自由民権運動

 自由民権運動とは議会政治の実現を目指した運動である。議会政治とは、選挙で選ばれた国民の代表者が国会と言う場所で法律を作ったり、予算をくみ国政を行うことを言う。
ちなみに議会政治の対義語は独裁政治である。独裁政治とは一人のトップ決める政治で、議会政治はみんなで決めたものをより良いものにさらに議論して推し進めていくことである。ではなぜ自由民権運動はおきたのか。

自由民権運動の展開
 征韓論争に敗れた板垣退助や後藤象二郎は土佐藩で、副島種臣(たねおみ)や江藤新平は肥前藩(佐賀)出身だった。彼らが下野することによって、政府の要職には旧薩摩藩や旧長州藩の出身者が多くを占めるようになり、薩長藩閥政府への批判が高まった。
 また西郷隆盛も下野したことにより、大久保利通が独断的な政治を行うように見られ反感が高まった。征韓論争の翌年に、板垣・後藤・副島・江藤らは民撰議院設立の建白書を政府に提出し、天下の公論に基づく議会政治の実現を求めた。これが自由民権運動のきっかけとされている。

 自由民権運動といえば土佐藩出身の板垣退助で、坂本龍馬の脱藩の罪を免除する際に奔走した記録が残っている。板垣退助が自由民権運動のトップに立つが、板垣退助は「征韓論」で岩倉具視に負け政界を去っている。征韓論に敗れた板垣は西郷隆盛などとともに、愛国公党」を立ち上げ「民撰議院設立建白書」を提出しが「民撰議院設立建白書」は政府に対して最初に民選の議会を開設するように訴えた建白書で、これが自由民権運動の発端と言われている。板垣退助は建白書の提出とほぼ同時に日本初の政治結社・愛国公党を設立したが短期間で自然消滅し、その後、郷里の高知に戻った板垣は、片岡健吉とともに立志社を興している。
 一般的な歴史教育では、「自由民権運動の活発化によって、民間からの反体制ともいえる様々な活動が高まり、政府はその圧力に屈したかたちで、国会設立と憲法制定を渋々と行った」というイメージがあるが、これは一方的な見方である。明治政府が誕生し五箇条の御誓文が発布されるが、その第一条には、「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」、現代語訳すれば、「広く会議を開いて、あらゆることを公の議論の場で決定すべきである」と書かれています。
 つまり政府は当初から議会政治を前提にした政策を目指していた。それに自由民権運動がきっかけをつくったのである。板垣退助らは征韓論争に敗れて下野するまでは、参議として政府内で活躍していたので、当時の政府の基本的な政策を補うかたちで、国家や政府の体制を強化するために民撰議院設立の建白書を提出したという側面があった。つまり自由民権運動は政府の基本方針に反するものではなく、政府と民権派とが、それぞれの立場から議会政治の実現に向けて、試行錯誤を繰り返しながら進んだのが正しいと言える。

 自由民権運動が激化していき、今の日本の政治の礎の一つとなっていくが、この自由民権運動は実は武力が強いものであった。当時の日本は戊辰戦争が終わり、新政府となり落ち着いてはいたが、それに納得出来ない人たちも多くいた。
 武士が不要になり、武士の不満を一手に担い、反乱を起こしたのが有名な西南戦争です。自由民権運動の支持者や協力者もこの古い時代の武士たちであった。この頃の言葉では「士族」といい、彼らが中心となっていたので「士族民権」と言う。士族たちは武力蜂起しかできなかったので武力闘争になったわけです。これは西南戦争あたりまで続き、みんなの不満を抱えたまま西郷が矢面に立った。

 明治7年は民撰議院設立の建白書が提出ただけでなく、前年の征韓論争の影響で佐賀の乱が起き、琉球の処遇をめぐって台湾出兵を行った際に、木戸孝允が反対して下野したり、政府にとって様々な問題が発生した。政府内で孤立した大久保利通は、事態を打開するため、翌8年1月に大阪で木戸孝允や板垣退助と協議を行い、彼らの主張を受けいれ、政府が時間をかけ憲法に基づく議会政治を行うことで合意した(大阪会議)。
 大阪会議に基づき、同明治8年4月に、明治天皇の名において漸次立憲政体樹立(漸次は次第にという意味)の詔が出された。詔は「天皇のお言葉」で発表するということで、後戻りが許されないという政府の覚悟がうかがえる。なお、大阪会議の後に、板垣や木戸が参議として政府に復帰したが、板垣は同じ明治8年2月に、民権派の全国組織である愛国社を結成すると、10月に再び下野し、木戸も病気を理由に、翌明治9年に参議を辞職している。
 漸次立憲政体樹立の詔の発布と同時に、政府はそれまでの左院・右院を廃して、新たに立法の諮問機関である元老院や現在の最高裁判所にあたる大審院、さらに府知事や県令で行われる地方官会議を設置した。元老院や地方官会議は立法府の、大審院には司法府の性格を持ち三権分立の方針に基づいていた。
 元老院は憲法案の調査研究を本格化させ、明治9年から憲法草案の起草に取りかかった。元老院の草案は、明治13年に日本国憲按として完成したが、欧米列国の憲法の寄せ集め的な内容であったために採用されず廃案となった。このように日本初の憲法草案は日の目を見ることはなかったが、政府が議会政治の実現や憲法制定に対して積極的であったことを物語っている。
 漸次立憲政体樹立の詔の発布が、議会政治の実現を目標とする民権派の期待を高めた、漸進的な動きしか見せない政府への批判が激しくなった。新聞や雑誌において政府への活発な攻撃が見られ、政府は過激な政治的言論を取りしまるため、明治8年に讒謗律や新聞紙条例などを公布した。
 また西南の役が終結して士族の反乱が落ち着いた明治11年に、地方自治制度の整備のため、政府は郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則のいわゆる地方三新法を制定した。これらによって、翌明治12年には府県会が全国でれ、不完全ながらも地方政治が実現し、自由民権運動は、都市から地方の農村にも広がった。
 自由民権運動が広がりを見せるなか、西南の役の最中の明治10年に、立志社の片岡健吉らが、政府の太政大臣である三条実美(さねとみ)に立志社建白を提出しましたが却下されした。翌年には、各地の民権派が大阪に集まって活動を休止していた愛国社を再興すると、明治13年3月に行われた愛国社の第4回大会では、国会期成同盟が結成され国会の開設要求した。
 自由民権運動の激化によって、国内の治安が乱れを恐れた政府は、同明治13年4月に集会条例を制定して、民権派の動きを抑えようとした。なお、自由民権運動を支えたのは、人は生まれながらに人間としての権利(自然権)を持っているとする、天賦人権の思想によるもので、西洋の思想家であるルソーが著した社会契約論を中江兆民が翻訳し世間に広めた。

 

松方財政
 明治10年に起きた西南の役に要した戦費は、陸軍だけでも国家予算の8割に相当する約4,000万円であった。政府はこの出費を金貨や銀貨との交換ができない不換紙幣を発行して捻出しようとしたため大量の紙幣が市中に出回った。
 紙幣が大量に流通したため、紙幣の価値は下がり、物価は騰貴し激しいインフレをもたらした。物価の騰貴は国民生活に深刻な影響をもたらしただけでなく、定額の地租に頼っていた政府の歳入が実質的に減少した。さらに日本の貿易は輸出品が乏しかったために、大幅な輸入超過が続き大量の金銀が外国に流出していた。国内の金銀の保有は底をつき国家財政は危機的な状況になった。
 この国家財政危機に対して政府の大蔵卿の大隈重信は、大量の外債を発行して諸外国から資金を集めようとしたが、明治天皇が行き過ぎた財政支出を戒め節倹(節約)の聖旨を出たこともあり大隈案は否決された。
 明治14年の政変によって大隈重信が政府から追放されると、代わって大蔵卿に就任した松方正義(まさよし)は、政府の歳入を増やし歳出を抑え、保有する正貨を増やして財政危機から脱出する政策に取り組んだ。松方正義は酒造税や煙草税を増税して行政費を削減し、官営事業の民間への払い下げをおこなった。
 また不換紙幣の処分を進め、市場における紙幣の価値を少しずつ高め、明治15年に日本銀行を設立して、明治18年には銀との交換(兌換)が可能な兌換銀行券を発行した。さらに翌19年には、紙幣を銀貨と交換可能とする銀本位制の貨幣制度を確立した。
 松方正義による緊縮財政(松方財政)は西南の役後の政府の財政危機を立て直し、発行紙幣と銀貨との交換を可能とした銀本位制で、世界における信用度を高めたが、歳出を抑えた厳しい緊縮政策になって、市場における紙幣の流出の減少をもたらし物価が下落してデフレになった。増税による負担増から不況となり、特に農村では生産の中心であった米や生糸の価格の下落に加え、定額金納の地租の負担が増えたことで大きな打撃を受けた。農地を手放し自作農から小作農へ転落したり、工場などで働く賃金労働者となったりした人々が増加し、少数の大地主に農地が集中する傾向が見られた。この松方財政がもたらした経済不況は、それまで熱を帯びていた自由民権運動にも重大な影響をもたらした。

 この頃農村部の豪族たちが反乱を起こす。豪農の地租改正に端を発したもので、豪族の土地を国有にしようとした。当然豪族たちは反対する。そこで自由民権運動のひとつである、言論の自由などを求め自由民権運動が豪農達によって広まっていく。この頃を「豪農民権」と言う。武士は西郷に賭け、農民や一般市民は板垣に助けを求めたのでる。

 

 

自由民権運動の激化
 松方財政が原因と考えられる全国的な不況によって、支持者であった地主や農民が経営難から脱落する者が多くなったことで、自由民権運動は資金面で大きな影響を受けた。
 明治15年に集会条例を改正して取締りを強化したり、同年に暴漢に襲われた自由党の板垣退助を、後藤象二郎らともに外遊させたりするなど、政府による自由民権運動の側面からの切り崩しが見られるようになりました。なお、板垣が暴漢に襲われた際に、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという伝説が今でも有名である。
 板垣らの外遊については、政府が政商の三井を通じて資金援助していましたが、これについては自由党の内部からも批判の声が多く、また政府の援助を受けたことに対して立憲改進党が自由党を攻撃すると、逆に自由党が立憲改進党と政商の三菱との密接な関係を攻撃するなど、自由民権運動の指導部が混乱状態になってしまった。行きづまりを見せた自由民権運動に対して、追いつめられた熱心な運動家の中には、急進的な考えから直接行動に訴える者も現われました。明治15年、福島県令の三島通庸(みちつね)が、県の道路建設を目的として地元農民に労役(ろうえき)を強制させようとすると、自由党員で県会議長だった河野広中らが反対運動を展開しました。これらの動きを自由党弾圧の好機と見た三島は、河野をはじめ多数の自由党員を検挙しました。これを福島事件といいます。なお、事件のきっかけとなった県道はその後に完成し、現在でも国道の一部として使用されています。
 福島事件の発生は全国の急進的な運動家に大きな影響を与え、明治16年には新潟で高田事件が、明治17年には群馬事件や、栃木県令となっていた三島通庸を暗殺しようとした加波山事件(かばさん)などの激化事件が相次いで起こりました。連続する激化事件の発生や運動資金の不足によって、党の運営に自信を無くした自由党の指導部は、明治17年10月末に党を解散しました。また、立憲改進党も同年末に大隈重信が離党したことで、事実上の解散状態となってしまった。
 政党の解散によって指導者層を失った自由民権運動でしたが、激化事件はむしろ活発化して、自由党解散直後の同じ明治17年10月には、埼玉の秩父で不況に苦しむ農民を中心に結成された困民党が、負債の減免を求めて蜂起するという秩父事件が起きてしまい、政府は軍隊を使ってようやく鎮圧しました。
 さらに翌明治18年には、旧自由党左派の大井憲太郎が、朝鮮の独立党を支援して保守的政府を倒そうと計画しましたが、事前に発覚して大阪で検挙されました(大阪事件)。こうした激化事件の発生と弾圧の連続によって、自由民権運動は次第に衰退していきましたが、本来の目的が達成される頃には息を吹き返すようになりました。
 数々の激化事件を受けて停滞していた自由民権運動でしたが、明治14年に出された国会開設の勅諭に基づいた国会の開設時期である明治23年が近づくと、再び盛り上がりを見せるようになった。
 明治20年、旧自由党の後藤象二郎は、立憲改進党とのこれまでの対立状態を乗り越えるために、小異を捨てて大同につくことで団結しようとする大同団結運動を唱え民権派の再結集を呼びかけた。同年に外務大臣の井上馨による条約改正交渉が失敗すると、片岡健吉が元老院に提出した建白書をきっかけとして、三大事件建白運動が起きた。三大事件とは集会や言論の自由・地租の軽減・外交における失策の回復(条約改正)であり、これら二つの運動によって自由民権運動は再び熱を帯びてきましたが、かつての激化事件の再来を恐れた政府は、同明治20年末に保安条例を公布して、片岡健吉や尾崎行雄・中江兆民・星亨(とおる)らを即日東京から追放して、三大事件建白運動を鎮静化させた。なお、大同団結運動は、明治22年に後藤象二郎が大臣として入閣したことをきっかけに崩壊した。

 自由民権運動各派が帝国議会の設立を求めた「大同団結運動」が起こる。帝国議会は大日本帝国憲法(明治憲法)発布から日本国憲法への改正まで設置されていた日本の議会である。公選の衆議院と非公選の貴族院から成る。ちなみにこの議会は、約60年に渡り機能して、現在の国会の基礎となっている。

社会運動の発生
 資本主義の発達によって、我が国でも賃金労働者が増加するようになりましたが、その多くは紡績業や製糸業で働いており、明治33年の段階での工場労働者数のほぼ6割を占めていました。
 また、同じ明治33年の調査によって、労働者の88%が女性であったことが分かっていますが、女子労働者の多くは、家計を助けるために出稼ぎにきた農民出身の若い女性で、低賃金のうえ過酷な長時間労働を続けていました。
 一方、男子労働者は鉱山業や運輸業など、肉体労働を強いられる環境で多数が働かされましたが、こうした当時の労働者の厳しい生活ぶりは、明治21年に三菱が経営する高島炭坑での労働者の実情を暴露した雑誌「日本人」や、明治32年刊行の日本之下層社会、明治36年刊行の職工事情などで明らかになりました。こうした賃金労働者の境遇は、我が国だけでなく当時の世界の多くの資本主義国家が同様の問題を抱えており、20世紀に入ってから、国家が国民に人間らしい生活を保障する「社会権」という新たな概念が生まれています。
 鉱山業は古くから我が国で行われており、貴重な鉱物資源を産出し続けましたが、江戸時代から明治にかけて特に多く産出したのが銅でした。銅は貿易における重要な輸出品のひとつで、外貨を得るための貴重な資源であるとともに、鉄と並んで重化学工業で幅広く使用されました。
 しかし、鉱山での肉体労働が著しく体力を消耗するのみならず、副産物として発生する鉱毒にも長年悩まされ続けました。もし鉱毒がそのまま河川に流れ込めば、田畑や飲み水など環境に対する大きな被害が避けられません。

足尾銅山事件
 古河財閥の創始者として知られる古河市兵衛が経営していた栃木県の足尾銅山は、明治10年代に大きな鉱脈が発見されたほか、西洋の最新技術を導入したこともあって、我が国の銅の産出の約4分の1を占めるまでに急成長しました。
しかし、銅の生産の増加は大量の鉱毒の発生を必然的にもたらし、流れ出た鉱毒が渡良瀬川を汚染して、付近の農業や漁業に深刻な被害を与えるようになりました。いわゆる足尾銅山鉱毒事件のことです。
 足尾銅山鉱毒事件は当時の大きな社会問題となり、地元の衆議院議員の田中正造が帝国議会で取り上げたことで、政治問題に発展しました。田中は議会において、毎回のように政府に鉱毒事件への善処と被害者の救済を主張し続けました。
 しかし、政府は対策に苦慮することになりました。田中の主張どおりに銅山での採掘を停止すれば、貴重な輸出品が失われるだけでなく、国内の生産力も低下し、全国の商工業における深刻な影響が避けられないからです。「あちらを立てればこちらが立たず」の状態となった政府は、結局銅山での操業をやめさせることができませんでした。
やがて鉱毒事件が全国に知られるようになると、自身の行動が「選挙対策」と思われることを慮った田中は、議員を辞職して問題に取り組み続け、明治34年の帝国議会開院式当日に、明治天皇に直訴しましたが失敗した。田中による直訴は失敗したが、世論が一気に盛り上がったこともあり、政府は操業を続行する代わりに、付近の谷中村に巨大な遊水池をつくって、渡良瀬川の洪水対策を行うことにしましたが、工事によって谷中村は水没して廃村となってしまうため、田中は谷中村に残って最後まで反対し続けました。
 足尾銅山鉱毒事件は我が国初期の公害問題とされていますが、当時はそこまでの観念を政府も国民も持っておらず、また国家の繁栄との両立を図らねばならないという難しい命題がありました。最終的には農村の犠牲という厳しい結果となりましたが、公害対策が当然とされる現代からの視点のみで断罪するだけでは、この事件の真実は見えてこないのではないでしょうか。
 労働者は、企業を支える貴重な労働力の対価として報酬を得ますが、その待遇に関しては、使用者との間で様々な問題が発生するのが常でもあります。それは日清戦争の頃に本格化した、我が国の産業革命の時期においても例外ではなく、待遇改善や賃上げを求めてストライキが行われるようになりました。

労働運動と共産主義
 そんな中、アメリカの労働運動を学んだ高野房太郎や片山潜らが、帰国後の明治30年に労働組合期成会を結成して、労働運動の指導や労働組合の結成に力を注ぎました。これらの動きを警戒した第二次山県内閣は、明治33年に治安警察法を制定し、結社や政治的集会などを行う際には事前の警察への届出を必要とするなど、労働者の団結権やストライキ権を制限しました。
 かくして、我が国でも労働運動が本格的に展開するようになりましたが、やがて労働者の生活を全く別の観点から擁護する運動も同時に行われるようになりました。それは、当時の世界中で芽生えつつあった「社会主義」のことです。
 19世紀の欧米では、工業化の進展に伴って労働問題が深刻化しましたが、そんな中で、資本主義社会を抜本的に改革しようとする社会主義の思想が広まりました。
特に、マルクスによる「貧富の差を憎むとともに、私有財産制をやめて資本を人民で共有する」という共産主義の考えは、当時プロレタリアートと呼ばれた賃金労働者の人々から熱烈な支持を受けました。
 そもそもヨーロッパでは、長い歴史の中で王族や貴族、あるいは騎士や商人など、ほんの一握りの富裕層と、9割以上の農民ら貧民層との激しい貧富の差がありましたが、貧しい人々が多すぎたことで、かえって平等に映っていました。それが、産業革命で新たに収入を得た中産階級(ブルジョワジー)が増え、富裕層と貧民層との割合が4:6あたりまで縮まったことで、それまで目立たなかった貧富の差が、プロレタリアートを中心に強烈に意識されるようになってしまったのです。
 マルクスの言葉は、貧しい人々の耳に心地よく響くとともに、彼らの富裕層への嫉妬心をかきたてました。この流れは、やがて19世紀から20世紀にかけて大きな歴史のうねりを起こし、ついには人類史上初の共産主義国家を誕生させてしまうのです。
 さて、我が国で労働運動が展開しつつあった明治31年、安倍磯雄や片山潜・幸徳秋水らが社会主義研究会を立ち上げ、次いで明治34年には、我が国初の社会主義政党である社会民主党を結成しましたが、治安警察法によって直ちに解散を命じられました。
その後、日露の対立が深まり戦争の可能性が高まると、黒岩涙香(るいこう)が発行していた新聞「萬朝報(よろずちょうほう)」が、内村鑑三や幸徳秋水・堺利彦といったキリスト教徒や社会主義者に執筆させて、非戦論を唱えた。
しかし、後に黒岩が主戦論に転じたことで、非戦論を唱えていた人々が退社すると、堺や幸徳ら社会主義者が中心となって、明治36年に平民社を結成し、平民新聞を発刊して非戦論を引き続き展開しました。
 平民新聞は日露戦争中も非戦論を唱え続けましたが、政府はこれらの動きを当初は放置していました。しかし、マルクスとエンゲルスによって書かれた「共産党宣言」の翻訳を掲載すると、平民新聞は発禁処分となり、平民社が解散させられるとともに、幸徳も懲役刑に処せられました。
 当初は労働運動の擁護が中心だった社会主義運動は、日露戦争を経て次第に政治運動へと傾いていきました。明治39年には日本社会党が結成されましたが、社会主義運動に寛容だった当時の第一次西園寺内閣はこれを許可しました。
 しかし、間もなく日本社会党内部で対立が生じました。片山潜らが議会を通じて社会主義政策を達成すべきとする議会政策派だったのに対して、懲役後の渡米の際に無政府主義の影響を受けて帰国した幸徳秋水らが、直接行動を主張したのです。
 やがて幸徳らの直接行動派が優位になると、事態を重く見た政府は、明治40年に治安警察法違反を理由として党の解散を命じました。また、翌明治41年に開かれた社会主義者の集会において、場外に「無政府共産」などと白抜きにした赤旗が翻っていたのを奪おうとする警察と群衆とがもみ合う事件が起き、堺利彦らが検挙されました(赤旗事件)。
 赤旗事件の責任を取って第一次西園寺内閣は総辞職し、第二次桂内閣が成立しましたが、社会主義者による度重なる反政府運動や、直接行動を主張する幸徳に対する政府の監視の目が、これまで以上に厳しく光るようになっていきました。
 赤旗事件が起きた際、幸徳秋水は郷里の高知にいて難を逃れましたが、事件発生後に上京して勢力の立て直しをはかったことで、無政府主義者の秘密行動が活発化しました。
 しかし無政府主義者の運動は思ったよりも伸び悩みました。産業革命によって、我が国にも労働者階級と資産階級との貧富の差が生じつつありましたが、そもそも我が国には、天皇陛下の前では全員が平等であるという国民の根強い思いがあったことや、無政府主義の長所をいくら訴えたところで、従来の体制を打破する目的で話題がひとたび皇室に触れると、相手の多くが耳を傾けなくなったからです。

大逆罪
 このため、幸徳の周辺では、いつしか天皇を害して国民の崇敬の念を打ち破ることで、社会主義(無政府主義)を達成しようという考えがまかり通るようになり、実際に明治天皇を暗殺するための爆弾が製作されました。しかし、彼らの動きはやがて警察の知るところとなり、明治43年に幸徳をはじめとして多数の社会主義者が検挙されました。これを大逆事件といいます。幸徳ら24人に対して、裁判所は明治44年1月に、当時の刑法第73条に基づく大逆罪を適用して死刑判決を下し、幸徳を含む12人が処刑されました。ところで、大逆事件の真相に関しては、幸徳がどこまで天皇暗殺にかかわっていたのかなど不明な点も多く、政府による捏造ではないかという見方もあるようです。
 ただ、当時の第二次桂内閣からしてみれば、第一次西園寺内閣が社会主義に寛容だったことで、事態を深刻化(しんこくか)させてしまったことへの反省や、かねてより無政府主義や直接行動を主張してきた、幸徳の言動に対する強い警戒感があったところへ、「天皇暗殺」という情報が飛び込んで、一気に疑心暗になってしまったという背景も存在します。大逆事件を「捏造」と決めつけて、現代の価値観のみで当時の政府を激しく非難するのは容易(たやす)いことですが、その背景にある「大きな歴史の流れ」も同時に理解しないと、当時の最も重要な視点を見逃(みのが)してしまうことにはならないでしょうか。なお、大逆事件以後、第一次世界大戦を迎えるまで、社会主義は「冬の時代」を過ごすことになったほか、事件をきっかけとして、警視庁内に特別高等警察が置かれるようになりました。
 自らの思想達成のためには「天皇暗殺」すら何のためらいもなく実行しようとする。大逆事件は当時の我が国や政府に激しい衝撃を与えましたが、そもそも社会主義運動がこれだけ大きな騒ぎを引き起こした背景には、過酷な労働条件に苦しむ当時の賃金労働者たちの「声なき声」がありました。そう判断した政府は、大逆事件の判決が出た年と同じ明治44年に工場法を制定し、12歳未満の雇用の禁止や労働時間12時間、月2回の休日などを定めました。しかし、15人未満の工場は適用外とされるなどの不備があったほか、使用者たる資本家の反対もあって、工場法の実施が大正5年まで待たなければならなかったなど、労働者の保護は不十分なものでした。もっとも、当時の世界で社会権が初めて憲法に明記されたのが、大正8年にドイツで制定されたワイマール憲法ですから、工場法の中途半端さにも「歴史の流れ」が存在しているといえる。