琉球とアイヌ

琉球とアイヌ

ここで視点を沖縄と北海道に移してみよう。沖縄はもともと琉球王国を名乗る独立国であった。琉球はその地の利を生かして中国や日本(やまとんちゅ)と交易を行う貿易立国であったのだが、江戸期に入って薩摩(鹿児島県)を領有する島津氏の侵略を受けた。島津の軍勢は尚寧王を捕虜にして琉球王国を完全に占領して、被征服民にサトウキビを作らせるなどの植民地支配を行った。ここで得られた経済的利権が、後に薩摩藩による維新回天の原動力となった。しかし薩摩藩のこの暴挙は、江戸幕府の承認を得ての行為であった。幕府はフィリッピンの西欧勢力や中国からの緩衝地域としての琉球の重要性を認めていたので、この地域を日本の政治的影響下に置くことに賛成であった。これは明治における朝鮮併合、昭和における満州事変と同じ論理構成であることに留意すべきであろう。

ただし日本が事実上、琉球を占領下に置いたことは、外国を刺激したくないため対外的な秘密事項であった。そのため琉球の使節が江戸を来訪するときは、ことさらに「外国の使節」であることを強調するイベントが執り行われた。琉球の人々は、どのような想いを胸にこの茶番に付き合ったのであろうか。

それでも琉球の人々が固有の芸能、言語、食文化、姓名を現代に至るまで維持できたのは、江戸幕府に楯突かずに隠忍自重を耐え抜いたからである。薩摩藩の統治がそれほど残酷でなかったためでもあるだろうが。これに対して北海道のアイヌが辿った運命はより過酷であった。

 北海道に和人(日本人)が初めて足を踏み入れたのは鎌倉時代前期である。執権・北条義時から北海道を恩賞にもらった安東一族が函館周辺に殖民したのが最初らしい。この一族は、松前氏と名を変えながら戦国時代まで生き残り、そして江戸幕府の傘下に収まったのである。

この当時北海道全域にアイヌという狩猟民族が住んでいた。遺伝学的には日本人と同じ種族らしいが、文字を持たず、部族ごとに狩猟採集の生活を送っていた。松前藩は、最初はアイヌと仲良くやっていた。これはちょうど、アメリカ大陸に居住を始めたばかりの白人とネイティブアメリカン(インディアン)の関係に近かった。両者の間には公平な交易関係が結ばれた。

しかし江戸幕府の体制は、既述のように、参勤交代などで外様大名に慢性的に膨大な出費を強制するものであった。また凶作続きなどで、松前藩の財政は極度に悪化したため、この藩はついにアイヌを弾圧し搾取するに至ったのである。温厚なアイヌもついに耐え切れずに決起した。

 シャクシャインという有能な酋長に率いられたアイヌ軍は数千の大軍となって松前に進撃を開始したのである(シャクシャインの乱、1669年)。驚き慌てた松前藩は江戸や東北諸藩から援軍を呼び、激戦の末、アイヌ軍を撃退した。アイヌの毒矢は、和人たちの鉄砲には歯が立たなかった。その後、松前藩は「和平交渉」という口実で森の中からシャクシャインを誘き出し彼を毒殺したのである。彼の立場は、映画(『ブレイブハート』)にもなったスコットランドの英雄ウイリアム・ウォレスに似ていると思う。シャクシャインは、映画化されないのだろうか?

この事件がきっかけで松前藩による搾取と侵略は激しさを増した。アイヌの人々は抵抗して殺されるか、和人の支配を受け入れるしか選ぶ道が無くなったのである。やがてアイヌの文化は根こそぎ破壊され、その末裔は「佐藤」とか「鈴木」とか、和人と同じ名前を名乗り、和人と同じ言語を話すようになった。今では少数の生き残りは、阿寒湖周辺で民俗音楽などの見世物小屋を開いて糧を得ている。これはまさにアメリカインディアンが辿った運命と同様である。

要するに日本人は、アメリカ人などの白人列強の蛮行を非難できる立場ではないのである。日本の知識人の中にはアメリカ白人のインディアンに対する蛮行を一方的に非難する者が多いが、彼らは自分たちも同類だということを知らないのだろうか。我々は白人文明の野蛮さを非難する前に、アイヌの人々に正式に謝罪をするべきなのである。「臭い物には蓋をする」悪癖はそろそろ改めるべきである。

 

8、北方領土問題について

北海道に触れたついでに北方領土問題について考察しよう。江戸時代中期に入ると幕府は北海道に深い関心を寄せるようになる。その最大の理由は、アリューシャン列島などからロシアが南下の形勢を見せたからである。最初に北海道の重要性に気づいたのは田沼意次であった。慧眼の田沼意次は大規模な開拓計画を立案するが、道半ばにして失脚する。それでも幕府は、司馬遼太郎の小「菜の花の沖」で有名な高田屋嘉兵衛などの豪商と力を合わせ、北海道東部から北方諸島への航路を開拓した。

この当時、ロシア人は北方諸島沿いに南下し、しばしば北方四島にキャンプを張った。しかし彼らの目的はラッコなどの海棲哺乳類の毛皮であったため、この地域を領土化しようとは考えていなかった。その隙をついた幕府は北海道東岸の測量に成功し、ようやく北海道全域を「日本領」とアピールすることに成功した。

その後隠密・間宮林蔵や最上徳内らの活躍によって、樺太が巨大な島であることを証明した幕府は、ようやくロシアに対してこの海域の領土権を主張しうる体制になった。

時は流れ明治政府はロシア政府と「千島樺太交換条約」を締結した(1875年)。この条約の結果、樺太はロシア領に、千島列島(北方四島)は日本領になった。この経緯を見ると日本政府は「交換」によって千島列島を領有したわけだ。すなわち北方領土を最初に領有したのは、ロシアだったのである。その後、日露戦争の終結に伴って結ばれた「ポーツマス条約」(1905年)で、樺太の南半分が日本領に編入された。

しかし太平洋戦争の終結に伴う「サンフランシスコ平和条約」(1951年)で、日本は樺太を失うことになる。そして、この条約内に北方四島の帰属先について明文規定が存在しないことが混乱の火種となった。北方領土を戦争中に軍事占領したロシアはここを手放そうとしないのだが、日本政府は「そこは日本の固有の領土だから返してくれ」と主張して譲らないのである。

しかし「固有の領土」という主張は説得力がない。「千島樺太交換条約」は、「ポーツマス条約」や「サンフランシスコ平和条約」で更新されているのだから、これを根拠に使うのはナンセンスである。また歴史的に考えるなら、北方諸島に住んでいたのはもともとアイヌ人だし、ここに最初に足を踏み入れた近代国家はロシアだったのだから、日本政府の「固有の領土」という主張が何を根拠にしているのか分からないのである。

というわけで北方領土問題にあまり興味が無い。あれは冷戦期の日本政府が、アメリカ側の一味としてソ連を外交的に牽制するレトリックに過ぎなかったのではないかと考えている。日本政府は、もしも本当にあそこを返して欲しいのなら、「固有の領土」などという説得力皆無の詭弁を用いるのでなく、もっと実効のある政策を採るべきである。例えばカネで買い取るとか。今の日本にはそんな余力は無いだろうけど。