江戸幕府

幕藩体制の確立

 徳川家康が参考にしたのは源頼朝がひらいた鎌倉幕府であった。東鑑(あずまかがみ)の愛読者であった家康は、この書物から大きな影響を受け、頼朝と同じく東国(江戸)に拠点を置き、諸国の大名を御家人のように束ねようとした。

 歴史を学ぶ家康は鎌倉幕府と同じ失敗はしなかった。すなわち幕府と大名との関係は鎌倉時代は「御恩と奉公」という曖昧なものであったが、徳川家康は官僚的なシステムで大名を規定した。大名をはじめ武士全般に対し「武家方諸法度」を守らせた。また諸大名から妻子を人質に出させてこれを江戸に拘束した。さらに参勤交代を作り、諸大名は1年ごとに江戸に出頭して公務に服させた。さらに幕府は公儀隠密を諸大名の領内に送り込み、その動静を詳しく探った。そして諸大名に不穏な振る舞いがあれば、直ちに「お家取り潰し」を行った。これにより諸大名は勝手な振る舞いが出来なくなった。

 次に徳川家康は天皇や貴族に対して「公事方諸法度」を発布してこれを統制した。幕府は朝廷がこれに違反すれば、直ちに介入して罰を与えた(紫衣事件、宝暦事件)。この時代の朝廷は秀吉によって多少の権威は回復したが、鎌倉時代に比べれば衰退は著しく、政治的には実力はなかった。それでもこのような統制を加えたのは家康の用心深い性格による。

 さらに宗教の世界にも統制を加えた。下克上の一つが「信仰の自由」にあるとしていた家康は、いわゆる「檀家制」を創出した。すなわち全国の寺社を幕府の統制管理下に置き、そして国民全てをその地域の寺社の所轄内に位置づけたのである。例えばある村に曹洞宗の寺があった場合、その地域の民衆は曹洞宗を信じなければならない。そして寺社は全ての政治活動を封じられ、その職務を葬式などの法事のみに限定された。現在の日本では、何の信仰心も無いのに「うちは先祖代々真言宗だ」などと言うが、それは家康が始めたのである。もちろん新興宗教の余地はあったが統制政策によって管理された宗教界は政治権力(幕府)に対抗しうる力を失っていた。

 このように大名も朝廷も寺社も、全てが徳川幕府の統制管理下に置かれた。徳川家康がこのような強権的な統制政策を施行できたのはその強力な軍事力にある。徳川軍は旗本八万騎と言われ日本全国の諸大名が束になっても勝ち目がないと思われていた。

 

最も理想的な高度官僚社会

 徳川家康は「百姓は、知らしむべからず依らしむべし」と云った。すなわち民衆には最低限の情報だけを与えて、ただ権力者の支配に甘んじさせようとした。これは高度な管理統制社会にとって必要不可欠の方法である。そのため江戸幕府は、「慶安のお触書」という農民向けの道徳を公表した。要するに農民は黙って搾取を受けよというのだ。また「五人組」などの密告奨励制度を創設し、反乱の芽を未然に摘もうとした。

 下克上が起きるのは民衆が権力の悪や腐敗を知り、権力の倒し方を学ぶからである。そのため民衆に情報を与えないことが下克上の防止策になった。「鎖国政策」の狙いはそこにあった。

 誤解されやすいことであるが、鎖国によって日本は海外と切り離されたわけではない。清(中国)とオランダとの交易は、長崎の出島を唯一の窓口としたが継続的に行われていた。また幕府首脳部は、様々な方法で海外事情についての情報を入手し分析していた。その富や情報は民間に還元されなかったが、徳川幕府は、結局、「民衆に情報を与えず反骨心を育てない」ために鎖国を行ったのである。つまり、「愚民化政策」の一環だった。その点でも徳川幕府の政策はソ連型社会主義国に似ている。

 キリスト教の弾圧もこの文脈で説明できる。キリスト教は「この世には人間よりも偉大な神(キリスト)がいる。だから、キリストの正義を守るためなら人間の権力に歯向かっても構わない」という考え方をする。これこそまさに下克上の温床である。江戸幕府がキリスト教徒を殺したのは、彼らに言わせれば当然のことだったのだ。ソ連型社会主義が自由主義や民主主義を弾圧したのと同じことである。

 1637、領主の搾取にたまりかねた長崎の民衆は、キリスト教精神にのっとって幕府に反乱を起こした。「島原の乱」である。大規模だったこの反乱の鎮圧によって、幕府による思想統制は、かえって軌道に乗ることになった。このように徳川幕府の政策はまさに抜本的な構造改革であった。平安時代末期から脈々とこの国を流れてきた「民衆主体」の潮流を「官僚主体」に大改造するものであった。もちろんその過程で様々な軋轢や悲劇があった。

 特に支配階級であった武士が最も大規模な変革を迫られた。彼らは従来の地主ないし戦士から、官僚になることを義務付けられたからである。宮本武蔵という人は立派な戦士になるために修行を重ねた剣豪だったが、武士が官僚になることを求められた時代に居合わせたため不遇な生活を送った。彼だけではない。武士が官僚に生まれ変わる過程で、リストラされ時代の流れに取り残された者は浪人となって諸国を彷徨った。その多くは「大阪の陣」で豊臣方について戦い、最後の死に花を咲かせた。真田信繁(幸村)や後藤又兵衛、長曾我部盛親らが悲劇の英雄となった。また山田長政のように海外雄飛して二度と日本に帰らなかった気骨のある者もいた。それでも国内に生き残った「浪人」は、例えば、由比正雪のクーデター計画(1651年に失敗した慶安事件)に加わり幕府を脅かすことになった。幕臣の大久保忠教(彦左衛門)が著した「三河物語」には、武勇を尊んだ質実剛健の昔を懐かしむ嘆息が漲っている。

 しかし時代の流れを変えるためには、これは不可避の犠牲だった。武士は官僚になり、民衆は羊のように武士に管理される存在となった。「士農工商」と呼ばれる身分格差は強固となり、その思想的背景として中国の朱子学が導入された。そもそも、「士農工商」という言葉自体が中国から輸入されたもである。日本がこのような社会を実現できた背景には幸運な前提があった。第一に、日本が海に囲まれた島国であって、外界との情報や資源を自由に調整出来たこと。第二に、経済的に豊かだったため生活資源の自給自足が完全に可能だったことである。このような幸運な前提に恵まれた国は、世界的に極めて珍しいのである。徳川体制は日本だからこそ可能だったのである。263年間、日本は戦争の無い平和な国家となった。これも世界的に珍しいことである。人々は平和と繁栄を謳歌し、まさに最も理想的な高度官僚社会が誕生したのである。花のお江戸は、100万人の人口を有する世界最大の文化都市で、レールを敷いた徳川家康は、まさに天才的な政治家だった。