篤姫

篤姫(天璋院)

 1836年、篤姫(島津敬子)は今和泉島津家の当主・島津忠剛の長女として薩摩国鹿児島城下にて生まれる。今和泉島津家は島津家の分家の姫であったが、幼少時から利発・賢明であった。篤姫が島津本家の養女になるまで小松帯刀が使え、生涯の友として互いを大切にした。薩摩藩主・島津斉彬が篤姫を養女にしたのはその器量を見込んだからである。 

 健康体であった篤姫を徳川家へ輿入れさせるためで、篤子の名も広大院にあやかったものであった。広大院は11代将軍・徳川家斉の正室の寔子(ただこ)のことで、実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪で、広大院最初の名は同じ篤姫であった。

 広大院は薩摩藩主の実子であったが、篤姫は島津家分家の出身であり、一橋派大名から「御台所(正室)としては身分が低すぎる」との懸念があったため、島津斉彬は篤姫を養女としたのである。

 今和泉島津家で、篤姫が幼いころから養育係を務めていた菊本は、篤姫が本家の養女に決まると「高貴な出でない自分が養育係を務めたことで、輝かしい将来に迷惑がかかる」と自害し、篤姫には「女の道は一本道にございます。さだめに背き、引き返すは恥にございます」という言葉があり、篤姫はこの言葉を胸に、生涯振り返ることなく自分の使命をまっとうしていくとされているが、この菊本の話は創作の可能性が高い。

 島津斉彬の養女となったの篤姫の教育係は近衛家の幾島であった。天衣無縫な篤姫に対し「あれほどのじゃじゃ馬は初めて」とあきれながらも厳しく教育し何度も衝突した。篤姫が将軍家に嫁ぐ際、ともに江戸城に入城。篤姫にとって最も信頼する存在になっていく。しかし徳川慶喜を次期将軍にできず、使命を果たせなかったことに責任を感じて大奥を去ることになる。

 島津家は篤姫を実子として幕府へ届け、篤姫は1853年に鹿児島の鶴丸城を出て、熊本を経由して江戸藩邸に入る。第13代将軍・徳川家定は正室が2人いたが、2人とも若くして死去していた。そのため幕府は健康で元気な女性を求めていた。島津斉彬の命を受けての徳川家定との縁組であるが、1856年に篤姫は右大臣・近衛忠煕の養女となり、その年に第13代将軍・徳川家定の正室となり21歳の篤姫が大奥に入った。渋谷の藩邸から江戸城までの輿入れは先頭が城内に到着しても、最後尾は依然藩邸にいたほどであった。
 近衛篤子として江戸幕府13代将軍徳川家定の御台所(正室)となった篤姫であったが、病身の家定とは一度も本当の夫婦になれぬまま、幕府内で様々な困難に直面しながらも己の使命を果たそうとする。「一橋慶喜を将軍後継にあっせんする」という密命があったとされているが、13代将軍 徳川家定に嫁いだ篤姫は病弱な家定の姿を見定め愛情を深めていくた。

 島津斉彬にすれば篤姫を徳川家へ輿入れさせて発言力を高め、徳川慶喜の次期将軍を実現させようとしたとする見方が一般的であるが。しかしこの縁組みは家定が将軍となる前からあり「島津家からの輿入れ構想そのものと将軍継嗣問題は無関係」ともされている。

 大奥が島津家に縁組みを持ちかけたのは、徳川家定が虚弱で子は一人もいなかったこと、家定の正室が次々と早死したため大奥の主が不在であったこと。さらに島津家出身の御台所(広大院)を迎えた先々代将軍・徳川家斉が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたとされている。島津家としては広大院没後の家格の低下、琉球との密貿易などを将軍家との姻戚関係で復活させようとしたとされている。しかし篤姫は徳川家の女性として生涯を暮らし、家定に嫁いで以降、故郷・鹿児島に帰ることはなかった。

 1858年8月に徳川家定が急死し、篤姫の結婚生活はわずか1年9ヶ月であった。また同月には島津斉彬までもが死去してしまう。家定の死を受け篤姫は落飾し天璋院殿従三位敬順貞静大姉(天璋院)と名乗った。

 徳川家定の後継として、家定の従弟で紀州藩主だった徳川家茂が14代将軍に就任することになった。さらに幕府は公武合体政策を進め、1862年には朝廷から家茂の正室として皇女・和宮が大奥へ入る事になる。薩摩藩は天璋院(篤姫)に薩摩帰国を申し出るが、天璋院は江戸で暮らすことを選んだ。

 和宮と天璋院(篤姫)は嫁姑の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いがあり最初は不仲だったが後に和解している。1866年の徳川慶喜の大奥改革に対しては、家茂の死後の静寛院宮和宮)と共に徹底的に反対している。この事情については勝海舟が「海舟座談」で述べている。また天璋院(篤姫)が自ら擁立する予定だった第15代将軍・慶喜とも仲が悪かった。

 1867年に徳川慶喜が大政奉還をして、その後の戊辰戦争で徳川将軍家は存亡の危機に立たった。その際、天璋院と静寛院宮は、島津家や朝廷に嘆願して徳川の救済と慶喜の助命に尽力した。天璋院は攻め上る官軍の西郷隆盛にも救済懇願の書状を書いている。そして江戸城無血開城を前に大奥を立ち退いた。

 江戸の名が東京に改められたが、天璋院は鹿児島に戻らず、東京千駄ヶ谷の徳川宗家邸で暮らした。生活費は倒幕運動に参加した島津家からは貰わず、あくまで徳川の人間として振舞った。規律の厳しかった大奥とは違った自由気ままな生活を楽しみ、旧幕臣・勝海舟や静寛院宮(和宮)とも度々会っていた。

 和宮とは大奥にいた頃は武家と宮家の生まれの違いや嫁姑による対立があったが、最後には力を合わせて徳川家のために尽くした。篤姫は少しずつ倹約や家事をするようになり、自らの生活を切り詰め、大奥時代の部下達の働き口を斡旋した。

 晩年の篤姫と和宮には熱い友情を感じさせる。篤姫は明治10年には箱根へ療養に行った和宮を見舞おうとするが、篤姫が着く前に和宮は脚気心(脚気が原因の心不全)で亡くなってしまう。篤姫は3年後の明治13年に和宮が亡くなった場所を訪れ歌を詠んでいる。

「君が齢(よわい)とどめかねたる早川の 水の流れもうらめしきかな」

(この早川、あなたの寿命を留めるどころか押し流していってしまったのですね。もう一度お会いしたかったのに、恨めしいこと)

 明治16年11月13日、徳川宗家邸で脳溢血で倒れ、11月20日に49歳で死去した。葬儀の際、沿道には1万人もの人々が集まり、その様子が「天璋院葬送之図」に描かれている。徳川将軍家の菩提寺である上野の寛永寺境内にある夫・家定の墓の隣に埋葬された。

 明治維新後、生活に窮した状況に陥っても薩摩藩からの金銭援助を断り、あくまでも徳川の人間として生きたと言われている。