国史の謎

富士山

 日本最古の歴史書「古事記」と「日本書紀」には日本の神話が書かれているが、不思議なことに日本の象徴である富士山について書いていない。記紀と同時代に書かれた「万葉集」には富士山を詠んだ歌が数多く載っているのに、また「常陸国風土記」に富士山が書かれているにもかかわらずである。

 奈良の都から富士山が見えなくても、日本人なら富士山を知っていたはずで、記紀に富士山が登場しないのは意図的に隠したのであろう。多分、富士山を書くと「霊峰富士への信仰をもつ王朝」が繁栄していたことを書かなくてはいけないので、朝廷にとって富士王朝を抹消するために富士山を無視したのだろう。

 あの「竹取物語」には、富士王朝を示唆する部分がある。物語の中で帝が「どの山が一番天に近いのか」と側の者に尋ね、「駿河にある山が、この都からも天にも近い」と答えると、帝は文と不死の薬を持たせて山頂で燃やすようにと命じている。 そのため大勢の兵士を引き連れて富士の山に登ったので「大勢の兵士に富んでいる山」として富士山と名付けたとしている。この「竹取物語」は平安時代の伝承によるもので、都に近いという部分が京都とは別の都を思わせるのである。また竹取物語に由来する竹取塚が富士市比奈にあり、「丹田呼吸法」で有名な白隠禅師も「この地こそが、かぐや姫誕生の聖跡」としている。富士山は平安初期に噴火するが、富士王朝がその裾野にあった可能性がある。富士吉田市の旧家・宮下家の古文書には、神武天皇以前の富士山麓には「富士高天原王朝」があったと書かれている。古文書と日本の正式な歴史書のどちらが正しいのは分からないが興味深いことである。

邪馬台国と卑弥呼

 次に記紀には邪馬台国や卑弥呼のことが書かれていない。大和政権の直前に邪馬台国が存在していたのは中国の魏志倭人伝に書かれているが記紀には書かれていないのである。記紀の目的は大和政権を正当化することなので、そのために「日本」の国名や「天皇」という言葉が使われ、国家としての形態を整えているが、「記紀」の編者たちは魏志倭人伝を読んで卑弥呼や邪馬台国の存在を知っていたはずなのに、なぜかその存在を消去したのである。編集者にとっては「大王(天皇)家が神代から続く日本で唯一の王朝」でなければいけなかった。さらに日本は中国と対等の国でなければいけなかった。しかし日本書紀は漢文で書かれ唐に献上されているで、魏志倭人伝との矛盾点が指摘されれば国家としての信頼を失うことになる。そのため日本書紀では神功皇后が卑弥呼であることを匂わせて偽装しているのである。

 魏志倭人伝には「倭の女王が使いを帯方郡に送り、魏への朝貢を申しでて洛陽に至った」と書かれているが、仲哀天皇の神功皇后にも同じような記載が記紀に書かれているのである。しかも記紀では神功皇后の治世の時に「倭の女王が使いを送ってきたと中国の史書に書いてある」と他人ごとのように曖昧に書いているのである。

 日本書紀の編者たちは暗に神功皇后と卑弥呼を重ね、邪馬台国の名も卑弥呼の名も出さず邪馬台国そのものを曖昧にしているのである。ここに作為性が感じられる。

 神功皇后と卑弥呼の時代は百年ほど離れているが、中国の史書に邪馬台国や卑弥呼の存在が述べられているため、仕方なく神功皇后を創出して辻褄を合わせたのだろう。卑弥呼が中国の魏に朝貢した事実、さらに邪馬台国や卑弥呼という卑しい名前を嫌い、神功皇后という架空の人物をつくったのかもしれない。

 神神功皇后は九州の筑紫で夫の仲哀天皇が死んだ後、軍を率いて朝鮮半島に出兵した皇后で、皇后の乗った船が波や風、海の魚に持ち上げられて新羅の国へ運ばれ、それを見た新羅の王が「神の国の神兵がやってきた」と降伏したとある。また神功皇后はお腹の中に子を宿していて、遠征中に子供が生まれそうになると、腰に重い石を縛りつけて北九州の筑紫に戻って出産したと書かれている。1年半も神神功皇后の腹にいたのは後の応神天皇である。

 神功皇后は神託をくだす巫女的な役割を担い、これも卑弥呼を思わせる。また仲哀天皇の死によって政務を行い100歳で死ぬまでに60数年間政権の中枢にいたとされが、卑弥呼が60年間女王であった姿と重なっている。

 日本書紀の編者たちは、神功皇后をさりげなく偽装し、魏志倭人伝に辻褄を合わせたのだろう。「神功皇后は卑弥呼です」とは言わず、聞かれたらそのように答えるようにしたのであろう。

 当時の大和政権は、天皇を頂点とした中央政権社会を目指していた。多分、卑弥呼の存在は目障りだったのであろう。もし邪馬台国が九州の小さな部族国家で、卑弥呼が女酋長のような存在であれば、大和政権としては書く必要はないが、中国の史書に載っているのだから、大和朝廷の系譜のなかに邪馬台国が存在していなければならない。そうでなければ大王家が神代から続く正当な王朝とはいえないからである そこで記紀の編者たちは神功皇后を卑弥呼と思わせ、大和朝廷の系譜に取り込んだのであろう。邪馬台国を曖昧にしたのだが、邪馬台国と天皇家の交代あるいは王権の簒奪があった可能性がある。

 最後に、記紀では神武天皇を人間として初代天皇としているが、神武天皇の父親の神の記述が名前しか登場していないのも不思議である。

 

出雲風土記の謎

 出雲風土記には国譲りのことも、スサノヲや八岐大蛇退治(ヤマタノオロチ)についても書かいてないのである。朝廷が風土記の編纂を各国に命じたのが713年で、出雲国風土記が完成したのは20年後である。古事記と日本書紀はそれぞれ712年と720年に完成しているので、風土記の編集者は、当然、古事記や日本書紀を読んでいるはずで、当時の天皇家にとって不都合なことを書けるはずはないのである。各風土記は協定の人たちが検閲するため、古事記や日本書紀と矛盾することは書けなかったのである。

 古事記や日本書紀では、出雲は国譲りによって天皇家の祖先に譲られたが、それ以前の出雲国はただ騒がしくて妖しい国と記紀は書いてある。出雲国風土記には国引き神話が書かれ、出雲には「天降った神」たちがいたのに、編集者は大和勢力の手前書けなかったのであろう。

 記・紀には天孫降臨として葦原中国を支配する話が書かれているが、天から降ってくる神は天皇家に連なる神々ばかりで、出雲にも神々が天降ったはずなのに、出雲国風土記では伝承としてわずかに書いているのみで自己主張まったく見られないのである。

 出雲(葦原中国)は四柱の大神によって守られた国で、出雲には天降った高貴な神々がいて、力強い建国神話があるが、それらを書きたくても大和勢力を前に書けなかった。あるいはどうせ書けないなら、意地でも書かないという意思があったのかもしれない。記紀に記載されている八岐大蛇神話(ヤマタノオロチ)は出雲風土記には全く出てこないのがその意地であろう。ヤマタノオロチそのものが出雲の神の象徴で、ヤマタノオロチがスサノヲに殺されたことは大和朝廷が出雲に勝ったことを意味しているので、出雲の人々にとってこのような屈辱的なことは意地でも書きたくなかったのであろう。

 現在の出雲大社本殿は高さ24m室内、面積は約99平方mである、これでも巨大な木造建築物であるが、古代の本殿は高さ48メートルの巨大神殿だった。  2000年の出雲大社の調査で、出雲大社の地下から「巨大な柱」が発見され、この巨大な柱が出雲大社の本殿を支えていた柱であることが判明した。この巨大柱は3本の木を束ねたもので「古代の出雲大社」の「絵図面」に描かれたものと同じであった。この巨大な柱の発見によって「48メートルの巨大神殿は実在した」という確証に行き着いた(下図)。