二宮金次郎(尊徳)

 二宮金次郎といえば薪を背負い、本を読みながら歩く姿が、ほとんどの小学校の校庭にその銅像が建っていた。かつては苦学勤勉の象徴であったが、最近ではその銅像は消え去っている。この二宮金次郎は薪を担いだ印象が強すぎるためか「よく勉強して偉くなった人」という人物像が消え去り、その業績を知る人は少ないと思われる。

 二宮尊徳は江戸時代後期の経世家、農政家、思想家であるが、果たして何を成し遂げた人物だったのか。

苦難と努力

 1787年7月23日、二宮金次郎(尊徳)は相模国(小田原市栢山)の百姓の家に長男として生まれた。当時の農民は姓名を持たなかったが、二宮の姓が示すように比較的裕福な農家に生まれ、幼少時から教養のある父に教育を受け、優しい母の慈愛を存分に得て幸せに育った。金次郎は何不自由なく成長し、父のあとを継いで百姓となるはずであった。しかし実際には金次郎の前には大きな苦難が待ち受けていた。

 二宮金次郎が5歳の時、南関東を襲った暴風雨で、付近を流れる酒匂川が決壊し、金次郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流され田畑は瓦礫となり家も流失した。田畑の開墾のため借財を抱え、そのため極貧の生活となり、ここから家運が傾くことになる。

 金治郎は家計のため、両親とともに働くが、父が眼病を患ったため幼い金治郎は家計を支えることになる。12歳の時、酒匂川堤防工事の夫役を父に代わって務めるが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、自分にできることを考え、自ら夜に草鞋を作って農民に配った。さらに14歳の金治郎が早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして一家4人の生計を支えた。

 しかし、14歳の時に父親を、15歳の時に母を相次いで亡くし、さらにまた酒匂川が氾濫して金治郎の土地は水害に襲われてすべて流出してしまった。二宮尊徳は一家離散となり、幼い2人の弟は母の実家に預けられ、金治郎は本家の祖父・萬兵衛の家に身を寄せることになった。

 金治郎は祖父の家で身を粉にして農業に励み夜になると勉学にも励んだ。しかしケチな祖父は金治郎が夜に読書するのを「お前は誰のおかげで飯を食っているのだ。油がもったいない」と叱られ何度も口汚く罵られた。そこで金治郎は策を講じ、堤防の空き地に菜種を植えに植えて菜種油を取って燈油とした。金次郎は出来た菜種と油を交換して本を読むが「お前の時間は俺の時間だ。お百姓に学問はいらない」とまた叱られてしまうのである。それから始まったのが、槙を背負い歩きながら本を読むことであった。

 さらに作業の合間に、田植えで余って捨てられた苗を所有地のいない用水堀に植えて、米一俵の収穫を得た。「積小為大(小を積んで大となす)」つまりは塵も積もれば山となるの経済原理を体得するのである。そして毎年その収益を増やして田畑を買い戻し、成人後間もなく「わが家の再興」に成功した。
 1804年に祖父の家を離れ、同村の親族・岡部伊助方に寄宿し、さらに余耕の五俵を得て、翌年には親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿した。ここで余耕の20俵を得ると家に戻ると、20歳で生家の再興に着手した。家を修復し、質入した田地を買い戻したが、田畑は小作に出して収入の増加させた。しかし弟の富治郎はこの頃に亡くなっている。

 生家の再興に成功すると、金治郎は地主・農園経営を行いながら小田原に出て武家奉公人として働き、小田原藩士の岩瀬佐兵衛、槙島総右衛門らに仕えた。

 

農村復興の道

 家の復興を成し遂げた金次郎はさまざまな仕事に関わってゆく。例えば武家への奉公もその一つで、金治郎の噂を聞いた小田原藩家老の士服部家が財政の建て直しを頼み、士服部家の財政改善に成功する事が出来た。 倹約を奨励し、かまど番から余った薪を金を払って買い戻し、これで名を売った金次郎はその後はさらに大きな仕事を進めてゆく。

 尊徳の手法は「分度」と「推譲」を柱のとするやりかたであった。「分度」とは分をわきまえた暮らしをすることで、持つ力や財産に応じて計画を立てその中でやりくりすることで、そのような生活すれば必ず余裕が生まれてくる。「推譲」は分度で生まれた余裕を、足りないところへ回してゆくことである。この「分度」「推譲」を意識すると、多くの人の暮らしが楽になるという手法であった。さらに一斗枡を改良し藩内で統一規格化させ、役人が不正な枡を使って量をごまかし差分を横領していたのを防いだのである。

 やがて、そのすぐれた発想と実践力が藩主大久保忠真から見込まれ、財政難に苦しむ藩主の身内である旗本の野州(栃木県)桜町領の財政再建を託される。尊徳の財政のたて直しが広まると、今度は小田原藩の分家にあたる桜町領(栃木県二宮町)の再興を頼まれ、生涯に615の村々を立て直している。
 はじめに受けた大仕事は下野国の桜町という土地の復興であった。ナスを食べたところ、まだ夏の前なのに秋のナスの味がしたことから、その年は冷夏になることを予測。村人たちに指示して冷害に強いヒエを大量に植えさせた。尊徳が予測した通りその年は冷夏となり、天保の大飢饉が発生したが、桜町ではヒエの蓄えが十分にあったおかげで餓死者が出なかった。尊徳はこのようにして天保飢饉を乗り切ると約15年もの歳月を費やして土地復興に成功した。尊徳が復興した桜町という土地は、現在は「二宮町」という名になっている。農村の復興における尊徳の手法が花開いたと言える。

 金次郎は桜町領を再興するときに、武士の位を授けられ二宮尊徳となった。その二宮金次郎がどのように考え、どのように生き、どのようなことを人々に問い、どのような業績を残したとかが大事である。

幕府お抱えに

 当時は江戸幕府の後期で、財政的に疲弊する地域が各地に続出していた。この対策を尊徳が請け負うことになった。その後も尊徳は関東地方を中心に多くの土地の復興に携わった。また尊徳の教えを受けた弟子たちも各地に散らばり、尊徳式のやり方で土地復興を進めた。

 50代半ばの頃、尊徳は幕府に取り立てられた。当時の老中・水野忠邦に見込まれ、天領(幕府の直轄地)の経営等に携わることを命じられたのである。それは実家が消滅しかけ、親戚の家に引き取られて生き延びてきた青年の大逆転劇だった。普請役格となって印旛沼開拓・利根川利水について提案を行ったが、結局、それは採用されなかった。

 翌年、幕府直轄領(天領)下総大生郷村の仕法を命じられ、1844年には日光山領の仕法を命じられる。翌年、下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住。日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していた。

 尊徳は土地復興・経営に尽力し、1856年10月20日に、栃木県今市で亡くなっている。享年69。

二宮尊徳の実像

 二宮尊徳の考えの基本は勤労、分度(倹)、推譲の精神である。勤労とは徳に報いるために働くことで、分度とは収入の範囲内で支出を定めること、推譲とは勤労、分度をして貯まった物を将来のために残すことである。
 さらに「積小為大」「五常講」を人々に説いているが、積小為大とは、小をつんで大と為すということで、五常講とはお金の貸し借りの旋回の過程で、仁のこころをもってそれぞれの分度を守り、多少余裕のある人から困っている人にお金を推譲し借りた方は義の心で正しく返済し、 礼の心を持って冥加金を差し出し恩に報うことである。智の心をもって借りた金を運転し、信の心を持って約束を守る。つまり「仁義礼智信」の「人倫五常の道」を守ることである。

 人間の勤労には欲がありそれは当然のことである。欲があればあるほど、働き甲斐があり、また得られるものも多いとしながら、しかし、得られたものを自分のためだけに使うのは、自奪というべきで、決して褒められたことではない。成果が得られたら、今度はそれを他人に譲るべきで、他人のために用立てるべきだ」ということだ。だから、推譲というのは、働いて得られた益を譲るということで、ただあるものを譲るということではない。尊徳の推譲の前提には、勤労ということがはっきり据えられている。勤労のない譲与など意味がないということだ。

 この「分度」「推譲」を柱として幾多の土地を救ってきたが、全ての土地で成果があったわけではない。「分度」を守って余りを出すのは、言葉では簡単であるが実際には辛いことも多くあった。また尊徳が土地復興を行うときには、細かい計画を立て、その計画を守って強力に仕事を進めたことから、これについていけない人は反発することもあった。二宮尊徳は真面目で頑固で己にも他人にも厳しい人物だった。

 二宮尊徳は二宮夜話でこのことを、「多く稼いで、銭を少く遣い、多く薪を取って焚く事は少くする。是を富の大本、富国の達道という。然るに世の人是を吝嗇といい、又強欲という、是心得違いなり」と述べている。尊徳がこのように尊敬されのはこの金銭感覚、経済感覚につきる。

 二宮金次郎の実名は尊徳(たかのり)であるが「そんとく」と世間で言われるのは、尊徳が救った村は605カ町村、根本から建て直したのが322カ村、一人の困窮民も借財もなく村を再生させたもの200カ村を超えるからで、その実績ゆえに尊敬されていたのであろう。

 一枚の田から何石の米がとれるか、その米を換金すればいくらになるか。「米倉に米俵を積み上げ、何年持っていても米は増えぬが、この米を売った金を巧みに運用すれば、二倍も三倍もの利息が稼げる」と説いた。農民たち個々の零細な金であっても、まとまれば大きくなる。それを貸し付け利に利を生ませ、その利益を村に還元し農地を改良した。今から140年前、農民信用金庫ともいえる構想を熱っぽく語り続けたのである。

 また1000両の資金で1000両の商売をするのは危ないことで、1000両の資本で800両の商売をしてこそ堅実な商売といえる。世間では100両の元手で200両の商売をするのを働きのある商人だと褒めるが、とんでもない間違いである。この言葉は、バブル経済のなかで狂奔していた虚業家たちはもとより、ベンチャー企業の事業家たちにとくに聞かせたい。

 二宮金次郎は小学校の校庭にあった銅像、薪を背負い歩きながら本を読んでいる苦学少年との印象が強いが、外見は大変いかつい大男だった。身長が6尺(約180センチ強)を超え、体重は94kgであった。この大男が疲弊した農村を駆け回り、時には人々の反発も受けた。二宮尊徳は聖人よりもより一層人間的な魅力がある。

 このようにを考えると、あの薪を背負って本を読む姿も、今までとは少し違って見えてくる。