる。
 宮中は古今集の和歌を暗誦していることが常識だと言う世界、村上天皇の后、宣耀殿の女御が全て記憶していたという逸話が語られる。
 原文は次を参照(でも読むのはしんどいよ)

・第21段 宮仕え礼賛…この時代、高貴な女性は顔を見せてはいけなかった。成人すると親子でも扇で隠していたほど。結婚3日目の朝にやっと夫は妻の顔を見ることが許される(だから平安貴族は歌の良し悪しで恋の運命が決まった)。ところが宮仕えをする者は色んな人に顔を見られているので「すれっからし」と言う男がいる。そんな男は本当に憎たらしい。

・第25段 憎きもの…局(つぼね、私室)にこっそり忍んで来る恋人を見つけて吠える犬。皆が寝静まるまで苦心して迎えいれて男がいびきをかくこと。
隠した男がイビキをかいていること。また、大袈裟な長い烏帽子(えぼし)で忍び込み、慌てているので何かに突き当たりゴトッと音を立てること。簾(すだれ)をくぐるときに不注意で頭が当たって音を立てるのも無神経さが憎らしい。戸を開ける時も少し持ち上げれば音などしないのに。ヘタをすれば軽い障子でさえガタガタ鳴らす男もいて話にならない。局で音を立てるのは憎しみの対象になるほど最低の無作法らしい。

・第26段 胸がときめくもの…髪を洗い、お化粧をして、お香をよくたき込んで染み込ませた着物を着たときは、別に見てくれる人がいなくても、心の中は晴れやかな気持がして素敵だ。男を待っている夜は、雨音や風で戸が音を立てる度に、ハッと心がときめく。

・第27段 過ぎ去りし昔が恋しいもの…もらった時に心に沁みた手紙を、雨の日などで何もすることがない日に探し出した時。

・第60段 暁に帰らむ人は…明け方に女の所から帰ろうとする男は、別れ方こそ風流であるべきだ。甘い恋の話をしながら、名残惜しさを振り切るようにそっと出て行くのを女が見送る。これが美学。ところが、何かを思い出したように飛び起きてバタバタと袴をはき、腰紐をごそごそ締め、昨晩枕元に置いたはずの扇を「どこだどこだ」と手探りで叩き回り、「じゃあ帰るよ」とだけ言うような男もいる。最低。
 
・第93段 呆然とするもの…お気に入りのかんざしをこすって磨くうちに、物にぶつかって折ってしまった時の気持ち。横転した牛車を見た時。あんなに大きなものがひっくり返るなんて夢を見てるのかと思った。

・第95段 ホトトギスの声を求めて…お供の者たちと卯の花を牛車のあちこちに挿(さ)して大笑い。「ここが足りない」「まだ挿せる」と挿す場所がないほどなので、牛にひかせた姿は、まるで垣根がそのまま動いているようだ。誰かに見せたくなり、ホトトギスの声を聞くフリをして町をひかせると、こういう面白い時に限って誰ともすれ違わない。御所の側まで来てついに知人に見てもらった。すると相手が大笑いしながら「正気の人が乗っているとは思えませんよ!ちょっと降りて見て御覧なさい」。知人のお供も「歌でも詠みましょう」と楽しそう。満足した。
 
・第95段 父の名は重い…父の元輔が有名な歌人なので、歌会になる度に「あなたも何か詠め」と言われるのが嫌だ。これ以上詠めと言われたら、もうお仕えはできない。常に人より良いものを詠まねばならない重圧。
※彼女は歌人の家系であり、自身も百人一首に「夜をこめて鳥の空音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ」(まだ夜明け前なのに鶏の鳴きマネで門を開けさそうという魂胆ですが、この逢坂の関はそう簡単には行きませんことよ)が採用されている。家集「清少納言集」(42首)もある。しかし、彼女は歌才がないことを痛感していたようで、宮仕えの際に“詠め”と言われて「父の名を辱める訳にはいかないので詠めません」と断っている。

・第123段 はしたなきもの…きまりの悪いもの。他人が呼ばれているのに、自分と思って出てしまった時。贈り物を持ってる時はなおさら。何となく噂話のなかで誰かの悪口を言った時に、幼い子どもがそれを聞いて、当人の前で言い始めた時。悲しい話をされて本当に気の毒に思ってこちらも泣こうとしているのに、いくら泣き顔を作っても一滴も流れないのは決まりが悪い。

・第135段 退屈を紛らわすもの…碁、すごろく、物語。3、4歳の子どもが可愛らしく喋ったり、大人に必死で物語を話そうとして、途中で「間違えちゃった」と言うもの。

・第146段 かわいらしいもの…瓜にかいた幼子の顔。雀の子に「チュッ、チュッ」と言うとこちらに跳ねてくる様子。おかっぱ頭の小さな子が、目に髪がかぶさるので、ちょっと首をかしげて物を見るしぐさは本当に可愛い。公卿の子が奇麗な衣装を着せられて歩く姿。赤ちゃんを抱っこしてあやしているうちに、抱きついて寝てしまった時。人形遊びの道具。とてもちっちゃな蓮の浮葉。小さいものは何でも皆かわいらしい。少年が子どもらしい高い声で懸命に漢書を読んでいる様子。鶏のヒナがピヨピヨとやかましく鳴いて、人の後先に立ってちょこちょこ歩き回るのも、親が一緒になって走るのも、皆かわいらしい。カルガモの卵、瑠璃の壺。

・第147段 人前で図に乗るもの…親が甘え癖をつけてしまった子。隣の局の子は4、5歳の悪戯盛りで、物を散らかしては壊す。親子で遊びに来て、「あれ見ていい?ね、ね、お母さん」。大人が話しに夢中だと、部屋の物を勝手に出してくる。親も親でそれを取り上げようともせず、「そんなことしちゃだめよ、こわさないでね」とニッコリ笑っているので実に憎たらしい。

・第209段 牛車…五月ごろ、牛車で山里に出かけるのはとても楽しい。草葉も田の水も一面が青々としている。表面は草原でも、草の下には透明な水が溜まっていて、従者が歩く度に奇麗なしぶきがあがる。道の左右の木の枝が、車の隙間から入った瞬間に折ろうとすると、スッと通り過ぎて手元から抜けてしまうのが悔しい。牛車の車輪で押し潰されたヨモギの香りが、車輪が回るにつれて近くに漂うのは、とても素敵だった。
 
・第218段 水晶のかけら散る…『月のいとあかきに、川をわたれば、牛のあゆむままに、水晶などのわれたるやうに水のちりたるこそをかしけれ』“月がこうこうと明るい夜、牛車で川を渡ると、牛の歩みと共に水晶が砕けたように水しぶきが散るのは、本当に心が奪われてしまう”。 

  枕草子を読む度に「これが千年前に書かれたとは思えない」ほどに感嘆する。心の動きが現代の私たちと何ら変わらないからである。冗談を言い合い、四季の景色を愛し、恋話に花を咲かせる女たちが描かれている。そこには敬愛していた定子を襲った悲劇(父母の死、兄の流刑、家の焼失、そして24歳の死)は一言も書かれていない。作品中の定子は、常に明るい光の中で笑っており、枕草子そのものが定子への鎮魂歌となっている。清少納言が宮仕えをした人生の7年間は筆を通して永遠に残されている。