芸術・文明開化

文明開化
 明治政府は欧米列強からの侵略や植民地化を防ぐには、西洋文明を積極的に取り入れ近代化すことが重要と考えた。そのために西洋の産業技術、社会制度、思想、生活様式などを取り入れようとしたが、このような風潮は、大都市を中心に広がり、国民の日常生活にまで影響をもたらした。これを文明開化という。
 思想面では儒教や神道の考えや習慣にかわって、西洋流の自由主義や個人主義などの啓蒙思想や、人間は生まれながらに権利(自然権)を持っているとの思想(天賦人権)が広がった。これら新しい思想の啓蒙書としては福沢諭吉の「西洋事情」、「学問のすゝめ」、「文明論之概略」、あるいは中村正直が訳した「西国立志編」、「自由之理(ことわり)」などが広く読まれた。また活字印刷術の発達によって、明治3年には日本初の日刊新聞・横浜毎日新聞(現在の毎日新聞とは関係なし)が創刊され、東京を中心に各種の新聞や雑誌が次々と創刊された。明治6年には森有礼・福沢諭吉・中村正直・西周(あまね)・加藤弘之・西村茂樹らによって明六社が組織され、翌7年には「明六雑誌」を発行され啓蒙思想が紹介された。
 教育面では、明治4年に新設された文部省によって、翌5年にフランスにならった学制が公布され、「学問は国民が身を立て、智をひらき、産をつくるためのもの」とする近代的な実学主義による教育が説かれ、明治政府は特に小学校教育に力を入れ全国各地に小学校がつくられた。政府による国民皆学は、経済的負担や子供の労働力が奪われため農村で反対の一揆が起きたものの、江戸時代までに寺子屋が全国に普及していたこともあって次第に定着した。政府は専門教育にも力を入れ、旧幕府が設けた開成所や医学所などを統合して、明治10年に東京大学を設立し、教員養成のための師範学校や、女子教育のための女学校や女子師範学校がつくられた。民間においても幕末に福沢諭吉が設立した蘭学塾を基礎とした慶應義塾、新島襄の同志社英学校、大隈重信の東京専門学校(早稲田大学)などの私学が次々と設立され、独自の学風で多くの人材を生み出した。
廃仏毀釈
 明治維新の変革は宗教界においても例外ではなかった。神道による国民意識の統一をはかるため、政府は明治元年に神仏分離令を出し、我が国古来の神仏習合を否定して神社から仏教色を排除した。しかし政府のこのような動きは、国民による仏教の否定につながり、全国各地で仏像が破壊されるなど、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れるようになった。その後、明治3年に明治天皇の名において大教宣布が出され、神道を国教と定める国家方針を示し、明治6年には紀元節などの祝祭日を設けた。キリスト教については、旧幕府の禁教政策を引き継ぎ、五榜の掲示で禁止したが、列強の反発を受けて明治6年に禁止が解かれ、キリスト教の布教活動が積極的に行われるようになった。紀元節とは日本書紀において神武天皇が即位された日を日本の紀元として、現在の太陽暦に換算した2月11日と定められた。ちなみに現在は建国記念の日として国民の祝日となっている。

思想界・宗教界の動向 
日本が独立を守り、欧米列強から侵略されないようにする目的から、明治初年から西洋文明を急速に受けいれた。この流れは庶民の生活にまで及び、いわゆる文明開化が花開き、鹿鳴館を建設して連日のように舞踏会を開くなどして欧化主義に走った。しかし日本古来の伝統を軽視する風潮は、明治20年前後になると治まり、自国の歴史や文化に目を向けるようになった。例えば徳富蘇峰は民友社を設立して、「国民新聞」や雑誌「国民之友」を発刊し、政府を貴族的欧化主義と批判して、平民による近代化と産業社会の建設を目指した平民主義を主張した。その後、徳富蘇峰は三国干渉に衝撃を受け、以後国家主義へと転じ「近世日本国民史」を著した。
 また三宅雪嶺(せつれい)・志賀重昂(しげたか)・杉浦重剛(じゅうごう)らは政教社をつくり、雑誌「日本人」を創刊した。彼らは西洋かぶれの風潮を批判し、日本本来の優れた思想や文化を保存あるいは発展させながら新しい文化を創造すべきとする国粋保存主義を唱えた。
 また陸羯南(くがかつなん)は新聞「日本」を発行し、政府による安易な欧化主義や欧米に妥協的な条約改正の交渉を批判したが、この考えは対外的には欧米列強に対する日本の独立を、対内的には国民的自由の確立を主張したもので国民主義と呼ばれた。高山樗牛(たかやまちょぎゅう)は雑誌「太陽」で日本主義を唱え、日本古来の伝統・文化・精神を重視して、国家の繁栄を目指すべきと主張したが、こうしたナショナリズムは、明治中期における思想界の主流となった。なお、杉浦重剛は皇太子時代の昭和天皇に倫理のご進講を行ったことでも知られており、陸羯南は正岡子規を育てたことで有名である。
 宗教界では伝統的な神道や仏教、あるいは西洋から流入したキリスト教との対立や競合がみられた。神道界では、明治初年の神仏合同による国教化がうまくいかなかったが、政府の公認を受けた民間の教派神道が、庶民を中心に広がりを見せた。
 仏教界では、明治初年の廃仏毀釈の嵐による大きな打撃から次第に立ち直り、浄土真の僧侶である島地黙雷(しまじもくらい)は、政府の大教宣布の政策に反対し、信教の自由の立場から仏教の復興を目指した。
 キリスト教は札幌農学校を創設したクラークなどの来日した外国人教師による熱心な布教によって、青年知識人を中心に広がりを見せ、内村鑑三・海老名弾正・新渡戸稲造らのキリスト教思想家が活躍するようになった。内村らは信教の自由や人格の尊厳、あるいは神の前の平等などを唱えたが、この考えは日本における個人主義や社会主義などの近代思想や文学の発達に多大な影響を与えた。


国民の生活
 政府が西洋の風俗を積極的に推奨したことで、都市部を中心に国民の生活は大きく変わった。軍隊や官吏(役人)、巡査が着用したことから洋服や靴の習慣が広まった。明治4年に政府が散髪令を出し、髷を切ったざんぎり頭が増えた。「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」という言葉が有名である。その他、仏教で禁止されていた肉食の習慣が牛鍋の人気で広まり、東京の銀座には煉瓦造りの建物が並び、石油ランプやガス灯が使われ、馬車や人力車が登場するなどの様々な変化が見られた。
 明治5年にはそれまでの太陰太陽暦(旧暦)から太陽暦(新暦)にかわり、旧暦の明治5年12月3日が、新暦の明治6年1月1日となった。また1日を24時間と定め、1週間を7日として日曜日を休日と定めた。この太陽暦への変更が余りにも急だったため大きな影響を与えた。
 太陽暦が国民に発表されたのは、同年の旧暦11月9日であった。新暦の正月まで3週間という押しつまった時期に何の前触れもなく変更された。国民の生活に深くかかわっていた暦の変更は、多方面に様々な影響をもたらした。翌年の暦を販売していた業者が出版のやり直しを強いられ、福沢諭吉が太陽暦の解説本を新たに発行してベストセラーになった。政府が年末に急に改暦を発表したのは、政府の深刻な財政事情があった。官吏の給与は月給制だったため、旧暦のままだと翌明治6年は閏月(うるうづき)になるため、13ヵ月分の給与を支払わなければいけなかったからである。新暦になれば閏月が廃止されるため、12ヵ月の支払いで済み、給与を支払う必要がなくなったのである。つまり2ヵ月分の給与が浮くことから財政面でのメリットが大きかったからである。発表当初は大きな混乱があったが、太陽暦は次第に定着したが、十五夜(じゅうごや)などの旧暦の風習は習慣として残った。なお急な改暦で大損した暦の業者に対しては、政府がその後10年間の暦の独占販売を認めた。
西洋文化への反発
 文明開化の風潮が様々な分野での近代化をもたらしたが、それらは決して良いことばかりではなかった。旧来の風習が文明開化によって一新され、我が国の歴史や伝統を軽視する風潮が見られ、仏像や浮世絵などの貴重な作品の海外に流出した。また西洋の思想が全面的に受けいれられ、封建的な思想や習慣が否定され、伝統的な風習が廃れるという現象がみられた。政府による急激な西洋化が国民の反発を招いたことから、日本の伝統を損なわずに、西洋の技術を受けいれる和魂洋才(わこんようさい)が見られるようになった。

 

近代の文学
 明治初期の文学は江戸時代以来の戯作文学(げさく)の流れをくむ仮名垣魯文(かながきろぶん)の「西洋道中膝栗毛」「安愚楽鍋(あぐらなべ)」や、自由民権運動を題材とした矢野龍渓(りゅうけい)の経国美談などの政治小説が中心であった。
 これに対し坪内逍遥が明治18年に小説神髄を発表して、それまでの勧善懲悪主義を批判し、人情や世相をありのままに描いた写実主義を唱えた。その後、二葉亭四迷がそれまでの文語体から口語体で文章表現を行った言文一致体で「浮雲」を発表して、知識人の内面を描き写実主義に相応しい文学作品となった。坪内逍遥の主な作品として「当世書生気質」が、二葉亭四迷はロシア文学の翻訳も行っており、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」が有名である。
 明治18年に結成された硯友社(けんゆうしゃ)は「我楽多文庫」を発刊し、坪内逍遥の写実主義を目指しながらも文芸小説の大衆化を進めた。硯友社を結成した作家とその作品では、尾崎紅葉の「金色夜叉」や、山田美妙(びみょう)の「夏木立(なつこだち)」などが有名である。その後、尾崎紅葉の弟子である泉鏡花が「高野聖」を発表し、幻想的な独特の世界を華麗な文体を用いた。また幸田露伴は「五重塔」などの作品で理想主義的な作風を打ち立てた。なお尾崎紅葉と幸田露伴が主導的立場にあった明治20年代の近代文学史上の時期を「紅露時代」という。
 日清戦争の前後には、感情や個性を尊ぶロマン主義の文学が次々と発表され、森鴎外は「舞姫」を発表し、アンデルセンの「即興詩人」を翻訳した。
 また北村透谷が雑誌「文学界」を創刊したほか、現在の五千円札の肖像画で有名な女流作家の樋口一葉が「たけくらべ」や「にごりえ」を発表し下町に住む女性の悲哀を描いた。
 詩の分野では漢詩にかわって七五調の文語定型詩である新体詩が現れ、島崎藤村が「若菜集」を刊行した。
 短歌の世界では与謝野鉄幹・晶子夫妻らが雑誌「明星」を創刊し、明星派の短歌がロマン主義の中心となったほか、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」が、女性の奔放な情熱をうたったものとして有名になった。万葉調の和歌の復興を目指した正岡子規は、俳句の雑誌「ホトトギス」を創刊し、その門下からは高浜虚子が出た。また短歌における門下からは伊藤左千夫が出て雑誌「アララギ」を創刊した。
 日露戦争の頃になると、ロシアやフランスの自然主義文学の影響を受けて、人間社会の現実をありのままに描写する風潮が主流となった。当時の自然主義の作家としては、「牛肉と馬鈴薯」の国木田独歩・「蒲団」の田山花袋・「破戒」の島崎藤村・「黴(かび)」の徳田秋声などが挙げられる。
 また明星派の影響を受けた石川啄木が「一握の砂」を発表して、社会主義思想を盛り込んだ生活詩をうたいあげた。こうした自然主義の流れに対立するかたちで、夏目漱石が「吾輩は猫である」などの作品を発表して、知識人の内面を国家や社会との関係で表現したほか、森鴎外が反自然主義的な思想小説を次々と発表した。

絵画
 政府は殖産興業の観点から西洋美術教育の必要性を考え、明治9年に工部美術学校を開設したが、その後に起きた美術界の伝統回帰の風潮から明治16年に廃止された。哲学のアメリカ人教師として来日したフェノロサは日本の伝統芸術を高く評価してその保存を訴え、助手の岡倉天心とともに、明治20年に開設された東京美術学校の設立に尽力した。このように政府と民間とが一体となって伝統芸術を支え、狩野芳崖(かのうほうがい)の「悲母観音」や橋本雅邦(がほう)の「竜虎図」などの優れた日本画が描かれ、明治31年には日本美術院が設立された。このように日本美術の再評価の気運が高まり、政府は明治30年に古社寺保存法を制定し国宝の指定や保護に関する法的な根拠が定められた。なお東京美術学校は現在の東京芸術大学の前身にあたる。
 西洋画は工部美術学校の閉鎖もあって一時的に衰退したが、やがて「収穫」を描いた浅井忠や、「鮭」を描いた高橋由一らによって、明治22年に日本初の西洋画の団体である明治美術会が設立された。その後、明治29年に東京美術学校に洋画科が新設され、同年にはフランス印象派の画風を学んだ「読書」や「湖畔」で有名な黒田清輝が白馬会を創立した。

彫刻
 彫刻はフランスのロダンに学んだ荻原守衛が「女」などの西洋風の彫塑(ちょうそ)を発達させ、高村光雲は「老猿」などの伝統的な木彫による作品を残した。また建築では優れた洋風建築が建てられ、なかでもイギリス人コンドルのニコライ堂や、辰野金吾(たつのきんご)による日本銀行本店は有名である。
 このように伝統美術と西洋美術がそれぞれ発展したが、両者の共栄共存を考えた文部省は、第一次西園寺内閣の文部大臣であった牧野伸顕(まきののぶあき)の尽力もあって、明治40年に文部省美術展覧会(文展)を設けた。文展はその後大正8年には帝国美術院展覧会(帝展)へ引き継がれ、現在の日本美術展覧会(日展)につながっている。

明治期の演劇・音楽
 明治の世になって演劇の世界にも新しい波が押し寄せてきた。江戸時代以来人気を集めてきた歌舞伎は、幕末の頃から第一線で活躍してきた河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が、文明開化の風俗を題材に取り入れた新作を発表した。また、明治の中期頃までには九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎、初代市川左団次らの名優が出て、歌舞伎は「団菊左時代」と呼ばれる全盛期を迎えた。この背景には文明開化や欧化主義といった極端な西洋化に反発する伝統保存への気運や、演劇改良運動による歌舞伎の社会的地位の向上があった。なお明治22年には歌舞伎座が建てられている。
 その後、歌舞伎は西洋演劇の手法が取り入れられ、坪内逍遥による史劇「桐一葉」などがつくられた。
 自由民権運動を芝居によって広めようとした壮士芝居は、日清戦争の頃から新派劇と呼ばれるようになった。新派劇では川上音二郎によるオッペケペ―節が大流行したほか、新聞小説や流行小説から題材をとるようになり発展した。
 日露戦争後には坪内逍遥らが文芸協会を設立し、あるいは小山内薫と二代目市川左団次らが自由劇場を発足させ、新劇と呼ばれた西洋の近代劇を上演しました。
 なお文芸協会の解散後には島村抱月や松井須磨子らが芸術座を結成しています。
 西洋音楽は、幕末にまず軍楽として取り入れられ、明治に入ってから文部省に音楽取調掛が設置され、日本音楽と西洋音楽との融合を目指して、音楽教育の立案や音楽教員の養成、あるいは学校唱歌集の刊行がなされた。
 明治20年に伊沢修二を校長として東京音楽学校が設立され、本格的な音楽教育が始まった。なお東京音楽学校は現在の東京芸術大学音楽学部の前身になる。
 やがて日本人からも滝廉太郎のような優れた音楽家が現れ、滝廉太郎が作曲した「荒城の月」「箱根八里」「花」などは広く歌い継がれている。
 また日清戦争の頃には軍歌が流行したほか、学校の校歌や寮歌も愛唱された。早稲田大学の校歌である「都の西北」や、旧制第一高等学校の寮歌である「嗚呼玉杯に花うけて」などが有名である。

文化事業の推進
 近代化を推進するには、文化事業を興して国民を啓蒙することが不可欠とした政府は、図書館や博物館の建設を始め、旧幕府の紅葉山文庫や昌平黌(しょうへいこう)などの図書を集め、明治5年に湯島の昌平黌講堂跡に書籍館(しょじゃくかん)を開いた。書籍館は日本初の官立公共図書館で、明治30年に帝国図書館となり、現在の国立国会図書館のルーツとなった。この他にも全国に図書館が次々と設立され広く利用されました。
 書籍館が開かれた同じ明治5年に、湯島聖堂の大成殿で博覧会が行われ、翌6年にウィーン万国博覧会が開かれたのをきっかけに、内務省系の博物館(東京国立博物館)と文部省系の博物館(国立科学博物館)が設立された。その後に全国各地で博覧会が開かれ地方にも博物館が建てられた。当時の帝国図書館や内務省系・文部省系の博物館は、いずれも上野公園にあったが、これは寛永寺の境内地を公園化したものである。
 東京を中心に日本には広大な敷地を持つ公園が存在するが、これらの多くは大名屋敷の庭、大寺院、あるいは神社の境内地を利用したものである。東京の上野公園や芝公園・浅草公園は、それぞれ寛永寺、増上寺、浅草寺の境内地がその由来である。この他にも、水戸の偕楽園、金沢の兼六園などが公園化されたが、これらは従来の和風の庭園を活用したもので、西洋風の公園がつくられたのは、明治36年に開かれた日比谷公園が初めてであった。
 医学の発達によって、日本にも近代的な病院がつくられ、明治25年には北里柴三郎によって伝染病研究所が設立され、伝染病の予防と治療の施設がつくられた。
 また佐野常民によって設立された博愛社は、明治20年には日本赤十字社と改称され、明治45年には明治天皇の皇后である昭憲皇太后が国際赤十字に資金を寄付した。この資金は「昭憲皇太后基金」として、今でも世界各国の医療活動に活用されている。また現在の日本赤十字社の名誉総裁は皇后陛下である。