平賀源内

 平賀源内は江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家で、あらゆる分野に才能を発揮し日本のダ・ビンチといわれている。

 将軍・徳川吉宗の享保の改革が進められていた1728年に、平賀源内は高松藩(香川)の足軽白石良房の三男として生まれた。少年時代の源内は優秀で武士の学問・儒学を学び、また文章を好み俳諧にも秀でていた。24歳ごろ平賀源内は本草学などをはじめとするオランダの知識を得ようと長崎へと遊学する。この遊学は源内にとって強い印象を残し、本格的に研究を進めようと、遊学後、藩の役職を退くことを願い出ている。家督も婿養子に譲り源内は浪人になった。

 その後、源内は江戸に出て本草学者・田村藍水(らんすい)の弟子になる。本草学は「自然界に存在するさまざまな物を研究する学問」で、特に薬学的な視点が重視されていたが、研究対象は植物ばかりではなく鉱物や動物も研究した。その本草学者に弟子入りしたので、源内もその道を歩き出した。たとえば師とともに物産の展示会を数度開き評判を得るなど当初は順調だった。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ひんしつ)」を刊行して世人の注目を浴びる。

 当時の高松藩は、藩主が博物好きだったこともあり、本草学者として名を成した源内は故郷の高松藩に再び召し抱えられる。高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ職を辞める。高松藩は他藩に就職してはならないという条件をつけ脱藩を許可する

 源内は再び自由の身になり、自ら「天竺浪人」と名乗ったが、以後、苦労することになる。例えば源内は蘭学を学びながらオランダ語の実力は高くなく、このことは学問を進める上での大きなハンデともなった。また就職制限も大きな縛りとなって常に不安定な生活を強いられた。

 自信家で尊大な性格だったが、研究資金を稼ぐ必要があり、さまざまな分野に手を出すことになる。マルチタレント的な平賀源内な活動はこの時になされたものである。

発明家としての源内

 源内が最も知られているのは発明家としての実績である。発明にはモノに対する知識が欠かせないので、本草学の道もそれなりに近い分野である。発明品としてはまず「燃えない布、火浣布(かかんぷ)」がある。これは耐火性の織物で、源内が見つけた石綿を原料としていた。そして「静電気発生装置、エレキテル」の発明である。この発明の経緯は不明であるが、オランダから伝わった静電気発生器を源内が修繕したとされている。しかし源内はその原理を知らず、見せ物にしていたということである。その他、万歩計、寒暖計、磁針器など100種にも及ぶ発明品を生んだ。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案した。

鉱山開発者源内

 源内は秋田秩父で鉱山開発鉱山を行った。金や銀の採掘を仕切ったが、あまり上手くはいかなかった。

画家源内

 源内は油絵を習得して日本初の洋風画を描き「西洋婦人図」の油絵を残している。これは洋画の先駆けとして有名な作品で歴史の授業でよく取り上げられる。また司馬江漢、小田野直武(解体新書の挿絵画家)らに西洋画法を教えている。また浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、このことから色彩多彩な浮世絵が誕生した。源内は画家として活動を行ったいうわけではない。本人も油絵は余技や教養の積もりだった。

文学者源内

 源内は文才があり当時の大衆向け読み物の分野で「戯作」を残している。また人形浄瑠璃の脚本なども執筆した。作家としてのペンネームは浄瑠璃号では「福内鬼外」、戯作号では「風来山人」である。35才の時に書いた「根南志具佐(ねなしぐさ)」「風流志道軒伝」は江戸のベストセラーとなり明治まで重版されている。

 風流志道軒伝は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、当時は鎖国中で、源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりのガリバー旅行記を読んでいたとは思えない、まさに江戸版のガリバー旅行記である。

「放屁論」ではまず「音に3等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形まろく、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じ、江戸に実在した屁の曲芸師を引き合いに述べている。

その他

 「土用の丑の日」を考え出したのは源内とされている。「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。また歯磨き粉の売り文句を考え、これらから源内が「コピーライターの先駆け」と表現されることもある。そのほか、陶器の製作指揮、細工物制作などさまざまなことに手を出し、器用な人物だった。

源内の死

 このようにさまざまなことに手を出した源内であるが、それらは華やかなマルチタレントとしての活動ではなかった。趣味の部分もあったが、基本的には生活資金や研究資金を稼ぐためだった。源内の多彩な活動とは世に出るためのあがきのようなものだった。どれも成功したとは言い難く、源内の残した文章には鬱憤を晴らすような社会批判的な内容が見られる。自嘲的に「貧家銭内」と名乗っていた。さらに自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師というが、よく思うに骨を折って苦労しては非難され、酒を買って好意を尽くしては損をする。いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。

 1778年、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされ人間不信、被害妄想が拡大して悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時、源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図がない。盗まれたと思った源内は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高して2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく帯の間から出てきたのである。発狂した源内は捕縛され、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死した。1779年12月18日のことだった。平賀源内は世に出よう出ようとしてかなわなかった挫折の人で、そう考えると、意外でもあり納得できるような切ない死に様であった。

 1928年に墓を管理していた総泉寺が移転したが、墓はそのまま残され、3年後の1931年(昭和6年)、旧高松藩当主・松平頼壽が築地塀(土壁)を整備し、1943年に国指定史跡となっている。