化政文化

  文化・化政文化(江戸時代後期文化)

 江戸時代前期は上方を中心とした元禄文化が栄えたが、江戸時代後半のを迎える頃には、世界1人口を誇る江戸の町人文化が花開いた。

 田沼時代は経済成長によって国全体が豊かになり様々な文化が各地に広まった。それまで上方で流行していた浮世草子にかわって江戸の遊里を舞台とした洒落本や、時代を風刺した挿絵入りの黄表紙が流行した。

 田沼時代に発達した文化は松平定信の寛政の改革によって一旦は冷え込むが、徳川家斉が政治の実権を握った大御所時代に再び栄えた。後者の文化は元号の文化や文政から文化化政文化とよぶ。

 江戸時代後期の文化は江戸中心の庶民化した文化である。江戸は京都など上方と並ぶ経済と文化の一大発信地になり、文化の担い手として町人たちが大きな役割を果たした。活発な経済活動や寺社参詣の流行は多くの人の往来を触発し、人々の交流によって全国で様々な文化を生み出していった。様々な思想が登場し多種多様な芸術を生んだ。

文学

 文学では与謝蕪村や小林一茶、絵画は葛飾北斎に歌川広重、東洲斎写楽が有名である。(東洲斎写楽の名はしゃらくせぇからきている)。

文学
1.洒落本・黄表紙
 江戸の遊里を描いた洒落本・風刺の効いた絵入り小説の黄表紙。代表は山東京伝(さんとうきょうでん)で、山東京伝は浮世絵を描いていたが、次第に作者を兼ねるようになり作家に転向した。山東京伝は洒落本の仕懸文庫や黄表紙の江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)を書いた。江戸生艶気樺焼は大金持ちの商人の一人息子・艶二郎が主人公でで、ブサイクな男であるが自分は格好良いと自惚れ、吉原の遊女などに色恋で浮名をながそうと必死に努力する姿を滑稽に描いている。などを執筆した。しかし松平定信の寛政の改革で不謹慎な作品であるとして手鎖50日の刑を受けている。
2.滑稽本
 滑稽本とは庶民の暮らしなどを平易な言葉で面白可笑しく描いたもので、庶民の生活を生き生きと描き、読みやすさから人気を得た。代表作は十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の東海道中膝栗毛で、主人公の弥次郎兵衛と喜多八の弥次喜多コンビが江戸から大坂まで様々な騒動を起こしながらの珍道中である。今でも読み継がれて、東海道といえば弥次さん、喜多さんが今でも代名詞的な存在である。また式亭三馬の代表作は浮世風呂と浮世床で両方とも江戸の庶民の生活を面白く描いたものである。それぞれが風呂や床屋を舞台に人々の世間話が展開してゆく。
3.人情本
 庶民生活を描いたもので、代表的な作家は為永春水(ためながしゅんすい)で代表作は春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)という恋愛ものである。また黄表紙の流れをくむ絵物語の長編は合巻と呼ばれ柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)が有名であるが、しかし両者ともに水野忠邦による天保の改革によって風紀を乱すことから処罰され人情本は衰退していく。
4.読本
 いっぽう黄表紙のように挿絵を用いず、文章を主体に歴史や伝説を題材にした物語も人気を集めた。傾向としては弱きを助け、強くをくじくといった勧善懲悪的なもの、因果応報といった教育的な内容が多く、文章はやや難しいが代表的な作家は上田秋成(しゅうせい)、滝沢馬琴である。
 上田秋成の代表作が雨月物語で全五巻、九篇の構成で、崇徳上皇の亡霊や豊臣秀次の怨霊が登場するなど、様々な時代を舞台にした怪異小説です。滝沢馬琴の代表作は南総里見八犬伝で、28年かけて執筆された106冊の大作である。実際に室町時代から戦国時代に存在した安房国(千葉県)の大名・里見家を舞台に、共通して「犬」の字を含む名字を持つ八犬士が里見家のために結集し苦難を乗り越え里見家を狙う悪い敵を倒していくという物語で大ベストセラーとなり、明治時代になっても人気の作品であった。
5.俳諧
 松永貞徳によって大成され、松尾芭蕉などが好評を博したのが俳諧である。田沼時代に京都の与謝蕪村が、文化文政の頃には小林一茶が印象的な句を残している。与謝蕪村は画家としても一流の人物で、画家の視点で詠んだ句の中には「菜の花や月は東に日は西に」のように自然風景を見事に描写したものがある。また「蘇鉄図」「夜色楼台図」などを描いたほか、画家の池大雅との合作「十便十宜図」もあり俳人・画人として共に高い評価を得ている。小林一茶は「痩蛙(やせがへる)まけるな一茶是にあり」「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」など動物や子供、あるいは農村の日常を詠み親近感を感じさせるものが多い。俳句俳文集「おらが春」が代表作である。
6.狂歌
 町人社会では世情を風刺し、あるいは皮肉った狂歌や川柳が流行した。狂歌は字数などは短歌と同じで大田南畝(蜀山人)、川柳には名称の由来となった柄井川柳、石川雅望(宿屋飯盛)が代表である。

 なお「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁(にご)りの 田沼こひしき」という狂歌は大田南畝の作である。川柳を集めた作品集として誹風柳多留があり「役人の子はにぎにぎを よく覚え」などの作品が有名である。この「にぎにぎ」とは賄賂を握って受け取る意味が込められている。この他に和歌では僧侶の良寛が、子供との日常などの感情あふれる作品を残している。

 江戸後期の絵草紙屋(本屋)が多数登場してきた。このことも多彩な文学に庶民が親しむことができるようになった理由の1つである。
 文化・化政を迎える頃には、教育や出版の普及によって中央の文化が地方に広がり、都市生活の多様化によって文化の内容も多方面に広がった。特に値段の高かった書籍を庶民に貸し与える貸本屋には目覚ましいものがあった。また寛政の改革で厳しい統制を受けたことから、それに反発した庶民の風刺画が多くみられた。幕府政治の長期化で限界が見えつつあった幕藩体制に対して、新しい体制を模索する動きがあった。

 

芸術

歌舞伎
 浄瑠璃に代わって18世紀後半から江戸を中心に大流行となった歌舞伎は、七代目市川団十郎などの歌舞伎役者によって数々の名作が演じられた。文政期には鶴屋南北が東海道四谷怪談などの怪談物を完成させ、幕末には河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が盗賊を主人公にした白浪物を残した。この他、義経千本桜や仮名手本忠臣蔵も歌舞伎として上演された。歌舞伎の劇場ではせり上げや廻り舞台など様々な工夫を凝らして豪華な演出を見せたが、その派手さが仇となり天保の改革で厳しい規制を受けることになった。
浮世絵
 浮世絵とは江戸の初期に遊里(遊郭)や芝居町といった俗世間とは離れた別世界、すなわち浮世へ行き、遊女や役者などを描いたことから浮世絵と呼ばれた。元禄の頃から広く庶民に親しまれた浮世絵は、18世紀中頃に鈴木春信が錦絵とよばれる多色刷りの版画を創作したことで黄金時代を迎えた。鈴木春信は日本が世界に誇る浮世絵の基礎となった。浮世絵は美人画、役者絵、相撲絵、風景など色々に分類できる。

 寛政の頃にはポッピンを吹く女などの多くの美人画を描いた喜多川歌麿や、市川鰕蔵(えびぞう)などの個性的な役者絵や相撲絵を描いた東洲斎写楽らが、上半身や顔を主に描いた大首絵(おおくびえ)の作品を次々と残した。写楽は喜多川歌麿と同様に大首絵の手法を用いましたが、こちらは歌舞伎役者がメインであり、歌舞伎役者を描いているので独特のメークやポーズをしており、これをデフォルメして描いているため独特な雰囲気を与えてくれる。印象的作品が多く、写楽は10ヶ月間で140点ほどの作品を描いただけで歴史の表舞台から姿を消した謎の絵師である。

 錦絵は寛政の改革による規制で衰えたが、天保の頃には風景を浮世絵的に描いた絵画が流行するようになった。葛飾北斎の富嶽三十六景や、歌川広重(ひろしげ)の東海道五十三次などが有名です。なお、これらの浮世絵は開国後に海外に出回ったことで、モネやゴッホなどのヨーロッパ印象派の画家に大きな影響を与た。
絵画
 伝統的な絵画である狩野派が衰え、遠近法を取り入れた写実画の円山応挙が雪松図屏風(ゆきまつずびょうぶ)などの作品を残し円山派と呼ばれた。円山派からは呉春(ごしゅん、松村月溪)が四条派を興し柳鷺群禽図屏風(りゅうろぐんきんずびょうぶ)などの作品を残した。中国の明や清の時代に描かれた文人画(文人や学者が描いた絵)は我が国でも漢学者を中心に広まり、18世紀後半には池大雅(いけのたいが)と、俳諧師であった与謝蕪村が十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)を合作した。文人画はその後、豊後(大分)の田能村竹田や江戸の谷文晁(たにぶんちょう)・渡辺崋山らに受け継がれる。渡辺崋山は蛮社の獄(ばんしゃのごく)で弾圧された。

思想・学問
蘭学
 徳川吉宗による漢訳洋書の輸入緩和によって蘭学が広まり、西洋画の技法を日本にもたし、日本人による油絵の作品を生み出した。西洋婦人図を描いた平賀源内や司馬江漢(しばこうかん)・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)らが有名である。なお司馬江漢は我が国で初めて銅版画を制作している。
学問
 江戸幕府が朱子学を公的な学問としたことで、各藩も同じように教育に力を入れるようになった。藩士の子弟を教育するために藩学(藩校)が設立され、城下町を離れて住む藩士や庶民の教育のために、岡山藩の閑谷学校(しずたに)などの郷学(郷校)が建てられた。教育熱は民間でも同様で、武士や学者だけでなく町人によって多くの私塾が開かれ、様々な学問が講義された。18世紀初めに大坂の町人が出資して設立された懐徳堂からは、富永仲基(なかもと)や山片蟠桃(やまがたばんとう)らの町人学者が生まれている。
寺子屋
 庶民の教育として寺子屋があり、時代が下るにつれて数多く開設された。村役人や僧侶・神官・浪人や富裕な町人などが師匠として読み・書き・算盤(そろばん)などを教え、民間の識字率(しきじりつ)を高くした。
 また18世紀初めには京都の石田梅岩(ばいがん)が石門心学を始め、神道や仏教に由来する道徳や倫理を教えるとともに、商人の存在意義や商業活動における営利の正当性などの商人道を説いた。石田梅岩の教えは弟子の手島堵庵(てしまとあん)やその弟子の中沢道二(なかざわどうに)らによって全国に広まった。
国学
 幕府の公式学問である朱子学は儒学が由来であったが、元禄の頃から我が国古来の国学が生まれた。国学は京都・伏見稲荷の神官出身の荷田春満(かだのあずままろ)やその門人の賀茂真淵(かものまぶち)によって発展し、真淵の門人である本居宣長(もとおりのりなが)によって大成した。本居宣長は当時ほとんど解読できなかった古事記の研究に心血を注ぎ、約35年の歳月を費やして古事記伝を完成させた。本居宣長は古事記の研究を通じて、真心を失わずに清らかな心を持つことで古道にそった人間生活を送ることが出来るとした。
 宣長の門人の平田篤胤(あつたね)が我が国古来の純粋な信仰を尊重する復古神道を唱え、その国粋かつ排外的な思想は幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。また盲目の学者であった塙保己一(はなわほきいち)は幕府の援助を受けて和学講談所を設立し、群書類従を編集して古典の収集や保存を行った。
洋学
 西洋の学問研究(洋学)については、元禄の頃に西川如見(にしかわじょけん)や新井白石らが西洋の知識を紹介していたが、徳川吉宗による漢訳洋書の輸入制限の緩和によって研究が本格化した。我が国では西洋の学術や知識が貿易のオランダから伝えられ、吉宗が青木昆陽や野呂元丈にオランダ語を学ばせたので洋学は蘭学として始まった。田沼時代、前野良沢や杉田玄白らによって西洋医学の解剖書であるターヘル=アナトミアが翻訳され、1774年に解体新書として完成した。
 蘭学はその後も大槻玄沢(おおつきげんたく)や宇田川玄随らによって発展し、玄沢の門人の稲村三伯は蘭日辞書であるハルマ和解(わげ)を刊行した。また平賀源内は物理学の研究を進めたほか、静電気発生機であるエレキテルを復元している。
 天文学では幕府のオランダ通詞(通訳)を務めた志筑忠雄(しづき)が暦象新書(れきしょう)を著してニュートンの万有引力説やコペルニクスの地動説を紹介した。なお志筑忠雄は「鎖国」という言葉を初めて用した。
 幕府の天文方の高橋至時(たかはしよしとき)は西洋の暦法を考慮した寛政暦(かんせいれき)を作成し、弟子となった伊能忠敬は、50歳を過ぎてから全国の測量を実施して大日本沿海輿地全図(えんかいよちぜんず)を作成した。伊能図(地図)は、忠敬の死後の1821年に完成するが、実際の地図と比べても高い精度を保っている。
 幕府は翻訳作業を円滑に行うために、至時の子で同じく天文方の高橋景保(かげやす)の建議によって蛮書和解御用を設けた。なお、蛮書和解御用は幕末に蕃書調所と改称され、現代の東京大学の源流の一つとなっている。
 蘭学の研究は民間でも盛んとなり、文政期にはドイツ人のシーボルトがオランダ商館医として来日し、長崎に診療所のほかに鳴滝塾を開いて、医学や博物学などの教育を行ったが、1828年に帰国する際に禁止されていた日本地図の海外への持ち出そうとして国外追放となっている。この事件はシーボルト事件と呼ばれ天文方の高橋景保が事件に関与したとして捕まり獄死した。なおシーボルトは開国後に再来日している。
 大坂では幕末に緒方洪庵が適塾(てきじゅく、正式には適々斎塾を開き、福沢諭吉・橋本左内・大村益次郎らの人材を育てた。
 このように洋学の研究が盛んになる一方で、洋学を通じて世界情勢などの様々な認識を得た蘭学者によって幕政を批判する声が上がる、幕府は蛮社の獄などで厳しく統制した。そのため洋学は主として医学や兵学、地理学などの実学として発達した。
海防論
 幕末に海防論が叫ばれ、伊豆の代官・江川太郎左衛門が大砲を鋳造するための反射炉を設けた。また開国論者の佐久間象山は坦庵に学んで江戸で兵学を教え、吉田松陰や勝海舟などの人材を育てた。
 世の中の組織や仕組みは、時間が経てば歪みや綻びが生じてくるもが、江戸幕府も例外ではなく、幕藩体制が動揺していく中で、幕府政治や封建社会そのものを批判する考えが目立つようになった。
 八戸の医者であった安藤昌益(しょうえき)は自然真営道を書き、すべての人間が農耕で生計を立てる「自然の世」こそが理想であり、農作業とは無縁の武士が支配する社会や身分社会を否定した。安藤昌益の存在が世に広まったのは明治時代になってからであるが、その思想は共産主義や無政府主義の考えにも関連して幅広い支持を得た。その他、海保青陵(かいほせいりょう)は稽古談を著して武士の商業軽視を批判し、藩で専売制を行うなどの重商主義の必要性を説いた。本多利明は西洋諸国との貿易の必要性を西域物語で説き、田沼意次が蝦夷地を調査した際には弟子の最上徳内を推薦している。また佐藤信淵(のぶひろ)は経済要録を著して、積極的な海外進出による経済の振興を主張した。

国学

 本居宣長や平田篤胤による国学は古事記や日本書紀の研究し、日本人としての真の独自性を模索するものであった。この教えは万世一系の天皇家に対する人々の郷愁を呼び起こし幕末維新の大きな原動力になる。

 江戸幕府は、庶民を愚民化することで秩序を護持しようとした。しかし強権的な江戸幕府であっても日本人の向学心まで奪うことは出来なかった。学問の発展は賢い庶民を誕生させ、そのことが幕府の首を締め上げることになる。

 江戸期の進んだ学問の潮流は、明治維新以降の日本の躍進の基礎となった。杉田玄白らの「蘭学」は、西洋文明の咀嚼を容易にしたし、石田梅岩が創始した「心学」は、滅私奉公する日本人に理論的背景を与えた。

朱子学
 幕府は儒学の一派である朱子学を重視した。朱子学は目下は目上を敬うべき、つまりは「主に対し絶対の忠誠を誓う思想」という道徳論なので既成秩序を維持する上で幕府に有利だった。儒学にもいくつもの潮流があり「陽明学」は儒学の一派で既成秩序を否定する傾向が強く、幕府に対する反骨精神を特徴とした。例えば大阪で圧政に苦しむ庶民のために武装蜂起した大塩平八郎は幕臣でありながら陽明学者でもあった。しかし幕府は儒学の一派であるという理由でこの学問を弾圧出来ず、幕府が擁護たはずの朱子学も、本当に忠誠を誓うべきは武力で支配する「幕府ではなく天皇」ではないかと考えられるようになった。水戸藩などで過激化した「尊王思想」が誕生したのは朱子学を追求すると「天皇と朝廷は幕府よりも偉いはずなのに、幕府が朝廷をないがしろにするのはおかしい」という結論からである。この思想が「朝廷のために幕府を倒すべし」という尊王倒幕運動になるのは当然のことであった。

 幕府の支配に都合が良かった朱子学が、将軍は天皇に臣従すべきとする尊王論が導き出されるという皮肉な現象が生まれた。竹内式部が公家たちに尊王論を説き、また山県大弐(だいに)が柳子新論(りゅうししんろん)を書いて江戸で尊王論を説いたが、両者とも江戸幕府によって処罰された。なお竹内式部が幕府によって追放処分にされたのは宝暦事件(ほうれきじけん)、山県大弐が死刑となったのは明和事件と呼ばれている。

尊王論
 尊王論は武力で日本を支配する江戸幕府にとって危険な思想であったが、徳川家の一門の中から同じような尊王論を支持する学問(水戸学)が水戸藩で生まれた。水戸藩では藩主・徳川光圀によって大日本史の編纂が始められ、その過程で「徳をもって世の中を治める天皇が権力で支配する幕府よりまさる」という思想につながったのである。尊王論は外国勢力に対し、外国人を実力で排斥する攘夷論と結びつき、藤田幽谷(ゆうこく)・藤田東湖(とうこ)父子や会沢正志斎(せいしさい)らによって「尊王攘夷論」が唱えられた。

 寛政の頃に高山彦九郎が全国で尊王思想を広め、蒲生君平(くんぺい)が歴代天皇の御陵を調査して山陵志(さんりょうし)を著し、頼山陽(らいさんよう)が書いた日本外史が多く読まれ、尊王思想は幕末の民間にまで広く浸透した。なお蒲生君平はいわゆる前方後円墳の名付け親で、この他にも、平田篤胤による復古神道も全国の下級武士や豪農を中心とした幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。

文化の発展
 文化の発展は庶民の生活にも劇的な変化をもたらした。都市部では芝居小屋や見世物小屋が立ち並び、講談や落語・曲芸などを演じる寄席も日常的な娯楽として発展した。寺社も人々の信仰を集め、修繕費や運営費を得るため縁日や富突(富くじ)が行われ、秘仏を公開する開帳が催された。人々の生活に余裕が生まれ、湯治や物見遊山などによる旅も盛んになった。中でも伊勢神宮や信濃の善光寺、讃岐の金毘羅宮、下総の成田不動などへの参詣は信仰と結びついて定着し、特に伊勢神宮は御蔭参りと呼ばれ流行した。
 その他、聖地や霊場を巡拝する西国三十三ヵ所や四国八十八ヵ所への巡礼の旅も行われた。かつては宮中(朝廷)で行われていた端午や七夕などの五節句や彼岸会・盂蘭盆会(うらぼんえ)なども民間に普及した。
 日の出を待って拝む日待や、十五夜など特定の日の月の出を待って拝む月待、あるいは十干十二支(じっかんじゅうにし)で60日に一度巡ってくる庚申(こうしん)の日に集まり、眠らずに徹夜して過ごす庚申講なども、人々の社交や娯楽として行われた。
宗教
 幕末頃にはそれまでの幕藩体制の揺らぎが激しくなり、社会不安が増大した。そのような世相を反映するかのように民間から次々と新しい宗教が広まり、民衆宗教としては黒住宗忠の黒住教、中山みきの天理教、川手文治郎の金光教(こんこうきょう)などが挙げられる。それぞれ独自の信仰によって人々を説き、新たな教団を組織していった。

 

平賀源内

 平賀源内は江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家で、あらゆる分野に才能を発揮し日本のダ・ビンチといわれている。

 将軍・徳川吉宗の享保の改革が進められていた1728年に、平賀源内は高松藩(香川)の足軽白石良房の三男として生まれた。少年時代の源内は優秀で武士の学問・儒学を学び、また文章を好み俳諧にも秀でていた。24歳ごろ平賀源内は本草学などをはじめとするオランダの知識を得ようと長崎へと遊学する。この遊学は源内にとって強い印象を残し、本格的に研究を進めようと、遊学後、藩の役職を退くことを願い出ている。家督も婿養子に譲り源内は浪人になった。

 その後、源内は江戸に出て本草学者・田村藍水(らんすい)の弟子になる。本草学は「自然界に存在するさまざまな物を研究する学問」で、特に薬学的な視点が重視されていたが、研究対象は植物ばかりではなく鉱物や動物も研究した。その本草学者に弟子入りしたので、源内もその道を歩き出した。たとえば師とともに物産の展示会を数度開き評判を得るなど当初は順調だった。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ひんしつ)」を刊行して世人の注目を浴びる。

 当時の高松藩は、藩主が博物好きだったこともあり、本草学者として名を成した源内は故郷の高松藩に再び召し抱えられる。高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ職を辞める。高松藩は他藩に就職してはならないという条件をつけ脱藩を許可する

 源内は再び自由の身になり、自ら「天竺浪人」と名乗ったが、以後、苦労することになる。例えば源内は蘭学を学びながらオランダ語の実力は高くなく、このことは学問を進める上での大きなハンデともなった。また就職制限も大きな縛りとなって常に不安定な生活を強いられた。

 自信家で尊大な性格だったが、研究資金を稼ぐ必要があり、さまざまな分野に手を出すことになる。マルチタレント的な平賀源内な活動はこの時になされたものである。

発明家としての源内

 源内が最も知られているのは発明家としての実績である。発明にはモノに対する知識が欠かせないので、本草学の道もそれなりに近い分野である。発明品としてはまず「燃えない布、火浣布(かかんぷ)」がある。これは耐火性の織物で、源内が見つけた石綿を原料としていた。そして「静電気発生装置、エレキテル」の発明である。この発明の経緯は不明であるが、オランダから伝わった静電気発生器を源内が修繕したとされている。しかし源内はその原理を知らず、見せ物にしていたということである。その他、万歩計、寒暖計、磁針器など100種にも及ぶ発明品を生んだ。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案した。

鉱山開発者源内

 源内は秋田秩父で鉱山開発鉱山を行った。金や銀の採掘を仕切ったが、あまり上手くはいかなかった。

画家源内

 源内は油絵を習得して日本初の洋風画を描き「西洋婦人図」の油絵を残している。これは洋画の先駆けとして有名な作品で歴史の授業でよく取り上げられる。また司馬江漢、小田野直武(解体新書の挿絵画家)らに西洋画法を教えている。また浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、このことから色彩多彩な浮世絵が誕生した。源内は画家として活動を行ったいうわけではない。本人も油絵は余技や教養の積もりだった。

文学者源内

 源内は文才があり当時の大衆向け読み物の分野で「戯作」を残している。また人形浄瑠璃の脚本なども執筆した。作家としてのペンネームは浄瑠璃号では「福内鬼外」、戯作号では「風来山人」である。35才の時に書いた「根南志具佐(ねなしぐさ)」「風流志道軒伝」は江戸のベストセラーとなり明治まで重版されている。

 風流志道軒伝は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、当時は鎖国中で、源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりのガリバー旅行記を読んでいたとは思えない、まさに江戸版のガリバー旅行記である。

「放屁論」ではまず「音に3等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形まろく、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じ、江戸に実在した屁の曲芸師を引き合いに述べている。

その他

 「土用の丑の日」を考え出したのは源内とされている。「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。また歯磨き粉の売り文句を考え、これらから源内が「コピーライターの先駆け」と表現されることもある。そのほか、陶器の製作指揮、細工物制作などさまざまなことに手を出し、器用な人物だった。

源内の死

 このようにさまざまなことに手を出した源内であるが、それらは華やかなマルチタレントとしての活動ではなかった。趣味の部分もあったが、基本的には生活資金や研究資金を稼ぐためだった。源内の多彩な活動とは世に出るためのあがきのようなものだった。どれも成功したとは言い難く、源内の残した文章には鬱憤を晴らすような社会批判的な内容が見られる。自嘲的に「貧家銭内」と名乗っていた。さらに自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師というが、よく思うに骨を折って苦労しては非難され、酒を買って好意を尽くしては損をする。いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。

 1778年、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされ人間不信、被害妄想が拡大して悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時、源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図がない。盗まれたと思った源内は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高して2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく帯の間から出てきたのである。発狂した源内は捕縛され、厳寒の小伝馬町の牢内で獄死した。1779年12月18日のことだった。平賀源内は世に出よう出ようとしてかなわなかった挫折の人で、そう考えると、意外でもあり納得できるような切ない死に様であった。

 1928年に墓を管理していた総泉寺が移転したが、墓はそのまま残され、3年後の1931年(昭和6年)、旧高松藩当主・松平頼壽が築地塀(土壁)を整備し、1943年に国指定史跡となっている。

 

本居宣長

 本居宣長は国学の巨人と言われているが、宣長の業績は国学の発展や完成に貢献したばかりではなかった。

商才なし、学才あり

本居宣長は1730年5月7日に伊勢国(三重県)の商家に生まれた。宣長の誕生前後の時期には商売はなかなか順調で、裕福な家だった。しかし徐々に商売は上手く行かなくなり、宣長が少年の頃、ついに父が亡くなった。あとを継いだ兄も宣長が二十歳を過ぎた頃に亡くなり、いよいよ家は危機的状況になった。ここで普通なら宣長が家督を継ぎ、商売の立て直しに頑張るのですが、宣長はその道を選ばなかった。そこには宣長の母の影響があった。

 それまでに宣長は商売の修行などもしたが、どうも商売の才能はなかったようで、宣長の母がそれを見抜いていた。そこで母は宣長に学者の道を選ぶよう勧め、結果として宣長は、京の都へ医学の修業に出ることになる。

三つの業績

 京都へ出た宣長は医学の修行に励んだが、この時期に当時の学界に大きな流れを生み出した荻生徂徠の徂徠学と出会い国学とも出会います。宣長の後半生は、この時期に決定されたと言ってもよい。28歳時、京都で大いに学んだ宣長は故郷に帰り医師として開業した。医師としての宣長はなかなか活躍したが、重要なのは国学者としての活躍の方だった。宣長は71歳で死ぬまでに重要な著作・業績を数多く残しました。以下では、宣長が生涯になした重要な三つの業績をご紹介する。

古事記の研究

本居宣長といえば『古事記の研究が有名である。30代から60代まで、およそ35年の歳月をかけて「古事記伝」を完成させている。内容は古事記の詳細な注釈であった。

この著作の重要な点は、内容もさることながら、その手法にもあります。そもそも歴史の研究というのは、史料を重要な基点として行います。史料を徹底的に読み解くことで歴史を解き明かしてゆくわけです。この手法を体系化して近代の歴史学を構築してきたのは主に西洋の学界でした。しかし宣長はそれと共通点のある手法で「古事記伝」を作っています。これは当時としてはほとんど前例のないやり方でした。

源氏物語の研究
 日本の古典研究に尽力した宣長は源氏物語の研究も行った。この源氏物語の研究において宣長は「もののあわれ」という文学におけるコンセプトを提示する。『源氏物語』は日本的な心情である「もののあわれ」を表現した作品で、文学そのものが「もののあわれ」を表現するという大きな役割を持っていることを唱えたのである。当時、物語とは儒教的な教訓や仏教的な教訓を表現する風潮があったが、そんな中で「もののあわれ」というコンセプトは極めて斬新なものであった。そもそも文学の機能や役割を一つの言葉で打ち出すという考え方自体が新しかったのである。
日本語研究
 読解という面で『古事記』の研究とも重なる部分もあるが、日本語の研究においても宣長は大きな業績を残した。日本語という言語を体系的に研究した最初の人物と言えるほどで、品詞の研究、古代の仮名の研究などを通して日本語のさまざまな法則を明らかにし、日本語を分類した。その質は非常に高く、現在の日本語研究に直接的な影響を与えている。これらさまざまな研究成果を残し、1801年9月29日に本居宣長はこの世を去った。
先駆者・本居宣長
 古事記の研究にしても「もののあわれ」にしてもそうであるが、宣長の学問は常に斬新であった。これらは江戸後期の学問はもちろんのこと、明治以後の学問にも大きな影響を与えている。近代以後、日本は西洋文明を物凄いスピードで受け入れた。その原因に「江戸時代の蓄積」があったということがよく言われている。学問にしろ思想にしろ経済にしろ、江戸時代にはかなりのレベルにまで到達しており、その蓄積があったからこそ、急激な異文化の流入にも無理なく対応できたのである。宣長とそのような蓄積を作った人物の一人だった。
 また本居宣長は国学者で、日本と日本人に注目し、その内容や精神を掴んでゆこうとする姿勢が基本にあり、それは学問の中身に現れている。宣長の学問が大変完成度の高かったこともあり、宣長の姿勢や思想は後世に大きな影響を与えた。プラスの方向、マイナスの方向どちらとは言えませんが、これもやはり「蓄積」の一つだった。近世と近代をつなぐさきがけとなった人物。その意味において、本居宣長とその業績は今も燦然と輝いている。