明智光秀

明智光秀
 明智光秀は織田信長に見い出され、低い身分から重臣にまで引き立てられ、多くの領地や軍の指揮権を与えられたが、本能寺の変で織田信長を裏切自害させた。しかしこの本能寺の変の直後に、中国から大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、落ちていく途中の小栗栖で落ち武者狩りで殺害された。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日目のことで、この光秀の短い治世を「三日天下」という。

 明智光秀は美濃の出身で通称は十兵衛、妻・妻木煕子との間に、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。領地では善政を行い、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える光秀公正辰祭や御霊神社がある。

織田家仕官以前
 1528年、明智光秀は美濃(岐阜)可児(かに)の明智城主の子としで生まれた。美濃国は土岐氏が200年余り守護を務め、数十家の支族を輩出しており、明智家はその支流であるが、父親の名前は伝わっていない。明智光秀の青年期の履歴は不明であるが、後に土岐氏にかわって美濃の藩主となった斎藤道三に仕えるが、斎藤道三と斎藤義龍の父子の争い(長良川の戦い)で斎藤道三側についたため、義龍に明智城を攻められ一族は離散した。

 明智光秀は明智家の再興を誓って諸国を放浪し、各地で禅寺の一室を間借りするなどの極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたという。当時の武将は側室を複数持つのが普通だったが(家康は21人)、光秀は側室を置かず妻の煕子だけだった。
 光秀は斎藤道三が滅亡すると、鉄砲の射撃技術をかわれて越前(福井県)の朝倉義景に召抱えられた。しかし朝倉義景からの評価は低く足軽のまま10年を過ごす。
 1565年(光秀38歳)に13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺され、その弟の足利義昭が京を脱出し、朝倉義景を頼ってきた。明智光秀は義昭の側近・細川藤孝と意気投合し、細川藤孝を通して足利義昭も光秀を知ることになる。

 足利義昭は幕府の復興を願い朝倉義景を頼ったが、義景は動かず、天下を取る器量も野心もなかった。そこで桶狭間の戦で勢いに乗り美濃を奪った織田信長に頼ろうとした。

 足利義昭は家臣の細川藤孝を使者として織田信長へ送るが、この時に明智光秀も同行している。明智光秀は織田信長の正室・濃姫と血縁関係があり、また細川藤孝に付き従う形で同行した。

織田信長の家臣になる
 明智光秀は足軽や雑用係だったが、織田信長の家臣には木下秀吉や滝川一益のように、出自がはっきりしない武将が多いため問題になることではなかった。光秀は濃姫と血縁関係にあったせいか、一躍500貫の身分に取り立てられた。これは100人の歩兵と10人の騎兵を率いる身分である。信長は有能な人材を求めていたので、光秀の能力を見抜いてのことだろう。いずれにしても長く屈従を強いられていた光秀は信長に会うことで出世の道を歩むことになる。この時、明智光秀は39才であったが、信長はこの光秀によって命を奪われるとは予想もしていなかっただろう。

 天下を狙う信長にとって足利義昭を手駒に利用する魂胆があった。明智光秀は朝倉家を去り、信長の家臣でありながら室町幕府の幕臣でもあるという環境に身を置いた。光秀は荒くれ者が多い織田氏家臣団の中では、和歌や茶の湯を嗜んだ教養人であった。信長が京に入ると、光秀は朝廷との交渉役になって信長を支えた。積極的に公家との連歌会にも参加して歌を詠んだ。

 さらに木下秀吉とともに織田支配下の京都奉行の政務を行い、行政能力だけでなく三好三人衆の急襲にも活躍した。まだ信長に仕えて2年目の光秀が、織田家生え抜きの古参武将と同等の扱いを受けたことは、信長が6歳年上の光秀のことを高く評価したからである。その後、金ヶ崎の戦いで、信長が浅井長政の裏切りから危機に陥り撤退する際には、殿役(しんがり)を務め指揮能力を実証した。

 1570年(42歳)信長は、足利義昭を最初から利用するだけ利用しようと考えていたので、信長は「書状を発する場合には信長の検閲・許可を得ること」「天下のことは信長に任せよ」など脅迫的な書状を送り約束させた。このように信長からの締め付けが強くなるにつれ、義昭は信長の影響力を排したいと望むようになり、諸大名に「上洛して信長を牽制するように」と促した。この呼びかけに応じて浅井・朝倉が挙兵し、本願寺や延暦寺など宗教勢力も反信長となった。

 同年6月の姉川の戦いは、浅井・朝倉軍 対 織田・徳川軍であるが、両軍の死者は2500人を超え負傷者は数知れないほどの凄惨な戦いで、姉川は水が真っ赤に染まった。徳川軍が朝倉軍を担当し、光秀軍は浅井攻めになったが、光秀にとって朝倉義景は3年前まで使えていた元主君である。織田軍はこの激戦を制し浅井・朝倉軍は敗走した。

 この時点での武将の年齢は光秀42、信長36、秀吉34、家康28である。

 1571年7月、光秀は琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城をたてる。この時、信長は築城費として黄金千両を与えている。この築城は織田家臣にとって衝撃だった。明智光秀は家臣の中で初めて自分の城を持っただけでなく、織田に来て僅か4年の光秀が初めて一国一城の武将となったからである。秀吉でさえ長浜城を持つのは3年後のことである。光秀の喜びは計り知れないものであった。坂本城は琵琶湖の水を引き入れた美城で、宣教師ルイス・フロイスは「信長の安土城の次に天下に知られた名城が明智の城だった」と絶賛している。
 これらの功績によって、光秀は近江の滋賀郡に5万石の領地を与えられ、信長に仕えてから3年で大名になった。この異例の出世は京都の政務、戦場での働きがあったことによるが、秀吉よりも先に領地を与えられたことは、能力だけではなく信長の身内びいき、濃姫との血縁があったからであろう。光秀は常に信長の機嫌をうかがい、贈り物を絶やさなかった。こうして光秀は信長の寵愛を受け立身出世の道を突き進むことになる。しかし古くから信長に仕える家臣たちからは疎まれ、家中での評判はよくなかった。これには急な出世を遂げた光秀への妬みの気持ちからである。

比叡山焼き討ち
  1571年9月、信長の家臣は思わず耳を疑った。それが本気と知ると青ざめてしまった。信長は「比叡山を焼き払え」と命じたのである。しかもお堂に火を放つだけでなく、僧侶、一般人、さらには老人も子供も皆殺しにしろという。信長は仏罰を恐れる家臣たちに「叡山の愚僧どもは魚鳥を食らい、賄賂を求め、女を抱き、出家者にあるまじき輩」と殺戮を厳命した。

 叡山に顔見知りが多くいた明智光秀は「確かに堕落した僧侶もいるが、全員ではありません。真面目に修行に励んでいる者もたくさんいます」と抗議するも、信長は聞き入れなかった。 この比叡山の焼き討ちで、光秀はその実行部隊として信長の命令を忠実に実行している。この時光秀は信長に反対したという説があるが、積極的に焼き討ちに参加したことが資料からわかっている。家臣は信長の命令に逆らえるはずはなかった。もし逆らえば自分が斬られたからである。延暦寺は最澄が開山してから約800年経っていた。

 叡山の寺院は軒並み灰燼と化し、男女約3千人が虐殺され犬までが殺された。この焼き討ちは4日間続き、諸大名はこれを批判した。武田信玄は「信長は天魔となった」と糾弾したのである。

足利義昭を見限る
「信長は何をしでかすか分からん」。将軍義昭はこれ以上信長の権力が巨大化することを危惧し、武力対決への準備を進める。光秀は義昭直属の幕臣として「今の信長公には絶対に勝てない、と恭順するように」と何度も説得したが衝突は避けられぬことを悟る。同年暮れ光秀ははついに義昭に暇を請い幕府を去った。
 1572年、信長が最も恐れていた戦国最強大名・甲斐の武田信玄が動く。上洛を開始した信玄は「三方ヶ原の戦い」で家康を軽くひねり潰し愛知まで迫った。

 1573年。正月、義昭はほくそ笑んでいた。足利義昭は信長のおかげで将軍になったが、実質的な権力は与えられず、そのため信長を排除しようと各地の大名に信長を攻撃するように命じたのである。「信長包囲網は完成した。信玄が来れば信長も終わりだ」。事実、信長は絶体絶命だった。東に信玄、西に毛利、南に三好・松永ら大阪勢、北に抵抗を続ける浅井・朝倉、しかも北陸には上杉が無傷で控えていた。
 3月、信玄接近中の知らせに舞い上がった義昭は、上洛を待ちきれずに信長へ宣戦布告をして将軍・足利義昭と信長の戦いが起きる。ところが翌月、信玄が病死したのである。

 足利義昭が挙兵すると、明智光秀は石山城、今堅田城の戦いで信長の直臣として戦った。信長は義昭と講和交渉を進めるが、成立寸前で松永久秀の妨害で破綻した。同年7月、再度義昭が槇島城で挙兵したため、さすがに信長も足利将軍は斬らなかったが、京から追放した。ここに237年続いた室町幕府は主君信長の手で滅亡した。光秀の主は信長ひとりだけになり信長は光秀を重用するようになる。1575年の高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆殲滅戦に参加し勝利する。

 8月、信長は3年前の「姉川の戦い」で敗走した朝倉・浅井両氏を完全に滅ぼす。浅井長政は信長の妹お市と結婚しており、長政は妻と娘の茶々(淀君)らを城から脱出させた後、徹底抗戦し自害した。

 同年、信長は正親町(おおぎまち)天皇に「元号を変えよ」と前代未聞の要求を突きつけた。信長は自分が天皇より力があることを見せ付ける為に、天皇交代時の神事“改元”を命じた。一人の戦国武将が元号を自由に出来る、朝廷はそんな前例を残したくなかったが、天皇は改元せねば殺されると思い震え上がった。そして年号は元亀から「天正」へ改元された。信長は幕府を滅ぼしたこの年を“元年”にしたかったのだろう。

 数ヵ月後に天皇は信長に従三位の位を授与すると、信長は官位が低いと激怒した。そしてなんと正倉院に入って皇室の宝物中の宝物、香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取った。信長から届けられた木片を見て、天皇は「不覚にも正倉院を開けられてしまった」と悔しさを記す。天皇は抗議の意味を込めて、その木片を信長と対立している毛利氏に贈った。

 

信長の残虐性

 1574年、信長に招かれ正月の宴に参加した重臣達は腰を抜かす。「昨年は浅井・朝倉の討伐、誠に大儀であった。ものども祝い酒じゃ」。家臣達の前に並べられたのは、金箔で化粧された黄金色に輝く浅井父子と朝倉義景3人の頭蓋骨であった。信長はその頭部を割って裏返し、これに酒を注いで呑めと命じた。しかも光秀の前に回されたのは朝倉氏の髑髏であった。「どうした光秀、呑めんのか」「これはかつての主君であり」光秀は躊躇したが逆らえなかった。

 信長公は狂っている、この男は危険すぎると思うのが精一杯であった。比叡山の焼き討ち以来「天魔」「魔王」と呼ばれるほどの信長の残虐度は加速し狂気を帯び始めてきた。特に一向一揆への弾圧は苛烈を極め、同年9月の伊勢長島において、降伏を認める振りをして、投降してきた一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺した。文字通り騙し討ちで、土地に子孫を残さぬ作戦は「根切り」と言われた。信長は4年前に伊勢の一向衆に愛する弟・信興を殺され一向宗徒を怨んでいた。「姉川の戦い」直後で弟に援軍を送れず、見殺しにしたという自責の念が、この2万人大虐殺に繋がっていた。

 信長最悪の殺戮は越前でも起きた。この地は100年間も一向宗徒が独立国を作っていたので、住民全員を一揆衆として農民も僧侶も見つけ次第に皆殺しにした。その数は信長に届けられた首の数だけでも12250とされ総計4万人にのぼった。信長は手紙にこう記した「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」。越前で発掘された当時の瓦に、こんな言葉が刻まれていた「後世の人々に伝えて欲しい。信長軍は生きたままの千人を、はりつけ、または油で釜ゆでに処した」。これは人間のすることではない。

信長の進撃

 信長は3千挺の鉄砲を用意して「長篠の合戦」に挑み、信玄の子・勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕した。射撃の名手の光秀は大いに武功をあげた。翌月、光秀は丹波国(兵庫・京都の一帯)を与えられ攻略を開始した。10月、四国の長宗我部元親から光秀に書状が届く。元親は信長が四国へ攻めてくる前に友好関係を築こうとして、子の命名を信長に求め、その仲介者になって欲しいと頼みにしてきたのだった。光秀は「承知した、安心なされ」の述べ、信長は「信」一字を与え長宗我部信親として、四国において元親が手に入れた土地を保証すると伝えた。

 1576年、信長は安土城に入城するが、城の石垣には地蔵仏や墓石も混じっており、信長が神仏を全く恐れていないことが分かる。4月、大坂・石山本願寺の攻略戦で信長は鉄砲で足を撃たれる。石山本願寺は数千丁の鉄砲で武装した堅牢な要塞寺で、信長は陥落に10年かかった。光秀も何度か援軍に向かっている。信長が撃たれたのは最前線に立っていた証拠である。多くの大名が後方の安全な場所から指示を出していたのとは正反対で、家臣たちはそんな信長にカリスマを感じていた。やはり公は他の腑抜け大名とは違う

 1577年、明智光秀は大和・信貴山城に籠城する松永久秀を織田信忠(信長の子)と共に攻略した。松永久秀は2度も信長を裏切っており、普通なら「一族皆殺し」となるはずだったが、信長は久秀の所有する名物茶釜「平蜘蛛釜」を交換条件に命を救うと提案した。久秀は主君(三好家)を滅ぼし、将軍(13代足利義輝)を暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き、大仏の首を落とし、仏罰が当たると言われたが「ただの木と鉄の塊に過ぎん」と言いのけた武将である。この神仏を恐れない松永久秀を信長は気に入ったのだろう。しかし久秀は織田軍に降伏せず、最期は「信長にこの白髪頭も平蜘蛛釜もやらん」と平蜘蛛釜に火薬を詰めて首に巻き、釜もろとも爆死し天守を吹っ飛ばした。

信長天下取りに近づく

 1578年(50歳)に上杉謙信が急死。これで一気に信長は天下取りが近づいた。信長は「もう朝廷など必要なし」と右大臣の官職を放棄し、光秀の三女・玉子(ガラシア)を細川忠興に嫁がせた。忠興は光秀の朝倉時代からの盟友である細川藤孝の息子だった。

 しかし今度は逆に長女・倫子が離別されて戻って来た。倫子が嫁いだ先は荒木村重の息子であった。荒木村重は信長の勇将だったが、村重の部下が攻略中の石山本願寺に裏で兵糧を送っていたことが発覚した。窮地に陥った村重は、信長が詫びを聞き入れるとも思えず「どうせ腹を切らされるなら反逆を」と謀反を起こし籠城した。つまり村重は自分の裏切りで光秀に迷惑がかかるといけないので、決起の前に息子夫婦を離縁させ倫子を送り返したのだ。光秀は怒る信長を説得し、城を無血開城するなら城内の人間の命を助けるという条件を引き出した。ところが、村重は1年間の籠城後に城を抜け出すと毛利のもとへ逃げ、毛利にいる足利義昭とも連絡を取っていた。

 信長は村重を対毛利の主要武将として考えていただけに、毛利へ寝返ったと聞いて激怒した。裏切り者への見せしめとして、村重の一族37人を六条河原で斬首、女房衆(侍女)の120人を磔、侍女の子どもや若侍ら512人を家に閉じ込めて焼き殺した。助命を願う者が最後に頼りとしたのは光秀であった。光秀のもとに「拙者の命を妻の命を引き換えに」と荒木方の武将が駆け込むと、光秀は「武士の情け」と信長に取り次いだが、彼らは夫婦共に処刑され光秀は絶句した。荒木村重はその後、荒木道糞(どうふん)と名乗り、秀吉に拾われ利休の弟子(利休七哲)となる。

 

丹波攻略戦
 近江の坂本城主となった光秀は、信長配下の軍団長として各地を転戦し、丹波国(兵庫県北東)の攻略を信長から任されることになる。丹波は堅城が多く各地が山続きで極めて攻めにくく攻略するのに難しい土地であった。そのため光秀は少しずつ城を落とし、八上城主・波多野氏を追い詰め、波多野氏裏切りにより勝利する。1579年、光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しでついに丹波国の波多野秀治を下して畿内を平定した。しかし払った犠牲は大きかった。波多野氏を降伏させた際、投降後の身の安全を保証する為に自分の母親を人質として相手の城へ入れた。ところが、信長は勝手に波多野氏を処刑してしまう。怒った波多野の家臣達は光秀の母を磔にした。

 同年、信長は家康の妻と長男信康が武田と内通していると疑い、家康に殺せと命じている。これは信康の嫁(信長の娘)と姑の対立が生んだ悲劇であった。家康は「魔王」信長の要求に抵抗できず、愛する妻子を殺した。この件で「家康は光秀以上に信長を恨んでいたのかもしれない。

 光秀は丹波一国の攻略に成功すると、細川藤孝と共に丹後(京都北部)をも攻め落とし京都周辺の敵勢力を駆逐した。

 その間にも信長から各地に出動するように命令を受け、本願寺攻めや紀州の雑賀攻めなどにも参加し、信長から丹波一国を加増され34万石を領有するようになった。丹波は京都に隣接する地域で、そこにこれだけの領地を与えられたことは、光秀は信長の家臣団の中でも特に高く評価されていたことになる。

畿内の武将たちを指揮する立場になる
 光秀の領地は34万石であったが、それ以外にも丹後の細川藤孝や大和(奈良)の筒井順慶など、畿内に領地を持つ信長配下の諸将たちへの指揮権を与えられ、計240万石の軍事力を預かる身となっていた。信長の本拠が近江の安土城だったので、その側で大軍を預けられるほど信頼されていた。実質的に信長の身辺を守る地位についていたと言える。1581年には、京都御馬揃えという、正親町天皇に織田軍団を披露する大規模な観兵式の取り仕切りを任された。この任を無事に果たした後、翌1582年の春に武田討伐に参加するが、この時は主力ではなく、討伐の進行具合を見届けるだけで終わった。この年の5月には、信長から饗応の返礼を受けるために上洛をした徳川家康の接待役を命じられる。
 この頃の信長の軍団は関東に滝川一益が、北陸に柴田勝家が、中国地方に羽柴秀吉が配置され、いずれも大きな戦功を立てる機会を与えられていた。光秀は丹波攻略以後、大規模な軍事作戦から外され武将の果たすべき仕事はさせてもらえなかった。そこで新たに四国の討伐軍が編成されることになり、手の空いていた光秀は自分がこの役目を任されること思っていた。

 四国の長宗我部元親は光秀を介して織田家に砂糖や特産品を贈っていたが、四国を征伐しないという元親との約束を信長は撤回し四国征討を決定した。総大将は信長の三男・信孝であった。長宗我部に対して「征伐しない」と言っていた光秀の面目は、このため丸潰れになった。しかも元親の妻は光秀の重臣・斎藤利三の妹であった。
 斎藤利三(としみつ)は元々同じ織田家の稲葉一鉄に仕えていたが、性格が合わず浪人となった。そこを光秀が重臣として迎えると、一鉄は急に利三が惜しくなり、信長に仲介を頼んで取り戻そうとした経緯があった。「光秀よ、利三を一鉄に返してやれ」という信長に、「私は一国を失っても大切な家臣を手放すつもりはありません」と光秀は答え、「わしの命令が聞けぬのか」と信長は立ち上がると、光秀の髪を掴み床の上を引きずり回し廊下の柱に何度も頭を打ちつけている。刀を手にかけた信長を「刀はいけません」と周囲が止めに入った。斎藤利三はそこまで自分を思ってくれる光秀に感動し、本能寺の変で先陣を切った武将であり、本能寺後も最後まで明智軍に残ったため秀吉に斬首された。

 この斎藤利三の娘・福があの家光の乳母の春日局である。春日局は父を討った豊臣家が大坂の陣で滅亡しさぞかし嬉しかったであろう。

 このような経緯から、四国征伐は丹羽長秀に任された。光秀は軍事作戦を主導する立場につくことができず、このような信長の措置が自分の価値が信長にとって薄れていると光秀の心に疑念を抱かせることになった。人使いが荒い信長から用いられないのは危険な兆候であった。信長には老臣を放逐した前例があったからである。

佐久間信盛の追放
  10年の長きにわたった「石山合戦」が終結し、本願寺11代顕如は寺から退去した。徹底抗戦を訴える長男を絶縁して次男に跡を継がせた結果、本願寺は東西に分裂。戦後処理が一段落すると、信長は家臣団の追放を断行した。たとえ父の代から仕えていようと、成果を挙げない武将は任務怠慢として織田家を追放した。

 佐久間信盛は信長の父・信秀の頃から織田家に仕えている重臣で、信長の家督相続を支持した人物である。軍の指揮に秀でて、信長の主だった戦いには全て参加して戦功を上げている。しかし、1576年から任された本願寺の攻略戦において、佐久間信盛は失態を演じてしまう。何年かけても本願寺を攻め落とせず、信長の不興を買ってしまったのである。

 追放になったのはは佐久間信盛父子、林通勝(秀貞)、安藤守就、丹羽右近の5人で、林通勝の罪は、24年前に織田家の後継者を選ぶ時に、通勝が弟の信行を支持したことである。家臣たちは「24年も昔のことを理由に通勝殿が追放されるとは、明日は我が身だ。30年忠勤に励んだ佐久間に情をかけぬのか」と衝撃を受け戦々恐々となる。

 信長から働きの鈍さや過去の失敗について責められ折檻状を突きつけられたのである。佐久間信盛は近畿東海など7ヶ国の武士団を束ねた膨大な領地を没収され追放され、紀州の熊野にまで落ち延びることになった。この佐久間信盛は光秀と同じ年齢であった。

 信長は丹波での明智光秀の活躍、秀吉の武功、池田恒興の摂津支配、柴田勝家の活躍と比較して佐久間信盛を追放したのである。

 しかし光秀は近畿の数ヶ国の軍勢を預けられていたが、佐久間信盛と似た立場にあった。それでいて3年ほどの間、軍事的な功績をほとんどあげていない。このことから光秀はいずれ自分も佐久間信盛のように領地を取り上げられて追放されてしまうのではと疑念を抱いていたのであろう。信長に30年に渡って仕えた佐久間信盛ですら追放されたのだから、14年の経歴しかない光秀ならば容易に信長から捨てられるかもしれない。丹波攻略以後は信長から軍事作戦を任せてもらえない状況が続き、日を追うごとに光秀の心には暗い影がさしたのであろう。


中国遠征への参加命令
 5月15日、家康が安土城を訪れる。事前に接待役を命じられていた光秀は、手を尽くして山海の珍味を取り寄せ3日間家康をもてなした。そこへ毛利征伐で中国方面に向かった羽柴秀吉から援軍要請が入る。羽柴秀吉は備中高松城を水攻めにして高松城は陥落寸前であったが、そこに毛利氏が4万の軍を率いて援軍にやってきた。羽柴軍は3万であったが油断のできる情勢ではなかった。そこで信長は自ら軍を率いて羽柴秀吉の援護に向かうことにした。毛利軍に織田の大軍の姿を見せつけて毛利の戦意をくじく目的があった。このため光秀にも中国地方への出動命令がくだされた。信長は「一気に九州まで平らげるまたとない機会」と喜び、光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備をさせた。家康はこの後、本能寺の変当日まで京や堺の見物をしていた。

 この家康への接待については、入念に準備したのに突然中国遠征を命じられ恨みを抱いた。あるいは接待に用意した魚が腐っていて、信長が小姓の森蘭丸(17歳)に光秀の頭を叩かせたという説があり、これを謀反の理由にする歴史家がいるがはたしてどうであろうか。光秀はそのような理由で主君を討つ小物ではない。

 むしろ四国遠征の指揮官は任せてもらえずに、羽柴秀吉への支援軍としての出動命令だったため光秀の心は晴れなかったのだろう。信長から出陣命令が下るが、その内容が光秀を愕然とさせた。「丹波、山城(京都)、坂本の領地を召し上げ、代わりに毛利の所領を与える」というものだった。信長にしてみれば「それくらいの意気込みで毛利と戦え、お前ならすぐに毛利の土地を切り取れる」そのような気持ちだったのかもしれないが、これまでの重用していた光秀をこのように命じることは、信長の横暴を見続けてきた光秀にとって前向きに考えることが出来なかったのだろう。誠実に領国経営に努めていた兵庫~滋賀一帯を全て没収し、まだ手にしてない毛利の土地を国とせよとは、自分は信長の駒にすぎないと悟ったのであろう。この時、光秀は信長を裏切ることを決意するが、謀反を成功させるための事前の根回しを一切していなかった。そのため信長に裏切りを察知されなかったが、同時に事後の立場を危うくすることになった。

 

なぜ裏切ったのか
 老いつつあった光秀の心には、年下の信長に対し恐れと焦りがあったのだろう。佐久間信盛の前例と、自分が同じ立場に置かれていることから、追放されることへの恐怖があった。四国の遠征軍の大将になるはずだったが、任された仕事は観兵式や徳川家康の接待などで、武将としての戦いではなかった。信長にとって武士としての自分の価値が下がっていると感じ、信長の寵愛を失っていると感じたのであろう。

 光秀が信長と口論をして足蹴にされた話や、徳川家康の接待のために苦心して用意した料理を信長に捨てられてしまったなど、二人が不仲になっていたことを示す逸話が残されている。
 信長への恐怖が強まり、自分の身さえも危うくなっていると思ったのであろう。信長にすれば、将来の九州征伐に備えて、九州に近い土地に光秀を動かしておくつもりだったと思われる。山陽を羽柴秀吉に任せ、両者を九州に討ち入らせるつもりだった。しかしそうであっても京都周辺から遠ざけられてしまい、左遷されてしまうのだと光秀が受け取ったとしても不思議ではない。そうなれば追放されるのも時間の問題と恐れたのかもしれない。
 光秀はこの状況から逃れるには、信長を殺害して自分が天下人になればいい、という飛躍した発想を生み出してした。信長がいなくなれば追放される恐れはなくなり、しかも自分が信長にかわって天下人になれる好機すら生まれてくる。実際には可能性の少ない発想であったが、光秀はそのように思い込んでしまったのであろう。明敏な頭脳を持つはずの光秀が愚かな考えに取り憑かれたのは、それだけ精神的に追い詰められていたのであろう。
 このことは事前の準備なかったことが、通常の精神状態にはなかったことの証拠になる。計画的に天下人になる野心を抱いていたならば、根回しをもっと周到に行っていたはずである。
 また足利義昭や朝廷の公家から信長殺害の指令を受けたという説もありますが、この時代の朝廷や将軍には実力がなく、光秀を動かせるほどの影響力はなかった。やはり追い詰められた光秀が突発的に信長の殺害を思いついたとするのが妥当であろう。

 

愛宕百韻の真相
 光秀は連歌をこよなく愛し、24回の催行が確認されているが、愛宕百韻とは光秀が本能寺の変を起こす5日前に京都の愛宕山(愛宕神社)で開催した連歌会のことである。建前は対毛利との戦勝祈願で、そのまま神社に泊まると人生最後の連歌会を開いた。
 光秀の発句を次のように詠んだ。「時は今 雨が下しる 五月哉」この連歌会で光秀は謀反の思いを表したとする説がある。「時」は明智の本家の「土岐」、「雨が下しる」を「天が下知る」つまり「土岐氏の一族の出身であるこの光秀が、天下に号令する 五月なり」といの意味合いを込めた句であるとしている。

 あるいは「天が下知る」というのは、朝廷が天下を治めるという「王土王民」思想に基づくものとの考えもある。また歴史研究者は「五月」は、以仁王の挙兵、承久の乱、元弘の乱が起こった月であり、いずれも桓武平氏(平家・北条氏)を倒すための戦いであったことから、平氏を称していた信長を討つ意志を表しているとしている。しかし、これらの連歌は奉納されており、信長親子が内容を知っていた可能性が高い(信長も和歌の教養は並々ならぬものがあり、本意を知ればただではおかないはずである)。また、愛宕百韻後に石見国の国人・福屋隆兼に光秀が中国出兵への支援を求める書状を送っていたとする史料が近年発見されたことから、この時点では謀反の決断をしておらず、謀反の思いも表されていなかったとの説も提示されている。なお、この連歌に光秀の謀反の意が込められていたとするなら、発句だけでなく、第2句「水上まさる庭のまつ山」についても併せて検討する必要がある。ただし、第2句の読み手は光秀ではない、僧侶最高位の西ノ坊行祐によるものである。

 まず「水上まさる」というのは、皆の神(朝廷)が活躍を松(待つ)ということで、この第2句は、光秀が利することを朝廷が待ち望んでいる」という意味になるという解釈がある。

 第3句は連歌界の第一人者である里村紹巴によるもので、「花落つる、流れの末をせきとめて」、花は栄華を誇る信長で、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さいとなる。第4句は光秀の旧知の大善院宥源が、「風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮」と詠んでいる。これは「信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ)」と解釈することができる。

 この連歌会に集まったのは天皇の側近クラスばかりで、光秀の謀反は突発的なものではなく事前に複数の人物が知り応援していた可能性がある。光秀はこれらの歌を神前に納めた。

不用意な反乱
 明智光秀は信長を討つことを決意すると、明智秀満や斎藤利三ら重臣たちにその意向を明らかにした。明智光秀は部下をよくいたわったため、家臣たちは光秀に忠実に尽くし、家中はよくまとまっていた。このため光秀への反対者は出なかった。そして1万3千の軍を率いて京都に向かい、信長が宿泊している本能寺を襲撃するが、この時に「敵は本能寺にあり」と宣言したのである。
 信長は京都に自分の城を築かず、公家の屋敷に泊めてもらった。そのため襲撃は容易だった。しかも有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓が30人、約180名しかいなかった。

 信長一行は前日に本能寺に到着した。信長は当時の三大茶器の2つを所有していたが、この日は本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室が来るので、お互いに自慢茶器を一堂に会そうというのだ。信長は大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れた。信長は本能寺へ茶器でおびき出されたようなもの。三大茶碗の2つを所有していれば、あと1つも見たいだろう。夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し深夜まで碁の腕前を披露した。算砂らが帰った後、本能寺には信長、小姓、護衛の一部の100人ほどが宿泊したが丸腰も同然だった。
 同夜10時頃、光秀は明智左馬助ら重臣に信長を討つ決意を告げる。信長が他将と合流すれば暗殺の機会はなくなる。決行は今しかない。彼らは命運を共にすることを血判状で誓った。京を越えていた明智軍1万3千の馬首が東向きに並んだ「敵は本能寺にあり」。


本能寺の変
 桂川を越えた明智軍は、明け方に本能寺の包囲を終えた。前列には鉄砲隊がズラリと並んだ。14年前、朝倉氏と別れて義昭と信長の仲介者となったことから全てが始まった。以来、幕府が滅びても、母が死んでも、僧侶を斬ってでも、織田家臣団のトップとして忠節を尽くしてきた。その自分が主君を討つ。光秀は深く息を吸い、そして「撃てーッ」と叫んだ。ときの声があがり、四方から怒涛の一斉射撃が始まった。
 攻撃は6時頃。夏場の6時といえばすっかり明るくなっている。光秀軍の大部分は、自分たちが「家康」を襲撃すると思っていたという説がある。
 13000対100。本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数10名が討死。信長は鉄砲の音で部屋を出た。「これは謀反か、攻め手は誰だ」。敵が寺の中に突入して来る。蘭丸が答えた「明智が者と見え申候」。火矢が放たれ本能寺は燃え上がる。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。信長は数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番理解している。最も信頼していた部下なのだから信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると腹を切った。
 午前7時、明智軍の別働隊が二条御所を攻め長男信忠を自刃させた(信長の弟・織田有楽斎は脱出)。本能寺は2時間ほどで鎮火したが、信長の遺体は見つかっていない。

 信長はその死にあたり首を晒し者にさせたくないため遺体が見つからないようにした。このため信長の姿がな見えなかったため本能寺で死去したとされている。このように死後のことを考えていたならば、信長は死に瀕してもなお冷静だったということになる。また柴秀吉は信長がまだ存命と書いた手紙を各地に送り、自分の味方を増やすのに役立てている。光秀は信長を討つことに成功したが、同時に、自らの命運も閉ざしてしまったのである。

 光秀は謀反を起こす前に味方を増やす工作をしていなかった。そのため明智光秀には誰も味方をしなかった。細川藤孝とは足利義昭に仕えてい頃の付き合いで、子ども同士が結婚している関係であったが、細川藤孝すらも味方につかなかった。その与力大名であった筒井順慶が軍を動かすが、羽柴秀吉の強勢を知ると光秀に味方することはなかった。

 光秀は信長を討った後で必要になる、京都周辺の勢力を維持するための同士を集める事前工作を行っていなかったことがわかる。一部の武将たちが光秀に同調するが、とても戦力になるほどの数ではなく大勢に影響はなかった。

安土城炎上
 光秀は孤立したまま1万6千のみを軍事力として、京都周辺を保持することになる。6月2日午前8時頃、光秀はは洛中で生き残った織田家臣の捜索を命じ、その日のうちに近江・勢田(瀬田:滋賀県大津市)に軍を進めた。勢田城主の山岡景隆に降伏を勧めますが、景隆は信長の恩を理由に拒否し、近江と京を結ぶ重要な橋である勢田橋と居城を焼き払い退去した。この景隆の行動は光秀の作戦を大きく狂わせた。近江進軍が難航したためその制圧に手間取り、備中高松から羽柴秀吉が光秀討伐に引き返してくる時間を与えてしまったのである。光秀はまず近江を占拠し信長の拠点だった安土城を押さえ、朝廷に献金して支持を集めようとした。しかしこの間、羽柴秀吉が中国地方から急行して摂津(大阪)周辺に大軍を集めることに成功している。

 

山崎の戦い

 羽柴秀吉の元に集まった軍勢は3万と言われており、総勢1万6千の明智軍を大きく上回っていた。羽柴秀吉は光秀とは違い池田恒興、中川清秀、高山右近、織田信孝、丹羽長秀など摂津周辺の信長の遺臣たちの協力を取り付けることに成功している。
 羽柴秀吉には「大恩ある信長を殺害した極悪人の光秀を討伐する」という大義名分があったが光秀には大義がなかった。信長は一部の家臣に辛くあたったが、統治能力は優れており、治安を改善し、経済を活性化させるなど多くの功績を残している。そのため世の人から見れば、この時の信長に家臣に討たれるほどの罪があるとは思えなかった。光秀の信長殺害の動機はあくまで自己保身のためであり、世間の支持を得られるようなものではなかった。このことが光秀に誰も味方しなかったことの根本の原因で、羽柴秀吉の元に多くの武将たちが集ったのである。光秀にはその道理がわかっていなかった。信長の下では能力を発揮できる優れた武将であったが、人の上に立って世の中を動かすほどの器量は備えていなかった。あるいはその判断ができないくらいに錯乱していたのであろう。


山崎の戦いで敗れ、農民に討たれる
 明智光秀は圧倒的に不利な状況にあったが、それでも軍を集め、京都の山崎で羽柴秀吉の軍勢を迎え撃った。山崎以外の各地の押さえが必要だったため、光秀の軍勢はこの時1万程度だったとされている。精鋭部隊であった明智秀満の部隊は坂本城の守備に残しこの決戦への集中力を欠いていた。これに対し羽柴秀吉の側は守りに入る必要がないため、全軍をこの戦いに振り向けられた。この結果、山崎の戦いは羽柴秀吉の圧勝に終わり、敗北した光秀はわずかな軍勢とともに再起を図ろうと居城の坂本城に向けて落ち延びた。しかしその途中で落ち武者狩りの農民たちに襲撃され、竹槍で刺されて重傷を負い、家臣に介錯されてその生涯を終えた。享年は55であった。
 光秀の主だった家臣たちも死亡しており、信長とともに滅んでしまうことになった。羽柴秀吉の他にも、柴田勝家や徳川家康も光秀討伐の軍を動員しており、もし羽柴秀吉との戦いがなくても各方面から攻撃され滅びたたことに変わりはなかった。

 

本能寺の変の原因
 なぜ光秀が裏切ったのか。それには佐久間信盛らの追放の影響が大きかった。信長に長年に渡って仕え、功績も大きかった老臣・佐久間信盛の追放劇は他の武将たちの信長への忠誠心を揺すものだった。佐久間信盛以外にも長く信長に仕えていた重臣の林秀貞など、数名の武将たちが同時期に追放されている。他の家臣たちも自分の働きが鈍れば信長に領地を没収され追放されることを恐れていたのであろう。それならばその前にと考える者が出てきてもおかしくはない。

 信長は生まれながらの大名で、誰にも従ったことがない。そのため仕える立場の人間について配慮が不足していた。そのことが信長が天下人になるのを妨げたのであろう。

 明智光秀は長い間、低い身分に置かれ苦労を重ねたため部下をいたわり、統率する力にがあった。領地でも善政を行い内政にも優れ、今でも丹波亀山の地では光秀を偲ぶ人たちがいる。そのために反乱を起こしても配下の武将たちがついてきて信長を討つことができた。しかし同時に、かつて低い身分にあっただけに、失うことを恐れる気持ちもまた強かった。そのことが自爆とも言える信長殺害の行動へとつながったのだろう。

 本能寺の変でなぜ明智光秀が信長に謀反をしたのか、さまざまな理由が指摘されている。もちろん確固たる原因や理由が確定しているわけではないが、現在までの主な説を記してみる。
怨恨説
    信長は短気かつ苛烈な性格だったため、光秀は常々非情な仕打ちを受けており、それらを列挙すると、信長に大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「この白刃を呑むか、酒を飲きか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲んだとされている。

 また同じく酒席で光秀が目立たぬように中座しかけると「このキンカ頭(禿頭の意)」と満座の中で信長に怒鳴りつけ頭を打たれた。キンカ頭とは「光秀」の「光」の下の部分と「秀」の上の部分を合わせると「禿」となることから信長なりの洒落だったのかもしれないが、髪が薄いことを「きんかん頭」と直接言われたのかもしれない。

 1569年6月、光秀は丹波八上城に母親を人質に出して、城主の波多野秀治・秀尚兄弟など11人を生け捕りにして安土に移送したが、信長の刺客に襲われ秀治は殺害され、生き残った者は磔にされた。これに激怒した八上城の家臣が光秀の母親を磔にした。殺害された母親の死体は、首を切断され木に縛られていた。

 1582年、信長は武田家を滅ぼした徳川家康を労うため、安土城において家康を饗応した。この時の本膳料理の献立は「天正十年安土御献立」として『続群書類従』に収録されている。家康の接待を任され、献立から考えて苦労して用意した料理を「腐っている」と信長に因縁をつけられて任を解かれ、すぐに秀吉の援軍に行けと命じられた。甲州征伐の際に、反武田派の豪族が織田軍の元に集結するのを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言うと「お前ごときが何をした」と信長が激怒し小姓の森成利(森蘭丸)に鉄扇で叩かれ恥をかいた。このように恨んで当然であり、怨恨説は根強い。

野望説
    明智光秀が天下統一を狙ったというが「知将とされる光秀が、このような謀反で天下を取れると思うはずがない」が、「相手の100倍以上の兵で奇襲できることは、信長を殺すのにこれ以上ない機会だった」とする野望説がある。しかし光秀が天下取りを狙ったことは、細川父子への手紙の内容や光秀の言動からあり得ない。
恐怖心説
    長年信長に仕えていた佐久間信盛や林秀貞達が追放され、成果を挙げなければ自分もいずれは追放されるのではないかという不安から信長を倒したということであるが、怨恨説など諸説の背景として用いられる。もしくは今までにない新しい政治・軍事政策を行う規格外な信長の改革に対し、光秀が旧態依然とした統治を重んじる考えであったことある。
理想相違説
    信長を伝統的な権威や秩序を否定し、一向宗勢力、伊賀の虐殺などで天下の統一事業を目指した。光秀は衰えた室町幕府を再興し、混乱や犠牲を避けながら安定した世の中に戻そうとしたと考えていた。この考えは光秀は信長の命とともに、独裁者の暴走を永遠に断ち切ったという解釈である。光秀もその理想を実現することは叶わなかったが、後の江戸幕府による封建秩序に貫かれた安定した社会は270年の長きに渡って続き、光秀が室町幕府再興を通じて思い描いた理想は、結果的に江戸幕府によって実現された。

 光秀は教養人であったが、近畿地区を統括していた関係上、寄騎大名にも名門、旧勢力出身者が多く、特に細川氏(管領家の分流)、筒井氏(興福寺衆徒の大名化)は典型で、このような状況も背景となっている。
足利将軍指令説
    光秀には足利義昭と信長の連絡役として信長の家臣となった経歴があるため、恩義も関係も深い義昭からの誘いを断りきれなかったのではないかとする説があるが、義昭に長年仕えていた細川藤孝が味方になっていないことから。
朝廷黒幕説説
     信長には朝廷に取って代わる意思があると思われ、朝廷から命ぜられて光秀が謀反を起こしたかとするが、これは1582年頃に信長は正親町天皇譲位などの強引な朝廷工作を行い、安土城本丸御殿の遺構から安土城本丸は内裏清涼殿の構造をなぞって作られたとすることを根拠としている。
    朝廷黒幕説は説得力があるが、暗殺後に朝廷からの命令であることを示せば味方が増えたのに、謀反の汚名を朝廷に着せない為だったとするには説得力に欠ける。この朝廷黒幕説の論拠となったのは、誠仁親王の義弟で武家伝奏の勧修寺晴豊の日記にある。日記には正親町天皇が信長と相互依存することにより、窮乏していた財政事情を回復させたのは事実としても、信長と朝廷の間柄が良好ではなかったので、朝廷が信長の一連の行動に危機感を持っていたことになる。
    朝廷または公家関与説は、足利義昭謀略説、「愛宕百韻」の連歌師・里村紹巴との共同謀議説と揃って論証されることが多く、それだけに当時の歴史的資料も根拠として出されている。ただし立花説では「首謀者」であるはずの誠仁親王が変後に切腹を覚悟するところまで追い詰められながら命からがら逃げ延びていて、近衛前久が光秀の謀反に関わっていたという噂を「ひきよ」とする記述の解釈など問題も多い。
   朝廷黒幕説は有力な説として注目されたが、現在の歴史学界では義昭黒幕説とともに史料の曲解であるとの見解が主流となっている。。
四国説
    比較的新しい説とされるが野望説と怨恨説で、信長の四国政策の転換を指摘されている。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じていた。光秀は斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまでこぎつけたが、1580年に入ると織田信長は秀吉と結んだ三好康長との関係を重視し、武力による四国平定に方針を変更したため、光秀の面目は丸つぶれになった。大坂に四国討伐軍が集結する直前を見計らって光秀が本能寺を襲撃したとする。

 しかも本能寺の変が起きたのは、四国征討軍の出港予定日である。つまり長宗我部が降伏の意志を示したにもかかわらず征討軍が組織されたということから、光秀の胸には「元親は屈服すると言ってきたのになぜ派兵するんだ」という思いがあったのだろう。結局、信長の死によって出陣は取りやめになった。
イエズス会説
    信長の天下統一の事業を後押ししたのは、当時のイエズス会を先兵にアジアへの侵攻を目論んでいた南欧勢力で、信長がイエズス会及びスペイン、ポルトガルの植民地拡張政策の意向から逸脱する動きを見せたため、キリスト教に影響された武将と謀り本能寺の変が演出されたとする説である。この説には大友宗麟と豊臣秀吉の同盟関係が出てくるが、他にイエズス会内の別働隊がキリシタン大名と組んで信長謀殺を謀ったとする説も出てきている。しかしイエズス会の宣教師が本国への手紙で「日本を武力制圧するのは無理」と書いている事からすると、商業主義を政策として行っていた信長政権をイエズス会が倒すのは不ことからこの説は飛躍がある。キリシタン大名との関係では、朝廷と同じように関係を継続していこうとする光秀の考えと、信長の武力による天下統一の考え方に大きなズレが生じたとする傾向はある。
諸将黒幕説
    織田家を取り巻く諸将が黒幕という説で徳川家康や豊臣秀吉が主に上がる。信長の死で誰が一番得をしたのか、後に天下人になった徳川家康や豊臣秀吉である。織田信長がいる限り、家康も秀吉も天下を取れずに死んでいたのは確かで、信長の仇・明智を討った家臣として秀吉の発言力は格段に強まった。

  家康の場合、信長の命により、長男・信康と正室・築山殿を自害させられたことが恨みの原因とされている。ただし2人の殺害は信長の命ではなく、家康と信康の対立が原因とする説も出されている。

 家康は後に、明智光秀の従弟(父の妹の子)斎藤利三の正室の子である福(春日局)を徳川家光の乳母として特段に推挙している。家康は事件当日に早くも信長の死を知っており、秀吉も翌日に気づいてる。そして家康は三河へ、秀吉は京都へすぐに戻った。幾らなんでも中国大返しの手際が良過ぎることも疑惑の根拠となっている。
徳川家康共謀説
    家康との関係を原因とする説として「信長は、自ら仕掛けた罠に自分自身がはまってしまった」という「光秀家康共謀説」がある。「信長は本能寺に家康を呼び寄せ殺害する、という家康潰しの計画を企て、その実行を光秀に命じたが、光秀は信長を裏切り家康と共謀したということである。光秀と家康は「信長の命令による家康討ち」の計画を利用し、「信長討ち」にすり替えた」というものである。

 信長は光秀に全幅の信頼をよせ、襲われるのは家康であって、自分が狙われることなどあり得ないとしていたため、本能寺での無警戒ぶりが納得いくのである。また家康が安土招請や堺見物で不思議なまでに無警戒だったことも理解できる。家康の神君伊賀越えは予定通りのことであり、苦難とされたのは世間に隠すためというものである。
無罪説
    本能寺の変後の秀吉側の手際の良さと明智側の無策ぶり、秀吉側の変の関係者と目される者が短期間で相次いで死亡したことから、信長暗殺の実行犯は光秀ではなく秀吉であるとする説がある。この説は本能寺の変が起きる前に、秀吉は毛利と密約を結んで山陽道を引き返し、暗殺部隊を京に送り信長父子を殺害し事件を聞きつけて本能寺に急行した明智光秀を謀叛人にしたてあげ、さらに事が成った後に秀吉が秘密を知る者を葬ったという推論である。この説によると本能寺の変後に連続死した人物は、 誠仁親王、丹羽長秀、蒲生賢秀、秀吉の家臣・杉原家次があげられ、なかでも杉原家次は変後、旧明智領の福知山城主となったがその2年後に変死し、その子孫は光秀のために怨みを持って死んだり非業の死を遂げた者の祟りをしずめるための神社である御霊神社を創建したとある。

 

光秀は生き延びた?

 大雨の闇夜の竹やぶで光秀の顔も知らぬ土民・中村長兵衛が、馬で移動する光秀をどうやって認識したのか。頭の切れる光秀が影武者を用意していないはずはなく、それを土民が見抜けたのか。中村長兵衛は13人の家臣に気づかれずに、光秀に接近して正確に一撃で脇腹を竹槍で刺せたのか。しかもその後の調査べで、村の英雄のはずの中村長兵衛を知る村人は小栗栖にいなかった。
 秀吉が光秀の首を確認したのは4日後の蒸し暑さの中であった。はたして光秀を判別できたのか。
 明智本家の地盤、岐阜・美山町では影武者「荒木山城守行信」が身代わりなったと伝承されている。また光秀の側で殉死したと伝えられている2人の家臣は、その後も生きて細川家に仕えている。偶然としても2人ともというのはおかしい。しかも細川は光秀の親友である。光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地。領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。この土地ではどんな工作も可能であった。
 死んだのが影武者として光秀はどうなったのか。実は出家して「南光坊天海」と改名し、徳川家の筆頭ブレーンになったという噂がある。
 南光坊天海は家康、秀忠、家光の三代に仕えた実在の天台宗僧侶である。比叡山から江戸へ出て、絶大な権力を持ち将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれた。様々な学問に加え陰陽道や風水にも通じていたことから、将軍家の霊廟・日光東照宮や上野の寛永寺を創建し、江戸の町並みを練るなどして107歳の長寿で他界した。
 光秀が築城した亀山城に近い慈眼(じげん)禅寺には光秀の位牌&木像が安置されている。南光坊天海が没後に朝廷から贈られた名前(号)は「慈眼大師」で、大師号の僧侶は平安時代以来700年ぶりのことである。大師とは“天皇の先生の意味であり。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということになる。
 年齢的にも南光坊光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。南光坊天海の墓は日光にあるが、滋賀坂本にもある。坂本は光秀の本拠地であり、光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所である。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)まで建っている。明智一族の終焉の地に天海の墓と家康の供養塔があるのは不思議なことである。また2代秀忠の秀と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」となる。
 比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日が1615年で、大坂冬の陣の直後である。つまり冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと願をかけたこの石灯籠は長寿院から移転されたのである。
光秀の墓

 明智光秀の墓は滋賀坂本の西教寺にある。坂本はかつての明智の地で、西教寺」にある石灯篭に「慶長二十年願主光秀」の文字が彫られている。ちなみに天海の墓も歩いていける場所にある。光秀の墓は高野山や明智と縁のある岐阜・山県市にもあり、さらに首塚が京都・知恩院の近くにある。これは小栗栖で討たれた時の遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたのだろう。

 坂本龍馬の生家には「坂本城を守っていた明智左馬助の末裔(土佐まで落ち延びた)が坂本家」との伝承が伝わるという。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗紋である。

上左:明智光秀の像(坂本城址公園内)。上中:明智光秀の首塚、首はこの地に埋められたと伝えられる。上右:京都市東山区三条通白川橋下る東側西教寺にある辞世句の碑。

上左:西教寺にある明智光秀とその一族の墓。上中:本能寺の変当時の所在地、中京区元本能寺南町。上右:現在の本能寺本堂。