元禄文化

 元禄文化
 江戸時代前期の文化のことを元禄文化という。江戸時代になって平和な世の中が実現し人口が急増し、幕府や藩は新田開発や都市建設などに追われ、そのため農民から七公三民の高額な年貢を集めた。しかし公共事業が元禄時代までに一段落すると、年を追うごとに年貢率は低下した。年貢率の低下は生活の余裕をもたらし、それまで食べるのに精一杯だった人々は、暮らしの中に遊びを求めるようになった。人々が遊びを求めれば、貨幣の動きが活発になり経済が発展した。経済の発展は遊びのさらなる進展をもたらし、武士や有力町民のみならず、一般庶民の間で高水準の多彩な文化をもたらすことになった。
 元禄時代を中心に栄えたことから、この時代の文化は元禄文化と呼ばれている。その特色は現世を「浮き世」、すなわち人間社会の現実を肯定的にとらえ実利を重んじる町人の思いが込められ、同時に、この時代に奨励された儒学と政治との結びつきや実証主義による古典研究や自然科学の学問の発達など様々な側面が見られる。簡単に言えば、元禄文化は上方(大阪・京都)の町人が中心の文化で、文学では松尾芭蕉近松門左衛門が有名で歌舞伎では現在でも有名な市川団十郎坂田藤十郎が人気であった。

 

学問の潮流

 江戸時代は平和が長く続いたために学問が非常に栄えた。幕府は儒学の一派である朱子学を重視した。朱子学は「目下は目上を敬うべき」といった道徳論なので、幕府が既成秩序を維持する上で有用な道具だったからだ。上下の身分秩序を重視して礼節を尊朱子学が封建社会の維持に最適と考えられ、朱子学のルーツである儒学が元禄時代の頃までに盛んとなった。

 歴代将軍の中でも特に学問を好んだ5代将軍の徳川綱吉は、1690年に湯島聖堂を建て林羅山の孫にあたる林鳳岡(うこう)を大学頭(だいがくのかみ)に任じた。このような幕府の姿勢は諸大名にも反映され、多くの藩主が綱吉にならって儒者を顧問に学問に励み藩政の向上を目指した。岡山の池田光政会津の保科正之加賀の前田綱紀水戸の徳川光圀が有名で、徳川光圀はテレビ時代劇「水戸黄門」のモデルとなっている。

朱子学
 朱子学は藤原惺窩(せいか)によって広まったが、京都に在住したことから惺窩の一派は京学と呼ばれ、林羅山のほかにも綱吉の侍講(じこう)として儒学を教えた木下順庵(じゅんあん)、正徳の治でその名を知られた新井白石などが有名である。このほかの朱子学派としては、戦国時代に活躍した南村梅軒(ばいけん)を祖とする南学があり、土佐の谷時中(たにじちゅう)に受け継がれた後には野中兼山(けんざん)や山崎闇斎(あんさい)らが出た。
 闇斎は僧侶から儒者となり、我が国古来の神道を朱子学的に解釈した垂加神道を説き、大義名分から皇室を尊敬することを教え、後の尊王論の基礎となった。朱子学以外の儒学としては、中国の明の王陽明を始祖とする陽明学を中江藤樹(とうじゅ)や熊沢蕃山(きまざわばんざん)らが学び、本当の知は実践を伴わなければならないという知行合一(ちこうごういつ)による実践主義を重視した。理論に偏りがちな朱子学を批判したことやその革新的な内容が幕府に警戒された。なお、山崎闇斎は保科正之に、熊沢蕃山は池田光政にそれぞれ招かれて学問を教えている。朱子学や陽明学はそれぞれ中国の宋や明の時代の学問でしたが、これらに飽き足らずに孔子や孟子の原点にまで直接立ち返ろうとした古学派がいた。

 儒学の中にもいくつもの潮流があった。例えば「陽明学」は、儒学の一派でありながら既成秩序を否定する傾向が強く、幕府に対する反骨精神を涵養する特徴があった。例えば、大阪で圧政に苦しむ庶民のために武装蜂起した大塩平八郎(1837年)は、幕臣でありながら陽明学者でもあった。しかし幕府は、儒学の一派であるという理由で、あまりこの学問を弾圧出来なかった。なお幕府が安心して擁護できたはずの「朱子学」も、水戸藩などで過激化し、いわゆる「尊王思想」が誕生した。なぜなら朱子学をとことんまで追求すると「天皇と朝廷は幕府よりも偉いはずなのに、幕府が朝廷をないがしろにするのはおかしい」という結論になるからである。この思想が「朝廷のために幕府を倒すべし」という尊王倒幕運動に発展するのであるが道理からいって当然のことであった。

古学派
 古学派のうち、山鹿素行(やまがそこう)は古代の聖賢に立ち戻ることを主張して、礼に基づく武士道を確立するとともに朱子学を激しく批判しました。また伊藤仁斎(じんさい)・伊藤東涯(とうがい)の父子は京都で古義堂を開いて、仁を理想とする古義学を唱えた。

 荻生徂徠(おぎゅうそらい)は徳川綱吉の側近であった柳沢吉保に仕え、晩年には8代将軍の徳川吉宗にも仕えた。徂徠は古代中国の古典を読み解く方法論である古文辞学を確立したほか、知行地(ちぎょうち)における武士の土着などの統治の具体策である経世論を説いた。また徂徠の門人であった太宰春台は徂徠の経世論を発展させ経済録を刊行して、武士も商業を行い藩が専売制度を行って利益をあげる必要性を主張した。
 なお朱子学を批判し幕府の怒りを買った山鹿素行は赤穂藩に流され、藩士たちに学問を教えた。赤穂藩の門下生には若き日の大石内蔵助がおり、大石が後に主君の敵として他の元家臣らとともに吉良上野介を討ち果たすと、荻生徂徠はその裁定に悩む幕府に大石らの切腹を主張し最終的に認めさせた。
 江戸時代には我が国の歴史に対する編纂も進められた。幕府は林家(りんけ)に命じて、年代を追って出来事を記述していく編年体で本朝通鑑(ほんちょうつがん)をまとめた。
 水戸藩の徳川光圀は藩の総力を挙げて、人物や国ごとの業績を中心に記述していく紀伝体の大日本史の編纂を始めました。大日本史における全体的な内容は朱子学に基づく大義名分論が主流であり、後には水戸学と呼ばれた尊王思想に発展し、幕末の思想に大きな影響を与えた。
  このほか山鹿素行は中朝事実を著して、儒学の流行による中華思想を批判し、日本人にとっては日本こそが中華であるという立場を明らかにした。また、新井白石は古代史を研究して古史通や読史余論を著した。ちなみに大日本史は全397巻にのぼる大作であり、着手から250年の歳月をかけて明治39(1906)年にようやく完成した。また中朝事実は明治の軍人であった乃木希典が、明治天皇に殉死する直前に、若き日の裕仁親王(昭和天皇)に献上している。
国文学

 この時代はいわゆる国文学の研究も盛んになった。戸田茂睡はそれまでの和歌に使用できない言葉があることを批判し、自由な表現を認めるべきとして和歌の革新を唱えました。茂睡の説は万葉集などの研究を続けた僧の契沖(けいちゅう)によって正しさが認められ、契沖は従来までの和歌の道徳的な解釈を批判して万葉代匠記(まんようだいしょうき)を著した。また、北村季吟(きぎん)は源氏物語や枕草子などを研究して、源氏物語湖月抄(こげつしょう)や枕草子春曙抄(しゅんしょしょう)などの注釈書を著した。これらの古典研究はやがて古代精神への探究へと進化して、後には国学という新しい学問の基礎となった。

自然科学
 江戸時代には様々な産業が発達したが、この当時の実証的な研究態度は自然科学などの諸科学の発達をも促した。天文学や暦学では渋川晴海が、それまでの暦(こよみ)の誤差を観測によって修正し、我が国独自の貞享暦(じょうきょうれき)をつくり、この功績によって渋川は幕府の天文方に任じられている。
 江戸時代初期には様々な治山・治水や都市整備などの事業が行われ、その際に精密な測量が必要だったことや、あるいは商業取引の際に重要だったことから和算(わさん)が発達した。関孝和(せきたかかず)は筆算代数式(ひっさんだいすうしき)とその計算法や円周率の計算などで優れた業績を残している。
 薬草の研究から始まった本草学は貝原益軒(えきけん)が大和本草を、稲生若水が庶物類纂(しょぶつるいさん)を著した。なお本草とは薬効のある植物や動物・鉱物のことである。本草学は農業や医療の改善にも貢献し、宮崎安貞は農業全書のような農書の普及をもたらしました。
 また地理学の分野では西川如見(じょけん)が華夷通商考(かいつうしょうこう)を著して海外事情を紹介したほか、新井白石が我が国に潜入して捕えられたイタリア人宣教師のシドッチを尋問した内容をまとめた西洋紀聞を著した。

文学
 元禄時代の文学は、京都や大坂などの上方の町人文芸が中心となった。小説では井原西鶴が町人社会の風俗や世相を背景に、恋愛や金銭などに執着する人間の生活を描いた浮世草子を著し、好色一代男や世間胸算用などの作品を残した。
 俳諧では西山宗因(そういん)による奇抜な趣向をねらった談林俳諧に対して、伊賀出身の松尾芭蕉が格調高い芸術による蕉風俳諧(しょうふうはいかい)を確立した。芭蕉は全国を旅しながら俳諧を広め、奥の細道などの紀行文を残した。
 武士出身の近松門左衛門は国性爺合戦(こくせんやかっせん)などの歴史的な事柄を扱った時代物や、曽根崎心中などの当時の世相に題材をとった世話物を人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本として書き上げた。近松の作品は義理と人情の板挟みに苦しむ人々の姿を美しく描いたもので、大坂の竹本義太夫らによって語られ、義太夫節として広く知れ渡った。

歌舞伎
 出雲阿国によって広まった歌舞伎は、当初は女性や若者によって演じられましたが、やがて風俗を乱すとして禁止され男優だけで演じる野郎歌舞伎(やろう)に変化した。しかし元禄時代を中心とする約50年間には常設の劇場が設けられ、飛躍的な発展をとげこの時代の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている。
 この時代に江戸では初代の市川団十郎が荒事(あらごと)と呼ばれた勇壮で力強い演技で人気を集め、上方では和事と呼ばれた恋愛劇で若い色男を演じた坂田藤十郎や女方の名優として初代の芳沢あやめ(よしざわあやめ)が登場し、女方の芸の確立に大きな役割を果たした。それまで歌舞伎の作者は俳優が兼ねていたが、この元禄時代には独立した専業の狂言作者が登場した。近松門左衛門はその代表で数々の名作を世に送り出した。

絵画
 元禄時代には京と江戸を中心に新しい絵画が生まれた。まず上方の有力な町人を中心に洗練された作品が生まれ、豊臣氏の御用絵師であった狩野山楽・山雪の家系は京に住したため京狩野と称されている。 江戸では狩野探幽が江戸城の障壁画を描き、その一門は狩野派として幕府御用絵師の地位を得ている。探幽兄弟とその係累を江戸狩野と称している。狩野派は殿中の障壁画を描き将軍に絵の指導をしたり、また諸大名や旗本も狩野派の絵で城郭や屋敷を飾ったので全盛期をむかえたが作品は新鮮味に欠けるようになった。

尾形光琳
 呉服商「雁金屋」の次男として生まれた尾形光琳は、京狩野系の山本素軒から学び、晩年江戸に下った際に江戸狩野からも学んでいる。このように狩野派の影響があり「紅白つつじ図」「維摩図」などにその影響が見られる。また抽象的な水紋の表現などがみられ、写生に意を用いていたことも俵屋宗達の影響で、「風神雷神図屏風」の模写などに典型的にみられる。
 尾形光琳の傑作としては「燕子花図屏風」で、総金地の六曲一双の屏風に濃淡の群青で花を、緑青によって葉を描き、その二色以外は用いずにカキツバタを描いて鮮烈な印象をあたえている。左右のバランスも考慮してリズミカルに配置した逸品である。また「紅梅白梅図屏風」ではうずまき流れる水流を銀で描き、しっかり根を張ったウメの木の静と動の対比を抽象化して装飾的にまとめた傑作で光琳の代表作として名高い。さらに光琳八橋蒔絵硯箱(やつはしまきえすずりばこ)などの優れた作品を残している。
 光琳の絵は、宗達など王朝風の古典主義的な諸作品から影響を受けながらも、斬新なアイディアと感覚的な意匠にすぐれ、蒔絵の手法なども用いて、あでやかな色調と図案的な抽象性を両立させるところに特徴があり、その華麗な画法は琳派とよばれる芸術家群を生んだ。
 光琳の弟である尾形乾山(けんざん)も、装飾的で高雅な陶器や蒔絵を残している。光琳との合作である寿老図六角皿(じゅろうずろっかくざら)が有名である。琳派の画家として渡辺始興、深江芦舟、立林何帠がいる。なお光琳は漆工や染織など工芸分野でもすぐれた作品をのこしている。

大和絵
 絵画では大和絵の流れをくむ土佐派の土佐光起(みつおき)が京都に戻り、朝廷の絵師となり、また土佐派から分かれた住吉如慶(じょけい)は住吉派を興して、子の住吉具慶は幕府の御用絵師となった。
 伝統の手法を復活させた土佐光起は朝廷に召し抱えられて宮廷絵所預となり、大和絵に漢画の手法も取り入れ題材にも工夫を凝らした。この土佐派からは土佐広通があらわれ、寛文年間に鎌倉時代の名手だった住吉慶忍にあやかって住吉如慶を名乗り、住吉派をおこした。如慶は江戸で大和絵の伝播に努め、如慶の子の住吉具慶は幕府御用絵師に取り立てられて、その流れから久隅守景・多賀潮湖(英一蝶)らを出している。久隅守景・英一蝶はそれぞれ狩野探幽、狩野安信にも学んだが、2人とも狩野派の伝統を破ろうとして破門されている。守景はその庶民的な画風が高く評価されており、一蝶は市井の風俗・行事を軽妙洒脱に描いたことで知られている。しかし元禄期にはいるとこれら保守系の画系は全体的にはふるわなくなった。

風俗画
 風俗画の分野では岩佐又兵衛が浮世絵の始祖にあげられ、岩佐又兵衛は生前から「浮世又兵衛」と称されていた。浮世絵の展開には菱川師宣を待たなければならないが、岩佐又兵衛はそれほど有名ではないが、日本絵画史の中では重要な人物である。

 江戸時代初期の絵師でまだ浮世絵というものが全く確立していなかったころですが、又兵衛は当時の風俗をたいへん個性的な視点・タッチで活写した作品を残した。これが浮世絵の大きなルーツになったとされており、ある意味で「浮世絵の始祖」とも言える人物である。

 ちなみに又兵衛の父は戦国武将の荒木村重で、あの織田信長を突然裏切り、その際に一族の多くが殺されたものの又兵衛は救われ絵師になった経歴である。絵師としては非常に順調で、徳川家の婚礼品の制作を依頼されたほどであった。この時代にあっては木版挿絵本がとくに上方でさかんに刊行された。御伽草子、舞曲、古浄瑠璃正本、古典文学、軍記物などに仮名草子が加わり、当初は稚拙で単一色だったものがやがて技巧的なものや彩色の施されたものが出てきた。これらは浮世絵版画の登場に影響をあたえることになった。

浮世絵


江戸では安房国出身の菱川師宣があらわれた。それに先だって上方でも江戸でも寛文美人図という一連の諸作品が流行したが、やがて表現のマンネリ化が進行した。菱川師宣は土佐派・狩野派などの伝統的な諸様式を吸収し、職人画の様式も消化して、中国の版画の技法も取り入れて庶民画として独自の画風を確立して江戸絵画に画期をもたらした。

 菱川師宣は当初『伽羅枕』『武家百人一首』『絵本このごろぐさ』『好色一代男』など印刷された挿絵本で名をあらわしたが、やがて民衆の需要増に応じて、個人の独占する肉筆画に加え大量の木版画を手がけるようになった。

 当時の人びとは版画よりも肉筆画を貴重なものと見なしたが、浮世絵が様式としての生命を長く維持できたのは木版画に新しい技法や表現の可能性を追求でき、また美術品に商品としての価値もつけられ、多くの人の鑑賞にさらされたからでもある。版画は当初墨一色であったがのちに色刷もなされるようになり、菱川師宣によって初期浮世絵派の様式的確立がなされた。やがて冊子という形式からも脱し、浮世絵は一枚物の版画として発展していった。その代表作「見返り美人図」は立ち姿の女性がなにげなく振り返った一瞬をよくとらえた肉筆画である。こののち、江戸では美人・役者など都市の風俗を題材とする浮世絵が愛好されるようになった。
 浮世絵木版画は安価に入手できることもあって、大きな人気を得た。菱川師宣以降は鳥居清信があらわれ、役者絵と美人画に大きな影響をのこした。清信は市村座の看板を描いて以来他の各座の看板絵を手がけ、のちに役者絵の一枚刷りを描いた。鳥居派の画法は、のちに江戸歌舞伎絵の主流を占め、上方にも流布するようになって大森善清や西川祐信などが数多くの名品をのこしている。いっぽう清信の美人画は、鳥居清倍、奥村政信および懐月堂派に影響をあたえた。清倍は役者絵・美人画の分野で清信に劣らぬ才能を発揮し、懐月堂安度は美人の立姿を主として肉筆画で量産した。安度自身は江島生島事件に連座するが、彼の工房には20名以上の弟子や画工がおり、安度追放後も量産をつづけた。また、西川祐信の影響を受けた奥村政信は、丹絵・紅摺絵・漆絵の技法を開発し、次代の錦絵全盛時代を準備した。

黄檗画像(長崎派)
 なお17世紀後半から18世紀初頭にかけて長崎でおこなわれた特殊な洋風表現として、黄檗画像(長崎派)とよばれる一連の肖像画がある。これは、黄檗宗の僧侶を洋風の陰影法を用い、写実的な要素をもった作品で、作者としては喜多元規、喜多元喬、河村若芝らが知られている。

 

工芸
 工芸では京都の野々村仁清が酒井田柿右衛門の技法を受け継いだ色絵を完成させ、京焼の祖となり作品としては色絵藤花紋茶壺(いろえふじはなもんちゃつぼ)や色絵吉野山図茶壺(いろえよしのやまずちゃつぼ)などが有名である。
 染物では宮崎友禅(みやざきゆうぜん)が始めた花鳥山水を模様とする友禅染が、衣服の華やかさを競った町人の間で流行しました。
また彫刻では、僧の円空が全国を行脚して、円空仏と呼ばれた独特の作風を持った仏像を残した。