阿倍仲麻呂

遣唐使

  618年、隋にかわって唐が中国を統一した。唐は律令制度を基盤とする大帝国になり、周辺諸国に多大な影響を及ぼした。またインドやペルシアなどの国々とも交流して、都の長安は国際都市の様相を呈していた。

 630年の飛鳥時代に、唐の制度や文物を輸入するため、舒明天皇が第1回の遣唐使を派遣したのが始まりである。その後、白村江の戦いや新羅との国交回復の影響で一時遣唐使は中断されたが、702年に遣唐使は復活した。894年に菅原道真の建議で遣唐使停止されるまで10数回にわたって遣唐使が派遣された。

 

遣唐使の派遣

 遣唐使は200名から500名にも及び、留学生・学問僧なども加わり、4隻の船に分乗して海を渡った。4隻の船に分船したことから、遣唐使船は「四つの船」の別称があるが、4隻の船で渡海したのは、当時の造船・航海の技術が未熟で、船の耐久性・安全性が乏しく遭難が多かったからでる。大波、高潮、風雨などによって犠牲になる使節が多く、4隻で行けば1隻くらいは無事に到達できるということである。まさに遣唐使の航海は命がけであった。

 8世紀に新羅との関係が悪化すると、朝鮮半島の西岸沿いを北上して山東半島から入唐する安全な北路を通れず、五島列島から東シナ海を突っ切る南路にコースが変更され、遭難が増加した。東シナ海は夏から秋にかけては台風、晩秋から春先にかけては季節風が吹き、1年中海の難所であった。東シナ海の横断は危険で、荒れた東シナ海を渡らねばならず、「百に一度も辿りつかぬ」と井上靖の「天平の甍」に書いてある。

 唐の第9代皇帝・玄宗が安定した政治を築き、その時代に日本からの遣唐使が2回行われている。奈良時代の1回目の遣唐使は550余の大使節団で、阿倍仲麻呂が乗った船には吉備真備や玄昉らも同船していた。大阪湾、瀬戸内海を渡り、九州北岸から東シナ海を横断して大陸に行くという過酷なルートで、大波の衝突や船の揺れや船酔いが遣唐使を襲った。日本を出て南の経路で進み、杭州(こうしゅう)に到達すると、唐の首都長安(西安)に移動した。遣唐使は宮廷での会見を済ませると、留学生を残して唐を後にし、翌年、ひとりの犠牲者も出さずに帰国した。

 唐に残された留学生の中で有名な人物としては、太政官・橘諸兄の下で重用された吉備真備や僧の玄昉らがいた。さらに唐の科挙に合格し、さまざまな官職を歴任し、日本に帰国せず異国の地で没したのが阿倍仲麻呂(漢名朝衡)がいた。

 

阿倍仲麻呂(朝衡

 阿倍仲麻呂は朝廷の最重要職を務めた阿倍船守の子として大和国(奈良)で生まれた。 阿倍氏は皇族以外の氏族の仲で最高位にあたる家系で、その家系には大化の改新で左大臣を務めた阿倍内麻呂がいて、斉明天皇の時代には阿倍比羅夫が北方の蝦夷討伐を行い、朝鮮の白村江の戦いで活躍し、仲麻呂の兄は美作(岡山県北東部)の国司をつとめた。

 阿倍仲麻呂は裕福な家庭で育ち、幼少時から学才が豊かで10代半ばで位階が与えられ立身出世は確実であった。しかし仲麻呂は異国の文化や学問を志し、留学生として19歳で遣唐使に参加した。

 唐に残った阿倍仲麻呂は、上級子弟が通う最高の教育機関で教養を積むと、合格率が1%とされていた超難関の科挙に合格をする。しかも科挙の進士科(儒学、策論、詩賦で構成)に挑み国立図書館長になる。仲麻呂の才能が皇帝・玄宗(6代目)の目にとまり厚い信任を得ると、721年には左春坊を命じられた。左春坊とは皇太子の教育係りで、次期皇帝に使える需要な官職であった。

 仲麻呂は名を朝衡と改め、科挙に合格した詩人たちと友人となる。はるか遠くの日本から学問を究めるために留学し、豊かな才能で重職をつとめ、詩仙とよばれた李白(りはく)、詩聖とよばれた杜甫(とほ)、詩仏とよばれ山水画にも通じた王維(おうい)などと交流を深めた。727年には左拾遺の任命を受けた。左拾遺とは皇帝に意見する役で、常に皇帝のそばに仕える職務であった。

 733年、多治比広成が率いる遣唐使が4隻の船で入唐してきたが、仲麻呂(朝衡)は玄宗の息子儀王の教育係りであったために帰国できなかった。仲麻呂は玄宗の強い信任を得ており、玄宗が仲麻呂を引き止めたのである。吉備真備や玄昉らは仲麻呂を残して帰朝した。

 翌年、唐を出航した遣唐使船は荒天により4隻ははぐれたが、吉備真備や玄昉らが乗船していた第1船は種子島に帰航して無事に帰京した。第2船は江南に漂着し3年後の736年に帰国を果たし、115人を乗せた第3船はさらに南の崑崙国(ベトナム)に漂着したが、現地でとらえられ疫病に倒れ、現地兵に殺害されるなどして、第3船で生き残ったのは4名のみであった。しかし捕らえられた4名は唐の援助で脱出し長安に戻ることができた。平群広成ら4人は仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。第4船は難破したまま消息不明であった。

 唐では738年に玄宗が寵愛する皇后の武恵妃が没すると、玄宗の息子・李瑁が楊玉環(楊貴妃、ようきひ)と結婚した。この楊貴妃を玄宗は寵愛し、寵愛のため政務は緩み始めた。さらに徴兵制度を廃止し募兵制としたため、751年に西アジアのイスラム帝国が攻めてきて唐軍は大敗し(タラス河畔の戦い)た。これをきっかけに中央アジアの唐の覇権は奪われ唐の勢力は後退した。

 仲麻呂は50歳を過ぎ、入唐して35年の歳月が流れていた。20年間、日本の遣唐使との出会いがなかったが、752年に藤原清河が率いる遣唐使が長安に来ることになった。この遣唐使の目的は、日本で禁じられていた私度僧の増加を抑えることで、聖武天皇は厳しい戒律を導入するめに戒律に詳しい唐の僧侶を連れてくることを命じたのである。日本の私度僧は非課税や刑罰減免の特権があったため、それを防止するため戒律に精通した唐の僧侶を探して連れてくることが目的があった。

 752年、政権を握ろうとする楊貴妃の又従兄にあたる楊国忠(ようこくちゅう)と、辺境防衛の指揮官である安禄山(あんろくざん)が対立した。閣僚級の地位にいた仲麻呂は、衰退する唐に別れを告げ、母国へ帰ることを望み遣唐使が来ることを期待した。

 ちょうどその頃、遣唐使がやってきた。遣唐の大使は藤原清河で、副使はかつて唐に一緒に留学生として渡航した吉備真備であった。仲麻呂は歓喜でもって出迎え吉備真備との再会に胸を躍らせた。

 なお大使の藤原清河は、元旦における唐の朝賀の儀式で玄宗に謁見したが、席次が新羅に次いで2番目だったことから、新羅の使者に抗議して新羅に席を替わらせた(日本と新羅の朝賀席次争い)。これは天皇を頂点とした日本は唐と対等な立場であり、新羅は唐から任命された属国だったので、藤原清河の抗議は当然のことだった。

 仲麻呂は遣唐使と共に日本に帰国することを玄宗に申し出ると、日本へ派遣する使節という名目で帰国を許され、藤原清河、吉備真備らと帰国することが決まった。753年に仲麻呂の送別会が行われ、参加した友人の王維は日本国へ還ることを惜しだ。

 百人一首に撰された仲麻呂の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠(みかさ)の山に 出でし月かも」は、30余年を唐で過ごし、母国へ帰ることになった仲麻呂が、大空を仰ぎ眺めやると、かつて故国の春日にある三笠山(春日山、奈良県の山)に出ていた月と同じ月であると感慨に耽った有名な歌であるが、この歌は明州での別れの宴席で、友人たちを前に詠んだとされている。この歌は百人一首の中でもっとも良く知られた歌で、百人一首を覚えようとする人は、まずこの歌を覚える人が多い。

 753年11月、4隻の遣唐使の船が揚州から出航することになった。仲麻呂は第1船に搭乗し、日本側の目的であった律宗の僧侶・鑑真は第2船に搭乗した。鑑真はこれまで10年間に5回も渡航に挑んだが果たせず、しかも5回目の際には両眼が不自由になるの苦渋を味わった。鑑真は日本に行く決意が強かったが、当時の唐は僧が海外へ渡航することを禁じていて、皇帝玄宗はこれを認めなかった。渡航許可勅書が下りなかったため、藤原清河大使は鑑真の乗船を拒否したが、副使の大伴古麻呂が独断でひそかに鑑真を第2船に乗船させた。

 遣唐使が日本へ向けて出発したが、東シナ海は荒れ、気象の変化は激しく、風雨を伴った高波が4隻の船を襲いまたも遭難した。大伴古麻呂副使および鑑真を乗せた第2船と、吉備真備副使が乗った第3船は沖縄、屋久島に寄港したあと、薩摩国(鹿児島)の秋妻屋浦に帰着した。鑑真にとって10年目、6回目にして悲願達成であった。第3船は翌年1月、紀伊国に漂着したが、第4船は舵が破損して迷走を余儀なくされたが薩摩国の石籬浦に漂着した。

 藤原清河、阿倍仲麻呂らが乗船した第1船は、阿児奈波島を出航したあと南方へ流され、長安に第1船の遭難の報が入り、仲麻呂遭難死の誤報が伝えられた。このとき李白は七言絶句の「哭晁卿衡(晁衡を失い嘆く)」を詠んで追悼した。

 実際には南へ流された第1船はチャンパ王国(ベトナム)まで流されたが、かろうじて唐の領内の驩州(ベトナムヴィン市)に漂着できた。仲麻呂の遭難死の誤報が伝えられたのは、漂着地での現地人による激しい襲撃があったたためで、ここで第1船の多くの乗員が殺害された。藤原清河と仲麻呂は危うく難を逃れ、755年にようやく長安にたどり着いた。

 奇跡の生還であったが、同年の11月に勃発した安禄山の反乱(安史の乱)の危機にさらされた。その後日本はただちに遣唐使の再度派遣を試みたが、安史の乱が激化したため断念し、仲麻呂はその後も藤原清河とともに唐で足留めとなった。結局、藤原清河は唐の官人として玄宗に仕えることになった。

 安史の乱が勃発すると戦火が広がり、安禄山軍の猛攻で長安が制圧された。玄宗は蜀(四川省)へ逃れたが、756年、途中の馬嵬(ばかい)で宰相楊国忠、楊貴妃が護衛兵により殺害され、玄宗は退位して帝位を三男に譲位した。玄宗は太上皇帝(上皇)となり、仲麻呂は再度玄宗に侍従する官職に任命された。しかし任命と同時に、鎮南都護府の都護(長官)の任命を受け南海へ赴任することとなった。

 玄宗太上皇帝、粛宗と相次いで没すると、宮中では宦官(かんがん)の介入が激しくなり、朝政は乱れ粛宗が没して嫡男の代宗が即位したが、この情勢に変りなかった。しかし代宗はウイグル軍の力を借りて長らく続いた安史の乱をようやく鎮め、長安に平和が戻った。

 安史の乱が長引いたことから、遣唐使は長らく見送られ、20年の間、遣唐使は大陸に現れなかった。河清(藤原清河)は再開の直後に没したため帰国はかなわず、娘が遺志を受け継いで日本へ向かうことになった。仲麻呂は766年には安南担当の軍指揮官となったが、770年1月、長安にて70余の生涯を閉じた。

 仲麻呂の帰国はついに夢に終わった。異国の地において高官として長く皇帝に仕えた偉人として、唐朝、日本の両国からその功績が大いに讃えられた。 

 百人一首の一句である「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」。この歌は古今,百人一首の中でもっとも良く知られた歌である。百人一首を覚えようとする人はこの歌を先ず手始めに覚える人が多い。

 この和歌は、仲麻呂が帰国の途につく送別の宴の席上で、30年前の日本での送別の情景を思い出して詠んだものである。「あれは昔見た奈良の三笠山から出ていた同じ月だろう」と意味であるが、昔から多くの人に好かれている。仲麻呂が歌を書いた紙を月に見せているようすが絵馬に描かれている(下図)。絵馬は和歌の好きな人が神様もまた喜ばれるとして奉納したのであろ。

 異国で詠まれて,人は帰らず歌だけが故郷に帰ってきたのである。大空を仰いで望郷を伝えているところが切々としてもの悲しい。阿倍仲麻呂といえば、高い位階を賜るほどの偉大な役人として歴史にその名を残しているが、この和歌による歌詠み人のイメージが強い。

 阿倍仲麻呂は、文献によっては「安倍仲麻呂」の表記が見られるように、安倍氏の末裔として平安時代中期の陰陽師、安倍晴明挙げられるなど、阿倍/安倍の名は時代を超えて活躍している。また大阪の阿倍野の「阿倍」は、阿倍氏から来ているという説があり、安倍晴明が大阪生まれであることから何らかの関連がありそうである。

 阿倍仲麻呂は、豊臣秀吉や聖徳太子ほど有名ではないが、唐の玄宗に仕え、帰国できずに唐で客死した人物で、日本史や国語の古典だけでなく世界史の教科書にも登場する。日本史では鑑真が有名で南都六宗の律宗や唐招提寺などが知られているが、阿倍仲麻呂は李白、杜甫、王維と仲が良く世界史的に重要である。杜甫は「国破れて山河あり」で有名な「春望」で知られている。

 11世紀後半における院政期の文化の代表として絵巻物があるが、本編にも登場した吉備真備の絵巻物「吉備大臣入唐絵巻」があり、唐にいる吉備真備が帰国できるまで無理難題に挑戦し、霊鬼と化した阿倍仲麻呂に助けをもらい、最後に勝利を果たす物語があり興味深い。

日本人留学生の墓誌

 東シナ海を横断するのはたいへん危険だったため、中には遣唐使の任命を拒否する人びとがいた。たとえば小野篁(たかむら)は病気と称して渡航しなかったため、流罪に処せられている。しかし多くの人びとは先進の制度や技術・国際文化などを学ぶため、航海の危険を冒して東シナ海を往来した。このようにして、遣唐使たちが唐からもちかえった先進的な制度・技術・文化等は、わが国に大きな影響をあたえた。

 帰国した人びとの中には吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)のように、聖武天皇に重用されて政界で活躍する者もいた。

  2004年10月、中国西安市で、日本人留学の墓誌が発見された。西安はかつて唐の都長安があった場所である。

 墓誌は一辺が39cmの正方の石で、その表面に171文字が刻まれていた。この墓誌は「井真成」という留学生のもので、「井」は日本の姓を中国風に一文字にしたもので、「真成」は本名であろうが推測に過ぎない。墓誌の内容は、井真成が日本の留学生で優秀な人物だったこと、734年に36歳で死去したこと、玄宗皇帝がその死を悼んで、皇帝に衣服を捧げる役職の長「尚衣奉御」の官職を贈ったことが書かれる。皇帝が死後に官職を贈るというのは異例のことで、よほど優秀な人だったのだろう。

 

新羅との交渉

 唐と同盟を結んだ新羅は、660年に百済を、668年には高句麗を滅亡させた。さらに国境を接していた唐を追い出し、676年に朝鮮半島を統一した。

 この境界争いが、新羅と唐間に緊張関係を生み、新羅は唐を牽制するために日本と同盟を結ぼうとした。新羅は日本に臣従の態度をとり貢調使を派遣してきた。

 しかし、733年に唐と新羅の関係が改善したため、日本に臣従する必要がなくなったため、新羅は日本に対し対等な国交を要求してきた。しかし日本はこの要求を認めず、新羅に対し非礼な態度をとり続けました。たとえば新羅が贈り物を貢物(調)から土産物(土毛)と名称を変たため、土産物を受け取らなかった。また753年には、唐の元旦の儀式で、遣唐使副使の大伴古麻呂が新羅より我が国の席次が下になっていることに猛烈に抗議して、新羅の席次を下位におろすという事件が起きている。あくまで日本は、新羅の上位にあった。そのため新羅との関係は悪化し、藤原仲麻呂が新羅攻撃の計画を立てるほど仲が悪くなった。

 日本と新羅の関係に緊張が走り、遣新羅使の派遣はまれになるが、貿易の利を求めて民間商人による交易はさかんであった。正倉院には「買新羅物解(ばいしらぎもののげ)」が残されている。買新羅物解とは新羅の物品に対する貴族たちの購入希望書である。これには東南アジアやインド等で産出される物品も含まれており、新羅商人の交易活動が広域にわたっていたことがわかる。

 

渤海(ぼっかい)との交渉

 698年、旧高句麗領を含む中国東北部に渤海が誕生した。渤海はツングース系靺鞨族(まつかつぞく)と高句麗遺民によって建てられた国である。建国者の大祚栄(だいそえい)が、713年に唐の玄宗皇帝から渤海郡王に冊封されてから渤海を国号とした。

 渤海は唐・新羅との対抗関係から、 727年にわが国に渤海使を派遣して通交を求めてきた。日本も新羅と対抗関係にあったので、渤海とは友好的に通交した。渤海使の来日は、727年から 919年の間に34回にも及んだ。渤海使を迎える客院は加賀国(能登客院)と越前国(松原客院)に置かれ、いわゆる「敵の敵は味方」で、9世紀に渤海は「海東の盛国」と称されるほど繁栄した。

 最初の通交は政治的意味合いが大きかったが、のちには貿易が主となった。渤海からは貂(てん)や大虫(虎)の毛皮、薬用人参、蜂蜜、宣明 暦、仏典などがわが国にもたらされた。日本からは絹、金、水銀、漆などが輸出されている。渤海の宮都跡から和同開珎が出土しており、このことは両国の交渉の歴 史を裏付けている。この渤海は、926年に契丹(きったん)に滅ぼされた。