藤原/反藤原

 奈良時代は80年間と短いが、政治の実権者が6回も交代している。人間関係が入り組み複雑であるが、時の実力者が「藤原派」なのか「反藤原派」なのかで2つに大別することができる。それだけ藤原氏の影響が強かったといえる。

1 藤原不比等 [藤原氏派]
 飛鳥時代の末期から奈良時代にかけて、日本は律令制度による国家を目指していた。天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の次男・藤原不比等が大和朝廷の中央集権化に力をつくした功績は大きい。不比等なくして天皇中心の政治はなかった。また不比等が次の平安時代まで続く藤原氏の栄華の基礎を作った。
 藤原不比等が中臣鎌足の息子だから宮廷で出世したと思う人が多いだろうが、しかし実際には違っている。中臣一族は「壬申の乱」で大友皇子についたため、敗北して右大臣だった中臣金が処刑され、藤原家は一時衰亡の危機を迎えていた。壬申の乱後に八色の姓が定められたが、朝臣の中に「藤原」の姓は登場していない。不比等は当時13歳だったので、処罰はまぬがれたが地位は低いままであった。
 藤原不比等が成人して文武天皇の乳母・橘三千代と結婚するが、この文武天皇の乳母と結婚したことが、出世の足かがりとなる。乳母は赤ん坊に乳をやるだけではなく、赤ん坊が成長すると天皇の腹心になり、政治の相談を受けていたのである。このように乳母の政治的立場が強かったのだった。
 藤原不比等は701年に大宝律令、718年には養老律令を完成させ、朝廷から厚い信任を得ていた。文武天皇が崩御すると元明天皇、次いで元正天皇と女性天皇が2代続いたこともあり不比等は頼りにされ実権を握ったのである。
 不比等は娘の藤原宮子を文武天皇に嫁がせ、宮子が生んだ首皇子(おびとのみこ)が聖武天皇であり、聖武天皇が首皇子の時に自分の娘である藤原光明子(宮子の異母妹)を嫁がせ、皇室と密接な外戚関係を築いた。藤原不比等は天皇中心の政治を実現するために力をつくしたが、不比等の子孫たちは天皇を飾り物として政治を行う摂関政治を行うことになる。藤原不比等は720年に62歳で死去している。

2 長屋王政権[反藤原氏派] 720年に藤原不比等が死去すると、不比等の子である藤原四兄弟はまだ若かったため、長屋王が朝廷の主導者となる。長屋王は公民の貧窮化や兵役忌避の対策をねり、社会の安定と律令制度の維持を図った。水害と干魃による貧窮対策として、1年間の調を免除し、夫役も免除にした。
 隼人や蝦夷鎮圧のための兵役を軽減するため、陸奥と筑紫の公民に対して1年間の調・庸を免除し、戦場で死亡した者にはその父子ともに1年間の租税を免除した。また衛士の役務が長すぎて逃亡が相次だことから、勤務年限を3年として必ず交替させた。さらに開田策をおこない、諸司の裁量のもとに良田100万町歩の開墾を進め、故意に開墾を行わない場合は官職を解任した。このように田地の開墾を奨励し、田地の所有を認める三世一身法を実施した。長屋王政権はこのように律令制の維持、公民の撫育・救策のほかに官人に対する統制強化・綱紀粛正を実施した。

長屋王の変
 721年11月に元明上皇が死の床で、右大臣・長屋王と参議・藤原房前に後事を託し崩御するが、これにより政治が不安定化した。
 翌年2月、聖武天皇の即位と同時に長屋王は左大臣になり政治的実験を握るが、間もなく聖武天皇は母の藤原宮子(藤原不比等の娘)を優遇しすることになる。聖武天皇はまだ大人になったばかりで、父親である文武天皇は亡くなり、母親の宮子の周りには異母兄の武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)という不比等の四兄弟が周りをかためていたので、藤原氏優遇は仕方ないことだった。しかし長屋王と藤原四兄弟との対立が露骨になってゆく。
 聖武天皇に万が一の事があれば、長屋王の子女が皇嗣に浮上する可能性があった。そのため藤原四兄弟にとって長屋王家は目障りな存在になった。
 727年、聖武天皇は藤原光明子との間に基王が生まれると、すぐに皇太子に指名して成人したら天皇を譲位し、自らは太上天皇になろうとした。しかし皇后には皇族の女性しかなれないという決まりがあり、藤原不比等の娘光明子は皇族ではないため、皇后にしようとした藤原氏に長屋王が猛反対した。そのため長屋王と藤原四子はどんどん仲が悪くなった。天武天皇の孫である長屋王を支持する一派と藤原四兄弟が対立することになる。
 しかし基王は1歳になる前に先立ち、聖武天皇には別の夫人が生んだ非藤原氏系の安積親王しか後継がいない状態になった。藤原四兄弟はこれを不安材料に、長屋王家を抹殺する計画をねる。
 聖武天皇の側近である漆部君足と中臣宮処東人に「長屋王は密かに左道を学びて、謀反を計画している」と密告させ、それを受けて藤原宇合が率いる軍勢が長屋王の邸宅を包囲し、長屋王および一族は首をくくって自殺した。この長屋王の自殺が自らの決断によるものなのか、死罪を強要されたものなのかは明らかでない。
 この変で連座して罰せられた官人は7名に過ぎず、皇親勢力の実力者・新田部両親王が長屋王を糾弾する側に回るなど、藤原四兄弟に対抗する勢力がなかったのである。なお長屋王を「誣告」し恩賞を得た中臣宮処東人が、かつて長屋王に仕えていた大伴子虫により斬殺されている。続日本紀に「誣告」と記載されていることから、朝廷内では長屋王に無実の罪を着せられたことは公然の事実であった。

3 藤原四兄弟[藤原氏派]
 藤原鎌足の子、藤原不比等には4人の子がいて、それぞれが独立して武智麻呂の南家、房前の北家、宇合の式家、麻呂の京家の4家に分かれ、北家、武智麻呂南家、京家、式家の4家に分かれていた。長屋王の変は藤原四兄弟による陰謀事件であるが、光明子が皇后によって藤原氏の地位が向上することは、藤原家を母方を実家とする聖武天皇にとっても好都合であったため、天皇の意向を受けた政変であったかもしれない。この長屋王の死後、決まりを無視して藤原四子は光明子を聖武天皇の皇后にした。藤原四兄弟が、異母妹で天皇の妃である藤原光明子を史上初の皇族以外の皇后にしたのである。いよいよ藤原氏の天下と思われたが、しかし737年、天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死してしまう。

4 橘諸兄(たちばなのもろえ)[反藤原氏派]
 橘諸兄の大出世は、それまで権勢を誇った藤原四兄弟がなくなったことによる「棚からぼた餅」式の幸運に恵まれたものだった。その結果、出仕できるのは従三位の橘諸兄と、鈴鹿王のみであった。そこで朝廷では急遽、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に、鈴鹿王を知太政官事に任命して応急的な体制を整えた。やむを得ない事態だったとはいえ、諸兄にとっては大抜擢人事を受けた形となった。
翌年、諸兄は右大臣に任命され一躍、朝廷の中心的存在となった。これ以降、国政は諸兄が担当し、聖武天皇を補佐することになった。そして743年、諸兄は左大臣となり、749年正一位に叙された。生前に正一位に叙された人物は日本史上6人しかいないが諸兄はその栄誉に浴した。
 ただ諸兄にとって、官位は頂点まで昇り詰め、朝政の要となったものの、政権運営は決してスムーズに運べる状況にはなかった。天平勝宝年間(749~757年)は二重権力の時代だった。一つは聖武太上天皇を上に戴く橘諸兄を中心とする「太政官」の権力であり、もう一つは光明皇太后を上に戴く、藤原仲麻呂を中心とする「紫微中台(しびちゅうだい)」の権力だ。この二つの権力の接合点、あるいは調和点として孝謙女帝が存在していた。本来、公式的には太政官権力が国家を代表するはずなのだが、実際は「紫微中台」の権力が強かった。
 だが、756年、権力の一方に大きな変化が起こった。重い病の床に就いていた聖武太上天皇が亡くなり、支えを失った橘諸兄は左大臣の位を去ったのだ。そして757年諸兄は疫病でく亡くなってしまった。