平安時代の政治

 藤原氏の勢力
 藤原氏は中臣鎌足、藤原不比等らの子孫であるが、
藤原氏は様々な家柄に分れてゆく。上は摂関家から下は土着の武士までいるが、さらに身を落とした者もいる。平安時代は400年間続くので、その初期から末期の院政期の間に藤原氏の勢力も変わってゆく。

 平安の初期には藤原一族の南家・北家・式家・京家が権勢を維持していたが、当時は家持の出である大伴氏(伴氏)、貫之の先祖の紀氏、諸兄の子孫の橘氏などが藤原氏と覇を争う勢力として健在だった。
 
藤原氏は娘を天皇の妃にして、生まれた男の子を天皇にたて、自分たちは摂政・関白として政治の実験を握るようになった。これを摂関政治というが、この手法によって他の氏族を排除し、藤原冬嗣の息子・藤原良房の代から権力強化へ本格的に動き出した。

 藤原良房は清和天皇の外戚となり、皇族外で初めて摂政となった。さらに良房の養子・基経もまた、陽成天皇の外戚として摂政と関白を務めた。平安時代中期以後は藤原北家のみが栄え、藤原氏の地位は不動のものになった。そのきっかけになったのが承和の変である。
 823年に嵯峨天皇は弟の淳和天皇に譲位し上皇になるが、
嵯峨上皇の実質的支配は30年続き政治は安定していた。この間、藤原北家の藤原良房が嵯峨上皇の信任を得て急速に台頭し、良房の妹・順子が仁明天皇の中宮になり道康親王(文徳天皇)が生まれた。

 藤原良房は道康親王(文徳天皇)の皇位継承を望んだが、もちろん父の淳和上皇や恒貞親王はそれを望まなかった。840年に淳和上皇が崩御すると、2年後に嵯峨上皇も重い病に伏すことになる。

 恒貞親王派の伴健岑と橘逸勢は、恒貞親王の身を守るため恒貞親王を東国へ移すことを画策し、その計画を平城天皇の皇子に相談した。しかし皇子はこれに同意せず、皇太后にこの策謀を密告し、皇太后は藤原良房と相談して仁明天皇へ上告した。7月15日、嵯峨上皇が崩御すると、その2日後の17日に仁明天皇は伴健岑と橘逸勢を逮捕した。

 恒貞親王には罪はないとされたが、23日に、藤原良相(良房の弟)が兵を率いて皇太子の座所を包囲し、大納言・藤原愛発、中納言・藤原吉野、参議・文室秋津を捕らえた。仁明天皇は伴健岑、橘逸勢らを謀反人と断じて、恒貞親王は皇太子を廃した。

 藤原愛発、藤原吉野、文室秋津、伴健岑、橘逸勢は左遷あるいは流罪となり、恒貞親王に仕えていた役人の多数処分を受けた。

 事件後、藤原良房は大納言に昇進し、道康親王が皇太子に立った。この承和の変は藤原良房の望みどおり道康親王が皇太子になっただけでなく、伴氏(大伴氏)と橘氏に決定的打撃を与え、また同じ藤原氏の競争相手であった藤原愛発、藤原吉野を失脚させた。有力勢力を退け、藤原氏の中で北家だけを台頭させることに成功したのである。その後、858年に幼少の清和天皇(道康親王)が即位すると、藤原良房は天皇の外祖父として望み通り摂政に就任する。

摂関政治

 平安時代は貴族文化が大いに盛り上がった。それは藤原氏が勢力を独占したからで、中でも藤原道長は栄華を極めた。藤原氏の最盛期を作った藤原道長は、藤原兼家の五男として生まれ最初からその地位が約束されていたわけではない。特に野心もなく、通常ならば普通の地位の貴族で終わるはずだった。ところが長兄の道隆、兄の道兼とが相次いで亡くなり、四男の道義は正妻の腹ではなかったので、結果として五男の道長が突如として藤原氏の家長となった。

長徳の変

 藤原道長のライバルは藤原道隆の子の藤原伊周だった。藤原道長の座を狙う藤原道長は、花山法皇が自分の好きな女性の所に通っていと思い込み、996年、弟の藤原隆家と共に、夜道を歩く花山法皇に威嚇のつもりで矢を放ったが、それが法皇の服の袖を貫通して暗殺犯扱いにされる。また法皇が通っていた女と伊周君が通っていた女は別人であった。これを長徳の変といい、犯人として捕まった伊周君は太宰権帥へ、隆家君は出雲権守へ左遷された。
 藤原道長の頂点の地位を決めたのが、道長の姉で円融天皇の皇后・藤原詮子だった。藤原詮子は一条天皇の母として大きな政治力を持ち道長に内覧(ないらん)を許可して関白に準ずるような地位を与えたのである。藤原道長は内覧といって、天皇よりも先に重要な書類に目を通すことが出来た。この内覧により摂政や関白よりも政治的に強い権力を持つことになる。藤原道長はこの内覧の権利を行使して政治に関わった。藤原道長は摂政に短期間就任したが、関白にはなっていない。藤原良房が天皇家以外で初めて摂政となり、以後、藤原氏の摂関政治が続いた。なお藤原道長の父親の藤原兼家も摂政であった。藤原道長は実質的な地位を狙っていたので、内覧の権利で十分だった。

 当時の日本は「天皇中心の政治」であったが、実権を握るのは関白や摂政に就く貴族だった。藤原道長は右大臣、左大臣を経て、天皇の生母の勧めもあって摂政にまで上り詰めた。なお「摂関政治」とは、摂政や関白を兼ねて行う政治のことで頭文字をとって摂関政治とよばれている。

 なお摂政は天皇が幼かったり女性だったりした場合に政治を行う者のこと。関白は天皇が成人した後も政治を行う者のことである。具体的には聖徳太子は摂政、豊臣秀吉は関白である。摂政や関白は誰でもなれるわけではなく、もともとは天皇の血筋をもってい者が選ばれた。

 この時期の貴族は才能があっても成り上がることは出来ない。藤原道長は政略結婚によって自分の娘4人を天皇に嫁がせ、娘に子どもが出来れば、その子どもが天皇になった。つまり自分が天皇の祖父なるわけで、摂政として強大な権力を手にした。一条天皇には中宮に藤原定子(兄・道隆の娘)がいたがこれを皇后して、自分の娘である彰子を中宮にした。この彰子に仕えた女性の中に源氏物語を書いた紫式部がいる。
 さらに三条天皇が即位すると、娘の妍子(けんし)を中宮にし、三条天皇が眼病になると、これを理由に彰子が産んだ敦成(あつなり)親王を即位さ(後一条天皇とし、道長は念願の摂政の地位に正式に就任する。道長は僅か1年で息子、藤原頼通(よりみち)にその地位を譲る。しかし道長が引退したのではなく、摂政を譲ったその年のうちに、娘の威子を後一条天皇の中宮にし、その妹の嬉子(きし)を後一条天皇の弟、後朱雀天皇の妃とする。
 当時の貴族における結婚形態は、結婚すると男が女性の家に通うという妻通婚。子供は妻の家で育てられますから、必然的に女性の家の権力が強いのが常識だった。もっとも、男の方は色々な女性と結婚し、色々な女性の家に通っていたので、女性としては「今日は旦那が来てくれなかった」と寂しい想いをする人が多かった。逆に好き放題遊んでいた女性もいた。

 藤原道長はこのように貴族社会の頂点に登り詰め、平安時代を彩った代表的な人物となる。紫式部が書いた「源氏物語」の主人公・光源氏は藤原道長をモデルと言われている。

 摂政は藤原良房(よしふさ)が皇族以外ではじめてその役職につき、関白はその子の藤原基経(もとつね)がはじめてついた。

 摂関政治は11世紀前半の藤原道長とその子である頼通のときに全盛となった。

 長女、次女についで三女の威子を中宮の位につけ、藤原道長は得意の絶頂にいた。ある夜、三女の威子が中宮となった祝いの宴が開かれた。大臣公卿はこぞって道長をたたえ、

宴もたけなわになった頃、道長はかたわらに立つ公卿・藤原実資に「和歌を詠もうと思ううが返歌をお願いできるか。これは即興の歌で、前もって作ってきたものではないが」と言うと、道長は静かに詠み上げた。道長は「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思へば」と短歌を読んだ。聞かされたほうは、どう返せばいいのか、戸惑うばかりで、「いや、さすが道長殿。こんな素晴らしい歌に私ごときが返歌など、勿体無い。皆で唱和いたしましょう」

 こうして公卿たちこぞって望月の歌を唱和した。この話は藤原実資の日記「少右記」に書かれている。

 1017年摂政になった翌年に道長は長男の頼通にその位を譲り隠居する。

わが世の栄華を極めた道長であったが、その肉体は丈夫ではなく、この頃になると来世のことが気になりだした。1019年 道長は出家して行観(のち行覚)と名乗り、絢爛豪華な法成寺(ほうじょうじ)を建立し

仏教三昧の暮らしに入ります。

道長の日記『御堂関白記』の「御堂」とはこの法成寺のことです。しかし、日に日にすすむ糖尿病はどうにもなりませんでした。1027年、道長はその生涯を閉じます。享年62。

 藤原道長の子頼通は、京都の宇治に寝殿造という当時の文化を代表する建築物である平等院鳳凰堂を建てた。

 平等院鳳凰堂は元々、嵯峨天皇の皇子であった源融(みなもとのとおる)の別荘だった。それを藤原道長が買い取り、道長の息子である藤原頼道が相続し、これを寺にしようと思いついたのである。当時は、末法」の世が来ると信じられており、少しでも救いを求めるためここのような行動をとったのである。
 こうして1053年、鳳凰堂として親しまれる阿弥陀堂(国宝)が完成した。現在は茶色であるが、厳島神社のように朱塗りだった。中央に仏師・定朝の大作である金色の3m近い巨大な阿弥陀如来坐像を鎮座させ、背後の壁に極楽浄土図を描き、左右の壁の上部に52体の雲中供養菩薩像を懸ける、まさに極楽浄土の世界を表していた。

 約50年に渡って摂関政治を握ってきたのは藤原道長の息子の藤原頼通(よりみち) であったが、妃にした自分の娘が天皇の皇子を産めなかった。そのため1068年、藤原氏の血筋をひいていない第71代の後三条天皇が即位した。