明治新政府

明治新政府の発足
 ペリーの黒船来航から日本は近代国家として新たな歩みを始めた。この一連の歴史の流れを一般に明治維新という。15代将軍の徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷に返上したが朝廷は行政能力をもっていなかったため、新政府の下で旧徳川幕府が実質的な政治を行う予定であった。しかし薩摩藩、長州藩、岩倉具視ら一部の公家である倒幕派は、1867年に徳川慶喜や徳川派の公家を排した王政復古の大号令を出した。その主な内容は天皇中心による新政府を発足させ、将軍・摂政・関白を廃止すること。徳川家の領地を朝廷に返上することなど、旧幕府を廃して薩長派による新体制の政治であった。そのため旧幕府との間で衝突が起き戊辰戦争へと発展していく。

 1868年、戊辰戦争は京都の鳥羽・伏見で新政府軍と旧幕府軍ではじまり、翌年には江戸城は無血開城され、函館の五稜郭の戦いまで続いた、戊辰戦争は終始、新政府軍の勝利となった。

 戊辰戦争の最中に明治新政府が誕生したがその前途は多難であった。なかでも最大の課題は「いかにして日本の独立を守り、他国からの植民地化を防ぐか」ということであった。その当時のアジアは帝国主義の欧米列強国による植民地化が進み、いわゆる「草刈り場」になっていた。

 大国の清国ですらアヘン戦争やアロー戦争の敗北によって香港などの主要都市が外国の支配下に置かれていた。その時期に日本の命運を担う明治新政府にかかる重圧は想像以上のものだった。
 明治新政府は、植民地にならないために一刻も早く近代国家となり欧米列強と肩を並べなければいけなかった。しかし260年以上も続いた江戸幕府に比べ、たとえどれほど優れた政策を新政府が実行したとしても、国民が賛同するかどは分からない。そこで新政府は「日本の元首で長い歴史を誇る天皇の名の下で政治を行う」以外に国民をまとめ得る方法はないとした。
 尊王攘夷、つまり皇室に対しての尊敬の思いが国民の間で高まっており、世相も天皇制度を支える新政府を後押しする流れになっていた。明治元年1月、新政府は兵庫に欧米列強国の代表を集め、王政復古を告げ、これからは天皇が外交を自分で裁決する(親裁)と通告し、また旧幕府が列強と結んだ条約を引き継ぐことを約束した。このように新政府が目指した国家は「天皇を中心とする近代国家の成立」と「欧米に並ぶ列強国の仲間入り」であった。

 

中央集権化の完成(廃藩置県)
 新しい政治ができてもそれぞれの地方は江戸時代と同じように大名が治めていた。新政府は戊辰戦争などによって没収した旧幕府領を直轄地とし、東京・大阪・京都などの要地を「府」とし、その他を県とし諸藩は各大名が従来どおり統治することにした。天皇は徳川氏の持っていた領地を領地にしただけだった。

 しかし欧米列強による侵略から我が国の独立を守るためには、権限と財源の政府への一元化、すなわち政府の命令を全国津々浦々にまで行き届けるために中央集権化をめざす必要があった。そこで新政府の指導者たちは大名の土地と人民を朝廷にかえさせることが必要と考えた。

 明治2年1月、新政府は木戸孝允や大久保利通らの働きによって「薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)」の4藩主に連名で版籍奉還を出願させた。版籍奉還とは「藩が持つ領地と領民(戸籍)を朝廷に返上すること」で、4藩が天皇に返還すると他の藩主もみなそれぞれの土地と人民を天皇にかえすことを申しでた。このようにして新政府は同年6月に版籍奉還は完了した。
 しかし版籍奉還の後に、旧藩主は知藩事に任命されそのまま藩政を任された。つまり版籍奉還によって藩は土地と人民を天皇に返えさせたが、税や軍事は旧藩主が握ったままで、中央集権化を目指す新政府からすれば不完全な状態であった。
 さらに政府の直轄地である府では、年貢の徴収をめぐって一揆が多発し、諸藩でも従来と変わらない重税への不満が高まった。このため木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛は藩制度を全廃することにした。

 すべての旧藩主から政治の実権を奪うことは大きな抵抗が十分予想された。そこで政府は、明治4年に薩摩・長州・土佐の藩を説き伏せ、約1万人の御親兵(政府直属の軍隊)を集め、軍事力を固めて不測の事態に備えた。つまり反対するのは藩主があれば軍隊の力でねじ伏せようとした。
 政府は密かに準備を行い、明治4年7月に知藩事を東京の皇居に集め、明治天皇の詔によって「藩を取りやめ県をおく命令」を伝えた・廃藩置県を一方的に断行し、これによってすべての藩は廃止されて県となり、知藩事は罷免され、各府県には新たに中央政府から府知事や県令が派遣された。

 廃藩置県は混乱もなく行われ、政府による中央集権体制が名実ともに整った。廃藩置県は「特定の領主がその領地を支配する」という土地制度を根本的に変えるもので、領地の支配権を1日で没収し、王政復古に継ぐ第二のクーデターと言われている。

 この廃藩置県が劇的に成功したのは、約1万人の御親兵を準備していた以上に、当時の多くの武士たちが「先祖代々の日本を守らなくてはいけない」という強い使命感があったからである。この大事業は一人ひとりの武士の気概によって支えられた。

 さらに経済的な事情があった。この頃の諸藩の財政はほとんどが破綻しており、多額の負債を抱えていた。しかし廃藩置県によって明治政府が借金の肩代りをすることになったからである。借金で身動きのとれない藩主が華族として優遇され、政府が旧藩士の俸禄(給与)を保証したからである。

 なお廃藩置県によって当初は3府302県が置かれていたが、その後統廃合が繰り返され、明治21年には現在に近い3府(東京・大阪・京都)43県となっている。この廃藩置県を強力に推し進めたのは木戸孝允で、西郷隆盛らは周囲から説得されてしぶしぶ賛成したに過ぎなかった。

 西郷は旧態を壊す事により反乱が起こることに危機感を感じていた。西郷は藩ありきの新政府体制を考えていた。廃藩置県は西郷が折れる形で実行されたのである。

 版籍奉還から廃藩置県という中央集権化の流れのなかで、明治政府の組織の改革も進んだ。明治2年、神々の祭りをつかさどる神祇官を復興させ、太政官の下に民部省などの各省を置いた。その後、廃藩置県が行われた同年には、太政官を正院・左院・右院の三院制とした。このうち正院は現在の内閣に相当し、太政大臣・左大臣・右大臣の3大臣と参議とで構成された。神祇省を含む各省は太政官に属し、また左院は立法機関にあたり、右院は行政上の調整機関とした。政府内では三条実美(さねとみ)や岩倉具視などの公家とともに、薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)のいわゆる薩長土肥(さっちょうとひ)の若き実力者たちが政治の実権を握った。

 彼らによる政権は藩閥政府と呼ばれ、主な人物は薩摩藩が西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆。長州藩が木戸孝允・伊藤博文・井上馨・山県有朋。土佐藩が板垣退助・後藤象二郎。肥前(佐賀)藩が大隈重信・副島種臣(そえじまたねおみ)・江藤新平らである。

 

五箇条の御誓文
 内政については、明治元年3月14日に、明治天皇が新しい政治の基本方針をまとめた五箇条を天神地祇(すべての神々)に誓った(五箇条の御誓文)。

 五箇条の御誓文は、公議世論の尊重、開国和親の推進、先進国の文明の吸収が挙げられるが、これらは明治新政府の政策方針であった。明治新政府の基本方針を、天皇が神々に誓い、国民に信頼感や安心感を与えたのである

 天皇の覚悟を決めた政策は破ることは許されず、絶対に実行しなければならなかった。御誓文の内容は参与の由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(たかちか)が起草し、木戸孝允(きどたかよし)が修正を加えて完成している。

一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
広く会議を開いて、あらゆる政治は世論で決定すべきである。

一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
上の者も下の者もお互いに協力して、国家を治める政策を行うべきである。

一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
公家や武家から庶民に至るまで、それぞれの意志が達成できるようにし、途中で人々があきらめたり、やる気を失ったりするようなことがないようにすべきである。

一、旧来ノ陋習(ろうしゅう)ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クヘシ
古い悪習を破り、何事も天地の道理たる人としての道にのっとるべきである。

一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
知識を世界に求め、天皇が国を治める基礎をなすように奮い立つべきである。

 五箇条の御誓文が発表された明治元年3月14日は、江戸で西郷隆盛と勝海舟との会談が成立した日でもあった。当時の御所は京都にあったので、日本の西と東で同じ日に歴史的な出来事があったことになる。明治元年4月、明治新政府は新政府として政体書を公布し、五箇条の御誓文で示された方針に基づいて政治組織を整え発足した。具体的には王政復古の大号令で定められた総裁・議定・参与のいわゆる三職を廃止し、太政官にすべての権力を集中させ、その下に立法権を持つ議政官・行政権を持つ行政官、司法権を持つ刑法官を置き三権分立制を採り入れた。

 この三権分立制についてはアメリカの憲法を参考にしており、議政官は上局と下局に、また行政官は神祇官・会計官・軍務官・外国官にそれぞれ分かれていました。議政・行政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の各官を総称して七官とも呼ばれるが、三権分立といってもそれぞれの独立性は低く、高級官吏(役人)を4年ごとに互選させるようにしたが、実際に行われたのは1回だけであった。ちなみに明治政府の組織については、この後も短い期間で次々と変更されてゆく。

五榜の掲示
 明治政府は五箇条の御誓文で新しい政治の基本方針を示したが国内の治安維持も緊急をの課題であった。幕末以来の政治の激変が社会不安をもたらし、260年続いていた幕府が崩壊したことから、さらなる混乱が予想されたのである。政府は応急の措置として、五箇条の御誓文が発表された翌日の明治元年3月15日に、全国の庶民に向けて五榜(ごぼう)の掲示を公布した。
 五榜の掲示は、君臣や父子あるいは夫婦間の道徳を守ること、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、外国人への暴行の禁止、郷村(村落)からの脱走の禁止など、旧幕府の政策を引き継いだものであった。このうちキリスト教の禁止は欧米列強の反対にあい、明治6年に廃止された。これにより約230年ぶりにキリスト教が公認されることになったた。

東京遷都
 桓武天皇が794年に平安京へ遷都されて以来、京都は日本の首都であったが、大政奉還から王政復古の流れのなかで、政治の刷新から新しい首都を定める雰囲気が高まりました。新政府では大久保利通が大坂(大阪)への遷都を主張したが、江戸城が無血開城となり江戸の街が戦火から破壊されることなく新政府に引き渡されてからは、江戸に新首都を置くべきとする意見が強くなった。
 江戸に遷都するのは、それまで幕府の本拠地として栄え、100万人以上の人口を抱える世界有数の大都市だったからである。江戸が幕府がなくなり寂れてしまう危険性もあった。さらに新たに首都を定めることは、役所などの政治システムや商業施設などの経済システムなども新たに備えなければいけないが、新政府には首都の機能をつくる資金もなければ、広い土地も日本にはなかった。
 しかし江戸には約260年間続いた幕府の組織が残っていて、商業の流通網も活かさ、かつての武家地は非常に広大で、再開発が容易であった。明治元年7月、明治天皇の名において、江戸は「東京」と改められ、東京府が置かれた。8月には、京都で明治天皇の即位の礼が行われ、9月8日には、元号がそれまでの慶応から明治へと改められた。明治の元号は慶応4年1月1日からさかのぼって適用され、以後は天皇一代につき元号一つと決められました(一世一元の制)。
 一世一元の制によって、天皇が交代するまでは同じ元号を使用し、天皇の崩御後には元号をそのまま追号とすることになり、この制度は現代にも受け継がれている。
 明治元年9月20日、明治天皇は東京へと外出(行幸)10月に到着されると、江戸城を東京城と改た。その後、一旦京都へ戻られた明治天皇は、翌明治2年3月に再び東京へと行幸され、その後は東京城を皇城(皇居)として定住された。明治天皇が一旦京都へと戻られたのは、それまで1000年以上も首都であった京都の市民の落胆をお慰めされるためだったといわれている。その後、明治2年に我が国の首都が東京と正式に定められた(東京遷都)。

 

行政機関の整備
 明治14年に公布した国会開設の勅諭により、明治23年に国会を開くと天皇が国民に約束した以上、政府は国会開設に向けて絶対に遅れが許されないことになった。
 国会を開いて政治を行うには、事前に様々な準備が必要であった。国家の運営などに関する全ての条文を盛り込んだ憲法の制定はもちろんのこと、国会以外に関する様々な制度や規則を定める必要があった。
 政府はまず軍政の整備を行った。明治11年には天皇直属の参謀本部を設置して、軍政と軍令(作戦)とを分離した。これは、明治政府以降に征韓論や士族の反乱、自由民権運動などで揺れる政局に軍隊が巻き込まれないように、天皇の権威をもって独立させたのである。明治15年には天皇は軍人勅諭を発布し、統帥権(軍隊指揮する権利)をお持ちの天皇の名において、軍人にとって欠かせない忠節や礼儀・武勇などを説き、軍隊の政治活動を禁止するなど、軍人にの精神面での大きな支えとなった。
 政府は次に議会政治における上院に相当する機関を視野に入れましたが、まずはその母体となるべき華族の範囲を広げてより多くの人材を求めるべきとした。そこで、明治17年に華族令を定め、従来の旧公家や旧藩主以外に、国家の功労者も華族になれるようにし、華族の順列を公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の5つに分け、上院たる貴族院の構成員に華族がなれるようにした。
 政府は国会開設への準備として行政機関の改革に乗り出し、明治18年には大宝律令以来の太政官制を廃止し、西洋にならった内閣制度を創設した。これは内閣総理大臣(首相)が内務省や外務省などの各省の長官たる国務大臣を率いて内閣を組織し、天皇の輔佐として国政における責任を負う制度である。初代の内閣総理大臣には伊藤博文が就任した。伊藤は満44歳であったが、この若年記録は今もなお破られていない。
 宮中の事務にあたる宮内省は内閣の外に置かれ、宮中と行政府とが明確に区別された。宮内省の長官として宮内大臣が任じられ、初代は伊藤博文が兼任した。また天皇の印たる御璽(ぎょじ)や国家の官印たる国璽を保管するとともに、天皇の諮問に応じる内大臣も新たに置かれ、初代内大臣として三条実美(さんじょうさねとみ)が就任した。
 政府は地方制度の充実にも力を入れました。政府の顧問でドイツ人のモッセの助言を受けて、内務大臣の山県有朋が中心となって改正が進められた。
 明治21年には市制・町村制が、明治23年には府県制・郡制が相次いで公布されました。これらによって、人口が25,000人以上の町が市となり町村も合併された。
 市町村の議決機関としては市町村会が設置され、一定額の直接国税を納めた者のみが投票できるという制限選挙ではあったが、議員は住民から直接選ばれた。一方、郡会は町村会の選出議員と大地主の互選で選ばれ、府県会議員は市会や郡会において間接的に選出されました。
 府や県の代表たる府知事や県知事は政府が任命し、市長は市会が推薦する候補者の中から内務大臣が任命し、無給の名誉職であった町村長は町村会の公選で選ばれました。このようにして、府県知事などに政府の強い指導があったものの、地域の有力者を中心とした地方自治制が我が国で確立することになりました。なお郡制については大正12年に廃止されている。

 

 地租改正
 欧米列強に負けないためには、近代化へ向けての様々な政策が不可欠であるが、そのためには安定した財源の確保が必要であった。しかし新政府の財源は旧幕府の領地を没収し、版籍奉還によって各藩から得た年貢に頼っていた。この年貢ではコメの作柄が年によって変動し、諸藩の税率もバラバラだったため、安定した税を確保するのは難しかった。また税の収出で、廃藩置県による各藩の債務や華族・士族の秩禄を負担したため、政府の財政がさらに悪化した。
 租税の根本的改革が求められた政府は、各藩から引き継いだ債務の一部を無効にするなど強引に整理し、明治4年にはそれまで禁止されていた田畑の勝手作りを許可し、土地の値段を定めるとともに地券を発行した。地券には所有者や地価・地租などが記され、土地の所有者に交付されたが、これは土地を不動産として個人の所有権を公認するもので、藩主などの土地を完全に解体した。
 政府は、明治6年7月に地租改正条例を公布し、新たな地券制度を基本とする地租改正に着手した。当初は農民の自己申告で作業が進められたが、やがて太閤検地以来の大規模な土地測量が全国で行われ、最終的に一億枚を超える地券を発行して、明治14年に完了した。
地租改正の主な内容は下記のとおりである。
1.土地所有者(地券の所有者)を納税者とした
2.課税の基準を、従来の不安定な収穫高から、一定した地価へ変更した
3.それまでの物納から金納に変え、地価の3%を税率とした
 この地租改正で全国同一の基準で、収穫の豊凶にかかわらず金銭での地租の徴収が実現し、近代的な税制が確立し、政府の安定した財源の基礎となった。しかし政府が旧幕府の頃の年貢収入を維持することを前提として地価を定めたため、地価に対して高額な査定したことから農民の不満が高まった。さらに共同で利用していた山林や原野などのうちで、所有権が明確でないものを官有地とした。このことも農民の反発を呼び、各地で地租改正反対の一揆が起きた。このこともあり、明治10年に、税率を地価の3%から2.5%へと引き下げた。

国旗「日の丸」と国歌「君が代」
 国旗と国歌は「主権国家としての独立と尊厳を表し、国家の理想や国民の誇りを象徴するもの」であった。またこれを敬愛することは国を愛する純粋な思いにつながった。日本の国旗は「日の丸」で、国歌は「君が代」であるが、これらが制定されたのは明治初期のことである。

白地に赤く 日の丸染めて
ああ美しや 日本の旗は

朝日の昇る 勢い見せて
ああ勇ましや 日本の旗は

 かつて聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に「日出ずる処の天子」と書いたように、昔より日本は「太陽の昇る国」という考えから「日の本」を国名とした。またそれにふさわしいデザインとして扇や旗などに日の丸を使用してきた。幕末に日本が開国すると、日本と外国と区別するための印が必要になり、江戸幕府によって日の丸が船印に定められ、諸外国も日の丸が日本の国旗であるとした。このことから明治政府は明治3年に日の丸を日本の船舶に掲げる国旗と正式に決定した。

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
 君が代は、同じ和歌が10世紀初の古今和歌集に載っており、「小さな石が固まって大きな岩となり、そのうえに苔が生えるまでずっと長く栄えますように」という意味の祝賀の歌である。
 明治政府はこの「君が代」を明治3年に国歌に決め、来日中のイギリス人によって曲がつくられた。しかし西洋風の旋律が和歌に合わず、明治13年に宮内省の林広守によって、日本古来の雅楽調の曲がつくられ、それを海軍省の音楽教師であったエッケルトが洋楽式に編曲して、現在の君が代が完成した。
 日の丸や君が代は、我が国にふさわしい国旗・国歌として広く用いられ、その流れを受けて、平成11年に「国旗国歌法」が制定され、日本国民はその象徴ともいえる国旗や国歌に敬意を示すとともに、外国の国旗や国歌も大切に扱うことが当然となった。

 

貨幣制度の改革
 明治政府は財政難に苦しみ、京都や大坂の商人から御用金を強制的に取り立て、金貨や銀貨と交換できない不換紙幣の太政官札や民部省札を発行した。しかし成立したばかりの明治政府への信用が低かったため、紙幣の流通が滞り混乱した。また4朱で1分、4分で1両という貨幣単位が外国人に分かりにくいこともあり、明治政府は明治4年に新貨条例を定め、十進法の単位の円・銭・厘の新しい硬貨を発行した。1円が100銭、1銭が10厘であった。
 また政府は金を通貨価値の基準とする制度(金本位制)を想定して、1円金貨を本位貨幣(貨幣制度の基準となる貨幣)としたが、幕末に大量の金貨が流出したことで国内の金が不足しており、またアジアでは銀本位制で貿易が行われていたため、貿易銀と呼ばれた1円銀貨も発行した。
 明治5年、政府は太政官札などと交換するために、明治通宝(めいじつうほう)と呼ばれる新紙幣を発行した。これによって、国内における紙幣の統一が進んだが、明治通宝もこれまでと同じ金貨や銀貨と交換できない不換紙幣であった。
 そこで政府は民間の力で金貨と交換できる兌換銀行券(だかんぎんこうけん)を発行した。兌換とは銀行券を正貨と引き換えることができる券で、渋沢栄一が中心となって国立銀行条例を制定した。なお国立銀行といっても国営ではなく、「国が定めた条例によって設立された民間の銀行」という意味であり、国立銀行が紙幣を発行する際には正貨との兌換が義務づけられた。このため国立銀行は発行する紙幣に見合うだけの兌換硬貨を準備しなければならず、経営が困難だったため、当初の国立銀行は、明治6年に設立した第一国立銀行(現在のみずほ銀行のルーツです)などわずか4行しかなかった。このため政府は、兌換制度の確立をめざした当初の方針を転換し、国立銀行も不換紙幣を発行できるようにした。これによって華族や士族が金禄公債証書を元手としたほか、商人や地主らによって次々と国立銀行が設立され、最終的には、明治12年につくられた第百五十三銀行まで続いた。