井伊直虎

 井伊家と言えば徳川四天王の井伊直政や、その子の江戸幕府の大老であった井伊直弼が有名である。そのため井伊家は「井伊直政から始まる、あるいは彦根から始まる」と考えがちであるが、井伊家は1000年を超える歴史があり、最初の600年間は浜名湖の北の井伊谷(いいのや)の地を支配していた。

 多くの人は井伊直虎という猛々しい名前を見て男性だと思うであろうが、井伊直虎は女性で、その地の当主「女地頭」となると激しい動乱が続く戦国時代の中で、井伊家滅亡の危機をかいくぐったのである。

 1536年頃、井伊直虎は22代城主・井伊直盛の娘として井伊谷で誕生した。直虎の幼名は不明であるが、母は新野親矩の妹である。新野家は今川家一族の出身で、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元の親戚になる。井伊家は駿河の今川義元の勢力に属していた。

井伊直親との婚約
 その当時、地方に根づきその地盤を領地として支配した武士を「国人」あるいは「国人領主」とよんだ。井伊家も国人のひとりで集落を治め、質素ながらも城を構えていた。井伊家の築いた小高い山城の跡が残されている(井伊谷城跡)。井伊家は戦国大名今川氏の重臣として井伊谷(いいのや)(浜松市北区)を支配していた。

 父・井伊直盛には娘の直虎の以外に子がいなかったため、直盛の兄弟の井伊直親(亀之丞)を婿養子に迎え家督を継がせるつもりでいた。直虎が僅か5歳のとき直親と許嫁となり、いずれ井伊家を盛りたてるように幼い頃から教えられていた。しかしその直親の父が今川義元への謀反の疑いで自害させられ、幼い直親を亡き者にしようと暗殺団が送り込まれた。それに気づいた直親の親族が、間一髪で井伊家の領地から直親を脱出させ信濃の松源寺に逃れさせた。

 井伊家では井伊直親の命を守るため、所在も生死も秘密にしていた。直親の許嫁であった直虎は剃髪して龍潭寺(りょうたんじ)の南渓(なんけい)和尚の弟子となり出家した。次郎法師と名乗り尼という字をつけなかった。この「次郎」と「法師」は井伊家の相続者が名のる名前であり、この時点では直虎に将来の後継者の資格があったことになる。井伊直虎が出家したのは、婚約していた直親の謀反への関与から逃れるためだった。

 また禅宗では尼になると二度と俗世には戻れない定めがあった。しかし直虎は出家したため結婚はできなかったが、俗世に戻ることができた。それは直虎は僧侶(男)として出家したからである。次郎法師の名前が示すように家督相続などで実家が危機に陥ったときに備え、俗世に戻ることができる僧侶となったのである。しかし僧侶でも結婚は禁止されていたため、直虎は生きて戻った直親との関係に苦しむことになる。

 女城主など本当かと疑いを持つ者が多いと思われるが、戦国時代には男子がおらず女子だけだった場合には女子に家督が譲られていたのである。かつて「女が男のやっている仕事に口出しをすると失敗する」あるいは「三従の教え」として女は子どものときは父に、結婚してからは夫に、老いてからは子に従うとされてきたが、そのような男尊女卑の考え方は江戸時代に入ってからで、戦国時代までは女性も男性と対等の扱いを受けていたのである。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは「ヨーロッパでは妻は夫の後を歩くが、日本では夫が妻の後を歩く」「ヨーロッパでは夫婦の財産は共有であるが、日本では各々が自分のわけまえを所有し、妻が夫に高利で貸しつける」と書いたほどである。1555年、やがて直親は疑いが晴れ、井伊谷にもどり今川氏に復帰するが、直親は逃亡先の信濃にいる間に元服して奥山朝利の娘・おひよを正室に迎えていた。そのため直虎は直親と結婚できず、婚期を逸することになる。直虎は還俗せず生涯未婚であった。

 今川義元に直親の父の謀反を告げたのは井伊家の家老小野道高であった。小野道高は家老でありながら、主家をおびやかすほどの勢力を持ち、井伊家を追い出して井伊谷を支配することを狙っていた。そのため井伊家を陥れる策謀を繰り返していた。
今川義元と父の戦死
 今川家(駿河国)は井伊谷(遠江)の隣だったので、井伊一族は常に今川家から圧迫を受けていた。1560年、今川義元が大軍を率いて織田信長の尾張に侵攻した。今川軍は2万の大軍で織田軍は5千程度だったが織田信長の奇襲によって今川軍は壊滅し、今川義元の命令での出陣していた直虎の父・井伊直盛も戦死した。そのため直親が井伊家を継ぐことになる。しかし2年後に、直親が三河で自立しはじめた徳川家康と内通し謀反の疑いがかけられる。

 直親は駿河に申し開きに向かう途中、今川氏真の家臣に襲撃され殺害された。これは小野道好(道高の子)の讒言によるもので、小野直親親子は二代にわたって井伊家に災いをもたらし、小野家は井伊家の家臣でありながら仇敵となった。直親が暗殺され直虎ら井伊一族は累が及びかけたが、母・祐椿尼の兄(伯父)の新野親矩により救われた。しかし2人の当主を失い井伊家の勢力は危うくなった。

次郎法師としての統治
 1563年、直虎の曽祖父・井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死した。死因ははっきりしないが小野道好によって暗殺された可能性がある。その他、重臣の中野直由や親族の新野親矩が相次いで戦死し、井伊家の勢力は急速に衰えてゆく。井伊家の菩提寺である龍潭寺の住職・南渓瑞聞は直親の子・虎松(井伊直政)を鳳来寺に移した。

 井伊一族に後を継ぐ男子がいくなったため、1565年に次郎法師は還俗して井伊家の当主となり名を直虎と変えた。しかしながら井伊家の系図には当主として直虎の記録がない。これは虎松が成人するまで井伊家を存続させるための中継ぎだったとされている。かつて謀殺された直親には虎松という嫡男がいたが、まだ2歳と幼かったため井伊家の当主になれる状態ではなかった。この虎松が徳川四天王・井伊直政である。
 その当時の龍潭寺への寄進状に直虎の印「次郎法師」が捺してある。龍潭寺は井伊家の菩提寺で、公的な印判状には直虎は「次郎法師」と名のっていたことが分かる。法師として龍潭寺を中心とした宗教に関わる権利、さらには次郎として井伊家の惣領としての権勢を手に入れ、宗教的な権威と実質的権力を持っていたことが分かる。

 1566年には曽祖父・直平の菩提を弔うために川名の福満寺に鐘を寄進している。遠江は今川氏の領地のままであったが、今川義元の死によって今川氏の勢力が低下し、遠江の領主たちは今川家に仕えるべきか混迷を深めていた。そのため遠江の領主同士の戦いが多く発生し、その流れの中で井伊家の武将たちは次々と戦死していった。

 直虎は仮の当主となってからも出家の際は「次郎法師」の名を使い続けた。これは井伊家の惣領の通称であり、同時に出家した僧としての名前でもあった。「次郎法師」の名によって井伊家の勢力と、宗教的な権威を合わせることで井伊谷統治の正当性を高めようとする意図があった。直虎は井伊谷の領主たちの領土を安堵して統治を進めるが、再び小野からの妨害を受けることになる。

徳政令をめぐる争い
 1566年、今川氏真が井伊谷に借金を棒引きにする「徳政令」を出すようにと命じた。桶狭間の戦いで今川義元を失った今川領は混迷を極めており「徳政令」は領民たちへの人気取りの政策であった。この「徳政令」の実施を今川氏真は直虎に迫ってきたが、直虎は氏真の徳政をはねつけた。直虎は貸し主との結びつきが強かったため2年間「徳政令」を凍結し実行しなかった。

 しかし今川氏真や借り方である農民たちと結託した小野道好からの圧力を受け「徳政令」を了承せざるを得なくなるる。直虎と商人による徳政令拒否派と家老・小野道好と結ぶ祝田禰宜ら徳政令要求派が対立し、この状況は今川氏にとって井伊家に介入する絶好の機会となった。やがて徳政令の命令に抵抗できず、徳政令の施行を認めている。この時の徳政令の書状には次郎直虎と領主の名が記されている。小野道好の専横は続き、1568年には居城である井伊谷城を奪ってしまう。


徳川家康の介入
 井伊家・宗主の直政は新野親矩の叔父が住職である浄土寺(浜松市中区)で出家し、遠江から三河の山中にある鳳来寺に移った。ここで小野道好の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(宇利城の近藤康用・柿本城の鈴木重時・都田城の菅沼忠久)は密かに徳川方に寝返り、家康の遠江侵攻時には道案内を買って出て井伊谷城攻略が始まると、小野政次は城から逃亡して戦わずして陥落した。

 直虎は家康に嘆願して、小野道好がかつて直親を讒言によって陥れた罪を問い処刑させた。小野道好は徳川家と敵対している今川家との結びつきが強く、それを利用して井伊家を苦しめてきたことを述べたのである。

 小野政次は徳川方に捕えられ処刑され、鎮魂のため但馬社が建てられた。徳川家康からすれば小野道好は遠江支配の上で邪魔だった。徳川家は今川家から遠江を奪おうとしており、また井伊家は家康の妻・築山殿と縁戚関係にあったため、井伊家を取り立てるほうが家康にとっては好都合だった。このように直虎は政治的な手段によって、井伊を苦しめた小野道好との対立に決着をつけた。しかし浜名湖の気賀では強い反発があり、1569年に行われた「堀川城の戦い」では多くの戦死者が出た。気賀の寺の僧も死んだので、葬儀の手が足りず、南渓和尚と直虎が井伊谷から来て死者たちを弔った。


武田の侵攻
 徳川家が遠江を支配し、井伊家はその傘下に入るが、1572年に武田信玄の遠江侵攻が始まり武田軍が信濃から井伊谷に攻めてきた。この時、直虎は居城・井伊谷城を武田軍の武将・山県昌景に明け渡した。山県昌景は「赤備え」と呼ばれた精強な軍勢を率いていたが、この「赤備え」の名称を後に井伊家が引き継ぐことになる。
 再び城を失った直虎は、徳川家の浜松城に退去したが、武田軍の侵攻は続き、家康軍も「三方ヶ原の戦い」で大敗する。しかし武田信玄の病死によって武田軍は撤退し、窮地を脱することができた。これにより直虎は再び井伊谷城を取り戻すことになった。

 

高瀬姫
 高瀬は信濃から井伊谷にやってくる少女となりますが、本人は亡き井伊直親の娘(隠し子)で井伊直政と腹違いの兄弟となる。実際に亀之丞が逃れていた信濃・高森の松岡城にある松源寺にて亀之丞(井伊直親)は、お千代と言う女性に「笛」を教えて仲良くなり、子を設けたという伝承がある。飯田の子に「短刀」を残して井伊谷に戻ったとされている。もし家督を継いだ井伊直親の娘であれば大変なことである。井伊家にとって大きな問題となるため家中は動揺した。
 高瀬姫は井伊直政の異母姉として、徳川家康の命もあり、井伊直政の家臣になった川手良則の正室になった。川手良則は井伊直政の家臣として地位の高い家老であったとされている。しかし嫡男・川手良行は大坂夏の陣にて28歳で討死し、その子・川手良富も16歳で死去したため川手家は断絶した。なお高瀬姫の墓は、彦根・長純寺にある。詳しいことはわからない。


虎松の仕官
 直虎は直親の遺児・虎松(直政)を養子として育てた。虎松は一時期は小野道好に命を狙われ、出家して隣国の三河の寺に預けられていたが、親族たちが力を合わせて虎松を守り武士として成長させた。

 井伊直親の13回忌に虎松(井伊直政)が井伊谷へ帰って来た。そこで直虎は南渓和尚と相談して、虎松を母親の再婚相手・松下氏の養子に出すことにする。直親が今川と徳川を両天秤にかけて「今川を離れて徳川につきたい」との思いを直虎は知っていたのである。これで約600年間続いていた名門・井伊家は絶え「松下虎松」が誕生した。

 1575年、直虎41歳のとき、許嫁の忘れ形見である直政が15歳になると直虎は行動を起こした。それは家康に家臣として取り立てもらうことだった。しかしそれを訴えようにも流浪の家の者が大名家康と会えるはずはなかった。
 そこで直虎は家康の行動を調べ上げ、家康が趣味の鷹狩りに赴く道すがら、直政が家康の目に留まる機会をつくり出した。1575年2月15日、直虎は手縫いの衣装を直政に身につけさせ、手には戦勝祈願の4本の旗(四神旗)を持たせ、道端に立たせて鷹狩りの家康一行が通りかかるのを待った。そして家康がやって来ると深々と頭を下げた。古来から井伊家と徳川家が関わりがあることを伝え家康に仕えたいと願い出た。家康は只者ではないと虎松を浜松城へ連れて行くと、桶狭間で共に先鋒を務めた井伊直盛の養子であり、家康に内通したために誅殺された井伊直親の実子と知らされた。家康は驚き「召し抱えないわけにはいかない」と言って直政に300石を与えた。

 虎松は井伊家の再興を許してもらい松下虎松から「井伊万千代」と名を変えた。その後めきめきと頭角を現し、あるときは家康が刺客に襲われ間一髪のところを救い、またあるときは宿敵・武田家との合戦で獅子奮迅の働きをした。

 その戦いぶりは敵だけでなく味方をも驚かせ、その後井伊万千代は戦場では赤備え武士団を率いて「井伊の赤鬼」と恐れられ、徳川四天王と称されるまでに出世し、彦根藩の藩祖となった。

 1582年6月2日、京都で明智光秀による「本能寺の変」が起きた。この直後、家康に付き従っていた直政は「神君伊賀越え」の働きにより、孔雀の羽根でできた陣羽織を賜わっている。

 井伊直虎は井伊家を滅亡の危機から切り抜け、徳川家の元で井伊家は安定した地位を得ることになった。直政の活躍に安心したのか、同年8月26日、直虎は享年46で死去した。墓と位牌は自耕庵(妙雲寺)にある。同年冬、直政は元服し「この姿をおば上(直虎)に見せたかった」と涙したと伝わっている。


その後の井伊家
 直虎は急場しのぎとして井伊家の当主となったが、厳しい情勢の中2度も城を失いながらも滅亡せず井伊家を存続させた。消えかかった井伊家をつないだのが女城主・直虎であった。武将にとっては城を失うことは命や立場を失うことになるが、相手が強勢であれば退避し、情勢が変化するのを待つ柔軟な行動が取れたのは女性ならではといえる。直虎の井伊家存続のための苦闘はこのように大きな実りを得た。直虎は女性でありながら当主になったことで有名であるが、史料は少なくその生涯について正確な記録は乏しい。

 直虎は女性であったため宗主として系図には載っていないが、実質的に井伊家存続の危機を救った人物である。創作の部分もあるだろうが、直虎の墓は直親の隣に建てられている。

 直虎の死後、万千代が井伊直政を名のり、家康の元で活躍する。井伊直政は戦功だけでなく外交や内政面でも優れ、家康にとって大切な存在になった。家康の養女と結婚し家臣筆頭にまで上りつめた。井伊家はこの直政の元で彦根藩30万石の大名にまで上りつめる。この井伊家は江戸時代彦根藩主として譜代筆頭として幕末の直弼まで5人の大老を出している。

龍潭寺にある井伊氏一族の墓。左から直政、おひよ、直親、直虎、直虎の母祐椿尼。直虎の墓は、結ばれなかった愛しい許嫁・直親の墓の隣に寄り添うように並んでいる。