本居宣長

 本居宣長は江戸時代の国学者・文献学者・医師であり、特に国学では荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人」のひとりとされ、国学の発展や完成に貢献した。

商才なし、学才あり

 本居宣長は1730年に伊勢国松坂(三重県)の木綿仲買商の家に生まれた。宣長の誕生前後の時期には商売はなかなか順調で裕福な家に育った。しかし徐々に商売は傾き、父が亡くなると後を継いだ兄も宣長が22歳の頃に亡くなり、普通ならば宣長が小津家を継ぎ商売の立て直すはずであったが、宣長はその道を選ばなかった。

 それまでの宣長は商売の修行はしたものの、読書に熱中し商売の才能はなかったようで宣長の母がそれを見抜いていた。そこで母は宣長に医師の道を選ぶよう勧め、宣長は京都へ学門の修業に出る。

三つの業績

 京都へ出た宣長は寄宿して医学、漢学、国学などを学ぶ。医学の修行に励んだ。この時期に日本固有の古典学を熱心に研究するようになり荻生徂徠の影響を受ける。宣長の半生はこの時期に決定されたと言ってもよい。

 28歳時に京都から故郷に帰り医師として開業した。医師としての宣長はなかなか活躍したが、重要なのは国学者としての活躍の方だった。宣長は71歳で死ぬまでに重要な著作・業績を数多く残した。宣長が生涯になした重要な三つの業績をご紹介する。

古事記の研究

 本居宣長といえば古事記の研究が有名である。本居宣長は昼は医師としての仕事に専念し、夜には自宅で「源氏物語」の講義や「日本書紀」の研究に励んだ。27歳の時、古事記を書店で購入し国学の研究に入ることになる。

 30代から60代までおよそ35年の歳月をかけて、69歳にして「古事記伝」を完成させている。内容は古事記の詳細な注釈であった。この古事記伝の重要な点は、内容もさることながらその手法にあった。そもそも歴史の研究というのは、史料を重要にして史料を徹底的に読み解くことで歴史を解き明かしてゆくことである。この手法を体系化して近代の歴史学を構築してきたのは西洋の歴史学であったが、宣長はそれと共通する手法で「古事記伝」を書いている。これは当時としては前例のないやり方だった。古事記伝の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ国学の源流を形成することになる。

源氏物語の研究

 日本の古典研究に尽力した宣長は、平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも源氏物語を好み研究も行った。この源氏物語の研究において宣長は「もののあわれ」の情緒こそが日本固有の文学の本質であるとした。「源氏物語」は日本的な心情である「もののあわれ」を表現した作品で、文学そのものが「もののあわれ」を表現するという大きな役割を持っていることを唱えたのである。当時、物語とは儒教的な教訓や仏教的な教訓を表現する風潮があったが、そんな中で「もののあわれ」という概念は極めて斬新なものであった。そもそも文学の機能や役割を一つの言葉で打ち出すという考え方自体が新しかったのである。
日本語研究
 読解という面で「古事記」の研究とも重なる部分もあるが、日本語の研究においても宣長は大きな業績を残した。日本語という言語を体系的に研究した最初の人物と言えるほどで、品詞の研究、古代の仮名の研究などを通して日本語のさまざまな法則を明らかにし、日本語を分類した。その質は非常に高く、現在の日本語研究に直接的な影響を与えている。大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし外来的な儒教の教えを自然に背くと非難し、中華文明を参考にして取り入れる流れを批判した。

 64歳の時から散文集「玉勝間」を書き始め、自らの学問・思想・信念について述べている。また方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い地誌を記述している。

 宣長は読書家であると同時に、書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、借りた本を傷めるな、借りたらすぐ読んで早く返せ、良い本は多くの人に読んで貰いたいと記している。

医師としての本居宣長

 宣長は済世録と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたり、内科全般を手がけていたが小児科医としても著名であった。当時の医師は薬の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとし。また、乳児の病気の原因は母親にあるとして、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。しかし宣長の意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」としていた。

 これらさまざまな研究成果を残し、1801年9月29日に本居宣長はこの世を去った。本居宣長は自分でデザインした墓に入り、昭和34年に生前の宣長が好んだ松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山へ移され、さらに平成11年には遺言のデザインに沿った本居宣長奥津墓(城)が建造された。

 

先駆者・本居宣長
 古事記の研究にしても、もののあわれにしてもそうであるが、宣長の学問は常に斬新であった。これらは江戸後期の学問はもちろんのこと、明治以後の学問にも大きな影響を与えている。宣長は生涯の大半を市井の学者として過ごし、門人は487人に達していた。

 また本居宣長は法学においても提言を行っている。紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」とその背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。

 明治以後、日本は西洋文明を物凄いスピードで受け入れたが、そこには「江戸時代の蓄積」があったからである。学問にしろ思想にしろ経済にしろ、江戸時代にはかなりのレベルにまで到達しており、その蓄積があったからこそ、急激な異文化の流入にも無理なく対応できたのである。宣長はそのような蓄積を作った人物のひとりだった。
 本居宣長は国学者で、日本と日本人に注目し、その内容や精神を掴んでゆこうとする姿勢が基本にあり、これは学問の中身に現れている。宣長の学問が完成度の高かったこともあり、宣長の姿勢や思想は後世に大きな影響を与えた。これもやはり「蓄積」の一つだった。近世と近代をつなぐさきがけとなった人物である。その意味において、本居宣長とその業績は今も燦然と輝いている。