江戸時代

江戸時代

徳川幕府

1、徳川家康の話

 日本史上で最高の政治家は徳川家康だと考えている。そして、現代を生きる我々は、未だにこの巨人の敷いたレールの上を走っていて、一歩も外に出ることが出来ずにいるのだ。そこで、この政治家の横顔を詳しく見て行きたいと思う。家康が生まれた当時の徳川家(当時は松平家)は、織田家と今川家に挟まれた小大名であった。そのため幼少の家康(竹千代)は、生家から引き離され織田家と今川家に順繰りに人質に取られている。家康は織田信長の台頭と今川家の衰退に乗じてようやく独立を果たしたが、織田家に圧迫され信長に謀反の疑いを着せられた長男と正妻を自らの命令で処刑するという悲劇を体験した。さらに武田氏の猛攻を必死にしのぎ、本能寺の変のときは敵中に取り残された絶体絶命の危機を切り抜け、秀吉政権に加入してからは秀吉の圧迫に耐え続けた。家康はとにかく、戦国時代に小大名として生まれ苦労人であった。

 下克上の申し子と言うべき豊臣秀吉とは正反対に家康は下克上を憎み固定的な秩序を愛した。そして天下人となった家康は、「抜本的な構造改革」を行った。家康の理想とした国家は、「優秀な官僚が人民を支配統制する固定的で保守的な社会」であった。

 秀吉も同様の考えで改革を進めてはいたが、秀吉の検地(正確な収穫量の計量)」と刀狩り(武士以外の社会階層から武器を取り上げる)は、いずれも「武士が民衆を支配統制する」社会を建設するために行われた。自らの権威不足に悩む秀吉は、秀吉以降の「下克上」を禁圧したのである。家康はその路線をさらにドラスティックに進めようとしたのである。

 

2、幕藩体制の確立

家康が参考にした政治組織は、源頼朝がひらいた鎌倉幕府であった。東鑑(あずまかがみ=鎌倉時代の歴史書)の愛読者であった家康は、この書物から大きなヒントを得た。彼は、頼朝と同じく東国(江戸)に拠点を置き、諸国の大名を御家人のように束ねようとした。

 歴史から良く学ぶ家康は、鎌倉幕府と同じ失敗を繰り返す気は無かった。すなわち、幕府と大名との関係は「御恩と奉公」のような曖昧なものではなく、官僚的なシステムによって規定した。大名をはじめとする武士全般に対して「武家方諸法度」という通達を発布してこれを遵守させた。また諸大名から妻子を人質に出させて、これを江戸に拘束した。そして参勤交代というルールを作り、諸大名は1年ごとに江戸に出頭して公務に服することにされた。さらに幕府は公儀隠密と呼ばれるスパイ集団を諸大名の領内に送り込み、その動静を詳しく探った。そして諸大名に不穏な振る舞いがあれば、直ちに「お家取り潰し」を行った。これにより諸大名は勝手な振る舞いが出来なくなった。

 次に家康は天皇や貴族に対して「公事方諸法度」なる通達を発布してこれを統制した。幕府は朝廷がこれに違反すれば、直ちに介入して罰を与えたのである(紫衣事件、宝暦事件)。この時代の朝廷は秀吉によって多少の権威は回復したが、鎌倉時代に比べれば衰退は著しく、政治的には何の実力もなかった。それでもこのような統制を加えるに家康の用心深い性格が良く出ている。

 さらに宗教の世界にも統制を加えた。下克上の一つが「信仰の自由」にあると看破していた家康は、いわゆる「檀家制」を創出した。すなわち全国の寺社を幕府の統制管理下に置き、そして国民全てをその地域の寺社の所轄内に位置づけたのである。例えばある村に曹洞宗の寺があった場合、その地域の民衆は曹洞宗を信じなければならない。そして寺社は全ての政治活動を封じられ、その職務を葬式などの法事のみに限定された。現在の日本では、何の信仰心も無いのに「うちは先祖代々真言宗だ」などと言う者が多いが、それは家康が始めたのである。もちろん新興宗教の余地はあったが、統制政策によって管理された宗教界は政治権力(幕府)に対抗しうる力を失ったのである。

このように大名も朝廷も寺社も、全てが徳川幕府の統制管理下に置かれた。

徳川家康がこのような強権的な統制政策を施行できたのはその強力な軍事力にあった。「旗本八万騎」と言われる徳川軍には日本全国の諸大名が束になっても勝ち目がないと思われていた。そのため家康の死後「神」となり、日光の東照宮に東照大権現となっって祀られている。家康は日本神道の大祭主である天皇家と同格になったのである。

いわゆる徳川300年の権威の安定はこれを前提にしていた。

 

3、最も理想的な高度官僚社会

 徳川家康は「百姓は、知らしむべからず依らしむべし」と云った。すなわち民衆には最低限の情報だけを与えて、ただ権力者の支配に甘んじさせようとした。これは高度な管理統制社会にとって必要不可欠の方法である。そのため江戸幕府は、「慶安のお触書」という農民向けの道徳を公表した。要するに農民は黙って搾取を受けよというのだ。また、「五人組」などの密告奨励制度を創設し、反乱の芽を未然に摘もうとした。

 下克上が起きるのは、民衆が豊富な情報を入手することによって権力の悪や腐敗を知り、権力の倒し方を学ぶからである。そのため民衆に情報を与えないことが下克上の防止策になった。「鎖国政策」の本当の狙いはそこにあった。

 誤解されやすいことであるが、鎖国によって日本は海外と切り離されたわけではない。清(中国)とオランダとの交易は、長崎の出島を唯一の窓口としたが継続的に行われていた。また幕府首脳部は、様々な方法で海外事情についての情報を入手し分析していた。その富や情報は民間に還元されなかったが、徳川幕府は、結局、「民衆に情報を与えず反骨心を育てない」ために鎖国を行ったのである。つまり、「愚民化政策」の一環だったのだ。その点でも徳川幕府の政策はソ連型社会主義国に似ている。

キリスト教の弾圧もこの文脈で説明できる。キリスト教は、「この世には人間よりも偉大な神(キリスト)がいる。だから、キリストの正義を守るためなら人間の権力に歯向かっても構わない」という考え方をする。これこそまさに、下克上の温床ではないか。江戸幕府がキリスト教徒を殺したのは、彼らに言わせれば当然のことだったのだ。ソ連型社会主義が、自由主義や民主主義を弾圧したのと同じことである。1637、領主の搾取にたまりかねた長崎の民衆は、キリスト教精神にのっとって幕府に反乱を起こした。「島原の乱」である。大規模だったこの反乱の鎮圧によって、幕府による思想統制は、かえって軌道に乗ることになった。このように徳川幕府の政策はまさに抜本的な構造改革であった。平安時代末期から脈々とこの国を流れてきた「民衆主体」の潮流を、「官僚主体」に大改造するものであった。もちろんその過程で様々な軋轢や悲劇があった。

 特に支配階級であった武士が最も大規模な変革を迫られた。彼らは、従来の地主ないし戦士から、官僚になることを義務付けられたからである。

宮本武蔵という人は立派な戦士になるために修行を重ねた剣豪だったが、武士が官僚になることを求められた時代に居合わせたため不遇な生活を送った。彼だけではない。武士が官僚に生まれ変わる過程で、リストラされ時代の流れに取り残された者は浪人となって諸国を彷徨った。その多くは「大阪の陣」で豊臣方について戦い、最後の死に花を咲かせた。真田信繁(幸村)や後藤又兵衛、長曾我部盛親らが悲劇の英雄となった。また山田長政のように海外雄飛して二度と日本に帰らなかった気骨のある者もいた。それでも国内に生き残った「浪人」は、例えば、由比正雪のクーデター計画(1651年に失敗した慶安事件)に加わり幕府を脅かすこととなった。幕臣の大久保忠教(彦左衛門)が著した『三河物語』には、武勇を尊んだ質実剛健の昔を懐かしむ嘆息が漲っている。

しかし時代の流れを変えるためには、これは不可避の犠牲だった。武士は官僚になり、民衆は羊のように武士に管理される存在となった。「士農工商」と呼ばれる身分格差は強固となり、その思想的背景として中国の朱子学が導入された。そもそも、「士農工商」という言葉自体が中国から輸入されたもである。日本がこのような社会を実現できた背景には幸運な前提があった。第一に、日本が海に囲まれた島国であって、外界との情報や資源を自由に調整出来たこと。第二に、経済的に豊かだったため生活資源の自給自足が完全に可能だったことである。このような幸運な前提に恵まれた国は、世界的に極めて珍しいのである。徳川体制は日本だからこそ可能だったのである。263年間、日本は戦争の無い平和な国家となった。これも世界的に珍しいことである。人々は平和と繁栄を謳歌し、まさに最も理想的な高度官僚社会が誕生したのである。花のお江戸は、100万人の人口を有する世界最大の文化都市で、レールを敷いた徳川家康は、まさに天才的な政治家だった。 

 

4、江戸期の文化と技術

 しかし物事には常にコインの裏表のような二面性を持っている。情報を著しく制限された閉鎖的社会では、画期的な発明や新たな文化は生まれにくい。幕府は文化のあらゆる面に目を光らせて思想統制を行った。幕府を批判し豊臣秀吉(海外雄飛路線)を美化するような言論や出版は禁圧された。しかし庶民はその隙間を掻い潜って様々な作品を発表した。例えば「仮名手本忠臣蔵」は幕府に取り潰された赤穂藩の浪人たちが、大石内蔵助良雄をリーダーとして、彼らの失職の原因を作った幕府の重臣・吉良上野介義央を私邸に襲って討ち取った事件(1703年)を題材にしている。この歌舞伎は検閲対策として大石の名前を「大星由良之介」、吉良の名前を「高師直」に変えて上演し大成功を収めた。

 忠臣蔵の中には、幕府に対する庶民の鬱憤晴らしが秘められている。これには、冷戦時代のソ連や東欧で隆盛を極めた政治ジョークに近いものを感じる。江戸時代はこうした歌舞伎や講談、そして落語などが大隆盛であった。大相撲なども人気だった。小説も「東海道中膝栗毛」や「南総里見八犬伝」などが上梓され、絵画の世界で世界に誇れる安藤広重や葛飾北斎を輩出し、俳句の世界では松尾芭蕉や小林一茶が活躍した。しかしながらこれらの文化は、すでに室町時代に完成されたものである。江戸期の文化は、それの焼き直しか発展型に過ぎない。言うまでもなく、厳しく情報を統制された社会ではそうなるのが当然のことであった。

徳川幕府は、技術の進歩にも大きな制約を加えた。民間の鉄砲は猟銃以外は全て取り上げられ、官の倉庫に封印されてしまった。これでは機械工学は育たない。国内の交通網は反乱防止のためにわざと整備されずにいた。例えば、大きな川には橋が架けられなかったので、通行人は人足に賃金を払って肩車してもらうことで川を渡ったのだ。これでは土木工学は育たない。さらに交易船にも統制が入り、国内の海路を行く交易船は、必ず帆柱を一本しか立ててはならず、竜骨を用いたり隔壁構造を設けてはいけなかった。要するに、大きなお椀を海に浮かべたような脆弱な船が危険な海路を行き来していたのだ。これは船体を脆弱小型にすることで、海外渡航を防止するのが目的であった。そのため嵐で海難する交易船が続出したのだが、幕府は見て見ぬ振りをした。これでは、造船技術は育たない。

 高度官僚統制社会というのは、社会の安定のために民間に不利益を強要するもで、このようにして日本は世界の進歩から取り残されてしまった。それは中国や朝鮮も同じであった。農業に国家基盤を置く安定した社会では技術革新や文化のステップアップは起こらないのであろう。それが悪いわけではない。社会にとってはその方が幸せなのかもしれない。しかし外部に強力な競争者がいる場合は、このような状況はむしろ不利に働く。当時、ヨーロッパ諸勢力はますますその野心を明らかにしていたのだから。

 

5、江戸期の経済

江戸期の経済に触れる前にお浚いをしよう。中世から近世にかけての経済社会は、農業と商業の角逐の繰り返しであった。重農主義の鎌倉政権は、商業保護政策を取る後醍醐天皇によって滅ぼされ、その後醍醐は復古重農主義を取る足利尊氏によって没落した。その足利政権内部でも農と商をめぐって暗闘が続き、結局、信長と秀吉が重商主義に偏った政権を築き上げた。秀吉の海外出兵には商業販路を開拓の目的もあった。その点で、西欧の帝国主義と軌を一つにする。徳川家康はこの志向に「待った」をかけた。

家康は重農主義者であった。国の基本は農業であり、農業を磨けばそれで事足りるとしていたのである。それは「士農工商」という言葉を見るだけで分かる。同時代の中国や朝鮮も同様に考えていた。ただ彼らの場合は、「儒教」の教義に影響されていた。儒教では商業は「新たな価値を生産しない」ので悪だと考える。つまり、他人が作った財貨を右から左へ流すだけだから、尊敬されるべきではないというのだ。同じ理由で芸能人も軽蔑されていた。要するに、「サービス」というものに価値を見出さないのが儒教なのである。

ヨーロッパも昔はそうだった。例えばユダヤ人は、商業か金融にしか就けなかったのだが、それはこれらが賤業と見なされていた。16世紀以降、宗教改革の担い手の多くが商業従事者だったことから、この流れは大きく変わるのであったが。日本の場合はたまたま、家康が目指した「高度官僚統制社会」を営む上で、農業が商業に比べて情報を統制しやすいことからこれを国の基本としただけである。儒教はそれに理論的背景を与えるための道具であったろう。

 

しかしながら、民度の高い社会で商業が発展するのは歴史の鉄則である。江戸中期から、大阪(上方)中心に商業資本が大きな発展を見せた。天才的な政治センスを持つ徳川家康は、これを見越して貨幣の全国統一を推し進め、貨幣経済を江戸幕府の完全な統制下に置いた。しかし、これでは不十分であった。幕府は、商業資本の急成長を統制制御する有効な手段を持たなかったため、武士と農民たちはやがて商人抜きでは生活できなくなり、商業資本の膝下に置かれる。特に、農村に家内制手工業が伝播したことは、農本主義の根幹を揺るがす一大事であった。農民は、農作業そっちのけで内職に励んだのである。

徳川幕府の政治家は、様々な手段でこの問題を解決しようとした。いわゆる「三大改革」は、全て「商業資本をいかに押さえ込むか」に重点が置かれていた。八代将軍・徳川吉宗(享保の改革)は、米相場に介入してこれを操作しようとして失敗。松平定信(寛政の改革)と水野忠邦(天保の改革)は、武士たちに質素倹約を強制して失敗した。いずれも、既存の制度内で微調整をしようとしたから失敗したのである。

 

「高度官僚統制社会」で育った者たちは、「創造的破壊」を行う能力に欠ける場合が多い。現代の日本が、まさにそうである。

ただ、幕臣の中にも慧眼の士はいなくもなかった。例えば、田沼意次がその一人である。

6、危機に対する脆弱さ

十代将軍・徳川家治の老中、田沼意次は、まさに「抜本的改革」を行おうとした人である。この人は、三大改革のように商業資本に抗うのではなく、むしろその流れに乗ってしまおうと考えたのだ。

彼は、株仲間(財閥)の結成を後押しし、その上で彼らに運上金をかけた。すなわち、「法人税」を発明したのである。それまでの幕政では、納税義務は農民にしか生じなかった。商人は賤業であるがゆえ、納税義務も無かったのである。だが、言うまでもなく、それでは農民が窮乏化して商人が肥えるだけであるから、田沼は商人の実力を正しく認め、この状況を改善しようと考えたのである。

田沼は大規模な干拓事業を開始した。印旛沼などを干拓し広大な農地にしようとしたのである。さらに、北海道を開拓しようとした。これはいわゆる「公共事業」で、田沼は公共事業が景気効果があることを知っていたのである。もちろん農地を増やすことで農業経済を強化する目的もあった。

しかしその過程で事業者から賄賂が流れ、田沼はそれを遠慮なく受けとおた。田沼にしてみればこれも抜本的改革の必要悪であった。しかしいわゆる「政治献金」は、儒教道徳が脳髄の隅々にまで染み渡った教条主義者たちにして見れば「絶対悪」であった。田沼は多くの幕臣たちから白眼視された。

不運なことに浅間山の噴火とともに「天明の大飢饉」(1783年~88年)が襲った。田沼はその対策に追われ改革を行えなくなった。これは政敵から見れば「政策の失敗」を意味する。やがて田沼の息子・意知が、江戸城内で暴漢に斬られて殺される事件が起きた。これは政敵の陰謀であった可能性が高いが、この事件が契機となって田沼は失脚した。

彼に代わったのは最大の政敵であった松平定信であった。しかし松平定信の「寛政の改革」はアナクロニズムの大失敗に終わった。彼は儒教オタクであって、田沼の着眼点の先進性に少しも気づかなかった。「寛政の改革」はひたすら農民と武士の関係ばかりに目を向けて、武士たちに「質素倹約」を強要することで商業資本を抑えようとした。それでは短期的な「問題先送り」にしかならない。

田沼意次の失脚は1例に過ぎない。「高度官僚統制社会」では、異端児とか天才、周囲に理解されず迫害されることが多い。未知なことや新しいことを危険視し敵視するのが官僚の特質なのだから、それが幕政の硬直化と想像力の欠如と無能の根源になる。

 世界は17世紀の終わりごろから寒冷期に入った。ヨーロッパで、植民地獲得競争や宗教戦争が激化したのは、そのことと深い関係がある。日本は鎖国のおかげで幸いにして戦争とは無縁だった。しかし気候の寒冷化にともなう凶作や飢饉の頻度は激しさを増し、農民一揆が次々に起こる情勢となった。

幕府はこの危機に対して適切な措置を取ることが出来なかった。官僚化し硬直化した幕府の官僚たちにとって、このような事態は「マニュアルに載っていない想定外事項」だった。そのため飢饉に見舞われた地域に対して、幕府直轄領や他の大名領から古米を適時に供給するシステムを整備できず、いたずらに被害を拡大させてしまった。

ところで従来の通説では、江戸期の農民は武士から残酷な搾取を受けて、いつも飢え死に寸前の悲惨な生活をしていたことになっている。しかし農民は実際には収穫の2割から3割を納税すれば良く、その暮らし向きはそれほど悪くなかった。むしろ明治時代の方が貧困になっているが、なぜこのような間違った通説布されたのかというと、全文の冒頭で述べた「マルクス史観」の影響である。マルクスの進歩史観では、社会は時代の流れとともに比例的に良くなるはずである。そんな論者の立場からは江戸期の農民の方が明治の農民よりも豊かだったという結論は絶対に許すことが出来ない。だか、わざと歴史を捻じ曲げたのである。我々が学んだ学校教科書にはこういう類の嘘がたくさん書いてあるので要注意だ。

江戸期に百姓一揆や飢饉が頻発したのは史実であるが、それは武士による極端な搾取のためではなく、気候全体が寒冷化した上に幕府の官僚機構が硬直化したためである。

幕府の官僚制度の問題点に議論を戻すと、「海防問題」がある。幕府は情報統制の手段として「鎖国」を行い、交易や海外交渉は長崎の出島を唯一の拠点としてオランダと清国(中国)以外との交渉を固く禁じていた。どうしてオランダは良かったのかというと、彼らは交易の条件としてキリスト教の布教を強要しなかったからである。

ともあれ日本に憧れるシーボルト(ドイツ人)などの西洋人は、オランダ人に成りすまして来日するしかなかった。このシーボルト医師は日本の地図を母国に持ち帰ろうとして大問題となる。幕府の統制は極めて厳しかったのだ。17世紀の終わりごろから、ロシア船が北海道や千島近辺に出没するようになった。ロシアは当時、良質な毛皮を求めてシベリアを横断しカムチャッカ半島までも領土に組み入れ、そして不凍港を求めて日本に接触を図ったのである。幕府はロシア船に送り届けられた漂流民(大黒屋光太夫が有名)などを通して彼らの情勢を探ったものの、基本的には国民の手前では「無かったこと」にしていた。

世界の情勢は徳川家康在世のころに比べ、刻一刻と変化していた。しかし家康が築き上げた「高度官僚統制社会」は、こうした変化に目を背けて「無かったこと」や「問題先送り」にすることを習い性にしてしまった。「高度官僚統制社会」は、国家の危機に際して意外な脆さを露呈する。そして黒船来航によってついに持ちこたえられなくなり、江戸幕府は倒壊するのであった。

 

7、琉球とアイヌ

ここで視点を沖縄と北海道に移してみよう。沖縄はもともと琉球王国を名乗る独立国であった。琉球はその地の利を生かして中国や日本(やまとんちゅ)と交易を行う貿易立国であったのだが、江戸期に入って薩摩(鹿児島県)を領有する島津氏の侵略を受けた。島津の軍勢は尚寧王を捕虜にして琉球王国を完全に占領して、被征服民にサトウキビを作らせるなどの植民地支配を行った。ここで得られた経済的利権が、後に薩摩藩による維新回天の原動力となった。しかし薩摩藩のこの暴挙は、江戸幕府の承認を得ての行為であった。幕府はフィリッピンの西欧勢力や中国からの緩衝地域としての琉球の重要性を認めていたので、この地域を日本の政治的影響下に置くことに賛成であった。これは明治における朝鮮併合、昭和における満州事変と同じ論理構成であることに留意すべきであろう。

ただし日本が事実上、琉球を占領下に置いたことは、外国を刺激したくないため対外的な秘密事項であった。そのため琉球の使節が江戸を来訪するときは、ことさらに「外国の使節」であることを強調するイベントが執り行われた。琉球の人々は、どのような想いを胸にこの茶番に付き合ったのであろうか。

それでも琉球の人々が固有の芸能、言語、食文化、姓名を現代に至るまで維持できたのは、江戸幕府に楯突かずに隠忍自重を耐え抜いたからである。薩摩藩の統治がそれほど残酷でなかったためでもあるだろうが。これに対して北海道のアイヌが辿った運命はより過酷であった。

 北海道に和人(日本人)が初めて足を踏み入れたのは鎌倉時代前期である。執権・北条義時から北海道を恩賞にもらった安東一族が函館周辺に殖民したのが最初らしい。この一族は、松前氏と名を変えながら戦国時代まで生き残り、そして江戸幕府の傘下に収まったのである。

この当時北海道全域にアイヌという狩猟民族が住んでいた。遺伝学的には日本人と同じ種族らしいが、文字を持たず、部族ごとに狩猟採集の生活を送っていた。松前藩は、最初はアイヌと仲良くやっていた。これはちょうど、アメリカ大陸に居住を始めたばかりの白人とネイティブアメリカン(インディアン)の関係に近かった。両者の間には公平な交易関係が結ばれた。

しかし江戸幕府の体制は、既述のように、参勤交代などで外様大名に慢性的に膨大な出費を強制するものであった。また凶作続きなどで、松前藩の財政は極度に悪化したため、この藩はついにアイヌを弾圧し搾取するに至ったのである。温厚なアイヌもついに耐え切れずに決起した。

 シャクシャインという有能な酋長に率いられたアイヌ軍は数千の大軍となって松前に進撃を開始したのである(シャクシャインの乱、1669年)。驚き慌てた松前藩は江戸や東北諸藩から援軍を呼び、激戦の末、アイヌ軍を撃退した。アイヌの毒矢は、和人たちの鉄砲には歯が立たなかった。その後、松前藩は「和平交渉」という口実で森の中からシャクシャインを誘き出し彼を毒殺したのである。彼の立場は、映画(『ブレイブハート』)にもなったスコットランドの英雄ウイリアム・ウォレスに似ていると思う。シャクシャインは、映画化されないのだろうか?

この事件がきっかけで松前藩による搾取と侵略は激しさを増した。アイヌの人々は抵抗して殺されるか、和人の支配を受け入れるしか選ぶ道が無くなったのである。やがてアイヌの文化は根こそぎ破壊され、その末裔は「佐藤」とか「鈴木」とか、和人と同じ名前を名乗り、和人と同じ言語を話すようになった。今では少数の生き残りは、阿寒湖周辺で民俗音楽などの見世物小屋を開いて糧を得ている。これはまさにアメリカインディアンが辿った運命と同様である。

要するに日本人は、アメリカ人などの白人列強の蛮行を非難できる立場ではないのである。日本の知識人の中にはアメリカ白人のインディアンに対する蛮行を一方的に非難する者が多いが、彼らは自分たちも同類だということを知らないのだろうか。我々は白人文明の野蛮さを非難する前に、アイヌの人々に正式に謝罪をするべきなのである。「臭い物には蓋をする」悪癖はそろそろ改めるべきである。

 

8、北方領土問題について

北海道に触れたついでに北方領土問題について考察しよう。江戸時代中期に入ると幕府は北海道に深い関心を寄せるようになる。その最大の理由は、アリューシャン列島などからロシアが南下の形勢を見せたからである。最初に北海道の重要性に気づいたのは田沼意次であった。慧眼の田沼意次は大規模な開拓計画を立案するが、道半ばにして失脚する。それでも幕府は、司馬遼太郎の小「菜の花の沖」で有名な高田屋嘉兵衛などの豪商と力を合わせ、北海道東部から北方諸島への航路を開拓した。

この当時、ロシア人は北方諸島沿いに南下し、しばしば北方四島にキャンプを張った。しかし彼らの目的はラッコなどの海棲哺乳類の毛皮であったため、この地域を領土化しようとは考えていなかった。その隙をついた幕府は北海道東岸の測量に成功し、ようやく北海道全域を「日本領」とアピールすることに成功した。

その後隠密・間宮林蔵や最上徳内らの活躍によって、樺太が巨大な島であることを証明した幕府は、ようやくロシアに対してこの海域の領土権を主張しうる体制になった。

時は流れ明治政府はロシア政府と「千島樺太交換条約」を締結した(1875年)。この条約の結果、樺太はロシア領に、千島列島(北方四島)は日本領になった。この経緯を見ると日本政府は「交換」によって千島列島を領有したわけだ。すなわち北方領土を最初に領有したのは、ロシアだったのである。その後、日露戦争の終結に伴って結ばれた「ポーツマス条約」(1905年)で、樺太の南半分が日本領に編入された。

しかし太平洋戦争の終結に伴う「サンフランシスコ平和条約」(1951年)で、日本は樺太を失うことになる。そして、この条約内に北方四島の帰属先について明文規定が存在しないことが混乱の火種となった。北方領土を戦争中に軍事占領したロシアはここを手放そうとしないのだが、日本政府は「そこは日本の固有の領土だから返してくれ」と主張して譲らないのである。

しかし「固有の領土」という主張は説得力がない。「千島樺太交換条約」は、「ポーツマス条約」や「サンフランシスコ平和条約」で更新されているのだから、これを根拠に使うのはナンセンスである。また歴史的に考えるなら、北方諸島に住んでいたのはもともとアイヌ人だし、ここに最初に足を踏み入れた近代国家はロシアだったのだから、日本政府の「固有の領土」という主張が何を根拠にしているのか分からないのである。

というわけで北方領土問題にあまり興味が無い。あれは冷戦期の日本政府が、アメリカ側の一味としてソ連を外交的に牽制するレトリックに過ぎなかったのではないかと考えている。日本政府は、もしも本当にあそこを返して欲しいのなら、「固有の領土」などという説得力皆無の詭弁を用いるのでなく、もっと実効のある政策を採るべきである。例えばカネで買い取るとか。今の日本にはそんな余力は無いだろうけど。

 

 9、新たな学問の潮流

 江戸時代は平和が長く続いたために学問が非常に栄えた。幕府は儒学の一派である「朱子学」を重視した。朱子学は、「目下は目上を敬うべき」といった道徳論なので、幕府が既成秩序を維持する上で有用な道具だったからだ。しかし儒学の中にもいくつもの潮流があった。例えば「陽明学」は儒学の一派でありながら既成秩序を否定する傾向が強く、幕府に対する反骨精神を涵養する特徴があった。例えば大阪で圧政に苦しむ庶民のために武装蜂起した大塩平八郎(1837年)は、幕臣でありながら陽明学者でもあった。しかし幕府は儒学の一派であるという理由で、あまりこの学問を弾圧出来なかったようである。

なお幕府が安心して擁護できたはずの「朱子学」も、水戸藩などで過激化しいわゆる「尊王思想」が誕生した。なぜなら朱子学をとことんまで追求すると、「天皇と朝廷は幕府よりも偉いはずなのに、幕府が朝廷をないがしろにするのはおかしい」という結論になる。この思想が、「朝廷のために幕府を倒すべし」という尊王倒幕運動に発展するのは道理からいって当然のことであった。

より重要なのは、「国学」である。本居宣長や平田篤胤で有名なこの学問は、古事記や日本書紀の昔を研究し、日本人としての真のアイデンティティを模索するものであった。この教えは万世一系の天皇家に対する人々の郷愁を呼び起こし幕末維新の大きな原動力になる。

江戸幕府は庶民を「愚民化」することで既成秩序を護持しようとした。しかしいかに強権的な江戸幕府といえども、勤勉な日本人の向学心まで奪い取ることは出来なかった。そして案の定、学問の発展は賢い庶民を大勢誕生させ、そのことがついに幕府の首を締め上げることになったのだ。

しかし江戸期の進んだ学問の潮流は、明治維新以降の日本の躍進の重要なバックボーンとなった。杉田玄白らの「蘭学」は西洋文明の咀嚼を容易にし、石田梅岩が創始した「心学」は、滅私奉公する日本型サラリーマンにその理論的背景を与えた。そういう意味で我々は「愚民化政策」を徹底できなかった江戸幕府に感謝するべきなのかもしれない。

 

 10、黒船来航

江戸幕府の崩壊は「開国」によって始まった。鎖国体制を維持できないことは保守的な官僚統制社会がその基本的前提を失ったことを意味する。日本に開国を迫ったのは、アメリカのペリーが最初というわけではない。ロシアもイギリスも幕府に開国を迫っていた。しかし幕府の要人たちは、「来年に返事する」とか「貴国の書類に不備が見つかった」などと官僚的な修辞を繰り返して「問題先送り」的な対応で煙に巻いたのであった。しかし4艘の黒船を率いてきたペリーにはこのような官僚的対応は通用しなかった。ペリー艦隊は許可を得ずに東京湾に侵入し、派手に空砲をぶっ放して江戸に脅しをかけたのだ。いかにもアメリカ人らしいやり方ではある。

アメリカが乱暴なやり方で日本に開国を迫った動機は意外と単純であった。彼らは当時、太平洋で大規模な捕鯨を行っており、日本の港湾を捕鯨船の補給基地として利用したかったのである。アメリカ人は「鯨油を取る」目的のためだけに鯨を大量に殺戮した。鯨が一時、絶滅寸前と言われるまでに減ったのは、実はアメリカ人のせいだった。それなのに彼らは「日本人が鯨を食うせいだ!」と強弁して我々のせいにしている。日本人はよくこんな非道なことを言われて大人しくしているものである、戦争に負けて去勢されちゃったから仕方ないが、ともあれアメリカ人が極端な保護政策を取った今では、鯨の数が増えすぎて生態系に悪影響が出ている。アメリカの身勝手さと愚かさは今に始まったことではないのである。

 話をペリーに戻すと、焦った幕臣たちは必死にペリーを説得してなんとか1年だけ「問題を先送り」にした。幕臣たちは鳩首したが妙案が浮かばず、やがて約束の期限が来て、ペリー艦隊が再び東京湾に威容を現すと、結局、その言うなりに開国を認めざるを得なくなった(1854年)。こうなると、イギリス、フランス、ロシアといった国々も参入してくる。

 一度破れた例外は絶え間なく増殖し続ける。そして、高度な官僚統制国家は、その前提が一つでも崩れると加速度的に弱っていくる。大老・井伊直弼は、この崩れかけた歯車を元に戻そうと恐怖政治を敷いた。「安政の大獄」である。しかし彼は、「勤皇思想」を奉じる水戸藩士らによって、江戸城の桜田門外で暗殺されてしまった(1860年)。

その間、幕府が諸外国と結んだ不利な通商条約によって、日本の商製品は次々に外国に放出され、その結果、国内では急激な物不足と物価高が起こり、日本人の生活水準は未だかつて無かったほどに悪化した。こうして諸外国に対する怨嗟が沸き起こり、いわゆる攘夷思想が産声をあげた。この攘夷思想は時の孝明天皇が大の外国嫌いだったことと結びついて、朝廷を擁護して弱腰の幕府を攻撃する「尊皇攘夷思想」へと進化した。「陽明学」や「国学」などの学問がそれを支える重要な背景となったことは言うまでも無い。

幕府はこの危機に対応するため、フランスと結んで軍事力の強化を進めると同時に、天皇の娘を将軍家に輿入れさせる「公武合体政策」を行った。また、外様大名を含む諸藩を幕政に参与させ、忌憚無く意見を言わせた。挙国一致体制で、乗り切ろうとしたのである。

 

 11、維新回天

しかし政治意識に目覚めた外様大名は、独自の路線で運命を切り拓こうと考え始めた。特に過激な動きを見せたのが、長州の毛利氏と薩摩の島津氏である。彼らは、「関が原」で徳川家康に敗れたため、心ならずも幕府に臣従していた人々であった。彼らは諸外国との交易によって絶大な力を蓄え、しかも藩政改革にも成功していた。これら諸藩では、若手の有能な人士が次々に重職を任され、幕府を無視して次々に無茶なことを始めたのである。そのコンセプトは「尊皇攘夷」だ。

薩長はまず「攘夷」を実行に移した。海岸線に大砲を並べ通りかかった西欧列強の船舶を砲撃したのである(薩英戦争、下関戦争)。しかし怒った西欧列強の逆襲を受け、薩摩も長州もあっという間に敗れ去った。そこで、柔軟な頭脳を持つ彼らは、むしろ西欧からその進んだ軍事技術を導入するのが先決だと判断し、西欧列強と和睦を結んだのである。つまり攘夷は延期となったわけだ。

 尊王運動の方面でも長州の活動は激しかった。政争の結果、朝廷内の長州派貴族が都落ちを余儀なくされたとき(七卿落ち)、長州の軍勢は天皇を奪い取ろうと京都に逆襲を仕掛けた。「禁門の変」である(1864年)。このとき、幕府軍とそれに加担した薩摩軍によって長州軍は大敗を喫してしまった。薩摩が幕府方についたのは、尊王運動について、薩摩は長州ほど過激な考え方をしていなかったからである。この辺りの政治情勢の複雑さが、幕末維新を論じる上で難しいところである。

長州はその後、幕府軍の猛攻を受けて屈服し(第一次長州征伐)、幕府よりの保守派が政治の実権を握った。しかし高杉晋作らがクーデターを起こして再び革新派政権を樹立するにいたる。その後、土佐(高知県)の脱藩浪人・坂本竜馬の力を借りて薩摩と軍事同盟を結ぶことに成功し、再び攻め寄せた幕府軍を、大いに打ち破ったのである(第二次長州征伐、1866年)。

軍勢の数で劣る長州軍が優勢に戦えたのは、イギリスから銃砲などの軍事援助を受けて近代装備の軍勢を育成していたことが大きい。また奇兵隊に代表されるように、長州軍は武士に限らず庶民からも兵士を徴募する制度を作っていたのが大きい。これに対して幕府軍は実戦経験のない武士(実態は官僚)が前時代的な火縄銃で戦うのだから、劣勢は明白であった。「旗本八万騎」が、300年の太平の中で張子の虎になったことを、今や全ての日本人が知ってしまった。

薩摩と長州の勢威に怯えた幕府は奇策に打って出た。すなわち「大政奉還」である(1867年)。十五代将軍・徳川慶喜は朝廷に政治の大権を返上し、日本を朝廷中心の社会に回帰させようと決断したのだ。もちろん新政府内で最強の勢力は徳川家であるから、政治の実権は自分たちが押さえるつもりであった。これは薩長の鋭鋒をかわし、新政府を牛耳る政略であった。慶喜はさすがは家康の再来と噂されただけの政治家だ。

しかしながら薩長の要人たちは、新政府の要職は自分たちが独占する心積もりであったから、何が何でも徳川家を潰したいと願った。彼らは幕臣たちを挑発し幕府軍の敵対的行動を誘発させたのである。そして耐えかねた幕府軍が打って出ると、「朝敵」の汚名を着せて迎え撃った。こうして始まったのが「戊辰戦争」である。

西郷隆盛や大村益次郎に率いられた近代装備の「新政府軍(薩長軍)」は、各地で「反乱軍(江戸幕府軍)」を打ち破り江戸を無血占領した。このとき幕臣の勝海舟は、戦火が大きくなり過ぎないように新政府軍と巧みな交渉を行った。その甲斐あって降伏した最後の将軍・徳川慶喜は一命を許され(薩長の側にも、挑発行為をしたやましさがあったのだろう)、静岡に楽隠居することになった。

その後も幕府残党を追って戦火は東北に飛び火し、会津の戦いでは少年藩士たち(白虎隊)が全滅するという悲劇も起きた。そし、最後の戦場、函館五稜郭で榎本武揚が降伏したとき、ここに江戸幕府は完全に滅亡したのである(1869年)。

263年の寿命を誇る大官僚国家が倒壊するにしては2年程度で終わった実にあっけない革命劇であった。その理由は徳川慶喜や勝海舟といった幕府首脳部に戦意が乏しかったことがある。広い視野を持つ彼らは、日本が長期の内戦で混乱した場合に西欧列強が介入して、彼らに植民地支配されてしまうだろうと予測し、戦わずに逃亡したり投降したのである。我々は既得権益の保持よりも日本全体のことを慮って抵抗を諦めた彼らに、感謝すべきであろう。