古代朝鮮半島

中国の分裂

 ヤマト政権は3世紀から4世紀にかけて日本国内の統一を進めていった。いっぽうの中国は三国時代の魏を倒した魏の臣下の司馬炎が皇帝となって国号を晋とし、さらに呉を滅ぼして中国を統一した(西晋)。しかしこの西晋は30年で急速に衰退し、晋の皇帝の跡を狙った8人の皇族たちが争い(八王の乱)皇族たちが北方民族の力を利用したことから匈奴などの異民族が北行から侵入し、中国は五胡十六国時代と呼ばれる大混乱状態に陥った。

 晋の漢民族を中心とする人々は南方へ移り江南地域に東晋を再建したが、しかし420年に、東晋は宋にとって代わられた

 このように北の異民族支配地域と南の漢民族支配地域の二つに分裂した中国は国家の興亡を繰り返す南北朝時代をむかえた。この中国の混乱によって、周辺の諸民族に対する中国の影響力が弱まり、東アジア諸地域では次々と国家が形成されてゆく。

 

朝鮮半島をめぐる情勢

 朝鮮半島では中国北部からおこった高句麗が南下し、魏が支配していた楽浪郡・帯方郡を滅ぼし(313年)、南部では馬韓(ばかん)・ 辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)の3つの地方に分かれて国家を形成した。

 しかし4世紀の半ば頃には、馬韓から百済が、辰韓から新羅が誕生し、朝鮮半島は北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅の三国が成立した。当時の朝鮮半島の南部には豊富な鉄資源や先進技術があった。

 ヤマト政権はその鉄資源と技術を得るため、4世紀後半には百済との友好関係を足がかりに、まだ統一国家のなかった任那(みまな)に勢力を伸ばし、ヤマト政権の飛び地として半ば支配下に置いていた。

 任那は百済と新羅にはさまれた地域で、任那の領域は徐々に新羅と百済に侵食されていった。戦前までの日本の教科書では、任那はヤマト政権の勢力範囲とされていた。その傍証として朝鮮にはない日本のヒスイが任那から多数発見され、また前方後円墳が発見されたからである。

 任那をヤマト政権が直接支配していたのか、あるいはヤマト政権と深い関係の豪族が支配していたのかは不明であるが、任那にはヤマト政権の機関が置かれ、任那は鉄の重要な産地であったことは重要である。

渡来人

 日本は朝鮮半島と密接な関係を持ち、古墳時代中期の5世紀ころから朝鮮半島の戦乱を逃れた多くの渡来人が日本にきた。朝鮮半島は新羅、百済、高句麗が常に抗争状態にあったため渡来人の多くは戦争難民であった。

 ヤマト政権は渡来人たちを厚遇し、畿内やその周辺に居住させ、渡来人から大陸の文化を学んだ。大陸の進んだ土木技術は、それまで不可能だった大規模な治水や灌漑事業を可能にし、優れた鉄製農具は農業の生産性を高め、日本の産業や文化の発展に尽くした。また須恵器という固くて美しい焼物や、馬に乗る技術や道具、最新式の鉄器をもたらした。鉄の農機具は開墾や農作業の能率をあげ、鉄製の甲冑等は武器として使われた。
 5から6世紀にやってきた渡来人は、文字・暦学・医学・儒教・仏教・政治制度等の新しい文化や技術を伝え、倭を大きく変えていった。660年に百済が滅びるとヤマト政権は全力をあげて救軍を送り、それが失敗すると百済から逃げてきた渡来人に対して土地や貴族の位を与えて歓迎した。その中には、大臣、次官、将軍もいて、ヤマト政権の中心的な役職についた。

漢字
 日本にはそれまで文字がなかったが、渡来人が漢字を日本に伝えてくれた。そのおかげで漢字を用いて記録を残せるようになった。すでに1世紀には「金印」や銅鏡、銅銭などの漢字がもたらされ、3世紀頃の土器には漢字が書かれているが、どの程度文字として利用されていたかは不明である。

 稲荷山古墳から出土した鉄剣には、漢字の音を利用した人名(獲加多支鹵大王=わかたけるのおおきみ)や地名などが刻まれて、また漢字によって6世紀半頃に帝紀(皇室の系譜)、旧辞(神話伝説)などの日本古来の歴史がまとめられ「古事記」や「日本書紀」へとつながってゆく。
 さらに6世紀になると百済から五経博士が来日し、医学・易学・暦学のほか、儒教を伝えた。さらに6世紀中頃には仏教も百済から伝えられ、我が国の思想や倫理、道徳といった精神面にも影響をもたらした。
 当時の日本は、文化の面では大陸や朝鮮半島に遅れていたが、その遅れを取り戻そうと大陸の文化を積極的に受け入れた。この努力が、やがて日本独自の文化が花開く原動力になる。現代も漢字や仮名交じり文が日本語表記の原則となっており、その便利さは言うまでもないが、漢字が本来の日本語(やまと言葉)を阻害た可能性がある。


好太王碑文
 明治13年、朝鮮半島と中国の国境付近にある鴨緑江(おうりょくこう)の中流北岸で「好太王碑文」が農民によって発見された。好太王碑は414年に長寿王が父・好太王の事績を顕彰するために建立された自然石の角柱碑だった。高さ6.34m、幅ほぼ1.6mに1775文字が刻まれており、そこには「高句麗の好太王の軍勢が、 この地で日本軍と戦い勝利した」と書かれている。好太王の死の直後に創られたことから信憑性は高いと思われる。

 日本は高句麗に負けたとはいえ、朝鮮半島の奥深く、中国の国境を越えて攻め込んだのである。しかしこれほど重要なことが日本の「記紀」には書かれていない。高句麗との戦争について「好大王碑文」に対応する史料が日本に存在しないのは、朝鮮で日本が高句麗に負けたことを隠しておきたかったからであろう。

 この好太王碑は明治13年に発見され、明治16年に参謀本部の酒匂景信がその拓本を日本に持ち帰った。中国側から「碑文に石灰を塗り込んで、日本軍部が文字を改竄した」との批判が叫ばれたが、現在では否定されている。好太王碑の文字内容は本物である。

 現代でも、中国の北朝鮮国境付近に見上げるように大きな碑が残されている。この高句麗の好太王碑は句麗の好太王の戦績を称えた碑文であるが、4世紀末の高句麗とヤマト政権との激しい戦闘の記録がつづられている。

 それは高句麗も南部の鉄資源や先進技術を求めて南下を進め、鉄資源を巡る思惑から高句麗とヤマト政権は交戦状態となったのであろう。

 高句麗とヤマト政権との戦いは一進一退を繰り返し、結局、ヤマト政権は高句麗を滅ぼすことはでなかった。高句麗を倒せなかったのは、高句麗に乗馬の風習があったからである。高句麗は馬を自由に操る騎馬軍団を持っていたので、騎馬軍団を持たない歩兵部隊のヤマト政権が負けたのである。

 ヤマト政権は、高句麗との戦いから騎馬技術を積極的に取り入れることになる。ちょうど戦乱を逃れるために朝鮮半島から多くの渡来人が来ていたので、彼らから乗馬を始めとした様々な技術を学んだ。

 古墳時代の副葬品は、古墳時代中期から武具や馬具が多くなるが、それは当時の被葬者がそれまでの司祭者から政治的・軍事的実力者に代わったこと。さらに「敗北から騎馬戦術を導入した」からである。
 好太王の碑文から、4世紀後半から5世紀前半にかけての朝鮮半島をめぐる情勢を知ることが出来る。日本は中国国境付近まで攻め入り、敗北から戦略を学んだのである。

 朝鮮の奥深くの高句麗まで攻め入った事実から、仲哀天皇の妃の神功皇后が朝鮮半島へ出兵し、新羅や百済を降伏させたことも納得がゆく。


三韓征伐
 当時の日本の史料の中で印象的なのは、いわゆる神功皇后の「三韓征伐」である。三韓征伐とは、神功皇后が新羅出兵を行い朝鮮半島の広い範囲を服属させた戦争をいう。

 第14代仲哀天皇はヤマトタケルノミコトの次男であるが、その皇后であった神功皇后が、反乱起こした熊襲を撃つため仲哀天皇とともに大和から九州の筑紫にやってきた。すると神の託言が降り、神は「九州は後まわしにして朝鮮を攻めよ」と命じたのである。

 仲哀天皇はその神の言葉を信じようとせず、そのせいか急死した。残された神功皇后の腹の中には胎児(応神天皇)がいたが、3個の石を腰に巻きつけて腰を冷やして出産を遅らせ、身重の体に鞭打って軍勢を率いて朝鮮半島に侵攻した。この鎮懐石のおかげで、妊娠で15ヶ月で出産、筑紫に帰ってから福岡県宇美町で応神天皇を産んだ。

 新羅を降伏させた後に百済、高句麗も相次いで日本の支配下に入ったことから三韓征伐と呼ばれるが、戦闘の記録があるのは新羅戦だけなので新羅征伐という場合もある。また高句麗を含めない征服ともされている。この三韓征伐は「日本書記」に記載され、明治以降の政府にとって朝鮮半島を領有する正当化のために利用された。近年では神功皇后の実在すら確信は薄れているが、それでも朝鮮半島に攻め入った記述は、当時の国際関係を表している。

 まず「九州よりも先に朝鮮を攻めるべき」との神託は、朝鮮半島の政治情勢が、九州よりも重要だったことを示している。

 さらに史上初の女帝と言えば、飛鳥時代の第33代推古天皇を思い浮かべるが、第14代仲哀天皇の皇后で夫帝崩後に身重の身体を押して三韓征伐を行い、58年間の執政(201〜269)後に、子の第15代応神天皇に皇位を譲った神功皇后がいることを忘れてはいけない。明治時代までは推古天皇に先立つ女帝として神功皇后は第15代神功天皇とよばれていた。しかし大正15年の詔書により歴代天皇から外されている。天皇の名を外された理由はわからないが、58年間の天皇空白の時期を天皇の代わりに執政していたことは確かである。

 明治から終戦までの学校では神功天皇は実在の人物として教えられ、大日本帝国による朝鮮半島支配の正当性の象徴、根拠とされ有名かつ偉人であったが、現在では実在説と非実在説が並存している。

朝鮮半島との関係
 ここでヤマト朝廷と朝鮮半島の関係が浮かび上がる。ヤマト朝廷で権力を持った豪族たちは、百済や任那の王族の子孫だった可能性がでてくる。彼らは九州や東北のことよりも、故郷である朝鮮半島の方が大切だった。それゆえ九州や東北を放置しても、朝鮮半島に軍勢を送り込んだのではないだろうか。

 神功皇后の頃には、倭(日本)は百済と同盟して朝鮮半島への足がかりをつかんでいた。神功皇后が帰国して出産した第15代の応神天皇は国家の武神として全国4万余の八幡神社に祭られている。その応神天皇の子が第16代の仁徳天皇になる。

 倭(日本)は朝鮮半島への進出のため366年に百済と同盟してから、白村江で唐・新羅との戦いを経て、668年に高句麗が滅亡するまでの303年間、日本は政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わってきた。

 世界最大級の前方後円墳を残すほどなのヤマト朝廷である。朝鮮半島に勢力を及ぼしていても不思議ではない。すなわち倭五王の時代、ヤマト朝廷はすでに強大な政治的・軍事的力を保有していた。

 中国の史書には266年以降、1世紀の間、倭国の記載がない。413年(東晋)に倭国が貢ぎ物を献じたことが「晋書」安帝紀に書かれ、ようやく中国の歴史書から我が国に関する記載が復活するのである。

倭の五王
 5世紀の初めから約1世紀の間、倭王(ヤマト政権の大王)たちが、相次いで中国の南朝に朝貢した。中国の史書「宋書倭国伝」には、421年から478年まで相次いで倭の王から遣使がきたことが書かれている。倭王の名は讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)で、この5人の王を通称「倭の五王」とよんでいる。
 朝鮮半島に勢力を伸ばしたヤマト朝廷は、南朝の宋や斉に使者を遣わし、朝鮮半島への軍事権を認めてもらおうとした。つまり日本は中国皇帝の権威を背景に、朝鮮半島の政治的立場を有利にしようとしたのである。
 事実、413年倭王が東晋へ,425年倭王讃が宋へ,438年倭王讃の弟珍が、443年と451年に、倭王済が宋へ,462年倭王済の子興が宋へ,478年倭王興の弟武が宋へというように使いを送っている。このことについては宋書に記載され、武が祖先以来の朝鮮征服事業について中国皇帝に述べ、皇帝からの冊封と称号の認可を求めている。
 この倭の五王が、我が国のどの天皇に相当するか、済は第19代の允恭天皇(いんぎょう)、興は第20代の 安康天皇(あんこう)、武は第21代の雄略天皇とされている。
 ほぼ確実とされているのは「武王が雄略天皇」に相当するということで、日本書紀では雄略天皇の在位は456年から479年とされるが、武王が宋に朝貢したのは478年で年代的に一致している。また雄略天皇の時代に、ヤマト政権の勢力範囲は関東から九州南部まで広げられ、このことは熊本県の江田船山古墳や埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣に「獲加多支鹵大王」(わかたけるのおおきみ)と刻まれていることからわかる。
 雄略天皇の別名は大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)で、鉄剣の「獲加多支鹵大王」に書かれた「幼武」(わかたける)の部分が一致するからである。この武王が雄略天皇に相当すれば、記紀や宋書に書かれた親子関係、兄弟関係から倭の五王が誰なのかがわかるのである。
 かつての「倭の五王(天皇)が中国に朝貢関係を前提に使者を送っていた」ことは事実である。しかし中央集権国家を目指す奈良時代の朝廷にとって「天皇が中国皇帝の権威に屈し、その臣下となる朝貢関係を結んでいた」ことは決しって認めるわけにはいかなかった。
 日本書紀では「中国との朝貢関係を否定し、天皇家は中国の歴代王朝と対等な関係にあったこと」さらには「ヤマト朝廷が中国の歴代王朝に臣従した事実はないこと」を示さなければならなかった。
 それは簡単なことである「屈辱的朝貢関係や中国皇帝との朝貢関係を、歴史に記載しない」ことだった。記録が残されなければ、事実は事実として存在しなくなる。
 日本書紀を編纂する際、倭の五王が書かれた梁書から205字を借用してので、編集者が梁書を読んでいたことは確かである。しかし日本書紀の編集者(大和朝廷)は、中国側の記録された倭の五王の朝貢の事実を故意に隠したのである。日本書紀の編集者は「倭の五王」そのものを消去したのである。
 そのため「日本書記」に書かれているのは、朝鮮半島の領有の正当性のみで、このことが明治政府に利用された。
 また「九州よりも先に朝鮮を攻めるべき」との神託は、朝鮮半島の政治情勢が九州よりも大きな影響を及ぼしていたことである。ヤマト政権にとって九州よりも朝鮮のほうが政治的な重要性が高かったからである。ここにヤマト政権と朝鮮半島の関係が浮かび上がってくる。
 ヤマト政権を実効支配した人々は、おそらく百済や任那の王族の子孫だったのだろう。彼らは九州や東北の事よりも、故郷である朝鮮半島の方が大切だったので、九州や東北を放置してでも、半島に軍勢を送り込んだのであろう。
 当時の朝鮮と日本の関係を推測するのは難しいが、似たことはヨーロッパに事例がある。中世のイギリスは百年戦争で大敗を喫するまでは、毎年のようにフランスに軍勢を送っていた。イギリス王家が陸続きのスコットランドやウエールズを放置しながらも、フランスを攻めたのは、フランス北部のノルマンディー地方がイギリス王家の発祥の地だったからである。イギリスは故郷を保持するためフランス王家と戦いつづけたが、日本と朝鮮の関係も同じ状況だった可能性がある。熊襲はしばしば朝鮮の国々と同盟を結んで、ヤマト政権と戦いを交えていた。これはスコットランドがしばしばフランスと同盟してイギリスを苦しめたのと似ている。
 ヤマト 政権は、九州よりも朝鮮半島に政治的利害が多いとみていた。九州の熊襲はヤマト政権と対立していたが、朝鮮半島からの渡来人が補佐するヤマト政権の首脳部は、九州のことよりも故郷である朝鮮半島の政治情勢に関心を抱いていたのだろう。
 熊襲を滅ぼし九州を平定したのは、おそらく崇神天皇(を擁する王国連合)である。「古事記」によれば、崇神天皇が派遣した四将軍が、西は九州全域、東は福島県 までを軍事的に制圧したとしている。九州を領域に組み込んだヤマト政権は、背後の安全を確保しつながら、朝鮮半島への干渉を強めていったのであろう。