世阿弥

能の世界
 室町時代は庶民による文化が盛んであった。代表的なのが能(のう)猿楽や田楽といった民間芸能で、大和猿楽四座の観世座観阿弥(かんあみ)、世阿弥親子は足利義満の保護を受け猿楽から発展した能を大成させた。世阿弥は現代も続く能の流派「観世流」の2代目で能を芸術の世界まで高めた。

 能(のう)猿楽は、室町時代から続いているが、猿の印象が嫌われ、明治時代から能楽と呼び名を変え、日本を代表する古典芸能となっている。
 世阿弥は「風姿花伝」などの理論書を書き、後世に大きな影響を残している。

 

世阿弥
 世阿弥の芸名は世阿弥陀仏で、父・観阿弥から猿楽能(物真似が中心の芝居)を学んだ。父・観阿弥が名声を得た醍醐寺公演に、世阿弥は9歳から参加している。父・観阿弥が獅子を舞い、その演技は素晴らしいだけでなく、共演した美少年の世阿弥は一躍人気役者になる。1375年、観世座の噂を聞いた17歳の3代将軍足利義満は京都・今熊野で初めて猿楽能を鑑賞した。足利義満は世阿弥の愛らしさに虜になり、以降、義満は世阿弥の熱心な後援者となる。

義満の寵愛

 義満の世阿弥に対する寵愛ぶりは相当なのもので、3年後の祇園祭の折には、山鉾を見物する義満のすぐ後に世阿弥が控えている。側近たちが世阿弥に嫉妬し、内大臣の日記には「乞食のやる猿楽師の子どもを可愛がる将軍の気が知れない」と書かれている。

 

 1384年(21歳)、父・観阿弥が巡業先の駿河で急死すると、世阿弥は悲しみの中で観世流の2代目を継ぐことになる。世阿弥は父と同世代の近江猿楽・犬王(道阿弥)から刺激をうけた。観世座の能が大衆向けの演劇色の濃いもので、物真似中心の「面白き能」であったのが、犬王の能は優雅で美しい歌舞中心の「幽玄能」だった。義満は情緒があり格調のある犬王を世阿弥以上に寵遇するようになる。犬王は天女の舞を創始するなど舞の名人で、世阿弥も素直に犬王を絶賛し、世阿弥自身の能も内面を表現する幽玄能に変化していく。

 秘すれば花なり

 1400年(37歳)「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」で有名な能楽書の古典「風姿花伝」を書く。これは「花は秘密にすることで花になる。秘密にしなければ花にはならない」この言葉は「秘伝は秘密にしているから秘伝であり、すべての芸術は観客がそれがどうゆうものかを知らせないからこそ、つねに新鮮な感動を与える」という意味が含まれている。

 この風姿花伝は芸術の技術論ではなく、精神を論じた書であり人生にも通じる内容である。このような書物は世界にも例がない。芸は若い頃から始めるのがよく、12歳前後では声もよくなり舞う姿もよくなる。しかし「この花は誠の花にあらず、ただ時分の花なり」とのべている。誠の花とは稽古によって身につくもので、時分の花とは若さによるものと言っているのである。しかも50歳をすぎて老いが見えても花は残るとしている。つまり稽古で身につけた芸は残るということである。

 

 能役者が観客に与える感動の根源は「花」であるが、花は咲いて散るから見るものに感動をもたらすのである。「花」は能の命であるが、これをどう咲かすべきか、「花」を知ることは能の奥義を極めることと述べている。
 桜や梅が一年中咲いていれば、誰が心を動かすだろうか。花は一年中咲かず、咲くべき時を知って咲いている。能役者も時と場を心得て、観客が最も「花」を求めている時に咲かせねばならない。花は散り、花は咲き、常に変化している。十八番の役ばかり演じるのではなく、変化していく姿を「花」として感じさせねばならない。

 「花」が咲くには種が必要で、花は心、種は態(わざ)である。観客がどんな「花」を好むのか、人の好みは様々だから、能役者は稽古を積み技を磨いて、何種類もの種を持っていなければならない。牡丹、朝顔、桔梗、椿、全ての四季の「花」の種を心に持ち、時分にあった種を取り出し咲かせることである。

 

 世阿弥は順風満帆な人生を送るなかで、後継者問題で悩んでいた。世阿弥には子どもがいなかったので、後継者として弟・観世四郎の子・音阿弥を養子に迎えた。世阿弥はこの頃から自分の芸の伝承を考え、「風姿花伝」の執筆をはじめた。これは、現在考えられているような純粋芸術論ではなく、自分の後継者が第一人者の地位を保ち続けるためにどうすればよいかを教える本であった。

 

 ところが長年子どもができなかった世阿弥夫妻に長男の十郎元雅、七郎元能が生まれる。一端、後継者と定めた観世四郎・音阿弥親子と実子・元雅の間で世阿弥は苦悩するが、風姿花伝全編を完結すると実子・元雅に相伝する。

 

 将軍・義満に愛された世阿弥であったが、義満は、晩年、世阿弥のライバルである能役者・犬王を寵愛し「猿楽の第一人者は道阿弥(犬王)」とした。しかし義満が病気のため急死し、禅に通じた文化人足利義持が次の将軍となると、道阿弥に替わり田楽の増阿弥が寵愛を受けるようになる。

 

 1408年、45歳の時に義満が死去し、4代将軍義持の治世になるが、義持は猿楽能よりも田楽能(豊穣を祈り笛鼓を鳴らす賑やかな歌舞)を好み名手・増阿弥を寵遇した。増阿弥の持ち味は田楽の賑やかさではなく、尺八を使う「冷えた能」で、尺八の渋い音色は舞を美にした。都は増阿弥が主催した公演ばかりになり、世阿弥の出番が減ってしまった。しかし世阿弥の長所はその柔軟さにある。世阿弥はこのライバルを妬むことなく、花を生み出す幽玄美が高められたと悟ると、増阿弥から「冷えたる美」を学んだ。このように世阿弥の芸は生涯にわたって高め続けられた。また立ち止まって能という芸の深さをじっくり考える時間ができ能楽論を次々と執筆していく。


 世阿弥は自分が父から観世座を受け継いだ年頃の長男・元雅がなったことから、元雅を第3世観世大夫に指名した。そして能作書「三道」を次男に、1424年(61歳)には元雅に能楽論秘伝書「花鏡(かきょう)」を送り、そこに「初心忘るべからず」「命には終わりあり、能には果てあるべからず」「ただ美しく柔和なる体、これ幽玄の本体なり」等の言葉を刻んである。この年の醍醐寺清滝宮の猿楽能では2人の息子と世阿弥の弟の子・音阿弥の3人が共演し、後継者に恵まれて穏やかに隠居生活を送っていた。

 

 1428年、義持が死に6代将軍足利義教が後継となった。ここから世阿弥の人生はどん底まで沈んでいく。将軍即位の盛大な猿楽公演で演者をつとめたのは、世阿弥ではなく養子の音阿弥であった。足利義教は兄弟の義嗣と仲が悪かったので、義嗣に気に入られていた世阿弥を嫌い、音阿見を支援すると世阿弥に露骨な迫害を加え始めた。66歳、世阿弥親子は御所への出入りを禁じられ、翌年には義教は元雅から猿楽主催権を奪い、音阿弥に与えた。

  こうして音阿弥の時代が到来し、観世座は主流の音阿弥派と、反主流の世阿弥・元雅派に分裂する。こうした事態から未来に希望を失った次男は猿楽師を辞めて出家してしまう。この2年後、長男・元雅は都での仕事がなくなり地方巡業に出て伊勢で30代前半の若さで客死してしまう。旅先にて32歳の若さで病没した元雅の遺児はまだ幼児で観世家を継げず観世座は崩壊した。

 

 世阿弥は元雅のことを父観阿弥を超える逸材だと思っていただけに、この死は耐え難いほど辛いものだった。後継者・元雅を失った世阿弥の最後の心のよりどころは、娘婿の金春禅竹であった。最晩年の世阿弥は、芸論など自分が作り上げた「思想としての能」をこの禅竹に伝えた。

 

 しかし足利義教は世阿弥に後継者がいなくなったことを理由に、音阿弥に観世4世家元を継がせることを強要した。世阿弥は大和で大活躍していた娘婿の金春禅竹(28歳)に4世を譲るつもりでこれに抵抗すると、突然、将軍に謀反した重罪人として72歳の世阿弥は逮捕され罪もないのに都から佐渡(新潟)に追放される。「罪なくして配所の月を見る」これは佐渡で読んだ句である。

 1441年、暴政を行なった義教が守護大名の反乱で暗殺されると、一休和尚の尽力で78歳の世阿弥の配流が解かれ、娘夫婦の元に身を寄せ80歳で最後を遂げる。

 

 世阿弥の奥義 ー初心不可忘ー
「初心忘るべからず」という言葉は世阿弥が「花鏡」の中で述べている言葉であるが、これは「初めのころの感動や純粋な気持ちを忘れずに、ひたむきに物事に取り組め」という意味ではない。
 花鏡には次のようにある。
「初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」
と書かれている。
 初心忘るべからずとは、初心とは良いものではない。修行を始めて数年たった時は、何をしても花があると誉められる。しかしこれは「真の花」ではない。若さが醸し出す美しさが、欠点を見えなくしている「時分の花」に過ぎない。「真の花」になるには、最初の時の芸の未熟さをよく覚えておいて、初心の頃の欠点を自覚して将来の芸の上達に役立て精進しなさいのことである。「初めたころ、修行の各段階ごと、老後の芸の未熟さ」つまり「未熟な時の経験、ブザマな失敗、その時の屈辱感を忘れないように常に自らを戒めれば、上達しようとする姿を保ち続けることができる」としているのである。
 これを書いた世阿弥は3代将軍足利義満の死後は不遇を極めた。観世座大夫の地位は甥で養子の音阿弥へ移り、世阿弥は分派を立てる。音阿弥が名声を博したが、次男の元雅が地方巡業の途中で死亡し、分派観世座は崩壊する。島流しにもなった。「花鏡」はそんな世阿弥晩年の著である。


 ところで明治42年に世に出て評価されるまで、「風姿花伝」は数百年間知られていなかった。まさに秘本・口伝であった。「秘すれば花」であったか。
 世阿弥の時代から約600年になるが、今の時代に世阿弥の「初心忘るべからず」を一言で表現すれば次のようになる。
 世阿弥の言う「初心」とは「始めた頃の気持ちや志」ではなく「始めた頃の芸の未熟さ」、つまり「初心者の頃のみっともなさ」である。「初心者の頃のみっともなさ、未熟さを折にふれて思い出し、あの頃のみじめな状態には戻りたくないならば、さらに精進すべき」と説いている。若い頃の未熟な芸を忘れなければ、そこから向上した今の芸を正しく認識できるとしている。

 「命には終わりあり。能には果てあるべからず」(世阿弥)

 ここで世阿弥と同列にすべきではないが「人間には失敗する権利がある。そして反省する義務がある」これは本田宗一郎 の言葉である。