日露戦争

日露戦争前
 1894年の日清戦争に勝利した日本は下関条約を結び、多額の賠償金と土地を受け取った。その中に遼東半島が含まれていたが、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツは三国干渉によって、割譲を受けた遼東半島を清に返還させた。遼東半島は戦略的に重要な場所であったが、日本はこの要求通り素直に遼東半島を清に返還したのである。
 日清戦争後、清は欧米列強国の国々に次々と侵略を許すことになる。この欧米列強国の中国進出は、日本に負けた清の弱さに付け入る結果であった。しかし中国から外国の勢力を追い払う「義和団事件」が起きると、清はこの義和団を支持して各国に宣戦布告をおこなった。これに対し日本やロシアを含む8カ国が共同して出兵して鎮圧したため、清の半植民地化はさらに加速した。
 各国が競うように中国に進出し、特にロシアは露・清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を明治31年に租借すると、旅順に太平洋艦隊の基地を造り満州への進出を押し進めた。ロシアは満州と遼東半島に兵を置いたのである。
 1903年の日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。しかし積極的な主戦論のロシアは朝鮮半島でのロシアの利権を妨害されることを恐れ妥協案に乗ることはなかった。常識からすれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もなかった。ロシアの疲弊を恐れた戦争回避論もあったが、それは少数派であって戦争によってロシアは負けるはずはないと信じていた。
 ロシアは満洲を勢力下におくと、親露政権となった韓国へ圧力を強め、南下政策を加速させた。明治36年にロシアは満州と韓国の境にある鴨緑江沿いの龍岩浦を手に入れると、「ポート・ニコラス」という名の軍港にした。ポート・ニコラスを手にしたロシアは遼東半島沿岸や朝鮮半島の西海岸の制海権を握ることになり、日本の安全保障にとって脅威となった。

 ロシアはもともとヨーロッパ東部に位置する農業国だった。かつて13世紀にモンゴルの侵略に遭いその植民地となったがイワン雷帝によって独立国となった。しかし新生ロシアと言えども、封建領主と農奴によって構成された遅れた農業国であった。この状況を大きく変えたのは、18世紀のピョートル大帝である。

 ピョートル大帝はスウェーデンやトルコと戦い連破し海への出口を獲得しようとした。ペテルブルク(サンクト・ペテルブルク)は、ロシア初の海外貿易港だった。この後、経済発展に努めたが、十分な不凍港(冬でも凍らない港)が無ないために、思うほどの経済成長を遂げられなかった。トルコを叩いて地中海方面に出ようとしたが、ロシアの勢力拡張を恐れたイギリスとフランスがその前に立ち塞がった。そして露土戦争やクリミア戦争の結果、ロシアはこの方面への進出を断念せざるを得なくなった。

 南への進路を塞がれたロシアは西欧勢力が手薄な東へと向かった。中国との数度にわたる会談の後、ようやく日本海に臨む港湾を獲得し、ここをウラジオストック(東を征服せよという意味)と名づけた。そして中国の清王朝の弱体化を見たロシアは暖かい港を求めてさらに南へと下った。清王朝を恫喝し、中国東北部に東清鉄道を敷設したロシアは、その先端にある細長い遼東半島を「三国干渉」で日本からもぎ取ったが、この半島の突端に位置する旅順港がロシアにとって念願の不凍港だった。

 ロシアは旅順港に旅順艦隊を派遣し、喉元に匕首を突きつけられた日本は震え上がった。日本海と東シナ海のシーレーンは、ロシアの思うが侭だった。このように日露戦争におけるロシアの目的は「東アジアの権益を維持強化する」ことだった。

 ロシアは朝鮮半島の南部馬山浦や鎮海湾、さらには対馬までを支配に置こうとした。これらの地域をロシアに奪われれば、かつての元寇のように日本が侵略を受けるのは目に見えていた。まして相手は世界有数の軍事大国である。まともに戦えば勝ち目はなかった。ロシアの脅威に対し、日本は戦争を回避するための努力を重ねた。

 伊藤博文は「ロシアの満州支配を認める代わりに、朝鮮半島には手を出さない」という満韓交換論で交渉した。ロシアが満州を支配しても、日本は緩衝地帯である朝鮮半島だけは死守したかったのであるが、国力や軍事力に勝るロシアが承知しなかった。このままでは朝鮮半島がロシアに奪われてしまう。日本としては朝鮮半島を我が手に収め、満州を西欧列強国からの中立地帯として保持させておきたかった。

 すなわち日露戦争における日本の戦争目的は「ロシアの勢力を朝鮮半島から駆逐する」ことだった。日本は日本海に突き出た朝鮮半島がロシアの支配下になれば、日本の独立も危機的な状況になりかねなかった。またシベリア鉄道が全線開通すれば、ヨーロッパのロシア軍の派遣が容易になるので、その前に対露開戦を行なうべきとする国論が強まった。

 そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎はロシアのローゼン公使を外務省に呼び国交断絶を言い渡した。いっぽう大韓帝国の旧李朝支配者層は日本の影響力を排除しようとして日露戦争中にもロシアに密書を送るなどの親露外交を展開していた。しかし密使が海上にて日本軍艦に発見され、大韓帝国は条約違反を犯す失敗に終わる。

日英同盟
 この当時の世界のほとんどは白人が支配しており、大多数の黄色人種や黒人(有色人種)は白人に植民地支配され、奴隷のような境遇に甘んじていた。この当時、有色人種の中で完全な主権国家は、日本、トルコ、タイ、エチオピアの4国だけだった。白人はこの状況を「当然」だと思っていた。白人は「有色人種はブタや馬と同じだから、自分たちが飼育するのが当然で、その方が有色人種にとって幸せ」と公言していた。このように欧米列国の帝国主義は、生き馬の眼を抜くような激しい競争・闘争の時代であった。帝国主義諸国は、互いに同盟や協定を結び、既得権益を守りながら新たなチャンスを野獣のように狙っていた。軍隊や経済の力で他国や異文明を破壊し、植民地として支配することが、当たり前のように行われていた。力こそが正義、力こそが全てだった。力の無いものはその生存を許されず、強者の草刈場にされた。この中でも最大の既得権益の保持者は、太陽の沈まない帝国イギリスであった。

 イギリスは、当然ながら新進気鋭のライバルであるドイツやロシアの動向に神経を尖らせていた。ドイツやロシアは帝国主義の後発組で、彼らが勢力を伸ばそうとすると、必然的にイギリスの既得権が脅かされることになる。イギリスとドイツは、アフリカや中近東で激しい鍔迫り合いを繰り広げ、その隙をついて、ロシアが中国への触手を伸ばしてきた。

 ロシアは不凍港を求めて南下政策をとり、まず露土戦争(ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)戦争に勝利して、バルカン半島に大きな立場を獲得した。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めて、露土戦争の講和条約の破棄とベルリン条約の締結に成功し、これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念することになった。そして南下政策の矛先を中国に向けることになった。このとき半植民地であった中国に最も巨大な利権を持っていたのがイギリスだった。世界最強とも言われたイギリスも、このロシアの勢力拡大を嫌っていた。イギリスは清に多くの租借地を持っていたので、この権益がロシアに侵されることを嫌っていた。イギリスは焦ったが、東アジアに大軍を派遣する余裕はなかったため、頼りになるのは大日本帝国以外なかったのである。こうして「日英同盟」が結ばれる(1902年)。

 ロシアは満洲の植民地化を進め、日英米がこれに抗議てしロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは約束に反し撤退を行わず駐留軍の増強を図った。イギリスはボーア戦争を終了させたが、戦費を調達のため国力が低下し、アジアに大きな国力を注げなかった。イギリスはロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本はイギリスと日英同盟を結ぶことになる。
 この同盟は日露戦争に向かう日本にとって大きな利点になった。日英同盟は「日英どちらかの国が2つ以上の国を相手に戦争を始めた場合、もう一方の国は同盟国に対して味方となり戦争に参戦する」と約束されていた。日本がロシアと戦争を始めた場合、ロシア側に味方する国が出た場合は、イギリスが日本に味方する約束されていた。つまり清や朝鮮がロシアに味方したら、イギリスが日本に味方することを意味していた。この日英同盟によりイギリスがロシアに圧力をかければロシアに勝てるかもしれなかった。
 国内では社会主義者の幸徳秋水や、キリスト教徒の内村鑑三らがそれぞれの立場から非戦論を唱えたが、対露同志会を中心に主戦論が高まり、世論は次第に開戦へと傾いた。

 

北清事変と日英同盟
 日清戦争を経て欧米列強から領土を切り刻まれた清では、1898(明治31)年に康有為(こうゆうい)らが政治手法を変えて国家を強くするという変法自強運動を起こして、列強に対抗しようとしましたが上手くいかなかった。この改革に失敗した清国では、白人排斥への動きが次第に強くなり、清を助けて西洋を滅ぼすという意味の「扶清滅洋(ふしんめつよう」を唱えた義和団がに国内各地で外国人を襲撃しはじめた。
 勢いに乗った義和団は北京の各国公使館を包囲したが、清国政府は義和団を鎮圧するどころか、義和団に同調して列強各国に宣戦布告するという行動に出た。このように義和団の乱は単なる国内の反乱から対外的な戦争へと変化したが、これら一連の動きに列強各国は大パニックになった。このまま放置すれば、清国に残した自国の公使館員や居留らが、清の正規軍によって虐殺されるのは目に見えていたからであったが、だからと言って、遠くヨーロッパから援軍を派遣しても間に合うはずはなかった。
 困り果てた列強は、清から一番近い日本に救援軍を要請したが、日本は容易に首を縦に振らなかった。なぜなら国際社会の日本への反応を恐れていたからである。数多くの列強の中には、日本に必ずしも良い感情を持っていない国もいた。もしここで日本が動いて北京を制圧しても「日本は混乱のドサクサに紛れて清を侵略した」と言い出す国がら出てくるに違いないと思ったからであった。
 結局、日本はヨーロッパ各国の総意に基づくイギリス政府からの正式な申し入れを受けて、初めて重い腰を上げることになる。この背景には白人中心の帝国主義の世の中で「有色人種の日本が生き残るには、優等生のように節度ある行為を取らなければならない」という日本政府の考えがあった。
 出兵を決意した日本は欧米8ヵ国の連合軍の中心となって活躍した。救援軍が到着するまでに、義勇軍として奮戦した柴五郎の功績もあって、戦いは連合国軍の勝利に終わり、清は降伏した。この戦争は北清事変と呼ばれている。
 降伏した清は日本を含む列強に謝罪するともに北京議定書を結び、列強の軍隊の北京への駐留や多額の賠償金の支払いに応じた。軍隊の駐留を認めたのは、義和団のような悲劇を繰り返さないため、首都を襲う反乱軍を速やかに鎮圧するという目的があった。
 北清事変をきっかけにロシアがドサクサに紛れて満州全域を完全に占領し、日本への圧力を強めることになったが、その一方で日本は国際社会から大いに認められるようになった。
 日本の評価が高まったのは、日本軍が事変の際に連合軍の先頭に立って勇敢に戦っただけでなく、北京占領後、他国の軍隊が当然のように略奪や暴行を繰り広げたが、日本の軍隊だけが略奪行為を行わなかった事実があったからである。さらに救援軍が到着するまで日本人が中心となって義勇軍を形成し、孤軍奮闘して持ちこたえられたことも他国の信頼を高めた。
 それまでアジアの小さな有色人種の国に過ぎないと思われていた日本が、抜群の規律の正しさや勇敢さを見せたことは、列強諸国をして「日本は同盟相手として信頼に値する」と評価せれ、やがてロシアとの決戦を覚悟こととなる日本にとって、強力な援軍の流れをもたらした。
 19世紀の欧米列強による帝国主義は、植民地争奪戦というべき国際的対立が激化した時代でもあった。列強は利害が一致する国との同盟を進め、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟や、フランスとロシアによる露仏同盟などが結ばれた。
 一方、イギリスは名誉ある孤立を唱え、他国と同盟を結ばずに独立独歩の道を歩んでいた。しかしロシアによる露骨な南下政策が活発化すると、東アジアにおける植民地などの自国の権益をどのようにして守るかが大きな課題となった。世界に冠たる大英帝国といえど、極東に多数の兵士を配置する余裕はなかった。やがてイギリス政府内において「東アジアの権益を守るには、利害関係のない国との同盟が必要」との声が高まった。
 そのようなイギリスにかなった国こそが日本だった。1900(明治33)年に起きた北清事変の際に、我が国が数々の優等生的な態度を示したことによって、イギリス政府の日本への信頼度が高まったことが大きな効果をもたらした。
 イギリスと日本は、明治35年に日英同盟を結んだが、これは世界に大きな驚きをもたらした。何しろあの大英帝国が「名誉ある孤立」を捨ててまで、有色人種かつ東洋の小国である日本と同盟を結んだからである。

日英同盟の主な内容は以下のとおりである。
1.清における両国の権益や、韓国における日本の特別な政治経済上の利益を承認する。
2.日英両国の一方が利益保護のために第三国と開戦した場合、もう一方は中立を守る。
3.日英両国の一方が2国以上と開戦した場合、他の同盟国も参戦する。
 この両国の同盟は、イギリスはもちろん我が国にも大きな効果をもたらした。なぜなら日本がロシアと戦うことになった場合、イギリスが中立を守る以上は、他のヨーロッパ諸国もうかつには手を出せない。もしロシアと同盟関係にあるフランスが戦いに参加すれば、同盟の規定によってイギリスを敵に回して戦わなければならなくなるからである。
イギリスと我が国との同盟は日露戦争の終結後も延長され、大正10年までおよそ20年間も続いた。

戦費の調達
 戦争の遂行には膨大な戦費が必要だった。日露開戦時の戦力比較すると、ロシアは兵力では日本の10倍であった。この国力を持つロシア大国に日本が勝つには、戦費のない日本側は短期決戦で早期の段階でロシアに圧勝し講和を結ぶ必要があった。
 まずは日露戦争の戦費の調達であった。戦費は約17億円と巨費であったが、日本は国債や外国債を発行して賄うことにした。しかし開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、債発行もまったく引き受け手が現れなあった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。外国債はこのように出足が鈍かったが、日本銀行の副総裁・高橋是清の尽力により、イギリスやアメリカから約8億円を調達することができた。

 英米が外国債に応じたのは、英米の東アジアの権益を日本に守ってもらいたかったからであるが、日英同盟が効果をもたらしていたことはいうまでもない。この他、ユダヤ人から多額の貸し付けを得た。これは当時のロシアがユダヤ人を迫害していたため、帝政ロシアを敵視するアメリカのユダヤ人銀行家が極的に援助したかったからである。このように資金調達の都合がついたため戦争が可能になった。しかし国力や戦力に圧倒的な違いがあったため、世界では日本はロシアに敗北すると見ていた。
日露戦争
 ロシアの南下を止めなければ、日本の未来がないと悟った政府は外交交渉をあきらめ、明治37年2月に、両国がそれぞれ宣戦布告して日露戦争が始まった。ところが戦争が始まると、日本は予想外の戦いぶりを見せた。そこには「ロシアの南下をこのまま許せば、我が国の未来はない。戦うからには勝たねばならず、もし敗れば日本は滅亡するしかない」という「背水の陣」の悲壮な覚悟があったからである。

 ロシアは遼東半島の旅順を旅順艦隊の根拠地とし、旅順口を囲む山々に本格的な要塞を建設していた(旅順要塞)。旅順は元々は清国の軍港であり、ロシアが旅順を手中に収めた時にはある程度の設備を持っていた。

 日本はロシアとの戦争に勝つには、日本と朝鮮半島および満州との間の補給路の安全確保が必要であり、朝鮮半島の周辺海域の制海権を押さえるために旅順艦隊の完全無力化が必須としていた。また旅順要塞に立て籠ったロシア陸軍(2個師団)は、満州南部で予想される日本軍(満州軍)との決戦に挑む背後の脅威であり、日本にとっては旅順を封じ込めるか無力化することが必要だった。

 1904年2月4日、御前会議でロシアとの開戦が決定され、翌5日には連合艦隊司令長官・東郷平八郎に出動命令がだされた。2月6日には連合艦隊(第1・2・3駆逐隊)が佐世保港を出航した。

 このうち第四戦隊(巡洋艦 浪速、明石、高千穂、新高)、巡洋艦 浅間、第九艇隊(水雷艇 蒼鷹、雁、燕、鴿)、第十四艇隊(水雷艇 千歳、隼、真鶴、鵲)で編成された「瓜生戦隊」は上陸部隊を載せた輸送船三隻と共に仁川に向かった。

 連合艦隊は旅順港をmr刺したが、瓜生艦隊(第2艦隊)は主力と分かれ仁川に向かった。瓜生艦隊の目的は仁川に碇泊中のロシア軍艦の巡洋艦ワリヤーグと砲艦コレーツの2隻を撃破すること、さらに陸軍の第1陣2200人を乗せた輸送船団を護衛することだった。このように陸海軍ともに旅順攻撃の下準備をしていた。

 

仁川沖海戦

 日露戦争直前の日本とロシアの海戦である。仁川港にはロシアの防護巡洋艦ワリャーグと航洋砲艦 コレーツが碇泊していた。

 日本の防護巡洋艦「千代田」は7日夜、密かに出港し翌朝に港外で瓜生戦隊と合流し、千代田の先導で瓜生戦隊は仁川港に入港して陸軍部隊を無事上陸させた。

 その後、瓜生戦隊はロシア側に対して9日正午まで仁川港から退去するよう要求。出港しない場合は港内で攻撃すると通告した。仁川港には欧米の軍艦や商船が停泊していた。この他国の軍艦や商船に対しロシア側が拒否した場合に、湾内戦闘に巻き込まれないために湾外への避難を通告した。

 9日正午、ロシア艦隊が出港したところを瓜生艦隊は沖まで追跡し、12時10分に浅間がロシア側の動きを発見すると砲撃を開始し、続いて千代田、浪速、新高も砲撃を開始し、ロシア側の2艦も発砲した。ヴァリャーグは被弾し浸水で傾斜し炎上しながら港内に引き返し、コレーエツも1発被弾しそれに続いた。ロシア側では31名が戦死したが、日本側の損害は皆無であった。戦闘後コレーエツは爆破されヴァリャーグも自沈した。

 

旅順口攻撃(海軍)

 日本は大山巌陸軍総司令官のもとでにロシアと死闘を繰り広げた。ロシアの太平洋艦隊は旅順港を拠点としていた。この艦隊を壊滅させなければ日本海や黄海での我が国の制海権は保証されない。

 まず海軍は2月8日、連合艦隊は第一、第二、第三駆逐隊を旅順港に向かわせ、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対し日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃を始めたが、ロシアの艦艇3隻に損傷を与えるのみで大きな戦果はなかった。この時、ロシア側はマリア祭の祝宴で完全に油断していたが、日本の駆逐艦隊が暗夜で隊列を乱したこともあって、期待した戦果はなかった。

 ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし、日本の連合艦隊との正面決戦を避けて、旅順港に待機した。旅順港の入り口は旅順口と呼ばれ、半島の突端と対岸の黄金山山麓に挟まれた水路は幅が270mほどしかなく、しかも水深から大型戦艦が航行できるのは、そのうちの91mにすぎない。そこで、連合艦隊は旅順口に貨物船などの廃船を爆破して沈め、ロシアの太平洋艦隊が外洋に出られなくする奇策をとった。これを「旅順口閉塞作戦」という。

 この無謀きわまりない「旅順口閉塞作戦」は三度試みられたがいずれも失敗した。たまたま天候に恵まれなかったり、廃船を目的地点に運ぶ前に発見されて集中砲火を浴びたためである。(旅順港閉塞作戦)。連合艦隊参謀の有馬良橘中佐が中心となり作戦準備が進められた。各艦から乗員を募集したところ約2000名の応募があった。

 第一回目、閉塞船5隻は2月23日に連合艦隊に見送られて円島南東の洋上を出発したが、ロシア軍の砲撃を受ける中で各艦は目的地を見失い、広瀬の指揮する報国丸以外は港口から離れた場所で自沈した。その結果、港口を塞ぐことは出来ず作戦は失敗に終わった。

  第一回目の作戦は失敗に終わったが損害が軽微だったこともあって、二回目の作戦が実行された。閉塞船は四隻、指揮官は第一回閉塞作戦に参加した者を再任。下士兵は第一回目に参加した者は除く方針で選抜した。
 出発した二回目の閉塞船は港口に向かったが、第一回目同様、ロシア軍の探照灯や砲撃による妨害で目的を達することはできなかった。広瀬少佐が指揮を執っていた福井丸は、最初に自沈した千代丸の側で爆沈準備をしている最中に敵駆逐艦の雷撃を受けて浸水を始めた。そこで脱出のため総員後甲板に集合したが、杉野上等兵曹の姿だけが見あたらない。広瀬少佐は「杉野、杉野」と呼びながら三度船内を探し回ったが、遂に見つからず脱出用のボートに乗り込んだ。その後、脱出中に敵弾を受けて戦死した広瀬少佐は軍神と呼ばれ、この時の様子は文部省唱歌になった。

 3月にマカロフ中将が旅順艦隊司令官となった。マカロフは前任者とは違い積極的に出撃して日本海軍を挑発し続けた。その出撃ルートに一定の規則性があることに気づいた真之は、通過地点への機雷敷設を提案してこれを実行に移した。
 4月13日、ロシア旅順艦隊は出撃したが、連合艦隊主力の手前で反転し港に向かい始めた。その帰路、旗艦ペトロパウロウスクは日本側が前夜に敷設した機雷に触れ轟沈、マカロフ中将は戦死した。このことで旅順艦隊の士気は下がり旅順で対峙していた両海軍の均衡を破ることとなった。

 第三回の閉塞作戦は5月3日未明に行われた。閉塞船12隻を用いた大規模な作戦となるはずだったが、天候不良のため中止命令が出された。しかしこの命令が届かなかった8隻の閉塞船はそのまま突入し、旅順港外で自沈・沈没した。この作戦では死傷者、行方不明者が90名を越える損害を出し、以後閉塞を断念し旅順陥落まで海上封鎖を続けることになる。

 日本海軍は水雷夜襲等による八次にわたる攻撃と三回の閉塞作戦で、でロシア太平洋艦隊は旅順に封じ込まれ、本土から大陸までの陸軍の揚陸や補給が容易になった。しかし旅順港に籠るロシア艦隊に決定的な打撃を与えることはできず、艦隊が温存されたことにより日本から満州に到る制海権が脅かされたため、陸上からの旅順要塞の攻略が必要となった。

 さらにロシアのバルチック艦隊が遠くヨーロッパから巡航してくる動きをみせていた。日本の連合艦隊がバルチック艦隊を迎え撃つ前に、旅順の太平洋艦隊を壊滅させなければならない。さもないと挟み撃ちされる危険性があった。

 

旅順攻囲戦
 日本は戦艦でロシア帝国の旅順要塞を攻撃するが上手くいかなかった。そのため陸軍に旅順の高地を奪取させ、背後から旅順を襲うことになった。

 指揮官は乃木稀典(まれすけ)に変更された。乃木稀典は日清戦争で旅順をあっけなく攻略した経験を持つので、今度も簡単にと思っていたが、旅順はロシアによってコンクリート製の強固な要塞と化しビクともしなかった。

 旅順は遼東半島の一部で、三国干渉によって日本が清に返した土地であるが、事実上ロシアの軍事基地となっていた。要塞は周囲を固めた半永久堡塁8個を中心に堡塁9個、永久砲台6個、角面堡4個とそれを繋ぐ塹壕からなり、あらゆる方角からの攻撃に備えていた。

 さらに後方の高台(望台)に砲台を造り支援砲撃を行うことになっていた。また突破された場合に備えて、堡塁と塹壕と砲台を連ねた小規模な副郭が旅順旧市街を取り囲んでいた。海上方面も220門の火砲を砲台に配備して艦船の接近を妨害するようになっていた。

 開戦時にロシア軍が満州に配備する戦力は6個師団であったが、その3分の1に当たる2個師団約3万名が旅順および大連地域に配備され、これに要塞固有の守備兵力、工兵、要塞砲兵なども含めると最終的に4万4千名が立て籠った。

 この旅順においては日本は苦戦を強いられた。

 

第一回総攻撃

 8月19日に二龍山、東鶏冠山にあった旅順北東部のロシア要塞への攻撃を開始した。第1師団が大頂子山を奪取するが、東方面担当の第9師団、第11師団は苦戦を強いられ、盤龍山および東鶏冠山の堡塁を攻撃するも失敗に終わる。戦闘は6日間に及んだがロシア軍の頑強な反撃にあい、この戦闘に5万765名が参加しそのうち15860名の死傷者を出した。死傷者の続出と弾薬不足により攻撃続行は困難となったため、乃木は24日に攻撃の中止命令を下た。

 『肉弾』の著者である櫻井忠温は第一次総攻撃の様子を次のように記している。

「死傷者累々として堆積し、傷に唸うめく者、担架を呼ぶ者、唯だ静かなるはすでに絶命せる戦死者の骸(むくろ)なり。死屍地を塞(うず)めて足を入るべく空隙無し。これぞ地獄の隧道(トンネル)。に避くれば傷つける同胞を踏み、左に地を求むれば、地には非ずして闇中に色を弁識する能はざるカーキ色の戦友の屍なり。「死骸を踏むな」と部下を戒めたが、予も亦(ま)た水膨れになって護謨(ゴム)の如き弾力ある我死者の胸許を踏み付けた。「赦(ゆる)せ」これを唯一つの念仏として行進したが、長き隘路に長く続ける死屍負傷者の事なれば、実際之れを越えずには、前進することが出来無かった」

第二回総攻撃

 9月9日から龍眼北堡塁および水師営南方堡塁への坑道の掘削を掘り進み、坑道掘削をほぼ終えた第三軍司令部は第二次総攻撃の実施を決定した。10月26日から6日間、突撃隊は敵の銃撃を避けて堡塁に接近し、至近距離から白兵戦を挑んだが、今回もロシア軍の頑強な抵抗にあって作戦は成功せず、この戦闘で1092名の戦死者2787名の負傷者を出した。

第三回総攻撃

 第一次、第二次総攻撃で多くの死傷者を出した第三軍に対し、11月11日には第7師団が増援投入され、11月26日、第三軍は第三次総攻撃を開始した。しかし正面攻撃を行った各師団の攻撃はことごとく撃退され、特別予備隊2600余名からなる白襷隊の奇襲攻撃も行われたが、日本側は4500名の死傷者を出し。ロシア軍も戦死者を出した。翌27日、乃木は攻撃目標を二○三高地に変更するが、第一師団が二○三高地攻撃に失敗、攻城砲部隊による砲撃の後、30日の再攻撃で二○三高地の一角を占拠したが、ロシア軍の逆襲に遭い奪還されてしまった。
 一方、児玉は29日に満州軍総司令部を出発し、12月1日に旅順へ到着。そして児玉は重砲、攻城砲の配置換え指示した。12月5日昼、第三軍はついに二○三高地を占領。すぐに港内の軍艦に対する砲撃を行い、旅順艦隊の残存艦を次々と沈めていった。
 この二○三高地の陥落、さらに15日のコンドラチェンコ少将の戦死は戦況に大きな影響を与えた。東鶏冠山北堡塁を始め、各地の堡塁が次々と陥落。明治38年1月2日、ついにロシア軍が降伏し旅順攻略戦はその幕を閉じた。

 総指揮を任された乃木希典は何度も総攻撃を仕掛けたがうまくいかず、この戦いで乃木の息子を含めて約15,000人の死者を出した。乃木将軍は旅順要塞の正面攻撃に固執し、大本営が旅順港を見下ろせる西側の203高地に攻撃の目標を切り替えるようたびたび訓令を発していたが、乃木将軍は203高地に振り向こうともせず、鉄壁の要塞へ真っ正面から挑み悪戦苦闘するばかりだった。

 203高地という山を攻略せと本部は乃木に命令。この小さな山からなら旅順港を砲撃できる。そこで乃木は「陸軍の頭脳」というわれる児玉源太郎の力を借りて203高地を占領した。明治37年の11月26日から12月6日まで続けられた203高地攻略戦では日本軍は約6万4千の兵士を投入し、戦死者5052名、負傷者11884名という信じがたい数の犠牲者を出し、作戦通り頂上からの砲撃によりロシア艦隊を殲滅した。

 ロシア側の旅順要塞守備兵力は3万5600名、これをを攻囲した日本軍は延べ12万名、戦闘期間は155日だったが、旅順開城の時点で日本軍の死傷者は約6万、ロシア軍のそれは3万であった。この旅順攻略には日本軍は6万人もの戦死者を出し、その悲哀を象徴する戦いだった。

 明治38年1月に乃木将軍が旅順攻略に成功すると、勢いに乗った日本は、同年3月の奉天会戦でも勝利した。奉天(瀋陽)を占領した3月10日は陸軍記念日に定められている。しかし戦線がのびきった日本陸軍はこれ以上進むことができなかった。
 またロシアは陸戦で敗れたが、無敵艦隊と言われたバルチック艦隊が健在で、海戦での巻き返しは可能だった。

日本海戦
 なんとか旅順を攻略したが、ロシアには世界最強艦隊といわれる「バルチック艦隊」があった。1904年、10月15日、ついにその精鋭のバルチック艦隊が旅順に向けて動き出した。我が国もバルチック艦隊を撃ち破らない限り、真の勝利はないと気を引き締め、両国の命運をかけた大決戦が目前に迫った。
 旅順港の太平洋艦隊とともに日本海軍と戦えば、日本艦隊の2倍の戦力となる。勝利すれば制海権を確保できたが、バルチック海からの航海は地球を半周する距離があった。イギリスが各国に圧力をかけ、バルチック艦隊の入港を拒んだり、石炭の積み込みを不自由にさせたりして航行の邪魔をした。当時の艦船の燃料の石炭は燃料効率が悪いため、大量の石炭補給を何度も繰り返さねばならなかった。しかも艦隊の兵士は海上での石炭運搬に労力を削がれ、ほとんど陸上に上がることが出来なかった。

 バルチック艦隊は世界最強を誇っていたが、極東への出航が急遽決定されてから農民たちを集めたため、彼らの多くは戦闘員として充分に訓練されていなかった。イギリスは巡洋艦10隻でバルチック艦隊の後を追って、その行動を詳細に英国政府と同盟国日本政府に打電していた。

 バルチック艦隊が日本海にたどり着くのに約7ヶ月もかかり、疲れきった状態で日本海にたどり着いた最強艦隊を、東郷平八郎が率いる連合艦隊が待ち構えていた。日露の戦力を比較すると、日本海軍は戦艦4、装甲巡洋艦8、装甲海防艦1、巡洋艦12で、バルチック艦隊は戦艦8、装甲巡洋艦3、装甲海防艦3、巡洋艦6で、戦艦の数では日本海軍はロシアの半分に過ぎなかった。もし日本海軍がこの艦隊をウラジオストックに帰港を許せば、ロシア軍は万全の準備をして戦えるので、戦艦が日本軍の倍もあるロシアに分があったであろう。
 この時代にはレーダーは存在しなかった。バルチック艦隊がどのあたりを航海しているかつかめず、ウラジオストックに戻るのに対馬海峡を通るのか、津軽海峡を通るのか、宗谷海峡を通るのかもわからなかった。もしそれぞれの可能性を考えて日本海軍の戦力を分散させて待ち構えていたら日本軍が勝利できなかっはずである。

 東郷平八郎は異常な長旅にわざわざ太平洋側を経由する可能性は低く、バルチック艦隊に自信があるならば必ず最短距離の対馬海峡を通ると確信し、全艦が対馬海峡で待ち伏せしたのである。日本軍が対馬海峡に全勢力を集めていることはロシアにとって想定外であった。まさかに宗谷・津軽の二海峡をあれ程思い切って放棄し、朝鮮海峡にのみ全勢力を集めていたとは思わなかったのである。
 日本の連合艦隊は7ヶ月もの間、砲撃の精度を上げるため猛特訓をしていた。精度の上がった砲撃、東郷平八郎、また東郷平八郎の右腕、戦略家の秋山真之(あきやま よしふる)らの周到な作戦により世界最強艦隊を相手に戦うことになる。

 連合艦隊はバルチック艦隊の足取りをつかめないでいた。バルチック艦隊が太平洋から北海道へ向かう可能性も想定せざるを得なくなった。しかし26日、バルチック艦隊に随伴していた石炭運搬船が上海に25日に入港し、離脱させたという情報がはいった。運搬船を離脱させたのは、航行距離の長くなる太平洋ルートを通らないことの証明であった。この情報によって連合艦隊は対馬海峡でバルチック艦隊の到着を待った。
 5月27日午前2時45分、九州西方海域で仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊の病院船の灯火を発見し、夜が明けつつあった4時45分、距離1,500m以内に航行中の艦影・煤煙を多数視認し、4時50分に203地点で敵艦発見と打電している。警戒任務のために近くにいた巡洋艦「和泉」は信濃丸の電信を受け6時45分にバルチック艦隊を発見し、そのまま7時間に渡り敵の位置や方向を無線で通報し続けた。

 そして運命の明治38年5月27日の朝をむかえた。ロシアのバルチック艦隊が日本近海に姿を見せ、巡洋艦からの敵艦発見の連絡を受け、東郷平八郎は午前6時21分に「敵艦見ゆとの警報に接し、吾艦隊は直ちに出動、之を撃滅せんとす。此の日、天気晴朗なれど波高し」と大本営に打電している。

 両艦隊は急速に接近し、距離8000mにまでなったとき、東郷は左に舵を切ることを命じ丁字型に敵の先頭を圧迫しようとした。軍艦は敵の正面にいるよりも左右どちらかにいた方が、目標に対して攻撃できる大砲の数が多くなる。その反面、回転運動中は自軍からの攻撃は難しく逆に敵艦の正面の大砲の射程圏にとどまることになる。しかし回転運動中の日本海軍の位置は、敵艦の射程圏のギリギリのところで命中精度は低かった。

 「敵の艦隊が初めて火蓋を切って砲撃したのが、午後2時8分で我が第一戦隊が、暫くこれに耐えて応戦したのが34分遅れて2時11分頃であった。この43分に飛んできた敵弾の数は少なくとも300発以上で、それが先頭の旗艦・三笠に集中されたが距離が遠かったため大事にはなかった。午後2時12分、戦艦隊が砲撃を開始し、敵の先頭2艦に集弾し、敵の戦列全く乱れて勝敗の分かれた。その間、実に30分であった。勢力はほぼ対等であったが、ただやや我が軍の戦術と砲術が優れていために、この決勝を勝ち得たので、皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦によって定まったのである。

 新式の下瀬火薬を利用した日本の連合艦隊がバルチック艦隊を圧倒した。この日本海海戦において、バルチック艦隊は戦力の大半を失い、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。日本の損害は水雷艇3隻のみで、世界海戦史上における空前の大勝利となった。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされたロシア側も和平に向けて動き出した。
 海戦はこの日の夜まで続いたが、この戦いでバルチック艦隊を構成していた8隻の戦艦のうち6隻が沈没し2隻が捕獲された。装甲巡洋艦5隻が沈み1隻が自沈、巡洋艦アルマーズがウラジオストックに、海防艦3隻がマニラに逃げ、駆逐艦は9隻中の5隻が撃沈され2隻がウラジオストックに逃げた。ロシア側の人的被害は戦死5046名、負傷809名、捕虜6106名。
一方日本側の損害は水雷艇3隻、戦死者116名、負傷538名であった。日本軍の圧勝であり、日本軍のこの勝利で日露戦争の趨勢は決定的となったのである。
 日本海海戦における日本勝利のニュースは世界を驚嘆させ、殆んどの国が号外で報じたという。有色人種として自国のことにように狂喜したアジアやアラブ諸国、ロシアの南下を阻止したかった英米は日本の勝利を讃え、ロシアの同盟国フランスはロシアに講和を薦め、ドイツはこの開戦の勝利を機に対日接近を強めたようだ。
 ころで、日本海海戦で命令に違反して戦場から離脱してマニラに向かったロシアの巡洋艦が3隻あったという。そのうちのひとつが「アウロラ」である。
この記事の最初に、バルチック艦隊がロシアのリバウ軍港を出発した直後に英国漁船を誤爆したことを書いたが、その時に同志討ちにあい、水線上に味方から四弾をうけたのがこの「アウロラ」で、日本海海戦の時は艦長が戦死するなど損傷を受けたのちに逃亡して、中立国であるアメリカ領フィリピンに辿りつきマニラで抑留されたのだが、この巡洋艦のその後の運命が興味深い。
1906年に「アウロラ」はバルト海に戻り、1917年に大改装のためにペトログラードに回航されると、二月革命が起こって艦内に革命委員会が設けられ、多くの乗組員がボルシェビキに同調したそうだ。11月7日(露暦10月25日)には臨時政府が置かれていた冬宮を砲撃し、さらにアウロラの水兵たちが、赤衛隊や反乱兵士とともに、冬宮攻略に参加して10月革命の成功に寄与したという。

 また欧米各国におけるバルチック艦隊有利の予想をくつがえしたことは、列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランド、フィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、イギリスやフランス、アメリカやオランダなどの白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた。
 日本は日本海海戦を勝利したことで制海権を確保したが、戦争から既に1年3ヵ月が過ぎており、兵站線(輸送連絡路)も資金面も限界に達していた。日本はこれ以上の戦争を続けることが不可能になっていたが、ロシアも度重なる敗戦で軍の士気が低下し、明石元二郎による諜報活動によって国内で革命運動が起きるなど、政情が不安定となり講和を模索するようになった。この海戦が行われた5月27日は海軍記念日となっている。

ポーツマス条約
 日露戦争に日本は勝利したがこの後が難航する。ロシアは負けを認めず、日本軍は活躍し軍事的な勝利を得たが日本もこれ以上戦えなかった。当時国家予算が2億5千万円の状態で、日露戦争に準備した18億円そのうち15億円を使ってしまい、これ以上の戦争は無理だったのである。
 戦争で勝利のために戦うのは軍人であるが、軍人には戦争を終わらせることはできない。戦争の終結は外交であり、それが可能なのは政治家だけだった。
 この大原則は日露戦争においても同様で、国力の限界を見極めていた日本政府は長期戦にならないうちに戦争を終わらせるため、開戦前から講和への道を探っていた。
 日本がロシアと講和を結ぶには、仲介役となる国を求めなければならない。当時の主な列強のうちイギリスは日本と同盟を結んでいて、フランスはロシアと同盟を結んでいたので仲介役になり得なかった。そこで日本が仲介国としたのがアメリカであった。アメリカは日露両国に中立的な立場で、かつては不平等条約の改正に前向きな姿勢を見せるなど日本への理解も深かった。
 講和の仲介国としてアメリカを選んだ日本政府は、ロシアとの開戦とほぼ同時期に、司法大臣であった金子堅太郎をアメリカへ派遣した。アメリカの大統領はセオドア・ルーズベルトであったが、金子堅太郎とルーズベルトはハーバード大学の同窓生であった。そのような人物を送ることで、アメリカに有力な仲介国になってもらえば、アメリカ国内世論も日本に有利に動くことも可能性と考えていた。
 開戦前から講和への道を確保しようとした政府と、現場において命がけで戦い、勝利をつかんだ軍隊。政治家と軍人とがそれぞれの役割を果たしたため、日本は日露戦争において戦局が有利なうちにロシアと講和を結ぶことができた。戦争は始めることよりも「終わらせること」の方がはるかに重要で、それを実現できたのが日露戦争であった。
 講和への道を探っていた日露両国はルーズベルト大統領によって、明治38年8月から和平の交渉を開始した。

 日本全権の小村寿太郎と、ロシア全権のウイッテとの間で進められた交渉は難航したが、同年9月に両国はアメリカのポーツマスにおいて講和条約を調印しました(ポーツマス条約)。
ポーツマス条約の主な内容は以下のとおりである。
1.韓国における日本の政治・軍事・経済上の優越権を認めること
2.遼東半島(りょうとう)における旅順・大連などの租借権を譲渡すること
3.長春(ちょうしゅん)以南の鉄道と、それに付属する炭鉱の採掘権などを譲渡すること
4.北緯50度以南の樺太を割譲すること
5.日本海、オホーツク海およびベーリング海での日本の漁業権を認めること
 ポーツマス条約の締結によって日本はロシアの韓国や満州への南下を阻止し、ロシアの領土の樺太も南半分を取り戻し、日本は戦争前より優位に立つことができた。しかし早期の講和条約締結を優先した政府は、戦争賠償金をロシアから取らない妥協案で交渉は成立することになる。日清戦争後の下関条約の時のような膨大な賠償金がなかった。日本の優位を信じて疑わない日本では不満の声が高まった。100万人以上の兵力を費やし18億円以上の軍費を使い、増税にも耐えてきたのに、政府は弱腰すぎると国民の怒りは頂点に達したのである。
 1905(明治38)年9月5日、条約破棄を訴える国民が日比谷公園に集まった。集合をかけたのは講和問題同志連合会という対ロシア強硬派の人々で、参加者は約3万人が駆けつけた警察官350人との小競り合いとなった。この小競り合いで勢いに乗った参加者が暴徒化する。暴徒化した人々が二重橋を行進し、それを止めようとする警察官とも揉めあい、遂に怒りを発散させるべく警察署や派出所を襲撃し、日比谷公園付近の新聞社に向け火が放された。またポーツマス条約を斡旋したアメリカにも怒りは向けられ、米国公使館、教会なども標的とされた。政府は戒厳令を施行し天皇を守るエリート部隊を出動させ日比谷焼き討ち事件は鎮圧するが、このような騒動は全国に飛び火していく。
 日露戦争時、当時の国家予算が2億5000万円の状態で18億ものお金を使ってしまい、すでに戦う力などなかった日本。賠償金など貰わなくとも、兎に角講和条約を成立させ戦争を終わらせるという政府の判断が間違っていたとはいえませんが、国民に反感をかってしまったのである。講和に賛成した新聞社や警察署などを次々と襲う騒ぎになった(日比谷焼打ち事件)。

世界への影響
 優位な状況で講和が結ばれたことによって、最終的に我が国の勝利で終わった日露戦争であるが、アジアの小国の有色人種の日本が、世界最強の白人国家であるロシアを倒したという事実は、国内のみならず世界中に計り知れない影響を与えた。
 コロンブスによる新大陸の発見から始まった大航海時代から、白色人種の国家が世界の大陸を次々と侵略して植民地として有色人種を奴隷とした。この帝国主義が20世紀初頭まで世界の常識であった。しかし日本が日露戦争で勝利して、この常識が根底から覆されたのである。それまで白人の支配に苦しめられていた有色人種の人々に大きな希望を与えた。日本の劇的な勝利を実際に目にした世界中の有色人種の人々が、「ひょっとしたら自分たちにもできるかもしれない」と想像したのは自然なの流れであった。
 世界中の有色人種の人々の希望は、やがてインドやビルマ(ミャンマー)、インドネシアといったアジア各国の独立  運動へつながり、さらにはエジプトやポーランドなどにも飛び火した。中国の清も、1000年以上続いた科挙の制度を廃止するとともに多くの留学生を日本に送り込んできた。
 一方、敗れた白人国家は大きなショックを受けた。それまで当たり前のように拡大してきた植民地が、日露戦争以後は全く増えていない。強国ロシアに勝った日本に対して敬意と畏怖を感じた。白人国家の多くは日本を敵に回すよりも友好的な関係を築く道を選んだ。イギリスは日英同盟を強化し、ロシアでさえも戦後に日露協商を結んでいる。
 しかしこの世界の流れに「待った」をかけた国が現れた。それはアジアでの権益拡大を目指していたアメリカだった。日露戦争を境に、それまでの友好的な態度から一転して我が国への警戒を強め、やがては激しく対立するようになってしまう。アメリカは日露戦争でほぼ南北戦争の内乱を乗り越えたばかり。いわば帝国主義の後発組であった。20世紀初頭の帝国主義競争は、先頭を走るイギリスとフランスをドイツとロシアが追い、さらにその後を日本とアメリカが追いかけているという状況だった。イギリスは真後ろの目障りなロシアを蹴り落とすため当面の脅威にならない日本を利用しようとしました。

 そしてアメリカはこの状況の中で漁夫の利を得て、一気に上位に踊り出ようとした。すなわち日本とイギリスの両方に恩を売ることで、ロシア撤退後の中国市場への進出を企んだのである。日露戦争の結果、ロシアは後方に脱落し、やがて共産主義革命という形で、この帝国主義レースを降りてしまった。

 いずれにせよ日露戦争は、世界史上に燦然と輝く20世紀最初の歴史的大事件であったが、戦後の歴史教育において日露戦争の世界史的意義がほとんど語られなくなった。

日露戦争の間違った考え

 学校の歴史の授業で教師が「日露戦争は、本当は日本の負けだった」ということがある。いかしこの議論は間違いである。戦争の結果には「勝ち」か「負け」か「引き分け」の3種類しか無いのです。その中に「本当」や「嘘」が入る余地はない。学校教師が口にする「本当は負け」というのは、こういう意味で言っているのだそうです。「日本は、短期で戦争が終わったから勝ったのだ。もしも長期化していれば、兵員数に勝るロシアが勝っていたはずなのだ。だから、本当は負けなのだ」この説明は、論理的に間違っています。

 実際の戦争は、確かに短期に終わったのですが、それは日本の戦争指導者たちが、短期に終わるよう努力したからそうなったのです。つまり、この戦争が短期に終わったのは、日本の作戦勝ちということです。ゆえに、「日本の勝利」という事実に変わりはなく、「本当」も「嘘」も無いのです。また、一部の論者は、兵員の損耗数を根拠に「本当は日本の負け」と主張しているようです。確かに、捕虜を含めない兵隊の死傷者数では、日本の方が多かったかもしれない。しかし、この主張も、論理的に間違っています。

 戦争の勝ち負けというのは、兵員の損耗の多寡で決まるのではありません。戦争の勝敗は、「戦争目的が達成できたか否か」で決まるのです。日露戦争で、戦争目的を達成したのは日本の方でした。だから、あれは問題なく「日本の勝利」だったのです。異論を差し挟む余地などありません。そもそも、損耗の多さで勝敗が決まるというのなら、長篠の戦いは武田騎馬軍団の勝利ということになるし、ノモンハン事変や硫黄島の戦いは日本軍の勝利ということになっちゃいませんか?(それぞれ、織田徳川連合軍、ソ連軍、アメリカ軍の方が、死傷者数が多かったのです)。

 ところで、どうして日本の学校教師や識者は、「日露戦争を日本の負け」にしたがるのでしょうか?それは、戦後日本に蔓延したいわゆる「自虐史観」の仕業です。左翼思想に偏向した日教組は、戦前の大日本帝国の業績を、全て否定するような教育を展開したのです。今日、多くの日本人が愛国心を失っているのは、そのためです。でも、我々の生きている社会には、『絶対悪』なんて存在しません。大日本帝国は、確かに悪事もしたでしょうが、良い事だってしているのです。その全てを否定的に教える日教組の方針は、教育というより「洗脳」ではないかと思います。

 ともあれ、日本の若者の多くは、日露戦争に対して否定的な考えを持たされている。そして、この小論の最大の目的は、洗脳の呪縛から若者たちを解放することにあります。 

日露戦争後の日韓併合
 日露戦争での勝利は日本の国際的地位を高め、明治38年にアメリカとの間で桂・タフト協定が結ばれ、アメリカのフィリピンにおける指導権と同様に日本の韓国における指導権をそれぞれ承認した。また同年には日英同盟が改定され、イギリスのインドに対する支配権と引き換えに、日本の韓国への指導権をイギリスが承認した。またロシアと同盟していたフランスとの関係も良好になり、対戦国ロシアとの国交も修復された。
日本とロシアは、明治40年から日露協約を結び、韓国における日本の権益をロシアが承認し、満州や内蒙古の両国の勢力圏を確認しあい互いの利害関係を調整した。このように日露戦争後に良化したと日本の国際関係であったが、やがて利害の調整に失敗したアメリカとの関係が悪化した。
 列強による中国分割に出遅れたアメリカは、「門戸開放・機会均等」を唱えるとともに満州の権益を求め、我が国がポーツマス条約で得た長春(ちょうしゅん)以南の南満州鉄道(満鉄)に対し、アメリカの鉄道王のハリマンが明治38年に共同経営を呼びかけた。このハリマンの申し出に、アメリカとの関係を重視した元老の井上馨や伊藤博文、首相の桂太郎は賛同したが、外務大臣の小村寿太郎が猛反対し実現しなかった。
 ポーツマス条約を締結した小村寿太郎にすれば、多くの血を流して手に入れた満州の権益を、共有とはいえアメリカに譲り渡すことは我慢できなかったのである。しかし満州での権益を得られなかったアメリカは、この件を境に日本の態度を硬化させ、翌年にはサンフランシスコで日本人学童排斥事件が起き、日本からの移民に対して厳しい政策を行うようになった。
 このように南満州鉄道(満鉄)の共同経営を巡ってこじれた日米関係は、この後も好転することなく、日露戦争終結から36年後の昭和16年には、ついに両国が直接戦う運命となってしまうす。悲しいかな、これも厳然たる歴史の大きな流れである。
日露戦争に勝利した我が国は、ポーツマス条約によって韓国における政治・軍事・経済上の優越権が認められたことで、ロシアの南下政策を食い止め韓国の独立を守ることができた。しかし清からロシアへと事大主義に走った韓国をそのままにしていれば、またいつ「第二、第三のロシア」が出現して、韓国の独立と我が国の安全保障が脅かすか分からなかった。そこで日本は韓国の独立を保ちながら、軍事権や外交権などを握るり、韓国を「保護国」とする方針を固めた。
 日本と韓国は日露戦争開始直後の明治37年2月に、日本による韓国防衛の義務や韓国皇室の保護などを明記した日韓議定書を結ぶと、同年8月には第一次日韓協約を結び、韓国政府の財政や外交の顧問に日本政府の推薦者を任命することになった。さらに明治38(1905)年11月には日韓保護条約(第二次日韓協約)を結び、韓国の外交権を日本が持つことで、韓国は事実上我が国の保護国となった。また条約により首都漢城(ソウル)に統監府)を置き、伊藤博文が初代統監となった。
 日韓保護条約によって、韓国は日本の保護国となったが、これは韓国皇帝の高宗(こうそう)にとっては屈辱的なことであった。このため高宗は自分が認めた条約にもかかわらず、自国の外交権回復を実現するため、明治40年にオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議に密使を送り、日韓保護条約の無効を訴えた。これをハーグ密使事件という。
 しかし列強国は条約の違法性を認めず、密使の会議への参加も拒絶したため、韓国は目標を達成できず、高宗の思惑とは裏腹に、国際社会が日韓保護条約の正当性を認めたことになった。韓国の服従するように見せかけて内心では反抗する(面従腹背)ことが明らかになり、韓国は当時の国際社会の信頼を損なうと同時に日本の激怒を招き高宗は退位に追い込まれた。さらに年に第三次日韓協約が結ばれ、韓国の内政権が完全に日本の管轄に入り、韓国の軍隊を解散させ、日本による統治がさらに強化された。
 ハーグ密使事件により韓国への感情が悪化した日本では、保護国ではなく韓国を日本の領土として併合するべきだという意見が強くなったが、その情勢に身体を張って反対したのが初代統監の伊藤博文であった。伊藤博文としては、韓国の独立国としてのプライドを守るために、近代的な政権が誕生するまでは外交権と軍事権のみを預かり、その後に主権を回復させる考えだった。
 教育者で植民地政策にも明るかった新渡戸稲造が韓国の植民地化に関する計画を伊藤博文に持参した際にも、伊藤博文は「植民地にしない」と一蹴し、韓国人による韓国の統治の必要性を、時間をかけて新渡戸稲造に説明した。「韓国は韓国人によって統治されるべきである」。我が国初の内閣総理大臣であり、維新の元勲でもある伊藤博文だけにその発言は重く、伊藤博文が生きている間は韓国が併合されることはないと考えられた。しかしその伊藤博文が、よりによって韓国人に暗殺される悲劇が起きてしまったのである。
 明治42年10月26日、伊藤博文はロシアの外務大臣と会う目的で訪れた満州のハルピン駅で、韓国人の民族運動家であった安重根(あんじゅうこん)にピストルで撃たれて殺害された。熱心な愛国家であった安重根からすれば、初代統監として韓国を保護国化した伊藤博文の罪は重く、また伊藤博文こそが韓国を併合しようとしている首謀者と考えただろう。しかし伊藤博文が韓国人によって殺されることは絶対にあってはならない出来事であった。
 維新の元勲伊藤博文は、我が国にとって至宝ともいうべき存在であり、併合に最後まで反対していた人物である。日本政府内に併合に前向きな勢力が多い中で、友好的だった伊藤博文にテロ行為でお返しするのは、どう考えても言語道断と言わざるを得ない。
 安重根によるテロ行為は、結果として我が国と韓国との歴史をそれぞれ大きく変えることになった。安重根は現在の韓国(大韓民国)では英雄として称えられている。安重根による伊藤博文の殺害という大事件は、日本の世論を激怒させ韓国を震撼させた。日本による報復行為を恐れた韓国政府や国民の反応は、韓国内の最大の政治結社である一進会が日韓合併の声明書を出したこともあり併合へと傾くようになった。
 しかし日本は併合には慎重だった。日韓併合が国際関係にどのような影響をもたらすのかを見極める必要があったからである。そこで日本が関係国に併合の件を打診すると、「日本が韓国と不平等条約を結んでいた条件を変更さえしなければ問題ない」というだけで、表立って反対する国はなかった。
 イギリスやアメリカの新聞も東アジアの安定のために併合を支持する姿勢を示したことで、明治43年8月22日、日本は初めて日韓併合条約を結んだのである。なお併合後には朝鮮総督府、後に内閣総理大臣となった寺内正毅(まさたけ)が初代総督を務めた。
 日韓併合はこのように慎重な手続を踏まえ、国際的な世論の同意も得て実現した。なお平成13年に日韓併合条約の有効性が日本と韓国(大韓民国)との間で議論された際に、韓国側が「強制的に併合されたから無効である」として国際会議に訴えましたが認められず、21世紀においても、国際社会が日韓併合における我が国による朝鮮半島支配の正当性を認めていることが確認されている。
朝鮮が日本に併合されたことから、明治政府は朝鮮内の衛生の改善や植林事業などを行った。また併合前から始めていた、土地制度の近代化を目的にした土地調査事業も本格化に行い大正7年に完了した。この他、明治45年には土地調査令を公布して、地税の公平な租税などを割り当てて負担させ、土地の自由売買が行えるようにしたが、所有権の確認を厳密に行ったことで、土地を占有していただけの農民が自分の所有権を失ってしまうという一面もあった。ちなみに地税統計に基づいた、土地調査令以後の朝鮮半島における日本人と朝鮮人との所有面積は、昭和13年に1:9となっており、併合によって土地の多くが日本人の所有となったという説が誤りであることが分かる。なお、併合の前後には朝鮮半島の各地で日本の統治に抵抗する義兵運動が本格化したが、憲兵や警察によって鎮圧されている。
 日本は韓国を保護国にするという当初の思惑とは異なり、結果的に併合となったが、このことが軍事面や内政面などにおいて日本の大きな負担となった。それは日韓併合によって、韓国は日本の領土となったため、朝鮮半島の安全保障も本国並みに引き上げなければならなかったからである。日露戦争の勝利によって、ロシアは朝鮮から手を引いたが、と言って朝鮮半島における国境付近の防衛をおろそかにはできなかった。このため陸軍は朝鮮半島への駐留を目的に、二個師団の増設を要求したが、日露戦争で戦費を使い果たし、賠償金をもらえず、世界中に負債を背負った財政事情を考えれば不可能に近いことであった。師団増設は当時の大きな政治問題となり、大正時代に入ってようやく増設が実現した。
日韓併合による負担は内政面も同様で、明治政府は朝鮮半島内の生活水準を本国並みに引き上げようとしたが、これといった産業がなかった朝鮮半島において、工業を興してインフラを整備することは途方もない大事業であった。結局、日本は朝鮮に1億円(現在の価値で約3兆円)を支援し、併合時代の35年間においてもその倍額を援助し続けた。この他にも朝鮮半島への鉄道建設に当時で6,600万円の巨費をかけるなど、軍事関連を除く民間資産は、第二次大戦後に我が国を占領統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部、)の調査で53億ドル(現在の価値で約15兆円)にものぼっていた。
 日本が朝鮮にもたらした資産は、モノばかりではなく、併合当時100校に過ぎなかった朝鮮半島の小学校を5,000校に増やし、帝国大学を朝鮮の京城(けソウル)に設置したが、これは大阪や名古屋よりも早かった。
 遼東半島の旅順や大連の租借権をロシアから得たことによって、日本は満州の権益を持つことになった。明治39年には関東都督府が旅順に置かれ、半官半民の南満州鉄道株式会社(満鉄)が大連に設立した。満鉄は旧東清鉄道や、鉄道沿線の鉱山や炭坑を経営して開発を行った。なお関東とは、旅順・大連とその付属地域を指していたことから、当地が関東州と呼ばれたほか、現地の軍隊は関東軍と称された。
 一方中国では清による長年の専制支配に抵抗した反乱軍が次々とたちあがり、明治44年に辛亥革命が起こり、翌明治45年には三民主義を唱えた孫文(そんぶん)を臨時大総統とする中華民国が成立した。しかし北京で実権を握った袁世凱(えんせいがい)が、清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀(せんとうていふぎ)を退位させて、自らが中華民国大総統に就任すると、政敵となった孫文は日本に亡命した。