明智光秀

明智光秀
 戦国時代の武将で、織田信長に見い出され低い身分から重臣に引き立てられ、多くの領地や軍の指揮権を与えられたが、本能寺の変で織田信長を自害させた。しかし本能寺の変の直後に、中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、落ちていく途中の小栗栖で落ち武者狩りで殺害された。これは光秀が信長を討って天下人になってわずか13日目のことで、この光秀の短い治世を「三日天下」という。

 明智光秀は美濃の出身で通称は十兵衛、妻・妻木煕子との間に、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。領地では善政を行い、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える光秀公正辰祭・御霊神社がある。


織田家仕官以前
 1528年、明智光秀は美濃(岐阜)で生まれた。美濃国の藩主は土岐氏で200年余り守護を務め、数十家の支族を輩出しており、明智氏はその支流であるが父親の名前が伝わらないほど低い身分だった。明智光秀の青年期の履歴は不明で、後に土岐氏にかわって美濃の藩主となった斎藤道三に仕えるが、斎藤道三・義龍父子の争い(長良川の戦い)で斎藤道三側についたため、義龍に明智城を攻められ一族は離散し流浪した。

 明智光秀は斎藤道三が滅亡すると、越前(福井県)を治める朝倉義景に仕官した。しかし朝倉義景からは評価されずに足軽の扱いのまま10年を過ごす。
 1565年に13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺され、その弟の足利義昭が織田信長などの武将に上洛して将軍として擁立することを促した。足利義昭は朝倉義景を頼ったが義景は動かず、そこで美濃を奪った織田信長に頼ろうとした。足利義昭は家臣の細川藤孝を織田信長への使者として送るが、この時に明智光秀も同行した。明智光秀は織田信長の正室・濃姫と血縁関係があり、また細川藤孝に仕えていたので同行したのである。

織田信長の家臣になる
 明智光秀は足軽や雑用係だったが、織田信長の家臣には羽柴秀吉や滝川一益のように、出自がはっきりしない武将が多くいたため問題になることではなかった。光秀は濃姫と血縁関係にあったため、一躍500貫の身分に取り立てられた。これは100人の歩兵と10人の騎兵を率いる身分で、信長は濃姫との血縁から用いたのである。また信長は有能な人材を求めていたので、光秀の能力を見抜いたのであろう。いずれにしても長く屈従を強いられていた光秀は信長に会うことで出世の道を歩んだ。この時、明智光秀は39才であったが、信長はこの光秀によって命を奪われるとは予想もしていなかっただろう。

躍進して大名となる
 明智光秀は足利義昭と信長の二人に仕え、信長の上洛に加わり、三好三人衆の急襲にも活躍している。木下秀吉とともに織田氏支配下の京都奉行の政務を行い、その後は1570年の金ヶ崎の戦いで、信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に、殿役(しんがり)を務め指揮能力を実証した。さらに1571年の比叡山の焼き討ちでは、その実行部隊として信長の命令を忠実に実行している。この時光秀は信長に反対したという説があるが、積極的に焼き討ちに参加したことが資料からわかっている。
 これらの功績によって、光秀は近江の滋賀郡に5万石の領地を与えられ、信長に仕えてから3年で大名になった。この異例の出世は京都の政務、戦場での働きがあったことによるが、秀吉よりも先に領地を与えられたことは、能力だけではなく信長の身内びいきの恩恵があったのであろう。光秀は常に信長の機嫌をうかがい、贈り物を絶やさなかった。こうして光秀は信長の寵愛を受け立身出世の道を突き進むことになる。しかし古くから信長に仕える家臣たちからは疎まれ、家中での評判はよくなかった。これには急な出世を遂げた光秀への妬みの気持ちからである。

足利義昭を見限る
 1573年に将軍・足利義昭と信長の関係が悪化し戦いが起きる。光秀はこの時に足利義昭を見限り信長に従った。足利義昭は信長のおかげで将軍になったが、実質的な権力は与えられず、そのため信長を排除しようと各地の大名に信長を攻撃するように命じたのである。

 足利義昭が挙兵すると、明智光秀は石山城、今堅田城の戦いで信長の直臣として参戦した。信長は将軍義昭との講和交渉を進めるが、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻する。同年7月、また義昭が槇島城で挙兵したため、信長は足利義昭を京都から追放し、室町幕府は滅亡した。このようにして光秀の主は信長ひとりだけになり、信長は光秀を重用するようになる。1575年の高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆殲滅戦に参加し勝利する。

丹波攻略戦
 近江の坂本城主となった光秀は、信長配下の軍団長として各地を転戦し、丹波国(兵庫県北東)の攻略を信長から任されることになる。丹波は堅城が多く各地が山続きで極めて攻めにくく攻略するのに難しい土地であった。そのため光秀は少しずつ城を落とし、八上城主・波多野氏を追い詰め、波多野氏裏切りにより勝利する。1579年、ようやく丹波一国の攻略に成功すると、細川藤孝と共に丹後(京都北部)をも攻め落とし、京都周辺の敵勢力を駆逐した。

 その間にも信長から各地に出動するように命令を受け、本願寺攻めや紀州の雑賀攻めなどにも参加し、信長から丹波一国を加増され34万石を領有するようになった。丹波は京都に隣接する地域で、そこにこれだけの領地を与えられたことは、光秀は信長の家臣団の中でも特に高く評価されていたことになる。

畿内の武将たちを指揮する立場になる
 光秀の領地は34万石であったが、それ以外にも丹後の細川藤孝や大和(奈良)の筒井順慶など、畿内に領地を持つ信長配下の諸将たちへの指揮権を与えられ、計240万石の軍事力を預かる身となっていた。信長の本拠が近江の安土城だったので、その側で大軍を預けられるほど信頼されていた。実質的に信長の身辺を守る地位についていたと言える。1581年には、京都御馬揃えという、正親町天皇に織田軍団を披露する大規模な観兵式の取り仕切りを任された。この任を無事に果たした後、翌1582年の春に武田討伐に参加するが、この時は主力ではなく、討伐の進行具合を見届けるだけで終わった。この年の5月には、信長から饗応の返礼を受けるために上洛をした徳川家康の接待役を命じられる。
 この頃の信長の軍団は関東に滝川一益が、北陸に柴田勝家が、中国地方に羽柴秀吉が配置され、いずれも大きな戦功を立てる機会を与えられていた。光秀は丹波攻略以後、大規模な軍事作戦から外され武将の果たすべき仕事はさせてもらえなかった。そこで新たに四国の討伐軍が編成されることになり、手の空いていた光秀は自分がこの役目を任されることを希望するが丹羽長秀に任され、またしても光秀は軍事作戦を主導する立場につくことができなかった。このような信長の措置が、光秀の心に自分の価値が信長にとって薄れていると疑念を抱かせることになったのかもしれない。人使いが荒いはずの信長から用いられないのは危険な兆候であった。信長には老臣を放逐した前例があったからである。

佐久間信盛の追放
 佐久間信盛は信長の父・信秀の頃から織田家に仕えている重臣で、信長の家督相続を支持した人物である。軍の指揮に秀でて、信長の主だった戦いには全て参加して戦功を上げている。しかし、1576年から任された本願寺の攻略戦において、佐久間信盛は失態を演じてしまう。何年かけても本願寺を攻め落とせず、信長の不興を買ってしまったのである。その結果、1580年に信長から折檻状を突きつけられた。働きの鈍さや過去の失敗について責められ、近畿東海など7ヶ国の武士団を束ねた膨大な領地を没収され追放され、紀州の熊野にまで落ち延びることになった。この佐久間信盛は光秀と同じ年齢であった。光秀もまた近畿の数ヶ国の軍勢を預けられており、佐久間信盛と似た立場にあった。それでいて3年ほどの間、軍事的な功績をほとんどあげていない。このことから光秀はいずれ自分も佐久間信盛のように領地を取り上げられて追放されてしまうのではと疑念を抱いていたのであろう。信長に30年に渡って仕えた佐久間信盛ですら追放されたのだから、14年の経歴しかない光秀ならば容易に信長から捨てられるかもしれない。丹波攻略以後は信長から軍事作戦を任せてもらえない状況が続き、日を追うごとに光秀の心には暗い影がさしたのであろう。

中国遠征への参加命令
 信長が安土城で徳川家康を饗応していた頃、中国地方では羽柴秀吉が毛利氏の大軍と対峙していた。羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにして高松城は陥落寸前であった、しかしそこに毛利氏が4万の軍を率いて援軍にやってきた。羽柴軍は3万であったが油断のできる情勢ではなかった。そこで信長は自ら軍を率いて羽柴秀吉の援護に向かうことにした。毛利軍に織田の大軍の姿を見せつけて毛利の戦意をくじく目的もあった。このため光秀にも中国地方への出動命令がくだされた。四国遠征の指揮官は任せてもらえず、に羽柴秀吉への支援軍としての出動命令だったため光秀の心は晴れなかった。
 この時、光秀は信長を裏切ることを決意するが、これは唐突な決断だった。謀反を成功させるための事前の根回しを一切していなかった。そのため信長に裏切りを察知されなかったが、同時に事後の立場を危うくすることになった。

 

なぜ裏切ったのか
 老いつつあった光秀の心には、恐れと焦りがあったのだと思われる。佐久間信盛の前例と、自分が同じ立場に置かれていることから、追放されることへの恐怖が芽生えていた。四国の遠征軍の大将になる可能性が閉ざされ、任される仕事は観兵式の仕切りや徳川家康の接待などで、武将としての戦いではなかった。閑職に回され、信長にとっての自分の価値が下がっていると感じ、寵愛を失っていると感じていたのであろう。この頃、光秀が信長と口論をして足蹴にされた話や、徳川家康の接待のために苦心して用意した料理を信長に捨てられてしまったなど、二人が不仲になっていたことを示す逸話がいくつか記録に残されている。
 こうした信長の行動が光秀の恐れをさらに強め、自分の身が危うくなっていると思わせました。らに、信長からいずれ丹波の領地を取り上げ、山陰地方を占領したら、そちらに移ってもらうと言われていた、という話もあります。
 信長からすれば、将来の九州征伐に備えて、よりそちらに近い土地に光秀を動かしておこうという意向だったと思われます。山陽を羽柴秀吉に任せ、両者を九州に討ち入らせるつもりだったのでしょう。しかしそうなると、京都周辺の重要地域から遠ざけられてしまうわけで、光秀は自分が左遷されてしまうのだと受け取ったことでしょう。そうなれば、追放されるのもいよいよ時間の問題かと恐れたかもしれません。
 光秀はこの状況から逃れる方法を考え、信長を殺害して自分が天下人になればいい、という飛躍した発想を生み出してしまったようです。信長がいなくなれば追放される恐れはなくなりますし、しかも自分が信長にかわって天下人になれる好機すら生まれます。実際にはほとんど実現可能性のない発想でしたが、目の前の苦しさから抜け出すにはそれしかないと、光秀は思い込んでしまったようです。明敏な頭脳を持つはずの光秀が愚かな案に取り憑かれてしまったのは、それだけ精神的に追い詰められていた、ということなのだと思われる。
 そして事前の準備のつたなさが、光秀が通常の精神状態にはなかったことの証拠になっています。もしもかねてから自身が天下人になる野心を抱いていたほど豪胆なのであれば、根回しをもっと周到に行っていたはずである。
 また、足利義昭や朝廷の公家から信長殺害の指令を受けた、という説もありますが、この時代の朝廷や将軍には実力がなく、光秀を動かせるほどの影響力はありません。なので、追い詰められた光秀が、突発的にひとりで信長の殺害を志したと見るのが、妥当だろうと思います。

不用意な反乱
 明智光秀は信長を討つことを決意すると、明智秀満や斎藤利三ら重臣たちにその意向を明らかにした。明智光秀は部下をよくいたわったため、家臣たちは光秀に忠実に尽くし、家中はよくまとまっていた。このため光秀への反対者は出なかった。そして1万3千の軍を率いて京都に向かい、信長が宿泊している本能寺を襲撃するが、この時に「敵は本能寺にあり」と宣言したのである。
 信長は京都に自分の城を築かず、公家の屋敷に泊めてもらったくらいなので襲撃は容易だった。しかもこの時は護衛部隊である屈強な馬廻衆も連れておらず、わずか100人の近習しかいなかった。このため100対1万3千という圧倒的な戦力差を持って、光秀は信長を追い詰め自害させた。
 本能寺から信長の遺体は見つかっていないが、信長はその死にあたり首を晒し者にさせたくないため遺体が見つからないようにした。このため信長の姿がな見えなかったため本能寺で死去したとされている。このように死後のことを考えていたならば、信長は死に瀕してもなお冷静だったということになる。また柴秀吉は信長がまだ存命と書いた手紙を各地に送り、自分の味方を増やすのに役立てている。光秀は信長を討つことに成功したが、同時に、自らの命運も閉ざしてしまったのである。

 光秀は謀反を起こす前に味方を増やす工作をしていなかった。そのため明智光秀には誰も味方をしなかった。細川藤孝とは足利義昭に仕えてい頃の付き合いで、子ども同士が結婚している関係であったが、細川藤孝すらも味方につかなかった。その与力大名であった筒井順慶が軍を動かすが、羽柴秀吉の強勢を知ると光秀に味方することはなかった。

 光秀は信長を討った後で必要になる、京都周辺の勢力を維持するための同士を集める事前工作を行っていなかったことがわかる。一部の武将たちが光秀に同調するが、とても戦力になるほどの数ではなく大勢に影響はなかった。
 光秀は孤立したまま1万6千のみを軍事力として、京都周辺を保持することになる。光秀はまず近江を占拠し信長の拠点だった安土城を押さえ、朝廷に献金して支持を集めようとした。しかしこの間、羽柴秀吉が中国地方から急行して摂津(大阪)周辺に大軍を集めることに成功している。

 

山崎の戦い

 羽柴秀吉の元に集まった軍勢は3万と言われており、総勢1万6千の明智軍を大きく上回っていた。羽柴秀吉は光秀とは違い池田恒興、中川清秀、高山右近、織田信孝、丹羽長秀など摂津周辺の信長の遺臣たちの協力を取り付けることに成功している。
 羽柴秀吉には「大恩ある信長を殺害した極悪人の光秀を討伐する」という大義名分があったが光秀には大義がなかった。信長は一部の家臣に辛くあたったが、統治能力は優れており、治安を改善し、経済を活性化させるなど多くの功績を残している。そのため世の人から見れば、この時の信長に家臣に討たれるほどの罪があるとは思えなかった。光秀の信長殺害の動機はあくまで自己保身のためであり、世間の支持を得られるようなものではなかった。このことが光秀に誰も味方しなかったことの根本の原因で、羽柴秀吉の元に多くの武将たちが集ったのである。光秀にはその道理がわかっていなかった。信長の下では能力を発揮できる優れた武将であったが、人の上に立って世の中を動かすほどの器量は備えていなかった。あるいはその判断ができないくらいに錯乱していたのであろう。


山崎の戦いで敗れ、農民に討たれる
 明智光秀は圧倒的に不利な状況にあったが、それでも軍を集め、京都の山崎で羽柴秀吉の軍勢を迎え撃った。山崎以外の各地の押さえが必要だったため、光秀の軍勢はこの時1万程度だったとされている。精鋭部隊であった明智秀満の部隊は坂本城の守備に残しこの決戦への集中力を欠いていた。これに対し羽柴秀吉の側は守りに入る必要がないため、全軍をこの戦いに振り向けられた。この結果、山崎の戦いは羽柴秀吉の圧勝に終わり、敗北した光秀はわずかな軍勢とともに坂本城に向けて落ち延びた。しかしその途中で落ち武者狩りの農民たちに襲撃され、竹槍で刺されて重傷を負い、家臣に介錯されてその生涯を終えた。享年は55であった。
 光秀の主だった家臣たちも死亡しており、信長とともに滅んでしまうことになった。羽柴秀吉の他にも、柴田勝家や徳川家康も光秀討伐の軍を動員しており、もし羽柴秀吉との戦いがなくても各方面から攻撃され滅びたたことに変わりはなかった。

 

信長はなぜ裏切られたのか
 信長の側から見ると、どうして光秀が裏切ったのか。それには佐久間信盛らの追放の影響が大きかった。信長に長年に渡って仕え、功績も大きかった老臣・佐久間信盛の追放劇は他の武将たちの信長への忠誠心を揺らがせるものだった。佐久間信盛以外にも長く信長に仕えていた重臣の林秀貞など、数名の武将たちが同時期に追放されている。光秀が最初に行動したが、他の軍団長たちも自分たちの働きが鈍れば信長に領地を没収され、追放されてしまうことを恐れていたのであろう。それならばその前にと考える者が出てきてもおかしくはない。

 信長には配下の者たちへの配慮が欠けていた。信長は生まれながらの大名で、誰にも従ったことがないので、仕える立場の人間について配慮が不足していた。そのことが信長が天下人になるのを妨げていた。

 明智光秀は長い間、低い身分に置かれ苦労を重ねたため部下をいたわり、統率する力にがあった。領地でも善政を行い内政にも優れ、今でも丹波亀山の地では光秀を偲ぶ人たちがいる。そのために反乱を起こしても配下の武将たちがついてきてくれ、信長を討つことができた。しかし同時に、かつて低い身分にあっただけに、失うことを恐れる気持ちもまた強く、それが自爆とも言える信長殺害の行動へとつながったのだろう。



本能寺の変
 1582年5月、徳川家康の饗応役だった明智光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられて6月2日早朝に出陣するが、その途上の亀山城近くの柴野陣で重臣達に信長討伐の意を告げたとされている。雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされず、信長の命令で徳川家康を討つと思いこんでいた武将もいた。軍勢は信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことで京都へ向かった。しかし光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、100人足らずで守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害した。しかし信長の死体は発見できず、その後、二条御所にいた信長の嫡男・信忠を応援に駆け付けた武将ともども討ち取った。また津田信澄(信長の弟・織田信行の子)は光秀の娘と結婚していたが大坂で討たれた。
山崎の戦い
 明智光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党を追い、さらに安土城への入城と近江を抑えようとするが勢多城主の山岡景隆が瀬田橋と居城を焼いたため仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り6月4日までに近江をほぼ平定し、6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して家臣に与えた。6月7日、誠仁親王は京都市内が騒動し混乱を憂いて、光秀に京都の治安維持をまかせている。光秀は6月8日に安土を発って9日に昇殿して朝廷に銀500枚や、五山や大徳寺に銀各100枚、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。
だが光秀と姻戚関係にある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。また大和一国を支配する筒井順慶も秀吉に味方した。ただし筒井については秀吉が帰還するまでは、消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた。
 本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の6月13日、天王山の麓の山崎(京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。
 決戦時の兵力は羽柴軍2万7千(池田恒興4,000、中川清秀2,500、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000)に対し明智軍1万7千であった。兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千程度しか展開できず、合戦が長引けば明智軍にとって連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、高山右近や中川清秀など現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。
 当日、羽柴秀吉配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠し、戦術的に勝敗が決したとの見方がある。だがこれは羽柴秀吉側の記録であり真意は不明である。
 また秀吉側3万5千に対し、各城にも兵を残したため実数1万程度であり、戦いが始まると短時間で最大勢力の斎藤利三隊3千に包囲され戦いの帰趨が決まったとの見解もある。また別の見方では、本来、明智勢は小泉川の後方に陣取り、天王山と淀川の細くい路を進撃する秀吉軍を包み込んで包囲殲滅できるはずが、淀川沿で決戦を挑む秀吉軍の勢いを止めることができず光秀は敗北したとされる。
 同日深夜、坂本城を目指して落ち延びる途中、落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負った光秀は自害し、家臣・溝尾茂朝に介錯させその首を近くの竹薮の溝に隠したが、 光秀の首は発見した百姓により信孝の元に届き本能寺でさらされ、その後17日に捕まり斬首された斎藤利三の屍とともにさらされ、6月24日に両名の首塚が粟田口の東の路地の北に築かれた。
 安土城で留守を守っていた明智秀満は、14日に山崎での敗報を受けて残兵とともに坂本城へ戻ったが多くが逃亡し籠城戦も無理だとして、自分の妻子を殺し城に火を放って自害した。
 従来の説では光秀は、信長の比叡山延暦寺焼き討ちに強く反対し仏教勢力と親密だったとされてきた。だが信長の命令とは言え延暦寺焼き討ち、石山戦争などの対宗教戦争に参戦しているほか、自領の山門の領地を容赦なく没収しているため、宗教に対して必ずしも親密ではなかった。
 この従来の諌止説を覆したのが、叡山焼き打ち10日前に雄琴の土豪・和田秀純宛に比叡山に一番近い宇佐山城への入城を命じ、非協力な仰木(大津市仰木町)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実かつ中心的な実行者と判明している。光秀は従来から言われるような保守主義者ではなく合理主義者であり、そのため信長に重用されて信任されたのである。
    主君・織田信長を討った行為については、近代に入るまでは逆賊との評価が主だった。特に儒教的支配を尊んだ徳川幕府の下では、本能寺の変の当日、織田信長の周りには非武装の共廻りや女子を含めて100名ほどしかいなかったこと、変後に徳川家康が伊賀越えという危難を味わったことなどからこのことが強調された。
    本能寺の変後、光秀と関係の深い長宗我部元親・斎藤利堯・姉小路頼綱・一色義定・武田元明・京極高次等が呼応する形で勢力を拡大している(他に北条氏・上杉氏・紀伊や伊賀の国人衆等)。
   フロイスの日本史では光秀を、 「その才知、深慮、狡猾さにより信長の寵愛を受け、裏切りや密会を好み、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人で、友人たちには人を欺くために72の方法を体得し、学習したと吹聴していた」称している。さらに  「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。自らが受けている寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備え、誰にも増して絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ、光秀の働きぶりに同情する信長の前では、信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。 「刑を科するに残酷」「独裁的でもあった」「えり抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。殿内にあって彼はよそ者であり、外来の身であったので、ほとんど全ての者から快く思われていなかった」
  このようにの光フロイス日本史では、信長が世間で広く信用されているのに対し、光秀評は無視されていると記し、光秀に対する評価を見直すべきとしている。
 宗教面に関しては悪魔(神道・仏教)とその偶像の大いなる友で、イエズス会に対しては「冷淡であるばかりか悪意を持っていた」とフロイスは書いているが、特にキリシタンに害を加えたという記述はない。また本能寺の変の時、光秀の小姓の1人が、宣教師に高山重友を説得させるためではあったが宣教師たちを宿泊させている。
    西近江で一向一揆と戦った時、明智軍の兵18人が戦死した。光秀は戦死者を弔うため、供養米を西教寺に寄進し。他にも戦で負傷した家臣への光秀の見舞いの書状が多数残されている。家臣へのこのような心遣いは他の武将にはほとんどみられないものであった。
    フロイスは本能寺の変のあと、摂津国に軍を向けて諸城を占領し、諸大名から人質を取らなかったことが秀吉に敗北した原因であるとしている。ただしこれは結果論であり、当時の光秀の立場を無視しているとも言われる。光秀は近江方面の平定から始めている。これは常識的な判断で、秀吉の「中国大返し」という思わぬ事態にそれ以上の展開を阻まれたのである。しかし4日から8日まで5日間も安土にとどまり朝廷工作を優先したことは大きな失敗である。
    光秀は信長を討った後、味方に付く大名がほとんどいなかったため、なりふりかまわぬ行動をしている。特に縁戚関係にあった細川藤孝・忠興父子に対しては「家老など大身の武士を出して味方してくれれば、領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男)や与一郎に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状がある。
    光秀は諸学に通じ、和歌・茶の湯を好んだ文化人であった。光秀の連歌会参加の初見は1568年だが詠んだ句は6句と少なく未熟だったが2年後には8句を詠み、その後の1574年)には連句会を初主催して発句と脇句を詠み計9回も主催した。他の催した連歌会の参加は11回にも及び、当時の連歌の第一人者・里村紹巴とと交流し、1581年には細川藤孝親子の招きで紹巴たちと9月8日に出発して天橋立に遊び、12日に連歌会を行っている。
     信長は「許し茶湯」を家臣管理に使用し、茶道具を下付された家臣に茶会主催を許可し、その許可者は12名になるが光秀も選ばれている。この時、八角釜を拝領し、津田宗及に師事し、12回も茶会を催している。初回は慣れないのか、主催の亭主の行い事をすべて津田宗及が代役している。
    内政手腕に優れ領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。現代の亀岡市、福知山市の市街は、光秀が築城を行い城下町を整理したことに始まる。亀岡では光秀を偲んで亀岡光秀まつりが行われている。福知山には、「福知山出て 長田野越えて 駒を早めて亀山へ」と光秀を偲ぶ福知山音頭が伝わっている。

江戸期の編纂書・軍記や伝承不明の説話
 光秀は享禄元年(1528年)に父は明智光隆、母は武田義統の妹の間に美濃多羅城で生まれたと言われている。
20歳位の頃、芥川で光秀は大黒天の像を拾った。それを見た家臣が「大黒を拾えば1,000人の頭になれるそうです」と述べて喜んだが、光秀は「ならばこれは必要ない」と捨ててしまった。驚いた家臣が尋ねると、「わしは1,000人の頭になることくらいで終わるつもりはない。もっと大きくなる」と述べて大志があることを示した。   明智軍記によれば1556年に美濃を出て越前大野に行き、いったん上洛し妻子を寺に預けてから1560年から2年間で奥州盛岡から薩摩まで日本全国を回り各地の城構えや民政を見聞した。ただしその内容はでたらめの部分が多い。
    流浪時代に毛利元就に仕官を求めた際に、元就は「才知明敏、勇気あまりあり。しかし相貌、おおかみが眠るに似たり、喜怒の骨たかく起こり、その心神つねに静ならず。(光秀の才気は並々ならぬものがあり非常に魅力的ではあるけれども、彼の中にはもう一つ狼のような一面が眠っている。利益と同じだけの災いをもたらす可能性も大きい。)」と言い断ったという。
    1562年に加賀で浪人していた光秀は一向一揆と戦う朝倉景行の軍師として参戦した。一揆の動きを見た光秀は景行に対して「夜討ちに備えるべき」と進言した。多くの者は飛び入りの光秀を快く思わず意見を聞き流したが、景行のみは半信半疑ながらも夜討ちに備えた。すると光秀の進言どおりに一揆が夜討ちをかけてきたが、備えを布いていた朝倉軍は一揆に大勝し、景行は光秀の慧眼と非凡な器を知り、光秀に義景への仕官を勧めた。
   また 鉄砲の名手で朝倉義景に仕官した際、45.5メートル)の距離から命中させたという。当時の火縄銃や弾丸の性能を考えると、驚異的な腕前である。そのほかにも、飛ぶ鳥を撃ち落としたという逸話もある。
    ある合戦で対陣中の光秀の下に、塩瀬三右衛門という者が陣中見舞いとして光秀の好物を持参した。光秀が喜んで食べていると敵軍の鬨の声が聞こえてきたため、光秀は慌てながら残りを急いで食べると指揮を執った。あまりの急ぎぶりに光秀の口周りは汚れたままで、これを見た家臣は「殿(光秀)ほどの御方でも心遅れされるとは無様なものよ」と呆れたが、心ある者は「名将となる者は軍のことのみを心がけており、寝食など忘れるもの。殿は食事などこだわらず、軍に心を委ねている証である」と述べた。
    他に類を見ないほどの愛妻家としても知られており、正室である煕子が存命中はただ1人の側室も置かなかった。婚約成立後、花嫁修業をしている際に煕子が疱瘡を患い、顔にアバタが残ってしまった。これを恥じた煕子の父は、光秀に内緒で煕子の妹を差し出すが、これを見抜いた光秀は「自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている」と言い、何事もなかったかのように煕子との祝言を挙げた。
    本能寺の変で信長を討った後、光秀は京童に対して「信長は殷の紂王であるから討ったのだ」と自らの大義を述べた。しかし京童や町衆は光秀が金銀を贈与していたから表面上は信長殺しを賞賛したが、心の中では「日向守(光秀)は己が身を武王に比している。笑止千万、片腹痛い」と軽蔑していた。
 辞世
西教寺に明智光秀公辞世句の碑があるが、いずれも後世の編纂物によるものである。
 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」
 (順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来れば 一元に帰す)『明智軍記』[注釈 23]
「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」[63]

伝承史跡

    明智藪
    胴塚:明智藪から街道筋を坂本城の方向へ2km北上した京都市山科区勧修寺御所内町にあり光秀の胴体部分を埋葬したと伝わる。江戸時代に広まった『明智軍記』の鑓で刺され深手を負った光秀がしばらく進んで絶命したという記述に基づき、明智藪から近距離に後世に里人が作った供養塔だと評されている。
    首塚

    三好宗三が和泉に勢力を誇っていたとき、その弟・三好長円が現在の大阪府泉大津市に「蓮正寺」を建て、境内に仁海上人が「助松庵」を建立し、その助松庵に光秀が隠棲したと口碑に伝えられている。大阪府高石市の「光秀(こうしゅう)寺」門前の由来によれば、その助松庵が現在の「光秀寺」の地に移転したと書かれており、門内の石碑には「明智日向守光秀公縁の寺」と書かれている。この地域に残る「和泉伝承志」によれば、本稿「山崎の戦い」に書かれている光秀とされる遺体を偽物・影武者と否定し、京都妙心寺に逃げ、死を選んだが誡められ、和泉貝塚に向かったと書かれている。光秀と泉州地域との関連では、大阪府堺市西区鳳南町三丁にある「丈六墓地」では、昭和18年(1943年)頃まで加護灯篭を掲げ、光秀追善供養を、大阪府泉大津市豊中では、徳政令を約束した光秀に謝恩を表す供養を長年行っていたが、現在では消滅している。
    桑田郡(亀岡市畑野町)の鉱山へ度々検視に訪れていた光秀が峠にさしかかったとき、大岩で馬は足をとめた。光秀に鞭打たれた馬は、身をふるわせて“馬力”をかけ何度も蹄で岩をけり、登ったという。その足跡が「明智光秀の駒すべり岩」として伝えられた。しかし、その岩は明治時代ゴルフ場が建設されたときに地中に埋められたという[66][要高次出典]。
    光秀が愛宕百韻の際に亀岡盆地から愛宕山へ上った道のりは、「明智越え」と呼ばれ現在ではハイキング・コースになっている。
    本能寺の変の際、摂丹街道まで行軍していた丹波亀山城からの先陣が京都へ向かって反転した法貴峠(亀岡市曽我部町)には、「明智戻り岩」が残されている。

光秀の謎
出自
光秀は美濃の明智氏の出身とされるが、前半生が不透明なこともあって以下の出自説が存在する






愛宕百韻の真相
愛宕百韻とは、光秀が本能寺の変を起こす前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。
 光秀の発句「時は今 雨が下しる 五月哉」をもとに、この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」を「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」の寓意であるとし、「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する」という意味合いを込めた句であるとしている。あるいは、「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者・津田勇の説では「五月」は、以仁王の挙兵、承久の乱、元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされる。しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただではおかないはずである)。また、愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句水上まさる庭のまつ山についても併せて検討する必要があるとの主張もある(ただし、第2句の読み手は光秀ではない)。まず、「水上まさる」というのは、光秀が源氏、信長が平氏であることを前提に考えれば、「源氏がまさる」という意味になる。「庭」は、古来朝廷という意味でしばしば使われている。「まつ山」というのは、待望しているというときの常套句である。したがって、この第2句は、源氏(光秀)の勝利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。

本能寺の変の原因
 本能寺の変でなぜ明智光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されている。もちろん確固たる原因や理由が出されているわけではないが、現在までの主な説を記してみる。
怨恨説
    信長は短気かつ苛烈な性格でなため、光秀は常々非情な仕打ちを受けており、それらを列挙すると、信長に大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「この白刃を呑むか、酒を飲きか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲んだとしている。また同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけると「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけられ頭を打たれた。キンカ頭とは「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることから信長なりの洒落との説もある。

 1569年6月、丹波八上城に母親を人質とに出して、城主の波多野秀治・秀尚兄弟や従者11人を生け捕りにして安土に移送したが、信長の刺客に襲われ秀治は殺害され、生き残った者は磔にされた。これに激怒した八上城の家臣が光秀の母親を磔にした。殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていた(これは創作の可能性が高い)。

 1582年、信長は武田家を滅ぼした徳川家康を労うため、安土城において家康を饗応した。この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されている。光秀は家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐさま秀吉の援軍に行けと命じられた。

甲州征伐の際に、反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前ごときが何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥をかいた。このように怨恨説は根強い。

野望説
    明智光秀が天下統一を狙っていたという説である。この説に対しては「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」という意見や、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ない機会だった」とする意見がある。
恐怖心説
    長年信長に仕えていた佐久間信盛や林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したという説である。これは怨恨説など諸説の背景としても用いられる。もしくは今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったという説もある。
理想相違説
    信長を伝統的な権威や秩序を否定し、一向宗勢力、伊賀の虐殺などで天下の統一事業を目指したと解釈し、光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとしたと考える説である。この説は、光秀は信長の命とともにその将来構想(独裁者の暴走)をも永遠に断ち切ったと主張する。そして光秀も自らの手でその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、江戸幕府によって実現されたと主張する。なお、光秀は自身も教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多い。特に両翼として同調が期待されていた細川氏(管領家の分流)、筒井氏(興福寺衆徒の大名化)は典型であり、こうした状況もこの説の背景となっている。
将軍指令説 / 室町幕府再興説
    光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説。
朝廷説
    「信長には内裏に取って代わる意思がある」と考えた朝廷から命ぜられ、光秀が謀反を考えたのではないかとする説。この説の前提として、天正10年(1582年)頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い始めており、また近年発見された安土城本丸御殿の遺構から、安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたという意見を掲げる者もいる。
    近年、立花京子は「天正十年夏記」等をもとに、朝廷すなわち誠仁親王と近衛前久がこの変の中心人物であったと各種論文で指摘している。この「朝廷黒幕説」とも呼べる説の主要な論拠となった「天正十年夏記」(『晴豊記』)は、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記の一部であり、史料としての信頼性は高い。立花説の見解に従えば、正親町天皇が信長と相互依存関係を築くことにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好であったという解釈は成り立たない。三職推任問題等を考慮すると、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
    朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし、立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていること、『晴豊記』の近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い(立花は「非挙(よくない企て)」と解釈しているが、これは「非拠(でたらめ)」と解釈されるべきであるとの津田倫明、橋本政宣らの指摘がある)。
    一時期は最も有力な説として注目されていたが、現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっているが、井沢元彦は朝廷あるいは公家が光秀謀叛に大きく関与していたのではないかと推測している。
四国説
    比較的新しい説とされるが野望説と怨恨説で、信長の四国政策の転換を指摘されている。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、1580年に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀が本能寺を襲撃したとする。藤田達生から光秀・元親ラインと羽柴秀吉・三好康長ラインの対立と主張されている。
イエズス会説
    信長の天下統一の事業を後押しした黒幕を、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた教会、南欧勢力とする。信長がパトロンであるイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する独自の動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り本能寺の変が演出されたとする説がある。この説には大友宗麟と豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊がキリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。いずれも宗教上の問題以外に硝石、新式鉄砲等の貿易の利ざやがあったとされる。しかしイエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理です」と書いている事柄からすると、商業主義を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのはデメリットになる。この説を唱える史料の扱い方や解釈に問題があり歴史学界ではほとんど顧みられていない。キリシタン大名との関係では、朝廷と同じように関係を継続していこうとする光秀の考えと、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じたとする傾向の説が出ている。
諸将黒幕説
    織田家を取り巻く諸将が黒幕という説で徳川家康や豊臣秀吉が主に上がる。
徳川家康黒幕説
    家康の場合、信長の命により、長男・信康と正室・築山殿を自害させられたことが恨みの原因といわれている。ただし近年では、2人の殺害は信長の命ではなく、家康と信康の対立が原因とする説も出されている。家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している。
豊臣秀吉黒幕説
     秀吉の場合は、佐久間信盛や林秀貞達が追放され、将来に不安を持ったという説がある(中国大返しの手際が良過ぎることも彼への疑惑の根拠となっている。詳細は豊臣秀吉#本能寺の変の黒幕説を参照。
徳川家康共謀説
    同じく家康との関係を原因とする説として、「信長は、自ら仕掛けた罠に自分自身がはまってしまった」という「光秀家康共謀説」がある。「信長は本能寺に家康を呼び寄せ殺害する、という家康潰しの計画を企て、その実行を光秀に命じたが、光秀は信長を裏切り家康と共謀。光秀と家康は「信長の命令による家康討ち」の計画を利用し、「信長討ち」にすり替えた」というものである。信長は光秀に全幅の信頼をよせており、襲われるのは家康であって、自分が狙われることなどあり得ないと考えていたため、本能寺での無警戒ぶりが合点がいくのである。また家康が安土招請や堺見物で不思議なまでに無警戒だった理由も理解できるのである。「神君伊賀越え」は予定通りのルートであり、苦難とされたのは世間に隠すためのカモフラージュというものである。この説の根拠には、本能寺の変に参加した武士が書き残した『本城惣右衛門覚書』、フロイス『日本史』や、アビラ・ヒロン『日本王国記』の記述がある。
無罪説
    本能寺の変後の秀吉側の手際の良さと明智側の無策ぶり、秀吉側の変の関係者と目される者が短期間で相次いで死亡したことから、信長暗殺の実行犯は光秀ではなく秀吉であるとする説がある。この説は本能寺の変が起きる前に、秀吉は毛利と密約を結んで山陽道を引き返し、暗殺部隊を京に送り信長父子を殺害し事件を聞きつけて本能寺に急行した明智光秀を謀叛人にしたてあげ、さらに事が成った後に秀吉が秘密を知る者を葬ったという推論である。この説によると本能寺の変後に連続死した人物は、 誠仁親王、丹羽長秀、蒲生賢秀、秀吉の家臣・杉原家次があげられ、なかでも杉原家次は変後、旧明智領の福知山城主となったがその2年後に変死し、その子孫は光秀のために怨みを持って死んだり非業の死を遂げた者の祟りをしずめるための神社である御霊神社を創建したとある。


本能寺の変の真犯人は、この「明智光秀」ではなかった?(提供:アフロ )
戦国の世の終焉を目指し、最大の脅威だった甲斐の武田氏を滅ぼして、天下統一をほぼ手中に収めていた織田信長。しかし、突如として家臣である明智光秀に裏切られ、京都の本能寺で非業の最期を遂げる。
このとき、突然、主君を裏切った明智光秀の「真の動機」はわかっておらず、さまざまな説が唱えられている。
なかでも興味深いのが「黒幕の存在」だ。事件の裏で彼を扇動していた人物がいたのか? いたならば、それはいったい誰だったのか? 
「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。
本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「本能寺の変」を解説する。
最も無防備な瞬間を狙われた信長


【信長暗殺の黒幕1】
「徳川家康」説
徳川家康は「信長の部下」ではなく、同じ大名としての「同盟者」です。そして当然、彼も天下を狙っていたでしょう。事件当日、家康は堺方面に鉄砲を買い付ける目的で寄留中で、大金を所持していました。この大金を、共謀する光秀が事件を起こしたあと、安土から西の地域の大名・商人を支配下におくために家康が用意していたもの、と考えれば……? 家康は、堺の商人たちと親しくしていました。南蛮貿易を進めていた信長の動きは、堺の商人たちの利益を奪うものでもありました。そこで商人たちが、家康に信長打倒をそそのかしたということは、十分に考えられます。ただし、事件後に家康は、浜松に帰還するのにたいへんな苦労をしています。家康は黒幕というよりも、一被害者と考えることもできます。
【信長暗殺の黒幕2】
「羽柴(豊臣)秀吉」説
数々の合戦で手柄を立てながらも、家柄の低い秀吉は、織田家の中で最も下に扱われていました。信長には、柴田勝家、滝川一益といった実力のある譜代の家臣たちがいます。いくら「実力主義」を掲げる信長のもとでも、「自分がトップに躍り出るのは難しい」と考えた秀吉が、一発逆転を狙って信長の暗殺を企てた、と解釈すれば……?当時、秀吉と光秀は信長から山陽・山陰地方の攻略を任されていました。「2人が結べば西日本を押さえられる」と秀吉が光秀をけしかけ、信長暗殺を決行させたと考えることも可能でしょう。そうだとすれば、その後タイミングを計ったように素早く敵対する毛利と和睦を結び、ありえないスピードの「中国大返し」で都に帰還した彼の行動も、容易に説明できます。事実、秀吉は京方面にも多くの間諜を配していたようで、かなり早い時間に本能寺の凶変を知ったようです。明智光秀を討った「山崎の戦い」は、「謀反の責任を光秀に押し付ける口封じのため」とも解釈できます。
ほかにも、事件の黒幕として「毛利氏説」「仏教勢力説」を唱える人もいます。
「毛利氏」「仏教勢力」説もある

【信長暗殺の黒幕3】
「安国寺恵瓊(毛利氏)」説
甲斐(現在の山梨県)の武田氏が滅んだあと、信長にとって最も脅威となったのは中国の毛利氏でした。毛利氏は信長に派遣された秀吉と攻防を繰り広げていましたが、まもなく信長自身による本格的な攻勢が始まることを知り、存亡の危機に直面していました。そこで、毛利氏の使僧(外交僧)だった安国寺恵瓊(えけい)が、光秀や秀吉への全面協力を条件に信長暗殺をけしかけ、これを実行させたとすれば……?後に秀吉の時代となり、安国寺恵瓊や毛利氏はとくに優遇を受けています。「信長にかわって秀吉が天下をとれたのが、安国寺恵瓊や毛利氏のおかげだった」と考えれば、納得できる処遇です。

【信長暗殺の黒幕4】
「仏教勢力」説
信長は比叡山延暦寺や石山本願寺など、仏教勢力を弾圧し、その恨みを買っていました。特に石山本願寺は、最後まで信長に対抗する姿勢を見せていたものの、信長の要請による天皇からの仲介で和睦となり、本拠地である大坂を退去させられていました。このような中で、信長に強い反感を抱いていた本願寺の勢力が、「いつかは信長を亡き者に」と考えていたとすれば……? 信長がキリスト教を積極的に保護していたことから考えても、十分に説得力のある説です。して、これらの諸説の中でも、現時点で最も有力なのが、次の「黒幕説」です。明智光秀の「動機」が不明な中、現時点で最も有力な「黒幕説」といわれているのが、次に紹介する「朝廷・公家勢力」説です。

【信長暗殺の黒幕5】
「朝廷・公家勢力」説
 信長は安土城内に、天皇の住まいである清涼殿を模した御殿を造営していたことが発掘調査で明らかになっています。つまり、「天皇を安土に迎える構想」を抱いていたと考えられます。もしこの構想が実現すると、公家勢力が「朝廷の実権が信長に握られ、自分たちの地位がないがしろにされる」と危機感を覚えた可能性は十分考えられます。そこで、「正親町(おおぎまち)天皇」の側近である「近衛前久(さきひさ)」「勧修寺晴豊(はれとよ)」「吉田兼見(かねみ)」らを中心に光秀を取り込み、信長暗殺をけしかけたと考えれば……?現実には公家たちの思惑は外れ、天下は秀吉のものになります。しかしそのとき、公家たちは、五摂家の者だけしか就くことができない「関白」の地位を、出自が定かではない秀吉に与えるのです。これを、「信長のような勝手な行動を秀吉にさせないために、公家勢力が秀吉を懐柔する策をとった」と考えれば、「朝廷・公家黒幕説」は大いにありうる話でしょう。
日本史上「最大の謎のひとつ」は解明されるか

事件当日、寺を取り囲まれた信長は、自らの命を狙う謀反の相手が光秀だとは予想だにしていませんでした。それほど光秀の裏切りは謎に包まれており、「日本史上最大の謎のひとつ」となっています。
回紹介した各「黒幕説」も、光秀個人の動機がはっきりしない中で出てきた真相解明へのアプローチのひとつです。決定的な証拠が見つかっているわけでもなく、もちろんどれも断定はできない話です。「本能寺の変」については、古くから50以上の説が提起されており、新史料や発掘調査の成果公表にともない、今後もさらに新説が出てくる可能性は非常に高い状況です。本能寺の変は「明智光秀の単独犯行」なのか、それとも「黒幕」が存在したのか。今後の研究に期待したいと思います。

近年の発掘調査によって、本能寺は「寺」というよりむしろ「城郭」に近い構造だったなど、日本史では次々と新事実が判明しています。ここ数十年の間に、私たちがかつて習った日本史は、大きく様変わりしているのです。歴史研究は日々進化しており、歴史はたえず変化しています。私たちが学生時代に習った「日本史」と、いまの「常識」は大きく異なっているケースもあります。ぜひ、この機会に「最新の日本史」を知り、大人として知っておきたい「歴史の知識と教養」をいっきに身に付けてください 1582年に発生した日本の歴史上、最大のクーデターと称される「本能寺の変」。なぜ家臣の明智光秀は主君の織田信長を討ったのか‥‥。その動機について、「信長を恨んだ末の謀反だった」というのが定説だったが、光秀の子孫がこれまでの議論に一石を投じたのだ。はたして431年目の新事実とは!?
「私が祖先の明智光秀の研究を始めたのは、20歳頃のことで、一冊の歴史本を読んでからです。それまで私の心の中には、『上司(織田信長)にイジメられて殺すなんて、そんな浅はかなことをする祖先だったのか』という疑問があったのですが、その本には『(怨恨説は)後世の軍記物による作り話だ』と書かれていて、明るい気分になれたんですよ。同時に『じゃ、何だったの?』という思いが募り、真実が知りたくて研究者の本をことごとく読みあさりました。ところが、読めども読めども納得がいかなかったんですよね」
そう語るのは明智光秀の子・於寉丸〈おづるまる〉の子孫で、「本能寺の変431年目の真実」(文芸社)の著者である明智憲三郎氏だ。明智氏は、大手電機メーカーに就職し、情報システム分野のエンジニアとして一貫して歩むかたわら、膨大な資料を読みあさり、その成果を著書や講演活動を通じて発表。これまでの「明智光秀=謀叛人」のレッテルとは違う“光秀像”を描き、発売から半年余りで26万部という異例のベストセラーとなっている。明智氏が続ける。「私はド素人でしたし、歴史学者のように研究によって生計を立てていないので、効率なんて無視し、過去の研究成果をもとにもしなかったことで、今までと違うやり方でアプローチできました。それは犯罪捜査の手法のような、さまざまな証拠から蓋然〈がいぜん〉性(確からしさの度合)の高い真実から復元することでした。決して(思い込みによる)答えを持たず、信憑性のある資料から徹底的に証拠を集め、本能寺の変を洗い直しました」つまり、これまでの「光秀の謀叛説」を裏付けるような資料についても、あえてもう一度、自分の目で調べ直して“信頼に足る”情報のみを取捨選択。「本能寺の変」の真の動機について、解明しようと試みたというのだ。 その結果、本能寺の変は「逆臣=明智光秀」どころか、徳川家康との談合のあげく、やむにやまれず、信長討ちを果たすことになったと結論づけている。明智氏が言う。