医学

華岡青洲
 1804年10月13日、華岡青洲が世界で初めて全身麻酔を用いた手術(乳癌)を成功させた。この華岡青洲は1760年に紀州藩(和歌山県)の代々医師の家に生まれている。病気で苦しむ患者を見て「何とかして助ける方法はないものだろうか」と日頃から考えていた。20歳代のはじめに京都に出て、当時の日本の医学から海外の医学まで広く触れ、その後も京都に留まり医学書や医療器具を買い集めた。その中で特に永富独嘯庵の「漫遊雑記」に影響を受けた。そこには乳癌の治療法の記述があり、後の麻酔手術の伏線となる。
 数年後に帰郷すると、患者の苦しみを和らげ命を救うには痛んでいる部分を取り除くことが必要であることを思いつく。しかしそのためには体の一部分を切り取る必要が有る。当然ながら激痛が患者を襲うことになる。そこで青洲は、「患者に痛みを感じさせないようにする方法を探そう」として麻酔薬の開発に着手した。そこでいろいろな薬草を研究した結果、曼陀羅華(まんだらげ)の実、草烏頭(トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に麻酔効果があることを発見し、動物実験を重ねて麻酔薬を完成させ「通仙散」と命名した。

 しかし麻酔の成果を確かめるためには、誰かが実験台にならなくてはいけない。動物実験で成功したからといって、人間でも同じ効果が得られるかはわからないからである。
 腑分け(解剖)とは違い、罪人の死体を利用することはできない。そこで母と妻が実験台になることを申し出る。しかし母は死亡し、妻は失明したのだった。この尊い犠牲の上で、青洲は患者の手術に臨むことになる。

 この「通仙散」を用いた全身麻酔手術は、1804年10月13日に大和国宇智郡五條村の藍屋勘という60歳の女性に対しおこなわれ、成功したのである(4ヵ月後に患者は死亡)。
 全身麻酔手術に成功したが、これは1846年にアメリカでのモートンによるジエチルエーテルを用いた麻酔手術よりも40年以上前のことである。さらに青洲はオランダ式の縫合術、アルコールによる消毒などを行い、乳癌だけでなく膀胱結石、脱疽、痔、腫瘍摘出術などさまざまな手術を行っている。
 その後青洲は紀州藩の医師として栄達し弟子も多く育てている。 全身麻酔手術の成功により、華岡青洲の名は全国に知れ渡り、手術を希望する患者や入門を希望する者が殺到した。青洲は全国から集まってきた彼ら門下生たちの育成に力を注ぎ、医塾「春林軒(しゅんりんけん)」を設け、生涯に1000人を超える門下生を育てた。

 青洲の弟子からは優れた外科医が輩出している。その中の本間玄調が膝静脈瘤の摘出などの手術を行い、医術についての著作を残した。しかし玄調はその著作の中で青洲から教わった秘術を無断で公開したとして破門されている。しかし青洲は自分の医術の詳細を書物に書き残さなかったため、玄調の著作は今日、青洲の医術の実態を知る上で貴重な資料になっている。青洲には自分の医術を限られた弟子にしか公開しないという、秘密主義的な面があった。門下生たちには通仙散の製造方法を誰にも教えてはならないと血判まで提出させていた。青洲は常に内科と外科を区別せず(内科とは漢方医学、外科とはオランダ医学)、また机上の空論ではなく実験や実証を重んじていた。1835年11月21日、家人や多くの弟子に見守られながら死去。享年76。
 和歌山県出身の小説家有吉佐和子によって、小説「華岡青洲の妻」が昭和41年に出版されベストセラーとなる。この小説により華岡青洲の名前が一般に知られることになる。

 

山脇東洋

 1706年に医師の家に生まれた。20代のころ、京都の医術の名家・山脇家に養子として入り医の腕を磨く。当時の日本で普及していた医学は漢方中心で、人体の把握についても、現実のそれとは大きく異なっていた。東洋はそれに疑問を抱き、人体の解剖を望むようになる。当時、人体の解剖は禁止されていたが、京都所司代の許可を何とか得ることができ、東洋は死刑囚の遺体解剖(腑分け)に立ち会うことになる。これが国内初の人体解剖とされ、東洋はこの時に得た知見を「蔵志」という書物にまとめている。これにより日本医学は近代化への第一歩目を踏み出すことになる。

 

杉田玄白・前野良沢

 この二人はひじょうに有名である。江戸時代の中期の医師で杉田玄白は、同じく医師・前野良沢らとともにオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を「解体新書」として訳出したことで知られている。その後、杉田玄白は蘭方医として順調に出世し大きな名声を得た。一方の前野良沢はそうではなかった。玄白と良沢、この二人の医師の対照的な生涯とはどんなものだったのか。

翻訳を決意する

 杉田玄白は1733年の9月13日に、小浜藩の医師の息子として江戸で誕生した。杉田玄白は父と同じく医の道を志し、伝統的な漢方医学と西洋流の医学を学んだが、徐々に西洋医学の分野へと興味を深めていった。そんな中、玄白は幕府の許可のもと刑死体の解剖に立ち会うことになる。当時は人体の解剖は禁止されており、医師でも解剖を目にする機会は滅多になかった。当時の医学と言えば漢方が主流で人体の把握についても漢方式で、その内容は実際の人体とは異なるもものだった。それだけに実際の人体解剖を目にした玄白の衝撃は大きなものだった。玄白は立ち会いに際してオランダの解剖書を持参しており、その解剖書の内容が目の前で行われた解剖の様子と符合していることを確認した。玄白は西洋医学の正確さを実感したのである。

 その解剖に同じく立ち会ったのが前野良沢だった。また良沢は玄白が持参したものと同じ解剖書を持参していた。こうした縁に導かれ二人は西洋医学を世に紹介しようと、そのオランダの解剖書を和訳することを決意した。

解体新書の完成

 前野良沢も医師だったが学者肌で一途で、名声を好まず気難しかった。中年を過ぎてからオランダ語の習得に情熱を燃やしたというところも変わっていた。当時、海外とのほとんど唯一の窓口であった出島へ赴いて、オランダ語の通訳から直接オランダ語を習い、江戸でトップクラスのオランダ通であった青木昆陽のもとを訪れ、オランダ語の実力を磨いていた。

 玄白・良沢が協力して解剖書を訳すことになっるが、オランダ語の知識がある良沢が翻訳のリーダーシップを取り、中川淳庵や桂川甫周などの協力者が多くいたので玄白はまとめ役や本を世に出すための準備役として働いた。やがて3年以上の月日を経て、解剖書は『解体新書』として出版された。解体新書は評判を呼び大成功をおさめました。日本の洋式医学、ひいては蘭学と呼ばれた西洋式の学問そのものが大きく発展していった。また「解体新書」の出版後、医師として順調に活動し、玄白の医塾、医院は大変な繁盛振りをみせた。
 ところで解体新書の訳者が杉田玄白となっていて前野良沢ではないのです。良沢が翻訳作業でより重要な役割を担ったのは確実であるにもかかわらず玄白が手柄を一人占めしたのである。

玄白と良沢

 解体新書はオランダ解剖書の完全な訳ではなかった。時間や手間などの問題から訳していない部分があった。そのため学者肌の良沢がそれに満足せず、自らの名を訳者から外したのである。杉田玄白は完全な訳ではないにしろ西洋の解剖書を世に出すことに大きな意義があると考え、責任者の自分の名を訳者として『解体新書』に掲載したのである。また訳者不明のまま本を出版するわけにもいかなかったという事情もあった。どちらにしても学者としての良沢と、実務的才能に長けた玄白の違いが表れた出来事である。

 大きな名声を得たその後の玄白は出世街道をひた走った。玄白の医院には教えを乞う門人が殺到し、江戸でも有数の医師として賞賛された。晩年には将軍への目通りも許されたのです。解剖の現場に立ち会って以来、西洋医学を広めるという玄白の思いは大きな実を結んだと言える。

 良沢は解体新書の出版以後玄白とは疎遠になり、ただひたすらオランダ語の習得に邁進した。やがて日本でも有数のオランダ語の実力を持つまでになりましたが、自らの名声には関心を持たず、書いたものを出版することもなかった。その後も良沢はオランダ語をはじめとする学術研究をおこなった。名声も人との交流も求めず、1803年にひっそりと亡くなった。とことん学者肌の人物であったのです。

 良沢が亡くなった約14年後の1817年、大栄達を遂げた玄白も亡くなった。要領よく動き社会に蘭学を認めさせることに成功し、自らの栄達も実現した杉田玄白。蘭学を広めることにも栄達に関心を示さず、自らの学問を高め続けた良沢。どちらが幸せであったかは誰にも分かりません。しかしこの対照的なこの二人が手を組んだことで、日本の蘭学が大きく発展したのは紛れもない事実である。