徳川光圀(水戸黄門)

徳川光圀(水戸黄門)

 水戸黄門として有名な徳川光圀は、1628年6月に、初代水戸藩主・徳川頼房の3男として水戸城下柵町(水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。母の久子が光圀を懐妊した際、父の徳川頼房は久子に堕胎を命じたが、久子は主命に背いて密かに出産した。久子は奥付きの老女の娘で正式な側室ではなかった。光圀の同母兄である頼重も同様に堕胎を命じられている。頼重と光圀の間には次男・亀丸を含め5人の兄弟姉妹がいるが、彼らに堕胎の命令はなく、光圀になぜ堕胎させようとしたかは不明である。母・久子に地位や勢力がなかったためとされている。

  母につき従って、城に出入りするうちに徳川頼房の寵愛を受け、光圀は6歳で世継ぎに決定されている。光圀は3番目の子なので普通は家を継ぐはずはないのが、兄の頼重を差し置いて嗣子と定められる。幼少時からの非凡を示す逸話が多く、秀才ぶりを発揮したためされているが、6歳の子が兄を超えて嗣子となるのは何らかの理由があっためと思われる。しかし光圀は頼重の子を自らの養子として後を継がせ、水戸の血筋を兄へと返している。

若き日は「かぶき者」

 光圀は嗣子とされたが、十代の頃には「かぶき者」として鳴らしていた。「かぶき者」とは奇抜な服装や行動を好む者であった。正義の味方・黄門様が不良だったのは衝撃的である。お世継ぎとしての重圧によるものっだたのだろうが、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めている。

 この光圀を一変させたのは中国の歴史書である司馬遷の「史記」との出会いだった。この史記中の「伯夷伝」に感銘を受け、以後勉学に励むようになる。多くの学者を招いて学問を教わり、学者であった林羅山とも交友を持った。ここから光圀は「名君」への道を歩み始める。

藩主時代

 1661年、父・頼房が水戸城で死去し、葬儀は儒教の礼式で行い儒式の墓地・瑞竜山に葬むられた。光圀は当時の風習であった家臣の殉死を禁じ、光圀は自ら家臣宅を廻り「殉死は頼房公には忠義だが私には不忠義ではないか」と問いかけ殉死をやめさせている。幕府が殉死禁止令を出したのはその2年後である。

 幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となる。光圀はこの前日、兄・頼重と弟たちに「兄の長男・松千代(綱方)を養子に欲しい。これが叶えられなければ、自分は家督相続を断り遁世するつもりである」と言った。兄弟は光圀を説得したが、光圀の意志は固く、頼重もやむなく松千代を養子に出すことを承諾した。

 光圀は歴史事業のみならず藩政の充実にも尽力した。水戸藩主に就任直後、町奉行・望月恒隆に水道設置を命じた。水戸下町はもともと湿地帯であったため井戸水が濁り、住民は飲料水に不自由であった。望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め全長約10kmの笠原水道を着工し約1年半で完成した。

 さらに領内の寺社改革に乗り出し、村単位に「開基帳」の作成を命じた。1665年に寺社奉行2人を任じ寺社の破却・移転などを断行した。開基帳には2,377寺が記されているが、この年処分されたのは1,098寺で46%に及ぶ。うち破却は713寺で主な理由は不行跡であった。神社については社僧を別院に住まわせるなど神仏分離を徹底させた。また藩士の墓地として特定の寺院宗派に属さない共有墓地を、水戸上町・下町それぞれに設けた。現在それらは常磐共有墓地 ・酒門共有墓地と称されている。一方では由緒正しい寺院、長勝寺 (潮来市)や願入寺(大洗町)などについては保護した。神社については、静神社(那珂市)、吉田神社 (水戸市)などの修造を助けるとともに、神主を京に派遣して神道を学ばせている。

 また建造した巨船快風丸を使い、蝦夷地探検を三度行っている。二度目までは松前までの航海であったが、3度目は松前から北上して石狩まで到達した。米・麹・酒などと引き換えに塩鮭一万本、熊皮、ラッコやトドの皮などを積んで帰還した。この航海により水戸藩は幕末に至るまで蝦夷地に強い関心を持った。この巨船での航海は、光圀が藩主であったから幕府も黙認たので、光圀の死後中止され、死後3年目に快風丸も解体された。

 経済政策から福祉、軍事まで光圀が着手した分野は数多くある。中には効果をあげられなかった政策もったが、光圀の施策がスタート直後の水戸藩の体制を整えたのは間違いないことで、民衆の支持も勝ち取り、やがて光圀は兄の子・綱条(つなえだ)に家督を譲り藩主の座を降りる。

 政治やのことでも、光圀に関するエピソードがいくつか残っています。「貧乏で困っている百姓に薬や食べ物を与えた」など、光圀の人格者ぶりを伝えたものも数多く、真偽のほどは別として、こうしたエピソードが名君としての光圀像を形づけることになった。

藩をあげての大事業

 学問に目覚めた光圀は特に歴史に関した書物を数多く編纂した。中でも名高いのが「大日本史」である。1657年に江戸駒込邸に史局(彰考館)を設け編纂を始めたが「大日本史」は光圀が生きている間には完成せずに、水戸藩をあげての大事業として編纂が継続された。 

 1665年、明の遺臣・朱舜水を招く。朱舜水の学風は、実理を重んじる実学派であった。朱舜水を招いたのは学校建設のためであるが費用の面から実現しなかった。しかし儒学と実学を結びつける学風は、水戸藩の学風の特徴となって残った。

 江戸の中期ごろには大日本史は大体の形が出来上がるが、それでも手が加え続けられ、結局全てが完成したのは明治39年である。もちろん江戸幕府も水戸藩も存在していない時代の完成であった。この250年にもおよぶ大事業は、尊王思想や国家思想を尊ぶ水戸学と呼ばれる学風を形成し、この水戸学は幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。桜田門外の変や天狗党の乱など維新の動乱期には水戸藩出身者が多く登場する。光圀の思想が時を超えて人々を動かしたのである。

 1673年の5回目の就藩からの江戸帰府に際し、通常の経路でなく、上総から船で鎌倉に渡り江戸へという経路をたどった。鎌倉では英勝寺を拠点として名所・名跡を訪ね、この旅の記録を「甲寅紀行」「鎌倉日記」として纏めた。

水戸黄門

 水戸黄門が「水戸黄門漫遊記」として成立したのは明治の終りごろの大阪の講談界においてであった。光圀が実際に日本全国を歩き回ったことはない。大日本史の資料収集のために関東近辺を旅行したことはあったが、その業績やエピソードが後世において、現在まで愛される時代劇の「水戸黄門」誕生へとつながったのであろう。

 彰考館では数多くの学者が集められて大日本史の編纂が行われたが、その中も安積澹泊、佐々十竹は二人とも優秀な学者で、この二人が助さん格さんのモデルとされている。

「この紋所が目に入らぬか」テレビやお芝居で現在も愛される水戸黄門は徳川光圀をモデルにしている。日本中を旅し、悪人を改心させて回った黄門さまである。

 当時の身分制社会では、目下の者が目上の者に直言することは禁忌されていた。このため、水戸黄門の名は光圀が徳川御三家の一統である水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言を名乗っていたため、徳川光圀といわず、藩名である「水戸」と、中納言の唐名である「黄門」をとって広く用いられていたのである。

 

ドラマとしての水戸黄門

 歴代のドラマ「水戸黄門」は1969年に放送を開始し、2011年まで42年間続いた時代劇である。お茶の間に親しまれてきた全1227回で世界でも類を見ない日本の国民的長寿番組である。平均視聴率22.2%。最高視聴率は1979年2月5日に記録した43.7%で民放ドラマ史上2番目の高さだった。
 時代を問わず毎回ほぼ同じ展開のストーリーでで、弱い立場の人を虐げる悪いやつがいて、身分を隠している水戸黄門御一行が印籠を出して最後にそいつらをとっちめる。同じ展開なのだが、なぜか観ていて飽きない魅力があった。
 水戸光圀(水戸黄門)が家臣の佐々木助三郎(助さん)、渥美格之進(格さん)とともに諸国漫遊の旅先で世直しをする。光圀の道中での名は「越後の縮緬問屋の隠居・光右衛門」である。また丹後の縮緬問屋と称したり、京都または江戸の和菓子屋と称した事もある。身分は旅の町人であるが、供を複数連れ、服装も立派で人品卑しからぬ雰囲気を醸し出し、旅の先々ではそれなりに敬意を以て扱われ、単なる浮浪人といった扱いを受けることはない。 助さん、格さんは相手が真剣で立ち向かってきても素手で対応できる超人的な武道の達人という設定である。時には光圀も杖で真剣と渡り合うこともある。

歴代の黄門様を演じた俳優たち
初代 東野英治郎(第1部~13部)
1969年~1983年全381話14年に渡って出演。初期ではストーリーの途中で水戸黄門の正体を明かした。またクライマックスでは悪人一味と立ち回りをせずに印籠を出した。この印籠披露、独特の高笑いなど後々まで続くスタイルを確立させた。水戸黄門役が定着していた頃、普段着の東野に土下座する老人もいた。1994年9月8日心不全のため86歳で亡くなる。

2代目 西村晃(第14部~第21部)1983年から9年間に全283話に出演した。
 初代光圀の東野英治郎は、西村晃が偽黄門で出演した際に「西村、おまえ、俺の役を取りに来たんじゃないだろうな」と語りかけた事がある。その言葉通り、間もなく東野は黄門役を降り、西村が2代目に選ばれた。第二次世界大戦中は特攻隊員で一度出撃したものの、機体不良で基地に引き返した。機体不良が生じていなければ歴代水戸黄門の一人になっていなかった。気品のある顔立ちで男前で、1997年4月15日心不全のため74歳で亡くなった。
3代目 佐野浅夫(第22部~第28部)8年間全246話に出演している。庶民的な優しく慈悲深い「泣き虫黄門様」と称され、悲願成就した侍や町娘などのやるせない結末を見届けた光圀が感涙する話が度々登場している。佐野は「今まで黄門様は涙を流した事が無い。だから涙を流せる黄門様を目指したい」としている。

4代目 石坂浩二(第29部~第30部)
 2001年から1年間出演、直腸癌の手術での入院により1年余りで降板した。

 史実に基づいたストーリー展開、つけ髭をせず、光圀の旅衣装がこれまでの黄色と紫色ではなく地味になり、知的でスマートなインテリ黄門様を演じた。しかし2部からは局側の強い意向があり髭を付けることになった。東映京都撮影所は暴力団が裏で仕切っていた。東映の主演を張る役者は挨拶に行って関係を保っていた。しかし石坂は暴力団が嫌いなため挨拶に行かず暴力団との交際を拒否した。

5代目 里見浩太朗(第31部~第43部)
水戸光圀役として2002年から10年間全267話に出演した。里見浩太朗は2代目助さん役として「水戸黄門」に出演していた。

 1992年、2代目黄門役の西村晃が降板した際、スタッフは長年佐々木助三郎役で活躍した里見浩太朗(当時56歳)に3代目黄門役を打診したが「まだ白髪をかぶる役はやりたくない」という理由で断った。この話から10年後に実際に水戸光圀役を演じることになった。