井伊直弼/桜田門外の変

 歴史上「井伊の赤鬼」と呼ばれた人物が2人いる。一人は初代彦根藩主・井伊直政で、赤備えの軍を引きいて勇敢だったことからそのように呼ばれた。この井伊直政は軍事だけでなく関が原後の「西軍との交渉」を行い、また美形だった。

 もう一人の赤鬼は幕末の井伊直弼で、世間の人たちは悪名高い「安政の大獄」を断行し、「桜田門で暗殺された人物」と思われている。確かに安政の大獄は暴挙であったが、それにはそれなりの事情があった。

 井伊直弼は大老の地位につくと幕府を主導し日米修好通商条約を締結し、幕府への反発に対し「安政の大獄」を行った。この「安政の大獄」で憤った水戸藩の浪士たちの襲撃を受け「桜田門外の変」で討たれてしまう。井伊直弼の死によって幕府の権威は大きく傷つき討幕運動へとつながってゆくが、井伊直弼は優れた文化人であり、彦根では慈悲深い名君として知られている。一般には井伊直弼は強権的な弾圧者として悪人のイメージが強いが、地元彦根では鎖国を開国に導いた偉人と評価されている。
 このように評価が両極端に分かれているのは、直弼と対立していた勢力が江戸幕府を倒し、明治維新政府によって近代国家が築かれたからで、そのため直弼が批判の矢面に立たされたからである。安政の大獄や桜田門外の変は戊午の密勅の結果として起こったにも関わらず、因果関係を知らず「反対派を弾圧した」と教えられてきたからである。

 安政の大獄の前に「戊午の密勅」というものが出されていた。これは孝明天皇が勝手に日米修好通商条約を結んだ江戸幕府に内緒で水戸藩に勅諚(天皇の命令)を送ったのである。内容は「江戸幕府が勝手なことしているが、天皇は攘夷派だから公武合体にしよう」という内容である。密勅と言われのは関白を通した正式な手続きを取っていないからである。水戸・紀州・尾張は徳川御三家だったので、将軍に次ぐ権力を持っていたので、天皇は水戸藩に密勅を送ったのである。将軍継嗣問題で一橋慶喜を推した徳川斉昭は水戸藩の藩主だったから、水戸浪士が井伊直弼を暗殺する理由があった。この井伊直弼の生涯について述べる。

埋木舎
 井伊直弼は彦根藩主・井伊直中の14男として生まれた。彦根藩は徳川家康の重臣・井伊直政が藩祖で、譜代大名の中で最大の領地(35万石)を持っていた。井伊直弼は14男で、しかも側室の子だったので藩主になる可能性はきわめて少なく300俵の部屋住みとして過ごしていた。生活に困らない程度の給料をもらい、兄が子を作らずに死んだ場合に家を継くのが部屋住みの仕事だった。養子の口が見つかれば「部屋住み」から抜け出されるが、直弼にはその機会に恵まれず17才から32才まで部屋住みのままだった。
 直弼は自分の屋敷に埋木舎(うもれぎのや)と名前を付けている。これは咲くことのない埋もれた木に自分を例えたもので、当時の心情を表している。直弼はこのような立場であったが、学問や芸術に優れ、武術の修練にも励んでいた。茶道を学び、茶人としての教養を身につけ、「一期一会」という言葉は直弼が作ったとされている。また能楽にも精通しており、狂言の作者としても活躍している。さらに禅を学んでおり心胆を練り、居合術を修めるなど多方面で才能を磨いていた。また国学者・長野主膳に師事し、日本の歴史や尊王思想についても学んでいる。しかし自分を磨いても発揮する場所はなく、何もできずに世に埋もれてゆくことに屈折した感情を持っていた。

藩主井伊直弼
 このように直弼の前半生は何事もせずにいたが、やがて直弼に運が巡ってくる。1846年、直弼が32才の時に井伊家の藩主直元(兄)が死去し、さらに4年後には藩主・直亮(直弼の兄)が死去したため、直弼が井伊家の家督をついで15代目の彦根藩主となった。この時、直弼は36才だったが藩主として優れた働きを見せた。
名君と呼ばれる
 直弼は父の代からの藩政改革を継続し、領民に対して15万両もの資金を配布し高い評価を得ている。直弼は領民たちの声に耳を傾け、現実に即した政策を行い、領地は順調に発展していった。後に直弼に処刑された吉田松陰も、直弼の評判を聞いて「慈悲深い名君」と賞賛している。直弼は自分が長い間、低い立場に置かれていたため、弱い立場の領民に同情心が強く、それが反映されたのである。藩主になれたからには、よい政治をしなければいけないと思っていた。この頃に学問の師であった長野主膳を彦根藩の藩政に参加させ、自分の腹心として用いた。もし直弼が幕末の動乱期に生まれることなく、平和な時代に彦根藩主として過ごしたのであれば、部屋住みの身分から藩主になり、善政をしいた名君として賞賛のみを残したであろう。しかし幕末の混乱に関わりを持ったことから、直弼は日本中を騒がせ、幕府の衰退を加速させることになった。
幕政に関わる
 直弼は藩主として優れた力量を見せたことから譜代大名の筆頭として幕府の政治にも関わるようになった。1853年にアメリカの海軍提督・ペリーが黒船で来航し、日本に開国を迫った際には、直弼は江戸湾の防備を担当し幕府の中枢に参加していたが、老中の阿部正弘から対応策を問われ「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべき」と主張した。直弼は諸外国と日本の内情を考え開国を主張し、このことから直弼は開国派とされているが、本質的には保守的で内心では鎖国を継続すべきとしていた。直弼はもともとは鎖国論者であり、この開国論は「政治的方便」であった。

 幕府の政治は長らく将軍と譜代大名たちによって行われていた。譜代大名とは徳川家康が将軍になる前から仕えており、家康の出世につれて大名になった家臣を指している。井伊直弼の他に本多氏や酒井氏などがいたが、この体制が幕末になって変わって行った。
 阿部正弘は将軍と譜代大名の旧体制では、日本に押し寄せてくる西洋諸国に対応できないとして、これまでは幕政に関わらなかった徳川家の外様・親藩たちを政治に参加させ意見を求めた。この阿部正弘の措置により、御三家の水戸前藩主の徳川斉昭(なりあき)、徳川一門の越前藩主松平慶永(よしなが)、外様の薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)らが幕政に発言力を持つようになった。越前藩は家康の次男の秀康が藩祖で親藩の筆頭格であり、譜代筆頭の井伊家といがみ合うことになる。

 また水戸藩は家康の十男が藩祖で、将軍に継嗣がいない場合に養子を送り出す立場にあった。松平慶永も徳川斉昭も名君と呼ばれた優れた大名であったが、幕政の混乱を引き起こすことになる。
 譜代大名の筆頭である直弼はこの体制に反発し幕府の中で派閥争いが起きた。直弼たちにすれば自分たちの権限を将軍家大名たちに奪われることになるので反発は必須であった。阿部正弘は良かれと思って幕政への参加者を増やしたが、結果的には内部分裂を引き起こし幕府を弱体させた。さらに直弼の好戦的な性格がこの傾向に拍車をかけた。

徳川斉昭との軋轢
 海防大臣の補佐役になった徳川斉昭は、外国人を追い出す攘夷を主張し、直弼は開国を主張し両者の対立が激しくなった。徳川斉昭は直弼の開国派の老中・松平乗全と松平忠固(ただかた)を罷免するように要求し、大老・阿部正弘は徳川斉昭の強硬な主張をやむなく受け入れるが、今度は直弼が強く反発して、新たな老中を開国派から任命するように要求した。阿部正弘は譜代大名の堀田正睦(まさよし)を老中に任命して、軋轢の解消を図った。阿部正弘は幕政参加者の枠を広げたことで抗争の調整に追われることになる。
 この後も幕府内の争いは収まらず、1857年に阿部正弘が心労から死去すると、代わって老中首座となった堀田正睦は、松平忠固を老中に再任して開国派が勢力を増して行った。

南紀派と一橋派の争い

 その一方で将軍の徳川家定は病弱で嫡男がいなかったため、次期将軍に徳川家一門から養子を取ることになり、幕府内では次期将軍を誰にするかで争いが起きた。直弼らは御三家・紀伊藩主の徳川慶福(よしとみ)を推し、徳川斉昭らは自分の息子・一橋慶喜(よしのぶ)を推したことから、両派の主導権争いが再び激化していった。このことから井伊直弼らは南紀派と呼ばれ、徳川斉昭らは一橋派と呼ばれた。一橋派は一橋慶喜を次期将軍にするため朝廷にまで働きかけ、朝廷の意向が政治を左右するようになった。

 1858年にはアメリカ領事のハリスが日本との通商条約の締結を強く迫って来た。国内ではこの条約締結への意見が割れ、幕府は困難な舵取りをしなければならなかった。当時の老中首座であった堀田正睦が通商条約の許可を天皇に求めるため上京したが、攘夷主義の孝明天皇は許可しなかった。幕府が朝廷に伺った事柄はそのまま承認されるのが常であったが、このような不承認はこれまでなかったことである。孝明天皇は大の外国嫌いで、開国そのもの反対だったので許可を得られるはずはなかった。

 幕府では老中が最高位であるが、非常時には臨時職として大老という地位があった。この時代は西洋諸国が次々と日本に押し寄せ、その強大な軍事力を背景に開国や通商を迫っていたのでまさに非常時だった。このため堀田正睦は越前藩主の松平慶永を大老に推薦し、この難局を切り抜けようとした。松平慶永は斉昭らとともに初めは攘夷を主張していたが、やがて開国派に転じたことから、開国派の堀田正睦にすれば推薦しやすく、さらに松平慶永は温厚で聡明だったことから大老にふさわしいとされた。


大老井伊直弼

 老中堀田は江戸に戻ると一橋派の松平慶永を大老に就かせて難局を乗り切るように将軍徳川家定に進言した。しかしこの時、将軍の徳川家定は「家柄や人柄を考慮すると、井伊直弼こそが大老にふわしい」と主張し、これによって突然、直弼の大老就任が決定した。将軍家定は政治家としての資質が低いと評されが、幕政は将軍の家臣である譜代大名・幕臣が担うという根本原理を理解しており堀田の提案を退けたのである。 井伊直弼にとっては彦根藩主になった時と同じく、当人が知らぬところで地位が引き上げられ、将軍・徳川家定から説得を受けて直弼は大老となった。徳川家定は将軍と譜代大名が幕政を動かす旧来の体制こそが望ましいと考えており、このために直弼に白羽の矢が立ったのである。しかし直弼は実は専制的で独断的な政治家としての性格を持っており、この措置によって日本中に大きな嵐を吹きよせることになる。井伊直弼が大老という最高位についたことが直弼の独断的性格を引き出した。大老になった直弼はその権限を持って次の将軍を慶福(将軍になった際に家茂に改名)に定め将軍跡継ぎ問題に勝利した。

条約締結
 この頃、尊王思想、すなわち天皇こそが日本の支配者という思想を掲げて行動する大名や志士たちが盛んに活動を行っていた。尊王思想は一般教養とも言えるほど浸透していたが、現実的には幕府が圧倒的な実力をもっていたため、尊王思想はあくまで観念論に過ぎなかった。

 しかし西洋諸国が日本を圧迫するようになると、幕府だけでは対応できず、朝廷が日本をひとつにまとめ政治を行うべきとする尊王思想が力を持つようになる。

 鎌倉時代から600年以上も武家が政治をしてきたが、幕府はあくまで「天皇と朝廷から政治を任されている機関」だったので、国の大事にはまず朝廷へお伺いを立てるべきでる。しかし中国で清とイギリス・フランス軍との戦争(アロー戦争)が休戦状態となったため、米国総領事ハリスはアメリカとの通商条約を求め軍艦で神奈川沖までやってきた。最新鋭の船を突きつけられた幕府はパニックに陥った。

 幕府はアメリカとの通商条約の是非を独断では決定できず、天皇の許可を得た上で締結しようとした。しかしメリカ領事のハリスは、アロー戦争で中国の清が敗北し、この戦いのためにアジアにいるイギリス軍やフランス軍が、間もなく日本に攻めてくると危機感を煽り、もし欧州諸国と争いが起きた場合にはアメリカが日本を支援するという条項をつけて条約の締結を迫ってきた。

 当事者のハリスが目の前で要求しているので、返事を急がなくてはいけない。しかし度重なる災害や将軍の後継者問題で混乱している幕府に正しい判断を即座に下せるような人物はいなかった。幕閣の中には勅許を得ずに条約を結んでしまう意見を持つ者が増えていた。

 江戸城内では幕閣が集まり評議が行われ、幕閣の多数が即刻調印を訴えるが、直弼は天皇への説明を優先するよう主張し、天皇への説明まで調印を引き延ばすことで方針が決定した。直弼は幕府が独断で条約を結んだ場合の反発に配慮し、勅許を得てから条約を結ぶべきとしていた。これは後の騒動を考えると正しい選択だったが、幕府の開国派の役人たちは直弼の意を汲んでいなかった。直接ハリスとの交渉を担当していた下田奉行の井上直清と外交官の岩瀬忠震は、直弼に「やむを得ない場合には調印してもよいか」とたずね、「その場合は仕方ないが、可能な限り引き伸ばすように」と直弼は返答した。これによって井上直清は調印の承諾を得たと勝手に解釈し、その日のうちにハリスの元に向かい、直弼の引き伸ばしの命令に反し条約に調印してしまった。
 孝明天皇の勅許を得ないでアメリカと通商条約を結んでしまったことから、直弼が危惧した通り、徳川斉昭など幕府内の反対勢力や、各藩の尊王派の志士たちが激しい非難を浴びせた。またこの条約は関税率が日本にとって不利な条約であったため、このことも非難の的になった。直弼の政敵であり熱心な攘夷派であった斉昭は、尾張藩主の徳川慶勝や松平慶永らと連合し「勅許を得ないままの条約調印は不敬である」とし、直弼を詰問するために不意に江戸城に登城した。直弼はこの時は平身低頭して彼らの言い分を聞く構えを取るが、内心では「では、どうすれば良いのか」とこの屈辱に耐えていた。
 直弼は開国派の役人たちの独断によって、自身の立場を脅かされることになった。彼らが直弼の意に反して勅許前に条約を結んだことで斉昭らに攻撃され、これによって直弼は開国派の役人たちと、斉昭らを同時に強く憎むようになる。この頃幕府では徳川慶福が将軍跡継ぎであることを公表する予定があり、一橋慶喜を将軍後継者に推薦する一橋派は公表を阻止しようと働きかけてきた。幕府が天皇の勅許を得る前に条約調印したことは、直弼率いる政権が天皇の意向を無視したことになり、一橋派は恰好の批判材料を得て、直弼を追及しました。
 それでも、将軍家跡継ぎは徳川慶福と決定すると、一橋派は、開国を快く思わない天皇と手を結んで行動に出る。主君の徳川斉昭が謹慎させられたことに反発した水戸藩士は、朝廷に働きかけ孝明天皇から「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を得ることに成功した。密勅は幕府の政務運営を批判する文書で、正式な手続きをへずに水戸藩に渡った。

 この密勅の中で孝明天皇は朝廷の許可なく日米修好通商条約を締結した幕府を非難し、幕府にその経緯を詳しく説明することを要求し、さらに御三家と諸藩が協力して幕府に攘夷を実行することを求めてきた。また水戸藩に諸国の大名たちにこの声明を通達することが命じられた。そもそも天皇が諸大名に命令をするのは、社会体制を根幹から揺るがすことであり、幕府は密勅に関わった人びとを捕らえ、関係者を厳しく処罰することにした。

 またこの密勅を放置すれば幕府の権力が破壊するため、直弼は水戸藩に勅書の返納を求めた。水戸藩はかねてより政治的な闘争を繰り返していたため、水戸藩を容赦なく叩き潰すことを直弼は心に決めていた。

 直弼はかつての将軍と譜代大名が中心の政体に戻し、鎖国を維持して幕藩体制を取り戻したいという保守反動的な政治思想を抱いていた。そしてこの時の屈辱がきっかけとなり、自分の理想通りの政治体制を取り戻すための大弾圧を決意することになる。
安政の大獄
 幕府には「定められた日以外に無断で江戸城に登城してはいけない」という決まりがあった。直弼は詰問を受けてから数日後、この定めを破ったことを理由に徳川斉昭や慶永らに隠居・謹慎の処分を下し、政治活動を封じ込めた。これが世に言う「安政の大獄」の始まりとなった。この直弼の強行措置に反発した水戸藩士らは京での政治工作を行い事態の逆転を狙い、それが更なる争いを呼び込むことになった。
 水戸藩はあくまでも幕府の家臣なのに、直接天皇とつながりを持つことで、幕藩体制を崩壊させる引き金をひくことになる。幕府の権威は、朝廷から徳川家が征夷大将軍に任じられ、全国の武家を統率することになっていた。しかし将軍家以外の武家が朝廷とつながると、この権威の前提条件が崩れてしまう。実際、長州藩や薩摩藩が直接朝廷とつながりを持つことで幕藩体制は崩壊してゆく。
 このことから水戸藩は天皇を支持する尊王派と、幕府に従うべきとする佐幕派に分裂した。水戸藩は徳川家康の分家だったため佐幕派も多くいたが、尊王思想の研究を水戸光圀の時代から行っており、幕末において思想的に分裂したのである。やがて尊王派は勅書の返納要求を拒むために小金宿に集結し、あくまで直弼に反抗し続ける姿勢を見せた。これを受け直弼は水戸藩への弾圧を強行する。幕府の権威が大きく失墜する瀬戸際であり、直弼の暗殺計画が報告されたため、直弼の取った措置は厳しいものになった。
 直弼は密勅を得るための工作を行った、水戸藩家老の安嶋帯刀を切腹させ、その他にも藩士たちを斬首、遠島などの重罪に処した。

 また直弼は戊午の密勅の首謀者を梅田雲浜(うんびん)と断じ、京都所司代酒井忠義に捕縛させた。老中の間部詮勝(あきかつ)や京都所司代の酒井忠義らを上洛させ、密勅を得るための工作をおこなった梅田雲浜らの尊王派の志士たちを捕縛させた。この時に梅田雲浜が長州藩の尊王思想家の吉田松陰を訪れたことからから、吉田松陰も江戸に召喚され尋問を受けることになった。
 吉田松陰は江戸での尋問されると、訊かれもしないのに老中の拉致計画を告白し処刑された。さらには朝廷の公卿や皇族たちも逮捕され辞職に追い込まれ、尾張藩や福井藩、土佐藩などの藩主たちも謹慎や追放などの刑が下された。御三家の水戸藩や尾張藩のみならず、外様大名である土佐藩らの当主と家臣、朝廷の大臣まで処罰したわけで、この措置は厳しいものだった。さらには直弼の命令に反しハリスとの調印を行った役人たちを左遷し、この直弼の強行措置に反対した老中の間部詮勝らも罷免し直弼は孤立してしまう。

 それは暴君のごときふるまいで、当然のことながら直弼の行動は大きな反発を招いた。直弼が処罰を下した相手は最終的に100名以上になったが、直弼はなぜ暴走してしまったのか、自分以外の全ての者を処罰するようなふるまいをなぜ直弼はとったか。

 直弼は長らく部屋住みとして飼い殺しにされた人生を過ごし、32才になってようやく陽のあたる場所へと出たが、この鬱屈した思いが周囲への攻撃性になったのかもしれない。
 大老という最上級の地位を得たことで、その感情に歯止めが効かなくなってしまったのかもしれない。安政の大獄のあまりに横暴なふるまいから、直弼は「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになる。直弼は鬼と称されるほど恐れられ忌み嫌われたのであろう。
保守的な直弼
 直弼は味方であったはずの開国派の幕閣や役人たちをも遠ざけましたが、これは直弼は従来保守的な傾向が強く、心のうちでは開国することを望んでおらず、機会があれば鎖国体制に戻したい、とすら考えていたことに起因しています。直弼が開国派に属していたのは、ひとえに斉昭と反対の立場を取るためであり、政治的な主義に基づいたものではありませんでした。このため、自身が主導権を握る立場になったら、開国派の人材を遠ざけ始めたのです。一方で、幕府内の攘夷派である斉昭は直弼にとっては政敵であり、このために攘夷派をも弾圧する、という行動に出ています。直弼の行動は政治的な一貫性が見えない支離滅裂なものであり、攘夷派も開国派もどちらも弾圧した結果、幕府の政情をひどく混乱させることになりました。
水戸藩との軋轢
 直弼はこうした弾圧を行う一方で、水戸藩主の徳川慶篤(斉昭の子)に戊午の密勅の返納を再度働きかけた。直弼が何度も催促を繰り返すうちに、ついに慶篤と斉昭が折れ、密勅が幕府を介して朝廷に返納されることになった。しかし水戸藩の尊王派がこれに反対し返納の阻止を図るべく水戸から江戸への道筋に潜伏するなどした。1860年、直弼は1月25日までに密勅を幕府に届けるようにと期限をつけて最後通告を送り、これを守らない場合は水戸藩の領地を全て没収すると言った。この直弼の強硬な措置を受けて水戸藩士たちは激昂し、脱藩した関鉄之介らが中心となって直弼の暗殺計画が立てられた。

 水戸藩は将軍家の御三家であり、これを取り潰すことは専横すぎることであったが、直弼をたしなめる人材がいなかった。
 幕府の人々も水戸藩士たちが直弼を襲撃するのではないかと予想し、幕閣に参画していた吉井藩主の松平信発(のぶおき)が直弼に忠告した。松平信発は水戸藩士たちの襲撃をかわすため、大老を辞任して国許に戻りほとぼりを冷ますことを直弼に勧た。また国許に戻るのが嫌なのであれば、護衛を増やすようにとも勧めたが、直弼はどちらも断っている。護衛の数は法に定められているのに、大老がそれを破るわけにはいかないとの理由であった。また大老の地位を投げ出すつもりもなかった。この頃には彦根藩の家臣たちも直弼の身を案じ、密かに護衛の数を増やしていたが、これを知った直弼は増員をやめさせており、危険が迫っていると知りながら身を守ろうとしなかった。直弼はここで死んでもかまわないと思っていた。自分がやりすぎを自覚し、誰かの手によって歯止めがかかることを期待するような心境だった。
桜田門外の変
 3月3日の午前9時ごろ、直弼は駕籠に乗って外桜田の藩邸を出て江戸城に向かった。この日は江戸城に諸大名が登城して上巳(じょうし)の節句の祝儀が行われる予定であった。直弼は襲撃の情報を得ていたが、大老が登城しないわけにはいかず、予定通り登城の途についた。
 雪の降る中を60名あまりの供が行列を作って行進していたが、桜田門外にさしかかったところで水戸藩の脱藩浪士17名名と薩摩脱藩1名に襲撃を受けた。この時に襲撃者たちはまず駕籠を銃で狙撃し、この銃弾が直弼に命中した。直弼は腰に重傷を負っために動けなくなった。浪士たちが行列に斬り込んで来たが、この時の家臣たちは襲撃を予想していなかったため、その大半は逃げてしまう。残った数少ない家臣たちは浪士を迎え討つが、この日は雪が降っていたため、みな刀の柄が濡れないようにと袋をかぶせており、すぐには刀を抜くことがでなかった。そのために対応が遅れ、浪士たちの思うままに斬り立てられてしまう。それでも二刀流の剣豪・永田太郎兵衛が浪士に重傷を負わせるなど抵抗するが、多勢に無勢で戦闘不能になる。家臣たちは直弼の身を守り切ることができず駕籠に刀を突き立てられ、直弼は引きずり出され首を斬り取られた。この暗殺事件は発生した場所から「桜田門外の変」と呼ばれている。
 彦根藩邸に直弼が襲撃されたということが伝わり、すぐに救援の人員が差し向けられるが、到着した時には直弼が討たれた後で、現場には首のない遺体が横たわっているだけだった。彦根藩士たちは直弼や討ち死にした家臣たちの遺体を収容し、血痕の残る雪までも回収して事件の痕跡を消そうとした。当主が襲撃されて討たことは、武家の恥であり、隠蔽しようとしたのである。
 直弼の首は薩摩浪士の有村次左衛門の手によって運ばれたが、有村は重傷を負っていたため、逃走の後に若年寄の遠藤胤統(たねのり)の屋敷前で自害して果て、首は門の前に放置された。このため直弼の首は若年寄の遠藤家に収容された。これを知った井伊家は直弼の首の引き渡しを要請するが、遠藤家は幕府の検視が行われなければ引き渡せない、と断っている。井伊家、遠藤家、幕府の三者で協議が行われ討ち死にした家来の首と偽って直弼の首を返してもらい、遺体と縫い合わせた上で、表向きは「直弼は負傷して自宅療養中である」と幕府に届けた。幕府にとっては大老の地位にあるものが白昼堂々と討たことはあってはならないことであり、幕府はこの隠蔽工作に同調する。幕府は「直弼は急病のため死去」したことにし、嫡男・直憲(なおのり)が井伊家を相続をすることになった。このため、直弼の死去は3月3日だったが、記録上は3月28日が直弼の命日になっている。

悲惨な結果
 襲撃した脱藩浪士たちは重傷を追って自刃するか捕縛されて処刑され、明治まで生き残ったのは2名ほどであった。彦根藩側も直弼を守らずに逃げた藩士たちを処刑しており、この事件に関わった者はほとんどが死亡している。このように直弼の行った大弾圧は彦根藩と水戸藩のどちらにも大きな傷跡を残し、両者はいずれも幕末の表舞台から姿を消していくことになる。大老が白昼堂々と御三家の浪士に討たれ大事件により、幕府の権威は大きく傷ついた。また隠蔽工作が行われたが昼間に街中で発生した事件なので、目撃者も多数いて隠し切れるものではなかった。幕府内部の権力争いがこの事態を引き起こし天下に醜態をさらしてしまう。このため御三家の水戸徳川家と譜代筆頭の井伊家の関係は修復不可能となり、幕府を支える一門衆と譜代大名が協力し合うことは皆無となり、その実力を急速に衰えさせた。専制的な政策によって幕府の権力を強化しようとした直弼の計画は頓挫し、以後、各地で尊王派が力を強めていき、幕府はその権力を奪われることになる。

一橋派が権勢を握る
 直弼の死により譜代大名の勢力が衰退し、1862年には斉昭の子である一橋慶喜が将軍の後見職に、松平慶永が政治総裁職に就くなど幕政の主導権を握っていった。彦根藩は10万石の領地削減の処分が下され、以後、井伊家が幕末の幕政を担うことはなくなった。幕府軍と倒幕軍の「鳥羽・伏見の戦い」において彦根藩は幕府軍の先鋒を務めるが、彦根藩は一橋派に牛耳られた幕府への忠誠心を失い倒幕勢力に寝返っている。薩摩藩とともに近畿各地の守備にあたり、倒幕の実現に手を貸すことになる。こうして直政以来の名門であった井伊家は、主君の徳川家の権力の喪失に加担し、明治時代においても華族(伯爵)として存続する。このような流れになったのは、ひとえに直弼の強圧的な政治活動の結果であり、直弼は幕府の衰退を招いてしまっただけになった。
 直弼にはそのつもりはなかったが、徳川幕府の終焉を導いたことになる。このことから直弼は幕末の大老にはふさわしくない人物になるが、複雑な政情に対し粘り強く各派と交渉にあたり、幕府の存続と国難への対処するため強硬な弾圧政策を行ったが、大きな反発を招き取り返しのつかない亀裂を幕府に発生させてしまった。長州藩はこれまでは幕府に対しては従順な姿勢を取っていたが、吉田松陰を処刑したことで、その弟子たちが長州藩を反幕府勢力に替え、倒幕運動の主要な役割を果たすことなった。日米修好通商条約を結び安政の大獄を行ったことで、幕末の情勢に大きな影響を及ぼしたことは確かであるが、このことが本人が反動を引き起こすことになった。直弼は保守的な政治思想を持っていて、かつ果断な性格の持ち主であったが、この状況下においては大老を務めるには運が悪しぎたといえる。
井伊直弼と徳川斉昭
 直弼と激しく対立した水戸藩主・徳川斉昭は、直弼と似たような境遇で育った。徳川斉昭も部屋住みとして30才までを過ごしており、その間に学問や武術に秀でたところを見せ、砲術や薙刀にすぐれていた。兄の早世によって水戸藩主となってからは藩政改革を成功させ、名君と呼ばれていた。気性が激しかったことから「烈公」という異名を持っているが、これも「赤鬼」と呼ばれた直弼に似たところがあった。両者の育った環境が似ており、性格も能力も似ていたため、よりいっそう反発し合うようになり、それが幕府内部の分裂を激しいものにした。徳川斉昭は直弼によって失脚した後、直弼と同年に心臓病のために急逝している。

井伊直弼と村山加寿江(かずえ)

 村山加寿江(かずえ)は井伊直弼がまだ部屋住み時代その寵愛を受け、後に井伊直弼が幕府の大老に就任「安政の大獄」を断行した際、これを実質的に指揮した謀臣・国学者・長野主膳の愛人でもあった。
 加寿江の場合、閨房で待つ単なる愛人ではなく、主膳を助けてその謀者となって息子の帯刀とともに、京の志士の動静探索に力を尽くした。そのため薩長両藩の志士に襲われ、三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩生き晒しの辱めを受けた。加寿江の生没年は1810(文化7)~1876年(明治9年)。
 村山加寿江は江州(滋賀県)多賀神社の神主の娘。幼少の頃より美人の誉れ高く、踊・音曲を好み祇園の芸妓となったが、金閣寺長老永学に落籍され常太郎(帯刀)を産んだ。のち同寺の代官・多田源左衛門の妻となったが、その後離縁となり彦根に戻ってまだ部屋住み時代の井伊直弼の寵愛を受けた。直弼が家督相続するころに暇を出され、直弼の知恵袋と目されていた国学者・長野主膳がその後始末を任された。
 加寿江は容色にも恵まれ、文章にも優れていた。九条家・今城家などにも出入りしたほどだから知恵者の長野主膳とも意気投合して深い関係におちた。
 その後、時局が急展開し、幸運にも彦根藩主となった井伊直弼が幕閣の大老に就任。安政の大獄が断行されると、これを実質的に指揮した長野主膳を、加寿江は女だてらに彼の片腕となって助け、息子の多田帯刀とともに西南雄藩の志士の動静探索に力を尽くした。
 これが後に勤王派の志士たちの耳に入り、その中の過激な連中から逆襲されることになった。1862年洛西・一貫町の隠れ家で長野主膳一味として薩長両藩の志士に襲われ、天誅のもとに息子の帯刀は斬殺され、加寿江は三条大橋の橋柱に縛られ、三日三晩、生き晒しの辱めを受けた。
 そのとき尼僧に助けられ、彦根の清涼寺で剃髪して尼僧となった。その後、金福寺に移り留守居として入った。彼女は妙寿尼と名乗り、ここで数奇な生涯を閉じた。祇園の芸妓だった彼女が、後に日本国を動かす人物の寵愛を受け、さらに女だてらに天下・国家を動かしていた人物の片腕として働くという、この当時の女性にはほとんど経験できない人生を生きた。