豊臣滅亡

関ヶ原の戦いの背景

 戦国時代を終焉させ、その後の日本を決定した「関ヶ原の戦い」は日本最大の合戦で、まさに「天下分け目の戦い」であるが、その詳細はあまり知られていない。それは「関ヶ原の戦い」は戦国時代の終わり頃で織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信などの戦国時代の英雄はみな死去し、しかも関ヶ原の戦いに至るまでの過程は長く、政治的な理由や利害関係が複雑に絡んでいるからである。

 しかも戦いは1日で終わっているため、映画やドラマでは取り上げにくく、小説や歴史書では比較的取り上げられるが、関ヶ原の戦いに至るまでは様々な経過が積み重なっていて複雑である。つまり逆にいえば複雑な経過を知らないと関ヶ原の戦いを理解しにくいのである。また間違いやすいのは、関ヶ原の戦いは「徳川家康と反家康」との戦いであり、豊臣家は名目上は関係ないことである。

 1598 年に豊臣秀吉が死去すると、豊臣家による天下はそまま豊臣家が支配し、それを五大老と五奉行が支える体制がとられていた。秀吉がもっとも頼りにすると同時に最も恐れていたのは関東を中心とした256万石の徳川家康だった。秀吉は臨終の際に五大老筆頭の家康を呼び寄せて「わしの死後は、秀頼の後見をくれぐれもよろしく頼む」という遺言を残して、他の家老の前で秀頼への忠誠を誓約させた。
 5大老とは有力な大名によって構成された権力者の代表で、以下の5人である。

・関東を支配する五大老の筆頭家老である「徳川家康」256万石。

・北陸地方を支配する秀吉の親友・盟友の「前田利家」83万石。

・中国地方の西部を支配する大名「毛利輝元」120万石。

・中国地方東部を支配し、秀吉に可愛がられていた「宇喜多秀家」。

・越後・会津の大名で上杉家の後継者「上杉景勝」120万石。

 である。五大老の宇喜多秀家の前に、小早川隆景が五大老のひとりであったが、秀吉より先に死去しているので脱落している。

 また五奉行とは豊臣家の中で政務を取り仕切っていた上層部で、筆頭が石田三成で、以下増田長盛、浅野長政、前田玄以、長束正家である。この五大老・五奉行の中でもっとも主要な人物は、それぞれの筆頭である徳川家康と石田三成である。

  豊臣秀吉が死去すると、まず行動を起こしたのが徳川家康であった。徳川家康はそれまで豊臣家が禁止していた各大名や家臣の「婚姻の斡旋」「知行(領地)の授与」などを五奉行に相談なく独断で行った。もちろん亡き太閤殿下(秀吉)の決めた事にそむいた行為であり、豊臣五奉行は怒り、特に五奉行の筆頭・石田三成 は家康を非難した。

 家康は有力大名である伊達政宗・蜂須賀家政・黒田長政・加藤清正らと婚姻関係を結んで更なる勢力拡大を図ったが、一時は、前田利家に上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老と石田三成が家康の行為に対して一触即発の雰囲気になった。

 石田三成は豊臣秀吉の側近であったが、それゆえに武将の失敗や失態を釈明なく秀吉に報告し、それに対する処罰を告げていた。そのような役目だから仕方ないが、そのため多くの武将から嫌われていた。

 石田三成は官僚ゆえに合戦で戦うことはなく「戦わない者に、あれこれ指図されてなるものか」と戦場で戦った武断派の武将から嫌われた。豊臣秀吉が生きている頃から、豊臣家の内部では 石田三成を中心とする官僚派(文治派)と、合戦で戦った武断派の間で対立があり、この内部対立が「関ヶ原の戦い」の原因になっている。

 豊臣秀吉の死後、家康が勝手に婚姻や知行の斡旋を行ったことが、文治派との対立を深めたが、この対立は戦いにはならなかった。それは前田利家が仲裁役になっていたからである。

 

前田利家

 尾張中村の百姓から天下人に上り詰めた豊臣秀吉は、死を前にして息子の豊臣秀頼の行く末が心配であった。また強大な勢力を持つ徳川家康の動きが気がかりであった。そこで北陸に大領地を持つ親友の前田利家を牽制役として、家康と共に五大老の一人に命じていた。案の定、家康は秀吉死後に態度を変え、有力大名と無許可で姻戚関係を結ぶなど、秀吉が決めたルールを無視する行動をとり家康派を増やしていった。

 前田利家は豊臣五大老の NO.2 としての権力を持ち、その人徳から多くの武将や大名に慕われていた。そのため文治派と武断派の対立は避けられていたのである。

 豊臣秀吉の死後、加藤清正、福島正則、黒田長政ら朝鮮半島で戦っていた武断派が帰ってくると、秀吉の命令書を送っていた石田三成ら官僚派と反目するようになった。徳川家康は加藤清正たちの武断派に目をかけて恩をばら撒き、石田三成らは人望の厚い前田利家を頼りに武断派の動きを牽制していた。

 前田利家は家康の勝手な振る舞いに反発して、五奉行寄りの立場として武断派の暴発を抑えていた。徳川家康も有力武将の多くが豊臣家に忠実な前田利家に味方しているとして、前田利家に逆らうのは不利と判断して和解しているが、秀頼にとっては不運なことに豊臣家の忠実な守護者であった前田利家が、1599年4月にあっけなく病死してしまうのである。

 伏見城に入った徳川家康の権勢はますます高まり、豊臣秀頼に形式的には臣従しながらも奈良興福寺の僧侶・英俊が家康のことを「天下人に成られ候」と書き残したように、民衆の多くは徳川家康を「天下人」として評価した。

 武断派と文治派の内部対立が強まったが、豊臣家に忠節を尽くしていた文治派の石田三成に人望は無く、有力な武将を秀頼方につなぎとめることができなかった。このことが豊臣家の滅亡の一因になった。

 秀吉亡き後に徳川家康と真っ向から勝負できるだけの人望と武略を持っていた前田利家が死去すると、豊臣家の内部分裂は激化して「石田三成暗殺未遂事件」を引き起こすことになる。

 

石田三成暗殺未遂事件

 前田利家が死去すると、石田三成と対立していた武断派の7名が結託して石田三成を亡き者にしようと襲撃したのである。その武将とは福島正則、加藤清正、黒田長政、藤堂高虎、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長といった戦国時代の名将で、さらに池田輝政、蜂須賀家政、脇坂安治も加わることになった。

 石田三成は事前に襲撃を察知すると、三成は驚嘆して襲撃前に姿を消し、ライバルである徳川家康の伏見の邸宅に逃げ込んだ。そのため徳川家康がこの事件の仲裁をおこなうことになる。武断派の武将たちは石田三成を匿った家康に反発したが、この事件で石田三成は謹慎処分となり、三成は奉行職を失脚すると領地の佐和山城(滋賀県彦根市)に引きこもることになる。

 徳川家康が武道派の反発を受けながらも、石田三成を助けた理由は不明であるが、家康がここで三成を殺せば、豊臣家が反家康でまとまると考えたのかもしれない。実際には、この仲裁に乗り出して事件を解決した家康の影響力はさらに高まることになった。と同時に豊臣家の文治派と武断派の対立は修復不可能になる。

  徳川家康は失脚した石田三成の代わりに政務を指揮することになった。家康は他の五大老たちを領地へ帰還させると、秀吉が晩年を過ごした京都の伏見城へ入り、五大老の権限を家康ひとりで振るうことになった。さらに豊臣家の大阪城の西の丸に入ると、徳川家康の権力はさらに強化された。もちろんが他の五大老や五奉行にとって家康の独断支配は面白いはずはない。

  前田利家が死去し、前田家を継いだ前田利長は豊臣五奉行の浅野長政と結託して「徳川家康暗殺計画」を計った。しかしこれが事前にもれ浅野長政は失脚し、家康は前田利長を討伐するため兵を集め、前田家の本拠地である加賀を討伐しようとした。

 前田利家の嫡男・前田利長は家康と一戦を交える覚悟をしたが、母のまつ(芳春院)が家康に敵対するのは無理として、自らが人質になることで家康と前田家との戦いを回避した。諸将を糾合する人望と信任のあった前田利家であれば徳川家康と互角の戦えることが可能だったが、家康は前田家の3倍以上の石高を持っており、嫡男の利長では他の五大老や五奉行や勇将をまとめるだけの人望と戦略を備わっていなかった。前田利長が家康に服従する姿勢をとったため成敗は回避されたが、このことで豊臣五奉行はさらに弱体し、天下は徳川家康のものになると誰もが思い込んでいた。

 

上杉景勝征伐

 1600年の正月、徳川家康は各大名に年賀の挨拶を求めた。ところがこの挨拶を上杉謙信の後継者である上杉景勝が断り、それを伝えた上杉氏の家臣・藤田信吉を謀反の疑いで処罰したのである。

 1600年2月、徳川家康は越後領主・堀秀治と出羽領主・最上義光から、会津の上杉景勝が無断で軍備を増強し、城の防備を固めていると知らされた。さらに上杉氏の家臣で、謀反の疑いで処罰を受けていた藤田信吉が会津から江戸へ「上杉景勝に謀反あり」と訴えてきた。

 徳川家康は問罪使を上杉景勝の元へ派遣するが、上杉景勝の重臣・直江兼続が直江状と呼ばれる書簡を返書として送ってきた。

 この直江状は有名で、その内容は「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど、子供のようなもので釈明の必要もない。軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけで、そちらは京都で茶器を集めているが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをして、こちらに違約違反を言うのはおかしい。あらぬ噂を真に受けて汚名を着せるのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」

 この直江状は家康への堂々とした挑戦状であった。家康は「上杉景勝と石田三成はすでに連携していて、直江状は自分を誘い出すための挑戦状」と受け止めた。

 家康は上杉景勝の叛意は明確として会津征伐を宣言した。出陣に際して後陽成天皇から出馬慰労として晒布が下賜され、豊臣秀頼からは黄金2万両・兵糧米2万石が下された。このことは朝廷と豊臣家から「豊臣家の忠臣である家康が、謀反人の上杉景勝を討つ」という大義名分を得たことになる。
 1600年6月16日、家康は大坂城から軍勢を率いて上杉景勝征伐に出征し、同日の夕刻には京都の伏見城に入った。ところがそれ以降、江戸までの進軍はきわめて遅かった。この出兵は家康に反感をもつ石田三成の挙兵を待っていたのである。

 

石田三成

 徳川家康が出陣したため、大阪城には徳川派がいなくなった。石田三成大谷吉継を館に招いて打倒徳川の相談をした。この大谷吉継は豊臣秀吉に「百万の軍勢を率いさせてみたい」と言わしめた名将であったが、皮膚がただれ腐っていく「ハンセン病」のため、他の人が近寄ることはなかった。石田三成はそれを気にせず、大谷吉継と家康打倒を語った。大谷吉継は三成の家康征伐の計略を聞いて勝機なしと判断するも、三成との友情と熱意から西軍に参加することになった。
 その後、石田三成は豊臣五奉行の増田長盛、豊臣家の重臣の小西行長、豊臣五大老の毛利家の家臣の僧侶・安国寺恵瓊などと相談、徳川軍打倒の計画を立てた。
 翌月の7月、石田三成はついに家康に対し13か条の問題点を書き連ねた「内府ちかひの条々」を各大名に公布し徳川討伐の挙兵を宣言した。「内府ちかひの条々」とは家康への弾劾状で「内府」とは徳川家康のことで「ちかひ」は間違いの意味である。

 つまり徳川家康は13の間違いを犯しているということである。13の間違いとは、家康が勝手に婚姻や知行(領地)の斡旋を行い、無実の前田家や上杉家を攻撃し、勝手に手紙をやり取りし、城の一部を無断で改修した、このような様々な家康の罪状を並べてたのである。

 石田三成は大谷吉継とともに挙兵すると、家康が占領していた大坂城・西の丸を奪い返し、増田長盛、長束正家ら奉行衆とともに、豊臣五大老である中国地方の大名・毛利輝元(毛利元就の孫)を総大将として軍勢を整えた。西側の大名が徳川軍に参加できないように関所を封鎖させると、大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取った。

 宣言の翌日、西軍(宇喜多秀家、小早川秀秋、小西行長、長束正家、長宗我部盛親、島津義弘、鍋島勝茂ら兵数40,000)が、東軍が駐留する京都の伏見城を攻撃した。伏見城には徳川家の重臣・鳥居元忠が守っていたが、守備軍 はわずか1800 人であった。

 

伏見城の戦い
 伏見城は豊臣秀吉が京都市南部に造った邸宅を兼ねた城郭で、秀吉の死去後は家康が関西における本拠としていた。家康は三成が挙兵すれば、真っ先に伏見城を攻略すると予測していたが、最大の決戦は会津でつける以上、伏見城には必要最低限の兵士しか残せなかった。つまり伏見城では確実に負ける戦いを予想していた。家康は家臣の鳥居元忠を総大将に内藤家長、松平近正、松平家忠といった譜代の家臣と1800人ばかりの僅かな兵を伏見城に残した。
 鳥居元忠は家康が駿河の今川義元の人質だった頃から従っていた武将で、家康の戦いの中で多くの武功を立てていた。鳥居元忠との信頼関係も並大抵のものではなく、まさに家康にとって「自分のために死んでくれ」といえる人物だった。数々の権謀術数を駆使した家康でさえ、その別れの夜は、鳥居元忠と話しながら涙が止まらなかった。
 7月19日の夕方、伏見城での戦いが始まった。戦いを前に「家康がいる関東に戻った方が良い」という家臣がいたが、鳥居元忠は「主命に従って戦うまで」と一蹴して、多勢に無勢のまま半月にわたる籠城戦に挑んだ。西軍の大軍を相手に奮闘したが、8月1日に伏見城が炎上すると鳥居元忠は自刀して果てた。

 

小山評定

 上杉景勝を討つため会津征伐に向かっていた家康は、途中の下野国・小山の陣で三成らの西軍が決起し伏見城を陥落させたことを伏見城からの使者より知らされた。家康は重臣たちと協議し、上杉景勝征伐に従軍していた武将達に「人質を取られ困っている者もいるだろう。 ここで大阪(西軍側)に帰っても構わない、道中の安全は保証する」と言った。すると猛将・福島正則が立ち上がり「残してきた妻子を犠牲にしても石田三成を討伐する」と発言し、黒田長政がそれに続き、さらに織田家の旧臣だった山内一豊が「城と領地を全て差し出しても家康様に協力する」と宣言した。

 この発言から反対意見はなくなり、石田三成に反感をもつ武断派の大名たちは家康に味方し「秀頼公に害を成す君側の奸臣・石田三成を討つ」と家康を総大将とした東軍が結成され、西軍が待ち受ける上方に方向を反転した。

 ここで石田三成軍=西軍、徳川家康軍=東軍という、関ヶ原の戦いの2大陣営が決定した。これが有名な小山評定である。

 東軍は徳川軍と福島正則らの軍勢、合わせて10万人ほどで編成された。徳川軍の本隊は徳川秀忠を大将に榊原康政・大久保忠隣・本多正信らが宇都宮城から中山道を進軍し、家康は息子の結城秀康に上杉景勝・佐竹義宣に対する抑えとして関東の防衛を託した。家康は残りの軍勢を率いて東海道から上方に向かった。

 その後、東軍の細川忠興の妻 ・細川ガラシャ(明智光秀の娘) が、人質となっては東軍にいる夫の邪魔になると、屋敷に火を放って自ら死を選んだ。この話が伝わると東軍の結束は強まり、石田三成が人質を取ったことが逆効果になった。

 真田昌幸(真田幸村の父)は小山評定で徳川軍から離脱し、この真田昌幸の離脱が後になって、徳川軍に打撃を与えることになる。

 徳川家康は石田三成と戦うことを決めたが、もともと上杉景勝を討伐するための軍勢だったため、上杉景勝がこのままでいるはずがなかった。西軍との戦闘中に背後から上杉景勝が襲ってくる危険性があった。そのため徳川家康は武断派の大名に先鋒を言いつけ、8月5日から1ヶ月近く江戸城に篭もった。関東を中心とする各大名に協力を要請し、関ヶ原のために足場を固めた。関東・東北で西軍(石田三成側)と言えたのは上杉家佐竹家であった。

 

徳川家康の関東・東北対策

 徳川家康は東北の大名・最上家(山形)と伊達家(宮城)に上杉景勝を抑えさせ、結城秀康には佐竹家(茨城)を抑えることを命じた。最上家と伊達家は上杉景勝への攻撃を命じられたが、上杉景勝は最上家が攻め込むことを察知して、山形の最上家に対し直江兼続と前田慶次に先制攻撃を命じた。最上家は追い詰められたが、 伊達政宗が最上家の救援に向かい戦いは激化したまま一進一退の攻防のすえ上杉景勝を抑えることが出来た。

 慎重な家康は、佐竹義宣の反撃の危険から江戸城に1ヶ月ほど留まり、その間に160通の書状を全国の諸大名に送り、鹿島神宮・浅草観音に祈祷を命じた。これは源頼朝が平家を追討したときと同じで、家康はこの出陣を頼朝にならい武家政治を確立するための門途(かどで)とした。家康が江戸城から出陣したのは9月1日で、9月11日に清洲、9月14日には赤坂に着陣した。

 東軍の先鋒として福島正則がすでに進軍を開始しており、江戸から東海道を通り、三河や尾張(愛知県方面)を一気に進み、各拠点を押さえていった。福島正則は清洲城に入ると、西軍の美濃国に侵攻し織田秀信が守る岐阜城を落とした。その後、家康は信長の嫡孫である織田秀信の命を助けている。

 関ヶ原の前哨戦として石田三成の家臣・島左近と宇喜多秀家の家臣・明石全登が東軍の中村一栄、有馬豊氏を奇襲し、中村一栄の家臣・野一色助義が戦死している(杭瀬川の戦い)。

 

織田秀信

 織田秀信は清須会議で豊臣秀吉に担ぎ上げられた織田信長の孫・三法師のことである。三法師は信長の嫡男・織田信忠の嫡男で、2歳の時に本能寺の変で祖父の信長と父を亡くしたが、本能寺の変のときは物心もつかずに岐阜城にいた。「跡継ぎは三法師様」と決まったが、当然実務はできないので、当分の間は信長の側近・堀秀政が後見となった。また政争相手にあたる叔父・信孝に岐阜城で見張りつきの生活を余儀なくされた。豊臣秀吉が「三法師様を出せ」と言って、一度は秀吉の元に行き賤ヶ岳の戦いで柴田勝家についた織田信孝が自害した後は、もう一人の信長の叔父・信雄の後押しを得たが、実際に身を寄せたのは親族の誰でもなく丹羽長秀のところだった。
 三法師は岐阜城で元服すると、名前を「秀信」と変えている。織田家の通字である「信」より「秀」が先に来ていることが秀吉の陰謀が感じさせる。秀信は11歳で小田原征伐に参加し、12歳で岐阜城13万石大名になっている。
 朝鮮の役では前半戦にあたる文禄の役で渡海し、文禄の役では多くの兵が亡くなっているが秀信は無事帰ってきている。秀吉の死後は関ヶ原の戦いを予見し、前年から岐阜城で戦支度をしていた。当初は会津征伐に参加するつもりだったが、支度が間に合わず、その間に石田三成から美濃・尾張をもらうことを条件に西軍についた。そのために東軍の池田輝政・福島正則らと戦うことになる。
 20歳になった秀信は、自ら出陣して迎え撃つが野戦で敗北し、岐阜城での籠城戦に持ち込んだが開城し(岐阜城の戦い)、切腹するつもりだったが周囲の説得で思いとどまった。戦いぶりについては正則からも「さすがは信長の孫」と賞賛され、その名に恥じない采配だった。

 家康は一命を助け、秀信は剃髪し異心のないことを示すため高野山へ向かった。しかし高野山はかつて信長と戦ったことがあるため、入山しても周囲の視線からか、5年後には自ら山を下りて麓で細々と暮らした。しかし下山からたった20日で秀信は死去してしまう。享年25、英雄の孫であったが早すぎる死であった。病気のため下山したとも考えられるが、自害だった可能性もある。秀信は信長の孫という立場で自分の役目を成し遂げたのである。

 

徳川秀忠の大遅刻

 天下分け目の関ヶ原合戦が行われ、徳川家康率いる東軍と石田三成が主導する西軍とが激突したが、この戦いに家康の三男・秀忠も家康に与えられた3万8000の兵とともに中山道を通って上方に向かっていた。秀忠が率いる軍勢は徳川軍の本隊であったが、秀忠は大遅刻し、家康に激しく叱られることになる。

 徳川秀忠の軍勢は9月15日の関ヶ原の戦いには間に合わなかった。それは途中の上田城に徳川軍から離脱して西軍についた 真田昌幸真田幸村 がいたからである。

 上田城は 2000人の兵、徳川秀忠の軍勢は 38000の兵で、兵力には圧倒的な差があり、秀忠は楽勝と思ったが、名将真田昌幸の防戦に大苦戦となった。徳川秀忠は「上田城を落とせず戦わずに進むことは恥になる」と時間をとられてしまった。

 家康に味方する諸将は東海道を通って西へ向かていたが、徳川秀忠は西に向かわず、途中で小諸城に立ち寄った。小諸城は武田信玄が築城した城で、徳川秀忠はこの城を拠点に真田昌幸・幸村(信繁)父子のいる上田城を落とそうとした。大軍で包囲して攻めれば簡単に落ちるだろうとの軽い気持ちがあった。このとき秀忠22歳。しかも初陣で多くの兵を引き連れて、気持ちが大きくなっていた。

 

上田城落城へのこだわり

 徳川秀忠が石田三成という敵を前にして、上田城の真田昌幸・幸村父子にこだわったのは、1585年の第一次上田合戦での敗北があった。このとき家康は8000の大軍を上田城に向かわせたが、たった2000の真田軍相手に苦戦し撤退を余儀なくされたのである。この屈辱を晴らしたいという思いが秀忠を上田城に向かわせたのである。上田合戦は秀忠の血気による行動ではなく、家康の命令とも考えられる。

 真田昌幸は武田信玄に認められ、秀吉に「表裏比興の者」と呼ばれた謀将であった。目的のためなら手段を選ばない昌幸の策略が、真田家を戦国大名として躍進させていた。関ヶ原合戦のとき昌幸はすでに53歳、22歳の若き秀忠は昌幸の策略に見事はまったのである。

 小諸城に入った秀忠は昌幸の嫡男・信幸と本多忠政を「降伏勧告」の使者として上田城に送った。すると昌幸はすんなりとこれを受け入れたのである。秀忠はやはり昌幸といえども3万8000もの兵の前に怖気づいたかと内心得意げだった。しかしこれこそが昌幸の策略だった。

 

時間稼ぎが目的

 真田昌幸が降伏を受け入れたのは時間稼ぎだった。昌幸はこの時すでに東西両軍の決戦城は濃尾平野になると読んでいた。その上で、家康は城攻めよりも野戦が得意なので、秀忠軍をここで足止めして、野戦を遅らせればその間に三成は大垣城に籠り、寝返りを待つことができると考えた。そのため降伏を約束した昌幸はなかなか秀忠のいる本陣にあいさつにこなかった。しびれを切らした秀忠が再び仙石秀久を使わしたところ、昌幸は今度は「西軍につく」と言いだしたのである。

 秀久は再び降伏を勧告する使者を派遣したが、昌幸がこれを受けることはなかった。こうして秀忠と昌幸は直接対決へとなり、徳川軍は昌幸の巧みな戦略の前に多くの犠牲者を出して敗北してしまった。さらにこうしたやり取りにより、結局、秀忠の率いる徳川軍の本隊は上田城に7日間も足止めされ、関ヶ原決戦に遅刻する羽目になってしまった。

 本隊不在ながら東軍は関ヶ原の戦いに勝利を収めることができた。しかし秀忠は家康に激しく叱られ、合戦後の論功行賞では豊臣系諸侯に没収地の大半が与えられることとなった。

 遅刻したこと以上に3万8000もの兵を率いながらわずか5000の真田軍に敗北したことへの叱責は大きかった。敗北した上に遅刻までした秀忠は、三方ヶ原で血気盛んに敗北してしまった家康と同じだった。親子2代に渡って若い時に挫折と屈辱を味わうことになった。

「戦わずに西へ進め」という家康の使者が大雨で遅れて伝わらず、徳川軍の兵力の半分をこの徳川秀忠が率いていたが、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。このことは徳川家康の大誤算となった。

 

関ヶ原の戦い

 西軍の総大将は毛利輝元であったが、名前だけの大将で、大阪城から出陣しなかったため、実際の指揮は石田三成がとることになった。大垣城にて家康との戦いの戦略をたてる西軍に、薩摩の島津義弘は「家康本陣に夜襲をかけるよう」に提案するが採用されなかった。腹を立てた島津義弘は合戦に非協力になる。西軍は薩摩の猛将・島津義弘の協力を失うことになった。
 それでも先に関ヶ原にて東軍を待ち構える西軍の布陣は万全のものであった。関ヶ原に先に到着した西軍は、石田三成が笹尾山、宇喜多秀家が天満山、小早川秀秋が松尾山、そして毛利秀元が南宮山に布陣して関ヶ原の高所の大半を抑え、東軍を囲む鶴翼の陣を布いた。後に陸軍大学校の教官・ドイツのメッケル参謀少佐は、関ヶ原の戦いにおける東軍西軍の配置を目にすると即座に「西軍の勝ち」を断言したとされている。

 西軍の布陣はおよそ8万数千、東軍の兵力よりもおよそ1万人上回っていて、東軍を包み込んで包囲攻撃できる布陣であった。本来ならば東軍は圧倒的に不利であったが、徳川家康は軍師で禅僧の閑室元佶に勝利の占いを行わせると大吉であった。家康は鶴翼の西軍の多くの諸将と内通していたため、鶴翼の陣の奥深くに陣を置いた。日本は世界一の鉄砲保有量を誇っていてこの戦いの総兵員のうち10分の1(約2万人)が鉄砲を装備していた。

 東軍が関ヶ原に着いたのが午前5時ごろである。小雨が上がったものの、辺りは深い霧が覆い数メートル先も見えないほどであった。しかしその中をまずは東軍が動き始める。9月15日午前8時、関ヶ原において東西両軍による決戦が繰り広げられた。激突した主な武将は以下のとおりである。

    東軍・福島正則  VS 西軍・宇喜多秀家
    東軍・藤堂高虎・京極高知  VS 西軍・大谷吉継
    東軍・織田長益・古田重勝 VS 西軍・小西行長
    東軍・松平、井伊、本多忠勝  VS 西軍・島津義弘
    東軍・黒田長政、細川忠興  VS 西軍・島清興(石田三成隊先陣)

 東軍の先鋒隊は福島正則隊と決まっていたが、家康四男・松平忠吉と井伊直政が抜け駆けによって戦いは開始された。これは徳川対石田の争いで、秀吉恩顧の福島正則隊よりも徳川の自分達が先を越したいと井伊直政は思っていた。井伊隊は福島隊の脇を通り過ぎ、物見の為に先にでると偽りながら前進し、宇喜多隊を見つけるやいなや発砲した。

 先を越されてなるものかと福島正則隊も後に続き関ヶ原の戦は幕を開けた。家康は抜け駆けを厳禁していたが、霧の中での戦いだったので偶発的な遭遇戦がきっかけとされた。最大の激戦は東軍の福島政則と西軍の宇喜多秀家の争いで一進一退の戦闘となった。
 大将首を狙って石田三成隊に東軍が殺到する。黒田長政が石田隊の左翼を突き、そこに細川忠興、加藤嘉明らも後に続いた。しかし石田隊は木柵や空堀からなる野戦陣地で敵勢を防ぎ、鉄砲、大筒などで必死に東軍を抑えていた。黒田隊の狙撃兵が石田隊の先陣を打つと、石田隊は大砲を発射して応戦した。

 大谷吉継隊には藤堂隊、京極隊が襲い掛かった。兵力的には東軍側が圧倒していたが、大谷吉継は3倍近い藤堂隊、京極隊を何度も押し返した。小西隊には古田隊、織田隊がそれぞれ攻めかかった。

 戦場ではどちらが勝ってもおかしくない状態であったが、この時点では石田三成の有利であった。未だ参戦せずにいる毛利隊と小早川隊合わせて4万5千の兵がいっきに東軍を攻撃すれば西軍の勝利は確実であった。

 家康本隊3万は戦闘には参加せず、開戦から間もなく経ってから桃配山を降りて最前線へ陣を移した。敵味方とも押し合い、鉄砲を放ち、矢の飛び交う音が天を轟かし、大筒が地を動かし黒煙が立ち、日中であったが暗闇となり敵も味方も攻め戦った。

 開戦から2時間を過ぎると、石田三成はまだ参戦していない武将に催促の狼煙を打ち上げ、島津隊に応援要請の使いを出した。西軍は総兵力のうち、戦闘を行っているのは3万3,000人ほどであったが、地形的に有利なため戦局は優位に進んだ。

 しかし西軍は宇喜多、石田、小西、大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に戦っているだけで、部隊間の連携が取れていなかった。それに対し東軍は部隊数、実動兵力数で上回り、西軍の各部隊に対し複数の軍勢が連携して同時に多方面から包囲攻撃を仕掛けた。入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして攻め立てた。さらに遊撃部隊として最前線後方に控えていた寺沢勢、金森勢が東軍の増援として加わったため、時間が経つにつれて次第に戦局は東軍優位に傾き始め、石田隊は猛攻を受けて柵の中に退却した。

 西軍主力部隊はいずれも士気が高く、その抵抗力は頑強だったので戦局を覆すほどの決定打には成らなかった。ここで松尾山の小早川秀秋隊1万5,000と南宮山の毛利秀元隊1万5,000、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊6,600ら、計4万7,000が東軍の側面と背後を攻撃すれば、西軍の勝利は確定であった。しかし島津は「使者が下馬しないのは無礼だ」という理由で応援要請を拒否、また毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは、徳川家と内応済みの吉川広家に道を阻まれて参戦できず、南宮山の毛利軍ら3万3,000の大軍は参戦しなかった。このことが直後に起きる小早川秀秋の裏切りと並ぶ西軍の敗因となった。


小早川秀秋の裏切り
 家康は内応を約束していた小早川秀秋隊が、松尾山の山奥に布陣したまま動かないことに業を煮やし、正午過ぎに松尾山へ向かって威嚇射撃を加えるように命じた。この家康の督促射撃によって松尾山を降りた小早川隊1万5,000の大軍が東軍に寝返った。轟音が響き黒煙が視界を塞ぐ中で、家康が打ちかけた鉄砲を判別できたかどうかが疑問がありこれが真相かどうか疑問がある。むしろ家康が打った鉄砲は小早川の寝返りを促したというより、小早川に西軍を攻めよとの合図と受け取れる。 なお小早川隊の武将で先鋒を務めた松野重元は「反逆は武士としてあるまじき事」として小早川秀秋の命令を拒否している。

 小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と戦闘をしていた大谷吉継隊の右翼を攻撃した。大谷吉継は秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600人の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押え返した。ところがそれまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も小早川隊に呼応して東軍に寝返り大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変し、戸田勝成・平塚為広は戦死して大谷吉継も自刃した。石田三成の軍勢は裏切り行為によってざわめきが起き混乱が続いた。大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂らの寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、宇喜多隊に狙いをつけ関ヶ原中央へ向け進軍を始めた。ここに関ヶ原の戦いの勝敗はほぼ決定した。

 

西軍敗走
 小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により、家康本隊もようやく動き出し、東軍は西軍に攻撃をかけた。宇喜多隊は小早川隊の攻撃を防いでいたが、3倍以上の東軍勢の前に壊滅した。宇喜多秀家は小早川秀秋と刺し違えようとするが、家臣に説得され敗走した。宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊も壊滅し小西行長は敗走した。石田隊も東軍の総攻撃に粘り続けたが、島・蒲生・舞などの重臣が討死し石田三成は伊吹山の方面へ逃走した。


島津勢の敵中突破退却戦
 島津隊は東軍に包囲されが敵中突破退却戦、いわゆる島津の退き口(捨て奸)を開始した。島津義弘隊1,500人が鉄砲を放ち、正面に展開していた福島隊の中央突撃を図った。西軍が壊滅・逃亡する中で反撃の虚を衝かれた福島隊は混乱し、その間に島津隊は強行突破に成功し、更に寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平・井伊・本多の3隊に迎撃されるもこれをも突破した。この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものはなくなった。島津隊を見た家康は迎え撃つべく床几から立ち、馬に跨って刀を抜いた。しかし島津隊が直前で転進して、家康本陣をかすめるように通り抜け、正面の伊勢街道を目指して撤退を急いだ。松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を追撃するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みた。

 島津隊将兵の抵抗は凄まじく、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷したため後退した。この追撃戦で島津方の島津豊久・阿多盛淳が戦死し、次に追撃した松平忠吉は申の中刻に狙撃されて負傷して退却した。本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬し、徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれたこと、さらに本戦の勝敗がすでに決っしていたことから、家康は追撃中止を命じ深追いを避けた。

 島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出し、兵も80前後に激減しながらも殿軍の後醍院宗重、木脇祐秀、川上忠兄らが奮戦し義弘は撤退に成功した。島津盛淳は義弘がかつて秀吉から拝領した陣羽織を身につけ、義弘の身代わりとなって「兵庫頭、武運尽きて今より腹を掻き切る」と叫んで切腹した。島津家は戦功があった5人に小返しの五本鑓の顕彰を与えている。

 

毛利勢

 西軍の壊滅を目の当たりにした南宮山の毛利勢は戦わずに撤退を開始した。浅野幸長・池田輝政らの追撃を受けると、長宗我部長束安国寺隊の援護を受けて戦線を離脱して、伊勢街道から大坂方面へ撤退した。殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は少なからざる損害を受けるが辛うじて退却に成功した。

 安国寺勢は毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ、長宗我部勢と長束勢はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して敗走した。西軍諸隊の中でまともな形で撤退したのは彼らだけであった。

  開戦当初は高所を取った石田三成の西軍が有利であったが、かねてから懐柔策をとっていた小早川秀秋の軍勢が、同じ西軍の大谷吉継の軍勢に襲いかかったのを機に形成が逆転し西軍は総崩れとなり東軍の完勝に終わった。

 9月18日、徳川家康は石田三成の居城・佐和山城を落として近江国に進出し、9月21日には戦場から逃亡していた石田三成を捕縛し、10月1日に小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原で処刑した。

 その後大坂に入った家康は西軍に与した諸大名をことごとく処刑・改易・減封に処し、召し上げた所領を東軍諸将に分配して、自らの領地を250万石から400万石に増やした。

 秀頼、淀殿に対しては「女、子供のあずかり知らぬところ」として咎めず、領地はそのままにしたが、豊臣氏の直轄地を論功行賞として各大名の領地に分配したため、豊臣氏は摂津国・河内国・和泉国の3ヶ国65万石のみの大名となり、家康は天下人としての立場を確立した。

 関ヶ原の戦いは石田三成(西軍)対徳川家康(東軍)の戦いであって、豊臣対家康の戦いではない。西軍東軍ともに豊臣のために戦ったのである。そのため徳川家康が天下を取るためには豊臣を倒す必要があった。

 関ヶ原の戦い後、徳川家康は征夷大将軍まで3年かかっているが、新しい武士の棟梁になるには征夷大将軍になる必要があり、征夷大将軍になるには様々な手順が必要だったからである。まず征夷大将軍になるには源氏の流れが必要だった。豊臣秀吉のように関白として天下人になるのか、源頼朝のように征夷大将軍として幕府を開くのか、いずれにしても源氏長者の立場であることが必須だった。その準備に3年かかったのである。

 

征夷大将軍
 1600年12月19日、豊臣秀次が解任されて以来空位となっていた関白の座に、家康の推薦で九条兼孝が任じられ、豊臣氏による関白の世襲制を止めさせ、旧来の五摂家に関白職を戻どし、豊臣家は摂家のひとつにすぎないとした。しかしこれで豊臣秀頼の関白への道が完全に否定されたわけではない。

 関ヶ原の戦いの戦後処理を終えた家康は、1601年3月23日に大坂城・西の丸を出て伏見城で政務を執った。そこで征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図を改め、家康は徳川氏の系図を足利氏と同じ源義家に通じるようにした。
 1602年、関ヶ原の戦いの戦後処理で処分が決まってなかった常陸国・水戸の佐竹義宣を出羽国の久保田に減転封し、代わりに武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸藩に入れた。1603年2月12日、ついに後陽成天皇が宣旨が下し、家康を征夷大将軍淳和奨学両院別当右大臣に任命した。武家の棟梁が征夷大将軍への任官に伴いほかの官職を与えられことは足利義満からの慣例であった。
 同年3月12日、家康は伏見城から二条城に移り、3月21日御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い年頭の祝賀を述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を招き饗応した。これにより征夷大将軍・徳川家康は武家の棟梁となる地位を確立した。


大御所政治
 1605年4月16日、徳川家康は将軍の座をわずか2年で退くと、嫡男・秀忠へ将軍を譲った。このことで将軍職は以後「徳川氏が世襲し、豊臣には渡さない」ことを天下に示したのである。また同時に、豊臣秀頼に新将軍・徳川秀忠と対面するように要請したが、豊臣秀頼はこれを拒絶した。

  1607年に家康は駿府城に移り、「江戸の将軍・徳川秀忠」に対して「駿府の大御所」として実権を握ったまま江戸幕府の制度作りを行った(大御所政治)。江戸には将軍徳川秀忠を置いたが、家康は駿河に移ってからも軍事、外交、文化、経済など実質的な判断を下した。

  朝鮮通信使と謁見して文禄・慶長の役以来断絶していた李氏朝鮮との国交を回復させた。また1609年にはオランダ使節と会見しオランダ総督からの親書を受け取り、朱印状による交易と平戸の商館の開設を許可した。

  1611年3月20日に義利(義直)・頼将(頼宣)・鶴松(頼房)を叙任させ「御三家」体制への布石をしいた。3月22日には、自らの祖先と称する新田義重に鎮守府将軍を贈官し、実父松平広忠には権大納言を贈官した。
 同年3月28日、二条城にて豊臣秀頼と会見、当初、秀頼はこれを徳川秀忠の征夷大将軍任官の際と同じように面会を拒絶するが、家康は織田有楽斎を仲介として上洛を要請し、淀殿の説得もあって、ついには秀頼は上洛することになる。この会見により、徳川公儀が豊臣氏よりも優位であることを示し、同4月12日に西国大名らに対し三か条の法令を示し、誓紙を取ったことで徳川公儀による天下支配が完成した。
 同年、スペイン国王フェリペ3世の親書を受け取り、両国の友好について合意したが、通商を望む日本に対しスペインの前提条件はキリスト教の布教であった。この前提条件は家康の経教分離を無視したことになり、家康を禁教に踏み切らせる真因となる。家康の対外交政策に貿易制限の意図がないことから、この禁教令が鎖国に直結するものではない。

 1613年、イングランド国王ジェームズ1世からの親書と献上品を受け取ると、朱印状による交易を許可し、平戸にイギリス商館の開設を許可した。

大坂の陣
  晩年を迎えた家康にとって豊臣氏は最大の脅威であった。豊臣氏は大名の位置に転落したとはいえ、なお特別の地位を保っていて、実質的に徳川氏の支配は及ばず、西国の大名の殆どが豊臣派の大名であった。また家康は将軍となったが、豊臣秀頼が同時に関白に任官するとの風説があった。家康が死ねば後の政権は豊臣秀頼が継ぐだろうと噂されていた。
 さらに家康は問題を抱えていた。それは将軍徳川秀忠とその弟・松平忠輝の仲が悪く、忠輝の義父である伊達政宗がまだ天下取りの野望を捨てていなかった。そのため伊達政宗松平忠輝を擁立して反旗を翻すことが懸念されたのである。また将軍家のなかでも徳川秀忠の子である徳川家光と徳川忠長のいずれが次の将軍になるかで対立していた。さらに禁教としたキリシタンの動向も無視できなかった。もしこれらが豊臣氏と結託して打倒家康で立ち上がれば、江戸幕府にとっては大きな脅威となった。

 家康は当初、徳川氏と豊臣氏の共存を模索する動きがあった。諸寺仏閣の統制を豊臣氏に任せようとしていた兆候もある。また秀吉の遺言を受け、孫娘・千姫を秀頼に嫁がせてもいる。しかし豊臣氏の人々は政権を奪われたことにより次第に家康に反発するようになった。豊臣氏は徳川氏との決戦に備えて多くの浪人を雇い入れていたが、それが天下に乱をもたらす準備であるとして幕府の警戒を強めた。
 このような中で結城秀康、加藤清正、堀尾吉晴、浅野長政、浅野幸長、池田輝政など豊臣恩顧の有力大名が次々と死去したため、次第に豊臣氏は孤立を深めていった。家康は70歳という年齢になり、成長した豊臣秀吉の息子・秀頼にも焦りが見えてきた。そのため、1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣氏の処遇を決するように動き始めたのである。

 

方広寺鐘銘事件
 関ヶ原の戦いから14年後である。現在も残る方広寺の梵鐘の銘文「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれ、これが問題となった。豊臣氏は家康の勧めで1614年4月に方広寺を再建し、8月3日に大仏殿の開眼供養を行うことになっていた。ところが幕府は方広寺の梵鐘の銘文中に不適切な語があるとして供養を差し止めた。問題にしたのは、方広寺の鐘に「国家安康、君臣豊楽」と銘が刻まれていたからである。「国家安康」は家康の名を切り離し呪いをかけているとし「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣家の子孫の繁栄を願うとした。さらに「右僕射源朝臣」については「家康を射る」という言葉だと非難した「右僕射源朝臣」は右大臣の唐名で源家康を意味していたからである。
 さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせると、五山の僧侶たちは「この銘中に国家安康の一句、御名を犯す事はなはだ不敬」と返答した。これに対して豊臣氏は家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し弁明したが、家康は会見を拒否し、逆に片桐且元を拘束した。豊臣家は片桐且元がいつまで経っても帰ってこないことを不審に思い別の使者を送ると、家康はすぐに面会して「豊臣家と対立する意思はない」と伝えた。しかしその後、家康は片桐且元に自身の怒りを伝へ「豊臣家が徳川家に逆らう意思がないのであれば誠意を示せ」と脅迫した。この結果、豊臣家は先に帰ってきた使者と片桐且元とで全く違う家康の考えを聞くことになり、片桐且元は秀頼の大坂城退去を提案し妥協を図ったが、疑心暗鬼となった豊臣家は片桐且元を追放するなど混乱した。さらに家康は「淀殿を人質によこせ」と無理難題をつきつけた。この嫌がらせに秀頼母子は堪忍袋の緒が切れ、浪人たちを大阪城に集め軍備を整えた。

 これを好機と見た73歳の家康は「豊臣方が挙兵した」とただちに諸大名に出動命令をだし、豊臣家に宣戦布告をした。この事件は豊臣氏を攻撃するために家康が以心崇伝らと画策した作とされている。言いがかりともいえるが、方広寺鐘銘事件は豊臣側の軽率が招いたもので挑発や呪詛と受け取られてもしかたないことである。この鐘は太平洋戦争中の金属供出を免れ現在も方広寺境内に残されている(重要文化財)。

大坂冬の陣
 1614年11月15日、家康は二条城から大坂城の攻めについた。20万人からなる大軍で大坂城を包囲したが、真田幸村らの活躍により大阪城の豊臣方は善戦する。そのため力づくで攻めずに、大坂城の外にある砦などを攻める局地戦に作戦を変更した。
 徳川軍は木津川口・今福・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利を重ねたが、真田丸の戦いでは大敗を喫した。大敗を喫したが戦局を揺るがすほどの敗戦ではなく、徳川軍は新たな作戦を始めた。

 午後8時、午前0時、午前4時に一斉に勝ち鬨をあげ、午後10時、午前2時、午前6時に大砲を放ち、戦いに慣れていない淀殿を脅そうとしたのである。この砲撃作戦は成功し、落城の恐怖に怯えた淀殿は和睦を申し出てきた。家康は強固な大阪城を武力で落とすことにこだわらず、淀殿や女官の心理をよみ精神的に疲弊させる策略を用いて有利な条件で和睦にもち込んだのである。
 家康は和睦の翌日より一斉に外堀を埋め始め、和議の条件に反して外堀だけでなく内堀までも埋めてしまった。さらには豊臣側が行うと約束した作業も家康側が勝手に始めた。そのことを豊臣側が抗議するが、したたかな家康は初めから騙すつもりの和議であったため黙殺した。
 和議の条件は、本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し外堀を埋めること。淀殿を人質としないで秀頼の身の安全と本領を安堵することであった。城中諸士についても不問を約束していた。内堀を埋めることは条件に入っていないが、もともと家康は騙すことを目的としていたので、1ヶ月も経たないうちに難攻不落の大阪城は本丸だけを残す無防備な裸城となった。

 

大坂夏の陣
 大坂夏の陣の頃、豊臣氏は主戦派と穏健派で対立していた。主戦派は和議の条件であった総堀の埋め立てを不服とし内堀を掘り返し、大量の兵糧を城へ運び、浪人を雇った。そのため幕府は「豊臣氏が戦いの準備を進めている」と詰問し、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の地方への国替えを要求した。さらに徳川義直の婚儀を理由に上洛に合わせて近畿方面に大軍を送り込んだ。そして豊臣氏が要求を拒否すると再度侵攻を開始した。
 籠城であれば勝利の可能性があったが、裸にされた大阪城では野戦に出るしかなかった。しかも大阪城に集められた兵は寄せ集めの軍兵である。豊臣氏は大坂城からの出撃策をとったが、兵力で圧倒的に不利であり、塙直之、後藤基次、木村重成、薄田兼相ら勇将を相次いで失った。

 ここで豊臣方の真田幸村が冬に陣に続き、夏の陣でも活躍を見せる。真田隊は3000の兵にて家康の孫である松平忠直隊(13000兵)を死に物狂いで撃破すると家康の本陣へと突入した。真田幸村隊は家康本陣を2度に渡って攻撃し、家康本陣を12キロも後退させた。一時は本陣の馬印が倒れ、家康自身も自決の覚悟をするほどの危機に見舞われた。家康は真田隊によって討ち取られたとされたが、それは家康の影武者だった。

 3度目の突入で真田隊は力尽き、真田幸村も無名兵士の槍に倒れ討ち死にした。大坂城は雪崩のように攻め寄せる15万人もの幕府軍を支えきれず、5月7日深夜に大坂城は陥落した。

  大坂城の燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様子が見えた。5月8日、脱出した千姫による助命嘆願も無視され、秀頼と淀殿、その側近らは勝永の介錯により自害、勝永自身も自害した。ここに豊臣宗家は滅亡した。
「家康は秀頼の自害直前に保護しようとしたが間に合わず泣き伏したという」という説もあり、山岡荘八の小説「徳川家康」ではこの説をとっている。その後、大坂城は完全に埋め立てられ、その上に徳川氏によって新たな大坂城が再建された。秀吉の死後に授けられた豊国大明神の神号が廃され、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟は閉鎖・放置されている。明治維新の後に豊国大明神号は復活し、東照宮に信長や秀吉が祀られている。

淀君

 淀君は1567年生まれ、本名はお茶々。母は信長の妹お市である。父は小谷城主の浅井長政。7歳の時に母の兄、織田信長に攻められ小谷城は落城し父・浅井長政は自害する。落城に際し、母のお市や妹たちとともに、織田の陣営に引き取られる。ところが「本能寺の変で、頼みの信長が明智光秀に殺害されたことから、彼女の人生も波乱に満ちたものとなる。
 まず母のお市は、織田家の有力武将、越前北ノ庄(福井県)の城主、柴田勝家のもとへ嫁ぎ、羽柴秀吉に攻められ、母は夫とともに自害し、お茶々たち3人の娘だけが秀吉の手に渡される。この後、お茶々は秀吉の側室となる。秀吉にはほかにもたくさん側室がいたし、長年連れ添ったねねが、正室・北政所としてえていた。それだけに心穏やかではなかったかもしれない。
 やがて、お茶々は身ごもり出産。不幸にしてこの子は早死にするが、まもなく2人目の子(秀頼)が生まれる頃から、秀吉は親ばかになり、お茶々は淀殿と呼ばれるようになる。秀吉の死後、秀頼が大坂城のあるじになると、秀頼に寄り添って離れない。そして北政所を大坂城から追い出してしまう。
 淀君は秀頼の教育において決定的な間違いを犯している。「カエルの子はカエルになれるが、太閤の子は太閤になれるとは限らない」ということに気付かなかったのだ。秀頼は秀吉とは違う。溺愛するあまり、秀頼は普通の子、秀吉と比べれば“ボンクラ”であることを見抜く冷静さに欠けていた。
 やがて彼女は挫折する。徳川方と戦ってはことごとく敗れる。実はこの戦いの前に、家康は秀頼が大和一国で我慢するなら命を助けてやろうと言っている。たぬきオヤジといわれた家康の真意のほどは分からないが、もしそれがホンネだとしたら、案外そのあたりが秀頼の能力にふさわしかったのではないか。そして、彼女にそれを受け入れる度量の広さや冷静さがあったら、母子して猛火の中でその生涯を終えることはなかったろう。
 関ケ原の戦い、大坂冬の陣、大坂夏の陣で、もう少し徳川家康の心理を読み、冷静に自陣の将兵に接すれば情勢は変わったのではないか。とくに名目上の総大将、息子の豊臣秀頼に対する教育ママぶりを抑える器量があれば少なくともあれほどあっけなく歴史上、豊臣氏が消えることはなかったろう。淀君の度を超えた虚栄心、権勢欲が豊臣氏を早期滅亡させたといっても過言ではない

 

決死の脱出、お菊物語
 大坂夏の陣と言えば真田幸村と後藤又兵衛の奮戦、豊臣滅亡の悲劇と見どころが満載であるが、その一方で落城時には無差別な乱暴狼藉が行われ、女性などの弱者が蹂躙される様子が「大坂夏の陣図屏風」には描かれている。しかしすべての女性が略奪や殺害の憂き目を見たかというわけではない。戦国を生きた人々は、女性でも乱戦を生き伸びる術を身に付けていた。その一人が豊臣家の侍女・お菊である。
 お菊の父は浅井長政に仕えていた武士・山口茂左衛門で、貧乏だった頃の藤堂高虎の面倒を見たりと重臣ではなかったが生活には困らない家庭だった。
 このお菊一家は浅井家と縁深く、父は浅井が滅亡して浪人になった時に、藤堂高虎が300石取りの武士として仕官されている。浅井家で茂左衛門が仕えたのが茶々(淀殿)であり、浅井の生き残りに父娘が仕えるという数奇な運命を辿っていた。20歳のお菊は侍女として淀殿に仕える華やかな日々を過ごしていたが、1615年5月7日、お菊が大坂城で下女に蕎麦焼を作るように申しつけていた際に、城が焼けている匂いに気づいた、すぐに千畳敷の縁側へ出て、見晴らしの良いところで確認すると、城のあちこちから火の手が上がってた。落城を悟ったお菊は本丸から逃げ、まさしく生き延び再起を図ろうとした。お菊は麻のひとえを3枚重ねにして帯も3本締め、豊臣秀頼から賜った鏡を懐にねじ込むと金の延べ棒を持って脱走した。その途中で豊臣家の馬印である金瓢箪が落ちていると「御馬印を捨て置いては恥」として壊した。
「女性は外に出てはいけない」と制止する声を振り切って城外に出た。しばらくするとお菊の前に徳川方の兵が現われ。お菊は胸元深くにしのばせていた金を1本敵兵に手渡すと、藤堂家の陣まで助けを求めた。金の延べ棒を与えて手懐け藤堂家の陣まで護衛してもらう豪胆と機知を発揮した。

 その後、城を後にした常高院(淀殿の妹:お初)の一行と合流した。常高院(お初)は秀頼の母。淀殿を姉に、徳川秀忠の妻・江(江与)を妹に持ち、先刻の冬の陣で徳川との和睦交渉の使者となっていた人で、京極高次の妻でもあった。常高院の女中がたった1枚のかたびらに1本の下帯のみの姿だったのを見かねたお菊は、自分は3枚着てるのでと1枚わけてあげるというやさしさも見せた。常高院に徳川家康からの呼び出しがかかり、常高院が家康の陣に向かうと「城内におる者も出た者も、女の子は関係ない。好きなようにしよ」と命令が出たのである。
 こうしてお菊は窮地を脱したが、徳川方の藤堂家ではなく淀殿についた父の茂左衛門は、おきくから紅白の指物を受け取って喜ぶが、最終的には戦死を遂げた。
 父の死の痛手を受けつつも、お菊は生き延びて備前岡山藩の田中と言う医師の妻となり、83年の天寿を全うした。この大坂の陣を女性の視点から書いた「おきく物語」は、お菊が孫の田中意徳に昔語りを聞かせるように語ったもので現代まで残されている。