豊臣滅亡

 関ヶ原の戦いは石田三成(西軍)対徳川家康(東軍)の戦いであって、豊臣対家康の戦いではなかった。西軍東軍ともに豊臣家のために戦ったのである。そのため徳川家康が天下を取るためには豊臣を倒す必要があった。

 関ヶ原の戦い後、徳川家康は武士の棟梁である征夷大将軍になるのに3年かかっているが、征夷大将軍になるには様々な手順が必要だった。まず征夷大将軍になるには源氏の流れが必要だった。豊臣秀吉のように公家として関白になり天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、家康は「征夷大将軍」の道を選んだ。関白は天皇を補佐する朝廷の首座で、征夷大将軍は朝廷から任ぜられた武門の首座を意味していたた。武家にすれば征夷大将軍は絶対的権威の象徴であったが、征夷大将軍になるためには源氏長者であることが必須だった。その根回しに3年かかったのである。

 

征夷大将軍
 1600年12月19日、豊臣秀次が解任されて以来空位となっていた関白の座に、家康の推薦で九条兼孝が任じられ、豊臣氏による関白の世襲制を止めさせた。関白職を旧来の五摂家に戻どし、豊臣家は摂家のひとつにすぎないとした。しかしこれで豊臣秀頼の関白への道が完全に断たれたわけではない。

 関ヶ原の戦いの戦後処理を終えた家康は、1601年3月23日に大坂城・西の丸を出て伏見城で政務を執った。そこで征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図を改め、家康は徳川氏の系図を足利氏と同じ源義家に通じるようにした。征夷大将軍になるためには源氏長者であることが必須で、「氏長者」とは「氏」の中で官位が最高位の人物で帝が任命した。
 1602年、関ヶ原の戦いの戦後処理で処分が決まってなかった常陸国・水戸の佐竹義宣を出羽国の久保田に減転封し、代わりに武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸藩に入れた。1603年2月12日、ついに後陽成天皇の宣旨が下り、家康を征夷大将軍淳和奨学両院別当右大臣に任命した。武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴い他の官職を与えられるのは足利義満以来の慣例であった。
 同年3月12日、家康は伏見城から二条城に移り、3月21日御所に参内して、将軍拝賀の礼を行い年頭の祝賀を述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を招き饗応した。これにより征夷大将軍・徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。


大御所政治
 1605年4月16日、徳川家康は将軍の座をわずか2年で退くと、嫡男・秀忠へ将軍を譲った。このことにより将軍職は「徳川氏が世襲し、豊臣には渡さない」ことを天下に示した。また同時に、豊臣秀頼に新将軍・徳川秀忠と対面するように要請したが、豊臣秀頼はこれを拒絶し反徳川の姿勢を見せた。

  1607年に家康は駿府城に移り「江戸の将軍・徳川秀忠」に対して「駿府の大御所」として実権を握ったまま江戸幕府の制度作りを行った(大御所政治)。江戸には将軍・徳川秀忠を置いたが、家康は駿河に移ってからも軍事、外交、文化、経済など実質的な判断を下した。

  朝鮮通信使と謁見して文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復させ、1609年にはオランダ使節と会見しオランダ総督からの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸の商館の開設を許可した。

  1611年3月20日に義利(義直)・頼将(頼宣)・鶴松(頼房)を叙任させ「御三家」体制への布石をしき、3月22日には、自らの祖先と称する新田義重に鎮守府将軍を贈官し、実父・松平広忠には権大納言を贈官した。
 同年3月28日、二条城にて家康は豊臣秀頼と会見した。当初、秀頼はこれを徳川秀忠の征夷大将軍任官の際と同じように面会を拒絶するが、家康は織田有楽斎を介して上洛を要請し、淀殿の説得もあってついに秀頼は上洛することになる。この会見により、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを示し、同4月12日に西国大名らに対し三か条の法令を示し、誓紙を取ったことで徳川家康による天下支配が完成した。

 この会見から両者の関係は急速に悪化する。この急速な悪化は「家康が立派に成長した秀頼を見て危機感を抱いたから」と言われるが、豊臣家の実権は相変わらず淀殿が握っており、最後の手段であった会見も、淀殿の存在を変えることが出来なかった。
 同年、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取り、両国の友好について合意したが、通商を望む日本に対しスペインの前提条件はキリスト教の布教であった。このことは家康の経教分離を無視したことになり、家康を禁教に踏み切らせることなる。しかし家康の対外交政策に貿易制限の意図がないことから、この禁教令が鎖国に直結するものではなかった。1613年、イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取ると、朱印状による交易を許可し、平戸にイギリス商館の開設を許可した。

 また豊臣家も家康同様に「まだ天下人」と思っており、同年、豊臣家は家康を無視して官位を要請した。以後、豊臣と徳川の双方が合戦の準備を始め、徳川家康は豊臣家討伐を宣言した。

大坂の陣

 晩年を迎えた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であった。豊臣氏は1大名に転落したが、なお特別の地位を保っていて、実質的に徳川氏の支配は及ばず、西国の大名の殆どが豊臣派の大名であった。

 家康は将軍となったが、豊臣秀頼が同時に関白に任官するとの風説があった。家康が死去すれば後の政権は豊臣秀頼が継ぐだろうと噂されていた。
 さらに家康は問題を抱えていた。それは将軍・徳川秀忠とその弟・松平忠輝の仲が悪く、忠輝の義父である伊達政宗がまだ天下取りの野望を捨てていなかったことである。そのため伊達政宗が松平忠輝を擁立して反旗を翻すことが懸念された。

 また将軍家のなかでも徳川秀忠の子である徳川家光と徳川忠長(国松)のいずれが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できなかった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、江戸幕府にとっては大きな脅威となった。

 家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索する動きがあった。諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せ、また秀吉の遺言を受け、孫娘・千姫を秀頼に嫁がせている。しかし豊臣家の人々は政権を奪われたことにより次第に家康に反発するようになった。豊臣家は徳川家との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れ、それが天下に乱をもたらす準備であるとして幕府は警戒を強めた。
 このような中で結城秀康、加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、浅野幸長、池田輝政など豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣家は孤立を深めていった。家康は70歳という年齢になり、立派に成長した豊臣秀吉の息子・秀頼にも江戸幕府の体制が年々強固になっていったため焦りが見えてきた。徳川家康は天下人になるために豊臣がじゃまであった。そのため、1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣氏の処遇を決するような動きが始めたのである。

 

方広寺鐘銘事件
 そもそも秀吉が京都の方広寺に日本1大きな大仏を建立したことがきっかけであった。この大仏は地震や火事、雷などで壊れてしまい、関ヶ原の戦いから14年後に方広寺を再建して2代目の大仏を完成させた。大仏の建立の総奉行をしていた片桐且元は、梵鐘の銘文を南禅寺の文英清韓という人物に選ばせたたが、その方広寺の梵鐘に鋳造された銘文に「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれていたことが問題になった。

 大仏殿の開眼供養を行う直前、幕府は方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があるとして供養を差し止めた。問題にしたのは方広寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と銘が刻まれていたことで、「国家安康」は家康の名を切り離し呪いをかけているとし「君臣豊楽・子孫殷昌」は豊臣家の子孫の繁栄を願うものとした。さらに「右僕射源朝臣」については「家康を射る」という言葉だと非難した。「右僕射源朝臣」は右大臣の唐名で家康を意味していたのである。
 この文章を書いたのは南禅寺の長老・文英清韓であったが、家康は京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせ、これに立ち会った京都五山の僧侶たちは「この銘中に国家安康の一句、御名を犯す事はなはだ不敬」と非難したのである。

 豊臣の威信をかけた鐘に、徳川方から非難される文言を刻んだのは片桐且元と文英清韓の落ち度だった。清韓は南禅寺を追放され、住坊も一時廃絶された。清韓は同じ南禅寺の僧・金地院崇伝と対立しており、この事件には僧同士の争いが絡んでいたとされている。

 梵鐘の銘文について豊臣氏は家老の片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し弁明しようとしたが、家康は会見を拒否し、さらに片桐且元を拘束した。

 豊臣家は片桐且元がいつまで経っても帰ってこないことを不審に思い別の使者を送ると、家康はすぐに面会して「豊臣家と対立する意思はない」と伝えた。しかしその後、家康は片桐且元に怒りを伝へ「豊臣家が徳川家に逆らう意思がないのであれば誠意を示せ」と脅迫した。

 この結果、豊臣家は先に帰った使者と片桐且元とで全く違う家康の意思を聞くことになり、片桐且元は秀頼の大坂城退去を提案し妥協を図ったが、疑心暗鬼となっていた豊臣家は片桐且元を追放するなど混乱した。

 追放された片桐且元は家康に家臣に誘われ、大坂城の機密情報を家康に漏らしてしまう。それはやがて大阪陣で大坂城に大砲が打たれたときに淀殿の部屋や秀頼の部屋などを狙うことに利用された。
 さらに家康は「淀殿を人質によこせ」と無理難題をつきつけた。この嫌がらせに秀頼母子は堪忍袋の緒が切れ、浪人たちを大阪城に集め軍備を整えた。

 これを好機と見た73歳の家康は「豊臣方が挙兵した」とただちに諸大名に出動命令をだし、豊臣家に宣戦布告をした。この事件は豊臣家を攻撃するための家康が仕組んだ言いがかりであったが、方広寺鐘銘事件は豊臣側の軽率が招いたもので、家康が挑発や呪詛と受け取られてもしかたないことであった。

 この鐘は太平洋戦争中の金属供出を免れ現在も方広寺境内に残されている(重要文化財)。鐘が破壊されず現存していることは、鐘銘は単に「言いがかり」でしかなかったと思われる。ただその背景には豊臣と徳川の両者のせめぎ合いが見えている。160+310

大坂冬の陣
 大阪の陣は「関ヶ原の戦い」から 15 年ほど経った後の江戸時代に行われた。関ヶ原の戦いは名上は「豊臣家の家臣団同士の戦い」であったが、大阪の陣は「徳川家康の天下統一の最終仕上げ」であり、徳川家康と対立していた豊臣家の家臣の多くは、関ヶ原によって死罪か戦死及び追放となっていたため、大阪城の秀頼の周囲には有力な家臣がいなかったため、豊臣秀頼の母である「淀殿」が中心となって大阪の陣が行われた。この大阪の陣は真田幸村が天下人となった徳川家康に一矢報いた戦いで、豊臣側が最後の意地を見せた戦いであった。豊臣家は全国の大名に味方するよう嘆願したが大名家は1つもいなかった。
  それでも豊臣家は数年前から資金を惜しみなく使い、約 10 万もの兵力を集めた。主な武将としては関ヶ原の後に取り潰された四国の長宗我部家の末裔、関ヶ原で毛利軍として布陣していた「毛利勝永」、関ヶ原の宇喜多軍の熱烈なキリシタンたち、家康のキリスト禁止に反発していた「明石全登」、さらに武闘派として有名な後藤又兵衛や、大谷吉継の子「大谷吉治」、仙石久秀の子「仙石秀範」などがいた。またこれが戦国最後の合戦だろと、豊臣家に従って死に花を咲かせようと、最初から最期の戦いのつもりで参加した武将が多かった。しかしすでに関ヶ原の戦いから 14 年が経っており、もはや戦国の世ではなかった。

 1614年11月15日、各地で小規模な小競り合いがあったが、豊臣側は最初から城を守りながら戦う「籠城戦」を予定していたため、戦いはそのまま大阪城へと移った。

 家康は二条城から大坂城の攻めについた。20万人からなる大軍で大坂城を包囲したが、真田幸村が築いた出城「真田丸」の攻防の活躍により豊臣方は善戦した。真田幸村は当初、大坂城から出撃して各地で敵を遊撃する「積極策」を主張していたが、積極策は却下され豊臣家の首脳部は篭城する作戦を取ったため、真田幸村は本陣から離れ、真田家の家臣団だけで守る「真田丸」での防衛を決めた。これに対し家康は力づくで攻めずに、大坂城の外にある砦などを攻める局地戦に作戦を変更した。
 徳川軍は木津川口・今福・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは大敗を喫した。大敗といえども戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始めた。

 午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげ、午後10時、午前2時、午前6時に大砲を放ち、戦いに慣れていない淀殿を脅そうとした。守備兵は夜も寝られない状態になり、大坂城の本丸には砲弾が直撃し淀殿の目の前で侍女が死んだため、強気だった淀殿も一気に意気消沈し、恐怖に怯えた淀殿は和睦を申し出てきた。家康は強固な大阪城を武力で落とすことにこだわらず、淀殿や女官の心理をよみ精神的に疲弊させ有利な条件で和睦にもち込んだ。この和議をまとめたのが茶々の妹・初(常高院)と家康の才知に長けた側室の阿茶局であった。
 和議の条件は、本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し外堀を埋めることで、淀殿を人質とせず秀頼の身の安全を安堵することで、城中諸士についても不問との約束をした。

 家康は和睦の翌日より一斉に外堀を埋め、和議の条件に反して外堀だけでなく内堀までも埋めてしまった。さらには豊臣側が行うとした作業も、家康側が勝手に始めた。そのことを豊臣側が抗議するが、したたかな家康は初めから騙すつもりの和議であったため黙殺した。1ヶ月も経たないうちに難攻不落の大阪城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。

 

大坂夏の陣
 大坂冬の陣の翌年大坂夏の陣が始まるが、その頃、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立していた。主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし内堀を掘り返し、大量の兵糧を城へ運び、浪人を雇った。そのため江戸幕府は「豊臣氏が戦いの準備を進めている」とし、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の地方への国替えを要求した。

 さらに徳川義直の婚儀を理由に上洛した家康は、近畿方面に大軍を送り込み豊臣氏が家康の要求を拒否すると再度侵攻を開始した。大坂城はすでに防御力を失っており、そのため家康は「兵糧は3日分でいい」と言っている。
 翌日、豊臣軍は大坂城の南に軍勢を集結し、徳川軍もその地に集まり最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」が始まった。しかし豊臣軍3万弱に対し徳川軍は10万以上と兵力に大きな差があった。籠城であれば勝利の可能性があったが、裸にされた大阪城では野戦に出るしかなかった。しかも大阪城に集められた兵は寄せ集めの軍兵であった。豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力では圧倒的に不利であり、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相ら勇将を相次いで失った。

 ここで豊臣方の真田幸村が冬に陣に続き、夏の陣でも活躍を見せる。真田隊は3000の兵にて家康の孫である松平忠直隊(13000兵)を死に物狂いで撃破すると家康の本陣へと突入した。真田幸村にとって「勝つためには徳川家康の首を取る」しかなかった。真田幸村隊は家康本陣を2度に渡って攻撃し、家康本陣を12キロも後退させた。一時は本陣の馬印が倒れ、家康自身も自決の覚悟をするほどの危機に見舞われた。家康は影武者を置いていて、家康は真田隊によって討ち取られたとされたがそれは影武者だった。

 真田幸村は苛烈な突撃を見せたが、3度目の突入で真田隊は力尽き、真田幸村も無名兵士の槍に倒れ討ち死にした。大坂城は雪崩のように攻め寄せる15万人もの幕府軍を支えきれず、5月7日深夜に大坂城は陥落した。

  大坂城の燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空が見えた。5月8日、脱出した千姫による助命嘆願は無視され、秀頼と淀殿、その側近らは毛利勝永の介錯により自害し、勝永自身も自害した。ここに豊臣家は滅亡した。
「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏した」という説もあり、山岡荘八の小説「徳川家康」ではこの説をとっている。

 その後、大坂城は完全に埋め立てられ、その上に新たな大坂城が徳川氏によって再建された。秀吉の死後に授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置された。明治維新の後に豊国大明神号は復活して秀吉が祀られている。

淀君

 1567年に生まれた淀君の本名は茶々、母は信長の妹「お市の方」であった。父は小谷城主の浅井長政で、7歳の時に母の兄・織田信長に攻められ小谷城は落城して父・浅井長政は自害する。落城に際し、母のお市の方は妹たちとともに、織田の陣営に引き取られるが、「本能寺の変」で、頼みの信長が明智光秀に殺害されたことから、茶々の人生も波乱に満ちたものとなる。
 まず母のお市の方は、織田家の有力武将、越前北ノ庄(福井県)の城主・柴田勝家のもとへ嫁ぎ、羽柴秀吉に攻められ母・お市の方は夫・柴田勝家とともに自害し、茶々たち3人の娘だけが秀吉の手に渡される。この後、茶々は秀吉の側室となる。秀吉には他にもたくさん側室がいて、長年連れ添ったねねが正室・北政所となっていた。それだけに心穏やかではなかったが、やがて茶々は身ごもり出産した。不幸にしてこの子は早死にするが、まもなく2人目の子(秀頼)が生まれる頃から、秀吉は親馬鹿になり茶々は淀殿と呼ばれるようになる。秀吉の死後、秀頼が大坂城の主になると、淀殿は秀頼に寄り添って離れず、北政所を大坂城から追い出してしまう。
 淀殿は秀頼の教育において決定的な間違いを犯した。「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」このことに気付かなかったのである。秀頼は秀吉とは違っていたが、秀頼を溺愛するあまり、淀殿は秀頼を普通の子であることを見抜く冷静さに欠けていた。
 やがて淀殿は挫折し、徳川方と戦ってはことごとく敗れている。この戦いの前に、家康は「秀頼が大和一国で我慢するなら命を助けてやろう」と言っている。「たぬきオヤジ」といわれた家康の真意のほどは分からないが、もしそれが本音だとしたら、そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのかもしれない。もし淀殿にそれを受け入れる度量の広さがあったら、母子が猛火の中でその生涯を終えることはなかった。

 大坂城が落城間近になると、淀殿は家康の娘で、秀頼の妻であった千姫に「豊臣秀頼の助命嘆願をして欲しい」と言って、護衛を付けて大坂城を脱出させた。千姫は豊臣側から徳川側の武将に引き渡され、その案内によって父の「徳川秀忠」の元に到着すると、すぐに家康に豊臣秀頼の助命嘆願をしている。しかしもはやこの状況で家康が助命嘆願など聞くはずはなかった。淀殿は秀頼と共に蔵の中に隠れていたが、これは千姫による助命嘆願が承諾されるのを待っていたからである。しかし音沙汰はなく、淀殿は助命が聞き入れられないことを悟った。翌日、淀殿と豊臣秀頼は、毛利勝永の介錯によって自害し、毛利勝永もすぐに後を追い豊臣家は滅亡した。
 関ケ原の戦い、大坂冬の陣、大坂夏の陣で、徳川家康の心理を読み、冷静に自陣の将兵に接すれば情勢は変わっていた。とくに名目上の総大将・豊臣秀頼に対する母親ぶりを抑える器量があれば少なくともあれほどあっけなく豊臣氏が消えることはなかった。淀殿の度を超えた虚栄心、権勢欲が豊臣氏を早期滅亡させたといっても過言ではない。

 

決死の脱出、お菊物語
 大坂夏の陣と言えば真田幸村と後藤又兵衛の奮戦、豊臣滅亡の悲劇と見どころが満載であるが、その一方で落城時には無差別な乱暴狼藉が行われ、女性などの弱者が蹂躙されたことが「大坂夏の陣図屏風」に描かれている。しかしすべての女性が略奪や殺害の憂き目を見たわけではない。戦国を生きた人々には、女性であっても乱戦を生き伸びる術を身に付けていた。その一人が豊臣家の侍女・お菊である。
 お菊の父は浅井長政に仕えていた山口茂左衛門で、重臣ではなかったが生活に困らない家庭で、貧乏だった頃の藤堂高虎の面倒を見ている。
 このお菊一家は浅井家と縁深く、父・茂左衛門が仕えたのが茶々(淀殿)であり、浅井の生き残った父が茶々に仕えるという数奇な運命を辿っている。20歳のお菊は侍女として淀殿に仕える華やかな日々を過ごしていたが、1615年5月7日、お菊が大坂城で下女に蕎麦焼を作るように申しつけていた際に、城が焼けている匂いに気づき、すぐに千畳敷の縁側へ出て、見晴らしの良いところから確認すると、城のあちこちから火の手が上がってた。

 落城を悟ったお菊は本丸から逃げ、まさに生き延びで再起を図ろうとした。お菊は麻のひとえを3枚重ねにして帯を3本締め、豊臣秀頼から賜った鏡を懐にねじ込むと金の延べ棒を持って脱走した。その途中で豊臣家の馬印である金瓢箪が落ちていると「御馬印を捨て置いては恥」として壊した。
 お菊は「女は外に出てはいけない」と制止する声を振り切って城外に出た。しばらくするとお菊の前に徳川方の兵が現われ。お菊は胸元深くにしのばせていた金の延べ棒を1本敵兵に手渡すと、藤堂家の陣まで助けを求めた。金の延べ棒を与えて兵を手なずけ藤堂家の陣まで護衛してもらったように、お菊は豪胆と機知を発揮した。

 その後、城を後にした常高院(淀殿の妹:お初)の一行と合流した。常高院(お初)は秀頼の母・淀殿を姉に、徳川秀忠の妻・江(江与)を妹に持ち、大阪冬の陣では徳川との和睦交渉の使者となっていた。京極高次の妻であったが、常高院(お初)の女中がたった1枚のかたびらに1本の下帯のみのだったのを見かねたお菊は、自分が着ている3枚のうち1枚をわけ与えた。常高院(お初)に徳川家康から呼び出しがかかり、常高院が家康の陣に向かうと「城内におる者も出た者も、女の子は関係ない。好きなようにしよ」と命令が出た。
 こうしてお菊は窮地を脱したが、徳川方の藤堂家ではなく淀殿についた父の茂左衛門は、お菊から紅白の指物を受け取って喜ぶが最終的には戦死を遂げた。
 父の死の痛手を受けながらも、お菊は生き延びて備前岡山藩の医師の妻となり、83年の天寿を全うした。この大坂の陣を女性の視点から書いた「おきく物語」は、お菊が孫の田中意徳に昔語りを聞かせるように語ったもので、現代まで残されている。