明智光秀

明智光秀
 明智光秀は織田信長に見い出され、低い身分から重臣にまで引き立てられ、多くの領地や軍の指揮権を与えられた。織田信長に重用され京都の庶政をつかさどり,丹波攻略などで活躍し戦功により近江・坂本城主となる。しかし本能寺の変で織田信長を襲い自刀させたのは何故なのか。

 この本能寺の変の直後に、中国から大返しに戻ってきた羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、落ちていく途中の小栗栖(おぐるす)で土民の「落ち武者狩り」にあい殺害された。

 光秀が死去したのは信長を討って天下人になってからわずか13日目のことで、この光秀の短い治世を「三日天下」と呼んでいる。「本能寺の変」は戦国時代最大の出来事であり、また光秀の殺害動機に大きな謎を含んでいる。

 そのため日本人の多くは「本能寺の変」か、その後に明智光秀が秀吉に倒された天王山の戦い(山崎の合戦)で歴史への興味が頂点に達するが、その詳細についてはあまり知られていない。明智光秀は主君殺しの謀反人のイメージが強く人気はないが「本能寺の変」さらには明智光秀が死去するまでの経過を解りやすく解説する。

 明智光秀は美濃の出身で、妻・妻木煕子との間に細川忠興の正室になる珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室をもうけている。

 意外なことに明智光秀は領地では善政を行い、税金を軽減して治水工事を行うなどして人気が高い。京都の福知山市には明智光秀を祭神とする御霊神社があり、忌日に光秀公正辰祭が現在も行われている。また明智光秀は当時の武士にはめずらしいほどの教養人で茶会や連歌会を催すなどしている。

 

田家仕官以前
 1528年、明智光秀は美濃守護・土岐氏の庶流で東美濃の豪族・明智城主の嫡子としで生まれた。土岐氏は200年余り美濃国の守護を務め、数十家の支族を輩出しており、明智家はその支流であり父は明智光綱とされている。

 明智光秀の青年期の履歴は不明であるが、後に土岐氏にかわって美濃の藩主となる斎藤道三に仕えていた。斎藤道三と斎藤義龍との父子の争い(長良川の戦い)で斎藤道三側についた明智家は、斎藤義龍に明智城を攻められ明智一族は離散している。
 明智光秀は諸国流浪の末に鉄砲の射撃技術を身につけ越前(福井県)の朝倉義景に仕えたが、朝倉義景からの評価は低く足軽のまま10年を過ごした。

 

妻・煕子

 明智光秀は明智家の再興を誓って諸国を放浪し、禅寺の一室を間借りするなどの極貧生活を続けた。困窮する生活の中、連歌会を催すもお金がなかった時に、妻・煕子は自分の黒髪を売って生活を支えた。

 なお江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉は、黒髪を売った煕子のこの逸話が好きで、「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せん」(今夜はしみじみと明智の妻のむかし物語をしようではないか。月もこのものさびた情景を照らしておくれ)と句に詠んだほどである。

 この句は、伊勢の神職で蕉門の又幻(ゆうげん)が神職間の勢力争いに敗れ、貧窮のどん底にあった頃、芭蕉が奥の細道の旅を終えて伊勢の遷宮参詣の折りに又幻宅に止宿した。貧しさにもかかわらず又幻夫婦の暖かいもてなしを受けた芭蕉は感激して後に贈られた句である。松尾芭蕉は俳諧師として有名であるが、女性について残したのはこの句だけである。

 話は前後するが、明智光秀は煕子と婚約後しばらくして煕子は疱瘡にかかり美しかった顔に痘痕が残ってしまった。妻木氏にとって潰したくない縁談だったので、父・妻木範煕は煕子と瓜二つの妹(芳子)を姉の身代わりにさせて光秀のもとにやったが、光秀はそれを見破り、煕子を妻として迎えた。当時の武将は側室を複数持つのが普通だが(家康は21人)、光秀は側室を置かず妻は煕子ひとりだけだった。謀叛人と言われた明智光秀と妻・煕子の逸話がなんとも微笑ましく心暖まる夫婦の話で、謎の多い武将・明智光秀の人間的な一面を表しているようで非常に興味を引かれる。武将としても為政者としても優秀であった明智光秀は、夫婦生活の面においても一流人であった。

 なお煕子は本能寺の変の前に亡くなっている。後の時代に明智光秀は丹波攻略を行いながら本願寺との戦闘にも参加していた頃、光秀は過労で倒れ危篤状態にまでなったが、煕子の献身的な看護で持ち直し2ヶ月後には前線復帰した。しかし不眠不休で看護を続けた煕子はこの時の心労と疲労で倒れ、そのまま息を引き取ったのである。享年46歳、お墓は滋賀県大津市にある明智氏の菩提寺・西教寺にある。明智光秀は煕子が存命中は側室を置かず、三男四女仲睦まじく夫婦生活を送っている。
 1565年、光秀38歳の時に13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されると、その弟である足利義昭が京を脱出して朝倉義景を頼ってきた。明智光秀は足利義昭の側近・細川藤孝と意気投合し、細川藤孝を通して足利義昭を知ることになり、足利義昭に目通りがかない義昭の直臣となる。

 足利義昭は室町幕府の復興を願い朝倉義景を頼ってきたが、朝倉義景は動かず天下を取る器量も野心もなかった。そこで足利義昭は桶狭間の戦で勢いに乗っている織田信長に頼ろうとした。

 足利義昭は家臣の細川藤孝を使者として織田信長へ送るが、この時に明智光秀も同行することになった。明智光秀は織田信長の正室・濃姫と血縁関係(従妹)にあり、細川藤孝に付き従う形で同行した。568年7月27日、立政寺で足利義昭を織田信長に会見させた。


織田信長の家臣になる
 明智光秀は信長に仕え最初は足軽で雑用係だったが、織田信長の家臣には木下秀吉や滝川一益のように、出自がはっきりしない武将が多いので出自が問題になることはなかった。光秀は濃姫と血縁関係にあったせいか、一躍500貫の身分に取り立てられた。これは100人の歩兵と10人の騎兵を率いる身分である。

 信長は有能な人材を求めており、光秀の能力を見抜いてのことだった。いずれにしても長く屈従を強いられていた光秀は信長に会うことにより出世の道を歩むことになる。この時、明智光秀は39才であったが、信長はこの光秀によって命を奪われるとは予想もしていなかった。

 天下を狙う信長にとって足利義昭を手駒にする魂胆があった。明智光秀は朝倉家を去り、信長の家臣でありながら室町幕府の幕臣でもあった。光秀は荒くれ者が多い織田家臣団の中では、和歌や茶の湯を嗜んだ教養人で、信長が京に入ると、光秀は朝廷との交渉役になった。信長より6歳歳上の光秀は積極的に公家との連歌会に参加して歌を詠んだ。

 さらに木下秀吉とともに織田支配下の京都奉行の政務を行い、行政能力だけでなく三好三人衆の急襲でも活躍した。まだ信長に仕えて2年目の光秀が、織田家生え抜きの古参武将と同等の扱いを受けたことは、信長が6歳年上の光秀のことを高く評価していたからである。その後、金ヶ崎の戦いで、信長が浅井長政の裏切りから危機に陥り撤退する際には、殿役(しんがり)を務め指揮能力を実証した。

(大津市坂本の西教寺境内の「月さびよ 明智が妻の 咄せん」句碑)

信長の躍進

 1570年、光秀42歳の時、信長は足利義昭を最初から利用するだけ利用しようとした。「書状を書く場合には信長の検閲・許可を得ること」「天下のことは信長に任せること」などの脅迫めいた書状を送り約束させた。このように義昭は信長からの締め付けが強くなるにつれ、信長からの影響力を排したいと望むようになり、諸大名に「上洛して信長を打倒するように」と促した。この呼びかけに応じて浅井・朝倉が挙兵し、本願寺や延暦寺などの宗教勢力も反信長となった。

 同年6月の姉川の戦いは、浅井・朝倉軍 対 織田・徳川軍の闘いであったが、両軍の死者は2500人を超え、負傷者は数知れないほどの戦いになり、姉川の水が真っ赤に染まったほどである。徳川軍が朝倉軍と対峙し、光秀軍は浅井攻めになったが、光秀にとって朝倉義景は3年前まで使えていた元主君である。織田軍はこの激戦を制し浅井・朝倉軍は敗走した。

 この時点での各武将の年齢は光秀42歳、信長36歳、秀吉34歳、家康28歳で、光秀が最も年長者であった。同年、光秀は朝廷を動かして信長包囲網(第一次)を和睦に導き、その功績から近江坂本10万石を与えられ44歳で城主となった。

 1571年7月、光秀は琵琶湖の湖畔の坂本城の城主となり居城とした。この時、信長は築城費として黄金千両を与えている。信長の正室・濃姫は光秀の従妹であり、明智光秀は一流の文化人・細川藤孝を従えて儀礼や文芸に精通し京都政界の外交折衝で頭角を現したのである。

 この明智光秀が坂本城の城主になったことは、織田の家臣にとって衝撃的だった。織田に使えて僅か4年の光秀が家臣の中で初めて一国一城の武将となったのである。秀吉でさえ長浜城を持つのは、その3年後のことである。光秀の喜びは計り知れないものがあった。坂本城は琵琶湖の水を引き入れた美城で、宣教師ルイス・フロイスは「坂本城は信長の安土城の次に天下に知られた名城である」と絶賛している。
 光秀は近江の滋賀郡に5万石の領地を与えられ、この異例の出世は京都の政務、戦場での功績によるが、秀吉よりも先に領地を与えられたことは、能力だけではなく濃姫との血縁があったため信長の身内びいきがあったのだろう。光秀は常に信長の機嫌をうかがい、贈り物を絶やさなかった。こうして光秀は信長の寵愛を受け立身出世の道を突き進んだ。しかし古くから信長に仕える家臣たちからは疎まれ、家中での評判はよくなかった。これは急な出世を遂げた光秀への妬みの気持ちからである。

 

比叡山焼き討ち
  1571年9月、信長の家臣たちは思わず耳を疑い、それが本気と知ると青ざめてしまった。信長は「比叡山を焼き払え」と命じたからであった。しかもお堂に火を放つだけでなく、僧侶、老人、女・子供を皆殺しにしろとの命令であった。信長は仏罰を恐れる家臣たちに「叡山の愚僧どもは魚鳥を食らい、賄賂を求め、女を抱き、出家者にあるまじき輩」と殺戮を厳命したのである。

 比叡山に顔見知りが多くいた明智光秀は「確かに堕落した僧侶もいるが全員ではない。真面目に修行に励んでいる者もたくさんいる」と述べたが、信長は聞き入れなかった。 この比叡山の焼き討ちで、光秀はその実行部隊として信長の命令を忠実に実行することになる。この時光秀は信長に反対したという説があるが、積極的に焼き討ちに参加したことが資料からわかっている。明智光秀のもとにはその名を慕って多くの僧が投降し、光秀に助命嘆願を行ったが光秀はこれを許さずに全て斬首した。光秀は織田家中にあってかなり積極的に戦果をあげた。家臣にとって信長の命令は絶対である。もし逆らえば次に自分が斬られたのである。

 最澄が開山してから約800年が経っていた延暦山の寺院は軒並み灰燼と化し、男女約3千人が虐殺され犬までが殺された。この焼き討ちは4日間続き、諸大名はこれを批判した。武田信玄は「信長は天魔となった」と糾弾した。

 

足利義昭を見限る
  「信長は何をしでかすか分からん」。将軍義昭はこれ以上信長の権力が巨大化することを危惧し、武力対決への準備を進めた。光秀は義昭の直属の幕臣として「今の信長公には絶対に勝てない、恭順するように」と何度も説得したが、衝突は避けられぬと悟ると、同年暮れは義昭に暇を請い幕府を去った。

 1572年、信長が最も恐れていた戦国最強大名・武田信玄が動き出した。甲斐から上洛を開始した信玄は「三方ヶ原の戦い」で家康を軽くひねり潰し愛知まで迫った。1573年の正月、それを知ると義昭はほくそ笑んでいた。

 足利義昭は信長のおかげで将軍になったが、実質的な権力は与えられず、そのため信長を排除しようと各地の大名に信長を攻撃するように命じていた。「信長包囲網は完成し、信玄が来れば信長も終わりだ」と思い込んでいた。事実、信長は絶体絶命だった。東に信玄、西に毛利、南に三好・松永ら大阪勢、北に抵抗を続ける浅井・朝倉、北陸には上杉が無傷で控えていた。
 3月、義昭は信玄接近中の知らせに舞い上がった。上洛を待ちきれずに信長へ宣戦布告をすると将軍・足利義昭と信長の戦いが始まろうとしていた。ところが翌月、信玄が病死したのである。

 明智光秀は石山城・今堅田城の戦いで信長の直臣として戦った。信長は義昭と講和交渉を進めるが、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻した。同年7月、再度義昭が槇島城で挙兵したため、信長は足利将軍を斬らずに京から追放した。ここに237年続いた室町幕府は信長の手で滅亡した。

 光秀の主君は信長ひとりになり、信長は光秀を重用するようになる。1575年、光秀は高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆殲滅戦に参加し勝利する。

 8月、信長は3年前の「姉川の戦い」で敗走した朝倉・浅井両氏を完全に滅ぼした。浅井長政の正室は信長の妹お市で、浅井長政は妻と娘の茶々(淀君)らを城から脱出させた後、徹底抗戦して自害した。

 同年、信長は正親町(おおぎまち)天皇に「元号を変えよ」と前代未聞の要求を突きつけた。信長は自分が天皇より力があることを見せ付けるために、天皇の神事である改元を命じた。朝廷は一人の戦国武将が元号を自由に変えることができる出来る前例を残したくなかったが、天皇は改元せねば殺されると思い震え上がり、年号は元亀から「天正」へ改元された。信長は室町幕府を滅ぼしたこの年を新たな元年にした。

 その数ヵ月後に天皇は信長に従三位の位を授与すると、信長は官位が低すぎると激怒した。さらに正倉院に入って皇室の宝物中の宝物、香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取った。信長から届けられた木片を見て、天皇は「不覚にも正倉院を開けられてしまった」と悔しさを記し、天皇は抗議の意味を込めて、その木片を信長と対立している毛利氏に贈った。

 

信長の残虐性

 1574年、信長に招かれ正月の宴に参加した重臣達は腰を抜かした。「昨年は浅井・朝倉の討伐、誠に大儀であった。ものども祝い酒じゃ」。家臣達の前に並べられたのは、金箔で化粧され黄金色に輝く浅井父子と朝倉義景3人の頭蓋骨であった。信長はその頭部を裏返し、これに酒を注いで呑めと命じた。しかも光秀の前に回されたのは朝倉氏の髑髏であった。「どうした光秀、呑めんのか」「これはかつての主君であり」光秀は躊躇したが逆らえなかった。

 信長公は狂っている、この男は危険すぎると思うのが精一杯であった。比叡山の焼き討ち以来「天魔」「魔王」と呼ばれた信長の残虐度は加速し狂気を帯びていた。特に一向一揆への弾圧は苛烈を極め、同年9月の伊勢長島において、降伏を認める振りをして、投降した一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児ら全員を焼き殺した。文字通り騙し討ちで、土地に子孫を残さぬ作戦は「根切り」と呼ばれた。信長は4年前に伊勢の一向衆に可愛がっていた弟の信興を殺されたことから一向宗徒を怨んでいた。「姉川の戦い」直後で弟に援軍を送れず、見殺しにしたという自責の念が、この2万人大虐殺に繋がっていたのである。

 信長の殺戮は越前でも起きた。越前では100年間も一向宗徒が独立国を作っていたので、住民全員を一揆衆として農民も僧侶も見つけ次第皆殺しにした。その戦いで信長に届けられた首だけでも12250とされ死者は総計4万人にのぼった。信長は「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もなく見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」と手紙に記している。越前で発掘された当時の瓦に、「後世の人々に伝えて欲しい。信長軍は生きたまま千人をはりつけ、あるいは油で釜ゆでにした。これは人間のすることではない」との言葉が刻まれる、

 

信長の進撃

 織田信長は3千挺の鉄砲を用意して「長篠の合戦」に挑み、武田信玄の嫡男・勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕している。この合戦には織田の有力諸将は総出で参陣したが、明智光秀は近畿守備についていた。この時点では、石山本願寺も健在で毛利の脅威も大きかった。不安定な近畿の留守を光秀に任せたことは、信長は光秀を信頼していたからである。同年6月、光秀は丹波国(兵庫・京都の一帯)を与えられ攻略を開始した。

 それまでの織田陣営の武将達は信長から直接命令を下されたが、丹波国攻略は全面的に指揮命令権が信長から光秀に委任された。つまり光秀は丹波方面軍司令官になった。

 10月になると、四国の長宗我部元親から光秀に書状が届いた。長宗我部元親は信長が四国へ攻めてくる前に友好関係を築こうとして、子の命名を信長に求め、その仲介者になって欲しいと頼りにしてきた。光秀は「承知した、安心なされ」と述べ、信長は「信」の一字を与え長宗我部信親とした。四国において長宗我部元親が手に入れた土地を全て保証すると伝えた。

 1576年、信長は安土城に入城するが、安土城の石垣には地蔵仏や墓石も混じっており、信長が神仏を全く恐れていないことが分かる。4月、大坂・石山本願寺の攻略戦で信長は鉄砲で足を撃たれた。石山本願寺は数千丁の鉄砲で武装した堅牢な要塞寺で、信長は陥落に10年かかり光秀も何度か援軍に向かっている。信長が撃たれたのは最前線に立っていた証拠である。多くの大名が後方の安全な場所から指示を出していたのとは反対で、家臣たちはそのような信長にカリスマ性を感じた。やはり信長公は他の腑抜け大名とは違っていると評価したのである。

 1577年、明智光秀は大和・信貴山城に籠城する松永久秀を織田信忠(信長の子)と共に攻略した。松永久秀は2度も信長を裏切り、普通なら「一族皆殺し」となるはずだが、信長は久秀の所有する名物茶釜「平蜘蛛釜」を交換条件に命を救うと提案した。松永久秀は主君(三好家)を滅ぼし、13代将軍足利義輝を殺害し、東大寺の大仏殿を焼き、大仏の首を落とし、仏罰とされていたが「ただの木と鉄の塊に過ぎん」と言いのけた武将である。この神仏を恐れない松永久秀を信長は気に入っていた。しかし松永久秀は織田軍に降伏せず、最期は「信長にこの白髪頭も平蜘蛛釜もやらん」と平蜘蛛釜に火薬を詰めて首に巻き、釜もろとも爆死し天守を吹っ飛ばした。

 

信長天下取りに近づく

 1578年に上杉謙信が脳卒中で急死し、これで一気に信長の天下取りが近づいた。信長は「もう朝廷など必要ない」と右大臣の官職を放棄し、明智光秀の三女・玉子(ガラシア)を細川忠興に嫁がせた。細川忠興は光秀の朝倉時代からの盟友である細川藤孝の嫡男だった。

 しかし今度は逆に明智光秀の長女・倫子が離別されて戻って来た。倫子が嫁いだ先は荒木村重の息子であった。荒木村重は勇将だったが、村重の部下が攻略中の石山本願寺に裏で兵糧を送っていたことが発覚し、窮地に陥った村重は信長が詫びを聞き入れるとは思えず「どうせ腹を切るなら反逆を」と謀反を起こして籠城したのである。

 荒木村重は自分の裏切りで光秀に迷惑がかかるといけないので、決起前に息子夫婦を離縁させ倫子を送り返してきたのである。光秀は怒る信長を説得し、城を無血開城するなら城内の人間の命を助けるという条件を引き出した。ところが、村重は毛利にいた足利義昭とも連絡を取っていて、1年の籠城後に城を抜け出すと毛利のもとへ逃げたのである。

 信長は荒木村重を対毛利の主要武将としていただけに、毛利への寝返りに激怒し、裏切り者への見せしめとして、村重の一族37人を六条河原で斬首、女房衆(侍女)の120人を磔、侍女の子どもや若侍ら512人を家に閉じ込めて焼き殺した。

 助命を願う者が最後に頼りにしたのは光秀であった。光秀のもとに「拙者の命を引き換えに妻の命を」と荒木方の武将が駆け込むと、光秀は「武士の情け」と信長に取り次いだが、彼らは夫婦共ども処刑され光秀は絶句した。

 荒木村重はその後、荒木道糞(どうふん)と名乗り、秀吉に拾われて利休の弟子(利休七哲)となった。

丹波攻略戦
 丹波は堅城が多く各地が山続きで攻めにくく攻略するのに難しい土地であった。近江の坂本城主となった光秀は信長配下の軍団長として丹波国(兵庫県北東)の攻略を信長から任されていたのである。そのため光秀は丹波各地を少しずつ転戦し城を落とし、1579年、ついに八上城主・波多野氏を追い詰め、4年越しで波多野秀治を下して畿内を平定した。

 しかしそのために払った犠牲は大きかった。波多野氏を降伏させた際、投降後の身の安全を保証する為に自分の母親を人質として波多野氏の城へ入れていた。ところが信長が勝手に波多野氏を処刑したことから、怒った波多野の家臣は光秀の母を磔にした。

 同年、信長は徳川家康の妻と嫡男・信康が武田と内通しているとして、家康に殺せと命じている。これは信康の嫁(信長の娘)と姑の対立が生んだ悲劇であった。家康は「魔王」信長の要求に抵抗できず、愛する妻子を殺した。この件で「家康は光秀以上に信長を恨んでいた。

 明智光秀は丹波一国の攻略に成功すると、細川藤孝と共に丹後(京都北部)を攻め落とし京都周辺の敵対勢力を駆逐した。さらに佐久間信盛が管理していた近畿一帯の武将や大和の筒井順慶、摂津の池田恒興、高山右近らが光秀の配下になった。

 その間にも信長から各地に出動するように命令を受け、石山本願寺攻め、紀州の雑賀攻めなどに参加し34万石を領有するようになった。丹波は京都に隣接する地域で、そこにこれだけの領地を与えられたことは、光秀は信長の家臣団の中でも特に高く評価されていたことになる。しかも光秀の支城を含めると、京都周辺を取り巻くように支配した。

畿内の武将たちを指揮する立場になる
 明智光秀の領地は34万石であったが、それ以外にも丹後の細川藤孝や大和(奈良)の筒井順慶など、畿内に領地を持つ信長配下の諸将たちへの指揮権を与えると、計240万石の軍事力を預かる身となった。信長の本拠が近江の安土城だったので、その側で大軍を預けられるほど光秀は信頼され、実質的に信長の身辺を守る地位についていた。 

 1581年には、織田軍団を正親町天皇に披露する大規模な観兵式(京都御馬揃え)の取り仕切りを任された。この任を無事に果たした後、翌年の春には武田討伐に参加するが、この時は主力ではなく、討伐の進行具合を見届けるだけに終わった。同年5月には信長から饗応の返礼を受けるために上洛した徳川家康の接待役を命じられた。
 この頃の信長の軍団は、関東に滝川一益が、北陸に柴田勝家が、中国地方に羽柴秀吉が配置され、いずれも大きな戦功を立てる機会を与えられていた。光秀は丹波攻略以後、大規模な軍事作戦から外され武将の果たすべき仕事をさせてもらえなかった。そこで新たに四国の討伐軍が編成されることになり、手の空いていた光秀は自分がこの役目を任されると思っていた。

 四国の長宗我部元親は光秀を介して織田家に砂糖や特産品を贈っていたが、四国を征伐しないという元親との約束を信長は撤回し、四国征討を決定した。総大将は信長の三男・信孝であった。長宗我部に「征伐しない」と伝えていた光秀の面目は丸潰れになり、しかも元親の妻は光秀の重臣・斎藤利三の妹であった。
 斎藤利三は元々明智光秀と同じ織田家の稲葉一鉄に仕えていたが、性格が合わず浪人になっていた。そこを光秀が重臣として迎えると、稲葉一鉄は急に利三が惜しくなり、信長に仲介を頼んで利三を取り戻そうとした。「光秀よ、斎藤利三を一鉄に返してやれ」と言う信長に「私は一国を失っても大切な家臣を手放すつもりはありません」と光秀は答えた。すると「わしの命令が聞けぬのか」と信長は立ち上がり、光秀の髪を掴み床の上を引きずり回して廊下の柱に何度も頭を打ちつけている。刀を手にかけた信長を「刀はいけません」と周囲が止めに入った。斎藤利三はそこまで自分を思ってくれる光秀に感動し、本能寺の変では先陣を切り、本能寺後も最後まで明智軍に残ったため秀吉に斬首された。

 この斎藤利三の娘・福があの家光の乳母の春日局である。春日局は父を討った豊臣家が大坂の陣で滅亡した時、さぞ嬉しかったであろう。

 このような経緯から四国征伐は丹羽長秀に任された。光秀は軍事作戦を主導する立場につくことができず、このような信長の措置が自分の価値が薄れているとの疑念を抱かせることになった。人使いが荒い信長から用いられないのは危険な兆候であった。信長には老臣を放逐した前例があったからである。

佐久間信盛の追放
  10年の長きにわたった「石山本願寺合戦」が終結し、石山本願寺11代顕如は寺から退去した。顕如は徹底抗戦を訴える長男を絶縁して次男に跡を継がせ、本願寺は東西に分裂した。

 戦後処理が一段落すると、信長は家臣団の追放を断行した。佐久間信盛は信長の父・信秀の時代から織田家に仕えている重臣で、信長の家督相続を支持した人物である。軍の指揮に優れ、信長の主だった戦いには全て参加して戦功を上げていた。しかし、1576年から任された本願寺の攻略戦において、佐久間信盛は失態を演じてしまう。何年かけても本願寺を攻め落とせず、信長の不興を買ったのである。たとえ父の代から仕えていようと、信長は成果を挙げない武将は任務怠慢、無能として追放したのである。

 追放されたのは佐久間信盛父子、林通勝(秀貞)、安藤守就、丹羽右近の5人で、林通勝の罪は、24年前に織田家の後継者を選ぶ時に、林通勝が弟の信行を支持したことである。家臣たちは「24年も昔のことを理由に通勝殿が追放されるとは、30年忠勤に励んだ佐久間に情もかけぬのか」と衝撃を受け「明日は我が身」とばかり戦々恐々となった。

 信長から折檻状を突きつけられ、佐久間信盛は膨大な領地を没収され、紀州の熊野に落ち延びることになった。この佐久間信盛と明智光秀は同じ年齢であった。

 信長は丹波での明智光秀の活躍、秀吉の武功、池田恒興の摂津支配、柴田勝家の活躍と比較して佐久間信盛を追放したのである。

 明智光秀は近畿の数ヶ国の軍勢を預けられていたが、佐久間信盛と似た立場にあった。明智光秀はそれまで3年ほどの間、軍事的な功績はほとんどあげていなかった。このことから光秀はいずれ自分も佐久間信盛のように領地を取り上げられ追放されてしまうのではと恐怖を抱いた。信長に30年に渡って仕えた佐久間信盛ですら追放されたのだから、14年の経歴しかない光秀ならば容易に信長から捨てられる。丹波攻略以後は信長から軍事作戦を任せてもらえない日々が続き、日を追うごとに光秀の心には暗い影がさしてきた。


中国遠征への参加命令
 5月15日、家康が安土城を訪れ、事前に接待役を命じられた光秀は、手を尽くして山海の珍味を取り寄せ3日間家康をもてなした。そこへ毛利征伐で中国方面に向かった羽柴秀吉から援軍要請が入った。羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにして高松城は陥落寸前であったが、そこに毛利氏が4万の軍を率いて援軍にやってきた。羽柴軍は3万であったが油断できる情勢ではなかった。

 そこで信長は、自ら軍を率いて羽柴秀吉の援護に向かうことになった。毛利軍に織田の大軍の姿を見せつけて毛利の戦意をくじくためであった。光秀にも中国地方への出動命令が下された。信長は「一気に九州まで平らげる」と喜び、光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備をさせた。家康はその後、本能寺の変当日まで京や堺で見物をしていた。

 この家康への接待について、光秀は入念に準備したのに突然中国遠征を命じられ恨みを抱いた。あるいは接待に用意した魚が腐っていて、信長が小姓の森蘭丸(17歳)に光秀の頭を叩かせたという説があり、これを謀反の理由にする歴史家がいるが、はたしてどうであろうか。光秀はそのような理由で主君を討つ小物ではない。

 むしろ四国遠征の指揮官に任せてもらえず、羽柴秀吉への支援軍としての出動命令だったため光秀の心は晴れなかったのである。信長から出陣命令が下るが、その内容が光秀を愕然とさせた。「丹波、山城(京都)、坂本の領地を召し上げ、代わりに毛利の所領(出雲、石見)を与える」というものだった。信長にしてみれば「それくらいの意気込みで毛利と戦え、お前ならすぐに毛利の土地を切り取れる」そのような気持ちだったのだろうが、これまで重用してきた光秀をこのように命じるとは、信長の横暴を見続けてきた光秀にとって前向きに考えることが出来なかった。誠実に領国経営に努めてきた兵庫から滋賀の一帯を全て没収され、まだ手にしてない毛利の土地を国にせよとは、自分は信長の駒にすぎないと悟ったのである。この時、光秀は信長を裏切ることを決意するが、謀反を成功させるための事前の根回しを一切しなかった。そのため信長への裏切りを察知されることはなかったが、同時に事後の立場を危うくすることになった。

なぜ裏切ったのか
 6歳年下の信長に、老いつつあった光秀には恐れと焦りがあった。佐久間信盛の前例と同じ立場に置かれていることから、追放されることへの恐怖があった。四国の遠征軍の大将になるはずだったが、任された仕事は観兵式や徳川家康の接待などで、武将としての戦いではなかった。信長にとって武士としての自分の価値が下がり、信長の寵愛を失っていると感じたのである。

 光秀が信長と口論をして足蹴にされた話や、徳川家康の接待のために苦心して用意した料理を信長に捨てられるなど、二人の不仲を示す数多くの逸話が残されている。
 信長への恐怖が強まり、光秀は自分の身さえも危うくなっていると思ったのだろう。信長にすれば、将来の九州征伐に備えて羽柴秀吉と明智光秀を毛利討伐後に九州へ討ち入らせるつもりだった。もしそうであっても京都から遠ざけられ、左遷と受け取められても不思議ではない。そうなれば追放されるのも時間の問題と恐れいた。
 この状況を変えるには、信長を殺害して自分が天下人になるしかないと考えたのだろう。信長がいなくなれば追放の恐れはなくなり、しかも自分が天下人になれる可能性もあった。

 明敏な頭脳を持つはずの光秀がその考えに取り憑かれたのは、事前の準備がなかったため通常の精神状態ではなかったと言える。それだけ精神的に追い詰められていたのであろう。
 計画的に天下人になる野心を抱いていたならば、根回しを周到に行っていたはずである。また足利義昭や公家から信長殺害の指令を受けたという説があるが、この時代の朝廷や将軍には実力がなく、世の中を動かせるほどの影響力はなかった。やはり追い詰められた光秀が突発的に信長の殺害を思いついたのだろう。

 

愛宕百韻の真相
 明智光秀は連歌をこよなく愛し、24回の催行が確認されている。愛宕百韻とは光秀が本能寺の変を起こす5日前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。建前は毛利への戦勝祈願である。光秀は神社に泊まると人生最後の連歌会を開いた。
 光秀は発句を次のように詠んだ。「時は今 雨が下しる 五月哉」この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」は明智の本家の「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」つまり「土岐氏の一族の出身である光秀が、天下に号令する 五月なり」との意味を込めた句とされている。

 あるいは「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという思想に基づくものとする考えでもあった。また「五月」は以仁王の挙兵、承久の乱、元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとされている。これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性がある。信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただではすまなかったはずである。

 また光秀はこの愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に中国出兵するため支援を求める書状を送っている。つまりこの時点では謀反の決断をしていなかったともいえる。

 しかしこの連歌に光秀の謀反の意が込められていたならば、発句だけでなく、第2句「水上まさる庭のまつ山」についても併せて検討する必要がある。ただし第2句の読み手は光秀ではなく、僧侶最高位の西ノ坊行祐によるものである。

 まず「水上まさる庭の松山」というのは、皆の神(朝廷)が活躍を松(待つ)ということで、この第2句は「光秀が利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になる。第3句は連歌界の第一人者である里村紹巴によるもので「花落つる 流れの末をせきとめて」とあるが、花は栄華を誇る信長で、花が落ちる(信長が没落する)ように勢いを止めて下さいとなる。第4句は光秀の旧知の大善院宥源が、「風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮」と詠んでいる。これは「信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ)」と解釈することができる。

 この連歌会に集まったのは天皇の側近ばかりで、光秀の謀反は突発的なものではなく事前に複数の人物が知り応援していた可能性もある。光秀はこれらの歌を神前に納めた。

不用意な反乱
 明智光秀は信長を討つことを決意すると、決行前夜に明智秀満や斎藤利三ら重臣たちに謀反を明らかにしている。明智光秀は部下をよくいたわっていため、家臣たちは光秀に忠実に尽くし家中はまとまっていた。このため光秀への反対者は出なかった。そして1万3千の軍を率いて京都に向かい、信長が宿泊している本能寺を襲撃するが、この時に「敵は本能寺にあり」と宣言したのである。
 信長は京都に自分の城を築かず、しかも有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓が30人、計180人しかいなかった。

 信長一行は前日に本能寺に到着していた。信長は当時の三大茶器の2つを所有していたが、その日は本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室が来るので、お互いに自慢の茶器を一堂に会そうとした。信長はさらに大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れた。

 夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し深夜まで碁の腕前を披露した。算砂らが帰った後、本能寺には信長、小姓、護衛の一部の100人ほどが宿泊したが丸腰も同然だった。
 同夜10時頃、明智光秀は明智左馬助ら重臣に信長を討つ決意を告げた。信長が他将と合流すれば、暗殺の機会はなくなる。しかし勝家は北陸で上杉と対峙していて動けない。秀吉も中国で毛利と対峙して動けない。滝川一益は遠く関東上州にいた。家康は少人数で堺で遊んでいる。

 決行は今しかない。光秀の言葉に重臣たちは命運を共にすることを血判状で誓った。西国を目指していた明智軍1万3千がど京都へ下る老ノ坂に到着した時、光秀は将校・兵士たちを前に「我が敵は本能寺にあり」と馬首を東向きに変えた。下:本能寺の変当時の所在地、中京区元本能寺南町。

本能寺の変
 桂川を越えた明智軍は、明け方には本能寺を包囲し、前列には鉄砲隊が並んだ。あれは14年前、明智光秀が義昭と信長の仲介者となったことから全てが始まった。あれ以来、室町幕府が滅んでも、母が死んでも、僧侶を斬っても、光秀は織田家臣のトップとして信長に忠節を尽くしてきた。

 その自分が主君・信長を討つ。光秀は深く息を吸い、そして「撃てー」と叫んだ。ときの声があがり、四方から一斉射撃が怒涛のごとく始まった。攻撃は朝の6時頃である。夏場の6時といえばすっかり明るくなっている。光秀軍の大部分の兵は、自分たちが「家康」を襲撃していると思っていた。
 13000対100。本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数10人が討死した。信長は鉄砲の音で部屋を出ると「これは謀反か、攻め手は誰だ」と蘭丸に訊くと、「明智が者と見え申候」と答えた。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。信長は数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番理解している。信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると腹を切った。敵が寺に突入し、火が放たれ本能寺は燃え上がった。
 午前7時、明智軍の別働隊が二条御所を攻めて嫡男・信忠を自刃させた(信長の弟・織田有楽斎は脱出)。本能寺は2時間ほどで鎮火したが、信長の遺体は見つからなかった。

 信長は死にあたり、首を晒させないように遺体が見つからないようにした。信長の姿が見えなかったため本能寺で死去したとされている。このように死後のことを信長が考えていたならば、信長は死を前にしてもなお冷静だったということになる。また秀吉は信長がまだ存命と手紙に書き各地に送り、自分の味方を増やすのに役立てている。光秀は信長を討つことに成功したが、同時に、自らの命運をも閉ざしてしまった。

 明智光秀は謀反を起こす前に、味方を増やす工作をしていなかった。そのため光秀には誰も味方をしなかった。細川藤孝とは足利義昭に仕えていた頃からの付き合いで、子ども同士が結婚している関係であったが、細川藤孝ですらも味方につかなかった。その与力大名であった筒井順慶が軍を動かすが、羽柴秀吉の強勢を知ると光秀に味方するのを止めている。

 光秀は信長を討った後の京都周辺を維持する同士を集める事前工作を行っていなかった。一部の武将たちが光秀に同調するが、とても戦力になるほどの数ではなかった。

 

安土城炎上
 明智光秀は孤立したまま1万6千のみを軍事力として、京都周辺を保持することになる。6月2日午前8時頃、光秀は洛中で生き残った織田家臣の捜索を命じ、その日のうちに近江・勢田(瀬田:滋賀県大津市)に軍を進めた。勢田城主の山岡景隆に降伏を勧めるが、景隆は信長への恩を理由に拒否し、近江と京を結ぶ重要な橋である勢田橋と居城を焼き払い退去した。

 この山岡景隆の行為は光秀の作戦を大きく狂わせた。近江進軍が難航しその制圧に手間取り、備中高松から羽柴秀吉が引き返してくる時間を与えてしまった。光秀はまず近江を占拠し、信長の拠点だった安土城を押さえ、朝廷に献金して支持を集めようとしていた。戦国武将にとって城は単なる建物ではなく、住居であり政庁であり防御機構であり権力の象徴であった。しかしこの間、羽柴秀吉が中国地方から急行して摂津(大阪)周辺に大軍を集めていた。

 6月15日この混乱の中で、織田信長の本拠であった安土城が炎上した。現在の安土城はわずかに石垣等を残すだけで、天主がどんな姿をしていたのか確実にはわかっていない。この火事の原因すら一体何があったのかわかっていない。「鬼武者こと明智秀満(光秀の娘婿)が放火した」「夜盗が燃やした」「落雷で火事になった」「信長の次男・信雄(のぶかつ)が無能だったので焼いてしまった」などの憶測はあるが、あまりに残念な結果であった。

 安土城は炎上したが、全焼ではなく二の丸その他は残っており、本能寺の変以降もしばらくは織田氏の居城として織田秀信(三法師)が使う予定であった。しかし安土城炎上から2・3年後に織田秀信(三法師)は坂本城へ移され、安土城は秀吉によって取り壊されている。秀吉は本能寺の変のあった本能寺を同じように壊し、現在の本能寺に移転させている。さらに後の関白秀次の痕跡を消すため、豊臣秀次の住居・聚楽亭を徹底的に破壊している。このように秀吉は信長の存在を人の記憶から徹底的に消したかったのだろう。

 

山崎の戦い

 羽柴秀吉の元に集まった軍勢は3万とされ、総勢1万6千の明智軍を大きく上回っていた。羽柴秀吉は光秀とは違い、池田恒興、中川清秀、高山右近、織田信孝、丹羽長秀など摂津周辺の信長の家臣たちの協力を取り付けることに成功している。
 羽柴秀吉には「大恩ある信長を殺害した極悪人の光秀を討伐する」という大義名分があったが、光秀には大義がなかった。信長は一部の家臣に辛くあたったが、統治能力に優れ、治安を改善し、経済を活性化させるなど多くの功績を残している。そのため世の人からすれば「信長は家臣から討たれるほどの罪がある」とは思えなかった。光秀の信長殺害の動機はあくまで自己保身であり、世間の支持を得られなかった。このことが誰も光秀に味方しなかった原因で、羽柴秀吉の元に多くの武将たちが集った。

 光秀にはその道理がわかっていなかった。信長の下では能力を発揮できる優れた武将であったが、人の上に立って世の中を動かすほどの器量は備えていなかった。あるいはその判断ができないくらいに錯乱していた。


山崎の戦いで敗れ、農民に討たれる
 明智光秀は圧倒的に不利な状況にあったが、それでも軍を集め、京都の山崎で羽柴秀吉の軍勢を迎え撃った。山崎以外の各地の押さえが必要だったため、光秀の軍勢はこの時1万程度だったとされている。精鋭部隊である明智秀満の部隊は坂本城の守備に残し、山崎の決戦への集中力を欠いていた。これに対し羽柴秀吉は失うものがないため、全軍をこの戦いに振り向けた。この結果、山崎の戦いは羽柴秀吉の圧勝に終わり、敗北した光秀はわずかな家臣とともに再起を図ろうと居城の坂本城に向けて落ち延びた。しかしその途中で落ち武者狩りの農民に襲撃され、竹槍で刺されて重傷を負い、家臣に介錯されてその生涯を終えた。享年55。
 光秀の主だった家臣たちも死去しており、光秀とともに滅んでしまった。羽柴秀吉の他にも、柴田勝家や徳川家康も光秀討伐の軍を動員しており、もし羽柴秀吉との戦いがなくても各方面から攻撃され滅びたたことに変わりはなかった。下右:現在の本能寺本堂。

本能寺の変の原因
 1582年に起きた本能寺の変、なぜ明智光秀は織田信長を殺したのか。それは日本史最大の謎とされ、今なおその理由は不明のままである。
 明智光秀の本能寺の変の動機は、推理作家、歴史作家の良いネタになるが、意外に重要なのは明智光秀は信長より6歳年上だったことである。いくら主君とはいえ年下の信長に辱めを受ければ武士として屈辱であった。次に明智光秀は本能寺の変の前日に、重臣のみに信長暗殺を打ち明けたが、重臣の誰もが反対しなかった。つまりそれなりの正当な理由があったのである。

 また不思議なことに本能寺の変で明智光秀は悪者にされているが、悪者の後ろめたい印象が全くないのである。誰も「信長が悪いので殺害された」とは言わないが、明智光秀に主君殺しの暗さがないのである。織田信長の独断過ぎる言動のため、やられる前に暗殺を考えてもおかしくはなかった。

 信長に長年仕え、功績も大きかった老臣・佐久間信盛の追放劇は信長への忠誠心を揺すものだった。佐久間信盛以外にも長く信長に仕えていた重臣の林秀貞など数名の武将たちが同時期に追放されている。他の家臣たちも自分の働きが鈍れば信長に領地を没収され追放されることを恐れていた。

 信長は生まれながらの大名で誰にも従ったことがない。そのため仕える立場の家臣についての配慮がなかった。

 明智光秀は長い間、低い身分に置かれ苦労を重ねたため、部下をいたわり統率する力があった。領地でも善政を行い内政にも優れ、今でも丹波亀山の地では光秀を偲ぶ人たちが多くいる。そのために反乱を起こしても、配下の武将たちが最後までついてきたのであろう。しかし同時に失うことを恐れる気持ちも強かった。そのことが信長殺害の行動へとつながったのだろう。

 本能寺の変を成功させるには、3つの条件が必要である。まずひとつは畿内に明智光秀以外の有力武将がいないことである。もし畿内に光秀以外の有力武将がいた場合、これが信長や信忠に加勢してしまう恐れがあるからで、実際に、畿内から光秀以外の織田軍の有力武将が全て移動したのは、織田信孝と丹羽長秀が四国征伐に赴いた1582年5月7日である。また明智光秀に大軍が与えられていた。信長が光秀に軍を動かすように命令を出さなければ光秀は大軍を動かす権限がなかった。しかし織田信長が光秀に中国攻めを申し付けるのが1582年5月17日で、本能寺の変があった6月2日で半月あった。第三の条件として信長と当主の信忠が近い場所にいることである。1582年の時点で信長は家督を信忠に譲って大殿になっており、信忠は実際には武田勝頼討伐でも指揮を執る織田の当主だった。つまり信長を首尾よく討てても、信忠が近くにいなければ織田家の武将は信忠の下に集結して謀反人の光秀を討つことになる。

 しかし光秀にとって幸運な事に、織田信忠は安土城を見物した徳川家康を接待で堺に行く予定を取りやめ京都に滞在していた。
 この時、本能寺の変が成功する3つの条件が整ったが、これらの奇跡的な条件は1582年の月17日に揃っただけで、光秀はたった半月の間にクーデター計画を練るしかなかった。とても黒幕や共謀者と綿密に計画を練る時間はなかったわけで、陰謀論を展開しても机上の空論にしかならない。

 しかし光秀は娘婿だった織田信澄にも連絡せず、盟友といわれる細川幽斎や与力大名の筒井順慶にも相談した形跡はない。それゆえに本能寺の変は光秀の単独の行動であっても、黒幕がいたといわれ続けている。もちろん黒幕には確固たる証拠があるわけではない。


怨恨説
    現在の主流は光秀の怨恨説である。光秀が信長に怨嗟を抱く根拠とされる逸話は数多くあり、本能寺の変については信長に恨みを抱いた光秀による謀反というのが定説になっている。織田信長は短気かつ苛烈な性格だったため、明智光秀は常々非情な仕打ちを受けており、それらを列挙すると、信長に大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「この白刃を呑むか、酒を飲むか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲んだとされている。

 また同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけると「このキンカン頭(禿頭の意味)」と満座の中で信長に怒鳴りつけ頭を打たかれた。キンカン頭とは「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分の上下の反対を合わせると「禿」となることから信長なりの洒落だったのかもしれないが、髪が薄いことを「キンカン頭」と周囲の前で直接言われれば恨んでしまっても仕方がない。

 1569年6月、光秀は丹波八上城に母親を人質に出して、城主の波多野秀治・秀尚兄弟など11人を生け捕りにして安土に移送したが、信長の刺客に襲われ波多野秀治は殺害され、生き残った者は磔にされた。これに激怒した八上城の家臣が光秀の母親を磔にした。殺害された母親の遺体は、首を切断され木に縛られた。

 1582年、信長は武田家を滅ぼした徳川家康を労うため、安土城において家康を饗応した。この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」として「続群書類従」に収録されている。家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐに秀吉の援軍に行けと命じられた。

 甲州征伐の際に、反武田派の豪族が織田軍の元に集結するのを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言うと「お前ごときが何をした」と信長が激怒し小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で頭を叩かせ恥をかかせた。このように列挙すると恨んで当然であり怨恨説は根強くある

 信長の家臣・稲葉一鉄に仕えていた斎藤利三が、稲葉一鉄と喧嘩して光秀に使えたのを稲葉側に戻すように迫り光秀の頭を叩いた。さらに長年信長に仕えていた佐久間信盛や林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したということが怨恨説の下地になっている。

 さらに光秀は古くからの同盟者である土佐の長宗我部盛親に信長へ贈り物を献上させるなど、主君・信長へ十分に気を配らせている。しかし信長は長宗我部盛親を裏切り四国成敗に出ようとした。光秀が恨みを持ったと考えるのは無理もない。

 

野望説(錯乱説)
   100倍以上の兵で奇襲できるのは、信長を殺すのにこれ以上ない好機だった。しかし明智光秀が天下統一を狙ったとしては、知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがなく、野望説は正しくても、野望説というより野望に絡んだ錯乱説が正しいと思われる。事変後の光秀の行動はあまりにも杜撰(ずさん)で、信長を撃つことしか頭になく、信長側の反撃に対する備えもなければ、味方の糾合という政治的備えもなかった。つまり最終勝利に向けた的確な手を打たないでいた。

 長年の盟友である細川藤孝に宛てた書状に「味方してくれれば摂津国を与える。それが不服なら但馬と若狭も望み通りにする」と書き、「天下統一の事業を二人で成し遂げよう」と誘っている。さらに「この謀叛は忠興(藤孝の嫡男)を取り立てるのが目的で、50日から100日で近畿を平定したら忠興と十五郎(光秀の嫡男)に譲って引退するつもりだ」と書いている。なさけないほどの懇願調で弱々しい。そこに勝者の高揚も覇気も感じられず、天下経営の不退転の覚悟が見られない。この天下を目の前にしながら覚悟を見せず、共感の裾野を広げられなかった。光秀の謀叛は「一夜たりとも天下を心ゆくまで楽しんでみたい」とあるが、光秀は本能寺の変後「一夜たりとも楽しむどころか、焦りと憔悴の日々」だったのではないだろうか。光秀は和歌や茶をたしなむ教養人であり、行政官僚として優秀ではあったが、人の心を読めなかったとしかいいようがない。


理想相違説
    信長は伝統的な権威や秩序を否定し、一向宗勢力、伊賀の虐殺などで天下統一を目指した。いっぽう明智光秀は室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとした。信長の斬新的な考えと光秀の保守的考えの違いにより、光秀は独裁者の暴走を断ち切ろうとした。光秀の理想は実現しなかったが、後の江戸幕府による封建秩序による安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興で思い描いた理想は、結果的に江戸幕府によって実現されている。

 光秀は教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、大名にも名門、旧勢力出身者が多く、特に細川氏(管領家の分流)、筒井氏(興福寺衆徒の大名化)は典型で、このような状況も背景となっている。

 ここで後世に生きる私達は本能寺の変が成功した事を知っており、あの英雄・織田信長を討ったのだから、明智光秀は相当綿密な計画を立てていたに違いないと考えがちである。光秀が一人で織田信長を討つリスクを冒すわけがない。きっと黒幕や共謀者がいたいたという陰謀論が入り込むでくる。本能寺の変はその状況から明智光秀が単独で行動を起こしたことはほぼ間違いない。ただ表に出ない黒幕がいた可能性があり、これまで様々な説が言われている。


朝廷黒幕説
     信長には朝廷に取って代わる意思があったと思われ、朝廷から命ぜられて光秀が謀反を起こしたという説がある。これは1582年頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い、安土城の遺構から安土城本丸の天守閣の近くに御所を模した建物があり、自らを礼拝させたといわれている。
    もし信長が正親町天皇を退位させ、自らがその位置に就くようなことを考えていたとしたら、朝廷が光秀を動かした可能性はあるだろう。このように朝廷黒幕説は説得力があるが、朝廷からの命令ならば暗殺後に味方が増えたはずである。謀反の汚名を朝廷に着せない為とするには説得力に欠ける。また誠仁親王の義弟の勧修寺晴豊の日記から正親町天皇が信長と相互依存することにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好ではなかったので、朝廷は信長の一連の行動に危機感を持っていたともいえる。
    朝廷または公家の関与説は、「愛宕百韻」の連歌師・里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし「首謀者」であるはずの誠仁親王が切腹を覚悟するところまで秀吉から追い詰められながら命からがら逃げ延びている。
   朝廷黒幕説は有力な説として注目されたが、現在では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっている。


四国黒幕
    比較的新しい説として、信長の四国政策の転換が指摘されている。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は重臣・斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけていた。それを織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更している。そのため光秀の面目は丸つぶれになり、大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀が本能寺を襲撃したとの説である。しかも明智光秀の重臣・斎藤利三が長宗我部元親と緊密に連絡を取り合っていたことが判明している。長宗我部元親が黒幕でなくても、長宗我部と関係が深かった斎藤利三が明智光秀を動かしたのかもしれない。

 しかも本能寺の変が起きたのは、四国征討軍の出港予定日である。光秀は古くからの同盟者である土佐の長宗我部盛親に信長へ贈り物を献上させるなど、主君・信長へ十分に気を配らせている。しかし信長は長宗我部盛親を裏切り四国討伐に出ようとした。つまり長宗我部が降伏の意志を示したにもかかわらず征討軍が組織されたのである。光秀の胸には「元親は屈服すると言っているのになぜ派兵するのか」という思いがあった。光秀が恨みを持つのも無理はない。信長の横死がなければ織田家の四国征伐は実行されていたが、信長の死によって出陣は取りやめになっている。


イエズス会説
    織田信長は最初のうちは「イエズス会」に好意的であった。しかし信長は生涯を通し、自分のことを「第六天魔王」と称しており、この「第六天魔王」こそが信長の本当の正体である。イエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた南欧勢力があったことは事実である。そこで信長がイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り本能寺の変が演出されたとする説が生まれてくる。

 織田信長の命を受けた羽柴秀吉が毛利氏配下の清水宗治の備中国高松城を攻略したが、毛利家はイエズス会のフランシスコ・ザビエルと結託して「大内家」を滅ぼし長州を自らの支配下に置いていた。イエズス会は鹿児島の島津家とも結託しており、黒幕は「島津家」「毛利家」「イエズス会」の三者とする説が出てきている。

 しかしイエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理」と書いている事から、商業主義政策の信長政権をイエズス会が倒すのは不可能なことからこの説は飛躍があるが、キリシタン大名との関係では朝廷と同じように関係を継続しようとする光秀と、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じた可能性はある。

 

千利休説
 本能寺の変の最大の謎は、なぜ信長が5月29日に上洛したのかということである。信長は本来、この日に上洛する予定ではなかった。あと数日で西国出陣の軍勢が整う手筈になっており、信長はこれを率いて安土城を発つ事になっていた。それにもかかわらず、わずかな共廻りを引き連れ上洛し、そのために光秀につけ込まれ命を落とすことになった。信長の率いる軍勢は6月6日には出陣する見通しだった。光秀の方は5月17日に坂本城に戻って、さらに丹波の亀山城に帰還してただちに1万3千の軍勢が整えられた。
 一方の安土では5月21日に嫡男・信忠が2千の手勢を率いて出発し京都の妙覚寺へ入った。信長上洛に先だって警護体制を整えておこうとするものだった。
 信長がなぜ軍勢が整う前に京都へ入ったのか。信長は到着した翌日、6月1日に宿舎の本能寺で茶会を開き、信長は本能寺で堺の豪商たちを招いていた。安土から持ってきた38種類の名物茶器を披露し、茶会の後は酒宴となった。
 ここで注目する人物として博多の豪商鳥居宗室(とりいそうしつ)がいる。ご存じの通り信長は天下の三名器「初花」「新田」「楢柴」を知っており、信長は「初花」「新田」の二つをすでに持っていて、最後の「楢柴」は鳥居宗室が持っていた。 信長はこの「楢柴」を譲って貰う積もりだった。 鳥居宗室は6月2日には京都を発つ予定だった。そこで信長は予定を繰り上げて京都に来た。今まで信長と鳥居宗室は面識がなく、信長は会って「楢柴」を譲り受ける交渉をしたいと思っていた。この心理を千利休が巧みに利用し、利休の手引きによって軍勢が整わないうちに本能寺に誘い出された可能性がある。利休は信長の信頼も厚く、茶の湯の師匠的存在として信長の近くにいた。
 では利休の動機は何であったのか、その背後には堺の商人衆がいた。堺の商人衆は信長を野放しにしておくと、いつ難題を押しつけられるかという不安と、殺戮を平気で行う行動に恐怖感を覚えていた。このように「織田信長」を京都におびき出すことのできる人物として「千利休」が挙げられるのである。


徳川家康共謀説
    織田家を取り巻く諸将が黒幕という説がある。信長の死で誰が一番得をしたのか、後に天下人になった徳川家康や豊臣秀吉である。織田信長がいる限り、家康も秀吉も天下を取れなかったのは確かである。

 家康を黒幕とする説として「信長は、自ら仕掛けた罠に自分自身がはまってしまった」という「光秀家康共謀説」がある。信長は本能寺に家康を呼び寄せ殺害する、という家康暗殺の計画を企て、その実行を光秀に命じたが、光秀は信長を裏切り家康と共謀したというものである。光秀と家康は「信長の命令による家康討ち」の計画を利用し信長討ちにすり替えたというものである。

 信長は光秀に全幅の信頼をよせ、襲われるのは家康であって、自分が狙われることなどあり得ないとしていた。この説によると本能寺での無警戒ぶりが納得いく。また家康が安土招請や堺見物で不思議なまでに無警戒だったことも理解できる。

 家康の伊賀越えは予定通りのことで、苦難とされたのは世間にこの計画を隠すためというものである。本能寺の変発生後は自分の領土である三河を目指して移動するが、そのときも無事に三河まで辿りついている。家康に同行していた武田家の元家臣・穴山梅雪は自分の領土まで帰ることができず、途中で土民に殺されている。穴山梅雪が帰れず、家康が帰れたのは事前に謀反を知っていて準備していたからではないかとの説である。また家康の場合、信長の命により嫡男・信康と正室・築山殿を自害させられた恨みがあった。さらに家康は後に、明智光秀の従弟・斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として推挙しているが、このようなことはありえることなのだろうか。


秀吉説
    本能寺の変後、秀吉は中国大返しと呼ばれる備中高松城から京都までの大規模な軍隊の移動を成功させている。通常では不可能と思われる200kmもの行軍を短期間で実現できたのは、秀吉が事前に光秀が謀反を起こすことを知っていたからとすれば不自然ではない。光秀は秀吉の援軍として中国へ向かう予定だったので、両者の間でやりとりがあったはずである。そのため光秀が事前に秀吉に知らせることは可能だった。そして何よりも光秀を討ったあとで、誰が天下を取ったのかを考えれば、秀吉の名前があがってくるのは当然である。

 極端に言えば秀吉側の手際の良さと、明智側の無策ぶりから、信長暗殺の実行犯は光秀ではなく秀吉とする説がある。本能寺の変が起きる前に、秀吉は毛利と密約を結んで山陽道を引き返し、暗殺部隊を京に送り信長父子を殺害し、事件を聞いて本能寺に急行した明智光秀を謀叛人にしたてあげ、さらに事が成った後に秀吉が秘密を知る者を葬ったという推論である。

 この説によると本能寺の変後に連続死した人物として、 誠仁親王、丹羽長秀、蒲生賢秀、秀吉の家臣・杉原家次があげられ、なかでも杉原家次は変後、旧明智領の福知山城主となったがその2年後に変死し、その子孫は光秀のために怨みを持ったまま死んでおり、非業の死を遂げた者の祟りをしずめるために御霊神社を創建したとある。

 

本願寺教如説
 織田信長の最大の敵は、今川義元でも浅井朝倉でも武田信玄でもなく、石山本願寺を本拠地とする一向宗だといわれている。本能寺の変の当時は信長は一向宗と既に和睦しているが、その和睦に最後まで反対したのが本願寺第12世宗主の本願寺教如だった。織田信長はキリスト教を優遇し、仏教については自ら仏敵である六天大魔王を名乗ったくらいで仏教を敵視していた。教如は穏健派だった父・顕如とは違い、信長を最後まで敵視していた。石山本願寺から退去させられ紀伊に移住していたが、そこから仏敵信長を討つための策謀をめぐらせたのかもしれない。

 

安国寺恵瓊説
 毛利氏の外交僧の安国寺恵瓊は、一枚の手紙を後世に残している。「信長の治世は5年か3年は持つだろう。来年辺りには治世は公家になるかもしれないが、そののち仰向けにひっくりかえるかもしれない。藤吉郎(羽柴秀吉)は優れた人物である」この手紙が書かれたのは1573年で、本願寺の変が起きる9年前で、本願寺の変を予言することを書いている。もしそうならば恐るべき慧眼の持ち主といえる。安国寺恵瓊が過去の自分の発言を実現させるべく動いたのかもしれない。

 

足利将軍指令説
    最後に足利義昭による陰謀説がある。足利義昭は信長によって京都から追放されたあと、毛利氏を頼り、本能寺の変が起こるまでの将軍としての影響力は急速に低下していた。本能寺の変のあった日、義昭を庇護していた毛利氏は備中(岡山)で羽柴秀吉軍と交戦中だった。変を知った秀吉は急いで毛利氏と講和を結んだが、すぐには立ち去らず2日とどまった。本能寺の変を知った毛利氏が追撃してくるのを恐れたためだが、結局、毛利軍は攻撃してこなかった。明智光秀にすれば毛利氏が「義昭と光秀が連携していれば、本能寺の変を知ってわざわざ引き揚げるはずはない」。このことからこの説は支持されていない。
 実際、毛利軍の最高幹部である毛利輝元と小早川隆景が本能寺の変から4日後の6月6日付で国元(領地)に送った書状に「信長が討たれた。討ったのは津田信澄・明智光秀・柴田勝家である」と本能寺の変の全容を正確につかんでいなかった。毛利氏に庇護されていた義昭が毛利氏を蚊帳の外に置いて、結託した光秀を動かしたとは考えにくい。書状の宛て先は土橋重治で反信長の雑賀衆として奔走していた人物で、義昭を庇護する毛利氏とも通じていたことから注目されるのは無理もないが、可能性は低い。
 実際、土橋重治は本能寺の変の半年前に信長と対立し、近国や土佐の長宗我部氏のもとに落ちのびていた。しかも毛利氏の縁戚である吉川氏によると、本能寺の変を最初に知らせたのは紀州雑賀の者だったと書かれている。つまり雑賀衆の中でも土橋氏は、信長に対抗している長宗我部氏、毛利氏に通じていたことは明白なので、当然、土橋氏は毛利氏に身を寄せていた足利義昭とも連絡を取っていたとみられるが、土橋重治を通じて光秀と義昭が通じていたとは無理がある。この書状は土橋重治から光秀に対する手紙の返書である。義昭と連絡を取っていた土橋重治が、光秀に義昭の京都帰還を頼み、光秀がそれを承諾していると返事をしただけであろう。秀吉との戦を前に一人でも味方を確保したい光秀としては、義昭の上洛に対して断る理由はない。それゆえ承諾していると返したにすぎない。光秀と義昭とがあらかじめ連絡を取り合っていたことにはならない。事実、この書状が書かれる以前に、光秀が義昭を担ごうとした証拠や形跡は一切ない。
 光秀の立場からすれば、義昭の勢力や権威を信じていたとしたなら、もっと義昭を表面に出して味方を募ったとされるがその形跡はない。
 光秀は織田家の有力家臣・細川藤孝に書状を送り助力を請うている。細川藤孝はかつて義昭に仕え側近中の側近であった。また光秀の娘・玉(細川ガラシャ)を藤孝の嫡男・忠興に嫁している。にもかかわらず細川父子は光秀の要請を拒絶している。もし光秀が義昭のために信長を討ったのならば藤孝が加勢しないわけがない。義昭黒幕説ではこの点が疑問である。これらの点から光秀に謀反当初から義昭を担ごうという意図はなく、土橋重治の仲介後、味方集めの一環としていたと見るのが妥当であろう。

 

光秀は生き延びた?

 大雨の闇夜の竹やぶで光秀の顔も知らぬ土民・中村長兵衛が、馬で移動する光秀をどうやって認識できたのか。頭の切れる光秀が影武者を用意していないはずはなく、それを土民が見抜けたのか。中村長兵衛は13人の家臣に気づかれずに、光秀に接近して正確に一撃で脇腹を竹槍で刺したのか。しかもその後の調査べで、村の英雄のはずの中村長兵衛を知る村人は小栗栖にはいなかった。
 秀吉が光秀の首を確認したのは4日後の蒸し暑い最中であった。はたして光秀を判別できたのだろうか。
 明智本家の地盤、岐阜・美山町では影武者「荒木山城守行信」が身代わりなったと伝えられている。また光秀の側で殉死したとされる2人の家臣は、その後も生きて細川家に仕えている。偶然としても2人ともというのはおかしい。しかも細川は光秀の親友である。光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地で、領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。この土地ではどんな工作も可能だった。
 死んだのが影武者として、光秀はどうなったのか。実は出家して「南光坊天海」と改名し、徳川家の筆頭ブレーンになったという有名な説がある。
 南光坊天海は家康、秀忠、家光の三代に仕えた実在の天台宗僧侶で、比叡山から江戸へ出て、絶大な権力を持ち将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれていた。様々な学問に加え陰陽道や風水にも通じていたことから、将軍家の霊廟・日光東照宮や上野の寛永寺を創建し、江戸の町並みを練るなどして107歳の長寿で他界した。

 よく言われるのは日光東照宮には明智家の家紋である桔梗紋が使われている。さらに東照宮のある日光には明智平と呼ばれる地域があり、この名をつけたのが天海だされている。明智は本来美濃にある土名なので、それを関東の日光の地名に残そうとするのは何か特別な意味があると考えられる。

 また徳川家光の乳母・春日局は元々光秀の重臣・斎藤利三の娘である。のちに春日局が江戸城に入った際に天海に対し「お久しぶりでございます」と挨拶したとされている。本能寺の変の当時、春日局は4歳くらいの幼子だったが、斎藤利三は明智秀満と並んで明智家の副将だったので、光秀が利三の屋敷に割と頻繁に往来していた可能性がある。春日局が光秀と直接面識があった可能性がないことではない。
 光秀が築城した亀山城に近い慈眼(じげん)禅寺には、光秀の位牌や木像が安置されている。南光坊天海が没後に朝廷から贈られた名前(号)は「慈眼大師」で、大師号の僧侶は平安時代以来700年ぶりのことである。大師とは「天皇の先生」の意味で、つまり信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということになる。
 年齢的に光秀と天海は数年しか違っていない。南光坊天海の墓は日光にあるが、滋賀坂本にもある。坂本は光秀の本拠地で、光秀の妻や娘が死去した場所でもある。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)まで建っている。明智一族の終焉の地に天海の墓と家康の供養塔があるのは不思議なことである。また2代徳川秀忠の秀と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」となる。
 比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日が1615年で、大坂冬の陣の直後である。つまり冬の陣で倒せなかった豊臣を夏の陣で征伐できるようにと願をかけた石灯籠が長寿院から移転したのである。


光秀の墓

 明智光秀の墓は滋賀坂本の西教寺にある。坂本はかつての明智の領地で、西教寺にある石灯篭に「慶長二十年願主光秀」の文字が彫られている。ちなみに天海の墓も歩いていける場所にある。光秀の墓は高野山や明智と縁のある岐阜・山県市にもあり、さらに首塚は京都・知恩院の近くにある。これは小栗栖で討たれた時の遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたのだろう。

 坂本龍馬の生家には「坂本城を守っていた明智左馬助の末裔(土佐まで落ち延びた)が坂本家」との伝承が伝わっている。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗紋である。

下右:京都市東山区三条通白川橋下る東側西教寺にある辞世句の碑。「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」。この意味は「修業の道には順縁と逆縁の2つの道がある。しかしそれらの道は実は1つで、人間の心の源につながる大道である。五十五年の我が人生の夢も覚めてみれば一元に帰すものだ」である。下左:西教寺にある明智光秀とその一族の墓。