薬子の変

 806年に桓武天皇が崩御すると、嫡男の平城天皇(安殿親王)が即位した。しかしこの平城天皇と藤原薬子との関係は想像を絶するものであった。

 平城天皇は皇太子(安殿親王)のときに藤原の娘を妃にしたが、その娘はまだ幼かったため、付き添いとして母親(藤原薬子)が一緒についてきた。ここでなんと親王(安殿親王)と妃の母親(藤原薬子)が男女の関係になったのである。

 嫁いできた娘よりも、連れてきた母親と恋仲になったのである。この薬子は長岡京遷都を指揮して暗殺された藤原種継の娘であった。

 母親といえども、薬子はまだ30歳である。安殿親王が娘と恋仲で結婚したわけではないのだから、妃の母親に惚れ込んでも不思議ではない。薬子は中納言・藤原縄主との間に3男2女の5人の子を産んでいた。それだけに薬子には女性的魅力があったのだろう。また薬子は藤原葛野麻呂とも通じていた。なおこの葛野麻呂は遣唐使に任じられ命を落としかけている。

 桓武天皇は「安殿親王(平城天皇)と薬子の不倫関係」に激怒して、薬子を朝廷から追い出した。ところが桓武天皇が崩御すると、平城天皇は薬子を再び宮廷に呼び戻し、二人の関係はさらに深まった。さすがに妃には出来ないので、薬子は平城天皇の女官長として迎えられた。薬子の夫は中納言の藤原縄主であるが、大宰帥として九州へ遠ざけられた。

 薬子は天皇の寵愛を受け、傍若無人の振る舞いをおこなった。薬子は政治に介入するようになり、兄・藤原仲成(藤原式家)出世を重ね、朝廷では藤原仲成・薬子の兄妹による専横政治が続いた。二人の勝手な振る舞いは周囲のひんしゅくを買った。

 当時は、都の造営や蝦夷征討で国家財政は逼迫していた。平城天皇は生来病弱であったが、財政の緊縮と公民の負担減に取り組み、役所の統廃合などの行政改革を実行した。しかし藤原氏の内部の抗争に翻弄されたせいか、しだいに体調を崩し何度か転地療養を試みたがその効はなかった。在位3年という短い期間で、病気のために激務に耐えられないと判断して天皇を退位し、皇位を弟の賀美能親王(嵯峨天皇)に譲り奈良に隠棲した。これは病が早良親王などの祟りであると考え災禍を避けるためだった。

 天皇の座を譲ると平城上皇の健康はにわかに回復へ向かい、平城上皇は嵯峨天皇に譲った政治に意欲を持ちはじめた。退位した平城上皇は平城京で、嵯峨天皇は京都に残り、このため平安京と平城京に二所の朝廷が並ぶようになった。平城上皇は30代という若さも手伝って国政への意欲を示し、上皇の命令と称して政令を乱発した。平城上皇3年の在位で天皇を辞めているので、薬子にすれば平城上皇を再び天皇にしたかった。

 当然のことながら、薬子や藤原仲成も政治の表舞台への未練を捨てきれず、平城上皇に再び天皇になることを(重祚)促した。平城上皇が再び天皇になるには、それなりの理由が必要であった。そのため「もう一度、都を平城京に戻すために上皇を天皇にする」という理由がつけられた。つまり都を平城京に戻したい人たちの賛同を求めたのである。しかし平城京から平安京に都を移したてから既に26年もたっており「いまさら平城京に都を戻すなんて、面倒なこと」という意見がほとんどで賛同は得られなかった。
 平城上皇と嵯峨天皇は対立し、平城上皇は奈良から天皇の如く色々と命令を出し始めた。この兄弟喧嘩により「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態になった。

 役人達にも動揺が広がり、どこから天皇の機密が平城上皇側に漏れるか解らない。そこで嵯峨天皇は、810年3月に天皇の命令を伝える蔵人所を設置した。蔵人所は天皇の情報が上皇に漏れないために設立され、天皇が最も信頼していた藤原冬嗣が長官になった。嵯峨天皇は藤原北家の藤原冬嗣と結んだのである。

 810年9月、薬子と藤原仲成が平城上皇を天皇に復位させるため平城京への遷都を宣言し、宮殿などを奈良に建て始め、ひそかに兵をあげる準備を始めた。これを事前に察知した嵯峨天皇は先手をうって坂上田村麻呂を派遣して武力で阻止した。

 この事変で平城上皇は東国への逃亡を図ったが失敗し、失意のうちに剃髪して出家した。背後にいた藤原仲成は射殺され、薬子は毒をあおって自害した。僅か数日でクーデターはあっけない結果に終わったが、これを薬子の変という。

 この一連の流れは一般的に「薬子の変」と呼ばれるがそれは、嵯峨天皇が平城上皇に罪を着せないように配慮したためであり、実際は兄弟の権力争いで平城上皇が大きく関わってた。
 藤原仲成と薬子は、長岡京の造営責任者で暗殺された藤原種継の子だったので、この事件の背景には、藤原種継が命がけで造営した長岡京を、桓武天皇が捨てたことに対する恨みもあった。平城京は建都以来、数々の謀略、政変を繰り返し、結果、多くの人々が討ち倒された血塗りの都であった。その平城京で、最期に命の花を散らしたのが、藤原薬子であった。

 薬子の変によって藤原四家の一つ藤原式家は没落し、冬嗣の北家が繁栄してゆく。これ以降北家以外の藤原氏が政権を代表することはなく、従って薬子の変は、藤原北家が台頭する契機となった。また薬子の変で嵯峨天皇について勝利の祈祷をしたのが空海であった。

 はたして藤原薬子が悪女だったのか、平城天皇を心から愛し続けた一途な女性だったのか、藤原薬子が書き残したものがないので本当のことは分からない。

 この事件は「日本後紀」に書かれているが、「日本後紀」を編纂したのが藤原冬嗣である。つまり藤原薬子のことを悪く書いた可能性が大きいのである。いずれにせよ兄の藤原仲成と共謀したのだから藤原薬子は権力志向の強い女性だったのだろう。

 日本の歴史のなかで卑弥呼を始め有名な女性が多くいるが、また飛鳥時代は壬申の乱、平安時代は平将門の乱、保元の乱、平治の乱。鎌倉時代は承久の乱、室町時代には応仁の乱、戦国時代は本能寺の変、江戸時代は島原の乱など多くの変や事件があるが、女性の名前が使われているのは藤原薬子の変のみである。しかしかつては藤原薬子らが中心となって乱を起こしたとされ「薬子の変」という名称が一般的であったが、2003年頃から一部の高等学校の教科書では「平城太上皇の変」という表現がなされている。それはこの事件は律令制下の平城太上皇に起因しているからである。

 平城上皇が崩御すると、藤原薬子が命を断った平城新宮近くに御陵が築かれた。それは平城上皇と藤原薬子が永遠の縁で結ばれ、寄り添っているかのようである。