親政政治

 約50年に渡って摂関政治を握ってきたのは藤原道長の息子の藤原頼通(よりみち) であったが、妃にした自分の娘が天皇の皇子を産めなかった。そのため1068年、藤原氏の血筋をひいていない第71代の後三条天皇が即位した。

親政政治

 外戚関係のない天皇の誕生は、第59代の宇多天皇以来、約170年ぶりのことであった。後三条天皇は35歳と働き盛りで、学問を好み、個性の強い性格で、天皇自らが政治の刷新を行った。後三条天皇は摂関家の勢いを止めるために、摂関家の荘園を押さえるのが近道と考え、1069年に延久の荘園整理令を出し、1045年以降に新たにつくられた荘園の所有を全面的に停止させた。

 私有地である荘園の持ち主は、税が免除される不輸の権や役人が荘園に立ち入ることができない不入の権があり、平安時代の中頃にはこのような私的荘園が増加し、律令体制がくずれると同時に、荘園を藤原氏に寄進するようになり、藤原氏の勢力が拡大することになった。延久の荘園整理令はこの藤原勢力を削ぐ目的があった。

 また学者の大江匡房(まさふさ)を起用して記録荘園券契所を設置して、すべての荘園の券契(権利書)を調査して、書類上の不備や国政上の妨げとなる荘園を停止処分にして国の領地とした(国衙領)。

 この荘園整理令は例外なく摂関家や寺社に適用されたので成果を挙げた。さらに枡(ます)の大きさを同じに定め、重さの単位を全国統一にして不正をなくした。その他にも、後三条天皇は物価の公定価格を定め、国司の重任を禁止して、右大臣に摂関家以外の貴族を起用するなど様々な改革を行った。

 それまで地方の政治は国司に任せきりにで、富を増やすことに専念する国司が多かった。例えば尾張の国(愛知県)の藤原元命(もとなが)は、郡司や農民にその横暴ぶりを訴えられ、国司をやめさせられている。

 白河上皇(院政)

 1073年に即位された、後三条天皇の子である第72代の白河天皇は天皇による親政を行なったが、1086年、白河天皇は8歳の実子・善仁親王に突然譲位して、即位した第73代の堀河天皇の後見役として白河上皇になり政治の実権を握った。それまでは長きに渡って藤原氏が摂政、関白という地位について(摂関政治)権力を握っていたが、その藤原氏の血筋が天皇家から途絶え、この院政とよばれる政治スタイルを確立し、天皇家による政権を完全に奪取したのである。

 上皇であれば天皇のように縛られずに、私的な身分で武士などと主従関係を結ぶことができ、武士を個人的な家臣として職や土地を与えることができた。天皇は天皇の権力を、上皇は天皇の父親として強大な権力を作り上げ、それぞれを補いながら政治権力を握ったのであった。

 このように摂関家にかわって、天皇の父(あるいは祖父)が上皇として天皇を後見する制度が始まった。上皇の住居をと呼ぶことから、この制度を院政という。院政は荘園の整理によって摂関家に支配されていた地方豪族、国司(受領)、開発領主らに歓迎された。白河上皇は彼らを支持勢力に取り込むと、荘園減少に不満を持つ摂関家の勢力を抑え込んだ。

 堀河天皇の父として政治の実権を握った白河上皇は、事実上の君主として「治天の君」と称せられ、自らの政務の場所として院庁を開き、実務を院司に担当させた。院政のもとで、上皇からの命令を伝える院宣(いんぜん)や、院庁から発せられる公文書・院庁下文(くだしぶみ)が国政に大きな影響を持つようになった。また白河上皇は直属の警備機関として北面の武士を組織した。

 院政時代を築いた白河上皇をはじめとする各上皇は、仏教を厚く信仰しそれぞれが出家して法皇となった。白河法皇は、1076年に建てた法勝寺などの造寺・造仏事業を行い、熊野三山への熊野詣や高野山への高野詣を繰り返した。

 白河上皇は子の堀河天皇、孫の鳥羽天皇、さらにひ孫の崇徳天皇と3代に渡って院政政治にたずさわり43年間もの間院政を行った。

 院政により皇族や上級貴族に知行(領地)を任せ、そこから収益を得る知行国の制度や、院自身が知行国を支配する院分国の制度が広まった。国の領地である国衙領は、次第に院や知行国主、あるいは国司の私領となり、院政を支える経済的基盤となった。またかつては摂関家に集中していた荘園が、新たに政治の実権を握った院に集中し、警察権を排除する不入の権も廃止され、それらが強化されて荘園の独立性が強まった。

  荘園の寄進が集中した大寺院では、自衛のために下級僧侶や荘園の農民を僧兵として組織した。大寺院では僧兵を用い国司と争い、また自らの要求を通すために、奈良の興福寺では春日大社の神木を、比叡山の延暦寺では日吉大社の神輿(みこし)を先頭に立てて京都へ乱入し朝廷へ強訴した。

 朝廷は自前の軍隊を持っていないので、寺院の圧力に対抗するために源氏や平氏などの武士を雇い警護や鎮圧にあたらせたが、このことが武士の中央政界への進出をもたらすことになった。

  院政によって皇室が政治の実権を握り、摂関家の荘園が減少して、院や大寺院の荘園が増加し、荘園自身の権限が強化された。土地の支配をめぐるこれらの制度は、院に経済的基盤を集中させたことから、上皇(または法皇)の権力は飛躍的に高まり、さらに「天皇の父」という立場からも院の権力に歯止めがかからずに、独裁的な色彩を見せるようになった。

 「賀茂川の水と、双六の賽(サイコロ)の目、山法師(延暦寺の僧兵)だけは自分の意にならない」という白河法皇の言葉があるが、逆に云えは、この三つ以外は自分の思いのままに動かせることができるほどだったのである。白河法皇や鳥羽法皇は、やがては皇位の継承についても意見され、結果として政治の混乱を招くことになった。またこの土地制度は一部の者の不満を高めることになり、来るべき新しい時代への大きな原動力となった。

権力闘争

 宮廷では公家が和歌を詠んだり、夜這をしているだけでなく、薄暗い権力闘争が行なわれていた。政権を独占したのは貴族の藤原一門で、彼らは娘を天皇家に輿入れすることで「外戚」となり政治を独占した。

 そのような藤原一門に挑戦した者は、菅原道真(大宰府に左遷)や伴善男(応天門の変)のように、罠に嵌められて失脚する運命にあった。天皇は飾り物で、貴族たちの都合の良いように祭り上げられ、天皇は政治の実権にはタッチしなかった。

 それでも天皇の中には覇気を持つ者がいて、平安末期に「院政」という政治手法を思いついた。すなわち早めに退位して上皇となり、藤原氏の手の及ばない隠居所を拠点にして政治を行なったのである。また藤原一門といえども、適当な女子に恵まれず、天皇家との縁戚関係を維持できない時期もあった。こうして少しずつ藤原一門の勢力は衰えていった。これらの権力闘争はいわば宮廷の話であって、日本全体にとってはさしたる問題ではなかった。公地公民制が徐々に崩壊し、民生を掌るのは荘園領主と武士団になってきた。

 平安末期になると武士団は源氏と平氏の二大勢力になった。清和天皇の後裔を自認する源氏は東国でその勢力を伸ばした。

 その契機となったのが、いわゆる「前九年後三年の役」(1051年~)である。陸奥(岩手県)の大豪族阿部頼時の反乱を鎮圧するために出陣した源氏勢力が、九年の歳月をかけてこれを滅ぼし、その後、阿部氏に代わって権勢を誇った清原氏の内部抗争を三年をかけて鎮定した。この功績を立てた源義家(八幡太郎)は源氏の守護神となる。

 いっぽう桓武天皇の後裔を自認する平氏は西国で勢力を伸ばした。その契機となったのが、大海賊・藤原純友の反乱であった(941年)。武力を持たない朝廷は、地方の戦乱を有力な武士団に委ねざるを得なかった。そのため反乱が頻発すれば、朝廷の権力が次第に武士に蚕食されていった。やがて朝廷の皇族や貴族たちは、自分たちの権力争いに源氏と平氏の武力を利用するようになる。こうして起きたのが「保元の乱」と「平治の乱」である。その結果、朝廷の実権を握ったのは平清盛であった(1167年)。朝廷内の権力争いは武士に国の実権を奪われる形で終結した。