上杉景勝

上杉景勝
 上杉謙信亡き後の跡目争いとして知られる「御館の乱」。一般的には景虎と景勝の後継者・家督争の印象がある。直江兼続が対立していく2人の間で景勝を支えていく姿が物語として有名である。しかし実際には謙信の死後2ヶ月ほど経って争いがはじまっており、2人の仲は悪くなかった。
 独身の上杉謙信に実子はいなかったが、景虎と景勝の二人の養子がいた。
上杉景虎(25歳)は相模北条家の出身で、元の名を北条三郎といった。上杉家は北条家と敵対していたが、1570年に和睦して謙信の姪を娶ったことで上杉三郎景虎へと名乗りを改めた。
 もう一人は24歳の上杉景勝で、実父は過去に謙信と闘争した越後上田庄の領主・長尾政景で、実母は謙信の姉である。元の名を長尾喜平次顕景という。幼い頃から謙信の養子として遇されたが、上杉姓を称したのは景虎よりあとのことだ。謙信の命により上杉景勝へと名乗りを改めた。
 謙信は「卒中」に倒れるまで謙信は後継者を明言していなかったが、腹痛に悶え苦しみながら、ついに自らの死後を託す人物を指名した。その後継者に選ばれたのが上杉景勝で、謙信の死後、景勝は「遺言」に従い、春日山城の実城(本丸)に移った。
 ドラマや小説では、脳卒中で倒れた謙信が遺言を残さず亡くなって、死の直後から景虎と景勝が春日山城内で武力衝突する展開になることが多いが、これは事実ではない。史料は謙信の病気を「卒中」「虫気」と記している。現代人は卒中といえば脳卒中を連想するが、それは近年の言語感覚によるもので、元来は内臓の病気による昏倒も卒中と呼ばれた。「虫気」は腹痛を示す言葉であることとあわせて考えれば、謙信の昏倒は脳卒中とするよりも胃ガンなど腹部の病気が原因とみていいだろう。
謙信は「四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒」と、辞世の句を残している。漢詩を詠む力が残されているのなら、記録にある通り遺言を伝える力も残されていただろう。
 葬儀はしめやかに執り行われた。上杉家の記録では送葬の儀で棺の左右に景虎と景勝が並んでいた様子が記されている。しかもこのとき、蘆名家から派遣された弔問の使者が、会津と春日山城の間を平和に往復しているが、ここで騒乱に巻き込まれた様子などはない。一般のイメージと異なり、謙信が死んでからしばらくの間、両者の間に深刻な抗争は存在しなかった。
若き当主の手痛い失敗
 実際には御館の乱がはじまる前から景勝の後継体制が決まっていた。だが新体制は平穏に落ち着くことを許されなかった。きっかけは会津の戦国大名、蘆名止々斎である。かれは「戦争ほど面白いものはない」というくらい好戦的な老将だった。蘆名止々斎は上杉家に弔問の使者を送りながら、背後では越後侵攻の準備を進めていた。代替わりの隙をつき軍事行動を企てるのは戦国時代にはよくあることだった。これに気づいた上杉家の老臣・神余親綱(かなまり ちかつな)は、赴任地の三条城で厳戒態勢を布いたが、そのとき近隣の住民から人質を取り立てた。これは謙信の時代には普通の応戦準備であったらしく、江戸時代の儒学者も「こうした上杉家の籠城準備は、他家と比べて荒っぽいものだった」と紹介している。ただ親綱は対応を景勝に報告することなく独断で推し進めてしまった。景勝はこれが気になったらしく、親綱のもとに「何のつもりだ」と使者を遣わした。
 使者は親綱の動きを私的な悪事ではないかと難詰した。これより少し前のことだが、景勝は家臣への手紙で、謙信の死に「恐怖」していると告白しており、かなりナーバスな心理状態にあったらしい。突然の家督相続に、自身と周辺に強い不安と動揺があり、疑心暗鬼に陥っていたようだ。
 しかし親綱にすればあらぬ嫌疑をかけられて不快極まりなかった。私は私利私欲でなく、純粋な国防意識から奔走している。それを独断専行だと咎められてはたまったものではない。しかも景勝方は忠誠の証として誓詞を差し出せとまで求めてきた。これで親綱も堪忍袋の緒が切れた。誓詞の提出要請を拒絶したのである。
 仲介を買って出る者もいた。義兄の上杉景虎、御館城の上杉憲政(謙信の義父)、栃尾城の本庄秀綱(譜代家臣)である。だが両者とも強硬姿勢を崩すことなく交渉は難航した。その最中、最悪の事態が起こってしまう。蘆名軍が越後侵攻を実行してしたのである。
御館の乱
 蘆名軍は現地将士の奮闘によってすぐさま撃退されたが、しこれが神余親綱の観測と対応が正しかったと判明することとなった。このため景勝は一気に家中の信望を失ってしまった。越後衆の不満は燎原の炎のごとく燃え広がっていく。戦国時代、領主クラスの家臣にすれば代替わりしたばかりの当主などお試し期間のようなものだった。取るに足らないと思ったら別の当主を立て直す。それがかれらのやり方だった。景虎も義弟の振る舞いにはついていけないと思ったようで景勝を見限った。
 5月1日、景勝方と親綱方は決裂する。当時の史料でいう「三条手切」である。ついで5月13日、景虎が憲政の御館へと拠点を移すと、越後の領主たちもまた雪崩を打つように景虎方へと転じていった。いわゆる「御館の乱」は、ここから始まっていくのだ。事件は謙信没後すぐにではなく、その二ヶ月後から始まったのである。
自分に家督が参ったと称する景虎は、国内外の領主と大名を味方につけ、景勝方から戦略的優位をもぎ取った。
景勝の本拠地である春日山城と出身地である上田庄は、景虎方の領主たちにより分断された。上田庄へは景虎の実家・相模北条軍が侵攻を開始し、さらに春日山城には北条軍と同盟する武田軍が攻め込む段取りが進んでいた。このため景虎の勝利は眼前のものとなりつつあった。
 一方の景勝には謙信の「遺言」以外に大義がなかった。家臣の信望も失墜し、勝算も見えてこない。だがこれで屈する景勝ではなかった。戦略の劣勢を戦術で覆そうとした。まず春日山城と御館城の間では、正規軍同士の衝突が繰り返された。そこで景勝は勝利を重ねていく。上田庄にある景勝方も北条の大軍を一手に引き受け、長期戦へと持ち込んだ。雪の季節まで持ちこたえられれば北条軍は撤退するほかないからである。
 この状況下で越後まで武田勝頼の軍勢が迫ってきた。だが景勝は応戦することなく、和睦の使者を遣わした。景勝は必ずしも景虎方が優位ではないことを実証したことで、勝頼を対話のテーブルにつかせたのである。
武田軍は景勝の使者に応じて侵攻を取りやめ、これを見て士気阻喪した北条軍は、雪を前に撤退を決断する。これで形勢は逆転した。
 最大の脅威である武田・北条軍の侵攻から逃れた景勝は、今度は反対に景虎方を追い詰めていく。景勝方へ帰参する将士も多く現れた。そして15793月17日、景勝方は御館城を制圧し、かつて謙信を支えた隠居の憲政は景勝方の侍に殺害された。景虎は鮫ヶ尾城まで逃れたが完全包囲されてしまい、24日に自害。後継者争いはここで終わったが、翌年夏に神余親綱が討ち果たされるまで越後の内乱は続いた。
 かくして越後上杉家の家督は、名実ともに景勝の独占するものとなった。勝利した景勝は「三郎は切腹、そのほかの景虎の御供者を一人残らず討ち果たした。去年以来の鬱憤を散らし、大慶これに過ぎることはない」と家臣に伝えている。景勝は景虎の反逆を「鬱憤」とし、これを平らげたことは「大慶」だと述べているが、これが景勝の本音であったかどうかは不明である。景虎と景勝の関係を記す史料をみると、意外にも険悪な様子は見られず、むしろ親密な交流ばかりが見出せる。
 景勝は遠国からやってきた孤独な貴公子に好感を持っていたらしい。ともに謙信と争い、和睦した一族の出身である。どことなく通じ合うところがあったのかもしれない。景勝の地元である上田庄の者たちは景虎を歓迎しなかったが、景勝ひとりは景虎と「交好し」の関係を求めた。景勝といえば、無口で寡黙な人物として知られるが、ひょっとするとそれは大名になってからのことで、少年期には意外と親しみやすい人物であったのかもしれない。
 また景虎の首級を見て慟哭した証言もある。しかし景勝はあえて「鬱憤」が散じて「大慶」であるとの言を残した。
遠国に移り住んだ景虎は、景勝の姉を娶り、仲睦まじく子宝にも恵まれた。景勝の実母・仙洞院も景虎に優しかった。景勝の家族はみんな景虎に好意的だったようだ。
かつて謙信は自らの信念を高らかに語ったことがある。「私は依怙の弓箭を携えない。ただ筋目によって、どこへでも合力するだろう」謙信は人と人との縁ではなく、正しいことのために戦うと言っている。「依怙」よりも「筋目」を重んじるのが謙信の流儀だった。その「筋目」を決めるのはもちろん謙信だった。謙信の思考と言動そのものが、戦争の正義であった。だが謙信が死ぬと、なにが正しい戦争であるかがわからなくなった。「筋目」が見失われたのである。そこでかれらは景虎か景勝かを選ぶのに、判断基準は身の回りとの「依怙」を頼みとするほかになかった。「筋目」すなわち大義名分なき争いで景勝を支えたのは、謙信が軽視した「依怙」だった。なにが正しいかを考えるよりも、ただ景勝の勝利だけを考えて、黙って支えてくれる者たちとの絆。それだけが景勝の拠り所となった。
 御館の乱で数々の離反を目にし、また多くを失った景勝だが、春日山城にある馬廻衆と、地元の上田衆は善悪も損得も関係なく、自分に従い、奮闘を重ね、逆境に立ち向かってくれた。乱が収束すると、景勝は上田衆など縁故の深い者たちを取り立てた。特に目立った功績のない上田衆の樋口与六に、上杉家の家老である直江氏名跡を継がせ、直江兼続への改名を許したのはその代表例といえる。
大義名分が見えないとき、絆のない者たちは利害でものを考える。実際、謙信はそれで何度も痛い目に遭ってきた。景勝はこの争いで、絆の重さを知った。「我が鬱憤を晴らしてくれて嬉しい。とても大慶だ」。これが景勝による御館の乱の総括であった。
 そこには謙信が好んだ雄弁な大義名分(筋目)など影も形もない。多くの者は、ただその「鬱憤」を恐れ、「大慶」の言葉を頂戴することに専念する覚悟を定めたであろう。だが、景勝と絆(依怙)の深い者たちは、これが表向きの言葉であることを理解していたはずだ。
 かくして景勝は、上杉家という巨大な機関のクラウンギヤとして無用な私情を押し殺し、重々しく歩みを進める覚悟を定めたのである。
 その後、景勝は寡黙な主君として上杉家を指導していく。その道のりはとても困難で、織田軍の侵攻、新発田重家の反乱、秀吉との駆け引きなど、一歩でも間違えれば滅亡必至の綱渡りを繰り返した。景勝が重用した家臣たちも姿を消していく。その中でいつも景勝の傍らにあり、決して裏切らなかった兼続がいつしか重きを得るに至っていた。兼続は失われた家臣たちの仕事を、一手に引き受けることになり、主君とともに万難を乗り越えていく。悉皆人・直江兼続の誕生である。