井伊直虎

 井伊家と言えば徳川四天王の井伊直政や、その子の江戸幕府の大老であった井伊直弼が有名である。そのため井伊家は「井伊直政から始まる、あるいは彦根から始まる」と考えがちであるが、井伊家は1000年を超える歴史があり、最初の600年間は浜名湖の北の井伊谷(いいのや)の地を支配していた。

 多くの人は井伊直虎という猛々しい名前を見て男性だと思うであろうが、井伊直虎は女性で、その地の当主「女地頭」となると激しい動乱が続く戦国時代の中で、井伊家滅亡の危機をかいくぐったのである。

 1536年頃、井伊直虎は22代城主・井伊直盛の娘として井伊谷で誕生した。直虎の幼名は不明であるが、母は新野親矩の妹である。新野家は今川家一族の出身で、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元の親戚になる。井伊家は駿河の今川義元の勢力に属していた。

井伊直親との婚約
 その当時、地方に根づきその地盤を領地として支配した武士を「国人」あるいは「国人領主」とよんだ。井伊家も国人のひとりで集落を治め、質素ながらも城を構えていた。井伊家の築いた小高い山城の跡が残されている(井伊谷城跡)。井伊家は戦国大名今川氏の重臣として井伊谷(いいのや)(浜松市北区)を支配していた。

 父・井伊直盛には娘の直虎の以外に子がいなかったため、直盛の兄弟の井伊直親(亀之丞)を婿養子に迎え家督を継がせるつもりでいた。直虎が僅か5歳のとき直親と許嫁となり、いずれ井伊家を盛りたてるように幼い頃から教えられていた。しかしその直親の父が今川義元への謀反の疑いで自害させられ、幼い直親を亡き者にしようと暗殺団が送り込まれた。それに気づいた直親の親族が、間一髪で井伊家の領地から直親を脱出させ信濃の松源寺に逃れさせた。

 井伊家では井伊直親の命を守るため、所在も生死も秘密にしていた。直親の許嫁であった直虎は剃髪して龍潭寺(りょうたんじ)の南渓(なんけい)和尚の弟子となり出家した。次郎法師と名乗り尼という字をつけなかった。この「次郎」と「法師」は井伊家の相続者が名のる名前であり、この時点では直虎に将来の後継者の資格があったことになる。井伊直虎が出家したのは、婚約していた直親の謀反への関与から逃れるためだった。

 また禅宗では尼になると二度と俗世には戻れない定めがあった。しかし直虎は出家したため結婚はできなかったが、俗世に戻ることができた。それは直虎は僧侶(男)として出家したからである。次郎法師の名前が示すように家督相続などで実家が危機に陥ったときに備え、俗世に戻ることができる僧侶となったのである。しかし僧侶でも結婚は禁止されていたため、直虎は生きて戻った直親との関係に苦しむことになる。

 女城主など本当かと疑いを持つ者が多いと思われるが、戦国時代には男子がおらず女子だけだった場合には女子に家督が譲られていたのである。かつて「女が男のやっている仕事に口出しをすると失敗する」あるいは「三従の教え」として女は子どものときは父に、結婚してからは夫に、老いてからは子に従うとされてきたが、そのような男尊女卑の考え方は江戸時代に入ってからで、戦国時代までは女性も男性と対等の扱いを受けていたのである。イエズス会宣教師のルイス・フロイスは「ヨーロッパでは妻は夫の後を歩くが、日本では夫が妻の後を歩く」「ヨーロッパでは夫婦の財産は共有であるが、日本では各々が自分のわけまえを所有し、妻が夫に高利で貸しつける」と書いたほどである。1555年、やがて直親は疑いが晴れ、井伊谷にもどり今川氏に復帰するが、直親は逃亡先の信濃にいる間に元服して奥山朝利の娘・おひよを正室に迎えていた。そのため直虎は直親と結婚できず、婚期を逸することになる。直虎は還俗せず生涯未婚であった。

 今川義元に直親の父の謀反を告げたのは井伊家の家老小野道高であった。小野道高は家老でありながら、主家をおびやかすほどの勢力を持ち、井伊家を追い出して井伊谷を支配することを狙っていた。そのため井伊家を陥れる策謀を繰り返していた。
今川義元と父の戦死
 今川家(駿河国)は井伊谷(遠江)の隣だったので、井伊一族は常に今川家から圧迫を受けていた。1560年、今川義元が大軍を率いて織田信長の尾張に侵攻した。今川軍は2万の大軍で織田軍は5千程度だったが織田信長の奇襲によって今川軍は壊滅し、今川義元の命令での出陣していた直虎の父・井伊直盛も戦死した。そのため直親が井伊家を継ぐことになる。しかし2年後に、直親が三河で自立しはじめた徳川家康と内通し謀反の疑いがかけられる。

 直親は駿河に申し開きに向かう途中、今川氏真の家臣に襲撃され殺害された。これは小野道好(道高の子)の讒言によるもので、小野直親親子は二代にわたって井伊家に災いをもたらし、小野家は井伊家の家臣でありながら仇敵となった。直親が暗殺され直虎ら井伊一族は累が及びかけたが、母・祐椿尼の兄(伯父)の新野親矩により救われた。しかし2人の当主を失い井伊家の勢力は危うくなった。

次郎法師としての統治
 1563年、直虎の曽祖父・井伊直平が今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めの最中に急死した。死因ははっきりしないが小野道好によって暗殺された可能性がある。その他、重臣の中野直由や親族の新野親矩が相次いで戦死し、井伊家の勢力は急速に衰えてゆく。井伊家の菩提寺である龍潭寺の住職・南渓瑞聞は直親の子・虎松(井伊直政)を鳳来寺に移した。

 井伊一族に後を継ぐ男子がいくなったため、1565年に次郎法師は還俗して井伊家の当主となり名を直虎と変えた。しかしながら井伊家の系図には当主として直虎の記録がない。これは虎松が成人するまで井伊家を存続させるための中継ぎだったとされている。かつて謀殺された直親には虎松という嫡男がいたが、まだ2歳と幼かったため井伊家の当主になれる状態ではなかった。この虎松が徳川四天王・井伊直政である。
 その当時の龍潭寺への寄進状に直虎の印「次郎法師」が捺してある。龍潭寺は井伊家の菩提寺で、公的な印判状には直虎は「次郎法師」と名のっていたことが分かる。法師として龍潭寺を中心とした宗教に関わる権利、さらには次郎として井伊家の惣領としての権勢を手に入れ、宗教的な権威と実質的権力を持っていたことが分かる。

 1566年には曽祖父・直平の菩提を弔うために川名の福満寺に鐘を寄進している。遠江は今川氏の領地のままであったが、今川義元の死によって今川氏の勢力が低下し、遠江の領主たちは今川家に仕えるべきか混迷を深めていた。そのため遠江の領主同士の戦いが多く発生し、その流れの中で井伊家の武将たちは次々と戦死していった。

 直虎は仮の当主となってからも出家の際は「次郎法師」の名を使い続けた。これは井伊家の惣領の通称であり、同時に出家した僧としての名前でもあった。「次郎法師」の名によって井伊家の勢力と、宗教的な権威を合わせることで井伊谷統治の正当性を高めようとする意図があった。直虎は井伊谷の領主たちの領土を安堵して統治を進めるが、再び小野からの妨害を受けることになる。

徳政令をめぐる争い
 1566年、今川氏真が井伊谷に借金を棒引きにする「徳政令」を出すようにと命じた。桶狭間の戦いで今川義元を失った今川領は混迷を極めており「徳政令」は領民たちへの人気取りの政策であった。この「徳政令」の実施を今川氏真は直虎に迫ってきたが、直虎は氏真の徳政をはねつけた。直虎は貸し主との結びつきが強かったため2年間「徳政令」を凍結し実行しなかった。

 しかし今川氏真や借り方である農民たちと結託した小野道好からの圧力を受け「徳政令」を了承せざるを得なくなるる。直虎と商人による徳政令拒否派と家老・小野道好と結ぶ祝田禰宜ら徳政令要求派が対立し、この状況は今川氏にとって井伊家に介入する絶好の機会となった。やがて徳政令の命令に抵抗できず、徳政令の施行を認めている。この時の徳政令の書状には次郎直虎と領主の名が記されている。小野道好の専横は続き、1568年には居城である井伊谷城を奪ってしまう。
徳川家康の介入
 井伊家・宗主の直政は新野親矩の叔父が住職である浄土寺(浜松市中区)で出家し、遠江から三河の山中にある鳳来寺に移った。ここで小野道好の専横に反旗を翻した井伊谷三人衆(宇利城の近藤康用・柿本城の鈴木重時・都田城の菅沼忠久)は密かに徳川方に寝返り、家康の遠江侵攻時には道案内を買って出て井伊谷城攻略が始まると、小野政次は城から逃亡して戦わずして陥落した。

 直虎は家康に嘆願して、小野道好がかつて直親を讒言によって陥れた罪を問い処刑させた。小野道好は徳川家と敵対している今川家との結びつきが強く、それを利用して井伊家を苦しめてきたことを述べたのである。

 小野政次は徳川方に捕えられ処刑され、鎮魂のため但馬社が建てられた。徳川家康からすれば小野道好は遠江支配の上で邪魔だった。徳川家は今川家から遠江を奪おうとしており、また井伊家は家康の妻・築山殿と縁戚関係にあったため、井伊家を取り立てるほうが家康にとっては好都合だった。このように直虎は政治的な手段によって、井伊を苦しめた小野道好との対立に決着をつけた。しかし浜名湖の気賀では強い反発があり、1569年に行われた「堀川城の戦い」では多くの戦死者が出た。気賀の寺の僧も死んだので、葬儀の手が足りず、南渓和尚と直虎が井伊谷から来て死者たちを弔った。


武田の侵攻
 徳川家が遠江を支配し、井伊家はその傘下に入るが、1572年に武田信玄の遠江侵攻が始まり武田軍が信濃から井伊谷に攻めてきた。この時、直虎は居城・井伊谷城を武田軍の武将・山県昌景に明け渡した。山県昌景は「赤備え」と呼ばれた精強な軍勢を率いていたが、この「赤備え」の名称を後に井伊家が引き継ぐことになる。
 再び城を失った直虎は、徳川家の浜松城に退去したが、武田軍の侵攻は続き、家康軍も「三方ヶ原の戦い」で大敗する。しかし武田信玄の病死によって武田軍は撤退し、窮地を脱することができた。これにより直虎は再び井伊谷城を取り戻すことになった。
虎松の仕官
 直虎は直親の遺児・虎松(直政)を養子として育てた。虎松は一時期は小野道好に命を狙われ、出家して隣国の三河の寺に預けられていたが、親族たちが力を合わせて虎松を守り武士として成長させた。

 井伊直親の13回忌に虎松(井伊直政)が井伊谷へ帰って来た。そこで直虎は南渓和尚と相談して、虎松を母親の再婚相手・松下氏の養子に出すことにする。直親が今川と徳川を両天秤にかけて「今川を離れて徳川につきたい」との思いを直虎は知っていたのである。これで約600年間続いていた名門・井伊家は絶え「松下虎松」が誕生した。

 1575年、直虎41歳のとき、許嫁の忘れ形見である直政が15歳になると直虎は行動を起こした。それは家康に家臣として取り立てもらうことだった。しかしそれを訴えようにも流浪の家の者が大名家康と会えるはずはなかった。
 そこで直虎は家康の行動を調べ上げ、家康が趣味の鷹狩りに赴く道すがら、直政が家康の目に留まる機会をつくり出した。1575年2月15日、直虎は手縫いの衣装を直政に身につけさせ、手には戦勝祈願の4本の旗(四神旗)を持たせ、道端に立たせて鷹狩りの家康一行が通りかかるのを待った。そして家康がやって来ると深々と頭を下げた。古来から井伊家と徳川家が関わりがあることを伝え家康に仕えたいと願い出た。家康は只者ではないと虎松を浜松城へ連れて行くと、桶狭間で共に先鋒を務めた井伊直盛の養子であり、家康に内通したために誅殺された井伊直親の実子と知らされた。家康は驚き「召し抱えないわけにはいかない」と言って直政に300石を与えた。

 虎松は井伊家の再興を許してもらい松下虎松から「井伊万千代」と名を変えた。その後めきめきと頭角を現し、あるときは家康が刺客に襲われ間一髪のところを救い、またあるときは宿敵・武田家との合戦で獅子奮迅の働きをした。

 その戦いぶりは敵だけでなく味方をも驚かせ、その後井伊万千代は戦場では赤備え武士団を率いて「井伊の赤鬼」と恐れられ、徳川四天王と称されるまでに出世し、彦根藩の藩祖となった。

 1582年6月2日、京都で明智光秀による「本能寺の変」が起きた。この直後、家康に付き従っていた直政は「神君伊賀越え」の働きにより、孔雀の羽根でできた陣羽織を賜わっている。

 井伊直虎は井伊家を滅亡の危機から切り抜け、徳川家の元で井伊家は安定した地位を得ることになった。直政の活躍に安心したのか、同年8月26日、直虎は享年46で死去した。墓と位牌は自耕庵(妙雲寺)にある。同年冬、直政は元服し「この姿をおば上(直虎)に見せたかった」と涙したと伝わっている。
その後の井伊家
 直虎は急場しのぎとして井伊家の当主となったが、厳しい情勢の中2度も城を失いながらも滅亡せず井伊家を存続させた。消えかかった井伊家をつないだのが女城主・直虎であった。武将にとっては城を失うことは命や立場を失うことになるが、相手が強勢であれば退避し、情勢が変化するのを待つ柔軟な行動が取れたのは女性ならではといえる。直虎の井伊家存続のための苦闘はこのように大きな実りを得た。直虎は女性でありながら当主になったことで有名であるが、史料は少なくその生涯について正確な記録は乏しい。

 直虎は女性であったため宗主として系図には載っていないが、実質的に井伊家存続の危機を救った人物である。創作の部分もあるだろうが、直虎の墓は直親の隣に建てられている。

 直虎の死後、万千代が井伊直政を名のり、家康の元で活躍する。井伊直政は戦功だけでなく外交や内政面でも優れ、家康にとって大切な存在になった。家康の養女と結婚し家臣筆頭にまで上りつめた。井伊家はこの直政の元で彦根藩30万石の大名にまで上りつめる。この井伊家は江戸時代彦根藩主として譜代筆頭として幕末の直弼まで5人の大老を出している。

龍潭寺にある井伊氏一族の墓。左から直政、おひよ、直親、直虎、直虎の母祐椿尼。直虎の墓は、結ばれなかった愛しい許嫁・直親の墓の隣に寄り添うように並んでいる。

井伊直虎以外にも活躍した女性がいた。

 

女城主・おつやの方
 岩村城の歴史は古く鎌倉時代初頭まで遡れる。古くから信州に接するこのあたりは遠山荘と呼ばれ、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が重臣・加藤景廉に遠山荘を与えている。長男の景朝が岩村城を築き遠山姓を名乗った。以来遠山氏は東濃一帯を治めている。ちなみに「遠山の金さん」で知られる江戸町奉行・遠山景元は遠山氏の末裔になる。遠山氏は室町時代に入ると美濃守護となる土岐氏や、斉藤氏の配下になる。
 戦国時代に岩村城主・遠山景任(かげとう)のもとに、織田信長の叔母のおつやの方が嫁いできた。織田家はお市の方に見られるように美人を輩出した家系で、おつやの方も大変美しい女性だったとされている。しかし二人の間には子供がいないまま、景任は病死してしまう。そこで信長は五男の坊丸〈後の織田勝長)を養子に送り込むが、坊丸はまだ幼かったため、おつやの方が後見となり事実上の城主となった。
 この時期、織田信長と甲斐の武田信玄は激しく争い、その間にある岩村城は戦に巻き込まれた。岩村城は秋山信友ら武田の精鋭に取り囲まれたが、女城主おつやの方が奮戦し、なかなか落城させることができなかった。おつやの方が守る岩村城は堅固だったため、秋山信友は和議を申し出る。

 そこで出会ったおつやの方があまりにも美しかったので、秋山信友はなんと和議の申し込みと一緒に求婚したのである。坊丸に家督を譲ることを条件に開城を迫り、岩村城を武田方に開城し秋山信友と婚姻を結んたが、坊丸は人質として甲斐の信玄の元に送られた。
 信長はおつやの方の裏切り激怒し、岩村城を奪還するために兵を送るが、武田勢に阻まれ攻めあぐねていた。

 信玄は三方ヶ原の戦いで徳川家康を破ったが、翌年に病に倒れ、武田勝頼が家督を継ぎ、その勝頼も長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗すると、秋山信友の手に渡った岩村城を奪還したかった信長は長男信忠を総大将に岩村城に大軍を送り込んだ。

 岩村城は善戦してなかなか落ちなかったが次第に兵量が尽き、城兵は飢えるようになった。信長は叔母・おつやの方へ肉親の情を示すという謀を用いて和議を結び城を奪還した。秋山信友は城兵を助けることを条件に岩村城を開城するが、信長は秋山信友とおつやの方を捕らえ秋山信友を部下と共に殺害し、おつやの方は岐阜に運ばせ長良川河畔で「逆磔刑」に処した。おつやの方は、信長への怨嗟の言葉を叫びながら処刑された。
 坊丸は武田氏が滅びる前年の1581年に織田家に引き渡され、元服し織田勝長と名乗り、犬山城主となり、その後は兄信忠の与力となるが、翌年の本能寺の変の際、信忠とともに二条御所に籠もり討ち死にしている。
その後の岩村城
 岩村城を武田方から奪還した信長は、重臣の河尻秀隆を岩村城主に送り込む。その後、川尻氏が甲斐に移り団忠政が城主となるが、本能寺の変で討ち死にすると、信濃を追われた森長可(森蘭丸の兄)が岩村城を接収し家老の各務元正が城代として入る。小牧長久手の戦いの際では岩村城は徳川方に与した明知の遠山年景に攻められるが、各務元正はこれを撃退した。しかし長久手の戦いで森長可は討ち死にし、嫡男の森忠政が森家を引き継ぎ、信濃松代に移封されるまで森氏が支配した。この間 城代各務元正の手により近世城郭へと生まれ変わった。森氏の後は田丸直昌が岩村城主となるが、関ヶ原の戦いで西軍に付いたために改易され、譜代の大給松平家、松平家乗が入城する。家乗は不便な山上の本丸にあった城主居館を麓に移し城下町を整備しました。
 江戸時代に大給松平氏が遠州浜松藩に移封されると、三河伊保藩から丹羽氏信が入城する。氏信の父、氏次は尾張岩崎(日進市)城主で、長久手の戦いでは自身は家康に従い小牧に参陣し、岩崎城は弟の氏重に守らせました。その岩崎城を豊臣秀吉の甥、三好秀次の大軍に攻められます。岩崎城は善戦しますが多勢に無勢で落城し、氏重は討ち死にします。しかしその間に小牧山の徳川家康が長久手に移り豊臣軍の背後を攻め、森長可、池田恒興をはじめ、多くの豊臣方の武将を討ちました。
 丹羽氏は五代続くが、五代目の氏音(うじおと)の時にお家騒動が起こり越後国高柳藩1万石に移封になりました。代わりに入ったのが大給松平氏の一族である松平乗紀(のりただ)で、以来7代にわたり岩村藩主となり明治維新を迎えました。

東国無双の美人秀吉の側室・甲斐姫
 1590年6月、豊臣秀吉は小田原攻めを行った際に、北条氏の小田原城だけでなく、北条配下の諸城も攻略した。「のぼうの城」の舞台にもなった忍城の城主は成田氏長の娘であり、後に豊臣秀吉の側室となり「東国無双の美人」と賞賛される美女だった。

 甲斐姫は忍城(埼玉県行田市)の城主・成田氏長と上野国金山城城主・由良成繁の娘との間にできた長女で1572年生まれとされている。外祖母となる妙印尼(由良成繁の妻は、金山城が北条氏に襲撃された際、71歳という高齢にもかかわらず篭城戦を指揮した女傑である。その血筋を引いたのか豊臣秀吉の小田原征伐の際に甲斐姫の名が轟くことになる。
豊臣勢の忍城攻め
 北条氏は各地の主力を小田原城に入れ篭城するように参集させたが、各城は城主の配下の者が少人数にて守備に当たった。この埼玉県の「忍城」も例外なく、城主・成田氏長は小田原城に入り、忍城は城代として甥の成田泰季を置き兵300と領民2700の約3000が忍城に篭城した。小田原城の北条氏が降伏するまで甲斐姫は忍城を守るつもりであった。
 戦国時代では北条氏に限らず、多くは合戦時に農民も臨時兵として動員していたのだが、篭城する際には領民も城に入れるのが通例なので、忍城に限らず豊臣の北条攻めの際、八王子城・津久井城なども同様に領民も城に入れて篭城した。もちろん小田原城にも何万と言う農民を入れて篭城していた。豊臣秀吉は、忍城攻略に館林城を和議開城させた石田三成を中心にした兵力を派遣した。
 1590年6月、忍城に石田三成の軍勢20,000が到着した。総大将は石田三成で軍師・大谷吉継、長束正など有力な武将が加わっていた。当時の石田三成の地位を考えると、総大将になったのは大抜擢であったと言える。
 忍城は湿地帯を利用した沼の中に浮かぶ水の城である。洪水の多い一帯にできた湖と、その中の島々を要塞化した城郭で、本丸を始め二の丸、三の丸、諏訪曲輪の主要部分が独立した島で、これらを橋で連結している。北条氏康や上杉謙信の忍城攻めにも耐えた堅城である。
 その事を知ってか石田三成は降伏に応じない忍城を、主君・豊臣秀吉が得意とする「水攻め」することにした。石田三成は総延長28kmにも及ぶ広大な堤防を築き、忍城を水の底に沈めようとした。金に糸目をつけずに人夫を集めた数は10万人とも言われ、わずか1週間で28kmもの堤防が完成した。
 しかしその堤防は決壊し水攻めをする事はできなかった。間者が堤防を決壊された、または突貫工事した人夫たちが手を抜いていたとも言われ、いずれにせよ大雨が降りだして堤が決壊したのである。損害を与えるどころか、堤防の決壊で逆に石田勢に犠牲が多数出たとも言われている。忍城付近は以前より増して泥沼地とかし、力攻めどころではなくなったしまった。
 6月10日から水攻め工事を開始し、その直後の6月12日付けの石田三成の書状からは「だいたい忍城 水攻めの準備はできましたが、諸将は水攻めと決めてかかっているので、全く攻め寄せる気がありません。」と嘆いているのが伺えるのと、豊臣秀吉は、何回も石田三成に対して、水攻めの方法や、堤防が出来たら使者に絵図を持たせるようになど細かく指示をしている。
 つまり水攻めは石田三成の発案と言うより、豊臣秀吉の指示と考えられる。小田原城攻めでは一夜城とも呼ばれる「石垣山城」を築いた豊臣秀吉である。その豊臣秀吉だから上杉謙信や北条氏康でも落とせなかった忍城付近を、あたり一面「湖」に変えて攻略してやろうと単に城を落とすだけではなく、莫大な費用も掛かる水攻めを関東諸侯に見せて、服従させようとしたのだろう。当時の書状からは水攻め開始から1ヶ月後、小田原城開城の時点でも築堤工事をしていたことがわかる。


成田家の姫・甲斐姫
 水攻めがうまく行かないのを聞いた豊臣秀吉は、忍城に真田昌幸と父・真田信繁、浅野長政らを援軍に出した。忍城に武力攻撃をし、この猛攻に城門の一つが突破されそうになると成田氏長の長女・甲斐姫は自ら鎧兜を身に付けて出陣し、真田勢の将を討ち取るなど、豊臣勢の侵入を阻止した。 

 甲斐姫は当時19歳で、成田家に伝わる名刀「浪切」と実母の形見である短刀を持って自ら城を出た。石田三成は、その後も、何度か総攻撃するも、忍城の城内に入ることはできなかった。籠城戦の途中で城代・成田泰季が死去、甲斐姫が指揮を引き継いだ。甲斐姫は三宅高繁を討ち取るなど機に応じて出撃した。姫の姿に城兵は奮い立った。
 しかし7月5日、小田原城が開城し北条氏が豊臣秀吉に降伏した。この時点で豊臣勢が城攻めした中で、小田原城開城までに落ちなかった城はこの忍城だけとなっていた。忍城の篭城兵は、石田三成らの「小田原が開城した」と言う話を信用せず、小田原城開城後も篭城を続けた。
 忍城がまだ篭城していると知った成田氏長は、豊臣秀吉の命で忍城に7月15日頃に忍城に戻り城は開城した。この際、甲斐姫たちは矛を収め、堂々と城を出てきた。忍城だけは籠城兵たちの罪は問われず財産没収も無かった。その後、甲斐姫は会津の蒲生氏郷に預けられ岩代福井城に移った。
 しかし成田氏長が留守した際に、家臣だった浜田将監と弟・浜田十左衛門が謀反を起こし本丸を占拠し義母も殺害した。この謀反を知った甲斐姫は謀反に加担した兵たちを倒し薙刀で浜田兄弟を討伐した。
 この甲斐姫の武勇伝を聞いた豊臣秀吉は、甲斐姫を大変気に入り「側室」にした。そのためも成田氏長は下野国・烏山城主として2万石の大名になる。甲斐姫は秀吉が亡くなるまで傍にいたといわれ、淀殿の命を受けて息子の秀頼を養育係を務めた。大坂夏の陣による豊臣家滅亡の際、徳川千姫の擁護もあり、小石の方とその娘・奈阿姫とともに敵中突破に成功して大阪城を脱出した。鎌倉の東慶寺に入って尼になったとされる。