西郷隆盛

 幼年時代
 
西郷隆盛は、1827年12月7日、鹿児島城下の下加冶屋町で西郷吉兵衛隆盛の長男として生まれた。幼名は小吉で通称は吉之助である。のちに隆盛と名乗るが、隆盛は父の名と同じで、これは誤って父の名を届けたためである。雅号は南洲(なんしゅう)である。西郷隆盛が生まれて10年後に大塩平八郎(大阪町奉行所の与力で陽明学者)が貧民救済のために武装蜂起している。

 なお西郷家の祖先は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将で、南朝の忠臣と言われた菊池武光である。後年、西郷が奄美大島に身を隠すことになった際、菊池源吾という変名を使用していることからも、西郷家が菊池氏の後裔であることが分かる。西郷家の祖である菊池氏が西郷と姓を改めたのは、居城としていた増永城が肥後国菊池郡西郷村にあったからで、初代の西郷家が江戸中期に熊本から鹿児島に移ってきて、鹿児島へ来てから7代目が父・西郷吉兵衛隆盛で、8代目が西郷隆盛である。

 弟の西郷吉二郎(隆廣)は戊辰戦争(長岡市)で戦死し、三弟は明治政府の重鎮・西郷従道で、四弟は西南戦争で戦死した西郷小兵衛である。なお大山巌は従弟になる。

 また西郷隆盛と共に明治維新の主役となる大久保利通は3歳年下で、大久保利三の誕生から10年後にイギリスと清国との間でアヘン戦争が勃発している。西郷隆盛と大久保利通は親しい仲間で、ともに城下に住むが、家柄は武士の中でも下から二番目の下級武士の身分で生活は楽ではなかった。

 幼少期は貧乏暮らしで食ってゆくのがやっとの生活であった。ふとんも不足し、一枚のふとんを七人兄弟で用い、冬の夜など夢うつつのうちに引っぱり合って、眼をさましてはあやまったり笑ったりした、という逸話を西郷が後に述べている。

 西郷隆盛といえば大きな体格で強い武人とする印象があるが、西郷は少年期から学問に精を出していた。

 それは11歳頃に腕を怪我したために武道を行うことができなかったからである。少年時代の西郷については詳細は不明な点が多いが、郷中仲間と月例のお宮参りに行った際、他の郷中と友人が喧嘩し、仲裁に入った西郷が上組の郷中が抜いた刀で右腕を切られてしまい、三日間高熱に浮かされたものの命は取りとめ、この傷から刀を握れなくなったとされている。西郷隆盛は大柄な体を活かした相撲は強かったが、このケガを機に武芸を断念し、学問で身を立てようとする。13歳で元服するが学問は西郷の後年に大いに役立つことになる。
 西郷が16才の時、藩の郡方書役助に命じられる。郡方書役助とは農政事務所の事務官であるが「助」という言葉から分かるように、郡方書役を補助する役職だった。直接農民と接するため、西郷は百姓の貧困にいたく同情する愛民愛農の青年だった。

 薩摩藩では武士の子弟がある年齢に達すると、家計の助けのために低い役職に付けられた。これは他藩に比べて薩摩藩の武士の人口比率が26%と高かったため、例えば書の巧みな者は役所の書役(事務)、武術に長けた者は藩校や演武館の指導員というように能力や資質に応じて役職に就かせたのである。

 また薩摩藩では郷中教育という独自の方針で、切磋琢磨しあう厳しい教育がなされ、藩士の子弟を鍛えあげた。幼い西郷は大久保利通らと同じ郷中で学び、また大山巌ら後進も鍛えている。
 西郷隆盛は少年時代の右肘のケガのため、学問に精を出していたため読み書きや算盤に秀でていた。郡方書役助とは農政をつかさどる事務の補助なので、年貢の徴収を行なっていた。そのため藩内各地を転々とする体力が必要だった。西郷隆盛の大きな体格から郡方に採用されたのだと想像される。

 郡方に任命されたが、その時の郡奉行は、城下でも気骨ある武士として有名な迫田利済(さこたしなり)で、西郷はこの迫田利済から大きな影響を受けた。
 ある日のこと地方を巡視していた迫田利済のもとに藩庁から通知書が届いた。そこには「風水害の被害があったとしても、今年の年貢の減額は認めないように」と書かれていた。迫田利済はその通知書を見るなり、重税に苦しむ農民の窮状を憤り、地方巡視を途中で中止して鹿児島城下に帰り、役所の門に次のような農政を批判する一首を書き残し、郡奉行を辞職している。

 その一首とは「虫よ 虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも 共に枯れなん」。この虫は役人を、いつふし草とは重税に苦しむ農民のことを指している。つまり「役人が農民に過剰な税を課していじめることは、自らを破滅に導くことに繋がる」という事を書いたのである。この句には「国の根本をなすのは農民である」という迫田利済の信念が表れている。

 西郷はこの迫田利済から農政に関することを学び、重税に苦しむ農民の窮状を無視できない愛情深い性格は、郡方勤務時代に培われた。さらに後年、西郷が到達する「敬天愛人」の思想は、郡方での経験があったからと言える。迫田から得た知識や経験が、後に藩主・島津斉彬(なりあきら)に見出されることになる。

 この頃、薩摩では後に日本全体を揺るがす大問題が起きていた。イギリス、フランスの軍艦が琉球に来航し、通商を迫ったことである。薩摩の人々は、黒船来航よりも早く「このままでは日本が植民地になってしまう」と危機感をおぼえていた。
 薩摩藩は海に面して拓けた藩であった。沖縄の影響もあり、他の地域ではタブーとされていた獣肉も好んで食べており、西郷も豚骨が好物であった。肉食文化のおかげか、西郷始め薩摩の人々は立派な体躯をしている人が多かった。さらに海外からの脅威以外に薩摩藩をゆるがす騒動が起こっていた。

 

お由羅騒動(高崎崩れ)
 西郷が郡方書役助になってから5年後の22歳の時、薩摩藩に大きなお家騒動が起きた。俗に言うお由羅騒動(おゆら)である。お由羅の方は江戸出身の庶民の娘で、江戸の薩摩藩邸へ奉公に出ていたところを島津家二十七代当主・島津斉興(なりおき)に見初められて側室になっていた。

 島津斉興は正室・弥姫(いよひめ)がいるため、屋敷に身分の低い側室を置くわけにも行かず、お由羅の方は薩摩に住むことになった。お由羅の方は家中では「御国御前」と呼ばれ、実質的には正室同様に扱われていた。お由羅の方は参勤交代のたびに同行させられていたことから斉興の寵愛ぶりがわかる。

 藩主・島津斉興は既に58歳と高齢であったが、なかなか隠居しようとはしなかった。島津斉興には跡継ぎを期待される2人の息子がいた。海外情勢に通じた嫡男・島津斉彬と側室お由羅の方との間に生まれた島津久光である。しかし1824年に斉興の正室・弥姫が32歳で亡くなると、次の跡継ぎは斉彬か久光かで藩内が割れてしまった。

 島津斉彬(母は正室・弥姫)と島津久光(母は側室・お由羅の方)のどちらかを次の藩主にするかで揉めた薩摩藩内のお家騒動がお由羅騒動である。島津家当主である島津斉興は正室が産んだ斉彬(なりあきら)ではなく、溺愛する側室の由羅が産んだ5男の久光を藩主にしたいとしていた。

 この問題が起きたのは久光側からであった。お由羅が我が子・久光を次の藩主とすべく、島津斉彬を呪詛したという噂が広がり、しかも悪い事に斉彬の子である虎寿丸が亡くなったため、呪詛があったと斉彬派は激怒したのである。

 島津斉彬は少年時代から聡明と謳われ、進取気鋭の性格で日本を取り巻く諸外国の事情にも通じ、世間からは「三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほどの人物であった。しかし父の島津斉興は斉彬のことを忌み嫌い、家督を譲ろうとしなかった。もちろん久光も聡明な子であった。

 嫡子をどちらにするかについて、側室が暗躍したかどうかは不明であるが、呪詛は攘夷祈願を誤解したものとも思われる。もちろん斉彬と久光の兄弟仲は悪くなかった。

 島津斉興は58歳と高齢で、斉彬はすでに40歳になっていた。社会通念からすると跡継ぎが20歳代になれば、藩主は自ら隠居して家督を譲るのが通例であったが、斉興は隠居の気配を見せなかった。これは異常なことで、本来ならば正室の子である島津斉彬が家督を継ぐはずであるが、藩主・島津斉興と側室お由羅の方、さらに側近で倹約主義の調所広郷がそれを認めず、溺愛するお由羅の子・島津久光を後継にしようとしていた。

 若手藩士は「斉彬様は英明な方で、れっきとした嫡男なのにお由羅と久光がいるので、40歳になっても家督を継げないでいる。家老の調所広郷は俺たちに負担を押し付け、無理やり藩の財政を黒字にしたくせに手柄を独り占めにしている。調所広郷が推す久光など藩主にさせられない」としていた。 

 西洋の知識に明るかった島津斉彬に対し、久光派の島津斉興や家老の調所広郷は「島津斉彬はお祖父様の影響を受け、藩主にすれば借金が増えるだけだで、斉彬は蘭癖(外国趣味)に偏りすぎている。せっかく頑張って財政の心配をなくしたのに、またぶり返されたらかなわない。久光に跡を継いでもらったほうが安心できる」として斉彬を最後まで藩主として認めなかった。

 斉彬は祖父・重豪に似ていて西洋流の技術導入に熱心だった。このことが薩摩藩を幕末の躍進へと導いたが、藩の財政からは負の側面と捉えられたのである。技術導入には莫大な費用が必要だった。祖父・重豪の代に財政が傾いた薩摩藩は琉球を介入して清との密貿易を行い、奄美大島からの黒糖専売による年貢の取り立てを「黒糖地獄」とも呼ばれるほど厳しく行っていた。このような手段でやっと黒字に転換した苦難があった。それが藩主が斉彬になったら、また赤字に転落するのではないかと懸念して久光を推したのである。他でもない藩主・島津斉興ですらそう考えていた。

 このように島津斉興が斉彬に家督を譲らなかったことから、薩摩藩内に不満を持つ者が多くいた。彼らは斉興のやり方に反発し、斉興を隠居させて斉彬を擁立しようと動き始めた。斉彬派と久光派の間に陰湿な派閥抗争が展開された。

 斉彬派は薩摩藩士・高崎五郎右衛門と近藤隆左衛門を中心とした一派で、由羅の方とその取り巻きの反斉彬派の重臣が元凶として、彼らを暗殺したうえで斉興を隠居させ、斉彬を藩主に擁立しようとした。

 藩主・島津斉興はこの動きを察知すると烈火のごとく激怒し、主犯の高崎五郎右衛門、近藤隆左衛門ら切腹13名を含む約50名に蟄居・遠島などの重い処罰を下した。またこれを恥として自ら命を絶った者も多かった。
 この後継者争いは久光の母の名を取り「お由羅騒動」と呼ばれ、西郷の父・吉兵衛もまたこの騒動に巻き込まれた。西郷家と縁の深かった赤山靱負(ゆきえ)が連座して切腹を命じられた際に赤山靱負の介錯を務めさせられ、西郷の父はその切腹の様子を隆盛に詳しく聞かせ、切腹の際の血染めの肩衣を隆盛に見せた。青年の頃から赤山靱負の影響を受けていた西郷は、切腹の際に着用していた血染めの肌着を受け取ると、終夜それを抱き涙を流して赤山の志を継ぐことを固く決意した。

 このお由羅騒動は若き日の西郷に大きな影響を与えた。西郷は好き嫌いが激しい性格で、この憎悪は、後の「西郷と久光」の関係に暗い影を落とすことになる。またお由羅騒動で大久保利通の父・利世は琉球王国の出張機関(鹿児島と中国福建省)の仕事をしていたが流罪になり、幼馴染である利通も罷免され大久保一家は困窮したが、西郷はこの間大久保家を援助した。
  この騒動は久光派だけの責任ではない。斉彬派の暴走もまた大きな原因だった。呪詛の噂だけで怒り、藩主の側室暗殺計画まで立てたのは、冷静になってみると逆恨みといえる。薩摩というと豪快な印象があるが強すぎる思いこみが憎悪に転ずたことも否定できない。

 

島津斉彬時代

 お由羅騒動により、斉彬を藩主に擁立しようとした一派は急激に勢力を落とし、藩内で孤立した斉彬が家督を継ぐことはもはや絶望的に見えた。しかし島津斉彬は藩主になることを諦めなかった。自らが得た知識や経験を生かして大幅な藩政改革を推進するため、また諸外国の外圧による国難を迎え、日本のために手腕を生かそうとした。
 島津斉彬は藩主になるために一計を講じた。斉彬は日頃から付き合いのある幕府の老中首座の阿部正弘、宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)、斉彬の大叔父である福岡藩主・黒田斉溥(なりひろ)の協力を得て、薩摩藩の密貿易を幕府内で問題にして、斉興とその腹心である財政責任者の調所広郷を追い詰めようとした。

 当時の薩摩藩は幕府の許可を得て、琉球(沖縄)を通じて中国などの周辺諸国と貿易をしていた。しかし幕府が許可した以上の貿易で不正に莫大な利益を上げていたのである。このことを斉彬は告白したのである。
 幕府の老中首座・阿部正弘は「外国との折衝が必要になってきた昨今、外様大名で海外に関心を持つ人物がいればありがたい。斉彬は英明な人物だし、幕政に良い意見を出してくれるに違いない。すぐにでも島津斉彬の藩主を望んでいたため、斉彬の密告はお互いに相談のうえのことであった。

 自藩の秘密を漏らすことは、斉彬にとって苦肉の策で、諸刃の剣を使うようなものであった。しかし斉彬は藩主になるため決断を下したのである。この斉彬の秘策は見事に的中し、老中の阿部正弘も徳川家慶も「島津斉興を隠居させたほうがよい」と考え、家慶は斉興に茶器を送り、暗に「そろそろ歳だし、これからは隠居してゆっくり茶でも楽しむといい」と示した。藩主の島津斉興も密貿易とお由羅騒動の不祥事を老中の阿部正弘に突きつけられ、さすがに将軍の命令では斉興も逆らいきれず、隠居して家督を斉彬に譲ることになった。
 島津斉興の腹心であった調所広郷は、藩内の貿易に関する全責任は自分にあるとして服毒自殺をした。こうしてようやく1851年2月2日、島津斉彬が28代の薩摩藩主に就任した。

 開明藩主・島津斉彬は藩主に就任するやいなや、この激動の時代を生き抜くために薩摩藩を近代的な藩にするべく様々な新規事業を興した。斉彬は西洋文明を受け入れることにより、経済・軍事の近代化を図るべきだとする積極的開国論者であった。

 斉彬が行なった事業は、蒸気船の製造、汽車の研究、製鉄のための溶鉱炉の設置、大砲製造のための反射炉の設置、小銃の製造、薩摩切子として有名ガラスの製造、ガス灯の設置、紡績事業、洋式製塩術の研究、写真術の研究、電信機の設置、農作物の品種改良など数えれば切りがないほど多岐にわたり、当時の技術水準からすれば信じられないほどの近代工業化を推し進めた。集成館と称する日本初のコンビナートを建設し1日に1200人が働いた。そのため斉彬は江戸時代随一の名君とされた。
 長崎海軍伝習所のオランダ人教員カッティンディーケは、薩摩を訪れた際、島津斉彬の様々な事業や近代工場を目にして「薩摩藩は、ヨーロッパの小さな公国並みの技術力を持っている」と述懐している。このことから斉彬の指揮のもと鹿児島が近代化に突き進んでいる様子がうかがい知れることができる。また同じく薩摩を訪れたオランダ軍医師のポンペは「薩摩藩は国運隆盛の源泉となるものを増進し、自力で技術研究に専念する明君の政治のもと、燦然たる彼岸に到達するであろう。薩摩藩はまもなく日本全国のうちでもっとも繁栄し、またもっとも強力な藩になるのは間違いない」と、当時の薩摩藩の繁栄ぶりを書き残している。後年、勝海舟は斉彬を「幕末第1等の英王」と誉めたように、斉彬はずばぬけた人物であった。斉彬が江戸時代随一の名君であり、開明的な君主であったと言われるのはこのことからも分かる。

 斉彬は薩摩を工業都市にして、日本を英国のような工業国家、大海軍国家にしようと構想していた。幕府の「やむなし開国」とは異なり、日本の富国強兵と一体化した「積極的開国」であった。そのためには天皇を中心に幕府諸大名は「一体一致」の体制、すなわち、藩を超えた統一国家でのぞむという構想であった。斉彬は人材を発掘し、登用、育成にも力を注いだ。斉彬は藩士たちに藩政に対する意見を求めた。

 

二才頭

 島津斉興が隠居し、島津斉彬が藩主に就任した頃、西郷は下加冶屋町郷中の二才頭(にせがしら)を務め、後年西郷の無二の盟友となる大久保正助(利通)らと共に朱子学の近思録を研究し、時事を談論する集団を作っていた。

 明治維新の主役である西郷隆と大久保利通は、ともに鹿児島城下の下加治屋町で生まれている。西郷の方が大久保より3つ年上で2人は親しい仲間で、ともに家柄は城下に住む武士の中でも下層の御小姓与で生活は楽ではなかった。西郷が生まれて10年後、大塩平八郎の乱が起き、大久保の誕生から10年後には、イギリスと清国とのアヘン戦争が起きている。

 二才とは薩摩地方で言う青年のことで、二才頭とは郷中教育における若手の長のことである。薩摩藩では町内ごとに青少年たちが組織を作り、自治的に年長の者が年下の者の教育を行う慣習があった。後年、この若き二才たちの集団は「誠忠組」と呼ばれ、西郷はその首領格となり藩政に大きな影響を与てゆく。

 伊藤茂右衛門に陽明学、島津家の菩提寺福昌寺の無参和尚に禅を学び、また赤山の遺志を継ぐために「近思録」を輪読する会を大久保正助(利通)らと結成した。1852年になって西郷は最初の妻を娶とった。相手は西郷家よりも家格の高いとされる伊集院家の娘・伊集院須賀である。翌年、西郷は家督相続を許されたが、役職は郡方書役助と変わらず禄は減少して41石余であった。結婚から間もなく西郷家では祖父・父さらには母が死去してしまう。西郷はさらに騒々しい日々が続き、ほどなくして須賀と離縁した。

 

西郷の意見書

 1853年、日本を揺るがす大騒動が起きた。ペリーが浦賀に来航し攘夷問題が動き始めたのである。西郷は島津斉彬の藩政に対する意見書を書き提出した。西郷が書いた建白書は藩の農政に関するもので、藩内の農民が重税に苦しんでいることを切実に訴えたものである。これは以前、郡奉行の迫田から学んだ「国の根本は、農民である」という西郷の愛農思想に準じたものであった。
 西郷は農政に関すること以外でも、お由羅騒動で処罰された武士たちが未だ遠島や謹慎の処分を解かれていないことに不満を持ち、そのことも意見書に書いた。このような西郷の建白書や意見書は藩主・島津斉彬の目に留まり、斉彬は西郷の存在を知り登用することになった。

 1854年、西郷は斉彬から抜擢され、郡方書役助から「中御小姓、定御供、江戸詰」を命じられ、斉彬に付き従って江戸に行くことになった。26歳の西郷が終生の師と仰ぎ、神とも崇めた島津斉彬との出会いはこの時から始まった。

 

江戸勤務

 1853年に浦賀にアメリカのペリー艦隊が来航し、黒船以前から海外の武力に危機感を抱いていた島津斉彬は幕府から江戸に来るよう要請された。1894年アメリカのペリー提督が再来航した時に、西郷は薩摩藩主・島津斉彬の参勤交代に従って江戸に向かう。
 西郷は江戸詰御庭方として同行し江戸に留まった。西郷が江戸で仰せつかった御庭方とは、幕府の「御庭番」にならったもので、これが大きな転機となった。庭方役とは植木職人のようなな印象を受けるが、西郷に期待したのは庭の管理ではなかった。

 身分の低い藩士が、藩主や家老などに拝謁するには、物々しい面倒な手続きが必要であった。厳格な封建制度の中で、西郷のような下級藩士が身分の高い者と容易に話せるような時代ではなかった。島津斉彬が西郷の建白書を読み、西郷を薩摩藩の将来を担う頼もしい若者と感じ、西郷を教育しようとして面倒な手続きを取らずに自由に庭先で会える庭方役を命じたのである。

 庭方役に任命された西郷は、初めて島津斉彬に拝謁し、下級藩士である自分にこれだけの厚い配慮をかけてくれた斉彬に西郷は涙を出さんばかりに感激した。そして「島津斉彬のためなら喜んで命を捧げよう」と誓った。西郷が師と仰ぐ島津斉彬は西洋文明を受け入れることにより、経済・軍事の近代化を図るべきとする積極的開国論者であった。庭方役は藩主島津斉彬専属で機密事項を扱う役割を持ち、西郷は斉彬の意を体し政界の裏工作などにあたった。ちょうどこの年に日米和親条約が結ばれ、日本では開国論と攘夷論が沸騰していた。

 この日から斉彬は国内の政治情勢や諸外国との関係、日本の政治的課題などを直接西郷に教え成長させていった。斉彬は西郷と接する度に、西郷の豊かな将来性を確信し一人前の人物になるように教育した。西郷にとって斉彬は師父と仰ぐ人物であった。

 このような二人の関係を示すように「斉彬公が西郷どんを呼んで話をなさる時は、たばこ盆を叩く音が違っていた」という逸話が残されているほどである。

 御庭方の役目は藩の機密事項を扱い、また主の命を受けて諸藩の動向を探るものだった。御庭方は身分こそ低いが、藩主にとっては手足のようなもので距離が近かった。島津斉彬は西郷の血気盛んな性格を見込んで、この混迷極める政局の中で活躍できると考えたのである。西郷も主君の信頼に応えるべく張り切った。

 ここで西郷は島津斉彬の意を受け、政界の裏工作などにあたる。島津斉彬の厚い薫陶を受けた西郷が本格的に政治活動を開始するのは、まさにこの役目を拝領した時からで、水戸藩藩主・徳川斉昭の腹心であるの藤田東湖や戸田蓬軒(ほうけん)、越前藩主・松平慶永の懐刀だったの橋本左内と知り合い、志の高い人たちと交流を持つことになった。

 西郷の名も次第に諸藩士の間で知れわたるようになり、また西郷に接した諸藩も西郷の才能に一目置くようになった。西郷は徐々に斉彬の右腕として存在感を増していった。

将軍継嗣問題
 東インド艦隊司令長官のペリーが浦賀に来航し、武力を背景に脅迫ともいうべき行動で開国を要求してきた。鎖国を国是としてきた幕府にとって、ペリーの来航は幕府のみならず諸大名に大きな衝撃を与えた。ペリーの来航の翌年、1854年3月3日、幕府はアメリカとの間に「日米和親条約」を締結した。
    またペリーに続き、ロシアからはプチャーチンが長崎に来航し、幕府に対し開港通商を要求した。これら諸外国からの外圧に対し、幕府は確固たる方針や方策を持たず、その場しのぎの対応になったため、諸外国から侮りを受けることになった。第13代将軍・徳川家定は心身ともに虚弱で、日本の大きな国難に対し強いリーダーシップを発揮できなかった。そのため幕府は半ば強制的にアメリカ、ロシア、イギリス、オランダといった諸外国との間に和親条約を調印させられることになった。
 13代将軍家定は病弱で嫡子誕生は絶望的であった。薩摩藩主・島津斉彬は、このような幕府の弱腰外交に対し、まず国防の充実が急務とし、この国難には諸大名や幕閣の意見をまとめる指導者が必要とした。そのため斉彬が白羽の矢を立てたのが、水戸徳川家出身で一橋家の当主・一橋慶喜(徳川慶喜)であった。

 一橋慶喜は聡明かつ英明な人物で、斉彬は慶喜のことを高く評価していた。そのため斉彬は慶喜に将軍・家定の跡を継がせ、慶喜の強い指導力で日本を一つにまとめ大きな国難に対処しようとした。

 島津斉彬は親しく付き合っていた老中の阿部正弘や、同じ考えの土佐藩主・山内豊信(容堂)、福井藩主・松平慶永(春嶽)、宇和島藩主・伊達宗城(むねなり)らと力を合せ、慶喜を次期将軍にすべく奔走した。斉彬の無二の寵臣として働いていた西郷はこの「将軍継嗣問題」にも深く関わり、斉彬の使者として諸大名や朝廷に働きかけた。

 1856年12月、第13代将軍・徳川家定島津斉彬の養女・篤姫が結婚する予定になっていた。島津斉彬は篤姫を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にして、公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかり露英仏に対処しようとした。西郷はこの壮大な計画のためその手足となって活躍した。

 島津家から篤姫(天璋院)が将軍・徳川家定の正室として嫁ぐと、西郷は篤姫を通じて大奥工作も展開していく。縁談は将軍家から強く望まれたものであり、斉彬は将軍の岳父として存在感を増していった。

 外国勢力に抵抗するために斉彬も発言力を強めるが、しかし1857年、孝明天皇の強い反対にも関わらず、大老に就いた井伊直弼はアメリカ公使ハリスの条件をのんで「下田条約」、さらには「日米修好通商条約」の調印を強行した。新将軍は徳川家茂と決まり斉彬ら一橋派の敗北に終わった。


井伊大老の登場と斉彬の死
 篤姫が嫁いだ第13代将軍・徳川家定は子がいないまま病状が悪化し、次の将軍をどうするかという問題が浮上した。この継嗣問題は熾烈な争いとなった。

 薩摩藩・島津斉彬は徳川斉昭の子である一橋家の慶喜を推し、西郷も朝廷を通して工作を行った。しかし斉昭自身の不人気さや、薩摩勢力の伸張を苦々しく思う井伊家の反発があり交渉は難航した。御三家のひとつである水戸藩は三百諸大名で唯一将軍家の御政道を批判することが許されていた。しかも次期将軍候補をかかえている。しかし水戸藩邸を中心に「天下の情勢」が語られ、全国の憂国の士が参集していた。西郷の主な役目は水戸藩邸へ出入りし、水戸藩邸の世論を斉彬に伝えることにあった。

 井伊家は慶喜よりも将軍家に血統の近い紀州藩主・徳川慶福(後の家茂)を推していた。当初島津斉彬が加担したことで一橋慶喜が優位だったが、それに対抗して徳川御三家の紀州藩主でまだ10代半ばの徳川慶福(よしとみ)を推す動きが出てきた。
 慶福擁立派の中心人物は、紀州藩の家老・水野忠央(ただなか)であった。水野忠央は「血筋からいうと、次期将軍は一橋様よりも紀州様の方が適任である」という血統論で将軍継承を展開したのである。

 尊王と佐幕、開国と攘夷、天下は2つの座標軸で沸騰していた。江戸の政治状況は次第に将軍後の継問題になり「水戸、一橋、薩摩などの外様雄藩」と「紀州、大奥、井伊直弼などの譜代大藩」という対立になった。尊王主義を基調にした幕府改革と家康以来の幕府の権威復活の闘いでもあった。
 西郷は斉彬の手足として東奔西走し、藤田東湖、橋本左内ら、当時の最高級人物との親交も深めた。
 一橋慶喜の父である前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)は、大奥の女性たちからの評判が悪く、大奥からも慶福を擁立する動きがあった。これに勢いを得た水野忠央は彦根藩主の井伊直弼を大老に就任させた。
 井伊直弼は彦根藩第11代藩主・井伊直中の第14男として生まれたため、幼い頃より不遇に育ち、他の大名への養子のあてもなく藩から捨扶持をもらい質素に生活していた。井伊直弼は自分のみじめな境遇を嘆くかのように、自らが住む邸宅を「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけ一生涯世に出られないと嘆いていた。
 しかし井伊直弼に幸運が巡ってきた。藩主に就いた兄たちが次々と亡くなるという運命の巡り合わせが起き、直弼は奇跡的に彦根藩主に就くことが出来た。水野忠央は井伊直弼の腹心であった長野主膳(しゅぜん)と共謀し、1858年4月、ついに井伊直弼は大老に就任した。

 大老に就任した井伊直弼は、強大な権力を手中にすると、当面の課題であった将軍継嗣問題を強引に紀州藩の慶福を擁立する紀州派を有利にさせ、半ば強引に次期将軍を慶福に内定させた。
 大老・井伊直弼は朝廷の勅許を得ずにアメリカとの間に「日米修好通商条約」を調印し、このような井伊の強引で横暴な手法に対抗すべく、薩摩で状況を見守っていた島津斉彬は思い切った秘策を計画した。

 それは島津斉彬自身が薩摩から兵を率いて京都に入り、朝廷より幕政改革の勅許を受け、強大な兵力と権威を背景に井伊直弼を中心とする幕府に対して改革を迫ろうとする、いわゆるクーデターであった。

  島津斉彬は井伊直弼の強権政治を目の当たりにして、尋常な手段では幕府の改革は出来ず、日本の国難を救うには率兵して上京するしかないとした。西郷はこの斉彬の意図を受け、その準備のために薩摩から京都に出向き朝廷工作を手がけていた。しかし西郷が朝廷工作に追われている最中、薩摩で衝撃的な出来事が起きた。

 鹿児島城下の天保山で兵を調練中の島津斉彬が赤痢を発症して、発熱から急激に病状が悪化して、8日後の安政5年7月16日、突然急逝したのである。京都にいた西郷は、井伊の専制打倒のため一刻も早い斉彬の「出兵上洛」を熱望していたが、斉彬の死の知らせみ、呆然とした西郷は「殉死」を決心した。


安政の大獄と西郷の入水
 西郷にとって、師であり恩人であり、神のような存在であった島津斉彬の突然の訃報は、西郷に大きなショックを与えた。 「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない」、西郷は薩摩に帰り斉彬の墓前で殉死しようとした。しかし西郷は京都清水寺成就院の僧・月照にこのことを諌められた。月照は将軍継嗣問題や斉彬の率兵上京計画で、薩摩藩と朝廷の橋渡し役を務め、西郷と共に朝廷工作のため働いた間柄であった。

 死を覚悟していた西郷を前に月照は言った。
  「西郷はん、このまま斉彬公の後を追ったとしても、天上の斉彬公が「吉之助、よくやった」とお褒めになると思われますか。いや、必ず斉彬公は烈火の如くお怒りになるでしょう。吉之助、なぜわしの志を継いで働こうとはしないのだ」と、この月照の言葉に西郷は涙を流して謝り「おいが間違っていもした」と殉死を断念し、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。しかし政治状況は日々一刻、悪化の一歩をたどった。

 大老・井伊直弼は自分の考えや方針に反対する大名や公卿たちを謹慎処分にし、さらに幕府に批判的な志士や公卿たちを一斉に捕縛し、大弾圧に打って出た。これが世に言う「安政の大獄」で、橋本左内も斬罪に処せられた。この安政の大獄はそもそも条約の無断調印に怒った孝明天皇が水戸藩に発した勅書(戊午の密勅)がきっかけで、その密勅の運び役を西郷が仰せつかっていた。

 安政の大獄は一橋派を抑え込むことが目的で、この恐怖政治により、薩摩藩と朝廷との橋渡しを務めていた僧・月照も幕吏に追われる身となった。西郷は同志だった月照を薩摩藩内に匿うことを計画し、ともに京都を脱出して、西郷は先に薩摩に帰国して月照を受け入れ保護しようとした。

 しかし斉彬が急死したことにより、薩摩藩の方針は一変して保守化していた。斉彬の死後、藩主の座に就いたのは、斉彬の異母弟・島津久光の子の忠義であった。忠義は19歳だったため、後見人として斉彬の父・前々藩主の斉興が藩内の権力を握っていた。

 斉興はかつて斉彬を忌み嫌い、家督を譲らなかった人物である。そのことから斉彬が興した様々な事業を嫌悪し、薩摩藩を旧体制に戻すことに専念していた。西郷が薩摩に帰国した時には、斉彬が興した近代工業のほとんどが縮小され薩摩藩は静まり返っていた。それでも西郷は藩の要人たちに月照の保護を求めたが、藩政府の態度は冷たく「触わらぬ神に祟りなし」のごとく西郷の意見に耳を傾ける者はいなかった。西郷はそれにもめげず月照が薩摩藩のために尽力たことを説明して、月照の庇護を求めたが、藩政府の西郷への風当たりは強く、薩摩藩重臣は月照をかくまうどころか切り捨ての結論を出した。
 西郷が努力を続ける中、月照が筑前の勤皇の志士・平野国臣(くにおみ)に付き添われて薩摩にやって来たが、薩摩藩は西郷に月照を藩外に追放し斬り捨てることを命じた。安政の大獄により、月照を匿うことによって幕府に睨まれることを恐れたのである。
  西郷は「斉彬公さえ生きておれば」と悔しい思いでこの命令を聞いた。薩摩藩士として藩の命令に背くわけにはいかない。しかし月照を追放するのもできず、西郷はどうすることも出来なかった。志を同じくした月照を救うどころか殺すだなんてできるはずがなかった。

 西郷、月照、平野は薩摩の錦江湾(鹿児島湾)に船を浮かべ船上で三人は酒を酌み交わした。もはや彼らに打つ手はなかった。

この事態に絶望した西郷と月照は「せめて一人では死なせはしない」と二人で寒中の錦江湾の海に身を投じた。1858年11月16日、西郷吉之助30歳のことである。

 

奄美大島潜居から島津久光の上京まで
 冬の冷たい鹿児島錦江湾の海に西郷と月照は身を投じ、月照は絶命したが(享年46)、西郷は水を吐き出し奇跡的に蘇生した。自分だけ生き残った30歳の西郷は気が狂わんばかりに苦しんだ。共に身投げした月照が死に、自分だけが生き恥をさらしている。武士として、人間としてこれほどの恥はなかった。
 西郷の家族は、西郷が月照の跡を追って再び自殺することを危惧して、西郷の身の回りに刃物類を一切置かなかった。西郷はこの自殺未遂から1ヶ月後に書いた手紙の中で次のように心境を述べている。
  「私は今や土中に埋まる死骨のようで、忍ぶべからざる恥を忍んでいる生きている身の上である」
 西郷の苦しみや悩みがいかほどであったのか、西郷は生涯、月照の死を悔やみ続けたに違いない。このような西郷に薩摩藩は奄美大島行きを命じた。西郷にとって二度目の島流しであったが、この奄美大島行きは年6石の扶持が付いているので、刑罰としての島流しではない。

 今回の奄美大島行きは、安政の大獄によって西郷にも危険が及ぶため、幕府の目から逃れさせるための処置であった。月照は死去し、薩摩藩は西郷も死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので捕吏は引き上げたのである。西郷は先君の斉彬の無二の寵臣だったため、このような恩情を受けたのである。失意の西郷は菊池源吾と変名して翌年1月、奄美大島へ旅立った。西郷は恥をしのびつつ、偽名で奄美大島で3年間の幽閉生活を送ることになる。


奄美での生活
 奄美大島に着いたばかりの頃、ひたすら木刀を振り地元の人から気味悪がられていた。奄美大島では空家を借り自炊したが、西郷の生活には多くの逸話が残されている。

 当時の奄美大島はサトウキビを栽培する島民に過酷な取り立てが行われていた。島の農家には砂糖の生産が割り当てられ、不作の年であってもノルマを達成出来ない時には厳しい処罰が待っていた。幼い子供がサトウキビをかじるだけで処罰されたほどである。このように自分の畑で栽培したサトウキビでも、農家の人々の口に入ることはなかった。まるで島人は奴隷状態であった。
 西郷が奄美大島にやって来た年、サトウキビが不作であったため、ノルマを達成出来ない農民たちが数多くいた。薩摩藩から派遣された島の役人は、その農民たちに厳しい拷問を加えた。
 西郷はそのような農民たちの窮状に心を痛め、役人の非情なやり方に憤った。西郷は農民たちが拘束されていると聞くと、役人の相良角兵衛に面会を求め、捕えられた農民たちを解放するように頼んだ。
 しかし威張り切って傲慢になっていた相良角兵衛は、西郷の意見を完全に無視した。そのような相良角兵衛の態度に怒った西郷は「おはんが方針を改めんのなら、おいにも考えがごわす。直接藩主に建言書を書き、おはんの日頃の態度も併せて上申するつもりごわすから覚悟しておられよ」と言い席を立った。

 いつの時代でも役人は不始末を上役に報告されるのを嫌い、恐れるものである。驚いた相良は大いに後悔し、態度を豹変して西郷に平謝りすると、捕えた農民たちを解放した。
 西郷は元来優しい性格で、病人や老人に自分の扶持米を分け与え、島民のためあれこれ骨を折ったため、西郷は次第に島民に慕われるようになった。そして西郷は住居のあった龍郷(たつごう)の名家である龍家一族の娘・愛加那(あいかな)と結婚し、菊次郎が誕生した。西郷はここで三年もの間、幸せな新婚生活を過ごすが、激動の時代は西郷を必要としていた。


公武合体運動と島津久光の上京計画
 西郷が奄美大島に身を隠している間、時代は大きく変わろうとしていた。恐慌政治を行なった井伊大老は万延元年3月3日、江戸城桜田門外で水戸藩士の集団に襲われ白昼殺害された。いわゆる「桜田門外の変」である。この事件により幕府は急激に求心力を失うことになる。

 幕府は幕府単独で国政を行うことのは困難と考え、朝廷と幕府が力を合わせて政治を行う「公武合体運動」に力を注ぐようになった。しかし朝廷側が、幕府に諸外国と結んだ条約の破棄を求めたため、幕府の公武合体は当初から困難を極めた。

 混沌とする日本の国政に長州藩士・長井雅楽(うた)という人物が現れ、「航海遠略策」を藩論とし颯爽と国政の場に乗り出してきた。長井雅楽は現在の日本の国難を乗り切るには、国論の統一が必要であると述べ、そのためには朝廷と幕府とが力を合わせて一つになることが重要と論じた。

 さらに、朝廷が要求する諸外国との条約破棄は簡単に出来ることではないこと。鎖国は朝廷が主張するような日本古来からの制度ではないため、今は諸外国に対して積極的に開国・通商して日本は力をつけ、日本の国威を上げていくことが必要で、このことが外国の侮りを受けないことにつながると主張した。
 長井の航海遠略策は理にかなった論策であったため、公武合体運動に行き詰まっていた幕府にとっては、まさに渡りに船であった。また朝廷にとっても現実的な政策であったため「航海遠略策」は京都において一大旋風を巻き起こした。
 長州藩は薩摩藩と共に明治維新を成し遂げる原動力となった藩であるが、長州藩が国政に積極的に乗り出してきたのは、この航海遠略策が初めてであった。西郷不在の薩摩藩は斉彬の死後、忠義が藩主になったが、その忠義の後見人の斉彬の父・斉興が亡くなると、忠義は実父・久光を藩主と同等の待遇にした。
 お由羅騒動で斉興が斉彬ではなく、側室の子の久光を藩主にしたいと考えていたが兄の斉彬が藩主に就任したため、弟の久光は家臣の身分に下っていた。

 久光の子の忠義は親思いの性格だったため、実父を家臣の待遇のままにしておくのは、子として孝道にそむくものとして、久光を藩主同等の待遇とした。久光の息子・忠義が薩摩藩の新しい藩主となったが、久光は「藩主の父」として藩政に、さらには国政にも深く関わってゆくことになる。
 島津久光という人物は、頑固で保守的な性質であるが、堂々としており、国学を中心に学問の造詣も深く慧眼のある賢い人物であった。その久光もまた、長州藩と同様に公武合体を実現させるために国政に乗り出そうとしていた。久光は斉彬が考案し、成し遂げることが出来なかった率兵上京計画を復活し実現させようとした。

西郷の召還
 かつて「お由羅騒動」に巻き込まれ大久保利通の父親は喜界島に島流し、大久保利通も「謹慎」生活を強いられたが、大久保利通は3年後に復職し、1957年には西郷とともに徒目付に就いた。しかし安政の大獄直前に斉彬が死去すると藩政は一変し、新しい藩主の父親である久光(斉彬の異母弟)が実権を握った。
 大久保ら藩内の有志らは尊皇攘夷派の「誠忠組」を結成し、彼らは一斉に脱藩して井伊直弼ら幕府首脳を襲撃しようと計画した。しかし大久保は突出行動を抑えて巧みに久光に接近し、1961年には藩主側近の小納戸役に昇進し、藩の権力中枢に食い込んだ。

 久光は大久保利通らの斉彬派を「誠忠」の士とおだて、「時節到来の際には斉彬の御深意を貫くこと」を約束する。これを契機に、斉彬派は大久保らの妥協派と激派に分裂していく。桜田門外で井伊直弼が暗殺され、幕府の方針は井伊直弼の「幕府の権威回復」から「公武合体」へ移った。各地の激派は明確な倒幕意志を持っていないが「幕府中心ではなく朝廷中心に大改革」、すなわち「公武合体反対」の心情であった。

 久光は大久保との約束どおり斉彬の意志を継ぐべく「出兵東上」を決定した。しかし斉彬の志とは異なり、久光の真意は公武合体による幕藩体制強化であった。つまり幕府を雄藩が補強し、久光は幕府政府の実力大臣になりたかった。そのため「激派」と「久光の真意」は敵対関係にあるが、「久光の真意」を知らない激派は久光上洛と同時に決起すべく血を熱くしていた。久光と大久保は斉彬が遺していった公武合体構想の実現をめざして、藩兵を率いての京都・江戸遠征を計画する。 

 激動の時代へと日本が突入する中、島津久光は公武合体派の藩主として政界を立ち回ろうとしていた。久光の重臣としての地位を確立した大久保利通は久光の率兵上京を実現するには、西郷を奄美大島から召還させるべきと久光に願い出た。この大久保の願いは聞きとげられ、西郷は約3年ぶりに鹿児島の地に戻ることになった。おそらく激派をなだめるために西郷を復帰させたのであろう。

 しかし西郷は大久保の期待とは裏腹に、久光の率兵上京計画に猛烈に反対した。西郷は斉彬が計画した当時とは、政治状況が余りにも違うこと、兵を率いて上京する準備が整っていないこと、軍勢を率いて京都に入れば予期せぬ事態が起きること、斉彬に比べて久光が人物的に劣ることなどを理由に、久光に対し面と向かって反対意見を述べたのである。西郷は中央政局に乗り出す久光をジゴロ(薩摩言葉で田舎者)と批判したのである。
 西郷にとっては憎き久光であり、久光にとっても西郷を快く思うはずがなかった。颯爽と国政に乗り出そうとしていたのを、あからさまに反対されたのだから、久光と西郷の長く深い確執が始まることになる。

 西郷の召還をはかった大久保は、予想外の西郷の態度に戸惑ったが、根気よく西郷を口説き落とし、久光の上京計画への協力を求めた。上京計画に邁進する大久保の態度に、西郷は「おはんがそこまで考えておるのなら、一緒に気張ってやりもんそ」と、大久保に協力することを了承した。

 

久光上京

 久光は出発する約1ヶ月前に「肥後の形勢を視察し、下関にて行列の到着を待て」と西郷に命じ、村田新八と共に薩摩から先発させた。
 西郷が下関に入ると、西郷の予期した憂いは的中した。久光や藩の重臣たちが考えている以上に、情勢は激しく揺れ動いていた。久光が実行しようとしている率兵上京計画を、薩摩が武力を背景に倒幕に踏み切ったと勘違いされ、全国の脱藩浪士や薩摩藩内の急進派藩士らが京都・大坂に集結して不穏な動きを見せようとしていた。
 久光は保守的な人物で、大きな変革を望まなかった。久光の頭の中には幕府を武力で倒すという考えは毛頭なく、その志は朝廷と幕府の間を取り持つ公武合体であった。緊迫する京都・大坂の状況を聞いた西郷は、このまま久光の行列が入京すれば、予期せぬ事態が起こるかもしれないと考え、下関で待てとの命令を無視して急遽大坂へ向かった。

 大坂に到着した西郷は、騒ぎ立てる浪士たちに軽挙妄動は慎むべしと戒め、自分の統制に従うことを約束させ、騒動の鎮静化に尽力した。しかし下関に到着した久光は、自分の命令を無視して勝手に行動した西郷に激怒し、西郷を捕縛する命令を下した。これを知った大久保は、西郷を兵庫須磨の浜辺に呼び出し西郷に言った。
   「久光公のお怒りは尋常ではごわはん。もしかすると、吉之助さあに切腹を命じるやもしれもはん。こげな事態になったのは、おいにも大きな責任がごわす。吉之助さあだけを死なすわけにはいきもはん。おいも一緒に死にもす。吉之助さあ、おいと一緒に刺し違えてくいやんせ」
 大久保は本気だった。大久保の瞳は大きな決意があった。しかし西郷は大きく首を横に振り言った。
 「今、おいとおはんの二人が死んだら、薩摩藩の今後はどげんなりもすか。天下のことはどげんなりもすか。死ぬ時は、いつでも死ねもんそ。男が黙って歯を食いしばり、恥を忍んで気張らんといかんのは、こん今でごわすぞ」その西郷の言葉に大久保はようやく改心した。
 大久保は西郷を自分の宿舎に連れて行き、久光に対して西郷が謹慎していることを伝えた。このように西郷はどんな困難な場面に遭遇したとしても、決して自ら命を絶つようなことなかったが、それは若き日に月照と共に投身自殺をはかったにもかかわらず、自分だけ生き残った経験からくる天命を信じるものであった。

 

寺田屋騒動から八月十八日の政変まで
寺田屋騒動     

 西郷は「激派と暴発を企てた」として久光の激怒を買い、今度は徳之島へ流されることになる。自由の身はわずか3ヵ月で終わった。
 西郷が捕縛され久光の命令で薩摩に送還されると、久光の行列は威風堂々と京の都に入った。西郷という統制者を失った京都・大坂の浪士、さらには有馬新七を中心とした薩摩藩の急進派藩士は、久光の入京を機に倒幕の先鋒として兵を挙げることを計画し、京都伏見の船宿「寺田屋」に集結していた。
 久光は堂々と国政に乗り出してきたのに、浪士や下級藩士らが自分の計画をぶち壊すような行動を取ることを不快に感じていた。後先を考えない過激な者たちの行動によって自分の壮大な計画を邪魔されたくなかった。
 また朝廷も過激な浪士たちが不穏な動きを見せていることを憂慮し、朝廷は久光に対し過激浪士の鎮圧を命じた。浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、1862年4月23日、倒幕を計画した薩摩藩士らが集結する寺田屋に、大山格之助(綱良)や奈良原喜八郎といった、いずれも武術に優れた藩士9名を送り、久光はこの9名の藩士に「寺田屋に居る連中が、自分の命令に従わない時は、臨機の処置を取れ」と厳命した。
 つまり刃向った場合、上意討ちにしても構わないということであった。寺田屋に集結していたのは、有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮助といった薩摩藩士が中心であったが、久光の派遣したのは同じ誠忠組の同志であった。寺田屋に着いた大山ら9名の鎮撫士は、寺田屋にいる有馬たちに「軽挙な行動は慎むように」と久光の命令を告げた。
 しかし有馬は「事ここに至っては、もはや中止は出来もはん」と、久光の命令を拒否したのである。それを聞いた大山らは「君命でごわす」と叫び、有馬らに斬りかかった。ここに寺田屋の惨劇が起きた。大山ら鎮撫士は、いずれも剣術に長けた藩士だったので、寺田屋にいた者は次々に斬り倒され生き地獄さながらになった。
 特に首領格であった有馬新七の最後は壮絶を極めた。有馬は鎮撫士の一人である道島五郎兵と斬り合いになり、道島を室内の壁に押し付け、その上に自分が覆いかぶさり、同志の橋口吉之丞(きちのじょう)に 「おい自分ごと突け おいごと刺せ」と絶叫した。
 有馬の絶叫を聞いた橋口吉之丞は、気合いをかけ、有馬と道島を同時に刀で突き刺した。何という壮絶なことであろうか。想像するだけでも悲惨極まりない光景であった。上洛した久光は激派を寺田屋で惨殺したのだ。
 寺田屋に集結していた浪士たちは、有馬以下6名が死亡、2名が重傷を負い、鎮撫士側は有馬と共に橋口に突き刺された道島が死亡した。西郷はこの寺田屋事件を護送の途中で知ることになる。西郷は久光を「勤皇芝居」と悲憤した。
 また寺田屋に集結していた20数名の薩摩藩士たちは、大山らの熱心な説得により、倒幕のための挙兵を断念して薩摩藩邸に出頭した。久光は「公武合体」のための幕政改革を朝廷に上申する一方、「浪士鎮撫」の勅命を受けて伏見の寺田屋に集合していた急進派の薩摩藩士らを殺害した。この久光の取った迅速な鎮圧行動に対し朝廷は久光に絶大な信頼を持つことになる。このように薩摩藩の若者たちが斬り合った寺田屋騒動があったことから、久光は朝廷で信頼を得るという悲惨かつ皮肉な出来事になった。大久保は一橋慶喜を将軍後見職に任ずる勅命を得るため朝廷の実力者・岩倉具視を訪ねる。のちに明治国家の中枢をなす岩倉―大久保ラインは、この時の初対面に始まる。

 なお間違いやすいが、寺田屋事件とは今回の1862年の薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件と、1866年に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件の2つがある。さらに近江屋事件とは1867年12月10日に坂本龍馬と中岡慎太郎、山田藤吉の3人が京都河原町近江屋井口新助邸において暗殺された事件をいうので混同しやすい。

沖永良部島遠島
    その頃、久光の逆鱗に触れ、薩摩へ送還された西郷は、藩から徳之島への遠島を申し付けられた。これが西郷にとって初めての罪としての遠島となる。鹿児島では弟たちが遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家の知行・家財は没収され、最悪の状態に追い込まれていた。

 徳之島への来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れた。久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届いた。
     西郷は徳之島から沖永良部島へと遠島替えを命じられたが、沖永良部島での西郷の遠島生活は峻烈を極めた。西郷は昼夜囲いのある牢屋の中に閉じ込められ、牢は風雨にさらされ、常に番人二人に見張られる生活を強いられた。
    沖永良部島は本土よりも沖縄に近く、高温多湿で雨量も多い島である。吹きざらし、雨ざらしに等しい獄舎での生活は、まさに西郷に死ねと言わんばかりの処罰であった。久光はそれほど西郷のことを憎んでいたのである。
 西郷は獄舎の中で三度の食事以外は水や食料もろくに口にせず、常に端坐し読書や瞑想を続けた。このような過酷な生活を続けていた西郷は、日増しに痩せ細り、次第に体力も限界へと近づいていった。しかし土持政照が代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ってくれたのでそこに移り住み健康を取り戻した。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている。また土持政照と一緒に酒を飲んでいる様子がこの島のサイサイ節という民謡に歌われている。

生麦事件と天誅の嵐
 沖永良部島で西郷が過酷な苦難を強いられていたころ、島津久光は朝廷より念願の幕政改革の勅許を得ることに成功した。勅使である公家の大原重徳を護衛して、1862年6月7日、威風堂々と幕府の本拠地である江戸に入った。勅使の大原は第14代将軍・徳川家茂に幕政改革の朝旨を伝え、久光としては初志を貫徹して満足であった。
 ところがその帰路の8月21日、目的を果たした久光の行列が江戸から引き上げる際、東海道生麦村(横浜)において、日本を揺るがす大事件が起きた。
 久光の行列に4人のイギリス人が馬で乗り入れ、行列を横切ろうとしたため、薩摩藩士・奈良原幸五郎は「無礼者」と一喝して腰の刀を引き抜き、イギリス人の一行に斬りかかり刀で斬られ一人が死亡した。これが「生麦事件」である。
 このように大きな事件を起こしながらも、久光は8月7日、意気揚々と京都に帰着した。久光としては幕府に対する幕政改革の要求に成功し、朝廷の覚えも目出度く、その首尾は上々であった。しかし京都における久光の評判は芳しいものではなかった。天皇や上流公家たちの間では久光の評判は高かったが、下級公家、志士、浪士、他藩士らの評判が良くなかった。
 長州藩士の長井雅楽が「航海遠略策」で国政に乗り出したが、この論策は久光が兵を率いて上京したことにより評判がガタ落ちになった。これは長井の策が「幕主朝従」の幕府主導型の公武合体策と思われ、久光は幕倒幕に踏み切るものと期待されていたのに公武合体策だったからである。

 このように久光が上洛した際、倒幕が成ると考えた人々は多くいたが、久光が入京し最初に行ったのが寺田屋での倒幕派の鎮圧という、久光に倒幕を期待した人々からは理解しがたい行動であった。またその後の久光の動きを見ても、長井の行動と変わりを見せなかったため、志士の間では久光の評判は下がっていった。
 長井雅楽は藩のために努力したが、航海遠略策のために切腹を命じられた。長州藩内の松下村塾出身のメンバーを中心とする下級藩士らが、長井の排斥を目論み、久光の上京により評判の落ちた航海遠略策の責任を追及して長井を切腹に追い込んだのである。長州藩は航海遠略策は長井が勝手に述べただけで、藩は無関係といった。長井という人物は悲劇的な人だと感じられる。
 また長井の航海遠略策を引っ込めた長州藩は、その後、藩論を180度展開させ、最も過激な「尊王攘夷論」を藩論に定めた。尊皇攘夷とは「天皇を尊び、外国をはらう」というものであった。長州藩の急進派藩士たちは、下級公家相手に過激な尊皇攘夷論を吹聴し、これが大きな勢いを持ち始めたのである。
 このように京の都は大きな情勢の変化が生じ、久光の主唱する公武合体論は古い産物に成り果てようとしていた。わざわざ薩摩から京都に出てきて、公武合体論を展開した久光としては、そのような長州藩の過激な行動に対し、歯噛みする思いだった。しかし久光はこのまま京都に留まり、この政治情勢をひっくり返す余裕はなかった。生麦事件の報復として、イギリス艦隊が薩摩に襲来するという噂が流れたからである。久光としてはイギリスの報復行動に対する準備を整えるためにも、帰国せざるを得なかった。
 また久光が帰国した後の京都の町は、いわゆるテロリズムの嵐が吹き荒れた。安政の大獄で幕府の手先として働いた者や、尊王攘夷に反対して「開国論」を唱えた者、攘夷の実行に邪魔になるとされた者たちが、次々と暗殺されたのである。まさにこの時期は、幕末の中でも最も凄惨で暗黒の時期であった。

薩英戦争と八月十八日の政変
 1863年7月2日、横浜から鹿児島の錦江湾に集結したイギリス艦隊7隻と薩摩藩との間で激しい砲撃戦が繰り広げられた。世に言う「薩英戦争」である。
 イギリス側は薩摩藩に「生麦事件」の犯人の引き渡しと賠償金を要求したが、薩摩藩側はこれを拒否したため戦端が開かれた。イギリス艦隊は鹿児島城下に向かって激しい艦砲射撃を加え薩摩藩側は海岸沿いに築いた砲台から応戦した。アームストロング砲を備えたイギリスの最新鋭軍艦に対し、薩摩藩は旧式の武装でありながらも勇猛果敢に反撃した。その結果、薩摩の戦死者が5名であったのに対し、イギリス側の戦死者は13名にものぼり、旗艦・ユーリアラス号のジョスリング艦長が戦死するという損害を受けた。
 しかしイギリス艦隊の砲撃により、薩摩藩は斉彬が築いた工場群や広範囲の城下町を焼失する被害を受け、イギリス海軍の強大な力を思い知らされることになる。薩英戦争で活躍した旧精忠組の発言力の増大、守旧派の失脚、京での薩摩藩の世評の悪化など、薩摩藩は大きく揺れうごいた。公武合体に動く人材の不足が最大の問題であった。

 大久保はイギリスから要求された賠償金問題の解決にあたり、幕府老中の屋敷に薩摩藩士を差し向け、「貸してもらえぬならイギリス公使を斬り、自分たちも切腹する」と言わせて老中を脅し、7万両を工面した。大久保は63年3月家老に次ぐポストの側役・小納戸頭取兼任に異例の昇格をする。

 薩英戦争以降、大きく揺れうごく薩摩藩は藩論を大きく展開して、イギリスから軍艦や武器を購入し、留学生を派遣し紡績機械などの機器類を輸入するなど、親イギリス政策を取り両者は急激に親しくなっていく。

 

尊王攘夷

 薩摩藩がイギリスと激しい砲撃戦を行っていた時期、京都では長州藩の勢いは益々盛んになり、長州藩の藩論が航海遠略策から尊王攘夷論に変化し、長州藩の急進派の藩士らは盛んに公家たちに尊王攘夷論を吹聴し、京都の朝廷における長州藩の台頭は著しいものがあった。
 またそれに勢いを得た長州急進派の藩士らは、1863年3月に加茂神社、4月には男山八幡宮に攘夷祈願のために天皇を行幸させ、思うがままに朝廷を操る状況が続いた。
 このような長州藩の暴走を京都守護職の要職にあった松平容保(かたもり)を藩主とする会津藩は苦々しく見つめていた。会津藩主・松平容保は、前年8月、幕府より「京都守護職」を拝命し、12月に藩兵約千人を引き連れて京の都に入っていた。京都では天誅と称したテロリズムの嵐が吹き荒れていて、容保は憤りもしたが長州や土佐の過激派集団の背後には同様な過激論の公家たちがいたため、容保は容易には手を出せなかった。容保は京都守護職に赴任しながら、長州藩の横暴を食い止めることが出来ないことに歯噛みする思いで毎日を過ごしていた。
 また薩摩藩は島津久光が国政を握るべく、薩摩からわざわざ兵を率いて京都に入り、江戸に下向して幕府に改革を迫ることに成功したが、いざ京都に帰ると自分の功績が吹き飛ぶかのように、京都の町は長州藩の尊皇攘夷論が盛んになっていた。久光としては折角の努力が長州藩のために水泡に帰したに等しかったため長州藩憎しという感情が芽生えていた。
   その結果、会津藩と薩摩藩はお互いの利害関係が一致し、お互いに接近して手を握るという前代未聞の事が起きた。1863年8月18日未明、薩摩・会津藩の兵が俄かに動き出し武装して御所の門を固めた。公武合体論者であった公家の中川宮朝彦親王は急遽御所に参内し、天皇から急進派公卿の三条実美ら7名の免職の勅許を得た。またそれと同時に長州藩は御所の堺町御門の守衛を免じられた。三条実美ら7名の公卿と長州藩士らは、都から一掃され都落ちせざるを得なくなった。
  この会津と薩摩による長州藩追い落としのクーデターを「八月十八日の政変」とよび、三条実美ら7名の公卿の都落ちを「七卿落ち」といった。

西郷赦免から第一次長州征伐まで
西郷赦免
 薩摩藩は会津藩と手を結び「八月十八日の政変」を起こすことによって、京都における藩の勢力の回復を目論んだが、実際には逆効果になった。会津藩と結んだことによる効果は少なく、逆に勤王藩と思われていた薩摩藩が幕府側の会津藩と同盟したことからその評判を落とす結果となった。

 また会津藩と同盟して以後の薩摩藩は、参預会議という有力な諸大名が朝議や幕議に参加するための新たな政治制度を提唱し、それを軸にした政治体制を模索するが、将軍後見職であった一橋慶喜の策謀により制度自体が形骸化して、薩摩藩首脳部はそれを打開できなかった。公武合体派といっても天皇のもとに賢侯を集めての中央集権を目指す薩摩藩の思惑と、将軍中心の中央集権をめざす幕府の思惑は違っていた。政治的に行き詰まった薩摩藩内に「この危機を救えるのは西郷吉之助しかいない」という声が高まった。
 先頭に立って西郷赦免の運動を起こしたのは、寺田屋騒動の生き残りである柴山竜五郎、三島源兵衛、福山清蔵などの西郷と縁の深い3人だった。彼らは協議した後、大久保や家老の小松帯刀(こまつたてわき)などの重臣たちに、西郷の赦免を久光に願い出るよう頼むことにした。
 しかし重臣の誰もが「久光の西郷嫌い」を知っていたので、三人の依頼になかなか首を縦に振らなかった。そんな事を進言すれば自分たちの立場も危なくなる、重臣たちはそのように考えたのである。そこで三人は、久光のお気に入りの家臣である高崎左太郎と高崎五六の二人に西郷赦免を願い出てもらうように頼んだ。高崎両名は、三人の熱意に心を動かされ、死を決して久光に西郷赦免を申し出た。
 「西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、この場で割腹つかまつる所存でございもす」この願い出を聞いた久光は、苦々しい表情を浮かべながら、次のように言った。「左右みな西郷のことを賢なりと言うか、しからば即ち愚昧の久光一人これをさえぎるのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てよ。太守公が良いと言われるのなら、わしに異存はない」久光はそう言うと、くわえていた銀のキセルを歯でギュッと力強く噛み締めた。その銀のキセルには久光の歯型が残っていたと後世伝えられている。

 この伝承をもってしても、久光がどれほど西郷の赦免を嫌がっていたのかが分かる。ただ久光としても、薩摩藩の今後を考えると、西郷のように人望や手腕において右に出るものがいない者をこのまま南島に朽ち果てさせて置くということが出来なかった。久光は渋々ながらも西郷の赦免を了承した。こうして沖永良部島にいた西郷の元に、赦免の使者が到着した。1864年2月21日のことであった。

西郷の着京と蛤御門の変
 1864年2月28日、西郷は約1年8ヶ月ぶりに鹿児島に戻った。鹿児島に帰った西郷は斉彬の墓参をすると、席の暖まる暇もなく京都へ呼び出され、久光より「軍賦役兼諸藩応接係」に任命された。軍賦役とは軍事司令官のようなもので、諸藩応接係は外交官のような役職である。この時から西郷の縦横無尽な活躍が始まる。
 西郷が京都に入り、最初に手掛けたのは、前年の「八月十八日の政変」で同盟した会津藩と手を切ることであった。確固とした方策を持たず、長州藩を追い落とすために会津藩と手を結んだしわ寄せが、薩摩藩の現状を悪化させていると考え、会津藩と一定の距離を保つために、薩会同盟に関係した者を薩摩に帰国させ、京都での薩摩藩の信頼回復に努めた。
 「八月十八日の政変」で京都から追放された長州藩は、同年の新選組が尊攘派の7名の志士たちを殺害した「池田屋事件」に激昂した長州藩内の急進派の志士たちが京都での勢力回復を謀り、福原越後ら3人の家老を将として京都に向けて大軍を送ってきた。
 長州藩兵は伏見、嵯峨、山崎といった京都周辺に陣を構え、いつでも攻撃できる準備を整えた。この事態を憂慮した京都守護職の会津藩主・松平容保は、万一に備え薩摩藩に出兵を要求したが、西郷は「池田屋事件は、会津と長州藩との私闘である」と出兵を拒否し薩摩藩は御所の周辺を守る方針を立てた。
 1864年7月18日夜、ついに痺れを切らした長州藩兵が動き出し、御所の蛤御門を中心に攻めかかった。積りに積もった恨みを晴らすが如く、長州藩兵の勢いは凄まじく、会津藩兵を蹴散らし長州勢は御所内に迫る勢いを見せた。
 この状況を知った西郷は、自ら薩摩藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げた。西郷自身も流れ弾が足にあたり落馬して負傷るほどの激戦となったが、西郷は藩兵を上手く使いこなし見事に長州勢を退けた。これが「蛤御門の変」「禁門の変」である。

勝海舟との出会い
 1864年9月11日、越前福井藩の堤正誼(まさよし)と青山貞の二人が、突然西郷の元を訪ねてきた。二人は西郷に「今、大坂に幕臣の勝海舟という人物がいるのだが、勝は幕臣中一廉の人物なので、是非面会なさった方がよい」と進言した。西郷はその話を聞き、早速勝に面会を申し込んだ。勝はその申し出を快く受け入れ、ここに薩摩と幕府の英雄が顔を合せた。
 勝はその席上、ざっくばらんに幕府の内情や、現在の国内情勢や諸問題について西郷と語りあった。
 西郷はその時の勝との対面を、手紙の中に次のように書いている。
 「勝氏と初めて面会したが、実に驚くような人物であった。最初はやっつけるつもりで会ったが、実際会ってみると、ほんとうに頭が下がる思いになった。勝にはどれだけの知略があるのか、まったく分からないほどです」西郷がいかに勝の人物を認めたのかがよく分かると思う。それが後年、江戸無血開城の大立者となった勝と西郷の最初の出会いである。

第一次長州征伐と五卿動座
 蛤御門の変で長州藩を撃退し自信を深めた幕府は、その勢いに乗じて、これを機に長州藩を討伐しようと考えた。1864年7月23日、幕府は早くも長州藩追討の勅命を朝廷から得て、在京の21藩に長州への出兵命令を下した。西郷も薩摩藩の代表として、征長軍の参謀に任命され長州に向かうことになった。征長軍の総督は尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)であった。慶勝は征長についての見込みや意見を西郷に求めると、西郷は長州征伐のような国内の内戦は無意味であると述べ、武力を使わずに恭順させるのが一番の良策と進言した。
 西郷の頭の中には、幕府が考えるように長州藩を潰すという了見は無かった。徳川慶勝は西郷の意見を聞きいれ、西郷に征長に関わる一切の工作を委任した。慶勝の委任を受けた西郷は、急遽岩国へと向かい、長州藩の支藩であった岩国藩主・吉川監物(けんもつ)と会談し無意味な抵抗は愚策であると論じた。
1.蛤御門の変の首謀者である3人の家老と4人の参謀の処罰を徹底し恭順の意を示すこと。
2.八月十八日の政変で長州に落ち延びた5卿(7卿のうち1人は既に病死し、1人は行方不明になっていた)を他藩に移すこと。
 この条件を守るならば、西郷自身が征長軍を解兵させると約束した。吉川は西郷の進言を快く受け入れ、長州藩に西郷が提示した条件を遂行するように働きかけた。その結果、長州藩は蛤御門の変の首謀者である3家老を切腹させ、4参謀の斬罪を行い恭順の態度を示した。
 しかし5卿の移転に関しては長州藩内で事態が紛糾した。長州藩が匿っていた三条実美以下の5卿は、長州藩が勤王藩として働いていた証拠であり、その象徴でもあったからである。5卿を他に引き渡すという条件に長州藩士らは激昂した。特にその前年、高杉晋作によって結成された奇兵隊を中心とした諸隊と呼ばれる十数の部隊は強行に反対した。
 武力を使うことなく、長州処分を行うことが出来ると考えていた西郷にとって、この諸隊の行動は平和的解決をふいにしかねないものであった。5卿の動座を拒否することは、幕府に反抗の意を表明する形になる。武力での討伐を進める幕府に対し、出兵の名目を与えかねないと考えた。
 そこで西郷は思い切った行動に出た。自らが下関の諸隊の本部へと乗り込み、5卿の動座に関して諸隊の幹部らと直談判しようとしたのである。当時の長州藩士の間には、八月十八日の政変や蛤御門の変での恨みが骨髄にまでしみわたっていて、薩摩・会津を憎むものが多く、下駄の裏側に「薩賊会奸(さつぞくかいかん)」と書いて歩く者がいたほどであった。
 また過激な長州藩士らは「関門海峡は薩摩にとって三途の川だ。渡れるものなら渡ってみろ。薩摩藩士と判ったら、討ち伏せてくれよう」とまで放言し、長州は薩摩人にとってまさに死地に等しい場所と言えた。特に諸藩の幹部連中には過激な論を吐く者が多かったため、その諸隊本部に行くことは、まさに死に行くようなものであった。しかし西郷はその死地に自らが入ることにより事態を改善しようとした。この西郷の行動はまさに「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」の故事を実践するようなものだった。
 長州藩諸隊の幹部連中は、薩摩藩を代表し征長軍の参謀である西郷が突然訪問してきたことに驚いたことであろう。西郷は諸隊の幹部らに対し、現在の日本の置かれた状況を考えれば、内戦を起こしているような場合ではないことを説き、また五卿の身の安全を保障し、5卿動座による早急な征長軍の解兵こそが、薩長双方、日本にとっても有意義であると述べた。この西郷の熱心な説得により、諸隊の幹部らは5卿を動座させることを承知した。
 この5卿動座の決定により、征長軍総督・徳川慶勝は征討諸軍に解兵を命じた。第一次長州征伐の平和的な解決は西郷の死を賭した働きによるものだった。
 このやり方を見ても分かるように、紛糾した事態を解決の方向へと導く西郷のやり方は、自らを死地において解決が生まれるという独特のものである。非常に強引で専断的な方法であるが、これは西郷の生涯を通じての手法であり、考え方であった。西郷の行動は独断でことを進める、少し強引なやり方だった。
 この五卿動座のやり方を見ても分かるように、紛糾した事態を解決の方向へと導く西郷のやり方は、自らを死地においてこそ、解決が生まれるという独特のものであることが分かる。話は少しそれるが、後々にも関係のあることですので、一つだけ付け加える。いわゆる「征韓論」と言われるもの自体もこの手口に準拠しているものと思われる。「征韓論」という武力で朝鮮を攻めようなどという暴論を西郷が公式な席上で唱えたことは一度もなく、逆に朝鮮を武力で攻めることに反対する主張を行ったくらいである。
  西郷はまず日朝間のこじれた関係を正常に戻すべく、自らが全権大使として朝鮮に渡り、事態の収拾にあたろうと考えていた。 「死地に入ってこそ、道が開ける」この西郷の独善的とも言える独特の手法の真意を世間は誤解し、「征韓論」などという虚像を作り出す結果になってしまったものと、私はそう考えているのです。

薩長同盟から大政奉還まで
薩長同盟
 長州藩が蛤御門の変の首謀者を処罰し、さらに五卿を動座させるなど、恭順の意を示したとはいえ、幕府にとって、西郷や徳川慶勝が下した処分は、余りにも軽いものと感じられた。これは幕府の一種驕りとも言えるが、幕府はまたもや諸藩に対し長州再征の準備を進めるよう命じたのです。
 長州が恭順の意を示しているにもかかわらず、さらに再征を行なおうとする幕府に対し、西郷は大きな憤りを感じ、「長州再征は幕府と長州の私闘であるため、出兵は拒否する」という方針で藩論をまとめ上げました。
 また、当時、このような幕府の傲慢なやり方に不満を持っていた土佐藩士の土方楠左衛門(ひじかたくすざえもん。後の久元)と同藩士の中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の二人は、これを機に仲違いしている薩摩と長州の手を握らせようと考えました。
 土方と中岡は同じ土佐藩士の坂本龍馬にも協力を求め、三人は薩長同盟に向けて動き出した。中岡は長州藩のリーダー的存在であった桂小五郎(木戸孝允)に対し、薩長融和に向けての説得を開始した。
 また土方は薩摩憎しで凝り固まっている長州藩諸隊の幹部の説得を始め、龍馬は西郷を始めとする薩摩藩の重臣らに対し、薩長同盟の必要性を説いた。
 幕府の再征が目前に迫っており、長州にとっても薩摩との同盟は「渡りに船」だったが、これまでの経緯を考えると、薩摩へのわだかまりを拭えなかった。八月十八日の政変や蛤御門の変での経験が、長州藩をして薩摩藩との同盟に二の足を踏ませたのである。西郷は薩長同盟の必要性は感じていながらも、薩摩にいる島津久光は、以前から長州に対して悪感情を持っていたため、西郷の独断では同盟に踏み切ることが困難であった。
 このように薩長同盟への道は、当初から困難を極めていた。ここで坂本龍馬は一計を講じた。龍馬は自らが設立した「亀山社中」が薩摩と長州との間に入り、薩摩藩名義で外国から買った武器を長州藩に売ることを考えたのである。
 諸外国の貿易商は長州藩に武器を売ることを幕府から禁止されていた。そのため長州藩は幕府との戦いに備えてえるために、小銃や大砲といった兵器を外国から買い揃えることが出来なかった。そのため龍馬が仲介役として、薩摩名義で買った武器を長州に横流しすることで、長州藩のわだかまりを払拭しようとしたのである。
 坂本、土方、中岡の不断の努力が実を結び、京都において長州藩の代表・桂小五郎と西郷を中心とした薩摩藩首脳部との会見が催されることになった。しかし長年いがみ合ってきた両藩の確執はそう簡単ではなく、双方とも盟締結の話を切り出そうとはしなかった。
 そのような状態で同盟締結を見届けるべく、坂本龍馬が京都に入って来た。龍馬はお互いが牽制し合うことで、同盟がまだ締結されていないことに驚き憤った。龍馬は西郷に言った。
  「西郷さん、桂はあっしにこう言いよりました。長州藩が滅亡すれども、薩摩がその後を継いでくれれば本望であると。桂もこれだけ日本のことを考えとるがぜよ。西郷さんここはお互いの面子を捨て、薩摩から長州に同盟を申し込んでくれんか。これは長州藩のために頼むがじゃない。今後の日本の将来を考えてのことぜよ」
 西郷は龍馬の言葉に心を動かされ、家老の小松帯刀と相談、許可を得た上で、ついにようやく薩摩藩から長州藩に対し同盟を申し込んだ。こうして1866年1月21日、坂本龍馬立会いの元、「薩長同盟」が締結された。

第二次長州征伐
 薩摩藩と長州藩が密かに同盟を結んでいるを知らない幕府は、長州藩を徹底的に討伐するべく、長州再征の命令を諸藩に対し下した。これを聞いた西郷は、幕府の失墜を痛感し、自ら筆を取って長州再征に反対する拒絶書を幕府に提出した。幕府は薩摩の出兵拒否に驚いたが、ここまで来て後には引けず、強引に長州に攻め込んだ。
 しかし、幕府軍はことごとく長州藩に叩きのめされ敗戦を喫しました。幕府軍の敗戦は、坂本龍馬の斡旋で手にした外国からの新式の兵器を長州藩が効果的に使ったこともあるが、薩摩藩や芸州藩などの有力諸藩が征長軍に参戦しなかったことから幕府軍の士気が上がらなかったことにある。
 このように幕府軍が各地で連敗する中、江戸から大坂城に入り、戦況を見守っていた第14代将軍・徳川家茂が突然病死した。幕府は将軍の死により長州征伐の休戦命令を出すに至った。

大政奉還と討幕の密勅
 将軍・家茂の死後に将軍職に就いたのは一橋慶喜(後の徳川慶喜)であった。西郷はかつて斉彬の命で一橋慶喜を将軍継嗣にするよう働いていたことがあったが、その慶喜が今度は西郷の敵となり、その後立ちはだかることになる歴史とは不思議な巡り合わせである。
 1867年5月、西郷は、薩摩、越前福井、土佐、宇和島といった政治的に力を持っていた四藩に、国政のイニシアチブを握らせるべく、合議によって政治を運営する「雄藩連合会議」を京都において開催することに成功した。西郷はこの雄藩連合に全てを賭けていたが、四藩はそれぞれの思惑や利害関係が一致せず、将軍・徳川慶喜の巧みな政略により、会議は不成功に終わってしまう。この雄藩会議の失敗により、西郷は日本の変革を成し遂げるには、幕府を倒し、新しい政体を築くしかないという考えに至る。
 雄藩連合会議(四侯会議)の失敗後、西郷や大久保は、武力での倒幕への準備を着々と進めるが、土佐藩は政権を幕府から朝廷に返還させる「大政奉還」を推進する。その運動の中心人物は、土佐藩の重臣後藤象二郎と坂本龍馬であった。
 薩摩藩は土佐藩の動きを容認したが、武力倒幕に向けての用意を独自で進め、1867年9月18日、薩摩藩の大久保一蔵は長州藩主の毛利敬親と面会し薩長は互いに出兵盟約を結んだ。
 また大久保は朝廷より「討幕の密勅」を降下を願うべく、公家の岩倉具視と共に運動を続けた。その結果、同年10月14日、薩摩藩と長州藩に対して朝廷から「討幕の密勅」が降下されたのである。
 しかしこの動きを事前に察知した将軍・徳川慶喜は、幕府が自ら進んで朝廷に政権を返還すれば、薩長の倒幕の大義名分がなくなると考え、土佐藩の建白を受け入れ大政奉還に踏み切った。この慶喜の思い切った行動は、朝廷や薩摩、長州藩に大きな衝撃を与えました。

王政復古から江戸無血開城まで
王政復古と小御所会議
 将軍・徳川慶喜の大政奉還により、日本の政権は幕府から朝廷へと返還されたが、江戸幕府開府以来、政治上の運営を全て幕府に任せてきた朝廷は、単独で政治を行うことは不可能に近かった。朝廷は既に有名無実になっており、慶喜からの突然の政権返上に対してその対応に困ったのである。
 天皇や公家たちには政治を運営する能力や事務処理能力などあるはずもなかった。慶喜はこのことを計算に入れ、それが大政奉還に踏み切った理由でもあったとされる。
 「朝廷に政治を運営する能力はないのだから、幕府が政権を返上しても、結局、朝廷はその処置に困り、また幕府に政権を委任するだろう」との慶喜の見狙いがあった。その慶喜の策略は的中し、朝廷では取りあえず政権をもう一度幕府に委任してはどうかという論も出てきた。
 西郷はこの朝廷の動揺を押さえると共に、大久保と協力して朝廷を中心とした新政府の樹立を画策した。1867年12月9日、西郷が薩摩藩兵を指揮し御所の宮門を固め、「王政復古の大号令」が煥発された。その内容は幕府、摂政、関白を廃止し、総裁・議定・参与の三職を設置して新たに国政を運営するというものであった。これが幕府に変わる新しい政府の発足である。しかしながらこの王政復古は形だけのものであり、依然として慶喜は幕府の強大な軍事力と領地を所有していた。
 西郷や大久保にとっては、何としても幕府の権力を奪わなくては、新しい政権の樹立にはつながらないと考え、王政復古の大号令が出たその日の夜、御所内の小御所に、当時まだ15歳であった明治天皇の親臨のもと、諸藩の藩主や公家たちが集まり御前会議が開かれ。小御所会議である。
 小御所会議において岩倉具視ら反幕府公卿らは慶喜に対し、官職を辞職し、領地を返納を求めることを決議しようとしたが、前土佐藩主・山内容堂がそれに反対し、越前福井藩主・松平春嶽も反対した。容堂と春嶽の主張に対し、岩倉具視が再度反論するなど小御所での会議は紛糾した。
 小御所会議の真っ最中、西郷は会議を大久保に任せ、自らは薩摩藩兵を率いて御所周辺の警衛と兵隊の指揮にあたっていた。
 小御所会議で議論がもつれ休憩が設けられると、会議に出席していた薩摩藩の重臣・岩下佐次右衛門は、西郷を呼び出し会議が紛糾していることを告げ助言を求めた。岩倉もまたその席に来て西郷に意見を求めると、西郷は「そいは短刀一本で用は足りもす」といった。「相手を刺すほどの覚悟を持ってすれば、事は自然と開ける」という意味であるが、西郷は会議に臨む心構えを岩倉に説いたのである。
 この西郷の言葉に勇気づけられた岩倉は、山内容堂と刺し違っても「慶喜の辞官・納地を成し遂げる」と周囲の者に言い放った。この岩倉の決心を聞いた土佐藩の後藤象次郎は驚き、主君である山内容堂に対し、土佐藩がここまで幕府に肩を持つ義理はないと進言し、これ以上岩倉らに反対することは土佐藩にとっても良策ではないといった。山内容堂は後藤の進言に歯噛みしながらも同意し、再開された会議において沈黙を守った。これにより慶喜に辞官・納地を求めることが決定された。

鳥羽・伏見の戦い
 小御所会議の開催中、徳川慶喜は軍勢を従えて、御所近くの二条城に滞在していた。そこへ松平春嶽から小御所会議の結果がもたらされ、それを聞いた慶喜は「このまま軍勢を京都に留めておくことは危険である」と大坂城に退くことに決めました。辞官・納地という、理不尽な処分とも言える命令を知った幕府兵が激昂したが、京都で薩長兵と衝突すれば朝敵の汚名をかぶせられるかもしれないと慶喜は危惧したのでである。
 このような慶喜の冷静な判断とは裏腹に、江戸では庄内藩を中心とした幕府兵が、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにする事件が起きた。慶喜が薩長との無用な争いを避けようとしたにもかかわらず、江戸ではその意を汲み取れない者たちが勝手な行動を起こしたことは慶喜にとって痛手となった。
 江戸での薩摩藩邸の焼き討ちを知った大坂城内の幕府兵は、士気大いに盛り上がり、薩長討つべしに火が付き、とうとう慶喜はその兵の勢いを押さえることが出来なくなった。
 慶喜にも薩長憎しの感情はあったが、慶喜は兵の士気が大いに上がるのを見て、これならば薩長軍に勝てるかもしれなと思ったのも当然であった。兵力おいては薩長軍が約三千に対し、幕府軍は約五倍の一万五千以上の兵力があったのである。今までひたすら自重に徹していた慶喜が、この時やる気になったのも無理はなかった。
 明治元(1868)年1月3日、幕府軍は討薩の表を掲げ、鳥羽、伏見の二街道を通り、陸路大坂から京都へ向けて進撃を開始した。迎える薩長側は薩摩藩兵を鳥羽街道に、長州藩兵を伏見街道に配置し、西郷自身は京都の入口にあたる東寺に本営を置き戦況を見守った。
 そこへ一発の砲声が鳥羽方面に響き渡った。鳥羽街道で幕府側と押し問答を続けていた薩摩側が砲撃を開始したのである。これをきっかけに伏見方面でも戦闘が始まり鳥羽・伏見の戦いの幕が切って落とされた。
 戦いは薩長側有利で進んだが、数を頼りにする幕府軍もじりじりと押し返えされ、一進一退の攻防が繰り広げられた。しかし翌1月4日、薩長側に高々と「錦の御旗」が翻ると戦局は一変した。朝廷公認の軍、つまり「官軍」であることの証である「錦の御旗」を見た幕府軍は戦意を喪失し総退却を余儀なくされたのである。 劣勢となった幕府軍の諸隊長らは徳川慶喜に出陣を求めた。まだ大坂城内には無傷の一万の軍勢がおり、幕府軍の将兵たちが慶喜の出陣により士気を高め、もう一度薩長軍に戦いを挑もうと考えたのである。しかし朝敵の汚名を受けた慶喜にもはや戦意はなかった。
 慶喜は兵士らに対し、「明日出陣する」と宣言しながら、老中であった板倉勝静、元京都守護職の松平容保ら数人と共に、夜中密かに大坂城を脱出し、幕府の所有する軍艦・開陽丸で江戸に向けて出発したのです。
 翌朝、主のいなくなった幕府軍は大混乱に陥りました。慶喜が大坂から逃亡したことにより、兵士は離散することになった。このように慶喜の江戸退却により、幕府軍は完全に瓦解し、薩長中心の新政府軍の完全勝利となった。
鳥羽・伏見の戦いのきっかけともなった「庄内藩よる江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」についてであるが、この焼き討ち事件については西郷の謀略であったとも言われているがそれは間違いであろう。薩長両藩が幕府との開戦のきっかけを求めていたことは事実である。しかし江戸の薩摩藩邸に匿っていた浪士たちに対し、幕府を挑発するような行動を指示しているのである。西郷は幕府との戦いの準備が出来る前に、勝手に江戸で暴発が起きることを心配して、江戸藩邸で浪士たちの取りまとめ役をしていた益満休之助に対し、「軽挙な行動は慎むように」と指示した書簡が現存している。
 慶応3(1868)年暮れの段階では、京都における勢力は薩長軍が約三千に対し、幕府軍は約五倍の一万五千以上の兵力があった。兵数から見れば薩長には全く勝ち目がない状態だったので、西郷や大久保らは幕府と事を構えるのは時期が悪いと考えており、例え戦いになったとしても長期戦を覚悟していた。そのような中で江戸の浪士たちに暴動を企てるように裏で指示していたことは到底あり得ないことである。
 幕府兵の江戸薩摩藩邸焼き討ちが西郷による挑発とされたのは、鳥羽・伏見の戦いが薩長の大勝利に終わったという結果論から導き出された後付け話と思われる。

江戸無血開城
 鳥羽・伏見の戦いで勝利を収めた新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任命して、東海、東山、北陸の三道から江戸を目指し進軍することを決定した。西郷は「東征大総督府下参謀」に任命され、東海道を下り、一路江戸を目指すことになった。
 一方、江戸に逃れた徳川慶喜は、後事を幕臣の勝海舟に託し、自らは上野寛永寺の塔頭大慈院に居を移し、蟄居謹慎の生活に入った。東海道を進撃する新政府軍の軍勢が現在の静岡県の駿府に入ると、幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)が西郷に面会を求めてきた。
 山岡鉄舟は勝の手紙を携えており、手紙の内容は「嘆願書」と言うよりも、脅しに近い内容が書かれていた。
  「慶喜は恭順していますが、いつその主人の意を分からない不貞の者が、新政府軍に対し反逆を企てるか分からない状況にある。また、この無頼の徒が反乱するか、恭順の道を守るかは、貴殿ら参謀の処置にかかっている。もし、正しい処置を行えば、何の暴動も起こらず、日本にとって大幸ですが、もし間違った処置をすれば、おのずから日本は滅亡の道を歩むことになる」 いかにも知略溢れる勝らしい文面です。
 おそらく勝は、かつて面識があり、お互いに人物と認め合っていた西郷が参謀だったから、このような強圧的ともとれるような手紙を書き送ったのであろう。西郷は勝の手紙を読むと、すぐさま大総督府に向かい、総督や参謀たちと共に慶喜恭順降伏の条件を相談し、その条件を箇条書きにした書付けを山岡鉄舟に手渡しました。山岡はそれら条件を一つずつ読み終わると西郷に、お請け出来ない条件がひとつあると言いった。それは慶喜を備前藩に預けるという条件だった。
   「西郷殿におかれては、仮に私に立場を変えて考えてみて下さい。島津公が現在の慶喜公の立場になられたら、西郷殿はこのような条件を受け入れられるでしょうか。どうぞ切にお考え直し下さい」山岡鉄舟は、若い頃から禅や剣術で強靭な精神力を磨き、人物の押しも西郷に負けず劣らず堂々としていた。西郷はそのような山岡鉄舟の立派な態度に感心し、
 「分かいもした。慶喜公のことについては、おいが責任を持って引き受けいたしもんそ」と言いました。
 山岡鉄舟もその言葉に感動し、泣いて西郷に感謝した。山岡はその足で江戸へと戻り、勝に西郷との会談の内容、そして降伏の条件等を報告した。
 東征大総督府は江戸総攻撃を3月15日と決定し、新政府軍は続々と江戸に入ってきた。明治元年3月11日、西郷は江戸の池上本門寺に入り、3月13日、高輪の薩摩屋敷において、西郷は勝と約3年6ヶ月ぶりの再会を果たした。 この日は西郷と勝の間では、江戸開城に関する重要な交渉事はしなかった。明日もう一度、芝の田町の薩摩屋敷で会うことを約束して別れたのである。
 そして翌日、勝は西郷が山岡鉄舟に提示した条件についての嘆願書を携えて西郷の元を訪れた。
 勝はその日の会談のことを後年次のように語っている。
  いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もあるだろうが、私一身にかけてお引き受けします」西郷のこの一言で江戸百万人の生命と財産を保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのである。このとき感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝者の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったことだ」(勝海舟「氷川清話」)
 勝の回顧談から西郷がどんな人物に対しても、礼を尽くして丁寧に接することを心がけていたかがわかる。
    西郷は勝の嘆願書を読み、勝と恭順の条件について話した後、隣室に控えていた薩摩藩士・村田新八、中村半次郎(桐野利秋)を呼び、明日の江戸総攻撃の中止を伝えた。この両雄の会談が江戸百万の市民を救うことになった。

戊辰戦争から西郷の帰国まで
 彰義隊討伐
 西郷と勝の会談により江戸城の無血開城が成されたが、前将軍・徳川慶喜は郷里の水戸藩で謹慎することになった。しかしそのことに不満を持つ旧幕臣が勝の統制に服さず、結成し江戸の各地において彰義隊はとして新政府軍と衝突を繰り返した。
 西郷はその事態を憂慮し、勝や山岡を通じて、彰義隊に軽挙な行動を慎むよう説得を続けたが、彰義隊は一向耳を傾けようとはしなかった。そのような状況で、西郷のやり方を非難する者が出てきた。 「西郷は勝に騙されている。西郷のやり方は生ぬるい」 といった非難だった。
 このような状況が続く中、朝廷から軍務局判事として派遣された長州藩の大村益次郎が中心となり彰義隊の武力討伐が決定された。明治元年5月15日、午前七時頃、上野に結集した彰義隊約三千人に対して新政府軍の総攻撃が開始された。総攻撃を指揮したのは大村益次郎であった。西郷は上野攻撃では最も激戦区となった黒門口を薩摩隊の隊長として指揮を取った。戦いは大村の作戦が見事にあたり、午後五時過ぎには彰義隊は完全に鎮圧されたのです。

 彰義隊が討伐されると西郷は後事を大村に任せ京都に引き返した。それは兵力の増援を薩摩藩主に願い出るためであった。彰義隊は討伐されたが、奥州各地では新政府に反抗を唱える会津藩や奥羽諸藩の勢いが盛んになり、新政府軍は兵力不足に悩まされたからである。新政府軍は諸藩の寄せ集めにすぎず、戦況が変わればいつ何時新政府軍を裏切る藩が出ないとも限らない。西郷にとって頼りになるのは薩摩、長州の両藩しかなかった。
 西郷は京都に帰着すると、藩主・島津忠義と共に鹿児島へ帰国し、藩兵を率いて、明治元年8月10日、新潟の柏崎港に到着した。この前月、越後長岡藩が家老の河井継之助は巧妙な指揮により果敢に戦い新政府軍を悩ましていた。西郷の実弟の西郷吉二郎(きちじろう)も、この長岡戦線で重傷を負い死亡していた。しかし西郷が柏崎に到着した頃には、新政府軍が既に長岡を占領した後であった。その後、西郷は、米沢、会津を経て、出羽・庄内藩の城下町である鶴岡に到着した。
 
庄内開城
 庄内藩(山形県北西部)といえば、鳥羽・伏見の戦いのきっかけともなった江戸・薩摩藩邸の焼き討ちを行った藩であり、江戸無血開城後も秋田地方において執拗果敢に新政府軍に戦いを挑んでいた。庄内藩兵は戊辰戦争で「朝敵」とされるが、強くまた勇猛果敢だった。で戦局は一進一退となり、新政府軍はややもすれば押し返されるような状況が続いていた。
 しかしいかに庄内藩が頑張っても、周囲の奥羽諸藩が次々と新政府軍に降伏し、庄内藩は完全に孤立していた。庄内藩主・酒井忠篤(ただずみ)は、重臣と協議し新政府軍に対し降伏恭順を決定した。苦渋の選択であったが庄内藩としては他藩からの援軍を望めず降伏するより手立てはなかった。

 庄内藩の人々は、新政府に降伏する際、過酷な降伏条件を突き付けられることを覚悟していた。これまでの経緯からすると、薩摩や長州藩の恨みを多く買っているので重い処分が下ると考えていた。
 庄内藩の降伏の申し出を受けたのは、新政府軍の庄内方面司令官の薩摩藩士・黒田了介(清隆)であった。黒田は庄内藩に対し意外に寛大な降伏処置を取った。この黒田の対応は全て西郷の指示であった。黒田は西郷を尊敬し、西郷の忠実な弟子を自任していたので、西郷の指示に従い庄内藩に寛大な措置をとったのである。
 このような寛大な態度に感激した藩主・酒井忠篤、庄内藩の人々は、その後、西郷を慕うだけでなく、藩主・酒井忠篤をはじめ側用人だった菅実秀らが多数の藩士を従えて鹿児島を訪問し西郷の元へ教えを請いに出向いている。この庄内処分をきっかけに庄内藩士と西郷の交流はその後も続いていくことになる。
 生前の西郷が語った教訓や自己修養のための指針、さらに国家観などを本にまとめた南洲翁遺訓(なんしゅうおういくん)という書籍が残されているが、これは西郷に心服していた旧庄内藩士らが編纂し刊行したものである。

西郷の帰国
 鹿児島に一時帰国した西郷は榎本武揚(たけあき)らが立てこもる北海道函館の五稜郭へと援軍に向かった。しかし西郷が到着した頃には戦いは既に終わっており、戊辰戦争はこの「五稜郭の戦い」をもって幕を閉じることになった。その後、横浜に帰着した西郷は、新政府への出仕を辞退し、明治元年6月9日、鹿児島へ向けて帰国した。
 明治維新最大の功臣とまで言われた西郷の帰国は内外に波紋を広げた。西郷を扱った伝記や書籍のなかに「西郷は自分が政治家に向いていないと分かっていたので、故郷に帰り、隠遁しようとした」と書いてあり、実際、新政府への出仕を辞退し、日当山温泉(現在の鹿児島県霧島市)に湯治に出かけている。「明治を境に西郷は衰えた」との見方があるが、それは西郷を上辺だけしかみない浅薄な論である。確かに西郷は月照との自殺未遂が大きな要因となり隠遁志向にあったが、この時の西郷の帰国は武士としての潔さだったと思われる。ただ当時の鹿児島は西郷の隠居を許容できるような状態ではなかった。

 戊辰戦争が終わり薩摩藩の凱旋兵たちは、門閥の打破と新たな人材の登用を声高に訴えていた。凱旋兵の諸隊長は自分たちが大功を立てたにも関わらず、藩政は依然として門閥武士(上級武士)の手に握られていることを憤り、藩政府の人事の刷新を求めていた。

  これら凱旋兵の威圧的な要求に対し、久光及び藩主・忠義、薩摩藩政府の要路にあった者たちは対応に苦慮し、凱旋兵の要求を飲むことになるが、藩政府は藩政改革において西郷の力を借りるため、忠義自らがわざわざ西郷の元に出向き西郷の藩政への復帰を依頼した。このような経緯があったことから、西郷は隠居することが出来ず、薩摩藩の参政に任命され、その後は薩摩藩の藩政改革に力を尽くすことになる。


西郷の上京から廃藩置県まで
明治新政府の苦悩
 西郷は新政府入りせず、明治元年12月に鹿児島に帰る。西郷が鹿児島に帰国した後、明治新政府には次々と困難な問題に直面した。明治2年6月、明治維新に功績のあった者に、賞典禄(しょうてんろく)や位階を与えたが、それらの恩賞は薩摩藩と長州藩出身者に厚く、他藩の者は軽んぜられた。
 倒幕を成し遂げたのは薩摩藩と長州藩の両藩であったが、他藩出身者は納得がいかず非難が生じた。また薩摩と長州藩の間でも新政府のポストについての派閥争いが起こり、ややもすれば両者が反目しあう事態も生じてきた。
 このような混乱した状態が続くと、当然新政府内の風紀も乱れてきた。新政府の役人らは、昔味わった艱難辛苦を忘れ、豪華な邸宅に住み、大人数の使用人を雇い、美妾を蓄えるなど、まるで旧大名さながらの驕奢な生活をする者が増え、また権力をかさに着て、民に対し横暴な処置や振る舞いをする者が多く生じてきた。
 このように乱れた新政府に対し、民衆は失望感を抱いた。 「新しい世の中になったと言うが、これでは江戸幕府の時代の方がよっぽどましだ」このような声も聞こえるようになり、全国各地では重税に苦しむ農民らが蜂起し、それが飛び火して一揆が続発しました。腐敗した新政府を憤る者たちが新政府の転覆を企てるなど、反政府行動を取る人物も現れてきた。
 新政府の中心人物は、公家の三条実美、岩倉具視、長州藩出身の木戸孝允、さらに薩摩藩出身の大久保利通の四人であった。彼らは続発する農民一揆や民の不満等を押さえるため日夜努力を続けたが、なかなか良い対策が打てなかった。彼らもまた新政府がこのままではいけないと分かっており、危機感を持っていた四人は鹿児島に帰郷していた西郷を東京に呼び戻し、西郷の力や徳望をもってして一大改革をやろうとした。
 日本の歴史を鑑みても、このような混迷した事態を打開するためには、人々から仰ぎ慕われるような人望を持ち、かつ勇気と決断力を併せ持った英雄的な人物が必要となる。
 大久保や木戸は知謀や知略は十分に持ち合わせていたが、誰からも信頼され勇気を持って改革を成し遂げる力は不足していた。彼らが西郷を鹿児島から呼び戻そうと考えたことに、それが表れている。
 西郷は最もたくましい勇断力と人々から慕われる絶対的な人望を併せ持った人物であった。新政府の危機を乗り越えるには西郷の力が必要だったのである。
 西郷の盟友であり、政府の首班格であった大久保は、西郷の弟でヨーロッパ視察から帰国したばかりの西郷信吾(従道)に、西郷を東京に呼び戻すための説得を依頼した。大久保から依頼を受けた西郷信吾は、明治3年10月、鹿児島へ向かった。

西郷の上京と廃藩置県工作
 明治2年6月から鹿児島に引きこもっていた西郷は、弟の信吾の訪問に驚いたが、ヨーロッパから帰国したばかりの信吾に懐かしさや積もる話もあり喜んで迎え入れた。しかし信吾から聞かされた新政府の腐敗に西郷は自然と怒りを覚えた。
 新政府が堕落したことに、非業の内に倒れていった数多くの同志たちに面目が立たないと涙を流した。西郷は信吾から大久保の上京要請の話を聞き、東京に行くことを決意をする。鹿児島に引きこもっていたとは言え、西郷の頭の中には常に政府のことがあった。東京から鹿児島に帰郷した人々から聞かされる新政府の情報を耳にして、西郷はいつか堕落し切った新政府を改革しなければならないと考えていたのである。
 明治3年12月、勅使・岩倉具視と大久保が正式に西郷を東京に呼び戻すため鹿児島を来訪した。鹿児島に帰った大久保は西郷と共に新政府の一大改革案について話し合った。それは廃藩置県のことだった。
 明治の世になってから、日本を「郡県制度」にするのか、それとも「封建制度」を維持するかについて大きな議論があった。つまり藩を廃止して県を置くのか、それとも引き継いき藩を存続させるかの問題だった。
 明治2年6月には、全国の諸大名から土地と人民を朝廷に返還させる「版籍奉還(はんせきほうかん)」が既に実施されたが、これは形式だけで、実際には藩はそのまま残っており、藩主も知藩事(ちはんじ)と名を変えただけで領内の運営は全てこれまで通り藩が行っていた。
 しかし廃藩置県は大名から土地(領土)や人民を取り上げることになる。西郷も大久保も、この廃藩置県が明治維新の総仕上げとしており、これを達成しなければ真の改革ではないと考えていた。
 ただ廃藩置県には危険が伴っていた。廃藩置県は大名の地位と特権をなくし、大名から経済的基盤(財産)を奪いとることである。もし廃藩置県実施の情報が漏れれば、各地の大名はそれに反対して武装蜂起するかもしれなかった。そのため西郷や大久保は慎重に事を運ぶ必要があった。 相談の結果、薩摩、長州、土佐の三大藩の力を利用して廃藩置県を断行することに決定した。西郷と大久保は岩倉と別行動を取って長州の山口へと向かい、当時山口に帰郷していた木戸孝允と面会した。木戸との話し合いでも廃藩置県のことについての話が出た。
 そしてその後、三人は土佐(高知)に向かった。薩長だけでなく、有力藩である土佐の力を借りなくては廃藩置県は断行出来ないと考えたからである。西郷、大久保、木戸の三人は、高知城下で旧土佐藩出身の板垣退助と会い、薩摩、長州、土佐を代表とするこの四人は、揃って東京に出発することになった。

廃藩置県
 西郷らが東京に着いたのは、明治4年2月2日のことであった。新政府に復帰した西郷は廃藩置県に向けて着々と準備を始めた。まず新政府は薩摩、長州、土佐の三藩に御親兵を差し出すよう命じた。廃藩置県断行の際の反乱に備えるためである。
 そのため西郷も鹿児島に帰国すると、常備隊四大隊と砲兵四隊、約五千人の兵士を率いて東京に戻った。また西郷ら新政府首脳は、御親兵以外にも日本の東西に鎮台(軍隊の駐留機関)を置くことにした。もし廃藩置県に反対する諸大名が武力行動に出た際に迅速に鎮圧できるようにするためである。
 このように西郷は軍事面の強化を行ない、6月になると木戸と共に参議に就任して、実質的な新政府の首班となった。その後、制度取調会の議長にもなり内政面の改革にも取りかかった。
 明治4年7月9日、東京の木戸孝允の邸宅において、西郷ら新政府の首脳メンバーが集まり、廃藩置県についての秘密会議が行われた。この会議は紛糾し、時期尚早とか廃藩を発表すればどのような騒ぎになるか分からないとの慎重論が起こり、木戸や大久保の間で大激論となった。
 その激論をじっと黙って聞いていた西郷はついに口を開いた。
 「貴殿らの間で廃藩実施についての事務的な手順がついているのなら、その後のことはおいが引き受けもす。もし暴動など起これば、おいが全て鎮圧しもす。貴殿らはご懸念なくやって下され」と力強くいった。
    木戸と大久保は、この西郷の一言で議論を止め、西郷の大きな決断力で、廃藩置県が決定された。明治4年7月14日、新政府から正式に「廃藩置県」が発布された。民衆はこの大きな改革に驚き、各地の諸大名はこの廃藩置県に怒り心頭だった。地位と財産を一遍の詔勅によって奪い去られたのだから当然のことだった。
 薩摩にいた島津久光は、廃藩置県を聞いて烈火の如く怒った。島津久光は保守的な性格で、日本の政治は封建制度が望ましいと考えていた。それが自分の家来である西郷や大久保らによって廃藩が行われたのだから、久光は廃藩置県を知るや否や、怒り心頭に達し、鹿児島の磯の別邸(磯庭園)からいく艘もの船を出し、その船から終夜花火を打ち上げさせ鬱憤を晴らした。久光にとってはまさに飼い犬に噛まれた気持ちだった。
 しかし御親兵や鎮台が反乱に備えて各地でにらみをきかせていたので、久光や各大名は廃藩置県に反抗しても挙兵できなかった。このように廃藩置県の大改革は平和裏に達成されたのである。日本に滞在していた外国の公使らは、平和的に廃藩置県が行われたことに驚愕した。権利に敏感なヨーロッパにおいて、このような改革を行なえば、必ず戦争に発展し、平和的な解決などできなかったからである。
 廃藩置県は西郷の徳望と勇断力をもって成し遂げられたのである。

岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで
大久保、木戸らの外遊と西郷の留守内閣
 明治4年11月12日、公家出身の岩倉具視を特命全権大使として、副使には木戸孝允と大久保利通が任命され、同行者を合わせて百名を超える大洋行団が横浜港を出港した。

 洋行団の目的は江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備と、ヨーロッパやアメリカなどの西洋文明の視察であった。日本は廃藩置県が実施されてからわずか4ヵ月で、いつ騒動が起こるかもしれない状況だった。岩倉洋行団の出発は時期尚早との意見もあったが、このような国内状況を一手に任されたのが、日本で留守を預かることになった西郷であった。
   課題が山積みの国政を新政府の首脳たちは西郷に任せたのである。これを受けた西郷はお人好しだったとする見方もあるが、西郷には順調に政府を運営していくだけの自信と覚悟があったので、留守を引き受けたと思われる。
 また木戸や大久保らがいない内に、西郷は斬新な改革をさらに進めようとして、まさに鬼の居ぬ間にという感じだったのかもしれない。岩倉洋行団が出発すると、西郷を中心とした留守政府は、次々と新しい制度を創設し改革案を打ち出した。
     その中でも特筆すべきものは、次のようなものが挙げられる。
   ・警視庁の発端となる東京府邏卒の採用
    ・各県に司法省所属の府県裁判所の設置
    ・田畑永代売買解禁
    ・東京女学校、東京師範学校の設立
    ・学制の発布
    ・人身売買禁止令の発布
    ・散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止
    ・キリスト教解禁
    ・国立銀行条例の制定
    ・太陽暦の採用
    ・徴兵令の布告
    ・華士族と平民の結婚許可
    ・地租改正の布告
 このような斬新な改革を西郷留守内閣は次々と実施していったが、もちろんこれら全ての改革が西郷の企画・発案によるものでない。しかしながら西郷が政府の首班(首相)として成し遂げた改革であることは紛れもない事実である。現代の政治でもそうであるが、総理大臣が細かな政策を一つずつ企画・立案していくことはない。政府のトップに立つ者に求められるのは、何よりも政策を実行するためのリーダーシップで、決断力と実行力を併せ持つ人物こそが政府のトップに立つ者に求められるのである。その点からすれば留守政府がこれだけの改革を実行できたのは、西郷に強いリーダーシップがあったからである。
 西郷についての書籍には政治家としての能力はなく、明治新政府の飾り物に過ぎなかったと論じているものがあるが、飾り物でしかない西郷を中心にこのような思い切った改革を次々に断行出来るはずはない。また西郷が政府の首班として在職中は、農民一揆や反政府運動はほとんど起きていない。これは世の中の民衆が西郷の政治に満足していた証拠といえる。明治新政府がやるべき改革のほとんどが、西郷留守内閣の下で行われたことは、評価に値することである。西郷に政治手腕がなかったと言うのは間違った評価といえる。

征韓論の経緯
 いよいよ西郷隆盛最大の誤解とされる征韓論であるが、西郷は「征韓論」を主張したことは一度もない。それにもかかわらず西郷がなぜ征韓論者と呼ばれているかを説明する。
 明治初年に新政府が朝鮮との国交を復活させようとした時には、すでに朝鮮との関係は悪化していた。日本と朝鮮とは、鎖国政策の時代から親しい間柄であった。しかし江戸幕府がアメリカやイギリス、ロシア、フランスといった欧米列強諸国からの圧力に屈して和親条約や通商条約を結んだため、朝鮮は日本との国交を断絶したのである。
 当時の朝鮮も日本同様、欧米列強諸国を「夷狄(いてき)」と呼び鎖国政策を取っていた。そのため外国と交際を始めた節操のない日本とは交際出来ないとしたのである。このように江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたが、江戸幕府は朝鮮問題に関わっている余裕はなかった。当時の幕府は問題が山積していてそれどころではなかった。
 その後、明治新政府が樹立すると、朝鮮との国交を復活させようとして、江戸時代から仲介役を務めていた対馬の宗氏を通じて朝鮮に交際を求めた。しかし朝鮮政府は、明治新政府の国書の中に「皇上」や「奉勅」という言葉があることを理由に、国書の受け取りを拒否したのである。朝鮮政府としては「皇上」や「奉勅」といった言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけに使用できる尊い言葉だったからである。
 朝鮮政府は明治政府の国交復活を拒否したままの状態が続いた。そのため明治新政府は朝鮮問題を解決するべく、外務権大録の佐田白芽(さだはくぼう)を朝鮮に派遣したが朝鮮の首都に入ることすら出来なかった。
 それ以来、佐田白芽は激烈な「征韓論」を唱え、政府関係者に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」と遊説してまわった。

 これは明治3年4月のことで、西郷がまだ郷里の鹿児島にいるときのことである。この佐田白芽の過激な征韓論に最も熱心だったのは長州藩出身の木戸孝允だった。木戸孝允は、後年、征韓論に反対するが、当初は征韓論を唱えていた。木戸孝允は長州藩の大村益次郎への手紙に「武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いてある。このように木戸孝允は征韓論に熱心だったが、当時の日本は廃藩置県という重要な問題があったため、征韓論に構っているわけにはいかなかった。また廃藩置県後に木戸孝允と岩倉具視は洋行し征韓論は沈静化した。
 しかし佐田白芽らは征韓論の持論を捨てず、政府の高官たちに熱心に説いてまわった。そのため征韓論は次第に人々の間で熱を帯びるこになる。

 明治4年(1871)、西郷に留守政府を任せて岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らは欧米歴訪に出かける。西郷は生涯、外国の土を踏まなかったが、西洋文明の本質は良く理解していた。

 真の文明国であるならば、後れている国に徳をもって接して導く。それが「王道」の政治で、武力にものを言わせてアジアを侵略し植民地化する西欧のやり方は、己の利のために他を踏みつけにする野蛮な「覇道」でしかないことを知っていた。西郷は新生明治日本は「王道」を目指すべきと考えていた。
 明治6年5月、朝鮮の釜山の日本公館駐在の係官から「朝鮮側から侮蔑的行為を受けた」との報告がなされた。朝鮮において日本と朝鮮とが一触即発の危機にあるとの報告を受けた外務省は、政府の政策を決定する太政官閣議に朝鮮への対応策を要請した。こうして、明治6年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が新政府の閣議に諮られることになった。

西郷の遣韓大使派遣論
 明治4年(1871)、西郷隆盛に留守政府を任せて岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らは欧米歴訪に出かける。西郷隆盛は真の文明国であるならば、後れている国に徳をもって接して導く。それが「王道」の政治で、武力にものを言わせてアジアを侵略し植民地化する西欧のやり方は、己の利のために他を踏みつけにする野蛮な「覇道」でしかないということを知っていた。西郷は新生明治日本は「王道」を目指すべきと考えていた。

 閣議で外務少輔の上野景範(かげのり)は「朝鮮にいる居留民を引き揚げるか、武力に訴えても朝鮮に修好条約の調印を迫るかしかない」と説明した。その上野景範の提議に対して、参議の板垣退助が口を開いた。
「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然だから、すぐ兵を釜山に派遣し、その後に修好条約の談判にかかるのが良い」このように板垣退助は兵隊を朝鮮に派遣することを提議したのである。

 しかしその板垣退助に対し、閣議の中心人物であった西郷隆盛は首を横に振り次のように述べた。「それは早急に過ぎもす。兵隊を派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかった。ここはまず軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが一番の良策と思いもす」
 西郷の主張はまさしく正論で、板垣退助の朝鮮即時出兵策に反対し、西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょう」と付け加えると、西郷はその三条の意見にも首を横に振った。
   「いいえ、兵を引き連れるのは宜しゅうありもはん。大使は烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし威儀を正して行くべきでごわす」
 西郷の堂々たる意見に板垣退助以下他の参議たちは賛成したが、肥前佐賀藩の大隈重信だけが異議を唱えた。大隈は「洋行している岩倉らの帰国を待ってから決定されるのが良いのではないか」と主張したのである。
 その意見に西郷は「政府の首脳が一同に会した閣議において、国家の大事の是非を決定出来もはんじゃったら、今から正門を閉じ、政務の一切を取るのを止めた方が宜しゅうごわす」と強く言い返した。
 このように言われれば、大隈としても、もはや異議を唱えることは出来ない。また西郷隆盛は朝鮮への全権大使を自分に任命してもらいたいと主張した。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決出来るのは自分しかいないとし、相当の自信があった。しかし閣議に出席したメンバーは西郷の申し出に驚愕した。西郷は政府の首班であり重鎮である。また朝鮮政府の対応を考えると、派遣される使節には危険が伴うため、西郷隆盛が朝鮮に行って不測の事態が生じれば、これほどの危機はなかった。そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示したが、西郷は自分を朝鮮に行かせて欲しいと主張したのである。結局この閣議では結論が出なかったが、このような西郷の言葉や行動に「征韓」という主張はどこにも出てこない。また「征韓論」について反対意見すら述べている。
 その後、紆余曲折を経て、西郷隆盛は正式に朝鮮使節の全権大使に任命される。西郷としては素志を達成したわけであるが、洋行から帰ってきた岩倉具視と大久保利通が、西郷隆盛の前に立ちはだかった。岩倉と大久保は閣議の席上で、西郷の朝鮮派遣に反対したのである。
 その理由は「西郷参議が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない。今の日本に外国と戦争をする余力はないので、朝鮮への使節派遣は延期するのが妥当である」。これはもっともな意見に思えるが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば殺されて戦争になるということを前提にしての反対意見であった。

 しかし西郷隆盛は安易に戦争をしないため平和的な使節を派遣したいと主張したのである。岩倉や大久保は朝鮮での談判が決裂して、必ず戦争になると決め付けの反対意見であった。このことで西郷と大久保の間で激論が広げられるが、結局は西郷の主張が通り、閣議で西郷の朝鮮への派遣が正式に決定された。
 しかし最終的には岩倉の術策により、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまう。岩倉が西郷隆盛の朝鮮への使節派遣案を天皇に奏上せず、逆に使節派遣反対を天皇に奏上したのだった。
 このような不条理な大逆転がと思われるだろうが、現実に行われたのである。この岩倉の行動では、それまでの閣議が何のための会議だったのか分からなくなる。一人の勝手な行動により国の運命が決定づけられたのである。
 このようにして西郷隆盛が主張した遣韓大使派遣論は闇に葬られたのである。
「明治六年の政変」、いわゆる「征韓論争」は通説では西郷ら外征派(朝鮮を征伐しようと考える派)と大久保ら内治派(内政を優先する派)との政争とされているが、この経緯を考えると、そう簡単に理解できるものではないことが分かる。
 西郷隆盛は朝鮮を武力で征伐するとは一度も主張していない。板垣の主張した朝鮮への兵隊派遣案に反対し、平和的使節を送ることを主張している。西郷は征韓論ではなく遣韓論を述べたにすぎない。ただし西郷の周囲には征韓論者が大勢いたことは事実である。

 また内政を優先させ、西郷の朝鮮使節の派遣論に反対した内治派の人々がその後にやった事と言えば、明治7年に台湾を武力で征伐して、中国と事を構え、翌明治8年には朝鮮と江華島で交戦し、軍艦で朝鮮に送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ修好条約を強引に結ばせている。
 西郷の使節派遣に反対し、内政の方が優先であると主張した非征韓派と呼ばれた人たちが、このようなことをやったのである。このことからも征韓論争における「外征派 対 内治派」という構図が、いかに誤解の多いものであることがわかる。

 

大久保専制抑圧政府
 西郷政府の後、大久保が権力を握る専制抑圧政府となった。農民一揆が続発し武力で弾圧し、士族の乱にも武力弾圧で皆殺しにした。汚職腐敗が蔓延したがこれは容認した。言論を大弾圧し大久保政府の支持はなく、政府打倒の声が全国に満ち溢れた。
 大久保は西郷と久光が手を握ったらと恐れた。そこで大久保は久光と妥協して、久光を左大臣にした。ただ久光はクーデター騒ぎを起こし、鹿児島へ戻ってしまう。
 さらに大久保が恐れたのは、西郷の私学塾は「自由と民主主義」を学ぶ青年で活況を呈していた。もし天皇が西郷復帰を命じたらと恐れた。そのため大久保は西郷と私学青年の皆殺しを決断し、大久保専制抑圧政府のスパイ挑発謀略活動が展開された。
 西郷は斉彬の「出兵上洛」を思い出したのかもしれないが、いずれにしても西南戦争で西郷と西郷精神は抹殺された。

西郷の帰国と私学校設立
 岩倉具視の暗躍により、朝鮮への全権大使派遣論を潰された西郷は、明治6年10月23日、江藤新平、板垣退助らとともに政府に辞表を提出し、故郷の鹿児島へ帰郷した。「このような非道なやり方が罷り通り、国の政治が運営されて良いはずがない。新政府には、いつか一大改革が必要だ」帰国する西郷の心中はそのような決意が秘められていた。

 また西郷の辞職および帰国は、国内に衝撃を走らせた。西郷を慕う陸軍少将の桐野利秋や篠原国幹(くにもと)ら旧薩摩藩出身の近衛兵や士官たちが、西郷に付き従うように、続々と鹿児島に帰郷した。
 鹿児島に帰った西郷は、その後は政治的な事柄に一切関わらず、俗事を離れて畑を耕した。魚を釣りに行ったり、山に狩猟に出かけたりと、まさに農夫のような生活を始めた。政府の有力者でありながらクーデターを起こす事なく帰郷したことは、権力に執着しない日本人らしい潔さであった。

 しかし西郷がこのような田園生活をしていた頃、日本国内には次々と大きな事件が起こった。明治7年1月には右大臣の岩倉具視が東京赤坂の喰違坂において、不平士族らに襲われ負傷する事件が起き、また同年2月には、西郷と共に政府を下野した元参議の江藤新平が佐賀で反乱を起こした。また同月には、台湾に漂着した琉球漁民が、台湾の先住部族により殺害されたことを発端に政府が軍事介入が決定された(台湾出兵)。
 このように西郷が去った新政府は、すぐに国内外の重大問題に直面することになる。西郷という一種の重しが新政府から外れ、時代はまた激動の様相を示した。明治新政府における西郷の影響力はそれほど大きいものだった。
 慶應義塾を創設した、明治の文化人である福沢諭吉も、その著書の中で、西郷が政治の中心となっていた二年間は、民衆が不平を言わず、自由平等の気風に満ちていた時期であったと書に残している。
 明治7年6月、西郷は旧薩摩藩の居城であった鶴丸城の厩跡(うまやあと)に「私学校」を設立した。私学校とは砲隊学校と銃隊学校及び賞典学校からなる、いわゆる公に対する私立の学校で、西郷の下野に付き従って帰郷した青年らの教育機関を作ろることが創設目的であった。さらに西郷はロシアや欧米列強諸国の軍事的な脅威に備えるため、兵学校とも言える私学校を設立し、日本に国難が迫った際には、そこで育てた人材や兵士を働かそうとしている。
 確かに西郷の心中には、常に対ロシア対策があったが、西郷が私学校を創設した真の目的は政府改革のためとされてる。優秀な人材と強力な兵隊を養い、いつか来るであろう政府改革のために活用しようとしていたのではないだろうか。
 西郷は新政府が腐敗していることを、朝鮮への全権大使派遣論の際に嫌というほど味わった。明治政府は西郷はこのような私学校の存在を怖がった。

私学校暴発そして西南戦争へ
 明治9年(1876年)3月に廃刀令が出て、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族で構成される私学校党は、徴兵令で代々の武人を奪われ、帯刀と知行地という士族最後の特権も奪われた。
 全国各地で不平士族の反乱が頻発し、同年10月24日、熊本において熊本県士族の太田黒伴雄を中心とした不平士族たちが「神風連の乱」を起こし、同月27日には福岡県で「秋月の乱」、同じく28日には山口県で前原一誠が「萩の乱」を起こした。
 このように全国各地で反政府運動が頻発したが、鹿児島の西郷はその動きに応じようとせず、西郷は自分が起つ時は政府改革の見込みが立った時、つまり機が熟した時としていた。

 鹿児島に帰国した西郷は新政府への出仕を辞退し、11月、西郷は日当山温泉に湯治に出かけ、隠居(引退)することを考えていた。しかし明治新政府は薩摩に大きな罠をしかけきた。

 

新政府の挑発
 新政府にとって明治維新最大の戦力となった薩摩藩士族の動きを最も警戒していた。摩藩出身の大警視・川路利良は、薩摩出身の24人の巡査を帰郷を名目にして薩摩に潜入させ、私学校と西郷を偵察して情報を集め、さらに西郷の暗殺を指示した。
 明治政府の大久保利光は薩摩藩士の力をそぐため、鹿児島の陸軍の火薬庫から、武器・弾薬を大坂に移送しようとした。陸海軍省が設置され、武器、火薬、弾薬の管理は陸海軍に移っていたので陸海軍がそれらを運び出しても何ら問題はなかった。しかし武器、火薬、弾薬は旧藩士が購入したもので、薩摩士族がいざという時に使うものと私学生たちは思い込んでいた。

 私学生は、政府が多数の巡査を一斉に帰郷させ、鹿児島の弾薬庫から火薬類を秘密裏に搬出したことに憤激し「政府は先手を打ち、西郷先生の暗殺団を送りこみ、夜陰にまぎれこんで武器・弾薬を移送している。まさに卑怯千万」と受け止めた。
 明治10年1月30日夜、血気にはやった私学校の若者たちは徒党を組み、草牟田(そうむた)にあった陸軍火薬庫を襲撃し、さらに集成館、坂元、上之原などの火薬庫を次々と襲い鹿児島城下は大騒動となった。
 西郷はその時、鹿児島城下から遠く離れた大隈半島で狩猟に出ていた。西郷は私学校生たちが陸軍の火薬庫を襲ったと襲撃の知らせを受けた時「しまった なんちゅうこっを」と叫んだ。これでは政府の挑発に乗ったとはいえ、政府への反逆を問われても仕方がなかった。また政府への不満を抱く鹿児島士族の面々にも火をつけてしまった。

 西郷は急ぎ鹿児島城下に戻ったが、その後、桐野利秋や村田新八、永山弥一郎、篠原国幹らを中心に、政府問罪のための軍を起こすことに決しても、西郷は全く主体的に関わろうとはしなかった。
 炎のような激しい動きは鎮静化することはできず、また西郷は火薬庫を襲った若者らを捕え政府に差し出すことも出来なかった。
 「これもまた天命でごわす……」と、西郷は考え「自分の身柄をお前たちに預けよう」と周囲に決定を委ねた。ここで西郷隆盛が挙兵を決意したのである。西郷は維新の際に江戸無血開城を実現させた。内乱の無益さを知らないはずはなかった。西郷は真の日本武士の戦いというもの、日本人が忘れてはならない心を示そうとしたのだろう。

 

西南戦争
 明治10年2月17日、薩摩軍は鹿児島において意気揚揚と挙兵し、熊本を目指し熊本城を包囲したが落城させることは出来なかった。

 西郷の考えは、今から考えれば見通しが甘いと捉えがちであるが、当時の日本の状況からすればそうは言い切れないものがあった。当時、各地には不平士族が充満しており、彼らは西郷の挙兵を待ち望んでいた。そのため西郷が挙兵すれば不平士族は雪崩を打って反政府行動に出ると考えられ、そうなれば政府は各地の反乱を鎮圧出来るはずはなく、西郷を政府に迎え入れ、西郷の意見を聞き入れる可能性があった。
 西郷は薩摩武士の恐るべき白兵戦によって、何の抵抗も無く戦わずに東京に行けると思っていたのかもしれない。熊本城で政府軍兵士たちが臨戦態勢を取っていることに西郷は驚いたとされている。この西南戦争において、西郷は最期まで作戦を立てず、陣頭で指揮を取ることもなかった。西郷にとって熊本城で政府軍が抗戦に入った段階で、今度の挙兵は失敗と悟ったと思われる。
 その後、薩摩軍は田原坂(たばるざか)や、大分、宮崎などで政府軍と戦いを繰り広げたが、圧倒的な兵力と物資を誇る政府軍に薩軍は追い詰められていった。人吉に残った村田新八は約1,000名を指揮し1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで戦いを繰り返したが、7月10日、政府軍が全面攻撃をしてきたので退却した。堀与八郎が延岡方面にいた薩兵約1,000名を率いて高原麓を奪い返すために政府軍と激戦をしたがこれも勝てずに退却している。 村田新八は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが大敗した(都城の戦い)。
 桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが再び敗れ、薩軍は広瀬・佐土原へ退いた(宮崎の戦い)。延岡にいた薩摩軍も敗れ、西郷は10日から本小路・無鹿・長井村笹首に到着しここに滞在した。
 8月15日、和田峠に布陣すると政府軍に対し西南戦争最後の大戦を挑んだ。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち諸将を随えて和田峠頂上で指揮したが、敗退して延岡の回復はならずに長井村へ退いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。16日、西郷は軍を解散して書類や陸軍大将の軍服を焼いた。生き残った薩軍兵士らと共に険しい日向の山道を潜り抜け包囲網の突破を試みた。突囲軍は精鋭300-500名で宮崎・鹿児島の険しい日向の山道を抜けると、故郷の鹿児島に向かって引き返した。彼らは生まれ育った故郷・鹿児島で最後の決戦に望んだ。

 

城山に散る

 鹿児島に戻った薩軍は鶴丸城を背後にそびえる峻険な城山を占領し、土塁を積み上げ陣地をつくった。政府軍はその城山を幾重にも包囲し、城山の本営目がけて徹底的に集中砲火を浴びせた。

 そして運命の明治10年9月24日午前4時、西郷と薩軍幹部ら40余名は本営の洞窟前に整列し「潔く前へ進んで死のう」と決意を固め、城山を下山し進撃した。政府軍の集中砲火が雨のように飛び交う中、西郷に付き従っていた周りの者たちは一人ひとり銃弾に倒れていったが、それでも西郷は前へと歩み続けた。
 その時である。流れ弾が西郷の肩と右太ももに当たり、西郷はその場に膝を落とした。西郷にはもう歩く力は残っていなかった。西郷は正座して東方に遥拝した後、傍らにいた別府晋介(べっぷしんすけ)に向かって 「晋どん、晋どん、もうここいらでよか」といった。別府晋介は西郷の言葉に「はい」と返事すると、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせ(お許しください)」と叫んで西郷の首を斬り落とした。西郷隆盛49歳、波乱の人生の幕切れであった。

 西郷の死を見届けると、残余の将士は岩崎口に進撃を続け、私学校の一角にあった塁に籠もって戦ったのちに自刃、あるいは刺し違えて戦死した。

 西郷は死後、賊軍の将とされたが、明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされている。西郷の人柄を愛した明治天皇の意向によって、西南戦争終結直後の宮中の歌会で「西郷隆盛」という題を出している。「これまでの西郷の功績は極めて大きなものである。この度の過ちでその勲功を見過ごすことがあってはならない」というご意向であった。さらに明治22年、大日本帝国憲法発布に伴う大赦で西郷隆盛は赦され正三位を追贈された。

 若き日に島津斉彬に見出されて以来、西郷は常に人々の期待や信頼を集め、明治維新という大革命を成し遂げた。西郷は少しも驕ることなく、常に民衆のことを考え、自らも無欲で質素な生活を常に心がけた。日本の歴史上、このような庶民性や人間性をもった英雄は西郷の他にはいないと思う。西郷隆盛は日本史上最も清廉誠実な人物で、最も徳望ある英雄と言える。

 西郷隆盛と薩軍幹部ら生き残りの将兵たちの最後の本営の洞窟(鹿児島市城山洞窟)

福沢諭吉の評価
 西郷は当時の知識人からも存在が注目され敬愛されていた。福沢諭吉は西郷死去の報を受け「政府の専制咎むべからずといえども、これを放置すれば際限がなく、これを防ぐの術は「抵抗の精神」あるのみと強調し、そのうえで西郷の武力行使には賛同できないが「その精神に至ては、少しも非難すべき点がない」と政府におもねらない抵抗の精神をたたえている。さらに維新の際は「勲功第一等」と持ち上げておきながら、一転して西郷を「古今無類の賊臣」と罵倒している新聞の豹変ぶりを痛烈に批判した。福沢は西郷の決起は「立国の大本たる天下の道徳品行を害したるものにあらず」と重ねて弁護し、政府は「天下の人物」である西郷を死地に陥れただけでなく、これを殺したる者というべし」と激越な調子で締めくくっている。

鹿児島の民衆の人気

 現在でも西郷は鹿児島の民衆に絶大な人気がある。王政復古や廃藩置県を断行した明治維新の英雄でありながら最後は反逆者として悲運の人生をたどったこと、加えて、江戸城無血開城や朝敵・庄内藩への平和進駐など心打つエピソードを残していることも西郷人気を支えています。人間的な温かみを感じさせる西郷の人柄が人気のの一方、盟友の大久保利通の人気は極端に低い。不人気の理由は明治維新に貢献した武士達のプライドを傷つけ廃藩置県を断行したこと、そして西南戦争時に西郷に対して政府軍を派兵したことなどであろう。いずれにせよ西郷隆盛は「もっとも偉大な人物」であり「最後のサムライ」であった。

 

2つの西郷像
 西郷隆盛の銅像は東京上野公園と鹿児島市にある。上野公園の銅像は犬をつれた弊衣姿で庶民的である。この銅像は福沢諭吉が発起人総代として建設を企画したが、西南戦争で国賊となった西郷の銅像建設を快く思わない政府の圧力により実現しなかった。しかし全国に賛同者がおり、明治22年の憲法発布を契機に、上野公園に西郷の銅像が実現した。制作者は当代随一の彫刻家・高村光雲である。
 一方で鹿児島市の銅像は直立軍服姿である。日華事変の最中、つまり陸軍絶対の時代に作られた。制作者は東京渋谷駅の忠犬ハチ公をつくった安藤照である。なおこのハチ公像は大戦中に金属資源不足のため供出され、今の忠犬ハチ公像は、戦後に再建されたものである。
 西郷隆盛の銅像は二つあるが、どちらが実像に近いのか。上野公園の西郷像は庶民派、つまり自由と無欲である。一方の鹿児島市の銅像は陸軍大将第1号となった好戦主義で軍国主義を示している。
 つまり西郷は倒幕・維新の第一功労者であったが、その後は侵略主義そのものの征韓論を主張し実行しようとした。つまり好戦主義で武断主義、軍国主義である。征韓論は海外情勢に明るい大久保利通との政争の結果、敗退し下野して鹿児島に帰ったが、不平士族にかつがれて西南戦争を起こした。それは士族主義、薩摩主義、反動主義であり、最期は賊軍の大将として城山にて自決した。

 要するに討幕までは英雄・偉人であるが、それ以後は時代の変化についていけない古い武人との印象があるが、しかしその印象は実際とは全く違うのである。実際には平和主義者であり、平等主義者であった。このでっちあげた西郷の印象があるからこそ西郷隆盛は最大悲劇の英雄なのである。