日露戦争

日露戦争前
 1894年の日清戦争に勝利した日本は下関条約を結び、多額の賠償金と土地を譲り受ける。その中に遼東半島があった。しかし中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。遼東半島は重要な場所であったが、日本はこの要求通りに遼東半島を清に返還したのである。
 その後、清は欧米列強国の国々に次々と侵略を許すことになる。この列強国の中国進出は、日清戦争で清が日本に負けたことから、清の弱さに各国が付け入ることになる。しかし中国から外国の勢力を追い払う「義和団事件」が起きると、清はこの義和団を支持して各国に宣戦布告をおこなった。これに対し日本やロシアを含む8カ国が共同して出兵し鎮圧したため、清の半植民地化はさらに加速した。
 各国が競うように中国に進出したのである。ロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど満州への進出を押し進めた。ロシアは満州と遼東半島に兵を置いたのである。
 1903年の日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案していた。しかし積極的な主戦論のロシアは朝鮮半島で増えつつあったロシアの利権を妨害されることを恐れ妥協案に興味を示さなかった。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。戦争によってロシアは負けることはないが、ロシアの疲弊を恐れた戦争回避論もあったが少数派であった。
 ロシアは満洲を勢力下におくと、親露政権となった韓国へ圧力を強め、南下政策を加速した。明治36年にロシアは満州と韓国の境にある鴨緑江沿いの龍岩浦を手に入れ、「ポート・ニコラス」という名の軍港とした。ポート・ニコラスを手にしたロシアは遼東半島沿岸や朝鮮半島の西海岸の制海権を握ることになり、日本の安全保障にとって脅威となった。

 ロシアはもともとヨーロッパ東部に位置する農業国だった。13世紀にモンゴルの侵略に遭いその植民地となっていたが、イワン雷帝によって独立国となった。しかし新生ロシアと言えども封建領主と農奴によって構成された遅れた農業国であった。この状況を大きく変えたのは、18世紀のピョートル大帝である。ピョートル大帝はスウェーデンやトルコを連破し海への出口を獲得した。ペテルブルク(サンクト・ペテルブルク)は、ロシア初の海外貿易港だった。この後に経済発展に努めたが、十分な不凍港(冬でも凍らない港)が無いために、思うほどの経済成長を遂げることが出来なかった。トルコを叩いて地中海方面に出ようとしたが、ロシアの勢力拡張を恐れたイギリスとフランスがその前に立ち塞がった。そして露土戦争やクリミア戦争の結果、ロシアはこの方面への進出を断念せざるを得なくなったのである。南への進路を塞がれたロシアは西欧勢力が手薄な東へと向かった。中国との数度にわたる角逐の後、ようやく日本海に臨む港湾を獲得。ここをウラジオストック(東を征服せよという意味)と名づけた。そして、中国の清王朝の弱体化を見たロシアは暖かい港を求め南へと下った。清王朝を恫喝し中国東北部に東清鉄道を敷設したロシアは、その先端にある細長い遼東半島を「三国干渉」で日本からもぎ取りました。この半島の突端に位置する旅順港は、ロシアにとって念願の、豊かな不凍港だった。

 ロシアは、旅順港に旅順艦隊を派遣した。喉元に匕首を突きつけられた日本は震え上がった。日本海と東シナ海のシーレーンは、ロシアの思うが侭だったのである。このように日露戦争におけるロシアの目的は「東アジアの権益を維持し強化すること」だった。

 ロシアは朝鮮半島の南部馬山浦や鎮海湾、さらには対馬までを支配に置こうとした。これらの地域をロシアに奪われれば、かつての元寇のように、日本が侵略を受けるのは目に見えていた。まして相手は世界有数の軍事大国である。まともに戦えば勝ち目はなかった。ロシアの脅威に対し、日本は戦争を回避するための努力を重ねた。伊藤博文は「ロシアの満州支配を認める代わりに、朝鮮半島には手を出さない」という満韓交換論をのべた。たとえロシアが満州を支配しても、日本は朝鮮半島の安全保障だけは死守したかったのであるが、国力や軍事力に勝るロシアが承知しなかった。このままでは朝鮮半島がロシアに奪われる。日本としては朝鮮半島を我が手に収め、満州は西欧列強からの中立地帯として中国に保持させておきたかった。すなわち日露戦争における日本の戦争目的は「ロシアの勢力を朝鮮半島と満州から駆逐する」だった。日本は日本海に突き出た朝鮮半島がロシアの支配下となれば、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の派遣が容易になるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び国交断絶を言い渡した。
 いっぽう大韓帝国の旧李朝支配者層は、日本の影響力を排除しようとして日露戦争中にもロシアに密書を送るなどの外交を展開していた。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。

日英同盟
 帝国主義の時代は、生き馬の眼を抜くような激しい闘争の時代であった。帝国主義諸国は、互いに同盟や協定を結び既得権益を守り新たなチャンスを野獣のように狙っていたのである。この中でも、最大の既得権益の保持者は、太陽の沈まない帝国イギリスであった。そのイギリスは、当然ながら、新進気鋭のライバルであるドイツやロシアの動向に神経を尖らせていた。ドイツやロシアは帝国主義の後発組で、彼らが勢力を伸ばそうとすると、必然的にイギリスの既得権益が脅かされることになる。イギリスとドイツは、アフリカや中近東で激しい鍔迫り合いを繰り広げた。その隙をついて、ロシアが中国への触手を伸ばした。

 ロシア帝国は不凍港を求めて南下政策をとり、まず露土戦争(ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)戦争に勝利してバルカン半島に大きな立場を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めて、露土戦争の講和条約の破棄とベルリン条約の締結に成功し、これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念することになった。そして南下政策をの矛先を中国などに向けることになった。このとき半植民地であった中国に最も巨大な利権を持っていたのがイギリスだった。世界最強とも言われるイギリスも、このロシアの勢力拡大を嫌っていた。イギリスは清に多くの租借地を持っていたので、この権益がロシアに侵されるのを嫌っていた。イギリスは焦ったが、東アジアに大軍を派遣する余裕はなかったので、頼りになるのは大日本帝国以外なかったのである。こうして「日英同盟」が結ばれる(1902年)。

 ロシアは満洲の植民地化を進め、日英米がこれに抗議てしロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは撤退を行わず駐留軍の増強を図った。イギリスはボーア戦争を終了させ、戦費を調達のため国力が低下し、アジアに大きな国力を注げなかった。イギリスはロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、1902年、日本はイギリスと日英同盟を結ぶことになる。
 この同盟は日露戦争に向かう日本にとって大きな利点になった。日英同盟は「どちらかの国が2つ以上の国を相手に戦争を始めた場合、もう一方の国は同盟国に対して味方となり戦争に参戦する」と約束されていた。日本がロシアと戦争を始めた場合、ロシア側に味方する国が出た場合は、イギリスが日本に味方する約束されていた。つまり清や朝鮮がロシアに味方したら、イギリスが日本に味方することを意味していた。この日英同盟によりイギリスがロシアに圧力をかければロシアに勝てるかもしれなかった。
 国内では社会主義者の幸徳秋水や、キリスト教徒の内村鑑三らがそれぞれの立場から非戦論を唱えたが、対露同志会を中心に主戦論が高まり、世論は次第に開戦へと傾いた。

 

北清事変と日英同盟
 日清戦争を経て欧米列強から領土を切り刻まれた清では、1898(明治31)年に康有為(こうゆうい)らが政治の手法を変えて国家を強くするという変法自強運動を起こして、列強に対抗しようとしましたが上手くいかなかった。この改革に失敗した清国内では、白人排斥への動きが次第に強くなり、清を助けて西洋を滅ぼすという意味の「扶清滅洋(ふしんめつよう」を唱えた義和団がに国内各地で外国人を襲撃しはじめた。
 勢いに乗った義和団は北京の各国公使館を包囲しましたが、清国政府は義和団を鎮圧するどころか、義和団に同調して列強各国に宣戦布告するという行動に出た。このように義和団の乱は単なる国内の反乱から対外的な戦争へと変化したが、これら一連の動きに列強各国は大パニックになった。このまま放置していれば、清国内に残した自国の公使館員や居留)らが、清の正規軍によって虐殺されるのは目に見えていたからでしたが、だからと言って、遠くヨーロッパから援軍を派遣したとしても、間に合うはずはなかった。
 困り果てた列強は、清から一番近い日本に救援軍を要請したが、日本は容易に首を縦に振らなかった。なぜなら、国際社会の日本への反応を恐れていたからである。数多くの列強の中には、日本に必ずしも良い感情を持っていない国もいる。もしここで日本が動いて北京を制圧できたとしても、「日本は混乱のドサクサに紛れて清を侵略した」と言い出す国がら出てくるに違いないという思いがあった。
 結局、日本はヨーロッパ各国の総意に基づくイギリス政府からの正式な申し入れを受けて、初めて重い腰を上げることになる。この背景には白人中心の帝国主義の世の中で有色人種の日本が生き残るには、優等生のように節度ある行為を取らなければならない、という当時の日本政府の努力もあった。
出兵を決意した日本はアメリカやヨーロッパなど8ヵ国の連合軍の中心となって活躍した。救援軍が到着するまでの間に、義勇軍として奮戦した柴五郎の功績などもあって、戦いは連合国軍の勝利に終わり、清は降伏した。この戦争は北清事変と呼ばれている。
 降伏した清は日本を含む列強に謝罪とともに北京議定書を結び、列強の軍隊の北京への駐留や、多額の賠償金の支払いに応じた。このうち軍隊の駐留が認められたのは、義和団のような悲劇を繰り返さないため、首都を襲う反乱軍を速やかに鎮圧するという目的があった。
 北清事変をきっかけにロシアがドサクサに紛れて満州全域を完全に占領し、日本への圧力をますます強めるようになりましたが、その一方で日本は国際社会から大いに認められるようになった。
 日本の評価が高まったのは、日本軍が事変の際に連合軍の先頭に立って勇敢に戦っただけでなく、北京占領後、他国の軍隊が当然のように略奪や暴行を繰り広げたが、日本の軍隊だけが略奪行為を行わなかったという事実があった。さらに救援軍が到着するまで日本人が中心となって義勇軍を形成し、孤軍奮闘のうえ持ちこたえられたという現実も他国の信頼を高めました。
 それまでアジアのちっぽけな有色人種の国に過ぎないと思われていた日本が、抜群の規律の正しさや勇敢さを見せたことは、列強諸国をして「日本は同盟相手として信頼に値する」と評価せしめる、やがてロシアとの決戦を覚悟こととなる日本にとって、「強力な援軍」が出現する流れをもたらした。
 19世紀の欧米列強による帝国主義は、植民地争奪戦ともいうべき国際的対立が激化した時代でもあった。列強は利害が一致する国との同盟を進め、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟や、フランスとロシアによる露仏同盟などが結ばれた。
一方、イギリスは名誉ある孤立を唱え、他国と同盟を結ばずに独立独歩の道を歩んできた。しかしロシアによる露骨な南下政策が活発化すると、東アジアにおける植民地などの自国の権益をどのようにして守るか、が大きな課題となった。世界に冠たる大英帝国といえど、極東に多数の兵士を配置するまでの余裕はなかった。やがてイギリス政府内において「東アジアの権益を守るためには、利害関係のない国との同盟が必要」との声が高まった。
 そのようなイギリスにかなった国こそが日本だった。1900(明治33)年に起きた北清事変の際に、我が国が数々の優等生的な態度を示したことによって、イギリス政府の日本への信頼度が高まったことが大きな効果をもたらした。
 イギリスと日本は、明治35(1902)年に日英同盟を結んだが、これは世界に大きな驚きをもたらした。何しろあの大英帝国が、「名誉ある孤立」を捨ててまで、有色人種かつ東洋の小国でしかなかった日本と同盟を結んだからである。

日英同盟の主な内容は以下のとおりである。
1.清における両国の権益や、韓国における日本の特別な政治経済上の利益を承認する。
2.日英両国の一方が利益保護のために第三国と開戦した場合、もう一方は中立を守る。
3.日英両国の一方が2国以上と開戦した場合、他の同盟国も参戦する。

 両国の同盟は、イギリスはもちろん我が国にも大きな効果をもたらした。なぜなら日本がロシアと戦うことになった場合、イギリスが中立を守る以上は、他のヨーロッパ諸国もうかつには手を出せない。もしロシアと同盟関係にあるフランスが戦いに参加すれば、同盟の規定によってイギリスをも敵に回して戦わなければならなくなるからである。
イギリスと我が国との同盟は日露戦争の終結後も延長され、大正10年までおよそ20年間も続いた。

戦費の調達
 戦争の遂行には膨大な戦費が必要だった。開戦時の戦力比較すると、ロシアは兵や兵力は日本の10倍であった。この国力を持つロシア大国に日本が勝つには、 戦費のない日本側は短期決戦で早期の段階でロシアに圧勝し講和を結ぶ必要があった。
 まずは日露戦争の戦費の調達であった。戦費は約17億円と巨費であったが、日本は国債や外国債を発行して賄うことにする。しかし開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。外国債についてはこのように出足が鈍かったが、日本銀行の副総裁・高橋是清の尽力により、イギリスやアメリカから約8億円を調達することができた。英米が外国債に応じたのは、英米の東アジアの権益を日本に守ってもらいたかったからであるが、日英同盟が効果をもたらしていたことはいうまでもない。この他、ユダヤ人から多額の貸し付けを得た。これは当時のロシアがユダヤを迫害していたため、帝政ロシアを敵視するアメリカユダヤ人銀行家積が極的に援助したかったからである。このように資金調達の都合がついたため戦争が可能になった。しかし国力や戦力に圧倒的な違いがあったため、世界では日本はロシアに敗北すると見ていた。

日露戦争
 ロシアのこれ以上の南下を止めなければ、日本の未来がないと悟った政府は外交交渉をあきらめ、明治37年2月に、両国がそれぞれ宣戦布告して日露戦争が始まった。ところが戦争が始まると、日本は予想外の戦いぶりを見せた。そこには「ロシアの南下をこのまま許せば、我が国の未来はない。戦うからには勝たねばならず、もし敗れば日本は滅亡するしかない」という「背水の陣」というべき悲壮な覚悟があったからである。
開戦
 日露戦争で日本は大山巌陸軍総司令官のもとでにロシアと死闘を繰り広げた。1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃から始まった(旅順口攻撃)。この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。
 ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし、日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官を戦死させる戦果を上げたが、逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈された。
 ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。これに対し日本海軍は第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。

旅順攻撃
 戦艦にて旅順を攻撃するが上手くいかなかったため、陸上からの旅順攻撃に切り替え、指揮官を乃木稀典(まれすけ)に変更した。乃木稀典は日清戦争であっけなく旅順を攻略した経験を持つので、今度も簡単にと思っていたのであるが、旅順はロシアによってコンクリート製の強固な要塞と化しビクともしなかった。旅順は遼東半島の一部で、三国干渉によって日本が清に返した土地であるが、事実上ロシアの軍事基地となっていた。
 この旅順においては日本は苦戦を強いられた。総指揮を任された乃木希典は何度も総攻撃を仕掛けたがうまくいかず、この戦いで乃木の息子を含めて約15,000人の死者を出した。今度は203高地という山を攻略せと本部は乃木に命令。この小さな山からなら旅順港を砲撃できる。そして乃木は「陸軍の頭脳」というわれる児玉源太郎の力を借り、なんとか203高地を占領。作戦通り、頂上からの砲撃によりロシア艦隊を殲滅する。この旅順攻略には日本軍は6万人もの戦死者を出すことになった。
 明治38年1月に乃木将軍が旅順攻略に成功すると、勢いに乗った日本は、同年3月の奉天会戦でも勝利した。奉天(瀋陽)を占領した3月10日は陸軍記念日に定められている。しかし戦線がのびきった日本陸軍はこれ以上進むことができなかった。
 またロシアは陸戦で敗れたが、無敵艦隊と言われたバルチック艦隊が健在で、海戦での巻き返しは可能だった。

日本海戦
 なんとか旅順を攻略は出来たが、ロシアには世界最強艦隊といわれる「バルチック艦隊」があった。1904年、10月15日。ついにそのバルチック艦隊がが旅順に向けて動き出した。我が国も東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃ち破らない限り、真の勝利はないと気を引き締め、両国の命運をかけた一大決戦が目前に迫った。
  イギリスが各国に圧力をかけ、バルチック艦隊の入港を拒んだり、石炭の積み込みを不自由にさせたりして航行の邪魔をして、バルチック艦隊が日本海にたどり着くのに約7ヶ月もかかった。疲れきった状態で日本海にたどり着いた最強艦隊を、東郷平八郎が率いる連合艦隊が待ち構えていた。
 日本の連合艦隊は7ヶ月もの間、砲撃の精度を上げるため猛特訓をしていた。精度の上がった砲撃、東郷平八郎、また東郷平八郎の右腕、戦略家の秋山真之(あきやま よしふる)らの周到な作戦により世界最強艦隊を相手に戦うことになる。
 明治38年5月27日、ロシアのバルチック艦隊が日本近海に姿を見せ、連合艦隊と対馬沖で激突した。東郷平八郎が丁字戦法の奇襲を見せ、新式の下瀬火薬を利用した日本の連合艦隊がバルチック艦隊を圧倒した。この日本海海戦において、バルチック艦隊は戦力の大半を失い、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。日本の損害は水雷艇3隻のみで、世界海戦史上における空前の大勝利となった。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされたロシア側も和平に向けて動き出した。
 また欧米各国におけるバルチック艦隊有利の予想をくつがえしたことは、列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランド、フィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた。
 日本は日本海海戦を勝利したことで制海権を確保したが、戦争から既に1年3ヵ月が過ぎており、兵站線(輸送連絡路)も資金面も限界に達していた。日本はこれ以上の戦争を続けることが不可能になっていたが、ロシアも度重なる敗戦で軍の士気が低下し、明石元二郎による諜報活動によって国内で革命運動が起きるなど、政情が不安定となり講和を模索するようになった。
 この海戦が行われた5月27日は海軍記念日となっている。

ポーツマス条約
 日露戦争に日本は勝利したがこの後が難航する。ロシアは負けを認めず、日本軍は活躍し軍事的な勝利を得たが日本もこれ以上戦えなかった。当時国家予算が2億5千万円の状態で、日露戦争に準備した18億円そのうち15億円を使ってしまい、これ以上の戦争は無理だったのである。
 戦争で勝利のために戦うのは軍人であるが、軍人には戦争を終わらせることはできない。戦争の終結は外交であり、それが可能なのは政治家だけだった。
 この大原則は日露戦争においても同様で、国力の限界を見極めていた日本政府は長期戦にならないうちに戦争を終わらせるため、開戦前から講和への道を探っていた。
 日本がロシアと講和を結ぶには、仲介役となる国を求めなければならない。当時の主な列強のうちイギリスは日本と同盟を結んでいて、フランスはロシアと同盟を結んでいたので仲介役になり得なかった。そこで日本が仲介国としたのがアメリカであった。アメリカは日露両国に中立的な立場で、かつては不平等条約の改正に前向きな姿勢を見せるなど日本への理解も深かった。
 講和の仲介国としてアメリカを選んだ日本政府は、ロシアとの開戦とほぼ同時期に、司法大臣であった金子堅太郎をアメリカへ派遣した。アメリカの大統領はセオドア・ルーズベルトであったが、金子堅太郎とルーズベルトはハーバード大学の同窓生であった。そのような人物を送ることで、アメリカに有力な仲介国になってもらえば、アメリカ国内世論も日本に有利に動くことも可能性と考えていた。
 開戦前から講和への道を確保しようとした政府と、現場において命がけで戦い、勝利をつかんだ軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割を果たしたため、日本は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことができた。戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要で、それを実現できたのが日露戦争であった。
 講和への道を探っていた日露両国はルーズベルト大統領によって、明治38年8月から和平の交渉を開始した。
日本全権の小村寿太郎と、ロシア全権のウイッテとの間で進められた交渉は難航したが、同年9月に両国はアメリカのポーツマスにおいて講和条約を調印しました(ポーツマス条約)。

ポーツマス条約の主な内容は以下のとおりである。
1.韓国における日本の政治・軍事・経済上の優越権を認めること
2.遼東半島(りょうとう)における旅順・大連などの租借権を譲渡すること
3.長春(ちょうしゅん)以南の鉄道と、それに付属する炭鉱の採掘権などを譲渡すること
4.北緯50度以南の樺太を割譲すること
5.日本海、オホーツク海およびベーリング海での日本の漁業権を認めること

 ポーツマス条約の締結によって日本はロシアの韓国や満州への南下を阻止し、ロシアの領土の樺太も南半分を取り戻し、日本は戦争前より優位に立つことができた。しかし早期の講和条約締結を優先した政府は、戦争賠償金をロシアから取らない妥協案で交渉は成立することになる。日清戦争後の下関条約の時のような膨大な賠償金がなかった。日本の優位を信じて疑わない日本では不満の声が高まった。100万人以上の兵力を費やし18億円以上の軍費を使い、増税にも耐えてきたのに、政府は弱腰すぎると国民の怒りは頂点に達したのである。
 1905(明治38)年9月5日、条約破棄を訴える国民が日比谷公園に集まった。集合をかけたのは講和問題同志連合会という対ロシア強硬派の人々で、参加者は約3万人が駆けつけた警察官350人との小競り合いとなった。この小競り合いで勢いに乗った参加者が暴徒化する。暴徒化した人々が二重橋を行進し、それを止めようとする警察官とも揉めあい、遂に怒りを発散させるべく警察署や派出所を襲撃し、日比谷公園付近の新聞社に向け火が放された。またポーツマス条約を斡旋したアメリカにも怒りは向けられ、米国公使館、教会なども標的とされた。政府は戒厳令を施行し天皇を守るエリート部隊を出動させ日比谷焼き討ち事件は鎮圧するが、このような騒動は全国に飛び火していく。
 日露戦争時、当時の国家予算が2億5000万円の状態で18億ものお金を使ってしまい、すでに戦う力などなかった日本。賠償金など貰わなくとも、兎に角講和条約を成立させ戦争を終わらせるという政府の判断が間違っていたとはいえませんが、国民に反感をかってしまったのである。講和に賛成した新聞社や警察署などを次々と襲う騒ぎになった(日比谷焼打ち事件)。

世界への影響
 優位な状況で講和が結ばれたことによって、最終的に我が国の勝利で終わった日露戦争であるが、アジアの小国の有色人種の日本が、世界最強の白人国家であるロシアを倒したという事実は、国内のみならず世界中に計り知れない影響を与えた。
 コロンブスによる新大陸の発見から始まった大航海時代から、白色人種の国家が世界の大陸を次々と侵略して植民地として有色人種を奴隷とした。この帝国主義が20世紀初頭まで世界の常識であった。しかし日本が日露戦争で勝利して、この常識が根底から覆されたのである。それまで白人の支配に苦しめられていた有色人種の人々に大きな希望を与えた。日本の劇的な勝利を実際に目にした世界中の有色人種の人々が、「ひょっとしたら自分たちにもできるかもしれない」と想像したのは自然なの流れであった。
 世界中の有色人種の人々の希望は、やがてインドやビルマ(ミャンマー)、インドネシアといったアジア各国の独立  運動へつながり、さらにはエジプトやポーランドなどにも飛び火した。中国の清も、1000年以上続いた科挙の制度を廃止するとともに多くの留学生を日本に送り込んできた。
 一方、敗れた白人国家は大きなショックを受けた。それまで当たり前のように拡大してきた植民地が、日露戦争以後は全く増えていない。強国ロシアに勝った日本に対して敬意と畏怖を感じた。白人国家の多くは日本を敵に回すよりも友好的な関係を築く道を選んだ。イギリスは日英同盟を強化し、ロシアでさえも戦後に日露協商を結んでいる。
 しかしこの世界の流れに「待った」をかけた国が現れた。それはアジアでの権益拡大を目指していたアメリカだった。日露戦争を境に、それまでの友好的な態度から一転して我が国への警戒を強め、やがては激しく対立するようになってしまう。アメリカは日露戦争でほぼ南北戦争の内乱を乗り越えたばかり。いわば帝国主義の後発組であった。20世紀初頭の帝国主義競争は、先頭を走るイギリスとフランスをドイツとロシアが追い、さらにその後を日本とアメリカが追いかけているという状況だった。イギリスは真後ろの目障りなロシアを蹴り落とすため当面の脅威にならない日本を利用しようとしました。

 そしてアメリカはこの状況の中で漁夫の利を得て、一気に上位に踊り出ようとした。すなわち日本とイギリスの両方に恩を売ることで、ロシア撤退後の中国市場への進出を企んだのである。日露戦争の結果、ロシアは後方に脱落し、やがて共産主義革命という形で、この帝国主義レースを降りてしまった。

 いずれにせよ日露戦争は、世界史上に燦然と輝く20世紀最初の歴史的大事件であったが、戦後の歴史教育において日露戦争の世界史的意義がほとんど語られなくなった。

日露戦争の間違った考え

 学校の歴史の授業で教師が「日露戦争は、本当は日本の負けだった」ということがある。いかしこの議論は間違いである。戦争の結果には「勝ち」か「負け」か「引き分け」の3種類しか無いのです。その中に「本当」や「嘘」が入る余地はない。学校教師が口にする「本当は負け」というのは、こういう意味で言っているのだそうです。「日本は、短期で戦争が終わったから勝ったのだ。もしも長期化していれば、兵員数に勝るロシアが勝っていたはずなのだ。だから、本当は負けなのだ」この説明は、論理的に間違っています。

 実際の戦争は、確かに短期に終わったのですが、それは日本の戦争指導者たちが、短期に終わるよう努力したからそうなったのです。つまり、この戦争が短期に終わったのは、日本の作戦勝ちということです。ゆえに、「日本の勝利」という事実に変わりはなく、「本当」も「嘘」も無いのです。また、一部の論者は、兵員の損耗数を根拠に「本当は日本の負け」と主張しているようです。確かに、捕虜を含めない兵隊の死傷者数では、日本の方が多かったかもしれない。しかし、この主張も、論理的に間違っています。

 戦争の勝ち負けというのは、兵員の損耗の多寡で決まるのではありません。戦争の勝敗は、「戦争目的が達成できたか否か」で決まるのです。日露戦争で、戦争目的を達成したのは日本の方でした。だから、あれは問題なく「日本の勝利」だったのです。異論を差し挟む余地などありません。そもそも、損耗の多さで勝敗が決まるというのなら、長篠の戦いは武田騎馬軍団の勝利ということになるし、ノモンハン事変や硫黄島の戦いは日本軍の勝利ということになっちゃいませんか?(それぞれ、織田徳川連合軍、ソ連軍、アメリカ軍の方が、死傷者数が多かったのです)。

 ところで、どうして日本の学校教師や識者は、「日露戦争を日本の負け」にしたがるのでしょうか?それは、戦後日本に蔓延したいわゆる「自虐史観」の仕業です。左翼思想に偏向した日教組は、戦前の大日本帝国の業績を、全て否定するような教育を展開したのです。今日、多くの日本人が愛国心を失っているのは、そのためです。でも、我々の生きている社会には、『絶対悪』なんて存在しません。大日本帝国は、確かに悪事もしたでしょうが、良い事だってしているのです。その全てを否定的に教える日教組の方針は、教育というより「洗脳」ではないかと思います。

 ともあれ、日本の若者の多くは、日露戦争に対して否定的な考えを持たされている。そして、この小論の最大の目的は、洗脳の呪縛から若者たちを解放することにあります。 

日露戦争後の日韓併合
 日露戦争での勝利は日本の国際的地位を高め、明治38年にアメリカとの間で桂・タフト協定が結ばれ、アメリカのフィリピンにおける指導権と同様に日本の韓国における指導権をそれぞれ承認した。また同年には日英同盟が改定され、イギリスのインドに対する支配権と引き換えに、日本の韓国への指導権をイギリスが承認した。またロシアと同盟していたフランスとの関係も良好になり、対戦国ロシアとの国交も修復された。
日本とロシアは、明治40年から日露協約を結び、韓国における日本の権益をロシアが承認し、満州や内蒙古の両国の勢力圏を確認しあい互いの利害関係を調整した。このように日露戦争後に良化したと日本の国際関係であったが、やがて利害の調整に失敗したアメリカとの関係が悪化した。
 列強による中国分割に出遅れたアメリカは、「門戸開放・機会均等」を唱えるとともに満州の権益を求め、我が国がポーツマス条約で得た長春(ちょうしゅん)以南の南満州鉄道(満鉄)に対し、アメリカの鉄道王のハリマンが明治38年に共同経営を呼びかけた。このハリマンの申し出に、アメリカとの関係を重視した元老の井上馨や伊藤博文、首相の桂太郎は賛同したが、外務大臣の小村寿太郎が猛反対し実現しなかった。
 ポーツマス条約を締結した小村寿太郎にすれば、多くの血を流して手に入れた満州の権益を、共有とはいえアメリカに譲り渡すことは我慢できなかったのである。しかし満州での権益を得られなかったアメリカは、この件を境に日本の態度を硬化させ、翌年にはサンフランシスコで日本人学童排斥事件が起き、日本からの移民に対して厳しい政策を行うようになった。
 このように南満州鉄道(満鉄)の共同経営を巡ってこじれた日米関係は、この後も好転することなく、日露戦争終結から36年後の昭和16年には、ついに両国が直接戦う運命となってしまうす。悲しいかな、これも厳然たる歴史の大きな流れである。
日露戦争に勝利した我が国は、ポーツマス条約によって韓国における政治・軍事・経済上の優越権が認められたことで、ロシアの南下政策を食い止め韓国の独立を守ることができた。しかし清からロシアへと事大主義に走った韓国をそのままにしていれば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅かすか分からなかった。そこで日本は韓国の独立を保ちながら、軍事権や外交権などを握るり、韓国を「保護国」とする方針を固めた。
 日本と韓国は日露戦争開始直後の明治37年2月に、日本による韓国防衛の義務や韓国皇室の保護などを明記した日韓議定書を結ぶと、同年8月には第一次日韓協約を結び、韓国政府の財政や外交の顧問に日本政府の推薦者を任命することになった。さらに明治38(1905)年11月には日韓保護条約(第二次日韓協約)を結び、韓国の外交権を日本が持つことで、韓国は事実上我が国の保護国となった。また条約により首都漢城(ソウル)に統監府)を置き、伊藤博文が初代統監となった。
 日韓保護条約によって、韓国は日本の保護国となったが、これは韓国皇帝の高宗(こうそう)にとっては屈辱的なことであった。このため高宗は自分が認めた条約にもかかわらず、自国の外交権回復を実現するため、明治40年にオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に密使を送り、日韓保護条約の無効を訴えた。これをハーグ密使事件という。
 しかし列強国は条約の違法性を認めず、密使の会議への参加も拒絶したため、韓国は目標を達成できず、高宗の思惑とは裏腹に、国際社会が日韓保護条約の正当性を認めたことになった。韓国の服従するように見せかけて内心では反抗する(面従腹背)ことが明らかになり、韓国は当時の国際社会の信頼を損なうと同時に日本の激怒を招き高宗は退位に追い込まれた。さらに年に第三次日韓協約が結ばれ、韓国の内政権が完全に日本の管轄に入り、韓国の軍隊を解散させ、日本による統治がさらに強化された。
 ハーグ密使事件により韓国への感情が悪化した日本では、保護国ではなく韓国を日本の領土として併合するべきだという意見が強くなったが、その情勢に身体を張って反対したのが初代統監の伊藤博文であった。伊藤博文としては、韓国の独立国としてのプライドを守るために、近代的な政権が誕生するまでは外交権と軍事権のみを預かり、その後に主権を回復させる考えだった。
 教育者で植民地政策にも明るかった新渡戸稲造が韓国の植民地化に関する計画を伊藤博文に持参した際にも、伊藤博文は「植民地にしない」と一蹴し、韓国人による韓国の統治の必要性を、時間をかけて新渡戸稲造に説明した。「韓国は韓国人によって統治されるべきである」。我が国初の内閣総理大臣であり、維新の元勲でもある伊藤博文だけにその発言は重く、伊藤博文が生きている間は韓国が併合されることはないと考えられた。しかしその伊藤博文が、よりによって韓国人に暗殺される悲劇が起きてしまったのである。
 明治42年10月26日、伊藤博文はロシアの外務大臣と会う目的で訪れた満州のハルピン駅で、韓国人の民族運動家であった安重根(あんじゅうこん)にピストルで撃たれて殺害された。熱心な愛国家であった安重根からすれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤博文の罪は重く、また伊藤博文こそが韓国を併合しようとしている首謀者と考えただろう。しかし伊藤博文が韓国人によって殺されることは絶対にあってはならない出来事であった。
 維新の元勲伊藤博文は、我が国にとって至宝ともいうべき存在であり、併合に最後まで反対していた人物である。日本政府内に併合に前向きな勢力が多い中で、友好的だった伊藤博文にテロ行為でお返しするのは、どう考えても言語道断と言わざるを得ない。
 安重根によるテロ行為は、結果として我が国と韓国との歴史をそれぞれ大きく変えることになった。安重根は現在の韓国(大韓民国)では英雄として称えられている。安重根による伊藤博文の殺害という大事件は、日本の世論を激怒させ韓国を震撼させた。日本による報復行為を恐れた韓国政府や国民の反応は、韓国内の最大の政治結社である一進会が日韓合併の声明書を出したこともあり併合へと傾くようになった。
 しかし日本は併合には慎重だった。日韓併合が国際関係にどのような影響をもたらすのかを見極める必要があったからである。そこで日本が関係国に併合の件を打診すると、「日本が韓国と不平等条約を結んでいた条件を変更さえしなければ問題ない」というだけで、表立って反対する国はなかった。
 イギリスやアメリカの新聞も東アジアの安定のために併合を支持する姿勢を示したことで、明治43年8月22日、日本は初めて日韓併合条約を結んだのである。なお併合後には朝鮮総督府、後に内閣総理大臣となった寺内正毅(まさたけ)が初代総督を務めた。
 日韓併合はこのように慎重な手続を踏まえ、国際的な世論の同意も得て実現した。なお平成13年に日韓併合条約の有効性が日本と韓国(大韓民国)との間で議論された際に、韓国側が「強制的に併合されたから無効である」として国際会議に訴えましたが認められず、21世紀においても、国際社会が日韓併合における我が国による朝鮮半島支配の正当性を認めていることが確認されている。
朝鮮が日本に併合されたことから、明治政府は朝鮮内の衛生の改善や植林事業などを行った。また併合前から始めていた、土地制度の近代化を目的にした土地調査事業も本格化に行い大正7年に完了した。この他、明治45年には土地調査令を公布して、地税の公平な租税などを割り当てて負担させ、土地の自由売買が行えるようにしたが、所有権の確認を厳密に行ったことで、土地を占有していただけの農民が自分の所有権を失ってしまうという一面もあった。ちなみに地税統計に基づいた、土地調査令以後の朝鮮半島における日本人と朝鮮人との所有面積は、昭和13年に1:9となっており、併合によって土地の多くが日本人の所有となったという説が誤りであることが分かる。なお、併合の前後には朝鮮半島の各地で日本の統治に抵抗する義兵運動が本格化したが、憲兵や警察によって鎮圧されている。
 日本は韓国を保護国にするという当初の思惑とは異なり、結果的に併合となったが、このことが軍事面や内政面などにおいて日本の大きな負担となった。それは日韓併合によって、韓国は日本の領土となったため、朝鮮半島の安全保障も本国並みに引き上げなければならなかったからである。日露戦争の勝利によって、ロシアは朝鮮から手を引いたが、と言って朝鮮半島における国境付近の防衛をおろそかにはできなかった。このため陸軍は朝鮮半島への駐留を目的に、二個師団の増設を要求したが、日露戦争で戦費を使い果たし、賠償金をもらえず、世界中に負債を背負った財政事情を考えれば不可能に近いことであった。師団増設は当時の大きな政治問題となり、大正時代に入ってようやく増設が実現した。
日韓併合による負担は内政面も同様で、明治政府は朝鮮半島内の生活水準を本国並みに引き上げようとしたが、これといった産業がなかった朝鮮半島において、工業を興してインフラを整備することは途方もない大事業であった。結局、日本は朝鮮に1億円(現在の価値で約3兆円)を支援し、併合時代の35年間においてもその倍額を援助し続けた。この他にも朝鮮半島への鉄道建設に当時で6,600万円の巨費をかけるなど、軍事関連を除く民間資産は、第二次大戦後に我が国を占領統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部、)の調査で53億ドル(現在の価値で約15兆円)にものぼっていた。
 日本が朝鮮にもたらした資産は、モノばかりではなく、併合当時100校に過ぎなかった朝鮮半島の小学校を5,000校に増やし、帝国大学を朝鮮の京城(けソウル)に設置したが、これは大阪や名古屋よりも早かった。
 遼東半島の旅順や大連の租借権をロシアから得たことによって、日本は満州の権益を持つことになった。明治39年には関東都督府が旅順に置かれ、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)が大連に設立した。満鉄は旧東清鉄道や、鉄道沿線の鉱山や炭坑を経営して開発を行った。なお関東とは、旅順・大連とその付属地域を指していたことから、当地が関東州と呼ばれたほか、現地の軍隊は関東軍と称された。
 一方中国では清による長年の専制支配に抵抗した反乱軍が次々とたちあがり、明治44年に辛亥革命が起こり、翌明治45年には三民主義を唱えた孫文(そんぶん)を臨時大総統とする中華民国が成立した。しかし北京で実権を握った袁世凱(えんせいがい)が、清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀(せんとうていふぎ)を退位させて、自らが中華民国大総統に就任すると、政敵となった孫文は日本に亡命した。