中国と日本

我が国と中国

 日本では1万年の時間をかけて縄文時代が緩やかに進展した。

 いっぽうの中国は文化が急速に充実しており、紀元前4000年までに黄河中下流域の黄土地帯でアワやキビの畑作が行われ、南の長江(揚子江)下流域では稲作が始まった。紀元前1500年の殷王朝では青銅器の鋳造が始まり、紀元前6世紀には青銅器にかわって鉄器が普及し、農業生産は向上して高度の文明が形成された。なお青銅は銅と錫(すず)の合金のことである。
 中国は春秋・戦国時代の群雄割拠を経て、紀元前3世紀には強大な統一国家である(前漢)が現われた。なお中国の英語の「China」、日本語「シナ」は秦の国名が語源となっている。漢は拡大を続け、漢の武帝(紀元前108年)は朝鮮半島北部を直轄地とし楽浪郡を置いた。広大な領土を持つ漢の文化は周辺の諸民族へ及び、日本にも影響を及ぼした。

 当時の日本は中国から倭・倭国と呼ばれたが、日本はまだ統一国家ではなく「国」の集合体であった。地域集団(国)の中に中国王朝と通交するものがあり、中国から「国」の称号を与えられた。日本は「国」の集合体であったが、国同士が次第に結合を強め、2世紀初頭に倭国連合形成し盟主は倭国王と称した。

 歴史に最初に登場する倭国王は、後漢書東夷伝に出てくる帥升(すいしゅう)である。倭国王・帥升は史上初の日本人名であるが、生口(奴隷)を160人を献上したにも関わらず、この倭国王帥升は中国から印綬を貰った形跡がない。これは57年の倭奴国王や西暦3世紀の邪馬台国王・卑弥呼に印綬が送られたのと対照的である。この帥升への待遇がなぜ悪かったのかは不明である。

 倭国はしばらくの間、政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、邪馬台国の卑弥呼が倭の国王となる。

 中国の歴代の皇帝は「中国こそが政治、思想、文化の中心で、他の地域はすべて野蛮で劣っている」とみなしていた。これが中華思想で、中国の皇帝は周辺民族に従属を求め、逆らえば有無を言わさず滅ぼした。力関係で服属した周辺民族の長は「」の称号を与えられ現地の実質支配を許すかわりに、中国皇帝が自分たちの支配者であることを認めさせた。中国の皇帝が主で周辺民族従とする、いわゆる君臣関係で各地の王は皇帝に朝貢を行った。この宗主国(中国)と朝貢国の関係を冊封(さくほう)とよぶが、古代の東アジアの秩序は冊封によって成り立っていた。

 中国の歴史書から、倭国(日本)が中国と外交を展開していたことがわかっている。前漢の歴史書「漢書地理志」によると、紀元前1世紀の日本は100余りの国に分かれ、楽浪郡に使者を送っている。楽浪郡とは朝鮮半島に置かれた四郡の一つで、当時は前漢の直轄地だった。

 また前漢のあとを継いだ後漢の歴史書「後漢書東夷伝」には、紀元57年に倭の奴国王が後漢の首都洛陽に使者を遣わし光武帝から印綬を授かっている。

 日本の国名「倭国」は中国側の当て字であるが、なぜ「倭国」なのかは様々な説がある。しかし中国の中華思想から、異民族は蔑称を用いるのが通常で、蒙古は犬と同類の北狄(ほくてき)と呼ばれ、西洋人は虫と同類の南蛮と呼ばれていた。倭も醜い、曲がってる、歪んでるという意味が込められているが、これも中華思想による差別である。

 奴国は現在の福岡市付近にあった小国の一つである。福岡市の志賀島から奴国王が光武帝から授かった「漢委奴国王」と刻まれた金印が江戸時代に発見されている。弥生中期以後、北九州から本州の各地に分立した小国の王たちは、漢王朝の先進文化を積極的に取り入れ、自らの地位を高めようとした。

 

漢委奴国王の金印
 江戸時代中頃の1784年2月23日、福岡県の博多湾の入り口の志賀島で金印が発見された。金印は農夫の甚兵衛が田んぼに水を引くために水路の補修しているときに偶然護岸の石の下から見つけた。3月にこれを聞いた郡奉行の津田源次郎は、甚兵衛をよび出し金印を提出させ、金印を黒田藩(福岡藩)に献上した。

 ただちに藩の学者の亀井南冥によって調べられ、この金印には「漢委奴国王」の文字が刻まれ、これは「漢の家来である委の奴の国王」を意味していた。この金印に多くの学者が興味を持ったのは、中国の歴史書の後漢書東夷伝に「紀元57年、委の奴国の使者で太夫という者が、挨拶のため貢ぎ物を持って洛陽の都を訪れた際、後漢の光武帝が委の奴国に印綬(印と組みひも)をさずけた」と書いてあるからである。その印綬が1700年後に無傷のまま掘り出されたのである。

 その後漢書東夷伝の記載と印綬が一致するならば、委の奴国とはどこにあったのか。「委の奴国」について大和(奈良県)説、伊都国説などが挙げられたが、福岡市付近とする説が当然ながら有力である。「委」は日本人に対する古い呼び名で、「奴」は福岡市を中心とする地名である。古代の中国人にとって日本は日本海沿岸部の地理感であり、太平洋沿岸部は曖昧で、そのため日本海沿岸部に面した奴国が最南端の国だったのだろう。

 金印は一辺が2.3cmの四方形で厚さ0.8cm、重さ108gであった。つまみの部分は蛇をかたどった彫刻になっている。この金印がなぜ志賀島に埋もれていたかは古代史の謎とされている。この話はうますぎてニセ物と疑う人もいる。

 現在、金印は国宝に指定され、福岡市博物館に展示されている。

 歴史を知る上で文字で書かれた資料は重要である。古代の日本の様子を以下の5つの資料から探ることができる。混乱しやすいので下記にまとめてみた。

 

漢書地理志 BC1  日本に関する最古で確実な資料である。楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。楽浪郡を通して毎年漢に朝貢していた。

後漢書東夷伝1〜2C 57年に北九州の奴国の王が光武帝から漢委奴国王の印綬を授かる。また107年に倭国王の倭国王が生口(奴隷)160人を献上した。147~189年に「
倭国おおいに荒れる」とあり、これがいわゆる2世紀後半の大乱と呼ばれるものである。

魏志倭人伝 3C  邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を派遣。魏が公孫氏を滅ぼし、朝鮮半島を支配する。卑弥呼が魏の明帝より金印(親魏倭王)を贈られる。魏が帯方郡の建忠校尉・梯儁らを倭国に派遣。243年、卑弥呼が魏に使者を派遣。244年 魏が蜀を攻撃、そのため倭の戦乱に介入できず。247年、魏が塞曹掾史・張政を倭国に派遣、248年、卑弥呼死去、この年、日本で皆既日食。263年、司馬昭が魏の相国に就任し蜀が滅ぶ。265年12月魏が滅亡、晋が建国。

好太王碑文 4C    中国には資料はないが、日本が統一国家となり、日本が朝鮮に出兵した。好太王の銘文がこれを示している。

宋書倭国伝 5C   
倭の五王についての記載がある。479年の南斉書盗難夷伝には倭王武が安東大将軍の称号を受けたと書かれている。

中国の歴史

先史時代 長江文明、黄河文明、遼河文明
夏 (前20世紀 - 前16世紀)殷 (前16世紀- 前12世紀)周 (前12世紀 - 前256年)
春秋時代 (前770年 - 前403年)
戦国時代(前403年 - 前221年)晋が韓・趙・魏に分裂した
秦 (前221年 - 前207年)始皇帝が6国を滅ぼし中華統一
漢 前漢(前206年 - 8年)秦滅亡後、楚の項羽に漢の劉邦が勝つ
  新(8年 - 23年) 外戚の王莽が帝位を簒奪
  後漢(25年 - 220年)前漢の景帝の子孫の光武帝が動乱を勝ち抜き漢を再興。
三国時代 (220年 - 280年)魏、蜀、呉の時代
 魏の曹操の子曹丕(文帝)が漢を滅ぼし、魏王朝を建国
 蜀の劉備も漢皇帝を名乗り即位
 呉の孫権も即位
晋(265年 - 420年)
 西晋(265年 - 316年)司馬炎(武帝)が魏を乗っ取り建国し、呉を滅ぼす
 東晋 (317年 - 420年)皇族の生き残り琅邪王・司馬睿が江南に逃れ即位(元帝)
五胡十六国時代 (304年 - 439年)
南北朝時代 (439年 - 589年)
北魏、東魏、西魏、北斉、北周、宋、斉、梁、陳
隋(581年 - 618年)煬帝が父を暗殺し随が建国
唐(618年 - 907年)煬帝が部下に殺され随滅び唐が建国